17
青木が目的地、すなわち松崎の家へとやってきたのは、竹内たちの車が走り去った後だった。車ではなく、徒歩でやってきた青木は白い息を吐き出しながらインターフォンを押した。
松崎の母親は、丁重に青木を松崎の部屋へと案内してくれた。母親が視界から消えていくのを待って、ドアを2回ほど、ノックする。
「恵理子ちゃん? 青木です。ちょっといいかな」
松崎は中で戸惑ってるようだった。しばしの無言の後、青木が再び声をかける。
「心配になってきたの。中に入ってもいいかな?」
衣擦れの音がした。小さな足音がして、カチャリと、鍵の外れる音がした。
「どうぞ」
「おじゃまします」
「適当に、腰かけてください」
そう言って松崎は椅子ではなくベッドに腰かけた。青木はその正面に正座して座った。
松崎の表情は、酷いという言葉そのままだった。隈ができ、どこかやつれた顔をして、いたるところから寝癖が飛び出ていた。けれど、それを気にするような気力は松崎にはなかった。
「体調は、大丈夫? 無理してたりしない?」
「ええ、無理は、してる気はないです」
「それならよかった。学校休んでるって聞いたから、心配してたんだよ」
そう言って、青木は松崎に微笑みかける。その視線が一瞬松崎と交錯した。けれど、松崎はそれを嫌がるように外した。
「昨日、大変だったよね。心配してたの。見ててすごく辛そうだったから、思いつめて何かしちゃうんじゃないかって」
「そんなこと、するわけないじゃないですか」
松崎は笑う。けれど、それは、無理に作った笑顔だというのがよく分かった。けれど、松崎は笑い流してしまいたかった。めちゃくちゃな笑えないジョークで笑い飛ばしてしまいたい。そう思った。
冷たい笑いが部屋を支配する。暖房の風が青木の頬にぶつかる。ベッドの上にあったペンギンのぬいぐるみを引き寄せながら、松崎は物憂げな表情をした。そのぬいぐるみももうだいぶボロボロになって、ところどころ綿が飛び出ている。
「昨日、あいつのことなんて思いだしたくないって思ってたんです」
その意味を理解するまで、青木には少し時間が必要だった。
「それは、坂井智弘君のこと?」
こくりと、松崎は小さく頷いた。ペンギンのぬいぐるみで口を隠しながら、松崎は言う。
「でも、あいつは、智弘は、本当はそんなことするはずないのに。あいつは、臆病でそのくせ意地っ張りで、見栄を張ってるけど、人を、詩織を殺すなんてそんなことするはずないのに」
「うん、うん」
強く下唇をかむ松崎に、青木はただ頷いて返した。
「ちょっと、昔のこと、話してもいいですか? 上手く、言えないかもしれませんけど」
「全然オッケーだよ。恵理子ちゃんが話してもかまわないって思うんだったら、どんどん話してくれていいよ。全部吐き出して、楽になっちゃいなよ」
そう言って青木は笑った。刑事としての使命感もあったけれど、純粋な一人の悩める少女に寄り添ってあげたい。そんな気持ちの方が強かった。
「昔、本当にずっと前のことなんですけど、小学生の時、智弘とは仲が良かったんです。毎日一緒に遊ぶくらいに。智弘と、詩織と、お母さんと。四人で、晩御飯を食べることも多かったんです。ほら、詩織も智弘も、親が共働きだから」
「ふうん、そうだったんだ」
松崎は思い出を見てきたように語る。青木は決してその内容を尋ねようとはしなかった。
「すごく仲が良くて。他にも仲がいい人はいたけど、やっぱりその二人が一番仲が良くて。何と言ったらいいんでしょう? 親友? ってやつでした。今は、認めたくないですけど。でも、これも、小学六年の時、智弘にもらったんです。詩織と一緒に、家庭科の余った時間で作ったんだって。ほら、ところどころちょっとおかしなところがあるでしょ」
そう言うと、松崎は持っていたペンギンのぬいぐるみをベッドにおいて愛おしそうになでた。その手に雫が落ちる。
「すいません、ちょっと、横になってもいいですか」
「うん、楽にしてくれてかまわないよ」
「それじゃあ、失礼して」
そう言うと、松崎は体を横向きにしてベッドに寝転がった。青木がその手を握る。
「その時の智弘は、とても優しかったんです。私がちょっとしたミスをしても庇ってくれたり、とりなしてくれたり。なんで女の子と一緒にいるんだってからかわれても、相変わらず私たちと一緒にいてくれました」
「そっか。そうなんだ。私は智弘君のこと、全然知らなかったよ」
