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四章  冬 桜 《秋の花見》

利知未と倉真の結婚までの話し、大学編の三章です。 90年代中頃に差し掛かる時期が、時代背景となっております。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、関係ございません)この作品は、未成年のヤンチャ行動、飲酒運転などを推奨するものではありません。


 夏のキャビンでの出来事から、利知未は倉真の事を今までよりも気にし始めた。けれど、まだアダム・マスターへ対する思いは、浄化してはいない。 今までの関係を思い、色々と悩み始める。

 倉真は、まだ利知未の事を支えられる程の男にはなれていないからと、自分自身を見極めてしまっている。 その思いから、自分の本当の気持ちを伝える事はせずに、押さえ込んでいる。 それでも今までよりは、素直な思いで利知未へ接し始めた。 

 夏休みを追え、二人の関係が少しずつ、変わって行こうとしていた。

   四章  冬 桜 《秋の花見》        


           一


 新学期の始まる直前。 まだ、里真と冴吏の模試結果が、出る前の事だ。

 夏休みの最終日、片付かない宿題に取り組みながら、樹絵がぶつぶつ文句を言っている。

「どーせ、一日 行ったら、また日曜ナンだから。 二日まで休みにしてくれればイイのに!」

利知未の部屋へ、里真と二人で押し掛けていた。

「二日くらい増えたって、樹絵の宿題は、終わらなそうよね」

樹絵の言葉に返しながら、里真は新聞の模試解答欄と睨めっこだ。


 里真は流石に、宿題を残している訳ではなかった。 二日前に終わらせた、全国模試の見直し勉強の真最中だ。 苦手な数学の答え合わせに、四苦八苦している。


「二人共グダグダ言ってないで、手を動かせ、手を」

 利知未は呑気に、定期購読しているバイク雑誌を眺めていた。

「利知未は、もうレポートとか、終わってンのかよ?」

「当然だ。 ただでさえ忙しいからな。 溜めるのは御法度ナンだよ」

「でも、大学はそんなに、夏休みの宿題とか無いのよね。 私も来年はのんびりしていられるのかしら?」

「どうかな。 お前の志望、短大だったよな? 短大は忙しいと思うぜ」

「そーなのかな? …今から四年制へ志望、変えちゃおうかしら」

「ソー言う理由で進路変えたら、後悔するだけだぞ。 おら、見直しトットと終わらせな」

一瞬だけ雑誌から目を上げて、里真に発破を掛けてやった。


 この八月中に折りを見て、美加には朝美の事を、利知未から話して聞かせていた。

 里沙が結婚した後、夜、困った事が起きた時に相談する相手だ。 その為に学生限定の下宿へ、社会人のお姉さんが入居してくれる、そう言う事だ。

 里沙からも一度、話を聞いていた。 その理由に関しては、すんなりと受け入れた。 美加が気になっていたのは、朝美がどんな感じのお姉さんなのか、と言う事の方だ。

 今ではすっかり利知未に懐いた美加だが、入居当時は利知未を怖がって、かなりのストレスを感じていた子だ。 里沙も他の店子達も、そちらの方が気懸かりだった。


 その事に関しては、利知未が色々な思い出話しを語った。 朝美との思い出は、店子の中でも一番多い。 ネタも豊富だ。

 玲子と自分の喧嘩を、何時も朝美が調停していた事や、一緒に買い物へ出掛けた事。 利知未が困った時、助けてもらった事。


 それらの話しを聞いて、美加の朝美に対する不安は、いくらか和らいだ。

「利知未ちゃんと、一番、仲良しだったのね。 だったら美加とも、仲良くしてもらえるかな?」

「絶対、平気だと思うけどな。 朝美なら」

不安そうな美加に利知未が言って、太鼓判を押してやったのだった。



 九月に入り一週目の日曜・二日。 利知未は朝からバイトへ入った。

 朝美が再入居してくるのは、来週の日曜だ。 その日は引っ越しの手伝いがある。 瀬尾と休みを交代して貰った。


 佳奈美がカウンター席に腰掛けて、オレンジジュースを飲んでいる。

「昨日ね、久し振りに皆と会ったでしょ?」

「ああ、新学期だモンな」

「びっくりしちゃった。 仲の良かった子が、髪の毛の色変えて、すっごい変な口きくようになっちゃってたンだ」

佳奈美の話しに、利知未は少し目を丸くする。

「でね、夏休みの前迄は、そんな事無かったんだけど、自分のお父さんの事を、クソオヤジ、とか言ってンの。 前は、お父さん大好きだって言ってたンだよ? ……美奈子ちゃん、なんかあったのかな?」

頬杖をついて、視線を天井へと彷徨わせている。

 利知未は、隣でグラスを拭いているマスターへ、チラリと意味ありげな視線を投げて見た。 マスターは少し心配そうな顔で、肩を竦めて見せる。

「佳奈美。 それはな、反抗期ってヤツだよ」

マスターにも良く聞こえる様に、『反抗期』の言葉に少し力を入れて見る。 マスターが益々、焦った様な顔をする。 利知未はニヤリと笑ってしまった。

「反抗期? ソーなのかな。 ……でもね、私は学校の友達みたいに、お父さんのこと、イヤになったりしないんだよね。 何でだろ?」

利知未は横目でマスターをチラリと見る。 明らかにホッとした顔をしている。 チ、と、軽く舌を鳴らしてしまった。

 利知未の反応に小さく首を傾げる佳奈美へ、誤魔化す様に笑顔を見せた。

 マスターは利知未の反応に対して、不敵な笑顔を浮かべていた。


 佳奈美は忙しい時間が来る前に、大人しく帰って行った。

 それからマスターが、嬉しげな顔で言い出す。

「どうやら、家の佳奈美には、反抗期が来ないみたいだな」

「今の内ですよ、今の内。 その内、お父さんの下着と一緒に私の服を洗わないでって、言い出しますから」

負け惜しみチックな利知未の言葉に、少し不安そうな表情になる。

「やっぱり、そう言う時期が来ると思うか…?」

心底、恐れているようだ。 利知未は、ふっと優しげな顔を見せた。

「そんなに、気になりますか?」

「そりゃ、そうだ。 家は、事情が少し違うからな。 ……正直、佳奈美がそうなった時、どう言う心境に置かれるやら。 不安はあるぞ?」

マスターの言葉は、利知未の心に少し響いた。


 それでも彼に対する心には、一つの変化が訪れていた。

『……どうしたんだろう?』  前みたいに、心がチクチクしてこない。

『やっと、少しは落ち着いたのかな……?』 そう感じる。 自分の心に、戸惑いを覚えた。



 まだこの週は、夏休みの内だ。 瀬尾とは、相変わらず交代で店へ出ていた。

 火曜日。 夜のアダムへ、いつも通り夕飯を食いに来た倉真と、顔を合わせる。

「そー言や、お前は年中反抗期だったよな」

利知未が、佳奈美の事を思い出して、呟く様に言い掛ける。

「ナンの事っすか?」

ディナーディッシュの皿から顔を上げ、倉真が聞く。

「ナンでもない。 …大体、男と女じゃ、反抗期の種類が違いそうだ」

「反抗期、ね。 俺は、ただ親父に負けたくないって、思ってただけだしな」

再び、飯を食う。 ガツガツと平らげる様子を見て、兄・優を思い出す。

「お前、アダムの定休日は、どうしてるんだ?」

何気なく聞いた利知未の様子は、少し女らしかった。

「弁当が多いな」

自分で料理をする事があるのは、言い難い感じだ。

 マスターが横から口を出した。 二人の会話に、倉真は敢えて知らない振りを決め込んだ。

「お前、作りに行ってヤレば良いじゃないか」

「木曜は、佳奈美の家庭教師、行ってるじゃないですか」

「毎週って訳でもないだろう? 月に一度位は、家庭の味と言うのも食って見たい所じゃないか?」

マスターにそう振られ、倉真は思う。

『マスターが言うって事は、やっぱ利知未さん、料理得意なのか……?』

そうなら、嬉しいかもしれない。 ポツリと呟いた。

「そー思う事も、あるって言や、あるけどな」

「だ、そうだぞ」

マスターから微かに笑い掛けられた。 利知未は小さく首を竦めて見せた。



 九日・日曜日は、晴天に恵まれた。 残暑厳しい頃だ。

 朝美が同乗した引っ越しトラックが、下宿前の細い道を抜けてくる。

 自室で寛いでいた利知未は、トラックのエンジン音を聞き、急いで部屋を出る。 けれど店子達の前では照れ臭くて、ポーカーフェイスを貫いた。


 少ない荷物を、引っ越し業者が運び込んでくる。 階段を降り、道を譲りながら、まだ外にいる朝美に近付いて行く。

「利知未! 久し振り!!」

朝美が気配に振り向き、笑顔で利知未に抱きついた。

「久し振りだな。 元気ソーじゃネーか?!」

女同士でも照れ臭い感じだ。 それでも、相変わらず元気な朝美を見て、利知未は嬉しく思う。 朝美が直ぐに離れて、繁々と利知未を観察した。

「また随分、上に伸びたモンだね。 今、何センチあるの?」

「身長か? 174センチで一応、止まったみたいだ。 朝美がスッゲー小さく感じるよ」

「十六センチは、違うんだ。 智紀と話してるみたいね」

「朝美の弟か。 …弟とは、相変わらず仲が良さそうだな」

「なーに言ってるのよ? 今じゃ、お義母さんとも上手くヤってんだから。 あたしが今の仕事を始めた時、お義母さんが一番、喜んでたよ」


 朝美から昔、家庭の事情を聞いていた。 利知未は、その変化を嬉しく思う。


「良かったな。 …ココにいた事、良い方へ行ったんだな」

「ね。 里沙には感謝してるわよ。 だから今回の事は、あたしから里沙への恩返しって、トコだね」

 いくらでも、話しは出て来る。 引っ越し業者から声を掛けられ、朝美は荷物の運び込みに参加する。 利知未も手伝い始めた。



 荷物を運び込み、開梱作業が残る。 その前に下宿の住人が、リビングへ勢揃いした。 里沙が朝美を皆に紹介する。

 玲子と冴史は、利知未と同じ様に、朝美と抱き合って再会を喜んだ。

「手伝いは、何人必要?」

里沙が朝美に聞いた。

「そんなに荷物も無いから。 二人も手伝ってくれれば、直ぐだと思うけど」

「良いわよ? 今日はバイトも休んだし。 私も勿論、手伝うわ」

「私も。 チャッチャと、終わらせちゃおうよ」

「当然、利知未も手伝うんでしょう?」

里沙に笑顔で言われる。 利知未は当然の顔をして、リビングを先に出て行く。 軽く振り向いて、朝美達に声を掛けた。

「トットと、始めようぜ」

先を行く利知未を眺めて、玲子と冴史、朝美と里沙は顔を見合わせ、笑みを見せる。 どうやら利知未が一番、嬉しいらしい。

「ソー言えば、冴史。 惜しい所まで行ったんだって!?」

後を追って階段を上がりながら、朝美が冴史に問い掛ける。

「その事は、また後で。 それより、玲子に彼氏が出来たよ」

「本当に? そりゃ、驚きだわ」

「ドー言う意味よ? 利知未さえイイ人いるのに、私に出来ない訳、無いでしょう?」

「相変わらず、毒吐くねェ。 …利知未は、昔から居たじゃない?」

「そうだった? 私は、知らなかった」

朝美の言葉に、冴史が驚く。 利知未が、朝美の部屋から顔を覗かせて言った。

「なに、人の居ネーとこで勝手な事、言ってんだよ? 早く終わらせようぜ」

 中一当時に戻った様な利知未の様子を見て、三人は再び顔を見合わせた。


 開梱作業をしながら、玲子と冴史は朝美の口から始めて、利知未の初めての恋人の話しを聞かされる。 利知未も、今は敬太の事を想って、辛い事は無い。

 朝美の話しを、無理矢理 遮る事も無く、ポツリポツリと話し出す。


「って事は、あの頃、利知未がアクセサリーを身に着ける様になっていたのは、それが切っ掛けだったって、事だ」

冴史が、当時の事を思い出して言った。

「ついでに、『俺』から『あたし』になったのも、その彼氏が原因でしょ?」

玲子は、薄々は気付いていた。 だからと言って、当時も突っ込む事はしなかっただけだ。 何しろあの頃は、二人顔を会わせる度に喧嘩ばかりしていた。

「…っツーか、ナンで、あたしの話しに集中すんだよ?」

「そりゃ、面白いからでしょう」

朝美は昔と同じ様に、カラカラと笑う。

「…ま、イーけどな。 今は、もう昔話だ」

呟いて、何気なく話し出す。 改めて、今の自分を振り返る為でもある。

「あの当時、裕兄が亡くなって直ぐに、また…友達が一人、事件に巻き込まれて亡くなった事があった。 ……そん時に、一番、力になってくれたヤツだったんだよ。 ……お蔭で、あたしは元に戻れたんだ」

