18
コンコン
小さくドアをノックする音が坂井の部屋に響いた。
俯いた顔をはっと起こす。けれど、期待していた次の声は、届きはしなかった。いや、俺が何に期待するというのだろう。一瞬、気のせいかと思って顔を膝の上に戻そうとした。
コンコン
今度は、さっきよりもっと大きな音がした。最初のノックがためらいがちのノックだとするならば、今回のノックは意を決した。そんな気がするノックに思えた。
「……智弘? いる?」
一瞬、坂井には誰の声かわからなかった。昔はよく聞いていたはずなのに、とっさにその声が誰のものか、判断に困った。一瞬、そんなわけがない。そんなことを考えてしまった。
「……松崎か?」
「うん」
そっと、ドアをなでながら、松崎は呟いた。このドアの向こうに智弘がいる。ずっと話したくなかったのに、顔も見たくなかったのに、今はなぜか無性に話がしたかった。けれど、いざこうして前に立つと、話したいことが混乱して出て来なかった。話したかったことが奥に引っ込んで、坂井の呼び方が表面に浮き出てしまう。
「ねえ、昔みたいに、恵理子って呼んでくれない?」
「……何を、しに来たんだ」
吐き出すような声で坂井は言う。その声は拒絶しようとしているように松崎には思えた。さっきの問いも否定だったのか肯定だったのかわからない。ずっと、恵理子と呼ばれてきたのに、どこかよそよそしくなった気がする。でも、ちゃんと話さなければ、今話をしておかなければ、きっと後悔する。そう再び心に刻んで、話を進める。けれど、本当に聞きたいことは結局後回しになってしまう。
「あのね、ちゃんと、智弘と話をしておこうと思って。ずっと、ちゃんと話をしてなかったでしょ?」
「……俺は、話すことは何もない」
早口で話す松崎に、坂井はどこまでも冷淡だった。話すことは何もない、ではなく、何も話したくない。そんな思いがこもってる気がした。
「智弘になくても、私にはあるの! ちゃんと、話しておきたいって思ったの!」
でも、それを打ち破らないといけない。そんな思いを込めて松崎は叫ぶ。
「ねえ、智弘。このドアを開けてとは言わない。聞くだけでも構わない。だから、私の話を聞いてくれないかな?」
薄暗い部屋の中を、重い沈黙が流れる。やっぱり、智弘は何を考えてるのかわからない。ずっとそうだ。昔もわからなかったけど、今も、何をどう考えてるのかわからない。知れば知ろうとするほど、近づこうともがくほど、遠く、手の届かない場所へ行ってしまう。今までは何も考えてなかったけど、手を拒絶しているような状態だったけれど、そんな関係を続けていくのが辛くて。けれど、智弘は何も答えてはくれなくて。そんな重苦しい沈黙が、松崎には耐えがたかった。
「……わかった」
「え?」
「わかった。聞くよ。話したいんだろう」
「うん」
一瞬驚いて聞き返すも、何となく坂井らしい言い草にほっとする。臆病でそのくせ意地っ張りで、見栄を張ったその言い草は、何となく松崎の知っている坂井に似ていた。それが何となくうれしくて、くすぐったくて。ドアをそっとなでて、そのドアに寄り掛かった。そのまま、坂井のお昼ご飯を横目に足を折りたたんで座る。
「ねえ、小学校の卒業式、詩織と一緒に、合唱やった時のこと、覚えてる? 詩織が伴奏をやって、智弘が指揮をしてたよね」
「ああ、そんなこともあったな」
ベッドの上から天井を眺めて坂井が言う。その姿は松崎からは見えないけれど、何となく、同じ景色を見ているような、そんな気がする。ねえ、そうだよね、智弘。あの時、私たちはいつも一緒だった。ずっと一緒に、このままいられる。そう思ってたよね。そんなことを心の中で思う。そうだったな、そんな声が聞こえた気がした。
「智弘と詩織が引っ張ってくれて、とっても心強かったし、とても楽しかった。すごく充実してたし、最高のパフォーマンスができたと思う。すごく安心していられたし、とっても楽しかった。そりゃ、先生たちから当てつけられたことだけど、でも合唱に参加できてよかったって思った。すごく思い出に残る出来事になった。それもこれも、みんなを引っ張って行ってくれてた詩織と、そして智弘のおかげ」
思い出せば、私はずっと二人に頼りっぱなしだった。小学校の時はいつも二人に助けられていた。それを、今の今までなかったことにしようとしていたなんて、たった一度の出来事でなかったことにしようとしてたなんて、酷い話だ。そんなことを松崎は思う。
