五章 Ready Steady Go !!
利知未の結婚までの話し、大学編の5章です。 90年代中頃に差し掛かる頃が時代背景となっております。
(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、
関係ございません)この作品は、未成年のヤンチャ行動、飲酒運転などを推奨するものではありません。
マスターへの想いにも区切りがつき、利知未の心の中には、倉真に対する特別な感情が芽生え始めた。
倉真は、利知未への想いをまだ伝えられない。利知未の心が解れて行くのを待ちながら、彼女が見せてくれる新しい表情を、少しずつ見つけていく。
下宿の里真や冴史も大学生になり、里真と双子は、すっかり宏治たちと打ち解けて仲良くなった。
そして克己にも、好い人の気配が……。 そして、春。 利知未が、大学三年に進級する春休みからの話。
五章 Ready Steady Go !!
一
学生の春休みが終わる前に、利知未達は、里真や双子も混ざって、去年の約束通り仲間と花見へ出掛けた。
里真が朝から頑張って、双子と一緒に、摘み兼用の花見弁当を作って来た。
「うわ! 豪華じゃん!」
その弁当を前にして、準一が喜ぶ。
利知未は知らない振りをして、ビールのプルトップを引き上げた。
「さっさと始めないか?」
下宿から持ち出した、ブルーシートの上に胡座を掻いて座り込んでいる。
『多分、利知未さんが殆ど作ったんじゃネーか?』
倉真はそう感じて、利知未をチラリと見た。
克己が利知未の斜め前で、同じ様に缶ビールのプルトップを引く。
「態々、花見に、こんな方まで来る事になるたぁな」
呟いている。 倉真が、その近くへ同じ様に座り込む。
「イーじゃネーか。 全員集まるのも、正月の宴会以来だぜ」
「そうだな。 …ジュン! 手掴みで食ってるな!」
和泉も座り込みながら、まだ双子達と弁当を広げながら、摘み食いをしている準一を、軽くいなす。 宏治も里真を手伝って、弁当を用意している。 手伝いながら呟いた。
「こんなにあるンじゃ、おれの持って来た分は、余分だったな」
「美由紀さんの手料理なんだろ? もったいぶらないで、さっさと出せよ?」
ビールに口を付けながら、利知未が宏治へ声をかける。 宏治は頷いて、自分が持って来た風呂敷を広げた。 和泉が聞く。
「美由紀さんも、呼べば良かったんじゃないか?」
「お袋は常連組と、同じ公園内のどっかで今頃、宴会中だ」
「お前、ソッチへ顔出さなくて、いいのか?」
「コブ付きじゃ、ハメ外せないから来なくていいって、言われたンす」
「コブって言う歳かぁ?」
準一が口を出す。 ヘラヘラ笑っている。
「母親にとっては、いくつになってもコブ、ナンじゃないか?」
利知未が言って、弁当へ手を伸ばした。
「取りますよ」
宏治が、利知未の紙皿を受け取って、適当に取り分ける。
「職業柄だな」
克己が、その宏治の様子を見て、軽い笑顔を見せた。
そのまま流れで、宴会が始まる。 すっかり酒の味を覚えてしまった双子と里真も、始めの一缶だけビールで相伴する。
酒が進み、弁当も半分程はあっという間になくなる。 男が五人もいるのだ。 樹絵も混ざって、食い物の消費量は半端ではなかった。 宏治が持って来た美由紀手製弁当も、半分は無くなっている。 既に、殆ど酒だけで宴会を続けていた。
ふと、思いついて宏治が利知未に聞いた。
「そーいや、里沙さんの結婚式、もう直ぐですね」
その質問には、双子が利知未よりも早くに反応した。
「そーなんだよね。 里沙は、最近、凄く忙しそうにしてる」
「本当は、あたしらが春休みの内に、式を挙げる予定だったんだよ」
「ね。 でも、式場が空いてなかったって」
「らしいな。 半年も前から探していたのにな」
利知未が話しに参加した。 かなり酒を飲んで、少し顔が赤くなっている。 癖が、本人の気付かない所で、微妙に出始めている。
倉真はさっきから、何かの弾みで利知未と目が会うたび、ドキリとしている。 ……昔から、こうだったか? と、考えていた。
「ドーかしたか?」
利知未が何気なく、倉真を見て聞いた。
「…ナンでもないっス。 このダシ巻き、美味いっスね」
「そーか?」
利知未は知らん顔で答える。 内心で嬉しく思う。 ……同時に照れ臭い。
倉真は、形の良い物を自分の皿の上に残し、少しずつ摘みにしながら、酒を飲んでいる。 弁当の中でも、利知未が作ったダシ巻き卵だった。
形が良く出来ている物と、やや不恰好な物が混ざっていた。 不恰好な方が、里真が利知未に教えてもらいながら頑張った物だ。
酒が満たされた、プラスチック制の使い捨てコップの中へ、桜の花弁が、ヒラヒラと舞い落ちた。 それを目にして、利知未が軽く吹き出した。
「食ってばかりで、全然、花を見て無かったな」
「そーいや、そーっスね」
改めて、二人で近場の桜を眺める。
「城峯公園の桜も、見事だったな」
倉真の呟きに、利知未が倉真へ軽く視線を移した。
『一応、あン時の景色も、覚えてたンだな……』
少し嬉しく感じて、女らしい笑みが微かに、その頬に浮かぶ。
「あれ?! 利知未さんと倉真が、ナンか微妙な感じだ!」
飲み過ぎの準一が、二人を指して笑い出す。 利知未は少し慌てて、表情を切り替えた。
クーラーボックスの中から、半分氷が溶けたロックアイスの袋を見付けて手に掴む。
樹絵が、その利知未の行動に素早く気付いて、準一の頭を思いっ切り小突いた。
「ジュン! 飲み過ぎだ! …また利知未に、水ぶっ掛けられるぞ?!」
利知未の手が止まる。 二人を見て小さく笑う。
「何処に、水があるんだ?!」
準一は調子に乗っている。 利知未は無言で、やり掛けた動作を再開する。
「…何時ものより、冷テーぜ?」
準一の真後ろまで、袋を隠しながら移動した。 ニヤリと笑って、樹絵に言う。
「樹絵。 タオル用意しとけよ?」
準一の頭から、氷の溶けた冷たい水を、ジャバジャバと引っ掛けた。
四月十五日、月曜から、利知未の大学も新学期だ。
利知未と透子は、大学で会う機会が減ってしまった。 利知未が目指す外科と、透子が目指す研究医の違いで、別々の講座を選択したからだ。
透子と会えるのは、ほぼ学食でのみになってしまった。
「アンタ、授業について行けンの?」
昼の定食を食いながら、透子が呑気に聞いた。
「ついてくしか、ネーだろーが」
利知未は憮然と答える。 灰皿を引き寄せ、タバコへ火を着ける。
「成績のイイ男、引っ掛けちゃえば?」
「ナンでそーなるンだよ?」
「綺麗にしとけば、いくらでも騙される男、いそーだし」
「生憎、そー言う気で男を探すつもりは、全くネーよ」
「そー? イイ案だと思うンだけどね」
「……どうしようもなくなったら、探してみるか?」
煙を吐きながら、ポツリと呟いて見た。
「そーしな、オーエンしたげるから」
透子がケラケラと笑い出す。 どうせお互い、本気で言っているつもりは無い。
それでも、大学内でも背が高く、綺麗な外見を持つ女二人が、一緒に居る訳だ。 学内での目立ち度も、中々、高めだ。
透子はその点を上手く利用して、今ではお財布君が七人は存在している。 適当に付き合って、相手の見栄えが良かったりすると、面白半分で関係を持つ事もある。
利知未は、大学ではどうやら、男に隙を見せる事自体が、余り無い。
透子も親友との繋ぎを求められても、適当にかわしてしまう。
「今アンタ、前科3犯のムショ帰りと、付き合ってる事になってるから」
等と、偶に報告を受けたりする。
「言うに事欠いて、前科者ってのは行き過ぎじゃネーか?」
流石に利知未からそう突っ込まれ、最近は少年院上がりが相手となっているらしかった。 その報告を受けた時、利知未は内心ドキリとした。
この四月、新学期から、利知未のバイト時間はまた変わる。
金曜、土曜の夜は店も忙しい。 そこはそのまま、後は水曜のみシフトを組んでもらう事になった。 月・火曜は、夏まで瀬尾が入る。 日曜は今まで通り隔週で休む。 そこも瀬尾と交代だ。
「金・土だけになったな、一緒のシフト」
「そーだな。 夏から、オレの就職決定までは、頼むよ?」
「なるべく早く、決めてくれよな。 あたしも、今年からマジ、大学が大変になりそーだ」
瀬尾とバイト中、そんな話しをした。 利知未は今年度からの授業に、不安を覚え始めた。 ここからが、正念場だろうと思う。
倉真の事も、相変わらず気にはなっているが、暫くは保留かもしれない。
「5年から先は、どうやら時間が不規則になりそうだし……」
大学病院での、インターンとしての生活に入る。 金にもならない上、忙しくなって、遊ぶ暇も殆ど無くなってしまいそうだ。
『まぁ…。 遊ぶために大学行ってる訳でも、ネーけど』
その辺りは別学部の大学生と、決定的に違う所だろう。
裕一も、勉強が大変そうだった事を思い出す。 形見分けに貰って来た医学書には、アンダーラインだらけの所が沢山ある。
裕一は、内科を目指していた様子だった。 金に成らないと言って倦厭されがちな、小児科内科も範疇に入れていたらしい。
まだ、大叔母の家へ引き取られる前。 利知未が、酷い風邪にかかった事があった。 その時の事が切っ掛けで、裕一は自分の進む道を決めた様だ。
父親側の親戚筋の家での事だった。 当時の利知未たち兄妹は、随分と肩身の狭い思いをしていた頃だ。
寝込んでいた利知未には解らなかった圧力を、感じていたのかもしれない。
優も、その頃の事は全く話さない。
『あの時……。 裕兄が寝ないで看病していてくれた事だけは、少しだけ覚えてるんだよな』
何時か、裕一の医学書を眺めながら、それを思い出した事があった。
四月十九日・金曜日。
利知未は夕飯を食いに来た倉真へ、食後に《野良猫のホットミルク》と、普段は出さないデザートを出す。
「……珈琲、違うっスね」
一口飲んで、倉真が問い掛ける。
「特別な日だからな。 奢りだよ」
「特別?」
「今日から成人だろ? おめでとう」
利知未から言われて、自分の誕生日を思い出した。
「そーいや、ソーだな」
誕生日を覚えていてくれた事が、嬉しいと感じる。 照れ臭くもある。
「これからは、酒もタバコも解禁だな」
「今更って、気もスンな」
「あたしも去年、里沙に同じ事言っていたな」
その時の事を思い出し、微笑が零れる。
「里沙さん、来週結婚式っすよね?」
「ああ。 里沙は内輪だけで、簡単に済ませたいって、言っていたンだけどな。 …相手の仕事が、教職だろ? そー言う訳にも、いかないみたいだ」
「お固い仕事、って事か」
「対面や世間体には、気を使うだろうな」
里沙もこれから大変だろうな、と思う。
仕事は続ける上に、下宿も昼間は今まで通り、里沙が管理する事になる。 その上、家庭の家事も、これからこなして行くのだ。 半端な決心では、この結婚へ踏み込む事は出来なかった筈だ。
「利知未さん達は、出席しないんすか?」
「従兄弟の里真と、下宿の代表で朝美は出席するぜ」
「里真ちゃん、里沙さんと従兄弟なんスか?」
「知らなかったのか?」
「親戚筋らしいってのは、知ってたンスけど」
「母親同士が姉妹だよ。 あの二人は」
「へー。 美形の血筋は、母親ナンだな」
「そーかもな」
利知未が軽く首を竦める様にして、倉真の言葉を肯定した。
成人の記念に、近々何処かへ飲みに行こうと約束をして、倉真は二十二時頃、アダムを出て帰って行った。
朝美は、里沙と酒を飲みながら、今後の確認をしている。
「で、何かあった時は、ここへ連絡すれば良い訳だ」
「夜中でも構わないから、何かあれば、何時でも連絡して。 そんな連絡が無い様に生活できれば、一番だけど」
里沙が頬へ手を当てて、眉根を寄せる。
「また、里沙の心配性が出て来た! 大丈夫だって。 大体、店子の中で一番、危ない利知未が、最近はすっかり落ち着いてんじゃない。 あの子以外の誰が、夜中の緊急連絡を必要とする様な事件を、起こすって言うのよ?」
カラカラと笑っている。 朝美の明るさに、里沙はリラックスする。
「昔から、ずっとこうだったわね」
「何が?」
「私は、あなたの明るさに、どれだけ助けられて来たか知れないわ」
「里沙が、心配性過ぎなんだよ。 ま、それでバランスが取れていたのかもね。 あの頃は」
「今だって。 あなたが此処に居てくれる事が、どれだけ私の助けになっているか……。 本当に、朝美には感謝してるわ。 ありがとう」
「そんな、改めてお礼言われると、変な感じ。 あたしだって、此処で生活した3年間があるから、今の自分が在るんだから…!」
朝美は肩を竦めて見せ、改めて礼を言った。
「取り敢えず、前途を祝して乾杯でも致しますか!」
直ぐに何時もの、あっけらかんとした朝美に戻る。 二人でグラスを合わせた。
里沙は結婚式の3日前から、新居へと引っ越してしまう。 式までの3日間で、新しい生活空間の準備を整える予定だ。
葉山は、この四月から既に、新しい赴任先へと転勤している。 一足先に、新居での生活を始めていた。 それなら、始めから葉山の世話をする為、早めに自分も引っ越そうかと相談した時、彼の方から言い出してくれた。