「今は、どうなってるの?」

冴吏の質問に、利知未は暫らく考えてから、一言で答える。

「偶に、テレビに出てるよ」

ここまでで話すのは止めた。 けれど、朝美達三人は、思い切り驚いた。

「って事は、利知未の元彼、今は芸能人って事!?」

冴史が、珍しくびっくりした声を出す。 玲子は目を丸くしたまま、呟いた。

「……アンタって、途方も無く普通のコじゃなかったのね……」

「ドー言う意味だよ?」

「成る程ね。 じゃ、あのバンドのドラマー、やっぱ敬太君だったんだ」

朝美は最近、テレビで見たばかりだった。


 あるバンドのバックでドラムを叩く姿を、何処かで見た顔だと思っていた。

「随分、格好良くなってたじゃない? 逃がした魚が、大き過ぎたわね」

「……敬太は、昔から格好良かったよ」

赤くなって利知未が呟く。 その珍しい様子に、玲子と冴史は、また驚きだ。

「ッテ、そろそろ、止めにしないか? コの話し」

「ソーだね。 ……じゃ、今のイイ人って?」

朝美が一端、頷きながら、また利知未の事を聞き始める。

「それがね。 …どうやら、年下の彼氏らしいよ?」

冴史が言う。 利知未は呆れ、びっくりした顔をする。

「お前。 何処でソー言うガセネタ、掴んできてるんだよ?」

「里真達からだよ」

サラリと冴史が返した。 玲子も少しびっくり顔だ。 朝美は一人、ニマニマしている。

「いつかの、応援団の少年じゃないよね?」

「応援団? 宏治の事、言ってるのか? アイツは、里真の彼氏だ」

今度は朝美も驚いた。 さっき顔を会わせたばかりの里真の事を、思い浮かべた。 ……随分、可愛い子だな、と言う印象を持っていた。


 倉真、準一、和泉の事は、朝美は知らない。 里真と双子以外の店子達も、里真のプリクラで見た程度だ。 それでも倉真と和泉の顔は、良く判らない。


「私も知らないけど。 良く二人切りでツーリングへ出掛けているらしいって、里真が言っていたンだよね」

冴史の言葉に、利知未の頭に二人の顔が浮かぶ。

 二人切りで、ツーリングへ出掛けた事がある相手は、克己と倉真だ。

 けれど、年下と言うガセネタを掴んでいるらしい。

『……倉真の事、言ってンのか? コイツ』

利知未の思い当たった顔に、朝美が気付いてニマリとする。

「ま、ガセでもなんでも、利知未を相手にするとは、随分、度胸のある年下君じゃない。 ……利知未は、年上好みかと思ったンだけどな」


 朝美の言葉に、今度はマスターが浮かぶ。 ……あれ?

『どうしたんだろう……。 やっぱり、…楽になってる?』


「どーでもイイだろ。 確かに、二人でツーリングへ行くヤツは居るけどな。 ソー言うヤツは、アイツ一人じゃネーんだよ。 ガセも良い所だ」

「あらら、りっちゃんってば、随分、男にモテるようになったのね」

久し振りに朝美から、そう呼ばれてからかわれた。


 作業を続けながら、ついこの前、マスターから言われた言葉も思い出した。

『お前、作りに行ってヤレば良いじゃないか』

 ……マスターは、倉真とあたしを、どうかし様としているのかもしれない……。



 荷物の開梱は、午前中に大半が終わった。 昼食は蕎麦屋で出前を頼んで、引っ越し蕎麦を皆で啜った。 美加や里真、双子も一緒だ。 その時点で、双子と里真は、すっかり朝美と打ち解ける。

 美加は、まだ少し、一歩離れて観察している感じだ。 利知未の隣で皆と話す朝美を、ジッと見ていた。

「美加? まだ少し、構えてるみたいだな。 大丈夫だよ」

利知未が、優しい表情で美加へ声を掛けた。 朝美は感心してしまう。

「利知未、随分と女らしい顔、する様になったじゃない?」

隣の里沙に、聞いて見る。

「そうね。 随分、落ち着いたみたいよ? ……何が影響してるのかしらね」

意味ありげな視線を利知未に向けて、微笑している。 利知未は二人の様子に気付いて、そちらを見る。

「なんだよ? また人の事、言ってんのかよ」

「すっかり、中学時代に戻ってるわね」

玲子がボソリと突っ込んだ。 利知未は少し、脹れた顔をしていた。



 夜には、朝美の歓迎パーティーをした。 店子が全員リビングへ揃って、宴会が始まる。

 利知未は朝美の為に、里沙を手伝って料理をした。 利知未の手際を見て、里沙が呟いた。

「何時でも、お嫁に行けそうね」

「まだ大学あるし、相手も居ネーよ。 当分、朝美の料理を手伝わないと、いけなさそうだしな」

「頼もしいわね。 私も、半年で鍛えてあげないとならないわ」

「そりゃ、大変だろうな」

利知未の言葉に、里沙と二人、肩を竦めて小さく笑った。


 宴会中に、冴史の夏の成果を、店子が始めて耳にする。

「凄いじゃない、冴史! 大学在学中の作家デビューも、夢じゃない?!」

里真が大喜びだ。 同い年で、同じ学校へ通う仲間だ。 二人は仲が良かった。

「気が早いな。 …でも、ありがとう」

冴史も、少し照れ臭そうな笑みを見せる。

「じゃ、未来の女流作家の前途を祝して、乾杯!」

樹絵が、始まりの乾杯から数えて、二度目の音頭を取った。

「やっぱり、冴史はソッチ目指してたんだね」

朝美は中学時代の冴史が、演劇部の台本を作った時の事を話し始めた。


「美加ちゃん、今、城西中学なんだよね?」

 朝美に笑顔を向けられて、美加がおずおずと頷いて見せる。

「今、三年です」

「そっか。 …まだ応援団、残ってる?」

聞かれて頷いた。 そこから朝美の含み笑いが漏れ出す。

「城西中学応援団、第三十四代目、副団長の彼女。 ……って、昔、聞いた事があるんだよね? 実は。 あたし、その副団長を見た事があるんだよ?」

 利知未を見て、ニヤニヤしている。

『……櫛田センパイの事か!?』

利知未は飲みかけの酒を吸い込んで、咳き込んだ。

「何々? ナンの話し!?」

里真が、そちらの話しに思い切り乗って来た。 宏治が確か、第三十七代目副団長だ。 里沙が、急き込む利知未の背中を叩く。

「止めろよ、あれは、ただのデマだ」

急き込む息の間で、利知未が赤くなって突っ込んだ。

「大体、何時、誰からンな話し、聞いてンだよ?」

玲子が、そっぽを向いて飲んでいる。 あの当時、実は意外と有名な話しだった。

 玲子が当時、利知未の事を愚痴った時に、朝美にポロリと零していた。


 それを機に、朝美が当時の利知未、玲子、冴史の話しを、ボロボロと語り出した。 そのうち美加も、引き込まれる。


 宴会が終わる頃にはすっかり、美加も朝美に懐いてしまった。




           二


 朝美は入居翌日から、新店舗へ出掛けて行く。

 オープンしてしまえば、土・日・祝日も、シフトで仕事へ入る事になる。 それまでは、他業者との兼ね合いもあり、平日出勤となる。


『週に2日は休み取れてるから。 里沙には申し訳無いけど、結婚後も日曜は休めないかもしれないな』

 里沙のフィアンセは、高校の教師だ。 当然、土日祝日休みの筈だ。 結婚後、朝美の休日に合わせて、あの下宿へ通うと言うなら、日曜も休めない事になってしまう。

『里沙は、それで良いって言うけど……。 やっぱり、新婚の内は可哀想だな』

会社へ向うバスの中、つり革に捕まって、ボーっと考える。


 これから電車だ。 駅のバス停で降りながら、スクーターを買ってしまおうか? と、思い付いた。 駅迄、スクーターを使えば、通勤も三十分は短縮の計算だ。

『里沙が、あそこを出てからは、朝ご飯はあたしの担当になるモンね』

料理は余り自信が無いままだが、それでも家族と暮らす様になり、少しは義母を手伝い始めた。 本当の基本だけは、何とか身に着けて来た。


 料理の手際に自信が無い朝美としては、スクーターを購入するかしないか? が、ポイントになる。 普通車の免許は、自宅へ戻ってから取得していた。

 オープン後はAシフト・朝九時三十分出勤、Bシフト・十三時出勤だ。

 バスを利用して駅へ向えば、一時間二十分はかかってしまう。 八時過ぎには出なければならない。 スクーターを使えば、恐らく一時間を切る。 八時半に下宿を出れば、間に合う計算になる。


『仕方ない。 車にして駐車場借りるよりは、安上がりだ』

 そう決心して、利知未の暇な時にでも、バイクショップへ付き合せようと、勝手に決めてしまった。



 利知未も、今日から新学期だ。 小・中・高と違って、始業式がある訳ではない。 新学期一日目から、教授が教鞭を取る。


 久し振りに大学で、透子と顔を合わせる。

「はい、土産」

「お前のサークル、国外旅行もするんだな。」

渡された土産を見て、利知未が言う。

「夏休みと春休みはね。 冬はスキー旅行が多かったよ?」

「滑れるのかよ?」

「ボーゲンくらいは、覚えた」

「どっちにしろ、金のかかるサークルだよな。 …土産、サンキュ」

「このキーホルダー、大ウケだよ」

夏のキャビンで、土産として買って来たキーホルダーは、透子のバッグへくっ付けてあった。 動く度に、クネクネと可笑しな動きをする。

「そりゃ、良かった」

「今度、連れて行ってよ? バイクでも行けるんでしょ」

「タンデムで行くのには、チョイ遠いけどな」

「じゃ、車で行けばイイジャン?」

「透子は免許無いだろ」

「勿論、利知未の運転で」

透子がヘラリと笑う。

「っツーか、男に連れて行って貰えよ」

「疲れるジャン。 男と長距離ドライブすると」

「そーか?」

昔、敬太と行った、ドライブデートを思い出して見る。

「アタシは疲れる」

「そーかよ」

透子は、本気で好きな相手と、まだ巡り会っていないだけだろうな、と、利知未は勝手に解釈する事にした。


 思い出の相手が、敬太だからかもしれないが、恋人と二人切りで車の中で過ごす時間は、好きだったな、と利知未は思う。



 週末に、朝美が突然、言い出した。

「利知未と里沙。 バイトしない?」

「バイト?」

二人が、少し目を丸くする。 晩酌タイムだった。 土曜の夜中だ。

「背は低いけど、里真も使えそうなのよね」

勝手に、話しを進めて行く。 利知未は、里沙と顔を見合わせる。

「カップルモデルで参加させちゃおうかな? 確か、里真の彼氏の宏治君、結構、可愛い顔してたよね? 太ってはいない?」

「勝手に話し進めるなよ。 何だか解らネーけど、宏治まで巻き込むのか?」

「巻き込むって言うよりは、小遣い稼ぎをさせて上げようかと、思ってるんだけど? デート代もかかるンだろーし」

酒を飲みながら、朝美がニコリとする。 朝美は細身の、メンソールタバコを吸っている。

「順を追って、説明してくれるかしら?」

里沙に言われ、朝美が詳しく話し出した。

「新装開店企画の一つでね。 身近な素人モデルを使って、メーカー服のチラシを作ろうって話し。 素人って言っても、そこそこ、格好良く着こなしてもらいたいから、なるべく背が高い、見栄えのイイコを探してんの」

「それで? もしかして、モデルのスカウトなの? これ」

里沙は目を丸くする。 利知未は一気に、イヤな顔をする。

 イヤな要素は、いくつもあるが、先ずは聞いてみたいと思うことがある。

「……まさか、里沙とあたしで、カップルモデルさせるつもりか?」

「あ、それも面白そう! でも、今回は違う。 あたし、前から利知未の女らしい格好、見たいと思ってたンだ。 綺麗に化粧して、スタイルのバッチリ解る様な、女らしい服装の利知未」