「違う、俺は」
「ううん、違わないよ。智弘のおかげ。私が今ここにこうしていられたのも、小学校の時に、詩織と智弘が一緒にいてくれたから。そうじゃなかったら、私は今こうして詩織と一緒の学校に通えてない。落ちこぼれだった私に勉強を教えてくれたのも、一緒に遊んでくれてたのも、詩織と智弘だった。臆病で、意地っ張りで、でも、優しい智弘だった」
「違う、俺は優しくなんかない! 俺は、そんな立派なやつじゃない!」
坂井は否定する。けれど、それはやけになっているだけで、認めたくないだけで、本当はそうなんだと松崎は思っていた。
「ううん、智弘は優しいよ。十分優しい。それを私は知ってる。だから、ちゃんと自分の気持ちに正直になって欲しい。これは受け売りだけど、伝えたいことはちゃんと伝えないといけないって聞いたから」
「俺を、俺を肯定しないでくれ。頼む」
消え入りそうな声で坂井は言った。否定してほしかった。自分がどうしようもないクズだと、罵って欲しかった。ろくでなしだといってくれたら、そうして自分さえも欺いてその役に徹せられたら、どれほど楽か。そう思った。
本当は、坂井にもわかっていた。松崎の言っていることは、間違ってなんかいない。ただ、そんな役を演じるのは、もうたくさんだった。本当は優しいくせに、不良という皮をかぶるのは。それなら、いっそ本当の不良の方が楽だ。仮面をかぶって偽って、自分さえも騙しきって。でも、中途半端な優しさが邪魔をしてそんなことを許してくれなかった。臆病が、心の底で邪魔をした。
「それは、ごめんだけど無理。私は知ってるから。智弘はどうしようもない人間なんかじゃない。ちゃんとわかってるつもりだから」
そこで松崎はいったん息を切った。ドア越しに坂井をのぞき込む。
「だから、教えてほしいの。私は今までちゃんと見てなかった。向きあってなかった。だから、今、教えてほしい」
坂井ははっとした。松崎は、いや恵理子は、今、俺の秘密に触れようとしている。俺の、俺という人間の核心をなす秘密を。俺が今まで演じてきた役を疑って、その先を見ようとしている。今まで隠し通してきたこの秘密を、今ここで恵理子に話してもいいものだろうか。
そうしたら、すべてを失ってしまう。何もかも失って、それでも守りたかったもの、それさえも、俺の手から零れ落ちてしまう。だから俺は嘘を吐き続けてきた。誰にも話せるわけがなくて、ずっと孤独という名の牢獄の看守となって苦しんできた。ずっと、この苦しみを抱えたまま死んでいくんだと、そう思っていた。だけど、なぜだろう。何となく、今の恵理子になら話しても構わないような、そんな気がした。
「中学の一年生の時までは、智弘は普通だったよね。でも、中一の詩織の誕生日の時、そこから決定的に変わっちゃったよね。あの時、何があったの? 何を考えてたの?」
立ち上がって扉を眺めた。踏みつけた雑誌の角がつちふまずにぶつかろうが構ったことじゃない。この向こう側に、恵理子がいる。ずっと、避け続けていた、避けられ続けていた恵理子がこの向こう側に。俺のことを、知りたいって、ちゃんと理解したいって、そう問い続けている。
俺は、どうするべきなんだろうか。坂井は思う。このどこへもやれない、持て余した怒りか不安か、ごちゃ混ぜになったおかしな感情。これをぶつけてもいいものなのだろうか。何も知らない恵理子に、この思いを教えてしまっても、いいものなのだろうか。
「ダメ、かな」
「覚悟は、あるのか」
気がついたら、そんな風に問い返してしまっていた。
「それが、たとえどんなに残酷であっても、それをちゃんと聞けるか?」
「……うん、聞けるよ」
しばらくの沈黙の後、松崎が答えるのが聞こえた。俺は、ひょっとしたら、この瞬間を待っていたのかもしれない。心のどこかで、望んでいたのかもしれない。すべて打ち明けて、楽になりたいと思ったのかもしれない。あの時、詩織と恵理子から袂を分かつと決めたその時から、いつかはそうしたいと願っていたのかもしれない。そんなことを坂井は思った。
「わかった、それじゃあ話すよ。あの時、俺が考えていたこと、全部」
参考書の山に座り込んで、ドアに体を預ける。一枚のドアを挟んで、坂井と松崎は、同じこと、四年前の岡崎の誕生日のことを思い出していた。