「今は、大分変わっちゃいましたけどね」
そう言って笑顔を作った松崎の頬を一筋の雫が流れた。それをつかまれていない手で拭って言う。
「それからいろいろあって、今は疎遠になっちゃったんですけど、もうあいつと親友だったことなんて忘れちゃいたいって思ってたんですけど」
「うん、いろいろあったんだね」
「でも、それでも昔の智弘は優しかったのに。私から見ても、詩織と智弘はお似合いだったってくらいだったのに。すごく仲が良かったのに。いくら智弘が変わっちゃったって言っても、詩織を殺すなんてことするわけないのに。なのに、なのに!」
枕に顔をうずめて言った松崎の声は、最後の方は聞き取り辛くなってしまった。涙交じりに叫ぶように、声が吸い込まれていく。青木はそっとベッドに腰かけて松崎の髪をなでた。
「私、酷いこと言っちゃった。許されないこと、智弘に、この人殺しって言っちゃった。そんなわけないのに。絶対おかしいのに」
「そうだね。辛かったんだね」
泣き叫ぶ松崎の髪を、青木は優しくなでた。止まることなく雫は流れ、枕に大きな染みを作った。
「私、これからどうしたらいいんでしょう。何をしたらいいんでしょう」
ようやく泣き止んだ松崎が、ベッドに横になったまま言う。
「そうだね。でも、考えるべきことは恵理子ちゃんが何をすべきかじゃなくて、どうしたいか、だと思うよ」
「どう、したいか、ですか?」
青木の台詞を松崎が反復する。その問いに青木は頷いて返した。
「そう。恵理子ちゃんが、自分が今何をしたいか。それが一番大切なんだと思うよ」
松崎の髪をなでながら、遠い目をして青木は言う。松崎にはそれが、自分の過去を思い出しているように見えた。
「ねえ、ちょっと、私の昔話も聞いてもらっていいかな。あんまりおもしろい話じゃないんだけどね」
「いい、ですよ」
青木の前置きに、松崎は戸惑いながら答えた。そして、ベッドに手をついてゆっくりと起き上がる。少しまだけだるそうだった。
「私もね、高校生の時、すごく仲のいい友達がいたの。名前は伏せておくけど、親友って言ってもいいくらい、仲が良くて。それで、きっと私たちは前世では双子だったんだって思ったくらい。考えてることもよく同じだったりして、以心伝心って言うのかな。考えてることは口に出さなくても彼女には届いてるって、そう信じてた」
そこまで一気にしゃべると、青木は口をつぐんだ。松崎の部屋を見渡して、最後にペンギンのぬいぐるみに視線を落とす。いつの間にか、松崎の手を握る力が強くなっていた。
「でも、そうじゃなかったの。ある日、彼女は家出したの」
「家出、ですか?」
松崎の問いに青木はこくりと頷く。
「そう、家出。その当時、スマホはまだ持ってなかったんだけど、携帯のメールに、家出したって、一言メールがあってね」
青木は遠い目をして窓の外を見上げた。ちょうど現場となった岡崎の家と、その横にある坂井の家が見える。それをじっと見つめる横顔には、哀愁の感情が零れだしていた。
「すごく心配した。すごく、すごくすごく心配した。でもね、恥ずかしくて、心配してるんだって伝えられなかった。メールで送れたのは、早く戻ってきてねって、それだけだった。それだけでも、十分伝わると思ってた」
そこで息を切り、青木は松崎を見つめた。
「でもね、伝わらなかったの。彼女は、そのまま死んじゃった。自殺しちゃったの。携帯の下書きメールに、誰も私のことを必要としてくれないから死にますって残されてたの」
「そんなことが……」
そう言った青木の目は潤んではいたけれど、涙は流れてはいなかった。心のどこかで、整理をつけたんだろうか。そんなことを、松崎は思う。そうだとしたら、この人はすごい。私は詩織のことも、そして智弘のことも、どっちも割り切れそうにない。
「彼女は、たぶん、誰かにかまってほしかったんだと思う。所謂ところの、かまってちゃんってやつだったのかな。漫画みたいに王子様が向かいに来てくれるとか、そうでなくても、両親や、私が迎えに来てくれるとか、あるいは、すごく心配してるんだって、メールでも電話でも伝えられれば良かったんだと思う」
青木の目は真剣そのものだった。決して軽い昔話なんてレベルではなく、とても含蓄のある言葉だった。それを、松崎は少し受け止めきれずに聞いていた。