「里沙も、成るべくギリギリまで、あの下宿に居たいだろう? これから先の相談も、朝美ちゃんの料理の訓練も。 やらなきゃなら無い事は山積みだ」
笑いながら言って、譲渡してくれた。
里沙は、彼に出会えた事を、心から感謝した。
里真と冴史は、大学生になった。 二人共、無事に第一志望の大学へ通っている。
冴史は、日本文学・古典を専攻し、四年制大学へ通う。 里真は短大で、英文科を専攻した。 理数よりは余程、向いている。
「ナンで、英文科ナンだ?」
樹絵に聞かれて、里真が言うには。
「海外支社が在る会社に、就職したいから」
「何で?」
「研修とかで、ソッチへ行く事も出来そうでしょ?」
隣で聞いていた利知未が、呆れて突っ込んだ。
「お前は。 高校選ぶ時も、制服で選んでたよな、ソー言えば」
「また、動機が不純、って言うの?」
「……ま、構わネーけど。 あたしには関係ネーし」
「そー言う理由で、大学選ぶのもアリか」
樹絵は、一人で納得している。
「お前は、将来の希望とか、夢とかはネーのかよ?」
「……憧れてる仕事はあるけど。 まだ決心、出来ないから。 大学行って考えるのもアリだろ?」
樹絵の言葉を聞いて、随分、準一に感化されて来たのかもしれない、と、利知未は少々、不安になった。
四月二十四日・水曜日に、里沙は下宿を出た。 前日の夜、大学から帰宅し、素直に勉強をしていた利知未の部屋をノックして、里沙から晩酌へ誘う。
リビングで、朝美と利知未、里沙の三人が揃って、飲みながら話しをした。
「これから、洗濯と夕食の準備までは、今まで通り私がやるけど。 朝食と掃除は、任せないと無理でしょうね」
「ゴミ出しもね。 でも、里沙はそれで、本当に大丈夫そう?」
「平気よ。 彼は、八時前には毎朝出てるし。 ココには、九時には来られるから」
「徒歩、十分くらいだったよな?」
「ええ。 それで、朝美とも話したんだけど。 車はこちらに置いておくから、スペアキーを、ダイニングのレターボックスの横に、引っ掛けておくわね」
「管理は今まで通り、里沙がやるンだよな?」
「そのつもりよ。 今、免許持ってるのは、この三人だけだから。 朝美も雨の日は、通勤に使ってくれても構わないし」
「その日の買い物とか、どうするんだ?」
「上手く使い回すわ。 大量に買い込まない様にすれば、スーパーは徒歩でも行ける距離でしょう。 利知未にも、朝美を手伝ってもらわないと……。 大変だとは思うけど、お願いできる?」
「朝美の朝飯、毎日食うより、自分で作った方が安全そうだよな」
ニヤリと、利知未が笑って言った。
「言ってくれるじゃない! あたしだって、随分、頑張って覚えたんだから。 …って、言いたい所だけど、素直に協力、頼むよ?」
「双子と美加の弁当は、あたしが作るか」
「そうしてもらえると、助かるな。 ま、朝の目玉焼きやスクランブルエッグくらいは、任せてよ」
「朝美じゃ精々、それ位だよな」
「言い返せないのが、口惜しい所だな」
朝美が、苦い物を噛んでしまった様な表情になる。 利知未はそれを見て、軽く吹き出した。 里沙は、二人の様子を見て安心した。
それから、もう少し話し合いを進め、十二時を回る頃には、それぞれの自室へと引き上げた。
四月二十七日・土曜日。 里沙は無事、葉山との式を終え、婚姻が成立する。
数日後。 店子達は、高校時代に鍛えた里真の手で、フィルムへ収められたウエディングドレス姿の里沙を、綺麗な写真で見る事が出来た。
一番良く取れた一枚を大きく引き伸ばして、リビングへ飾る事にした。
「やっぱ、里沙は綺麗だよな」
樹絵が、繁々と写真を眺めながら呟いた。
「そーだね。 白無垢は、着なかったんだ」
秋絵も、隣で写真を眺めている。 ゴールデンウィークが、始まっていた。
利知未はこの連休中に、毎年恒例のツーリングへ仲間と出掛ける予定だ。
「樹絵、何時かの賭け金、そろそろ支払ってもらうぞ?」
「賭け…? あー! 去年の夏のか! いつだよ?」
「5日・日曜。 出掛ける予定がある」
「ツーリング? 宏治も行くのよね」
「お前、里沙の所へ、引き伸ばした写真を届けに行くンだろ?」
「その予定。 連休中は里沙もお休みだから。 新婚旅行、ゴールデンウィーク利用して行ったんだよね。 お土産話し、一杯聞いてこよう!」
「アンマ、新婚の邪魔してくンなよ」
「分かってる! 利知未達も、気を付けて行ってきてね!」
ニコリとして言った、里真の笑顔を見て利知未は思う。
『始めてだよな……。 里沙の居ない、ゴールデン・ウィーク』
利知未が、この下宿へ入居して、丸々八年の月日が経った。
大学生になり、少しは大人びて来た里真は、始めてここへ来た時の、里沙の面影に似て来たかもしれない。
つい、里真の顔を眺めてしまった。 里真が小首を傾げ、問い掛ける。
「ナンか、付いてる?」
「ナンでもネーよ」
利知未は視線を外し、改めて、壁に飾られた、里沙の写真を眺め直した。
二
四月二十四日に里沙が退去してから、利知未は約束通り高校生の弁当を、朝、三十分早く起きて作り始めた。
この連休前で四日間は、利知未の手製弁当を、双子と美加が持参している。
樹絵のクラスでは、以前よりも和風テイストな弁当を見て、友人達が噂の利知未の特技を知った。
「あの、チラシの瀬川さんが作ってくれてンの!? すっごい!」
「利知未、料理は得意なんだよな」
樹絵の弁当箱から、惣菜がドンドンと減って行く。
「本当! ムッちゃ、美味い!!」
「アー! 最後に食おうと思って残しといたのに! …変わりにこれ、貰い!」
そして利知未の料理は、樹絵の友人の腹へと収まってしまう。
「イヤーン! 益々、憧れちゃうかも!!」
友人の喜ぶ声を聞いて、樹絵は変な感じだ。
「男みたいに格好イイって憧れてンのに、料理が上手いとナンで益々、憧れるんだよ?」
「惜しいなぁ。 あの人が男だったら、結婚したい理想よね。 その上、医大生なんでしょ!? 将来も有望って事じゃない!?」
「……そう言う観点で、利知未を見てンのか」
確かに、将来の旦那が料理上手だったら、楽が出来るのかもしれないと樹絵は思った。
秋絵のクラスでも、同じ様な意見が活発らしかった。
美加の方でも、中々、評判は良いらしい。 利知未は毎日、弁当箱が綺麗に空になって戻ってくるのを見て、満更でもない気分だ。
『…っツーか、この下宿にいて、丸で花嫁修行の心境だよな』
そうとも思う。 そして、また何時かの光景が頭を掠める。
その度に、少し照れ臭い感じがしていた。
連休中は、克己の働く定食屋も、カレンダー通りで休みになる。
克己はツーリングの前々日、響子の一人暮しの部屋へ始めて邪魔をする。
「こりゃ、テープ絡まってンな。 電気屋に持ってかネーと無理だと思うぜ? 切ってもイイなら、取り出す事位は出来るが。 どうする?」
「自分で録画した分だから、切るのは構わないんだけど」
片手を頬に当て、響子が少し悩んでいる。
昨日、昼休憩の時間、響子が克己にビデオデッキの調子が悪い事を、相談していた。 3日の夜、どうしても録画したい番組があると言う。
一応、見てみようかと克己が言ってくれた。
それほど詳しい訳でもないが、機械に疎いらしい響子よりは、まだ解るだろうと思った。
「ンじゃ、切っちまうか。 鋏か、カッター有るか?」
「持って来ます」
響子がキッチンの戸棚から、鋏を持って部屋へ戻る。
受取り、ビデオテープの途中を引き出し、そのまま鋏で切って、絡まっている所を注意深く引き出した。 それから、テープを取り出して克己が言う。
「何度も重ね撮りしてンだな。 テープ、延び切ってるぜ?」
言われて少し、恥かしい思いをした。
「勿体無くて、つい。 ケチケチしないで、適当に新しいテープにしておいた方が、良かったかしら?」
「今夜、撮るテープはあるのか?」
「買って来たほうが良さそう」
響子はここ一年、3本のテープを順繰りに重ね撮りして使っていた。 どれもきっとで、絡まっていた分と同じで伸び切っているだろうと思う。
「どーせ暇だしな。 何かデカイ物、買う予定があれば付き合おうか?」
「…それなら、お願いしてしまおうかな? 色々、切れてる物があるし」
「荷物持ち位、してやンぜ」
そして、二人で買い物へと出掛けた。
これが切っ掛けとなって、二人の関係は、また親しくなった。
五日。 約束通り仲間が集まり、ツーリングへ出掛けた。
「このメンバーだと、箱根が多いよな。 今回は別方面、行って見ないか?」
利知未の提案で、去年のキャビンよりも更に北上し、埼玉県の、宝登山・ロープウェイ乗り場を目指す事にする。
「140行くンなら、コースも楽そうだ!」
準一が、倉真が確認している地図を横から覗き込んで、嬉しそうに言う。
「そーだな。 お前にゃ、丁度良さそうだぜ」
倉真も言って、開いた地図を仲間に見せる。
「ンじゃ、俺が先導してくか。 この辺り掠めて、走らせた事あるし」
そのまま、倉真がリーダーで走り出した。 ケツは、いつも通り克己が行く。
目的地へ着くまでに休憩を挟んだ。16号を北上し丁度中間、入間市、229号へ入る辺りで、コンビニへ寄る。
缶珈琲など飲みながら、一服して話しをする。
「ココまで、二時間はかかってネーよな?」
腕時計を見て克己が言った。
「だろーな。ココで丁度、半分くらいじゃネーか?」
倉真が地図を開く。 コンビニでトイレを借りた利知未が、店から出て来た。
今日は昔通り、男か女か解らないような格好をしている。
後から出て来た準一が、ヘラヘラ笑っていた。
「ヤッパ、これからもうチョイ服装、考えるかな……」
仏頂面で、利知未が呟いていた。
「ナンかあったんスか?」
「何時もの事だって! まーた利知未さん、間違えられてンの!」
女性用の手洗いから出て来た所を、同じ様にドライブ途中でトイレを借りに入っていた、小学生の女の子とすれ違った。
「お母さん! オカマが居る!」
と、女の子が買い物をしていた母親に報告していたと言う。
話しを聞いた全員が笑う。
「カマってのは、新しいじゃネーか!?」
克己が吹き出しながら、面白そうに言っていた。
倉真の地図を借りてココまでのコースを眺めていた、宏治が呟いた。
「ロープウェイか」
「今度、里真でも釣れて来てヤるか?」
「今、そう思ってたンす。 結構、同じ様な所ばっか行ってるから」
「宏治は、面食いだったのか?」
克己が、新年会で初対面だった里真を思い出す。 花見も一緒に行った。
それがあって始めて、利知未と同じ下宿の店子達の一部を知った事に、克己はなる。 漸く、ボーリングの上手い樹絵と、釣りが意外と得意だったと言う双子の片割れ、秋絵まで判った。
「面食いってつもりは、ないんスけどね」
「お前は自分の顔、毎日鏡で見てんだから、目が贅沢に成ってんだろ」
倉真が言って、利知未も頷いた。
「それ、言えるんじゃネーか?」
「毎日鏡見てるって言われてもな……。 ンな繁々、眺めているつもりも無いンだけどな」
髭を剃る時、チラリと見る程度だと言う。 しかもそれ程、髭が濃いタイプでもない。
話しを聞きながら、利知未はまた不思議な感覚を覚える。
『宏治が、髭剃り……』
当たり前なのだろうが、余り釈然としない感じだ。
その表情に、準一が気付いた。 当然、突っ込む。
「ベビーフェイスの宏治も、髭、剃る歳って事だよな」
「人の事、言えンのか? お前は、剃らないのか」
「オレ、殆ど生えない。 これって、ドー言う理屈なんだ?」
「ホルモンバランスだって、言うよな。 おれも詳しくはないけど」
克己と準一の会話に、宏治がまた参加する。
「もしかして、利知未さんも毎朝、剃ってたりして!?」
準一がまた、思い付きでくだらない事を言う。 利知未が反応する前に、準一の隣に居た倉真が、頭を小突く。
「バカ言ってンな。 …投げ飛ばされっぞ?」
「イテ! 投げ飛ばされるより、倉真の拳骨のが痛―よ?」
……一応、庇ってもらったのかな? と、利知未は思う。 少し、くすぐったい感じがして、何となく照れ臭い感じだ。
その利知未の様子を見て、克己と宏治は軽く眉を上げる。
『どーやら』
『そこそこ、倉真の思いも報われてるって、事か……?』
無言で二人が、軽く目を合わせた。
それからまた二時間近くを走らせて、目的地へ着いた時。 克己と宏治は、何気なく準一を構って、倉真と利知未に二人切りの時間を作ってやって見た。
……内心では、二人の様子を、面白半分で観察している。
自分の想いを知っている二人が、少し気を使っているらしいことは、倉真も感じた。 折角なのでほんの少しだけ、二人の好意に甘える事にした。
仲間と離れて二人になると、利知未は無意識に、態度が変わってしまう。 相変わらず大きく変わる事は無いが、表情と仕草が、少しは女らしくなる。
そして、自分の変化に気付いた時、改めて実感してしまう。
『倉真の存在が……。 あたしの中で、ドンドン大きくなってる』
けれど、倉真は。 こうして少しずつ変化している自分の態度を、どう感じているのだろう……?