「それなら私も見て見たいわね。 でも、私はもう歳も歳だし、遠慮させてもらうわ。 メイクの手伝いくらいは、出来ると思うけど?」

「大人のレディースもあるから、里沙にも誘いかけてるんだけどな」

「ちょっと待て。 あたしも、やらないからな」

二人で話しが進みそうになり、利知未が制止を掛ける。

「アンタはあたしに、色んな恩があると思うんだけど…? まさか、あれほど可愛がってあげた、お姉さんのお願いを聞かないつもり?」

「それとこれとは、話しが別だろうが」

「……バンド時代、困った利知未を助けてあげたの、誰だったかなぁ? あのファンの女のコ達、良く納得してくれたよね。 アンタがあたしの義弟だって」

「あれは、…、あの時はそりゃ、感謝してるけどな。 けど、」

「他にも色々、あったと思うんだけど。 ……ソー言えば、始めての彼氏との、初デートの日。 りっちゃんが選んだ洋服は、だぁれが、探して来てあげたんだったかしら? あの頃、利知未ってば、お兄さんのお古ばっかり着てたのにねェ。 普段のライブの時に合わせて、女物の洋服なんて、買う事も無かったんだよね。 ソーだ! 里沙、この前の話し、もう少し詳しく話してあげようか? 城西中学応援団・第三十四代目・副団長! その彼女」