「でもね、伝えられなかった。誰も、彼女に心配してるって言葉をかけてあげられなかった。心の中では思ってたよ。すごく心配してた。でも、伝わらなくて。すごく、すごく後悔した。ちゃんと、恥ずかしがらずに言ってあげたらよかったって。すごく心配してるから、連絡してって送ってあげたらよかったって。でも、できなかったの。気恥ずかしくて、そんなことできなかった。それでね、気づいたの」
少しだけ、松崎の手を握る力が強くなった。たっぷりと間を取って、しっかり息を吸い込んで、青木は言葉を紡ぎだす。
「大切なこと、本当に相手に伝えたいって思ってることは、心の中で思うだけじゃ伝わらない。ちゃんと、言葉にして、伝えようと思わない限りは相手に届くことはないの。愚かな私はそのことに気づかなかった。気づいたのは、すべて終わった後だったの」
そこまで言うと、青木はベッドの上に座っていた松崎を抱きしめた。勢いで松崎の体が前のめりになる。
「死んでしまった人には伝えられない。だから、残念だけど詩織ちゃんにはもう無理。でもね、恵理子ちゃんには智弘君がまだちゃんといる。聞きたいときに聞かないと、伝えられるときに伝えないと後悔する。だから、自分の気持ちに正直になって。それが、謝罪の言葉でも、何だったら、嫌いだってことでもいい。ちゃんと、伝えて。後悔する前に、ね」
こっくりと、不自然な体制で松崎は頷いた。松崎から手を離した青木が、松崎の目に浮かんでいた涙を拭う。
「学校なんて休んでもいい。それだけ、ショッキングな出来事だったんだろうなって思う。でも、ちゃんと、自分の気持ちに正直になってね。それが、私が伝えたかったこと。心に刻んどいてくれると嬉しいな」
「わかりました、そうします」
そう言うと、青木は顔をほころばせた。刑事としてではなく、一人の人間として、松崎に寄り添えた、そんな気がした。
「それじゃあ、私はもうそろそろ行くね。邪魔になるかもしれないし。後、念のため携帯電話の番号聞いておいてもいいかな」
「あ、はい。これです」
そう言って松崎はスマホを立ち上げて自分の電話番号を表示させる。待ち受けにしていた岡崎との写真が破片となって胸に突き刺さる。そんな気がして、ずっとしまい込んだままだったスマホだけれど、今なら大丈夫、そんな気がして。
「ということで、何か不安になったり、心配になったりしたらまた連絡頂戴。ね?」
「あの、刑事さんは、青木さんは」
「瑞希でいいよ」
引き留めようと声をかけた松崎に、青木は優しげに声をかけた。
「瑞希さんは、どうして刑事をしてるんですか? カウンセラーの方が似合いそうなのに」
「え、そんなこと?」
驚いた顔をした青木に松崎は微笑んだ。
「だって、聞きたいことは聞いておかないと後悔するって」
「あはは、早速だね」
そう言った青木は一瞬物憂げな表情に変わる。けれど、すぐに元に戻った。
「きっと、そういう生き方もできたんだと思う。でも私馬鹿だから。勉強ができなくてね。でも、私は今、刑事として人々に、被害者だったり、その家族や友人だったり、もちろん恵理子ちゃんの近くにいられてるし、その仕事に、ちゃんと自信をもって仕事をしてる。答えになってないかもしれないけど、これでいいかな」
「はい、ありがとうございました」
そう言って松崎は頭を下げた。青木がドアを出たところで振り返る。
「それじゃあ、恵理子ちゃん、さよなら。後悔しないようにね」
「はい!」
そう言った松崎の笑顔は来たときよりも晴れやかになったように青木は見えた。
松崎の家から出たところで、青木は芳風高校を出たときから切りっぱなしにしていたスマホの電源を入れる。そして、滝川に電話をかけた。
「もしもし」
「青木! 今までどこにいたんだ! 携帯の電源くらい入れとけ!」
「ごめんなさい」
耳元から聞こえてきた大音量に、一瞬青木はびっくりして立ち止まる。
「そ、それより芳風高校の聞き込みの方はどうなりましたか?」
「終わったよ、もう! 青木がいないおかげで大変だったんだからな」
「それはすいません。でも、ありがとうございました。こっちも終わったんで合流できます」
嘆くような電話越しの滝川の声に、青木は一気にまくしたてる。
「それで、どこで合流しましょう」
「ああ、今、芳風高校の前にいるから」
「それじゃあ今から行きます」
「あ、ちょっと!」
滝川の制止を無視して、青木は一方的に電話を切る。そしてポケットにしまうと、滝川と合流すべく駆けだした。