『……もしも、気付かれた時。 ……倉真は、離れてしまうかも…?』
今までの気楽な関係が、彼にとっては丁度良いのかもしれない。
倉真は、利知未のほんの少しの変化を、嬉しいと思う。
『少しは、脈もあるのか……?』
そう感じる。 それでも、哀しい顔は滅多に見る事が無い。
『まだ、俺は頼りないまま、何だろうな』 ……利知未にとっては。
お互いの想いは表に出さないまま、倉真が利知未に問いかける。
「何時か、聞いたじゃないっスか」
「何を?」
「…利知未さんは、年上好みなのかって、事っす」
「そーいや、そんな事もあったよな。 …それがどうしたンだ?」
「あン時、安心感の問題だって、言ってたっすよね?」
「そー、言ったな」
「その安心感ってのは、…ナンツーか、社会的立場とか、年齢とか、相手の仕事とか、…ソイツの、環境に左右されるンすか?」
急に聞かれて、利知未は少し考えた。 ……どう言って、イイのか?
「…心の、問題。 ……かな?」
「心?」
「アンマ、環境とかに左右されてる気も無いな。 自分の、心がどう反応するか?って事の方が、重要…。 かな?」
……それなら、自分にも可能性は在る筈だと、倉真は思う。
『けど、ヤッパ、俺がどンだけ利知未さんの事を受け入れる事が出来るか? って問題、なのか…。 …器、デカク無きゃ、不可能そうだ』
『……倉真が、あたしをどう言う相手として、意識しているのか…。 解らないけど……』
自分の答えに、ジッと黙ってしまった倉真の横顔を見て、利知未は思う。
……もしも、倉真があたしを、受け止めてくれるのなら?
『それは、そのまま、あの光景へと繋がって行く相手、と言う事……?』
視線を感じて、倉真が利知未を見る。
『何時もより、表情が……、優しい』
見詰め合ってしまいそうで、急に照れ臭くなり、倉真は後ろを振り向いた。
「ロープウェイ、乗って見ネーか?!」
少し離れた所で、準一を構って、小突き合っていた仲間に声を掛けた。
ゴールデンウィーク明けからも、利知未はバイトの無い月・火曜の帰宅後を、勉強時間に充てる様になった。
木曜日は、今年で中学3年・高校受験生の、佳奈美の家庭教師に充てる。 すっかり一つのバイトと化していた。
佳奈美はこの一年半で、学年順位を七十番上げた。 この調子で後三十人、受験本番までに追い抜けないモノかと、考えていた。 最近、中々な口を聞くようになっている。
「成績に不安が在る訳じゃ無いンだけどな。 でも、上げられるなら上げておいた方が、受験勉強が簡単で済むでしょ?」
智子も娘のその言葉を、応援したい母心だ。
「いっそのこと、本当に家庭教師でバイトしない? 後、五百円上げて週一回。 一ヶ月一万四千円で、どうかしら?」
連休明けの木曜だ。 利知未は、いつも通り勉強を見てやった後、夕食をご馳走になりながら、智子からそう提案された。
「あたしも、今年から勉強キツク成ってきたんだよな……。 けど、アダムでのバイトも減らしたし……。 金が掛かるのは、前と変わらないしな」
呟いて考える。
最終的に、もう少し上乗せして貰い、一ヶ月一万五千円で、引き受ける事にした。
家庭教師派遣に頼むと、それより掛かるらしい。 智子も、その金額で譲渡する事にした。 何よりも、佳奈美自身が喜んだ。
下宿店子中、今年の受験生、双子の樹絵・秋絵は大学受験だ。 二人も良く、利知未の部屋へ勉強を持ち込んでくる。
秋絵は、冴史に頼る事にした。 理数だけ偶に、利知未を頼ってくる。
利知未の部屋の小さなテーブルは、樹絵がほぼ占領する。 解らなくなると、自分のレポートに追い捲られている利知未へ、声をかける。
『マジ、成績のイイ男でも、探すか……?』
声を掛けられる度、利知未は冗談半分に、そんな事を思う。
透子も偶に、様子伺いと称して、お邪魔電話を掛けてくる。
近頃、片耳に受話器を挟み、片手で自分の本にラインを引き、片手で樹絵の勉強をチェックする利知未の姿が、見られるようになった。
それでも晩酌は止めない。 晩酌タイムは、中学時代から最も仲の良い朝美と、色々な話しをしながらストレスを解消する、リラックス・タイムだ。
今夜も、朝美と二人、リビングで酒を飲んでいる。
「アンタも、良く続くよね。 ……もっとも、高校受験の時も、今と似たり寄ったりだったか」
「あの頃は、双子が居なかったから、まだ楽だった」
タバコの煙を天井へ吐き出しながら、利知未が流石に疲れた顔を見せる。
「けど、バンドはやってたでしょ」
「あれはあれで、頭使うこっちゃネーからな。 イイ、ストレス解消だった」
「今は、酒とバイクか。 …アンタも、歳取ったよね」
「朝美に言われたかネーな。 あたしより、四歳も年寄りじゃネーか」
「言ってくれンわね、相変わらず」
「性格がソーソー、変わるモンかよ」
「減らず口。 ま、玲子が居なくなって、言葉遊びの相手が居なくなったから、ショーが無いか」
「言葉遊びぃ? 単なる、嫌味の応酬だろーが」
「それが、良いストレス解消になってたンでショーが。 素直じゃないねぇ! それも相変わらずだわ」
「今は朝美が、付き合ってくれてんだろ?」
「あたしも、これが中々、良いストレス解消になってたりして」
「お互い様じゃネーか」
「ソー言う事だ。 ……里沙、今頃旦那と、イチャイチャしてんじゃない?」
「羨ましーンじゃネーの?」
「言ってくれるじゃん! アンタこそ、ドーなのよ?」
酒が入ると、何時もこんな会話になる。 利知未は、突っ込んで見る事にした。
「FOXのリーダー、まだ一人身だぜ?」
「だから、ナンなのよ?」
朝美は全く動じなかった。 利知未は少し、拍子抜けした。
五月中旬、学生の中間テストが終わり、六月は直ぐにやって来る。
中間の成績を受けて、佳奈美の苦手な部分を徹底的に教えた。
また直ぐに、期末テストが近付いて来る。
利知未の誕生日前週、日曜日。 カレンダーを見て、呟いた。
「今年は、日曜なんだよな」
だからどうだと言う事ではないが、この日は、マスターが勝手に利知未の休日に設定した。
「折角だ。 ゆっくり誰かに、祝ってもらって来れば良い」
今月のシフトを貰った時、マスターからそんな事を言われた。
この日、倉真がアダムへ来た。 何時もの珈琲を飲みながら、利知未に聞く。
「来週、バイトっすか?」
「一応、休みだけどな」
「どっか、走らせないっすか?」
「…それも、イーかもしれないな」
倉真に祝ってもらいたいと、思った訳ではなかった。 覚えてないだろうとも思っている。
「ンじゃ、コース、決めときます」
倉真は、利知未の誕生日を覚えていた。
その日に別の約束が無い事を、確認したいくらいの気持ちで誘ってみた。
『ヤッパ、普通は男が居れば、空いてない筈の日、だよな』
そう思い、誘いに了解を貰って、内心でホッとする。
プレゼントを用意する気も無いが、飯くらいは、奢ろうかと思っていた。
梅雨時だが、週間天気予報では、梅雨の晴れ間が広がりそうだと言っていた。
利知未の誕生日に、天気予報が当たってくれる事を祈った。
一時間ほど、来週の事を話しながら呑気に過ごし、店が忙しくなる前に、倉真はアダムを後にした。 そのまま、何となく克己のアパートへ向う。
この頃、克己と響子は、お互いの部屋を行き来する関係になっていた。
克己は何とか調理師免許をモノにして、普通車の免許取得に挑戦し始めた。
数ヶ月振りに、アパートへ尋ねて来た倉真を誘い、昔から良く行っていた居酒屋へ向った。
「梅雨時期、苦労してンからな。 ……オレもそろそろ、バイクを卒業する潮時かも知れネー」
久し振りに、二人で酒を飲んだ倉真は、克己のそんな呟きを聞く。
「バイクじゃ、用が足りネー事でも、出来たのかよ?」
「…チョイな」
酒がもう少し進む。 漸く克己は、詳しく話してくれた。
「…って、結婚、スンのか!?」
「ガキが生まれる前にはな。 …利知未にも、報告するつもりなんだが。 何かな、言い難い感じだ」
「……やっぱ、利知未さんの事、ナンか思ってたのか?」
「一瞬、見誤った事はある。 …妙に気になってた時期ってのは、あったぜ?」
利知未が気になっていた時期。 それは、哲の出来事の頃だ。
あの頃、利知未のチョットした悪戯に、口惜しいながらも、少し嵌まった。
「お前よりも、女を見る目があったって事だ」
思い出して、気恥ずかしい気がした。 誤魔化す為に、軽い口調になる。
「…俺が、まだ綾子と一緒に居た頃のことか?」
あの、7月のツーリングの、二人の様子を思い出す。
「…そんな時期だ」
「…今は、ナンでもネーのか?」
「ガキ作っちまうような女が居るんだ。 ナンかある訳、ネーだろーが」
サラリと言ってのける克己を見て、倉真はグラスを掲げる。
「取り敢えず、目出度いってのは、変わらネーよな。 …乾杯」
「おお、お前も無事、成人だ。 目出度い事が、重なった」
克己もグラスを掲げ、軽く乾杯を交わし、お互いの前途を祝した。
三
月曜、夜。 利知未は、今日も勉強中に鳴り出した、電話の呼出し音に手を伸ばす。
どうせ透子だと思い、軽く面倒臭そうな声を出した。
「なんだ?」
「利知未か? 機嫌悪そーな声じゃネーか」
「克己? どうしたンだ、ツーリングの誘いか?」
樹絵がノートを利知未に見せながら、無言で質問を問い掛ける。 片手間にそのノートを受取り、電話を耳と肩に挟んで、目を通しながら言う。
「まぁ、そんな所だ。 …最後に、バイク走らせてーと思ってよ」
「どう言う事だよ?」
手が止まる。 樹絵のノートを脇へ置き、電話に集中する。
「詳しい事は、そン時に話す。 …別の相談もあるからな」
「ンじゃ、二人で行くか?」
「ソーだな。 妹と、最後のデートと洒落込むか」
そして日時を決めて、電話が終わる。
木曜、佳奈美の家庭教師を終え、帰宅した利知未の電話に、珍しく留守番メッセージが残されていた。
「利知未さん? 明日香の母です。 明日香が無事に、男の子を出産しました! 日曜には、戻っていると思うから、ちょっと見に来てやって頂戴ね?!」
嬉しげに、弾んだ声での連絡だった。 カレンダーを見る。
「六月二十日か。 あたしより、3日早いンだな」
呟いて、倉真に連絡を入れる。
倉真は、風呂上がりにビールを飲んでいた。 夜十一時前の事だ。
電話が鳴り、呑気に受話器を上げる。
「倉真? あたしだ。 日曜のコース、もう決まってるか?」
滅多に買わない、旅行雑誌を眺めていた所だった。
「今、探してるンスけど。 どっか行きたい所でも、出来たんスか?」
「チョイ、短めなコースにして貰ってイイか? …兄貴の家へ、寄って行きたいんだ」
「…ナンか、あったんスか?」
「心配そうな声、出すなよ。 イイ知らせなんだ。 …兄貴のトコ、長男が生まれたって、連絡があった。 ……お前が構わないなら、一緒に回ってみないか?」
いきなり言われて、驚いた。 利知未の家族に、初めて会う事になる。
「俺が一緒に行って、構わないんスか?」
「ヘーキだろ? お前、子供嫌いって訳じゃ、無いだろ?」
今まで、一緒に出掛けた時、倉真が小さな子供に対して取って来た態度を思い出して、利知未は思う。
『意外と、イイ親父になりそうだよな……』
思ってしまって、何と無く照れ臭くなる。
今は電話で話している。 顔を見られていない事に、感謝した。
鏡に映る自分の顔は、すっかり女の顔になっていた。
「嫌いじゃ、ないっスけど、…利知未さんの付き合い、疑われちまうんじゃネーかな」
利知未の家族に会ってみたい思いと、自分の外見を引き比べる。
「今更だな。 どーせもう成人しちまったんだ。 時効、時効」
「ソー言うモンスか?」
「兄貴も、嫁さんも、拘らない性格だから、平気だよ。 …それとも、いやか?」
「ンな事、ある訳ないっスよ。 利知未さんがイイなら、付き合います」
「じゃ、ついでに祝いの品、探してから行かないか? ツーリングは近場を回る事にして、また今度、お前が今考えてるコース、回ろう」
「了解です。 ンじゃ、ゆっくり探し直す事にするか」
「悪いな、時間、また連絡するよ」
電話を終え、受話器を置いてから、改めて気恥ずかしい気分になった。
『チョイ、強引過ぎたか……?』
何故、倉真と行こうと思ったのか……?
