12
松崎家の食卓には、スクランブルエッグとシーザーサラダ、コンソメスープにトーストが並んでいた。既に出勤した父親と、食べ終わって家事をしている母親を除いた一人分。つまり、松崎恵理子その人の分だけが。
松崎はいつもなら母親に声をかけるところを、何となくかけそびれてしまった。理由はわかっている。昨夜のあの事件だ。詩織が死んでしまったと聞かされて、私の中の大切なものが何か、ごっそりと抜け落ちた気がする。そう言えば、昨日から服を着替えてないし、水も取ってなかった。もちろん眠れるわけなんかない。
普段はつけっぱなしでニュースをやっているテレビが消されている。それが少し、松崎にとってはありがたかった。恐らく、母親の気遣いなのだろう。娘に、岡崎が死んだということを直視させたくない、そんな気持ちだったのだろう。焼け石に水だ。余計なおせっかいだ。でも、それが、ほんの少しだけ、松崎の心の傷に沁みた。
「いただきます」
ただそれだけの言葉を発して、松崎は黙々とトーストを頬張る。キッチンにいる母親は、そんな松崎に何も言わなかった。
いつものメニュー、いつもの味。だけど、それは少ししょっぱかった。ちゃんと母親の味がするのに、何度かむせ返りそうになった。
カランと箸が乾いた音を立てる。スクランブルエッグが乗っていた皿の上を力なく転がり、一本はテーブルの上に落ちた。それを合図に、松崎は立ち上がる。
「お母さん」
抑揚のない声で松崎が言う。母親の洗い物をしていた手が止まった。それから流れていた水の音も止む。
「私、今日、学校休む」
その言葉に、母親は振り向かなかった。その理由がなぜかは松崎には分らなかった。単純に面倒だっただけか、それとも合わせる顔がなかったのか。あるいは、もっと別の理由だったのかもしれない。ただ、母親は振り返ることはなく、洗い物の手も止まっていた。
二人の間を沈黙が支配する。澱んだ空気にむせかえりそうになった。緩かった蛇口から雫が落ち、母親の手に弾けて消えた。
「そう、わかったわ」
母親の声も抑揚がなかった。
「でも、恵理子。あなた昨日お風呂入ってなかったでしょ。シャワーだけでも浴びてきなさい」
「はい」
結局、母親は最後まで松崎に面を向けることはなかった。食器を母親の近くまで運んだあと、松崎はそっとその場を後にした。母親の顔を見ないように顔を背けながら。母親もまた、洗い物の手を止めようとはしなかった。
いったん自分の部屋に戻って着替えを取ってきてから、リビングを通って洗面脱衣所へと向かう。その間ずっと、母親の位置は変わっていなかった。水音は止まっていたから、わざと位置を変えていなかったのだろう。それをできるだけ見ないようにして松崎はお風呂へと向かう。別に喧嘩をしたわけでもないのに、顔を合わせるのが気まずかった。言うべき言葉が互いに見つからずにいた。
脱いだ服を洗濯機に放り込んで、お風呂の曇りガラスの戸を開ける。白い内装の中で、普段なら気にしないこびりついた点のような黒いカビが、やけに気にかかった。コックをひねる。
「熱っ!」
思っていたよりも熱かったシャワーに驚いて一瞬後ずさる。一瞬冷たいと錯覚するくらい熱く感じた。けれど、意を決して再び飛び込んだシャワーはそこまで熱くは感じなかった。
何も考えずに、シャワーを頭から浴びる。目をつむりながら顔に当てていると、いつの間にか冷え切っていた自分の体が、芯から温まっていく、そんな気がした。
それと同時に、岡崎のことが頭をよぎる。ずっと昔、小学校の時に一緒に遊んだ岡崎の顔が。小学校の卒業式に、合唱の伴奏として楽しそうにピアノを弾いていた岡崎の顔が。中学校の修学旅行で、夜ベッドの中でコイバナを聞かれて困ったように笑っていた岡崎の顔が。中学の卒業式で堂々と答辞を読んでいた岡崎の顔が。つい最近、高校の修学旅行でグアムに行って、恋人岬でお互いに好きな人ができるといいね、なんていいながら記念写真を一緒に取った詩織の顔が。つい昨日まで、テストだったり部活だったりのくだらない会話をして楽しんでいた岡崎の顔が。どの顔もみんな笑顔ではにかんでいる様子が素敵だった。
でも、もういない。昨日自宅で、一人、冷えて固まっているのを発見された。もうこの世にはいない。もう二度とくだらないことで笑ったり、Twitterで様子を確認したりすることなんてできない。そう考えると、また心の中で吹雪が吹き荒むような、そんな気がした。