「ちょっと、面白そうな話しね。 是非、聞いてみたいものだわ」

里沙も、利知未の女らしい姿は見たい。 話しを合わせてしまう。

「んな、昔の話し……」

「じゃ、他のコ達も呼んできて、利知未の知られざる過去話、語ってあげようか? 冴史とか、喜んで小説のネタにしてくれそうだよね?」


 利知未の喧嘩三昧の時期、里沙と夜、良く話し合っていた事もあるよね、と言い出す。 里沙も眉を寄せ、あの頃の心配、苦労など話し始める。

「バンド活動してた時、夜、利知未の振りして学校の先生の電話に、あたしが出てあげた事だって、あるんだよね。 …今だから言うけど」

当時の担任が、利知未を呼出した後、何度か確認で連絡をして来たことがあると言う。 利知未は初耳だった。

「そうなのか?」

「……そんな事も、あったわね、そう言えば。 後、取材電話とか?」

由美の事件後、何度かそんな電話も来た事があると言う。 その時は、白を切り通していた。 利知未の耳にも入れなかった。

「その取材電話って、どう言う事だ?」

「アンタが、あたしの弟だって、ファンの一部から漏れちゃったみたいよ」

「…マジかよ? で、朝美はどうしたンだよ?」

「仕方ないでしょ。 誤魔化したわよ。 弟はタマに顔を出すだけで、殆ど何時も何処にいるかも解らないって。 ね?」

「それでも、何度か連絡が来た事があったわね」

朝美が退去するまで、数回あったと言う。

 その内に、事件その物の記憶が薄れ、取材電話は無くなったらしい。

「……で、利知未ちゃん? まぁだ、お姉さんの頼みを断れる?」

 朝美がニマリと、利知未を見る。

「……解ったよ。 …その代わり、里沙もヤれよな?」

「私まで、巻き込まれてしまうわけ?」

「コーなったら、宏治も巻き込んでヤる。 宏治は太ってないぜ? 背はアンマ高くないけど、使えるんじゃネーか?」

「ソーコなくっちゃ! 里真には、また私から言っとくから!」

 それでも、他の仲間には知らせるのは止めようと、利知未は思った。



 里真は、宏治とのカップルモデルの話しを、喜んで引き受けた。

 写真関係には、それなりに興味がある。 高校では撮る側だったが、撮られる側も経験して見るのも、楽しそうだと思った。

 撮影は一日二日で終ると言う。 受験勉強の息抜きにも、成るかもしれない。



 利知未は宏治を巻き込むべく、翌週のバイト後、バッカスへと回る。

「恩人の頼みを断るに断れない。 お前も使いたいと言っている。 あたしの顔を立てるつもりで、付合ってくれ」

と、利知未に言われ、里真からも電話連絡を貰い、渋々ながら了承した。

「倉真達には、言うなよ?」

「そりゃ、おれだってアンマリ、知られたくはないっスから……」

二人で顔を見合わせて、溜息を付く。 宏治は珍しく、カウンターの中で水割りを飲んで付き合う。 ……飲まなきゃ、やっていられない様な気分だ。

 美由紀は、少し楽しそうだ。

『宏治、やっぱりソッチの道へやれば良かったかしら?』 等と、可愛い次男を誇らしく思う気分だ。

『イイ顔に生んで上げたんだから、感謝してもらわなきゃね』

クスリと、小さく笑っていた。

 美由紀だって、人の親なのだ。 親バカみたいな気持ちは、やはり持っているらしい。



 店子達は、大乗り気だった。 やはり利知未の女らしい姿は、見て見たい。

 樹絵は密かに、出来たチラシを倉真へ渡してやろうと考えた。

「パソコンで撮り込んで作っちゃうから。 店内の内輪だけで作るんだから、その手の業界には、影響無いと思うんだよね。 そこは一応、安心して」

朝美が、里真と里沙、利知未に言う。

「にしても、客には配るんだよな……?」

「大丈夫、大丈夫! 絶対、利知未だって解らないくらい、綺麗にしてあげるから!」

朝美は思い切り、楽しみにしている。 ニコヤカに言い切った。



 そして、九月二十三・二十四日の日・祝日を使って、開店前の店内を臨時の撮影場所に変え、利知未達のチラシ撮影が行われた。

「皆、高田さんの下宿関係者なんですか!? 入居時に、写真審査でもやってるんですか?」

朝美の後輩に当る、男性社員が驚いていた。 カメラマンも感心していた。


 綺麗に朝美からメイクを施された利知未は、きつめの美人と言う感じだ。 スタイルも、中々なものだ。 ……ただし、胸があまり大きくないのは、ご愛嬌である。

 ブラのカップを上げ、パットを三枚も積め込まれた。


 里沙は、元々ハーフチックな美人である。 優しげな美貌と、良いスタイルの持ち主だ。 胸もパットなんか必要無い。


 里真は、アイドルチックに可愛らしい。 同じくアイドル顔の宏治と並んだ姿は、芸能雑誌の表紙みたいだ。

 何よりも、カメラマンから感心されたのは、里真の笑顔だった。

「あのコ、イイ顔するね。 今度、個展用の写真モデル、頼みたいな」

 一日目の休憩中、朝美を通して、そんな依頼を受けた。


 利知未はシャープなデザイン、スポーティーなデザインが中心で、里沙は、綺麗な品の良いデザイン、女らしいデザインが中心となる。

 里真と宏治は、ナンでもコイだ。 可愛らしい物から、活動的な物から、どんな物でも良く着こなした。 自然、二人の写真が一番、多くなる。

 途中、利知未はメンズのデザインも着せられてしまった。


 レディースの撮影を終え、メイクを落として、髪型を変えられる。

「……ま、コーなるとは、思ってたけどな」

「男性モデルが中々、みつから無かったンですよね。 基本的にウチはレディースだから、品数は多くないんだけど」

女性社員が、利知未の髪を弄りながら、説明してくれた。

「けど、利知未さん。 本当にモデル、目指したらイイのに」

「……こう言うの、苦手だからな」

ぼやいた言葉に、女性社員が笑顔を見せる。

「みたいですね。 カメラの前で笑顔作るの、余り得意じゃ無さそう。 勿体無い気もするけど」

「…パット、抜いていいんデスよね?」

「あ、そうそう、今度はコッチだから。」

メンズの洋服を、何着か持って来た。


『これは、倉真に似合いそうだな…。』

 出された服の中で、仲間に似合いそうな洋服を見る。

『コッチは、準一だな。 で、これは、和泉か…? これ! 克己に着せたいな』

全体的に若者向けデザインだ。 宏治に似合いそうな物は、宏治の管轄でそちらに回っている。 朝美が見たてて、組み立てたらしい。

『朝美、コーディネーターの才能、有りそうだな』 少しだけ、感心した。

利知未が今回、撮影で着た服は、普段は余り着ようと思わないデザインでも、利知未に不思議に良く似合っていた。 里真も、里沙も同じだ。

……ただ、ミニスカートを履かされたのは、恥かしかった。 ホットパンツも何着かあった。


 里真達が撮影している所へ、メンズを着込んだ利知未が現れた。

「うわ! 格好イイ!」

軽く男性メイクも施されている。 元々、どちらかと言えば凛々しい眉毛が、格好良いカーブに加工されていた。

「……利知未さん、さっきと本当に同一人物ですか?」

宏治も目を丸くする。 バンド時代を思い出す様な、格好良さだった。

「後、宏治君とメンズコンビで何着か頼みます」

男性社員も、少し驚いた表情で利知未に言う。

「……分かりました」

言って、諦めきった様な顔をした。

 ストローを挿した、ジュースが出てくる。 朝美が差し出している。

「女らしい利知未、もっと見ていたかったんだけどね」

「もう、充分だろ? …イイ加減、疲れて来た」

用意の休憩用の椅子に掛け、ジュースを受取った。 里沙も、次の服を着て現れる。 里沙にも同じ様にして、朝美がジュースを出した。

「お疲れ様。 ヤッパ、里沙も絵になるよね」

「私も、少し疲れてきたみたい。 お肌の調子が良くなくなってきちゃったわ」

「ゴメン。 里沙は、後二着で終わり。 利知未は、メンズを後三着」

計画表に目を通す。 その時、カメラマンからの声が上がる。

「フィルム交換ついでに、少し休憩取りましょう」

社員達が返事をして、約二十分、休憩時間となる。


 休憩中、くたびれ切った顔をしている利知未と宏治を他所に、朝美が里沙と思い出話に花を咲かせる。 里真も、笑顔で参加する。

「里沙が下宿始める前、埼玉の城峯公園、行ったじゃない? 後、一ヶ月半もしたら、また冬桜の見頃だよね」

「そう言えば、そうね。 また、お弁当持って行って見る?」

「冬桜って? そんなのあるの?」

「あるのよ。 私も、朝美から聞いて始めて知ったのよ」

「綺麗だったよね。 …ま、春の花見に比べて、少し涼しいのが、難点かな?」

「十月下旬から十一月頃だから、暖かい日でも随分、気温が違うものね」

何気なく、利知未も耳に入れている。

 ……ツーリングコースに、イイかも知れないな。 そう思った。

 宏治も、同じ様な事を思う。

「ね、宏治! 来年、行かない?」

「来年? そうか、今年は受験勉強が、忙しいからな」

里真に言われ、宏治も耳を傾け始めた。

『花見か。 ……来年、倉真達と行こうって行っていたンだよな』

ボヤンと、考える。 同じ事を思う利知未と、軽く視線が合う。

「ツーリングでも、行くか?」

「イイっスね。 来年の下見ついでに」

言ってから、里真の視線を感じてそちらを見る。

「……けど、おれは来年の楽しみに、取っておきます」

「宏治君と里真ちゃん、お似合いね」

「優しい彼氏で、良かったじゃない?」

女性社員の言葉に、朝美と里沙がニコリと微笑む。 里真は少し、照れた様な笑顔を見せた。 その時、シャッター音がする。

「スナップ写真ですよ。 ホームページに、撮影の模様をアップする時、使おうと思って」

男性社員が、小さなカメラを軽く掲げて、笑顔で言った。



 店の開店は、十月一日・月曜日だ。その前に、チラシが出来上がってきた。

「このチラシに載せられなかった分は、ホームページに載る事に成っているから。 インターネットショップも、同時オープンなのよ」

そう言って、モデルを引き受けてくれた三人に、チラシを1枚ずつ分ける。

「ア、あたしも、欲しい!」

「樹絵が? ソーだね、利知未のこんな格好、そうそう見れる物じゃないモンね。 いいよ、ついでに何枚か上げるから、学校の友達にも配ってよ?」

土曜日の十八時頃、夕食の席だった。 利知未はこれから、バイトへ行く。

「なんだよ!? 結局、メンズのモデルもやってんじゃン!?」

チラシを見て、樹絵が不満そうな声を上げた。

「けど、別人みたいだね」

冴史も隣から覗き込んでいる。 美加も利知未の前に置かれたチラシを、手に取って見ている。

「あたしは、いらネーよ。 …ンなもん持ってたって、恥かしいだけだ」

「じゃ、りっちゃんの、美加が貰ってイイ?」

「……好きにしろよ」

不満一杯の顔で、利知未がぼやいて食事を平らげた。

「バイト行く前、シャワー浴びるけどイイか?」

食器を片付けながら、店子達へ聞く。

「良いわよ。 皆はまだ、早過ぎるでしょう」

里沙の返事に、それぞれ頷いた。

「そーか。 ンじゃ、お先」

食器を片付けて、自室へ着替えを取りに上がって行った。


「ソーソー! ホームページにね、少しだけお遊び企画があるのよ」

「どんなの?」

「利知未が眼鏡かけて、女性教師風のスーツ姿を披露してんの」

「ああ、私が制服着て、前に座ったのだ!」

里真が、思い当たって面白そうな顔をする。

「他にも里沙が、優しい感じの先生に扮したのもあるんだ」

「それは、面白そうかもしれないわね」

黙って聞いていた玲子が、ポツリと呟いていた。


 樹絵は翌日、チャッカリ倉真のアパートへ向かう。 二人は戦友だ。 昨日、貰ったばかりのチラシを、倉真に手渡しに行ったのだった。




           三


 樹絵が朝から、チラシを倉真へ渡しに行った、その日曜日。

 利知未は久し振りに、瀬尾と昼間のバイト時間がかち合った。

 貴子も暇な時間に喫茶に現れ、暫くすると、倉真まで現れる。


 瀬尾と貴子は、すっかりお似合いな様子だ。 今日もカウンター席で賄いを食いながら、三人で話しをしていた。

「そうだ、お土産返し」

貴子が言って、バッグをゴソゴソと探る。

「十五・十六日、利知未の月初め休みと、満が交代したから、ちょっと旅行して来たんだよね。 で、夏のお返しに探してみたんだけど……」

「先週は瀬川が休んだからな。 それ言ったら、貴子が自分で渡すって」

今日、持って来たと言う。

「けど、利知未のお土産探しは大変だったんだから! 女性が喜ぶ系は、ダメでしょ? だからと言って、私としては、利知未に男が持つ様な物、持たせたくないし……」

探すのに観光スポットを、四箇所も回ったと言う。

「結局、何処も同じ様な物しか、無かったンだよな」

「ね。 だから、こんな在り来りな物に成っちゃった」

渡された土産は、パワーストーンの、恋愛の御守りを象った物だった。

「サンキュ。 …っても、ナンで恋愛ナンだ?」

「利知未も、そろそろ新しい恋人見つけた方がイイよ。 …敬太さんと別れた以来でしょ?」

貴子とは、再会してからそんな話しも、偶にはしていた。

「……ま、確かにな。 けど、あたしを相手にし様ってヤツは、中々、現れないからな」

「何言ってんのよ! 利知未の場合、自分からでしょ? ……中学時代から」

利知未の性格も、恋愛のスタイルも、貴子にはお見通しである。

「今だから、言うけど。 中一の頃、初恋の相手にも、自分から一生懸命だったじゃん?」

「そんな話し、した事あったか?」

「話し聞かなくても、私も一緒に利知未の手料理を渡しに行ったりしてたンだから、気付くよ? …って言っても、気付くのに少し時間はかかったけど」

「あの頃、貴子は田崎センパイに憧れてて、人の事、気にしてる場合じゃなかったんじゃないのか」

「甘い! 女の子は、敏感なの!」

今更、驚きだ。 自分が気付かない内に、親友にはお見通しだったと言う事に。

「瀬川には、そう言うの、無かった用に見えるけどな」

「意外と可愛い女なのよ。 利知未は」

二人に言われて、照れ臭くなる。 赤くなったタイミングで、倉真が、鈴を鳴らして店内へと入る。

「いらっしゃいませ」

照れ隠しついでに声を掛け、入り口の方を見た。 カウンターからでは、その付近は見通せない。 暫くして現れた姿を見て、何故かビクリとする。

「ドーしたンすか? 顔、赤いっすよ?」

倉真が言いながら、利知未の前へ腰掛ける。 一席空けて貴子がいる。 その向こうから、賄いを平らげた瀬尾が顔を覗かせる。

「ヨ、いらっしゃい」

「ドーも。 マスターは、今日も買い物っすか」

「相変わらず、呑気だよ。 おれと瀬川が日曜の昼間でかち合うと、何時も長いよな? 外出時間」

 一瞬ビクリとした事が、妙な感じだった。 瀬尾の言葉に誤魔化して、ついでに自分の恋愛話しから、話しを摩り替える事にした。

「だな。 …っと、貴子は、始めてみる顔か。 コイツ、倉真って言って、ウチの常連だよ」

「そうなんだ。 初めまして。 私、斎藤 貴子。 利知未の中学時代の同級生」

「おれの彼女だから、手、出すなよ?」

「瀬尾さん、彼女なんて居たのか。 イッチョ前に」

「イッチョ前って事、無いだろーが」

「満とも、仲良さそうな感じね。 ……でも私、何となく見覚えある気がする」

「派手なアタマだからな。 昔、ライブで見掛けた事があるかもしれないな」

「じゃ、そんな頃からの知り合いなの?」

「良く、FOXは見に行ってたっすよ?」

目を丸くする貴子に、倉真は軽く笑顔を見せた。


 倉真の出現と、それまで話していた内容が相俟って、マスターの事を思い出してしまう。 この前、ふと感じた疑問。

『マスターは、倉真とあたしを、どうにかし様としているのかもしれない』

朝美の引っ越しの手伝いをしていた時、そう感じた。 あの時から、三週間。

 その間も、夕食常連で顔を出している倉真とは、何度も会っている。

『……話しの向き、ってヤツかな…? バカバカしい。 気にし過ぎだ』

それでも、このタイミングで彼がいなかった事に、少しホッとする。


 倉真のオーダーを聞き、時計を見る。 妹尾と交代の時間だ。 瀬尾が食器を持って立ち上がる。……なぜか、倉真の珈琲は、自分が淹れてやろうと思った。

 淹れ始めたタイミングで、瀬尾がカウンターのこちら側へ回って来た。

「後、ヤるよ。 飯食っちゃえよ?」

「…直ぐだからな。 これだけ、淹れちまうよ」

敢えて、男っぽい仕草と言葉で、瀬尾にそう答えた。

「ンじゃ、賄い持って来てヤるよ」

「サンキュ、頼む。 なるべく、野菜多いの選んでくれよ?」

利知未の言葉に、瀬尾が短く答えて、厨房へと入って行った。


 倉真は勿論、樹絵から受取ったチラシを見て、利知未と顔を合わせて話しがしたくなった。 それで、日曜・昼間のアダムへ現れた。

「今日は利知未、昼からバイト入るよ。 …けど、チラシ見た事は内緒な?」

樹絵からそう言われて、店が暇な時間を待って来た。

 チラシを見て倉真は、利知未の加工された胸のラインではなく、腰から足のラインを、ついつい、良く眺めてしまった。

 メイクを施した利知未の顔も、綺麗で驚いた。 寝転がって眺めて見て、少し妙な気分になってしまった。

 裏を返して、格好良くメンズを着こなして写っている利知未を見て、妙な気分が一気に薄れた。……隣の宏治には、笑わせてもらった。