解り切っている自分の心を、照れ臭い気持ちで受け止める。
『兄貴の所へ行くのは、別の日でも構わなかったんだけど……』
何時かの光景を思う。
二人の間に、ヤンチャそうな子供が、一緒に空想に現れた、あの時を思い出してしまう。
冬桜の香りが、ふわりと、利知未の記憶をくすぐった。
『……桜なんて、ココには無い筈なのに』
……利知未の中で、倉真は特別な存在に、成り切っていた。
『別に、ソー言う相手として、会う訳じゃネーンだよな』
変にドキリとしていた自分の心に気付いて、倉真も気が抜ける。
そして、新しい思いが、生まれている事を知る。
『……また、別の意味で意識し始めてンみたいだな。 …彼女の事を』
それはそれで、やはり気恥ずかしい。
克己の話を聞いた後だからだろうと、勝手に解釈する事にした。
翌日、夜。 夕食を食いに来た倉真と、短く日曜の打合せをした。
「あの辺り、大きなショッピングセンターは在ったんだよな」
「祝いって、何ヤるモンなんスか?」
「色々、考えられるけどな。 実用性の高い物で、イイと思うンだ」
二人の会話を、隣でマスターが聞いている。
後三十分もしたら、金曜のアダムは本格的に混み始める時間だ。
「店が開くのは十時だろうから、こっちを九時半に出れば余裕だよ」
「下宿の前、流してきます。 特に、落ち合う場所決めなくても、平気っすね」
「それでイイよ。 …明日も、仕事か?」
「やっと人数、増えたンで。 ここんトコ土曜もナンとか休んでるっすよ」
飯をがつがつ食いながら、何時も通りに答える。 利知未がタイミング良く珈琲を出す。 中々の呼吸モノだ。
その様子を横目で見て、マスターの口元に、微笑が浮かんだ。
息の合った二人だと、感心していた。
日曜の昼過ぎ、樹絵がアダムへ顔を出す。 勉強の息抜きに来て見た。
「今日は利知未、休みだぞ」
「分かってるよ。 タマには、イイかと思ったんです」
カウンター席へ腰掛けて、マスターと言葉を交わす。
偶にやって来る樹絵とも、すっかり馴染みだった。
マスターから樹絵を見た時、中学時代の利知未を思い出させられる相手だ。 下宿店子達の中でも比較的、言葉を交わす客だった。
「利知未、今日はデートだからな」
ボソリと零した樹絵の言葉に、反応した。
「赤毛モヒカンの青年だろう?」
「マスター、解ってンだ!?」
「付き合いが長いからな。 ……あの二人は、最近ちょくちょく出掛けるのか?」
「本人は突っ込むと否定するけどね。 お似合いだと、あたしは思ってるよ」
「そうか。 協力者が、こんな身近に居たか」
マスターの言葉に、樹絵が軽く首を傾げる。
「今日は、ナンにする? 奢るぞ」
「マジ!? ンじゃ、レスカと、パフェと、チョコケーキ!」
「遠慮の無いヤツだな。 ソックリだ」
「誰と?」
「利知未以外、居ないだろう」
「…ま、イイか。 タダはタダだし。 大至急で、宜しく!」
樹絵の態度に、マスターは笑った。
『付き合い易いコだな』 改めて、そう思った。
利知未は昔、裕一と一緒にゴミ箱を買ったショッピングセンターへ、開店して直ぐ、倉真と入店した。
「昔は、ベビー用品とかも置いてあったんだよな」
「で、結局、何買うんスか?」
「何が良いんだろうな……? 玩具か、ベビー服か、紙オムツなんかでも、イイのか?」
「実用性って言や、その辺りなんスか? けど、祝いに紙オムツってのも、何かな」
「そりゃ、ソーだな。 玩具ってのも、生まれたばっかの子に上げてもな……。 それに、そんなモン、爺さん婆さんが喜んでいくらでも買ってやりソーだ」
「奥さんの方の、両親スか?」
「ソーだよ。 ……前、行った時は結構、物凄かった」
「予算は?」
「五千〜一万、ってトコか」
「ンじゃ、洋服くらいしか、ネーンじゃないっスか?」
「だよな。 でなきゃ、アルバムとか……?」
「ガキの写真って、増えるんだろーな……」
「それもヤッパ、爺さん婆さんだな」
優と明日香の性格を考えると、その辺りはやはり須藤家の管轄だろうと、利知未は思う。
二人で広い店内を、隈なく歩いてみる。 途中で本筋から外れてしまい、調理道具の前で利知未の足が止まる。
「このサイズ、使い良さそうだな」
四角いフライパンを手に取る。
「それって、何に使うンスか?」
「お前も出し巻き卵、美味いって言ってたよな。 花見の時」
「それで作るンスか?」
「あの時は、丸いの使ったからな。 里真が四苦八苦してたよ」
「同じフライパンで、…利知未さんも作ったンスか?」
利知未は聞かれて、本の少しだけ照れ臭い。
倉真はあの時、形の整った物と、そうでない物があった事を、思い出した。
「コツが、あンだよ」
短く答えて、フライパンを元の位置へと戻した。
「お祝い品、探さないとな」
利知未が言って、キッチン用品売場を後にした。
最終的に、アルバムと二着ほどのベビー服を選んで、包装してもらった。
優の家へ到着したのは、十二時前に成ってしまった。
利知未が連れて来た倉真の頭を見て、やはり明日香は驚いた顔をする。
「今日、ツーリング行く約束があったんだ。 バイク仲間」
「バイクって、そんな派手な頭で乗るのが流行ってンの?」
「メット被るんだ。 そんなの流行らないだろ? ヘビメタルファン何だよ」
「成るほど、それでか。 予定変えさせちゃって、ごめんなさいね。 上がって」
明日香は、たったそれだけの会話で、深く突っ込む事はしなかった。
同じく、奥へ上がって見て、倉真の頭に目を丸くする優に、明日香が説明された通りの事を言う。 優も、それほど驚かなかった。
「お前が昔やってたバンドって、ソッチだったのか?」
「違うよ、ロック。 けど、倉真はヘビメタの他にもロックやハードも聞くんだよ」
「ソーマさんって、苗字?」
「違うっす。 館川 倉真って言います」
「変わった名前だな。 …裕一じゃなくて、別の名前考えるか?」
「何言ってるのよ? もう、届出したでしょ」
「冗談だ」
「分かってます」
二人の様子と、利知未にじゃれ付く真澄を見て、仲の良い家族だと思った。
「この子が、真澄ちゃんっすか?」
「ソーだよ。 和泉の妹と違って、すっげー、ヤンチャモンだ」
「利知未さんと同じ血が流れてるからか……?」
「良く解ってるな。 コイツにソックリで、困ってるんだ」
「何言ってるのよ? …本当は可愛くて、仕方無いンだから」
明日香に突っ込まれて、優が照れ臭そうな表情に成る。
「りちみ、このヒト、だぁれ?」
真澄に聞かれて、倉真が真澄へ手を伸ばす。 高く抱き上げられて、真澄がはしゃいだ声を上げる。
「結構、重いんだな。 俺は、ソーマって言うんだ。 ヨロシクな、真澄ちゃん」
「ソーマ、ソーマは、りちみのだいじなヒト?」
一気に、頭に血が上る。 慌てて利知未が、そっぽを向く。
「ませたコト、覚えてんだな。 誰が教えたんだ?」
「ママがね、パパのコトと、ますみのコトと、ゆーちゃんのコト、そう言ってたの!」
抱き上げられたまま、真澄が元気良く答える。 そのまま倉真の頭によじ登る。
「兄貴とも、同じ血が流れてンだよな……。 高い所へ登りたがる癖がある」
優が立ち上がり、倉真の頭から真澄を引っぺがす。
視線が合って、お互いに驚いた。
「背、高いっスね」
「デカいな。 久し振りに、他人と視線が合った」
優は、倉真よりも更に二、三センチ長身だった。
何となく、デカイ者同士でウマが合った。 そのまま真澄を構いながら、男二人が世間話を始めた。
その様子を見て、明日香は、生まれたばかりの長男・裕一が、良く眠っている事を確認してから、利知未と二人でキッチンへ立つ。
「そろそろ、お昼作らないと。 手伝ってくれる?」
「ヤるよ。 一人増えた分、手間も増やしちまったからな」
二人で昼食の用意をしながら、利知未は明日香から突っ込まれてしまった。
「倉真くんって、外見よりもよっぽどイイ子見たいね?」
「イイ子って、歳でもネーよ。 あたしの一つ下だから、一応、成人してる」
「そう。 ……利知未、彼と付き合ってるの?」
「……そんな関係じゃ、ネーよ」
言葉では否定しながら、照れた様子を見せる利知未を見て、明日香は微笑する。 利知未は本当に、結婚も早いかもしれないと、改めて感じた。
倉真も二十歳と聞いて、真っ昼間から、軽く酒が入ってしまった。
倉真も利知未も酒に強い。 優の方が、先に赤くなってしまう。
「バイクだけじゃなくて、イイ飲み仲間って所か?」
「そうね。 優の方が、アルコールに弱いみたい」
「確かに、同じ量だけ飲んで平気なのは、コイツと和尚だよな」
「ジュンは弱いしな。 宏治はキッチリ、マイペースを貫くし」
「克己も、そーゆータイプか? アンマ、酔っ払ってるトコ、見た覚えがネーな…?」
「克己は、俺と飲む時は、結構飲むっすよ?」
「じゃ、何時も仲間で飲む時は、セーブしてんだな」
「そーっスね。 一応、年長者ってコトで、気ィ張ってんじゃネーっすか?」
「年長者、ねぇ。 …アンマ、あのメンバーじゃ関係無さそうだけどな」
二人の口から次々と出て来る、利知未の仲間達の名前を、優夫婦も始めて聞いた。 二人で軽く目を合わせる。
どうやら、妹はそれなりに、今の生活を楽しんでいる様子だ。 そう感じて安心した。
二人がバイクで来ていると聞いて、程ほどの量で酒を止めた。
酔っ払ってはいないが、飲酒運転は拙い。 普段はこれくらい平気で運転してしまう二人も、兄夫婦の手前、酔い冷ましに時間を取る。
それなら折角だからと、明日香に頼まれ、利知未と倉真は、真澄を連れて近所の公園へ向った。
真澄は公園で、良く遊ぶ友達が出来ていた。 何故か、男の子が多かった。
「……アレも、利知未さんと同じ血が成せる業か?」
「ナンか、自分のガキの頃、見てるみたいだな」
男の子達と元気にはしゃぎ回っている真澄を見て、利知未も唖然とする。
「あ、喧嘩になりそーじゃないっスか?!」
「本当だな、…暫く、様子見て見るか?」
「いいんスか?」
「構わないだろ」
ガキの喧嘩に、大人が出るのはどうかと思う。 呑気にタバコを取り出して、火を着けた。 倉真は少し、ハラハラしてしまった。
「ますみのトーちゃんとカーちゃん、変わったのかよ?」
「ちがうモン! りちみとソーマは、パパとママの、おともだちだもん!!」
「ホントかぁ?! ウソつくと、あそんでヤらねーぞ!?」
「なんで、そーいうコト、いうの?」
真澄より、一つか二つ、年上かもしれない。 男の子が、からかい始めた。
真澄は負けなかった。 どう言う流れでそうなったのか解らないが、男の子達と取っ組み合いで喧嘩を始めてしまう。
「利知未さん、ヤバインじゃ、ないっスか?!」
「…だな。 行くか」
利知未がタバコを消して立ち上がる。 真澄は半分泣きながら、それでも喧嘩を続けていた。
利知未が近付いた時、真澄の根性に負けた男の子達が、素直に真澄に手を伸ばし、立ち上がらせる光景に出会った。
「アーア、ドロドロじゃネーか。 大丈夫か? 真澄」
「うん。 もっと、あそぶの!」
涙の後を、砂で汚した真澄が、ニッコリとする。
「そーか。 お前ら、ヨロシクな」
利知未に笑顔を向けられて、男の子達は頷いた。
真澄の汚れをハンカチで拭って、利知未は再び送り出す。
ベンチへ戻った利知未を、倉真が唖然として向える。
「ナンだ?」
「利知未さん、ガキの頃、あんナンだったんスか?」
「あたしの方が、喧嘩は強かったと思うけどな」
「……ヤッパ、血だな」
倉真が呟いて、そして徐々に笑い出す。
「なんだよ? ンな、可笑しいか?」
「…スッゲー、オカシイッす…!」
倉真は、幼い利知未が、今の真澄の様に、恐らく男の子達と取っ組み合いの喧嘩をしながら、元気に走り回っている姿を想像していた。
夕方五時を回ってから、真澄を連れて優の家へ戻った。
真澄のいでたちを見て、明日香が吹き出した。
「また、やったのね。 どう? 今日は喧嘩、勝った?」
「ひきわけ! でも、ごめんねって、いってた」
「そう。 …利知未、驚いた?」
「あたしより、倉真がびっくりしてたよ」
「やっぱりね。 けど、何時もの事だから、心配しないでね。 お夕飯、どうして行くの? 用意するけど」
「イイよ。 飯食ったら、また酒入りそうだ。 帰れなくなっちまう」
「そう? じゃ、一休みして行って」
「あんま遅くなるのも何だし、このまま帰るよ。 それでイイよな?」
「イイっすよ」
「優、利知未達、帰るって!」
頷いた明日香に呼ばれ、優が奥から現れた。
「祝い、悪かったな。 倉真、これからも妹を、よろしく頼むぜ?」
すっかり息投合して、仲良くなっていたらしい。 優に言われて、倉真は少し照れ臭い顔をした。