いつの間にか、涙がこぼれだしていた。熱い、熱い涙。目頭と、頬と、首筋を伝って伝わった場所を熱くする。シャワーの方が温度は高いはずなのに、涙の通った後だけがやけどのように痛んだ。
シャワーを浴びていてよかった。松崎はそう思う。この涙を、雫を、迸る水流が押し流してくれる。隠してくれる。誰も見ている人はいないけど、曇りガラスの向こうから母親が見ているなんてことはないけれど、それでも、泣いていることを隠せてよかったと。涙の跡はシャワーがかき消してくれる。それがとてもありがたかった。
心の中から、悲しみが洗い流されていくような、そんな気がした。松崎の心にたまった膿が涙となって瞳からこぼれだし、それは水に押し流されていく。そんな幻想が松崎を襲う。実際に悲しみがなくなるなんてことはなかったけれど、冷え切った心が少し温まった気がした。詩織が死んだという事実を、何となくだけど受け止められそうな、そんな気がした。
シャワーを止めて、お風呂場を出る。換気扇を回して、バスタオルを手に取った。
普段なら、石鹸を使ってちゃんと体を洗うところだったけれど、松崎にとってはどうでもよかった。ドライヤーで髪を乾かすけれど、それも、今日はする気にはなれなかった。そんなことをしなくても、さっぱりしたような気がしたし、今はそれだけで十分に思える。そんな気がした。
バスタオルで体をふき、用意しておいたラフな服装に着替える。パジャマではない、ギリギリ外へ来ていくことができるくらいの服装だ。今日はもう外に出る予定はないけれど、寝間着でごろごろするのは何となくはばかられるような気がした。
洗面脱衣所を出て、自分の部屋へと向かう。母親は皿を洗い終わったのか、もうリビングにはいなかった。廊下で鉢合わせるというようなこともなかった。
自分の部屋に入って鍵を閉め、ベッドに体を投げだす。布団もかけずに横になった。幸いにして、部屋のエアコンは動きっぱなしだ。このまま寝ても風邪をひくことはないだろうと松崎は思った。
仰向けのまま、天井を見上げる。濡れたままの黒髪が頬に張り付いた。何となく、詩織が死んだんだということを、正面から捉えられそうな、そんな気がした。
いつの間にか、夢を見ていた。
ずっと昔、十年以上も前の話だ。家の近くの公園で、お母さんが来るまでずっと遊んでいたっけ。私はあんまり頭がよくなくて、二人が先に宿題を終わらせてても、なかなか遊びに行けなくて、それでも横に来て一緒に宿題をしてもらったっけ。あの時詩織は笑いながら遅くてもかまわないよ、なんて言ってたっけ。
結局は、どうなったんだっけ。あの時私は宿題に手間取っちゃって、遊ぶ時間が無くなっちゃったんだ。そのあとお母さんが二人を晩御飯にさそって。今思えば家族同然の付き合いだったのに。隠し事なんかせず、和気あいあいとみんなで過ごしていたのに。お母さんが晩御飯にチャーハンを作って、それをあいつが嬉々としてお代わりを宣言して。
そうだ、あいつだ。坂井智弘だ。智弘がいつも私たちの横にいたんだ。私と、詩織と、智弘と。その三人でいつも遊んでいた。
今はもう思い出したくない。あいつが親友だなんて思えない。でも、確かに、詩織の隣にはいつも智弘がいた。いつも二人は楽しそうに笑っていて、それで、それで。
それでも、あの頃は楽しかった。みんな笑っていられたし、あの頃の智弘は純粋に好きでいられた。永遠に続けばいいのに、そう思ってた。ずっと、こうやって同じ景色を三人で見ているんだって、そう思ってた。
いつの間にか、意識が自分の部屋に戻ってきていた。髪は相変わらず頬に張り付いたままで、寝ぐせもついてしまっている。でも、松崎はそれを放置したままだった。
私、智弘に酷いことを言っちゃった。松崎は心の中で呟く。刑事さんは無罪は証明されたって言ってたのに、人殺しだって、傷つけるようなことを言っちゃった。今は智弘のことは考えたくないくらい嫌いだけど、それでも、許されないことを言っちゃった。そうだよね、性格は変わっちゃったけど、智弘が詩織を殺すなんてあるわけないもんね。私は一体、何をしているんだろう。何がしたかったんだろう。
ずっと公園で、三人で一緒に楽しく笑ってられればそれでよかった。私が望んだのはそういうことだったはずなのに。
「私は、何をしちゃったんだろう」
思わず松崎の口から言葉が零れる。松崎はふてくされて寝返りを打った。