『っツーか、宏治のヤツ、ドーユー経緯で、コイツに参加したんだ?』

思うが、イイ笑顔でチラシの大半を埋めている里真を見て、納得した。

『里真ちゃんに、誘われたんだな、多分』

そして、腹を抱えて笑ってしまった。 それで妙な気分は、完全に吹き飛んだ。

 それから落ち着いて見て、利知未に会いたいと思った。


 珈琲を出して、瀬尾の変わりに賄いを持ってカウンター席へ着く。 貴子に言われて、倉真との間の空席へ腰掛けた。

 四人で、クダラナイ話しをして、休憩時間の三十分を過ごした。

 貴子と瀬尾の前だ。 利知未は、いつも通り変わらない。

 それでも倉真は、ついさっきまで眺めてきたチラシの利知未を思い出して、少しだけ、照れ臭い気分になる。


 瀬尾の馬鹿話に大ウケして、少し倉真へ利知未の身体が傾き、その身体が触れそうになった瞬間。 ……倉真は一瞬、ドキリとしてしまう。

『チョイ、気ィ張り直した方が、イイかも知れネー……』

そう感じて、タバコへ手を伸ばす。 つい、何時もよりも本数が増える。


 仲良くそうして過ごしている内に、マスターが佳奈美を連れて戻って来た。

「お父さん、何ニヤニヤしてるの?」

「ニヤニヤしているか? 気の所為だ」


 佳奈美は、父親の事は相変わらず好きだった。 最近、クラスの友達が、そう言う佳奈美に対して、ヘンだと言い始めている。

 クダラナイ理由で、友達との雰囲気がギクシャクし始めた。

『……ちょっとだけ、反抗期の真似、して見ようかな』

 そう思い始めていた。 けれど、まだ行動へ移す気には、成れないでいた。



 十月五日・金曜日の午前。 和泉は、アメリカ行きの飛行機へ乗り込む。

 準一が、暇な時間を持て余して、宏治を誘って見送りに現れた。


「倉真が言ってたぜ? 間違えて、ガキ作ってくるなよ、だそうだ」

宏治が聞いて来た伝言に、和泉が呆れた顔をした。

「アイツと一緒にしないで欲しいな」

「って言うか、倉真、バッカスへ行ったの?」

「昨日、木曜だったろ? 自分で飯作るのが、面倒臭くなったって言ってたな。 暫く振りに顔を出したんだ」

 倉真はチラシを見て、宏治の顔も見てやろうと思った。 アダムの定休日で、久し振りに美由紀の飯の味も恋しくなった。

 メニューにはないチャーハンを、作って出して貰った。


「アイツが料理するとはな。 驚きだ」

「それでも、慣れて来たとは言ってたぜ」

「だから夏の旅行で、和尚と早切り対決なんてやってたンだ!」

準一が、思い出して笑い出す。

「負けず嫌いだからな。 …特に、和尚とは昔からライバルだったしな」

「何時の間にか、飲み仲間になってしまったな」

和泉も昔を思い出して、微笑している。 今では、良い仲間だ。

「兎に角、気を着けて行ってコイよ? お袋から、コイツ預かって来た」

餞別と書かれた封筒に入った、現金三万円と、別口に五万円、メモと一緒に渡される。買い物リストだ。 覗き込んで、準一がまた笑う。

「さっすが、美由紀さん! 確りしてンな!」

「買い物は、由香子に手伝って貰った方が良さそうだな……」

メモには、下着のサイズが記入されていた。

「美由紀さんって、そんなに巨乳ナンだ!?」

「じゃなくて、ナンだかお袋が言うには、ボディメイク用だって……」

ケラケラと笑う準一に対して、和泉と宏治が冷や汗を流しながら、少し恥かしそうな顔をしている。 隣を行く旅行客の、耳と目を気にしている。


 アナウンスが流れ出して、和泉は搭乗口へと向って行った。

「美由紀さんに、餞別の礼、言っておいてくれ」

「分かった。 ……買い物も、頼む」

「……分かった」

やや、げんなりとした表情で、苦笑いを交わした。

「由香子ちゃんに宜しく! 今度、金髪美人紹介してって、言っといて!」

準一が、恥かしげも無く大声で告げた。 流石に、宏治から小突かれた。

 周囲の空港利用客に、クスクスと笑われてしまった。



 翌々日、七日・日曜日。 利知未と倉真は、またバイクを途中で交換しながら、ツーリングへと出掛けた。

「タマに、長距離走らせたくなるンだよな、コのバイク」

休憩所で、利知未が言った。 一服タイムだ。

「俺も、タマに大型、走らせたいと思うンで、丁度イイっス」

タバコを口に咥えて、倉真が言う。 利知未と出掛ける時には、携帯灰皿も持ち歩く。 何時か由香子から貰った灰皿は古くなってしまい、三個目だ。

「後、一時間くらいか? ココから」

「っスね、随分前に行った切りなんで、そんなトコだと思います」


 今日は、倉真があちらこちらを走らせて、開拓して来たスポットを目指している。 冬桜には、まだもう少し間があった。


「でっかい自然公園なんスけどね、結構、良かったっすよ。」

 コースが、面白かったと言う。 公園自体は、他の同じ様な自然公園の作りと、大差無かったけど、と言った。

 利知未が、咥えていたタバコを消して、声をかける。

「ンじゃ、そろそろ出て、向こうで昼飯でも食うか」

「美味い蕎麦屋が有ったな、確か」

「そうか、それも楽しみだな」

利知未が、まだまだ男っぽい笑顔を見せた。


 目的地まで、道案内も含めた意味で、倉真が先導する。

 大型の利知未のバイクと、成長した倉真のバランスは、後ろを走らせている利知未の目から見ても、良いバランスに見えていた。

『……あたしと、十センチくらい違うんだよな』


 ふと、思った。 自分の身長とバイクとのバランスも、それほど悪くは無いだろうけれど、時々、休憩所で知り合ったライダー達からは、突っ込まれる。

「細身だな、バイクに、振り回されないか?」

大体、利知未の性別を、正しく把握していないライダーでも同じ事を言う。

 それでも、一足先に休憩所を後にする利知未のライダー姿を見て、大体は納得してくれる様だ。 何時か、何処かで再会したライダーに言われた。

「巧い事、操ってるもんだな。 感心したよ」

 利知未は足も長い。 倉真のオフロードタイプでも、足つき感に不安を覚える事は無い。 自分の愛車に跨っても同じだ。

 体移動のバランス感覚も、どうやら良いらしい。 ただし、コーナリングで派手なハングリングをする事も、先ず無い。

 そんな事をすれば、それこそ体重がバイクに負けてしまって、負担がかかる。


『倉真は、あたしよりもあのバイク、巧く乗りこなしているみたいだ……』

 ……チョイ、口惜しいか?  自問して見て、そんな事は感じていないと思う。

『タマに、アイツにバイクの性能、引き出しきって貰う方が、バイクも嬉しいかもしれないな』

微かな笑顔が浮かぶ。 倉真が片手を上げて、進行方向を指し示した。



 途中で倉真お勧めの蕎麦屋へより、早めの昼食を済ませた。

 倉真は笊蕎麦を、四枚も平らげた。 利知未の天ぷらも少々、譲り受ける。 流石に、蕎麦だけでは少し物足りない感じだ。

「お前も天ぷら、頼めば良かったじゃないか?」

やや呆れ顔で利知未から言われ、照れ臭そうに頭を掻く。

「アンマ、財布ン中入れて来なかったンすよ。 昨日も金、下ろすヒマ無くて」

「それで、量にかけた訳だ」

「1枚2枚じゃ、流石に足りないっすから」

利知未は小さく笑ってしまう。 その表情は、女らしい笑顔だった。

『クルクル変わンな。 ……顔が』

倉真はそう感じて、何と無く嬉しい気分になる。 ついでに照れ臭い。

 利知未が女らしい表情を偶に見せる度、チラシで女らしい格好をしていた利知未も、思い出してしまう。 蕎麦茶を啜り、立ち上がった。

「行きますか」

「そーだな」

再び、男っぽい様子に戻ってしまう。 …これも利知未だと、倉真は思った。



 公園の駐車場へバイクを止め、折角だから、公園内を散策しようと話した。

「結構、デカイ池だな。 ボート乗り場まで有る」

利知未が回りを見渡しながら、倉真に声をかける。

「あの池をぐるりと回りながら、散策コースが有るみたいっスね」

 少し風が出て、それでも空気が、段々と秋めいて来た事を知る。

「山の中だからかな? 風も、少し涼しくなってきたみたいだ」

軽く目を瞑り、風を顔に受ける様にしながら、利知未が呟く。 利知未は、ライダージャケットの前を開けて、引っ掛けてきていた。

 倉真は、まだ暑いと感じ、ジャケットをバイクのサイドバックに突っ込んで来てしまった。 まだ半袖のTシャツだ。

「お前、少し涼しくないのか?」

「気持ちイイっスよ? 今日は天気もイイし」

「確かに、天気はイイな。 …キャップが必要だったか?」

利知未は日焼けを気にしている。 自分の肌が日焼けたとき、綺麗な小麦色には、なってくれ無い事は十分承知だ。 何時も赤くなってしまう。

「日射病に成る程の、日差しじゃないっスよ?」

片手を翳して、太陽の方を軽く眺めやって、倉真が言った。

「…ソーだろーけどな」

軽く首を竦めて、利知未が言う。 それから暫く、のんびり歩いていた。


 大きな池の周囲、散策コースを回っているのは、家族連れやカップル、犬の散歩をしている人、友達同士で遊んでいる子供達と、色々だった。

 この辺りの住人の、憩いの場所に成っているらしい。

 昼を回った頃で、ベンチで弁当を広げている人も居た。


 家族で遊びに来ていた女の子は、キョロキョロと辺りを見回しては、水鳥を指して歓声を上げていた。 帽子が頭から後ろへ、ずり落ちそうに成っている。 真夏と違い、それ程気になる事も無くて、そのまま、池の端へ向かって駆け出した。

 その時、風が少し強く吹き去った。 女の子の落ちかかっていた帽子が飛ばされてしまう。


「ア!」


 小さな叫び声がして、二人はそちらを振り向いた。 女の子が指差して、風に飛ばされた帽子を追い掛けてくる。 二人の上を飛んで行く頃、倉真が手を伸ばした。 その指先、あと本の少しで届きそうで、軽くジャンプをする。

「惜しい!」

利知未の声が上がる。 帽子は倉真の指に当って、そのまま、池へ飛んで行く。

「ち、しまった!」

軽くその後を追って、水面に静かに舞い落ちる帽子を、陸から眺めやる。

「ア、あーあ…。 ……どうし様?」

女の子が後ろの家族を振り向いた。 父と母が、顔を見合わせて、そして笑顔を見せる。

「また、新しいの買ってあげるから」

「でも、あの帽子、お気に入りなんだよ?!」

泣きそうな顔になってしまう。

 倉真は、気の毒そうな表情で、女の子と家族の様子を見ていた利知未を、振り向いた。

「利知未さん、ボート、借りましょ」

近寄りながら言い出す。 女の子の傍らにしゃがみ込んで、視線を合わせて倉真が、お兄ちゃんっぽい、済まなそうな笑顔を見せる。

「ワリーな、手、届かなかった。 取って来てヤるから、待ってな」

びっくりした女のコが、倉真を下から見上げている。 立ち上がって、その頭へ軽くポン、と手を乗せて、倉真がボート置き場へ向って歩き出した。

 利知未は小さく肩を竦めて、その後を追いかけた。 途中で軽く家族を振り向いて、女の子へ声を掛けた。

「大丈夫。 待ってな?」

女の子が、こくりと頷いて二人を見送った。


「スワンボートって、訳には行かないな……」

「手漕ぎで行きましょう」

「お前、漕いだ事、有るのか?」

「ネーけど、ナンとか成るっす」

 倉真が、手漕ぎボードのチケットを購入してしまった。


 係員が寄せてくれたボートへ、倉真はさっさと乗り込んで、オールの漕ぎ方の説明を受ける。 利知未は、暫し戸惑う。

『陸側から、ナンとかならネーかな?』

考えている利知未に、倉真が声を掛け、手をさし伸ばした。

「あたしは、陸側からの方法、考えるよ」

「何言ってンスか。 あんな真ん中の方、ドーするンスか? 行きましょ」

利知未の腕を掴んで、引っ張った。 力の差は、既に解っている。

「うわ、っと、危ないな…!」

言いながら、利知未も少しよろけながら、ボートへ乗り込まされた。

 係員の笑顔に見送られ、ボートが池の中心へ向って押し出された。


「ッテ、右に行きたい時は…、」

呟いて、倉真がオールを操る。 その場で、回転してしまう。

「…結構、難しいな」

 ボートの縁に捕まって、利知未は冷や汗を流した。




           四


 池の端で、女の子がジッと帽子を見つめている。

「ア、あんな真ん中まで、行っちゃった…!」

両親は娘の後ろで、心配そうに、池の真ん中辺りを眺めやる。

 倉真が何とか、ボートを操れるようになって、家族の視界へ現れた。

「あ! お兄ちゃん達だ! 頑張れぇー!!」

女の子に声援を送られて、倉真が顔を上げてそちらを見る。

 利知未も視線を家族へ移して、大きく手を振って、合図をする。


「倉真、もうチョイ左」

「うっす」

「そのまま、真っ直ぐ。 って、何ヤってンだ? 左行き過ぎだ」

利知未に方向を指示されながら、何とか帽子の近くへと漕ぎ寄せる。

「流れに任せないと、オールの立てた波で、帽子も離れちゃうぞ?」

「って、言われてもな……。 これで、イーか?」

オールを静かにボートへ上げて、倉真が身を捻った。 手を伸ばして、ボートが倉真の体重に傾く。

「おわっ、と、……アブネー」

利知未が冷や汗を流しながら、自分の体重を移動してボートの角度を何とか保つ。 けれど、船体の揺れで起きた波が、あと一歩で届きそうだった倉真の手元から、帽子を遠くへ運び始める。

「あと、もーチョイ…、っと、…っのやろ!」

更に手を伸ばした倉真の手に、漸く帽子が摘まれる。 確りと掴み直そうとして、バランスを崩してしまった!


「おわ!!」

「倉真!!」


 水飛沫が上がった。


「お兄ちゃん!!」

「あの人!!」

池の端で、母と娘が口に手を当てて、びっくりした顔をしている。

「大丈夫か? あの人達…」

「もう! あなた! なに呑気な声、出してるのよ?!」

「大丈夫ですか―っ!?」

岸から、親子の声が聞こえて来た。


 水深は、池の底へ倉真が足をついて、胸の辺りだ。

 倉真が、大きく手を上げて振っている。 利知未は倉真から受取った、女の子の帽子を持った手を高く上げて、合図を送った。


「良かった、大丈夫だったのね」

「あの人、背が高かったからな。 だから、頭が水から出てるんだな」

父親が変な事に感心して、家族は一応、少しだけ安心した。


「倉真、上がれるか?」

帽子をボートへ上げて、船の縁に手をかける倉真に、手を伸ばした。

「平気っす。 チョイ、バランス取ってください」

「ああ」

利知未が身体を逆へ移動して、倉真の体重で沈み込む船のバランスを取る。


 帽子が、傾いた船体にスルスルと滑り出したのを、利知未が見て慌てる。

 倉真がやっと足を上げた時、大丈夫と見て、帽子に手を伸ばしてしまう。

 漸く上がった倉真と入れ違いに、利知未がバランスを崩してしまった。


 転びそうになった利知未を、まだずぶ濡れの倉真が、身体全体で受け止める。 二人で、ボートの上に半分転がる様になってしまった。

 ボートが大きく揺れて、水を跳ね上げる。


 倉真の身体に、身体を覆い被せる様になった利知未の背中に、水飛沫が盛大に振りかかってきた。

「冷てぇ…!」

頭にも水飛沫がかかり、利知未が小さく声を上げた。


 倉真は、利知未の身体を抱きしめる形になって、思い切りドキリとする。

 薄いTシャツを通して、利知未の身体の柔らかさと、暖かさを実感する。

 理性よりも、本能に忠実に、利知未の身体を支えた腕を、離せなくなった。

 暫く二人、ストップしてしまう。 ……その内に、利知未の鼓動も早まった。


「……倉真、離して、くれないか……?」

「…あ、済んません…!」

 慌てて、倉真が腕の力を緩めた。 ボートの揺れを気にしながら、ゆっくりと利知未が身を起こした。 前身は倉真の水を貰ってビショビショだ。 後ろと頭は、水飛沫の恩恵を受けてしまい、やはりかなり濡れている。

「ビショビショだな」

ゆっくりと置き上がろうとする倉真に手を貸しながら、利知未が呆れた様な笑みを見せた。

「っすね、風邪、引いちまいそうだ」

利知未の手を借りて置き上がり、Tシャツを脱ぎ出した。 脱いだシャツを、丸めて池の上で絞り始める。 …利知未は倉真の裸の上半身を、マトモに見てしまった。

 ……ドキリ、と心臓が鳴る。


『……男の裸だって、始めて見る訳じゃ、無いんだけどな』 そう思う。

けれど、赤くなって来た自分の頬の熱さを感じて、そっぽを向いて誤魔化した。


 女の子一家が、心配そうな顔をしている。

 帽子を持ち上げ、もう一度笑顔で、合図を送り直した。


 ボートを岸に寄せ、帽子を女の子へ手渡した。

「もう、飛ばされんなよ?」

倉真に言われて、女の子が笑顔で頷いて、礼を言う。

「お二人共、大丈夫ですか?」

母親が心配そうな顔をして、タオルを貸してくれた。

「平気っす、意外と浅かったし。 タオル、借りていいんスか? アンマ池の水、綺麗じゃ無かったっスけど」

「そんな事、いいんです。 洗えば済む事でしょう? けど、あなた達、風邪引いてしまいそうだわ」

「二人共、頑丈に出来てますから」

利知未が肩を竦めて、照れ臭い笑顔を見せる。 倉真が先に、利知未へタオルを渡してくれた。 素直に、さっさと拭き取って、倉真を後ろ向きにして、背中をざっと吹いてから手渡す。