「…ツーか、俺の方が、利知未さんに世話掛けっぱなしっすから」
最後に、昼食の礼を述べ、二人は玄関を出て行った。
明日香と優は、妹達を見送って、微笑み交わしていた。
四
優の家を後にして、バイクへ跨って、倉真が言う。
「飯、どっかで食ってかないっすか?」
「そーだな。 まだ、六時前だし」
「今日は、俺が金出します」
言われて、利知未が軽く首を傾げる。
「……誕生日、っしょ? 豪華な飯は無理っスけど」
照れ臭くて、ヘルメットを被ってしまう。
利知未も、少し照れ臭い。 何気なく横を向いて、ヘルメットを被る。
「…サンキュ、ンじゃ、折角だ。 奢ってもらおうか」
「行きますか」
頷いて、エンジンを始動した。
倉真と二人で入った店は、何時ものツーリングと変わらなかった。
豪華でも、真新しくも無い。 けれど利知未の二十一歳のバースデーは、それなりに幸せな一日だった。
帰宅したのは、十時前だ。 美加が毎年の恒例通り、プレゼントを用意していた。 こちらも、通例だ。 けれど、今年はオプションがついた。
「里沙ちゃんに教わったケーキ、焼いて見たの。 利知未スペシャルって、あまり甘くないのを教えてくれたの。 お誕生日、おめでとう」
大学受験の年、里沙が用意してくれたケーキと、同じ物が出て来た。
今日も仕事だった朝美が、勝手に相伴しながら、晩酌に付き合った。
「ナンだナンだ? 美加が作ったの? イーじゃない! あたしの誕生日、九月十六日ナンだよね」
「朝美ちゃんの時も、ケーキ作る?」
「作ってくれるの!? イヤー、可愛い妹分が出来て、あたしゃ嬉しいよ!」
「…って言うか、無理矢理、約束させてる感じだな」
「何よ? 文句アンの? そー言えば、今日、利知未の誕生日だ」
「だから、ケーキがあるんじゃネーのか?」
「分かってるって。 利知未、去年の秋に着た服、覚えてる?」
「去年って、あのチラシの時か?」
「そ。 あの時、アンタが唯一、文句を言わずに着てくれたタイプの、夏向け商品が出るのよ。 ……はい、ハッピーバースデー」
店の袋毎、利知未へ渡した。 ポロシャツチックな小さな襟デザインの、VネックのTシャツだった。 色は、綺麗な薄い色合いだった。
「サンキュ。 貰っとく。 けど、青か黒が良かったな」
「アンタ、原色も似合わないコトは無いけど、そのキツイお顔が益々、怖―くなっちゃうんだから。 もう少し、優しい色も買いなさい」
「イーな! りっちゃん!」
「美加にも今度、買って上げるよ。 どーせ、社割が聞くんだから。 ちょっと良いワンピースとか、見てあげようか?」
「本当!? ありがとぉ!」
「任せなさい! 美加ちゃんも可愛いお顔だから、見たて甲斐がありそうだな」
酒を飲みながら、上機嫌で約束を交わした。
期末テストシーズンが、迫って来た。
美加は高校入学後、始めての期末だ。 勉強には、確りと付いて行っている。
問題はやはり、樹絵だった。 テスト範囲を利知未に伝え、苦手な所を徹底的に教わる事にした。
「あたしもテストとレポート、山積みなんだけどな」
ぼやきながらも、利知未は確り教えてくれた。
佳奈美も期末テストだ。 最近、普段の小テストでも、中々、宜しい成績を収めている。 本人よりも、両親が大喜びだ。
何時も通り、家庭教師の約束の日だ。 佳奈美の部屋で、勉強を見ている時、利知未が聞く。
「佳奈美は、何処の高校へ行くつもりナンだ?」
「通うのが楽だから、東城高校でも良いんだけどな。 でも、利知未の下宿の双子のオネーサン達が行ってる所、制服が可愛いよね」
「佳奈美も、制服で決めるのか……」
「佳奈美もって、前に誰か居たの?」
「下宿の里真が、中3の頃そうだったんだ」
「へー、そーナンだ! けど、ウチは無理だよ。 だって、あそこの学費、高いでしょ? お店、今は繁盛してるから良いけど、もし上手く行かなくなった時、困るでしょ? お父さん達が」
「…ナンか、確りしてンな。 何時からこー成ったんだ?」
「前からだよ?」
佳奈美の返事に、今までのコトを思い出して見た。
物品に弱い部分がある事を、思い出した。
『それって、つまりは、そー言うコトなのか……』
母親、智子も金銭面ではキッチリしている事も思い出す。
『佳奈美達も、確り親子だな……』 妙な感心をしてしまった。
姪っ子、真澄のコトを考える。 真澄は、どちらに似ているのだろう?
更に、考えてしまった。
倉真と二人で、真澄を連れて公園へ行った時の事。
『何時かの光景に、近かった……』
佳奈美が、ナンと無く照れ臭そうな表情になる利知未を見て、声を掛ける。
「利知未、何、考えてンの?」
「ナンでもネーよ。」
気持ちを切り替えて、佳奈美の勉強に集中した。
美加と双子の期末テスト成績は、まずまずの所だった。 佳奈美は、また成績が上がった。
夏休みに入る前、アダムのバイトが、また一人増えた。 今度は短期だ。 瀬尾が無事、就職活動を終えるまでの臨時雇いだ。
「短期バイトだからな。 基本的に、ホール担当だ。 お前には悪いが、夏休みはバッチリ入って貰いたい」
「瀬尾の代わりなら、夜だろ? 構わネーよ」
マスターから言われ、昼間は勉強と息抜きに使えるだろうと考えた。
七月二十日、祝日。 利知未は克己と、二人でツーリングへ出掛けた。
丁度一ヶ月前に、連絡があった約束だ。 初対面の時に行った、江ノ島へ走らせた。
島を呑気に散策しながら、克己が報告をした。
「マジかよ!? 克己が、親父になるのか?!」
びっくりした利知未に、照れ臭い横顔を見せる。
「……ま、ソー言う事だ。 ソーすっと、バイクを維持するよりも、車一台維持した方が、合理的だろう」
「で、あのバイクは、どうするんだ?」
「中古で売るしか、ネーな。 いくらかには、ナンだろ」
そして、少し寂しそうな横顔を見せる。 気を切り替えて、克己が言う。
「……綾子。 アイツには、利知未とは別れたって、言っておかなきゃならねー」
「…ソーだな。 …イーンじゃネーか? 元々、その予定だ」
おめでとう、と利知未が言って、女らしい笑顔を見せた。
「結婚式は、すンのか?」
「響子も二度目だし、オレも面倒臭いのは御免だからな。 籍だけ入れた」
「結婚、何時ってコトにナンだ?」
「今月の頭に、届出したんだ」
「そーか。 もう、一緒に住んでンのか?」
「取り敢えず、オレのアパートにいるけどな。 もう少し広い部屋、探した方が良いだろ?」
「ガキも出来るんじゃ、その方が良いかもな」
優の部屋を思い出した。 あの部屋も、子供の物が増えて、かなり狭い。
「兄貴も新しい部屋を探すって、言ってたからな」
「甥っ子も出来たんだってな。 目出度いじゃネーか」
「倉真から、聞いたのか?」
「ああ。 …アイツ、お前の兄貴と上手く付き合えそうか?」
何気なく聞かれて、つい答えてしまった。
「ウマが合ってたみたいだな。 デカイ者同士、話しが弾んでた」
言ってから、克己の表情に気付いて、慌ててしまった。
「タマタマ、行ったんだ。 別に、特別な意味はネーよ?」
何時か、恋人同士の振りをした時の、利知未を思い出した。
「……利知未は、あいつの事をどう思ってるんだ?」
少し、考えながら歩く。 暫くして、利知未が呟いた。
「……弟分って感じじゃ、無くなって来てる」
「そーか。 ……オレは、お前らは良いコンビだと思ってンぜ?」
倉真の想いが報われる日も、そう遠い事では無さそうだと、克己は思った。
里真は休みに入る前、短大の友人達に、発破を掛けられた。
三人の友人が集まって、恋人の話しに盛り上がっている中、どうも初心な様子を見せる里真に、突っ込んだ質問が出る。
「今の彼氏と、どれくらい付き合ってンの?」
「この夏で、丁度、一年くらいかな」
「なのに、彼氏は手を出さないって?! ちょっと、奥手過ぎよね」
「信じられないかも……」
「手を出すって…、そう云う言い方、しなくても……」
「アンタが色気、無さ過ぎなんじゃないの? 何時もどんな格好してくのよ?」
「…服装で、変わる物?」
「メイクも、覚えた方がイイね。 良し! 休み前に、里真の大改造しよう!」
「面白そう! じゃ、私お薦めの、ネイルアートのお店にも連れてこう!」
「ランジェリーも探さない? 結構、イイ店、知ってンのよ!」
「イイね、行こう! 早速、今日の帰りから、アッチコッチ連れてこ!」
本人をそっちのけで、友人達が盛り上がってしまった。
それでも、皆に言われるまでもなく、不満は持っていた。
宏治は優しくて、真面目だ。 自分を大切にしてくれている事も、良く解っている。 ここまでで、漸くキスを交わした程度の付き合いで、本当に恋人と言えるのか? 少し、不安も覚えていた。
七月の最終日曜日、里真は友人の見立てにより、胸元が開いたシャツに、何時も履くより、更に短めなミニスカート姿で、宏治とのデートへ向った。
メイクも軽くしてある。 宏治との、昼からの約束前に、友人が集まって作り上げてしまった。
利知未は今日も、バイトへ向う前、倉真とバイクを走らせていた。 里真の変身を目にする事もなく、夜、帰宅して双子から報告された。
「珍しいな。 今日は、里真が外泊マークか」
晩酌前にホワイトボードを見て、利知未が言った。
この日は双子も、勉強の息抜きついでにリビングへ集まっている。 美加のケーキ第二段を、紅茶を飲みながら賞味中だ。
美加も夏休みに入り、すっかり宵っ張りになってしまった。 入居当時まだ小学生だった美加も、今では高校生だ。 少しは、大人びてきていた。
「朝、利知未が出てったのと入れ違いに、里真の大学の友達が押しかけたんだ。 『折角の休日を、親友のために集まってやったんだから!』 とか言って、里真の事、色々と弄ってたよな?」
「イジってたって?」
「洋服や、髪型や、メイク? 結構、刺激的な感じにして」
「里真ちゃん、今日、デートだったんだって」
「……成る程」
ここまで聞いて、大体、話しは解った。 宏治の奥手さ加減は、容易に想像出来る所だ。
……自分の高校時代を考えて、大学生の里真が経験を求めるのも、当然かもしれないと思う。
「チョイ、楽しみだな」
「ナンだ! 思ったのと、違う反応じゃん!」
「ね! 目くじら立てて、怒り出すかと思った」
「当たり前の歳なんじゃネーか」
利知未の寛容な反応を見て、双子は顔を見合わせた。 そこから、話しが変わってしまった。
「利知未は、……何時だったんだ?」
「何が?」
「始めての経験」
いきなり質問を受けて、面食らってしまう。 美加も少しだけ興味を示した。 その様子を見て、利知未は誤魔化す事にした。
『双子はともかく、美加はアンマ、コーユー話しに参加させたくないな』
そう思う。 高校1年なら、話し位は構わない気もするが、純粋培養されて来た美加は、何と無く汚してはいけない気もする。
「忘れた」
酒を飲んで、無表情に言った。 双子が勝手に盛り上がり始める。
「忘れたって事は、やっぱり利知未も、チャンと経験があるって事?!」
「全然、そー言う所、見せないよな」
「いったい、何時のコトなんだろ?」
「ヤッパ、大学入ってからなのか?」
「利知未ちゃんは、好きな人が居るの?」
美加まで、口を出し始めてしまう。
風呂から上がって来た朝美が、水割りを持ってリビングへ現れた。
「盛り上がってるじゃん。 ナンの話し?」
「利知未の初体験って、何時? って話し」
「ナンだ、そんな事か。 多分、始めての恋人と付き合ってた頃には、ヤってたンじゃないの?」
「えーっっっ!? 利知未、恋人居た事あったの!?」
「秋絵、今更、何言ってンだよ? 無ければ大学入ってからだって、有得ないじゃん!」
樹絵が知った様な口を聞いた。 朝美のグラスへ、口を付けてしまった。 しかも、一息で行った。朝美が慌てる。
「ちょっと樹絵! あたしの水割り、飲んじゃったの!?」
朝美が話しながらグラスを置いて、美加のケーキを突ついていた隙に、飲んでしまったらしかった。
『倉真のコト、言ってやりたいーっ!』 と、樹絵は心の中で叫んでいる。
勢いに任せて、そちらへ話しを持って行ってしまおうか? と考える。
樹絵のニュースソースは、アダムのマスターだ。
この前、パフェとケーキとレスカを奢ってもらった時、利知未の昔をほんの少しだけ、マスターから聞いていた。
「アイツはアレで中々、昔から男に人気があったみたいだな」
と、ポロリと零していた。
「樹絵! ビールならともかく、水割りを一息に飲むヤツがあるか?!」
利知未が、騒ぎを一喝で収めてしまう。 樹絵の頭は、少しだけクラリとしている。
朝美も秋絵も美加も、一瞬だけ静まった。 朝美が気を取り直して、改めて騒ぎを収束させた。
