エール
『同級生が死んだ』
電車の事故で遅くに登校した日。
その話題は、瞬く間に広まった。
ほとんどの人は顔見知り程度でも、何故か話題にあがった。
ほとんどの人は顔見知り程度なのに、何故か生い立ちや生前の境遇について様々な憶測が飛び交った。
それはひとえに、彼女が自殺者だったからだろう。
泣いている子がいた。
ニヤケ面で噂を触れ回っている子もいた。
僕は彼女らを薄情だとは思わなかった。
「感受性が豊かで、刺激的な情報を欲するんだよ、女って。それは生きていくための術だから」
彼女がそう言っていたからだ。
僕は彼女を心から信じていたからだ。
狂信して、盲信して、憧憬の念を抱いていたからだ。
彼女を殺したのは、きっと僕だった。
「鷺宮って、白河優希と仲良かったよな?」
登校してから幾度も繰り返される質問。
これには僕も腹が立った。
彼女の美しい名前を、その汚い口から零すなと。
外気に触れありふれた言葉へと変異してしまう前に、全てを拾い集めて口の中に詰め直してやりたくなった。
それでも、僕は手を出さなかった。
「名前を呼ばれたら、その瞬間だけはどんな故人も生きてる気がする」
そう彼女が言っていたから。
何も思考のない僕は、どんな顔をしてその日を過ごしただろうか。
前日まではあった感情の揺れ動きも、色彩も、全て湖畔の水面のように静かだった。
色で言うなら、深い深い暗い青。
「鷺宮。白河は何か悩みを打ち明けてなかったか?」
担任の教師は自らの監督不行届に焦りを覚えながら問い掛けてきた。
仕方ないと思う。彼はとても良い教師だから。
生徒思いで必死に輪を作ろうとして、それが煩わしい教師だったから。
「本当の自由って、虚無の果てにしかないんじゃないかな」
唯一の相談と言える相談は、その一言だけ。
それを伝えたところで彼には伝わらないだろう。
だから、何も言わずに首を横に振った。
前日の彼女の行動について聞かれた。
僕はありのままを答えた。
彼女は今やりたいことの全てをやり尽くした。
内訳は落書きやらカラオケやら駄菓子買い占めやらと他愛ない。
高架下に行って、2人で重なった。
初めて涙を見て、初めて笑顔を見た。
「こんなに気持ちいいのは初めて」
苦痛に顔を歪めながら嬉しそうな声で言われた。
終わった後にそっと口付けをされて、「私はもう、満足だよ」と言われた。
彼女の心は満たされ、僕の中では虚無が広がった。
生徒指導室でこっぴどく叱られた後、僕は解放された。
か弱い女の子をイジメたり酷いことをしたんだろうと散々に貶されたが、そんな言葉は微睡みの中で白昼夢を見る僕には届かなかった。
何より彼女を純粋無垢な存在として扱う教師の態度が気に入った。
だから彼は良い教師なんだ。
「自殺した女とヤったんだって?」
校舎裏に呼び出され、数人に取り囲まれる。
いつもの事だった。
彼女に言わせれば、僕を縛り付ける鳥籠。
僕は彼らを殴った。
下劣で愚劣な言葉の数々に彼女が穢されるのが耐えられなかった。
「自由になったら、思い切り笑ってみせるよ」
鼻を押さえながら彼らが吐き出した蔑みの視線はひどく滑稽で。
僕は無性におかしくなった。
問題が露見して、報道に取り沙汰されて、敏感になった体制は僕を縛り付けていた彼らを退学にした。
僕は彼女の手で、自由を手に入れた。
ずっと来たかった場所があった。
学校の屋上。
非行と自由の象徴とも言うべき場所だ。
汗だくになって入口に巻かれた鎖を断ち切り、ドアを拓く。
瞬間、茹だるような夏の騒々しさが一同に押し寄せた。
ギラギラと白い光が目を刺し、蟲の声が音を奪っていく。
アスファルトに蓄積が熱気が身体へ吹き付けると、一瞬で汗が蒸発していくのを感じた。
どうしようもなく遠い青は、僕を殺そうとした。
ふらつきながらフェンスに手を掛けたところで、我に返った。
青に呑まれそうになったと気づいて、ようやく僕は自分の中が虚無ではないと気付いた。
気づいてから、大声で笑った。
そして、泣いた。
自由になったはずのこの身体を死へと至らしめることができなかったのは、彼女との日々という充足があるからだ。
笑ってしまったのは、僕の行動と解放こそが虚無の終焉だったからだ。
虚無の果てに自由があるのではない。自由とは虚無の内だった。
僕は愚かな勘違いをして、それを笑い飛ばした。
そして、彼女が昨日見せた笑みが虚無を得たためだと知って泣いた。
生きる術の言葉の嘘を、僕は愚かにも信じてしまったんだ。
「――白河……優希……」
口にしたことのない名前を呼んで、彼女を生かしてみた。
一瞬の後に、彼女の名前はなんてことのない人名になった。
彼女と出会って、憧れて、到達して、果てた時間が、終わりを迎えた。
無意味にも彼女を死なせてしまった。
止まった電車は、飛び込んだ少女をなんだと思っただろう。
そこにいた人々は、人ひとりで奪われる時間に何を思っただろう。
僕はその間、同じホームで、何をしていたのだろう。
「明日私が笑っても、きっと君は泣かないだろうね」
白河優希は、とても美しい女性だった。