「ドーも、…ナンか、風呂で背中流して貰ってるミテーな気分だ」

「馬鹿な事、言ってないで、さっさと拭けよ?」

利知未に促されて、取り敢えず頭と前身を拭き終え、礼を言ってタオルを家族へ返した。

 ボートの、貸出し時間終了のアナウンスが入る。

「五番って、これじゃないか?」

「ソーっすね。 …急がないとな」

もう一度家族と挨拶を交わし、漸く操り慣れて来たボートを漕いで、ボート乗り場へと向って行った。


『さっき、倉真の背中を拭いてて……』

ドキリとした事を、思い出した。 倉真は賢明にオールを動かしている。

 腕と肩の筋肉が、その動作に合わせて縮小するのが目に入る。

 何故か、気持ちが疼き始める。

「利知未さんも、服、脱いだ方が良さそうっすね」

少し照れながら、倉真がボートを漕ぎながら、言い出した。

「ッテも、お前と違って、上半身、素っ裸で歩き回る訳にも、いかネーだろ?」

利知未は敢えて、男っぽく振舞い始める。 ……酒が絡んでない事に、感謝した。



 ボートを返して、一端バイクへと戻る事にする。

「俺のジャケット、無事だから」

そう言いながら、サイドバックから、自分のジャケットを利知未に手渡した。

「お前が着てた方が、良いンじゃないか?」

倉真は、上半身裸のままだ。

「Tシャツ、直ぐ乾くと思うンで。 それよか、利知未さんの濡れた服、乾かさネーと。 今の内なら、ハンドルへ引っ掛けて置けば、大丈夫そうだ」

午後一時半を回ったばかりで、日差しは、まだ暑いくらいだ。 倉真に促され、ジャケットを持って手洗い所へ向った。


 個室で、上着を脱いで下着姿となる。 ジーパンに触れて見て、無事だった事を確認して、ホッとする。 上着は倉真から借りれば済むが、ジーパンはそうは行かない。 長袖Tシャツを脱ぎ、軽く絞る。

「ジャケットは、絞れないけどな……」

布地が厚いし、型も崩れてしまう。

 倉真のジャケットに腕を入れ、その大きさに驚いた。

『アイツ、こんなデカイサイズ来てたのか……』

腕まくりをしなければ、手が隠れてしまう。 肩もぶかぶかだ。

 利知未は、メンズのSサイズが、その細身の身体に丁度良い。


 個室を出て、手洗い場所の鏡に移る自分を見て、倉真のジャケットに着られている状態を、目の当たりにした。

 ふっと、利知未の表情が、女らしく照れ臭い顔になる。


 さっきボートの上で偶然、抱き合うような姿勢に成った時の、倉真の身体の大きさを思い出してしまう。 ……胸板も、普段、見ているだけでは感じられないくらい、逞しい感じだった。


 ……鼓動が早まってしまう。 慌てて頭を振って、水で顔を洗った。



 倉真は、バイクに寄りかかって、タバコを吸っていた。

 倉真も、さっきのボート上で実感した、利知未の見た目よりも華奢な肩と、その身体の柔らかさ、暖かさを思い出していた。

『ヤバイな……。 理性、吹っ飛びそうだ』


手洗い所から出て来た利知未を見て、タバコを足で揉み消した。

「倉真! 灰皿、持ってるんだろ?」

すっかり気分を切り替えて、普段通りの男っぽい仕草を見せる。

「ヤベ、つい癖で……」

倉真の呟きを聞き、腕組みをして軽く睨んでやった。

「ッタク、あたしが見てないと、何時もやってンだろ?」

倉真が肩を竦めて、吸殻を拾い上げた。 三本、転がっていた。



 それから、利知未のシャツとジャケットを、バイクのハンドルとシートへ広げて乗せて、倉真は半乾きの自分のTシャツを着直した。

「まだ、濡れてンじゃないか?」

「体温で乾くっしょ? もうグショグショって訳でもネーし」

「…風邪、引くなよ?」

「頑丈に出来てるっすから」

心配そうな利知未に笑顔を見せて、もう暫く公園を散策して、利知未の服が乾くのを、待つ事にした。


 公園内の休憩所で、おでんを見付けて二人で突ついた。 利知未は蕎麦掻がメニューにあるのを見付けて、面白半分、懐かしさ半分で注文した。

「ンな粉見たいなモン、どうやって食うンスか?」

「これか? 熱湯入れて、掻き混ぜンだよ」

言いながら、実際に作って見せた。 練られながら、固まって行く蕎麦粉を、倉真は興味深そうに眺めていた。

「で、汁に着けて食う。 醤油でも良いけどな」

「そんな昔話に出てくるみたいなの、ナンで知ってンすか?」

「……昔、大叔母さんと住んでた頃に、教わったんだ」

 懐かしそうな顔になる。 倉真は始めて、利知未の過去を聞いた。


「……あの頃が、一番、幸せだったのかもしれないな…」

「…今は、幸せって感じる事、ないんすか?」

倉真に聞かれて、利知未が少し考えてから、笑顔で答えた。

「今も、幸せだと思う。 ……あの下宿は、あたしの大切な場所の一つだ」


利知未に促されて、倉真は始めて蕎麦掻を食った。

『素朴な味だな』 と思う。 ……かなり個性的な利知未の、本当の姿は。

 こんな、素朴な感じなのかもしれない。


 十五時を回る頃、バイクへと戻る。 利知未の服は、完全に乾いていた。

 再び手洗い所へ入り、利知未が着替えを済ませて来た。

 途中で一度、休憩を取りながら、夕方には神奈川を走らせる。


 バッカスの前当りで、それぞれのバイクへ乗り換える。

「また、良いコース有ったら教えてくれよ?」

「勿論、教えるっすよ。 今度は、どっち方面へ行きたいンすか?」

「時期が来たら、行きたい所はあるんだ。 また、連絡するよ」

挨拶を交わして、バイクをスタートさせた。



 その日から、倉真は軽く風邪を引いてしまった。 それでも仕事をしながら、何とかなる程度だった。 偶に鼻がムズムズして、くしゃみが出る。

 相変わらずアダムの、夕食常連を続けていた。 火・水・金曜は、利知未とも顔を合わせた。 火曜日に、まだ少し、グシュグシュしていた様子を心配し、水曜日には殆ど復活していた倉真の体力に、利知未は呆れ半分、安心した。




 マスターは、心配事を抱え始めてしまった。

 佳奈美が、反抗期に入ったらしき態度を、取り始めた。

 毎朝、マスターは朝が遅い。 帰宅も殆ど、十二時近い。 それでも佳奈美は、毎晩父親の帰りを待って、親子の語らいの時間を大切にしていた。

 利知未に勉強を見て貰えない時の宿題は、母親ではなく父親に教わっていた。 マスターはいつも晩酌をしながら、佳奈美の勉強を見てやっていた。

 それが今週に入って、愛娘が顔を見せてもくれなくなってしまった。


「利知未。 明日は、佳奈美の勉強を見に来てくれるか?」

 水曜のバイト後、マスターに呼ばれて、立ち止まる。

「構わネーよ? 毎月三日は、やってる事だし」

「そうか、頼む」

何となく、マスターの様子がおかしく感じた。

 軽く首を傾げて、彼の顔を眺めてしまう。 溜息なんぞ、ついている。

 余りにも彼らしからぬ態度に、心配になってカウンターへ寄って行った。

「マスター、ドーかしたのか?」

「何がだ?」

「溜息、ついてたじゃネーか」

「そうだったか? そりゃ、気付かなかった」

「チョイ、付き合おうか?」

「…そうだな。 一杯だけ、付合って貰おうか。 待ってろ、持ってくる」

 自分の秘蔵の酒を、ロッカーから出して来た。


 利知未は、ロックをゆっくりと2杯ほど飲みながら、マスターの悩みを聞いた。

「ついと来たか、反抗期」

ニヤリと、笑ってしまう。

「ザマ見ろ」

「お前、何ツー言い草だ? ……真剣に悩んでいるんだぞ、これでも」

「ソーだろーな。 ……けどな、あたしもチョイ気に成って、調べて見たんだけど。 可笑しいんだよな」

「何がだ?」

「年頃の娘の反抗期の、裏システム知ってるか?」

「裏システム? ナンだ? それは」

「……近親相姦の防止。 …って、説を聞いたンだよな」

少し考え、言葉を選んで、利知未が答えた。 ホルモンとフェロモンが生み出す、ミステリーだ。

「どう言う事だ?」

「つまり、より良い遺伝子を残す為に、余りに近しい者と交わるのを、本能が邪魔をする、その結果…。 って事らしい」

「そんな学説があるのか?」

「ソーみたいなんだよな、どうも。 …って事は、まったく血の繋がりが無い佳奈美とマスターの間で、そんな事が起こり得るモノか…。 …謎だろ?」

 利知未に言われて、納得半分、疑い半分な気分だ。

「マスター、ナンか佳奈美に嫌われるような事でも、したんじゃネーのか?」

「そんな覚えは、全く無いんだがな……」

真剣に首を捻るマスターが、気の毒な気がして来た。

「良いよ。 明日、あたしがそれとなく、佳奈美に聞いてみてヤるよ」

「…そうしてくれるか? 悪いな、頼んだぞ」

 問題解決をするにも、原因が不明なままでは、どうにも成らない。

 利知未の申し出に、素直に感謝をして頼む事にした。


 利知未は、酒を飲みながら、マスターと並んで話している内に、自分の心の変化を知る。

……どうしてだろう? あれほど、求めていた想いが。

 全く、疼き出さない。 構えていた心が、楽になっていた。

『……良く、解らないけれど。 このまま流れに従って、この人に対する想いを、忘れる事が出来たら』

 それが、一番良いのは、確かだ。 ……けれど、思う。

『どうして、急にこうなったんだろう?』

 切っ掛けを、探り出して見る。 ……どのタイミングで、こう成って来たのか?


「今日もバイクだな。 大丈夫なのか?」

マスターの声に、我に返った。

「ン? ああ、平気だ。 これくらい、酔っ払った内には入らネーよ。 近いしな」

「強いな。 それでも飲酒運転だ、気をつけろよ」

「解ってるよ。 …ンじゃ、そろそろ帰るか。 お疲れ」

「おお、お疲れ」

挨拶を交わして、利知未はアダムを出て行った。



 帰宅して風呂へ入り、ゆっくりと考え直して見た。

『マスターの事を考えても、気持ちが楽になったタイミングは……?』


 九月に入ってからなのは、確かだと思う。

 佳奈美が、日曜のアダムへ遊びに来た日。 新学期が始まって、直ぐの日曜の事。 ……あの時、楽になっている事を、始めに実感した。

 朝美の引っ越しの日。 昔の話しをしていて、マスターに言われた言葉を思い出した。 ……あの時は既に、チクチク感がなくなっていた。


『……倉真?』

 ……マスターが、あたしと倉真を、どうにかし様と……。


 それは、何故だろう? チクチク感を呼び覚ます。

『…まだ、本当にマスターの事、諦められた訳じゃ、無いのか…?』


 倉真は、昔から好きなヤツだ。 それは、宏治や和泉、準一に対して抱いている、弟分を思う気持ちと同じだ、と思う。 …克己も好きだけど。 それは、兄貴分として好きなだけだ。

『マスターの事は………』

……愛している。 ……愛していた?  倉真達に対する思いとは、全く別物だ。


 けれど、この前のツーリングで倉真に感じた、あの感じは……?