双子と美加が自室へ引き取ってから、二人で飲み始めた。
「迫力だったじゃん」
「何が?」
「さっきの。 あたしも一瞬、止まっちゃったよ」
「昔取った杵柄って言うのか? 中学時代の喧嘩騒ぎ、思い出した」
「アンタ、有名だったらしいじゃない? 昔、良く玲子が言ってたよ。 それと、思い出したんだけど。 文化発表会の時、宏治君が言ってたコトと、あの時の応援団部員の態度?」
「…そんなコト、あったよな」
「あの時ね、あたしアンタ達が迎えに来る前に、団部の下の子に突っ込んで見たのよ。 そしたら、アンタの喧嘩上等伝説、教えてくれてたンだよね」
思い出して、朝美が笑い出す。
「随分、昔話だな」
「アレから、六年か。 …色々、あったみたいじゃん?」
「…そーだな」
明日は休みだと言う朝美と、昔話をしながら、深夜三時過ぎまで飲んでいた。
里真は、ホワイトボードへ書かれた通り、この夜は帰らなかった。
利知未達が、リビングで大騒ぎをかましていた頃。
宏治は下宿へ向けて、車を走らせていた。
今日の里真の雰囲気に、何を求められているのか? 何となくは感じていた。 それでも、まだ宏治は考える。
……彼女の事は、大切にしなければならない。
付き合い始めて、一年が経った。 里真が、そう言った経験が全く無いこと位は、宏治も気付いている。 初めてキスを交わしたときの、照れていた表情を思い出す。
「……このまま、送ってくれるの?」
下宿への進路を取る宏治に、里真が小さな声で問い掛ける。
「これ以上、遅くなったら拙いだろ?」
今日一日、何時もより短いスカートでの、所作を気にしていた里真を思う。
里真は、決心していた。 去年の七月、あのキャビンで想いが伝わってから、丁度一年。
……それなら、イイ記念日だ。
「車、止めてくれる?」
何気なく、笑顔を見せて頼んだ。 宏治は黙って、車を路肩へ寄せる。
「何か、忘れて来たか?」
「……おっきな、忘れ物があるの」
里真は、宏治の頬へ軽くキスをした。 そのまま、その唇を求める。
唇を離して、恥かしげに俯いた。
「……外泊マーク、付けてきちゃったの。 だから、…帰れないよ?」
そう、呟いた。 これ以上は、恥かしい気持ちが邪魔をする。
里真は微かに震えている。 その震えは、宏治の左肩に頭を預けた里真から、直接に伝わってくる。
「……分かったよ」
左手で、里真の頭へ優しく触れ、宏治は改めて車を出した。
翌朝八時を回る頃、宏治が里真を送って、下宿前に車を止めた。
キスを交わして、里真が助手席から降りる。
宏治の車を見送って、里真が玄関を入った時、冴史がリビングから現れる。
「お帰り。 昨夜はデート?」
赤くなって里真が頷いた。
「成る程ね。 …おめでとう」
そう言って、冴史は自室へ戻って行く。
おめでとうと言われて、里真は益々、赤くなってしまった。
キッチンでは、朝美と利知未が朝食の準備をしていた。
そっと脇を抜けて、階段を上がろうとする里真に気付き、二人はチラリと視線を合わせ、意味ありげにニヤリと笑った。
今夜、バッカスへ顔を出してやろうと、利知未は思った。
五
利知未は、今日も夜からバイトへ入る。 この夏休み中は、毎日そうだ。
瀬尾の代わりで短期バイトに入った青年は、これといって特徴の無い、強いていうなら、真面目なヤツだった。 仕事上での問題は、取り敢えずは無かった。
瀬尾の調子良さを楽しみに来ていた常連は、少し物足りない感じだ。
今日は珍しく、リクルートスーツ姿の瀬尾が、客として顔を出した。
「いらっしゃいませ。 ……始めて見たな、瀬尾のそーゆー格好」
「中々、様になってると思わねー?」
スーツの襟を指で弾いて、似合わない、ニヒルっぽい笑い方をする。 つい、利知未は吹き出してしまった。
「何だ? その反応」
「だって、瀬尾、変だ…!」
客の前でもあり、利知未は顔を背けて、ククク…と笑っている。
「貴方の方が、似合いそうね」
偶に来る女性客が、利知未を見てクスリと笑う。 慌てて女性客へ詫びた。
「失礼致しました」
男っぽい仕草だ。 どうしてもアダムの制服は、利知未のソッチの部分を引き出してしまう。
それ目当てで来る客も居るので、最近は夜専属バイトの近藤も、余り気にしなくなった。
以前はそう言う客に対して、利知未の性別を明かす事にしていた。 けれど、何か起こる事も無いだろうと、最近は考え直した。
マスターが厨房から出て来たので、利知未はホールへ回る。
瀬尾はマスターへ、就職活動の中間報告など始めた。
定時でバイトを終え、何時もよりも急いで後片付けを終え、利知未は少し早めにアダムを出た。 暫く振りに、バッカスへ寄って帰る事にした。
里真と、どうやら更に親密に成ったであろう宏治の顔を見て、からかってやろうと思っている。
今日、倉真がアダムへ来た時、バッカスで飲まないか? と誘っておいた。 偶然にも、和泉と準一まで揃ってしまった。
久し振りに賑やかなバッカスだ。 美由紀も、以前からの常連も揃っている。
「宏治、昨夜はどうした?」
酒を飲みながら、利知未が昔と変わらない、男っぽい態度で聞いた。
倉真も、利知未の隣で宏治の反応を見ている。 内容は勿論、知らない。
常連組の席で、摘みを横取りしながら飲んでいた準一が、微妙な雰囲気に振り返った。 和泉も、倉真の隣で何気なく視線を上げる。
「そんな事、ココで聞かれてもな」
何とも言えない表情で、宏治が呟く。 里真と同じ下宿の利知未に、上手い誤魔化しの言葉も、浮かばない。
常連組が、こちらの様子を見て、美由紀に聞いた。
「昨夜、何かあったの?」
「そんな、大層な事じゃないのよ。 宏治が、朝帰りしただけ」
美由紀は、拘りも無く返事をする。 準一が素早く反応して、カウンター席へ取って返して来た。
「何々? 宏治、ついと里真チャンと?!」
「そーなのか? 偉い時間、掛かったじゃネーか」
倉真も突っ込む。 ニヤニヤしている。
「俺は、てっきり、とっくの事かと思っていたけどな」
和泉の言葉に、今度はそちらへ視線が集まってしまった。
「あ、あー!! 和尚! 去年アメリカ行った時、やっちゃったんだ!?」
「ガキ、出来なかったのかよ?」
今度は和泉が、肴にされてしまった。
肴にされたついでの様に、和泉が驚きの告白をする。
「今の仕事、今月一杯で辞めるつもりだ」
「辞めて、どうすンだ?」
「北海道の、由香子の親父さんツテで紹介して貰った牧場で、一月、働いて見ようと思ってるンですよ」
利知未の質問に、和泉がサラリと答える。
「マジ!? ンじゃ、夏の間、遊びに行けないじゃん!」
「お前が、北海道まで遊びに来るか?」
「面白そーだな。 そーいや、樹絵ちゃん達、北海道出身なんだよね」
「由香子の幼馴染みだからな」
「樹絵ちゃん達は今年、里帰りとかすンのかな?」
「するつもりみたいだぞ」
「ンじゃ、便乗して行っても、楽しそうだな」
「お前、金あンのか?」
「倉真、貸してよ」
「バカ言うな。 俺にそんな余裕が、有る訳ネーだろーが」
「イーじゃん、夕飯、自炊すれば。 それとも、飯作ってくれる女の子、紹介しよーか?」
「だったら、その女の子から金借りればイインじゃネーか?」
つい、利知未が反応してしまう。 宏治がチラリと、倉真と利知未に視線を向けた。 その反応に、和泉が気付く。
『この二人は、やっぱり何か、関係が変わってきたのか』
そう思うが、敢えて突っ込むのは止めにした。
倉真は利知未の言葉に、少しだけ反応した。 嬉しい気持ちが、微かに口元を緩めてしまう。
「そーだな。 その方がイインじゃネーか?」
準一には、そう返しておいた。
利知未は少しだけ、チクリと痛みを覚える。
宏治達の自分に対する態度は、あくまで先輩や、目上の人物へ対する物と同じだ。 今まで何とも無かったその事に、倉真からの態度に……。
『……どうしたンだ?』
自分でも釈然としない。 けれど、その痛みは直ぐに消える。
「利知未さん、ドーかしたンスか?」
倉真の言葉で、我に返る。
「ン? どうか、してたか?」
「何となく、ボーっとしてたっすよ?」
「そーか? 疲れてンのかも知れネーな。 ……兎に角、和泉は将来自分がやりたいと思える仕事、本気で探る気に成ったんだよな」
「そう言う事ですね。 由香子と何処まで続くかは判りませんが、出来る限り続けてみたいと思ってます」
「それって、将来まで考えて、って、事だよね?」
「ソーなるな。 お前もイイ加減、本気になったらどうだ?」
「オレは、まだ今のままが丁度良いかンね。 そうそう、一生続けたいと思える仕事なんか、見つかンないし」
「女に合わせるってのも、一つの方法かもな」
宏治が、漸く話しに参加し直した。
「そーだな。 克己も結婚しちまったし。 俺達も、そう先の事でもネーのかも知れネーな」
「克己が、結婚したの!?」
準一が、また驚く。
「なんか、今日はびっくりだらけだ」
「ジュンは、知らなかったか」
「俺も、初耳です」
「おれはチョイ前に、克己が来た時に聞いていたな」
「克己が来たのかよ? 何時」
「先週の週末だよ。 お袋に挨拶して行った」
「ナンで、美由紀さんに?!」
「その内、奥さん連れて来るって言っていたな」
常連組の席で、話しを耳に入れていた美由紀が教えてくれた。
「克己君、奥さんが離婚経験者だって事で、結婚式とかどうすればイイのかって、電話をして来た事があったのよ」
「げ! サプライズ!! 美由紀さん、何時の間に克己からそんな相談を受けるようになってたんだ!?」
「色々なタイミングがあったのよ」
そう言って、常連組との会話に戻ってしまった。
その内に、相変わらずバッカスの常連を続けていた、ホステス達が来店した。 千恵美は今も、宏治にご執心だ。 とは言え、本気の事でも無いらしい。
久し振りに雁首揃えて飲んでいた利知未達に混ざり、賑やかに閉店時間まで、酒を飲んで行った。
店を出る時、倉真は美由紀から言われた。
「折角、目と鼻の先にいるんだから。 もっと豆に顔出してよ?」
「そーっスね。 ココで飲んだ方が、金かからネーし」
倉真は勿論、バッカスまで徒歩で来ていた。
利知未も今夜は、始めからバッカスへ回る予定だった。 バイトへも徒歩で向っていた。
珍しく歩きで来ていた利知未を、倉真は送って行く事にした。
「別に、平気だけどな」
「イイじゃないっスか。 タマには」
言いながら、タバコへ火を着ける。 そして、利知未の左側を歩く。
狭い道を行く時、車が通ると、倉真が利知未を庇う様に歩く。
『……そう言えば』
今までの事を、思い出した。
これまで二人、徒歩で道を行く時。 何となく何時も、一歩引いてその右側に倉真がついていたと思う。
隣を歩く、自分よりも背の高い倉真を、チラリと見上げてしまった。
「ドーかしたンスか?」
「……何でも無い」
視線を反らして、利知未が答えた。
「何時から、お前は、あたしよりデカく成ったんだ?」
「由香子ちゃんが初めて来た時は、もう抜かしていたと思うっすよ?」
「…そうだったよな。 けど、あの時より、また差が出来ちまった」
「口惜しい、とか?」
「ンな訳、ネーだろーが。 …一応、コンプレックスだ」
「そーだったんスか? 初耳っすよ」
小さく、倉真が笑っている。 その横顔を、また見つめてしまう。
視線を感じた倉真が、利知未を見る。 目が合って、また慌てて視線を反らしながら、利知未が言った。
「兄貴と、アンマ変わら無かったよな」
「チョイ驚いたっスね、あン時は。 俺も和泉以外で、久し振りに目が合ったンスよ。 和泉とは、二、三センチ違うか」
「克己と始めて会った頃は、お前とも二、三センチしか違わなかったよな」
「そーだったか…? けど、あン時は既に、追い抜いていたって事だ」
倉真が自分自身に呟いた言葉は、何時もの、敬語崩れの言葉とは違う。
耳に入った響きで、利知未は何かに気付く。
『……倉真とは、同じ目線で話しがしたいな』
そう、言葉にして思った。
「お前等の敬語って、変だよな」
「そーっスね。 これが、身に付いちまってンからな。 仕事で客と話しする時、つい、癖が出ちまうンす。 中には、それで怒り出す奴もいっからな。 ホントは直した方が、イイのかも知れネーっすよね」
余り拘ってはいない様子で、笑っていた。
下宿の近くまで来ていた。 狭い道を、また車が通り抜ける。 倉真は利知未の肩を軽く押す様にして、道の隅へと追う。
庇われて、ドキリとしてしまう。 何でも無い行動の筈なのに、変に意識してしまった。
『……何時から、倉真は』 あたしを、普通の女を扱う様に、庇ってくれ始めたんだろう……?