『あたしは、あの時から……。 倉真も男として、認め始めた…』

 キャビンでの、花火を眺めながらの、あの瞬間。


 思い出して、またドキリとする。 この数ヶ月間の、倉真との瞬間。


『……まだ、良く解らない』

 ばしゃっと、湯で顔を洗って、利知未は立ち上がった。




           五


 佳奈美の家庭教師をして、夕食を共にする。

 佳奈美は、父親と口を聞かなかった。 マスターは渉を構いながら、智子と言葉を交わし、利知未に、チラリと視線で佳奈美の事を問い掛ける。

 肩を竦めて、智子との会話を続ける。 食事を終え、佳奈美が利知未の腕を引っ張った。

「ね、利知未!勉強はもうイイから、ゲームしよう!」

「パズルゲームか?」

父親の言葉に、返事もしないで佳奈美が言う。

「私、結構、強いんだよ? ね、行こう!」

「分かった、引っ張るな」

佳奈美に引き摺られながら、マスター夫婦に軽く目配せをした。


 佳奈美の部屋で、暫くゲームに付き合った。 それから、何気なく言い出す。

「佳奈美、お父さんの事、急に嫌いになっちまったのか?」

「え? ナンで?」

画面を見て、コントローラーを操りながら、佳奈美が聞いた。

「さっき全然、マスターと話し、しなかっただろ?」

「……嫌いに成った訳じゃ、無いよ。 …アー! 利知未がヘンな事言うからぁ!」

操作を誤り、ゲームオーバーの音楽が流れる。

「ンじゃ、喧嘩でもしてるのか?」

「……ソーいう訳でもないんだけど。 ……あのね、聞いてくれる?」

 そして佳奈美が話し出す。 最近のクラスメート達と、自分の差。


 お父さんの事を、好きだと言う佳奈美に、何となく遠巻きに成ってしまった友人達の話し。 それだから、友達と仲良くしてもらう為に、反抗期の真似事を始めて見たと言った。


「何だ、ソー言う理由か。 けどな、それだったら、ダチの前で言わないようにすれば、イイだけじゃネーか?」

「利知未は、オカシイと思わないの? 皆と違うの」

「……あたしは、あまり周りに合わせて来なかったからな。 自分は、自分だ。 ンな事言ったら、あたしの家庭の事情、全部に嘘つかなきゃ成らなくなっちまう。 ……佳奈美が、お父さんの事を嫌いに成らないのは、可笑しな事でもないよ。 ソー言うヤツだって、居たって良いんだ」

 その裏の学説は、まだ佳奈美には早過ぎると思う。 その事には触れない様にしながら、利知未は佳奈美の、悩みの相談に乗ってやった。


 一通りの相談をして、佳奈美も気が楽になる。

「お父さんに、可哀想なコトしちゃった」

「そう思ったら素直に謝って、これからまた、普通にしてやればイイだろ?」

「うん。ソーする。 でも、一緒に出掛けるのは、暫くしないでおこう」

「何処でクラスのヤツに会うか、解らないモンな。 それ位は構わないんじゃネーか? けど、友達が元に戻ったら、また出掛けてヤれよ?」

 頷いた佳奈美を連れて、リビングへと降りて行く。


 マスターは渉を寝かし付けて、リビングで寛いでいた。

「お父さん、口聞いてあげなくて、ご免ね。 もう、大丈夫」

久し振りに佳奈美の可愛い笑顔を見て、マスターは一気に嬉しそうな顔になる。 利知未はその様子を見て、女らしい表情で、クスリと笑ってしまった。

「そーか! また、話しをしてくれるのか!」

佳奈美を抱き寄せて、抱きしめてしまった。

「イタタタ、お父さん、痛い!」

「悪い、力が入り過ぎた」

腕を緩めて、佳奈美を解放する。 利知未は堪え切れずに、声を上げて笑ってしまう。 マスターは、照れ臭い笑顔を利知未へ向けた。

 智子も何時の間にか、リビングを覗きに来て、その光景に笑顔を見せた。

 その日は何時もより、二千円多く包んで、利知未へ渡してくれた。



 金・土・日曜と、利知未はバイトへ行った。 今週の日曜は、シフトの関係で珍しく夜から入った。 ……その、三日間。


 利知未は金曜、何時もの様に倉真と顔を合わせた。 マスターと三人で、また少し話しながら、仕事をしていた。

「風邪、治ったみたいだな」

「体力には、自信が有るっすから」

倉真がニヤリと、不敵な笑みを見せる。 まだ、少し残っている感じはある。 薬を飲んで、通常はもうナンの問題も無く、仕事もこなしている。

「まだ暑い日があるってのに、変なタイミングで風邪を引いたモンだな」

「朝晩の気温の変化が激しい時は、風邪も引き易い物なんですよ」

 利知未も倉真も、あの池ポチャ事件には、触れないでいた。


 倉真は、自分のヘマを言い触らす気も無い。

 利知未は、あのタイミングで倉真に感じた事を、思い出すのが照れ臭い。


 それでも昨日、マスター一家と共に過ごした時間。

 ……気持ちが随分、軽くなっていたのは確かだった。

『マスターと奥さんが、仲良く話しをしていても。 ……佳奈美を、マスターが抱きしめた時も。 前より、素直に笑えていた……』


 愛している、と言う感情が、これ程すんなりと、引き潮の様に遠ざかる物だろうか……?

もしかして、彼に感じていた想いこそ、単なる自分の、勘違いだったのだろうか……?


 自問して、その質問には、NOを出す。

『あの年末、自分から彼を誘った夜……』

感じた想いは、嘘でも、勘違いでもなかった。

『それなら、どうして……?』


 同時に、目の前で食事をしている倉真の食いっぷりを見て、頬が綻ぶ感じも……イヤではない。 ……少し、愛しさも感じている。

『けど、倉真だって……。 弟として、みたいに感じて来た時間が、長いから……』

直ぐには、その変化を受け入れ切れない感じだ。


 それなら、宏治や和泉、準一、克己にだって、同じ様に感じる可能性が、出て来ていたって可笑しくは無い。


『……どうして、倉真なんだろう?』 気になり始めている思いは、誤魔化しきれる物でもない。

 他人に対しては、誤魔化す事も出来るけれど……。 自分の心には、無理だと思う。


 土曜日も、倉真が飯を食いに来る。

「土曜も、仕事をしているのか?」

マスターの質問に、倉真がディナーディッシュを平らげながら、返事をする。

「前は、ンな事無かったンスけどね。 三年目入ってから、面倒な事、押し付けられちまって」

初めて、今のバイト先での自分の立場を、何気なく話した。

「俺が見た通りだな」

「何がですか?」

利知未の質問に、マスターがニヤリと笑う。

「コイツは、お前ほど危なっかしいヤツでも、無さそうだって話しだ」

「ナンの話しっすか?」

「ナンでもない。 …そろそろ、珈琲淹れるよ」

 利知未が話しの腰を折って、倉真の珈琲を淹れ始めた。



 そして、日曜。 朝、カレンダーを見た利知未は、去年の事を思い出した。


『十月、十四日』  始めて、マスターと関係した夜。

 初めて、彼に対する愛情を、知ってしまった夜。


『去年は、土曜だったんだよな……』

翠の送別会だ。 あの後、飲み足りないと言った彼に付き合って、アダムで……。

『今のあたしは……。 まだ、彼の事を、愛しているのだろうか……?』

 ……もう一度、確かめられたら。 もう一度だけ、抱かれてみたら……?



 仕事は何事も無く、閉店の時間を迎えた。 今日は、倉真も現れなかった。

 帰り際に、マスターに声を掛けられた。

「佳奈美の事、世話を掛けたな。 祝い酒だ、付き合え」

「なんだよ? たかが親子喧嘩が解決したからって、祝い酒かよ?」

朝の気持ちを思い出さない様、いつも通りの、男っぽい仕草を見せる。

『ああは思ったけど、やっぱり、 ……いけない事なのは、変わらない』


 それでも、この二人切りで酒を飲み交わすチャンスを、利知未は断ることも出来ない。

……何を、期待しているんだろう?  自分で、自分が嫌になる。


 嬉しげなマスターの横で、自暴自棄な気分をひた隠して、利知未は酒に付き合った。

 気持ちが、不安定だ。 つい、酒の量が過ぎてしまう。


「お前、随分、飲むな」

「祝い酒なんだろ? 遠慮したら、祝い気分が薄れちまうじゃネーか」

「…そりゃ、ソーだが」

残り少なくなって行く、秘蔵の酒の量を眺める。

『こりゃ、少し早いが。 新しいボトルを開けなけりゃ持たないな』

「仕方が無い、持って来るか」

「新しいボトル、出すのか? だったら、前みたいに酒、買ってこようか?」

「それは、マズイだろう」

 小さく呟いて、マスターが利知未を見る。

『……マズイな。 随分、また』

利知未の目が、怪しく色っぽい光りを、放ち始めている。

 本人、その気が無くてもそうなる事は、以前の出来事で実証済みだ。 気付いていなかった様子は、本当だった。


 新しい瓶を出して来て、マスターが利知未に問い掛ける。

「お前は、何か悩みが出来ちまったのか?」

「なんで?」

「飲み方が、少しな」

聞かれて、彼が自分の事を、本当に良く見続けて来てくれた事を実感した。

「マスターも、もう少し飲んでくれよ? ……でなきゃ、相談出来ネー」

 甘えた事を、言ってしまう。 それでも彼は、付き合って飲み始めてくれた。


 マスター秘蔵の新しい酒のボトルが、半分にまでなってしまった。

 そろそろ、二人とも酔いが回り始める。


 利知未は、漸くポツリポツリと、話し出す。

 タイミングは、マスターがネクタイを、外してしまった瞬間…。

「今の気持ちが、知りたいよ。 あたしは」


 本当に、あなたの事を、忘れ始めているのか?

 本当に、新しく別の誰かを、愛し始めようとしているのか?

 本当に、別の誰かを愛することが……、…出来る様に、なれたのか……?