下宿の前に着いて、倉真が言った。
「ンじゃ、またその内、どっか走らせに行きますか」
「そーだな。 お前、明日も仕事だろ? 遅くなっちまったけど、大丈夫なのか?」
「帰ったら寝るだけっすから。 …ンじゃ、失礼します」
「気をつけて帰れよ?」
利知未の声に、軽く片手を上げて答え、倉真が道を曲がって行った。
八月へ入り、和泉は予定通り北海道へと向った。 一ヶ月、住み込みで働いて見る事になっている。
今回も、暇を持て余した準一が、宏治を連れて見送りへ現れた。
「オレ、樹絵ちゃん達に便乗して、北海道、行ってみる事にした」
「金、どうしたンだ?」
「行くまで、日給がイイ所で働くよ。 夜勤だと、一晩で一万二千円は稼げるかんね」
「そうなのか? おれも、どっかでヤるか?」
「宏治は、店があるから無理だろ」
「冗談だよ」
相変わらず真面目な反応を見せる和泉に、宏治が笑う。
「夏休み中は、里真ちゃんとデートだらけだよな、宏治。 今日は、無理矢理連れて来たけど」
「お蔭で、里真から電話で怒られたよ」
「尻に敷かれそうだな」
「敷かれそう、じゃなくて、敷かれてるよ」
「結構、デカイ尻だったりして?!」
「お前が言うな」
また、宏治から小突かれてしまった。 和泉は笑っていた。
下宿では、双子が里帰りした時の、相談をしていた。
「ジュンが車の免許、持ってればな」
「だよね。 わたし達は勉強も忙しいし、誕生日も一月だし」
「ア! 兄貴に頼もうか?!」
「そうするしか、無いかも。 それか、お姉ちゃん」
「一応、お盆休みに合わせて行くから、平気だよな?」
「そーだとは思うけど」
「じゃ、直ぐ連絡しておこう!」
言いながら、電話を持ってソファへ座る。
「平日だから、まだ居ないんじゃない?」
「母さんに、言っといて貰おう」
樹絵がさっさと、実家の番号をプッシュした。
夏休みに入ってから、利知未は日曜のバイト前、倉真とバイクを走らせる日が増えていた。
その代わり、平日の昼間は部屋へ篭り、勉強に集中している。
夕飯の仕度も、里沙が居ない日は、殆ど利知未の仕事と化していた。
毎朝、九時前には起き出して、勉強をする。
『大学受験の頃、思い出すよな……』 そう感じて、溜息を付いたりしている。
里沙がいない日は、午後二時頃に買い物へ出掛ける。 朝美の休日だ。 良く二人で出掛けていた。
夕飯の準備は、四時半頃から始め、六時には整え終わる。
「あんたが居てくれて、マジ、助かる」
「学校ある時は、どうなってンだ?」
「美加が良く、手伝ってくれてンのよ」
「……成る程」
「美加の方が、あたしよりも料理の才能、ありそうだよ?」
「ケーキ作りに嵌まるくらいだ。 そーなんだろうな」
夏休み中は、里沙の居ない日も、店子達は安心して食卓へ着く。 利知未は里沙並か、もしかして、それ以上に料理が上手いかもしれない。
六時に食事を始め、四十五分にはバイトへ向う。 足は基本的にバイクだ。 偶にバッカスで、たっぷり飲んで来ようと言う日は、三十分頃に下宿を出て、徒歩で向う。
倉真はあれ以来、またバッカスへも現れるようになっていた。
利知未が徒歩で来ている時は、必ず送ってくれた。 照れ臭いとは思うが、同時に嬉しいとも感じていた。
十三日になり、双子は準一と連れ立って、里帰りをした。
「観光案内は、ヨロシク」
「任せろよ?! 秋絵と色々、相談して来たよ」
「車は日代りで、お兄ちゃんとお姉ちゃんが出してくれるって言うし」
「やった! 金、掛からなくて済みそーだ!」
「ジュンが金、無い事くらい分かってるもんね。 そンで、和尚が居る牧場にも、遊びに行こう!」
準一が居る事で、道中も楽しかった。 特に樹絵は、何時も以上に明るく、弾んでいた。
秋絵はそんな樹絵を見て、偶には寂しさも覚えた。
和泉は日々、真面目に一生懸命、働いていた。 文句を言う事も無く、力も体力も、かなりある。 紹介された牧場主は大喜びだ。
「夏だけじゃなくて、ココで働いて見ないか?」
お盆頃には牧場主から、そんな誘いを受けた。
「考えて見ます」
和泉は一応、そう答えておいた。
それでも、実家へ父母のみ残して家を出る事は、やはり考えられない事でもある。 今はまだ元気でいてくれるが、和泉も後一日で二十歳に成る。
勿論、両親だって歳を取る。 真澄が亡くなり、一人息子と同じ和泉は、将来、両親の面倒も見なければ成らない。
和泉の誕生日、十五日に、準一と双子が遊びに来た。
今夜、この牧場の一部屋を借り、一泊して行く予定だ。 双子たちの姉と、和泉も始めて対面した。 準一は早速、打ち解けていた。
夜、双子たちが用意して来たケーキを前に、バースデーパーティーを和泉の借りている部屋でやった。
「誕生日、おめでとう!」
クラッカーまで、用意して来ていた。 音が弾けて、同じ牧場で働いている仲間も、釣られる様にして集まった。
和泉の二十歳のバースデーは、中々、賑やかだった。
お盆を過ぎ、翌週には、瀬尾がバイトへ復活した。
「思ったより、早かったな」
「営業の仕事、オレの調子口調で内定決まったよ」
「おめでとう、でイイのか?」
「一応、それでイイのか。 取り敢えず、安定している会社だしな。 入社前に倒産ってのは、無さそうだよ?」
「そりゃ、良かったな。 …早速で悪いけど、来週の日曜、休んでイイか?」
「いいよ。 おれは休んでいた分、金稼がなきゃ成らないしね」
「サンキュ。 …ッテ事で、マスター、来週、休めますよね?」
「瀬尾が戻ったんだ。 人数は足りてる」
「休みって事で、宜しくお願いします」
利知未は夏休みが終わる前に、倉真と少し遠くまでツーリングへ出掛ける予定だった。 瀬尾の復活が何時になるか解らなかったので、保留中だ。
その日、帰宅して直ぐ、連絡をいれた。
「前、兄貴の所へ行った時に、保留にしていたトコ、行かないか?」
「イイっスね。 もー一回、調べときます」
そして、八月の最終日曜日に、倉真と二人でツーリングへ出掛けた。
六
月末には、全国模試が待っている。 双子は、お盆休みの里帰りから戻ると、サボってしまった分の勉強を、急ピッチで進めた。
そう言った事情で、平日の昼間、利知未の部屋へ入り浸る樹絵の姿が最近、良く見られる。
「そんな、レベルが追い付かない様な所は、狙う気も無いンだけどな」
「それでも、模試はキッチリ成績残しておかないと、目処がつかないモンね」
珍しく、秋絵も一緒に利知未の部屋へやって来た日。 双子が手を止めて、話を始めた。
「呑気にしてる暇、アンのか? 手が止まってンぞ」
自分のノートから目を上げずに、利知未が双子へ発破を掛ける。
「ありませーン!」
「頑張らないとな」
直ぐに双子も、自分の勉強を再開した。
里真は時々、ボーっとする瞬間が増え始めた。
宏治との初体験から、この夏。 何度かは関係を深めてきた。 化粧も、薄くする癖がついた。 徐々に女性らしい雰囲気が、現れ始めている。
自分の関係が落ち着いてくると、身近な友人や店子達の事にも、興味が沸き始めた。 利知未にも、聞いて見たい事が出来た。
『玲子が、そー言う風に成った時、利知未ってば全然、余裕酌酌って感じだったよね。 ライバルが、そうなった事、口惜しいとか思わ無かったンだ』
……それとも、何時かは誤魔化されてしまったけれど、利知未はアレで、意外と早くから男女の関係にも、経験や知識が深かったのかもしれない……。
『利知未って、何時頃だったんだろう……?』
一番そう言った事柄から、遠くに居る印象の利知未が、本当はどんなだったのかは、やはり興味があった。 けれど、聞いてみる勇気は無い。
『もしも、本当にそうだったら。 ……私、また自信喪失しちゃうかも?』
結局、聞いて見たい事はそのまま、里真の胸の奥へと仕舞い込まれた。
夏休み中も、佳奈美の家庭教師は勿論、続けた。 既にこれも一つのバイトだ。 利知未は最近、考えている。
二学期はアダムのバイトを続けながら、自分の勉強を頑張って、どうも無理そうなら、そちらのバイトは辞めなければ成らないかもしれない。
その後、佳奈美の家庭教師だけの収入では、やはりキツイだろう。
『ジュンに、日雇いでも紹介して貰うか?』
毎日でなければ、自分の都合に合わせ、月々必要な分だけは稼げるかもしれない。
今まで貯めて来た金も在るが、それを崩すだけでは、後3年以上も残る大学生活の間、持つ訳が無い。
『先ずは、年末までは、様子見だな』
頭の痛い問題だった。 学費と下宿の部屋代以外を親に頼るのは、絶対に避けたいと思っていた。
八月最終週の日曜・二十五日。 約束通り、倉真と二人でツーリングへ出掛けた。
「何時か、伊豆の方まで言ったじゃないっスか? 今日は、あのもうチョイ先まで、行って見ないっスか?」
倉真に言われ、最近は山方面が多かった事を考え、今日は、海岸線沿いを走らせて行く事にした。
四年半も前、和泉と準一をタンデムシートへ乗せ、克己も一緒に出掛けた、初詣ツーリングの道を辿って行った。
途中の休憩で、あの時の話しが出た。
「アレは、冬だったからな。 風がキツかった」
「今回は、そーゆー意味で、まだ楽な感じっスね」
「今日は、何処まで行く?」
「先端の石廊崎灯台辺りまで、走らせよーかと」
「そうスッと、まだ半分も来てないな」
「ほぼ、中間点っスけど。 …呑気に走らせましょ」
咥えタバコのまま、倉真が笑顔を見せる。
利知未は今日、ジャケットの下に、朝美から貰ったTシャツを着て来た。
バイト前以外で、倉真と二人で出掛ける時。 無意識にでも、それなりの物へ手が伸びる。 その行動は、自分の記憶の中で、敬太と付き合っていた頃以来、覚えが無かった。
『倉真はもう、あたしにとっての、特別な存在になっている』
けれど、その思いに気付かれたくないとも、思っている。
『……倉真にとってのあたしが、どう言う相手なのかは。 多分、何時までも初対面の頃のまま、構えられているままだろうとも、思うし……』
変に意識して、今の近しい関係まで壊れるのは、…怖いと思う。
バイクを降りて、ジャケットを着ているのは暑い時期だ。 夏仕様の上着でも、それは変わらない。
休憩中、それでも日焼けを気にしてジャケットの前を明け、引っ掛けているだけの利知未の胸元へ、倉真はつい視線が向いてしまう。
……無さそうで、それでも、それなりに膨らみがあるのを確認してしまう。
『利知未さん、細いからな……。 意外と、胸その物は、あるのかもしれない』
そんな感想を持ってしまい、慌てて視線を反らす。
元々持っている、旺盛な精力が反応してしまう。 夏の所為だと、無理矢理理由をこじつけて見たりもした。
風が吹いて、利知未の身体から感じる匂いが、倉真の鼻をくすぐる。
近くに居ると、妙な感覚に捕われてしまいそうになり、倉真は手洗い所へ逃げた。 待っている間、利知未はのんびりと、煙草の煙を燻らせていた。
目的地へ到着して、少し遅い昼食を取る。 伊豆だ。 当然、海鮮が美味い。
何時もよりも、金額を張ってしまった。
灯台の展望へ上がれたので、折角だと思い登って見る事にした。
狭い階段を登り表へ出ると、家族連れやカップルが景色を眺めている。 意外と混み合っていた。
「結構、人出があるんだな」
「そうっすね」
人より頭一つ分も、二つ分も上へ出る二人だ。 敢えて前に詰め様とはせず、人垣の後ろから景色を眺めた。 狭い展望台で人も多く、自然と二人の肩が、触れ合ってしまう。
『……倉真、結構、肩も厚いんだな』
『利知未さん、ヤッパ女だよな。 ……スッゲー、華奢な感じがする』
触れ合う肩の厚みの差を、お互いに意識してしまう。
何となく横目で視線が合ってしまった。 恥かしくなって、前を向き直す。
展望への出入り口の、隣辺りに居た。 また人が上がって来た。 利知未とぶつかりそうに成るのを見て、倉真がその肩を、自分の方へと引き寄せる。
肩を抱かれる様な形になり、利知未はドキリとする。
人が二人の前を抜けるまで、倉真の手はそのまま、利知未の肩へと止まる。
その手の大きさを感じて、利知未はまた、倉真への意識が深まって行く。
「……すンません、ブツカリそうだったんで」
「…イイよ。 …サンキュ」
短い言葉を交わして、倉真の手が、利知未の肩から離れた。
背後の壁へ背中を預け、景色を眺めた。
暫くして、漸く入れ替わった人達の隙を縫って、前面の策へ寄って行く。
……風が、利知未の匂いを、再び運んで来た。
展望台から降りてから、二人の間に微妙な雰囲気が生まれていた。
お互いに照れ臭く成り、会話も少なくなってしまう。
そのまま海岸へ降り、岩場に溜まった海水に住まう、小さな生物達を観察して見た。 イソギンチャクが、微妙な動きで小魚を誘っていた。
「…あ! 食った!」
いきなり、利知未が子供に戻った様な声を上げる。 倉真は少し驚いて、屈み込んでいる利知未の後ろから、腰を折る様にして視線の先を見た。
「イソギンチャクの食事風景、見ちまった」
軽く振り返る様にして、倉真の顔を見上げる。
去年の夏、映画館で見た利知未の表情が、その顔に張り付いていた。
倉真は、小さく吹き出してしまう。
『……ナンか、ガキみてーで、可愛いな』 そう思う。 笑われて、利知未が一瞬軽く脹れた。
それも始めて見た様な気がして、倉真は嬉しく思う。
利知未が、まだ笑っている倉真に釣られて、小さく吹き出してしまった。
「小学生みてーだよな」
自分で言って笑い出す。 何時もより、その表情の出方が、また女っぽかった。
利知未が立ち上がり、二人で呑気に、岩場を散策し始めた。
今度は倉真が、岩にへばり付いている貝を突つき始める。 沢蟹を捕まえ、その大きな手の上で歩かせる。
興味深そうに覗き込んだ利知未の手を取り、掌を上に向けて、蟹を利知未の手の上へ移動させた。
「くすぐったい…!」
手の上を歩く微妙な感触に、利知未がクスクスと笑った。 その表情を倉真は、つい見つめてしまう。 倉真も、微笑していた。
「あ、落ちた!」
利知未の手から、蟹が落っこちて、宙返りをするみたいに落下する。
着地を失敗した様子を見て、倉真が言った。
「残念、判定に響きそうです」
「6.7、くらいか?」
「そんなモンじゃないっスか?」
利知未もふざけて、点数をつける。 二人でバカみたいだと、笑い出した。
その光景はまるで、仲の良いカップルの様だった。
一時間ほどもそうして遊び、そろそろ帰ろうかと利知未が言う。
『本当はもう少し、このまま二人で、遊んで居たいけどな……』
気持ちは、そう言っている。 倉真も、同じ様に感じている。
「のんびり行って、途中で夕飯、食ってきますか?」
「そうだな。 そうしよう」
休憩を、途中で二回も取って、ゆっくりと神奈川へ向かった。
二度目の休憩で、夕飯を済ませた。
二人が帰宅したのは、夏の長い日もとっくに暮れた、九時過ぎだった。
シャッターを閉めたバッカスの前で、挨拶を交わす。
「明日も、仕事だよな。 疲れてないか?」
「平気っすよ。 まだ、遊び足りないくらいだ」
「…そーか。 無理、すんなよ?」
「利知未さんこそ、勉強し過ぎてノイローゼになったりしないで下さいよ?」
「ノイローゼになる前に、またツーリングへ誘うよ」
「そうっすね。 休みは何時でも、空けとくっすよ」
「…潮風でベタベタだよ。 さっさと風呂入って、さっぱりするかな」
「……ンじゃ、またアダムで」
「ああ。 …またな」
何となく解れ辛くて、つい、長めに会話をした。
二人の心の中で、また、お互いが閉める割合が、深まった一日になった。
八月一杯まで、和泉は牧場で働いた。
働きながら、講習と試験を受ける事で資格取得が出来る、家畜人工授精師と言うものがある事を、教えて貰った。
「都道府県でやってるから、調べて見れば良い」
そう言われ、県の畜産課へ問い合せて見ようと考えた。
九月一日・日曜。 和泉が戻った知らせを受けて、準一が早速、自宅へ押し掛けてきた。
「これから、どうすんだ? 仕事、辞めたんだよね」
「そうだな、生活費は稼がなきゃならないから、またどっかの工場へでも、働きに行くか」
「行って、どうすんの」
「働きながら、講習を受けて資格を取る。 そこから先は、またその時に考えるつもりだよ」
「どっち道、コッチじゃ働き口、無いかんね。 牧場関係とか」
「…そこが、問題だ」
「家、出ちゃえばイイじゃん」
「両親の面倒も、将来的には見ないとならないからな。 悩み所だよ」
「一家揃って、引っ越しちゃえば?」
「簡単に言うな。 父親だって、まだ定年まで十年以上はある」
「定年になったら、呼び寄せるとか」
「……呼び寄せて、素直に来てくれるかどうか。 どの道、もう少し先の話には、なってしまうな」
どうしても、家族の事が問題だ。 やれるだけの事はやって見て、また追々、様子を見ながら、先の事を決める様に成るだろうと思った。
和泉が戻ったと聞いて、利知未達は、再びバッカスへ集まった。
仲間の前では、以前と変わらない雰囲気を見せる利知未を見て、宏治は、倉真との関係が、どうなっているのかと考えた。
二人はまだ、気の合うバイク仲間と言うだけの、状態に見える。
倉真は、自分と二人の時にだけ、時々見える、利知未の本来の姿を誰にも言うつもりは無かった。
『自ら、ライバル増やすような事は、しネー方が得策だよな』
そう思っていた。 自分自身、成るべく今までと変わらない付き合いを貫き通そうと考える。
……それでも、彼女を女として、自分よりも弱い者として、守って行く姿勢だけは、隠さない事にした。
「で、和尚はこれから、どうするんだ?」
「派遣で、短期で働きながら、年に二、三回は夏に世話に成った牧場へ、働きに行こうかと思ってます」
「で、家畜ナンたらの、資格も取るんだよね」
宏治が言って、和泉が頷いた。
「両親の事もあるしな。 取り敢えず進められるだけ、進めて見ようとは思っているよ」
「ま、のんびり行けば、イインじゃネーか?」
「焦る事も、ないっスよね」
「取り敢えず、和尚が無事に戻って来た事へ、乾杯」
利知未が軽く、グラスを掲げた。 仲間がグラスを合わせて、音頭に従った。
「…どーも」
和泉が、少し恐縮した表情で呟いた。
利知未の大学も、来週から始まる。 また、勉強と家庭教師に、追い捲られる日々が待っている。
新学期から、利知未はマスターに相談して、シフトをまた少し減らした。
「瀬尾が戻ったし。 あたしも勉強が、マジ、キツク成ってきた」
「仕方が無いな。 バイトの所為で、単位落とされても問題だ」
「金・土・日と祝日。 夜だけで頼みます」
「分かった。 ……物は相談ナンだが、佳奈美の家庭教師を後、月二回、増やせないか?」
「それ位なら、ナンとかなると思うぜ」
「バイトとして、月二万でどうだ?」
「返って、有り難いな。 …了解。 何時行けばイイ?」
「各週で、火曜か水曜が好都合だ」
「ンじゃ、今月からな」
「頼む」
夏休み最後の、バイト後の話しだった。
里真の短大も、同じタイミングで新学期が始まる。
夏休み最後の日曜、里真はデートへ出掛け、夜中に成って戻る。
『明日から、学校かぁ…。 ツマン無い。 宏治と、もう少し居たかったな』
ベッドへ転がり、今日のデートを思い出す。
里真は、夏休みを経て、本当の意味で覚え始めてしまった。
『……でも。 …やっぱり、恥かしいかも』
思い出すだけで、ボウッとしてしまう。
『……寝よ』
頭から夏掛けを被り、布団の中へ潜り込んだ。
冴史は、編集者へ見せた作品が、物になりそうな気配だった。
「短編だけど、来月の本には、載せられそうだよ」
嬉しい報告を受け、指摘された部分の直しに、徹夜となる。
『私も、明日から学校だけど……』
それでも、どちらが重要かと言えば、勿論コッチだ。
『まぁ、イイや。 …今夜中に、直し入れちゃおう』
決心して、原稿用紙へ向った。
双子は、全国模試の結果を受け、微妙に焦り始めた。
「第一志望が、五十%で、第二志望が六十%未満って、ドーすればイインだ?」
「ランク、落とす?」
「担任がなぁ…。 我校のレベルから言って、余り低い所へは送り出したくないって、昨日言われたばっかりだ」
「わたしは、樹絵よりも、もう少し大丈夫そうだけどね」
「うー、……利知未に頼るか」
「利知未も、今年入ってから大変そうだよ」
「けど、ショーがネーじゃん!」
「…ま、そうなんだけど」
溜息を付いて、悩んでいても始まらないと思い直して、トットと就寝してしまう。
今学期一杯、利知未の帰宅後、また見てもらおうと思った。
美加は夏休み中、里沙直伝のケーキを、九種類も作った。
その度に、朝美は晩酌ついでに相伴している。
「随分、腕上がったよね」
「美加のケーキか? あたしは、アンマ食えないからな」
「誕生日が、楽しみに成って来たよ」
「そりゃ、良かった」
「あんたからのプレゼント返しも、期待してンから」
「……あたしの周りには、誕生日プレゼントをねだる奴が多過ぎだ」
透子を思い出した。 今年も既に、プレゼント返しの希望を聞かされた。
「友達が多くて、イイ事だ」
「言ってろ」
二人で晩酌をしていた。 この時間は、利知未にとっても楽しい時間だ。
九月九日。 朝美の再入居から、丸々一年の月日が、経った夜だった。
利知未シリーズ大学編 第五章 了(次回は1月11日 22時頃更新予定です)
明けましておめでとうございます。 <(__)>
ならびに、大学編・五章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
次回、六章 同じ目線で…… では。 利知未と倉真の関係が、また変化していく出来事が待っております。
更に、下宿の双子の片割れ・樹絵と準一二人の関係。 樹絵の、準一に対する気持ちの流れ、等など……。
来週も予告時間までにはアップできますよう、編集、頑張っております。 これからも宜しくお願いいたします。
また皆様と、此処でお会い出来ますように……。