「どうしたいんだ?」

「……確かめたい」

「何を?」

「……教えてよ? 本当に、あたしは」

「俺が、何を教えられるんだ?」

「………あたしの、心」


 また、魔物に変わる。 ……また、何時ものコイツと、別人に見え始めた。


 目に、何故か涙が浮かんで来た。

 ………あの年末、彼に感じた、裕一と重なるイメージ。


『どうして、裕兄を思い出すんだ?』

 ……思い出さなければ、涙も出ては、来ない筈。


 始めて見る利知未の涙に、彼は……。

  その目に、またも惹き込まれてしまう……。


 流されて、場所を変え。 彼女の華奢な身体を、その腕に抱きしめる。



 十ヶ月振りに、彼に抱かれて。

 利知未は自分の心が、別の誰かを愛し始めようとしている事を、実感した。


 彼女の、その様子は。

 理性が薄れた彼の脳裏に、何故か安心感を植え付ける。


『コイツが、何を想って今夜、俺に抱かれているのか』

『……優しさは、感じるけど。 ……安心、出来るけど』


 ……彼の事を愛していた想いも、嘘ではないけれど。


 ……二度と、手を出さないと、決心していた筈ナンだが。


「…ン、マスター……。 解った、みたいだよ……」

「……お前は。 ………イイ女に、なった物だな」


 身体を離す前、二人は最後の、キスを交わす。

「本気で、愛していたけど……。」

「……過去形だな」

「……あたしの、苦しかったけど、大切な、……想い出」


 腕の中の彼女が、今までで一番、綺麗に見えた瞬間だった。


 『もう本当に、二度とコイツを抱くことも、無いだろう』

 『もう、本当に、二度とこの人に抱かれる事も、無い筈』



 身体を離し、新しくその心を占め始めた、相手の顔を思い出す。

『……でも、もしもアイツを、一人の男として、求め始めてしまったら…?』

 今までの関係を思い、切無いような気分になる。

『……それに、本当にアイツが、弟以上の存在に、なるのかな…?』

 隣で、ジッと何かを思う彼を見る。

『マスターは、父親くらい歳の離れた、大人の男』

 ……アイツは。 自分より年下で、相変わらず危なっかしさを感じてしまう、子供みたいな所を持ったヤツ……。


 利知未の視線を感じて、マスターが顔を向ける。

「……マスター、ご免。 ……本当に、ありがとう」

 微笑を見せて、身を起こした。

「…大丈夫なのか? お前は」

「どうして? あたしから、甘えてしまったんだよ?」

普段の雰囲気と全く違う様子を見せる利知未に、改めて感心してしまう。

「……お前も、女だな」

「そりゃ、ソーだ。 性別がクルクル変わる訳、無いし」


 シャツだけ羽織ってボタンを留める。 下着も身に着け直して、欠伸を噛み殺した。 マスターも、半身起き出した。 シャツを着直して、時計を確認する。

「もう、六時になるのか……。 面倒だな、ココで寝ちまうか」

そして、利知未に釣られて欠伸をする。

「あたしも、チョイ仮眠を取った方が、イイみたいだ」

ロッカーから毛布を出した。 夏掛けが有るのを見付け、それも引っ張り出す。

「流石に、毛布1枚じゃ寒いかもしれない」

「去年よりも、朝晩が冷え込んでいるな」

 二人、欠伸をしながら、眠そうな声で言葉を交わした。


 今更、別々に寝るのも面倒臭くて、そのまま二人で去年の様に、一緒に包まって眠ってしまった。


 翌朝八時前に、二人は慌てる事になる。



 朝七時、マスターの自宅へ、高校生バイト・別所 基樹から連絡が有った。

「財布、店に忘れて来たみたいで。 今日、必要なんで、朝からすみませんが、開けてもらえないですか?」

電話を受けた、智子が言う。

「昨夜は、戻っていないのよ。 多分、また閉店後に深酒して、そのまま店で眠り扱けていると思うから。 店は、裏口が開いていると思うわよ?」

「そうですか、分かりました。 朝から、済みませんでした。 回って見ます」

 電話を切って、別所は何時もよりも早くに自宅を出て行った。



 アダムの裏口のドアノブを、そっと回して見て、本当に鍵が掛かっていない事を知る。そのまま、店へ踏み込んだ。


 微かな気配に、利知未は慌てる。 手探りでジーパンを探し出して、急いで履き直した。 その気配に、マスターもトロトロと目を覚ます。

「どうした?」

「シッ!」

鋭く息を吐き、人差し指を口の前に当てて、利知未が油断無い視線で身構えた。

「レジ荒らしかも知れネー…」

三度抱いてしまった利知未の、その時とまた百八十度違う様子に、マスターは妙な感心をしてしまう。 ……まだ、寝ぼけているのかもしれない。


 休憩所へのドアをそっと開け、覗き込む様にしながら足を踏み込んだ別所は、痛い目を見てしまった。


 利知未が得意の合気道を駆使して、不法侵入者を捕え様と、その腕を掴みあげた。 驚いた声を聞いて、慌てて手を離す。

「別所!?」

「瀬川さん!?」

お互いの顔を見て、同時に叫んでしまう。

 マスターは漸く、はっきりと目が冷めた気分になる。

「どうして、瀬川さんが?!?」

当然の疑問に、利知未が一瞬、しまった顔をしてしまった。

 マスターが、呑気に起き出して来て、別所に言った。

「どうした? こんな朝っぱらから」

「……財布、忘れてしまったんで、今日、必要だった物で」

ノーブラでそのまま、シャツを着込んで、前のボタンも三つほど外れている利知未を見て、恥かしそうな顔をした。


 視線に気付いて、利知未が慌ててボタンを二つ、閉め直す。

 別所の視線が、昨夜の行為の痕辺りへさ迷う。 利知未の、下着を見付けてしまう。


「昨夜、酒飲み過ぎてココで眠っちまったんだ」

 利知未が漸く頭を働かせ、ナンでもない声を出す。

「……ソーなんですか? …マスターと、一緒に?」

「良く有る事だ。 特に、妙な事は無いぞ?」

別所の視線が、利知未の外したブラと、二人の顔を見比べている。

 利知未が慌てて、それを拾って隠した。

「何、見てんだ?! …お前、実は結構、ムッツリなのか?」

態と、女として、恥かしい思いの方を前面に押し出した。

「そりゃ、無いだろう? 高校一年男子を捕まえて。 ……飲み過ぎるとな、苦しくなるらしい」

マスターが、最後の言葉を耳打ちして、片眉を軽く、上げて見せる。

「……ソー言う、モンなんですか?」

「お前も、彼女が出来れば分かる事だ」

必要以上に弁解がましい言葉は、返って危険だと判断した。


「財布だろ? もしかして、これか?」

 タイムテーブルの脇に置き忘れていた、別所の財布を見付けて、利知未が手渡した。 別所は受取り、礼を言って、慌てて店を出て行った。


 別所が出て行った後で、マスターと二人顔を見合わせて、溜息を付いた。




           六


 月曜日。 倉真が仕事で回った某会社では、酷い風邪を引いた男が、バイク便配送物の対応に出て来た。


 以前、ここを担当して回っていたバイトがイイ加減なヤツで、クレームを受けてしまった。 彼は、この会社の担当を外された。

 ライダーバイトの責任者とは、そう言った得意先への、アフターフォローまで押し付けられる身分だ。 倉真が面倒な事を押し付けられた、と言うのは、主にこの辺りの事情を指している。


「担当、替わったんだ。 早くそうしてくれれば、この前の様な事も無かったんだ。 お宅の会社、対応遅過ぎじゃないですか?」

 男は、盛大に咳を撒き散らし、くしゃみの唾を飛ばしながら、倉真に愚痴り始める。 客相手だ。血の気の多い倉真も、ジッと我慢するしかない。

「申し訳ありませんでした。 以後、気を付けます。 対応の遅い事も、改めて会社の上へ掛け合いますんで、これからも宜しくお願いします」

マニュアル通りの言葉を告げ、深深と頭を下げる。

 返って、社員が出て行くよりも良い事も有る。 今回のケースもそうだった。


 倉真はその後、延々二十分も、その男の愚痴を聞かされた。

 愚痴と、嫌な気分と共に、酷い風邪の菌まで貰ってしまった……。


 バイトを終わり、自分のバイクへ跨る頃には、酷い頭痛がし始めた。

『…クソ、前の風邪、治りかけてたっテーのに』

寒気がし始めて、飯を食う気も起きない。 その日、珍しく倉真は、アダムへ現れる事は無かった。 帰宅して、そのまま、倒れ込むようにして眠ってしまった。

 それでも、火曜の午前まではバイトをしていた。


 昼頃、午後からの配送物を取りに、会社へ戻った倉真の顔色を見て、目を掛けてくれていた社員が、心配して声を掛けた。

「館川、凄い顔色だな。 どうした?」

「…チョイ、風邪貰っちまったみたいで」

「チョイ、って事あるか? 熱は?」

「体温計、持って無いンスよ」

事務係りの女性に言って、体温計を出させ、倉真へ渡す。

「飯、食ってるのか?」

「食う気、出ないンすよね」

そして、出前の饂飩を奢ってくれた。 倉真の熱は、三十九度近かった。

「それ食って、今日は帰りな。 二、三日休んで、病院行って来い」

 倉真はその言葉に、素直に従う事にした。 病院へ回ってから、帰宅した。


 そして今日も、アダムへ顔を出せなかった。



 火曜は、利知未のバイト日だ。

 何時も倉真が飯を食いに来るのは、十九時から二十一時頃までの間だった。

「今日は、遅いな」

ふと時計を見て、利知未が呟いた。

「今日も、来ないかもしれないな」

マスターは、誰と聞かなくてもお見通しだ。 自分自身も、倉真が顔を出さないと、何と無く妙な気分になる。

「今日もって、昨日も来てないんですか?」

利知未が驚いた顔をした。 この五月中旬過ぎから、倉真が平日夜に来なかった事は、一度としてなかった。

 夏のキャビンへ出掛けた木・金の、金曜くらいだ。

 心配顔になる利知未を見て、マスターの顔に、微かな笑みが浮かぶ。

「どうしたンだろうな。 …風邪を拗らせたのかもな」

マスターの言葉を聞いて、利知未は今夜、連絡をして見ようと思った。


 夜、十一時半頃、倉真の部屋で電話が鳴る。

 倉真は昼間、病院で処方された薬を飲んで、すっかり眠り込んでいた。


 利知未は自室の電話を使って、帰宅後直ぐに、連絡をして見た。

 呼出し音が七回鳴り、始めから電話機に内臓録音されている、女性の留守電メッセージが聞こえて来た。 少し考えて、呟いていた。

「…倉真? ……眠ってンのかな」

メッセージを残そうと思った訳ではなかった。偶々、記録された。



 倉真は翌朝、留守電に記録された、利知未の不安そうな呟き声を聞いた。

「十六日、二十三時二十六分、一件です。」

 電話のメッセージが、その時間を告げる。

『…利知未さん、バイトの後、連絡をくれたんだな』

まだ、頭は朦朧としている。 それでも起き出して、顔を洗った。

 仕事は無理そうだと感じて、バイト先へ連絡を入れた。

 十一時近くなり、腹が減ってくる。 昨日、昼飯に奢ってもらった饂飩を食ってから、何も腹に入れていなかった。

『一応、回復はしてンのか……』

暫し考え、宏治にヘルプを出そうと思う。 自分で台所へ立つのは、どうやら自殺行為の様だ。


 倉真からの電話に、宏治は驚いた。 声が、息声で苦しそうだった。

 親友からのヘルプに応え、昼頃、様子を見に行った。


「こんなになるまで、良くSOS出さなかったもンだな」

 宏治は倉真の枕元で、半分胡座を掻いて、膝に肘をついていた。

「馬鹿言え。 これでも、まだマシになったんだぜ?」

咳込みながら、宏治の作った粥を口にした。

「今朝まで、飯も食え無かったンだ」

「…利知未さんに来てもらったら、一発で治ったりしてな」

宏治の言葉に、倉真は風邪とは別の理由で、また咳込んでしまう。

「…ンな事、出来る訳、ネーだろーが」

脇に置いてあったトレーの上から、水を取り上げて、倉真へ渡しながら、可笑しげな微笑を見せた。

 今夜、利知未のバイトが終わった頃、自分が連絡をしてやろうと思った。


 宏治は、夕飯の分まで用意して、午後二時前には帰って行った。

 倉真は腹に飯も収まり、人心地ついて薬を飲み、そのまま眠ってしまった。



 二十一時過ぎ、利知未は、今日も姿を表さない倉真を心配していた。

 心配顔の利知未を見て、マスターが、軽い口調で言い出した。

「お前、そんなに気になるんなら、行ってくりゃイイじゃないか?」

「バイトしてるじゃないですか」

「終わってから、行って見ればイイだろう」

言われて、少し恥かしい気分になる。 女らしい雰囲気を一瞬見せた利知未に、マスターが追い討ちを掛ける。

「具合が悪くて寝込んでるなら、心細い思いをしているんじゃないか」

「…そう言う理由かどうかなんて、解らないじゃないですか」

「他に思い当たるような事は、無いと思うがな」

「飯を作ってくれる相手が、出来たのかもしれないし」

「…それは、無いだろうな」

利知未の言葉に、マスターが呟いた。

『アイツが、利知未以外の女を見るとは、思えないがな』

心の中では、そう呟く。 軽く眉を上げ、小さく首を竦めた。


 バイト後、少し悩んだが、やはり真っ直ぐに下宿へ戻った。

 自室に踏み込んだ時、丁度のタイミングで、電話が鳴った。 利知未は、慌てて受話器を上げる。

「利知未さんですか? 宏治です」

「…ナンだ、お前だったのか」

つい、口を付いて言葉が出て来た。

「誰かの連絡、待ってたんですか?」

聞かれて、少し慌ててしまう。

「ソーじゃないよ。 …で? どうしたンだ」


 明らかに、気が抜けている利知未の声を聞いて、宏治は軽く首を傾げた。 けれど気にせずに、手短に伝えた。 仕事中である。

「倉真が酷い風邪引いて、寝込んでるンスよ。 良かったら明日、大学の後にでも、見舞いに行ってやって下さい。 チョイ、辛そうだったんで。 用事は、それだけです。 遅くに失礼しました」

利知未からの返事は待たずに、受話器を置いた。 宏治目当ての常連客が、空のグラスを軽く掲げて見せていた。


 宏治の電話が切れて、ツーツー音が受話器から聞こえてきた。

「…ナンだ、風邪か…」

無意識に、呟いてしまっていた。 ……それから我に返り、また不安になった。

『まさか、こないだの風邪、拗らせちまったとか…?』

明日、宏治に言われた通り、行って見ようと思った。


 それから、自分がさっき一瞬、何に対してホッとしていたのか? と思う。

『……飯を作ってくれる女が出来たって訳じゃ、なかったって事、何だよな?』

そこに、思い当たってしまう。

『……あたしには関係無い事、って気も…、しないでも、ないんだけど…』

 変な気分に成って来た。 気分を切り替えるため、風呂の準備を始めた。


 翌日、利知未は大学の後、そのまま倉真のアパートへ向った。

「確か、このアパートだったよな」

建物とその周囲を、キョロリと見回す。 引っ越し以来だった。

 木造・軽鉄筋制の、少し古いアパートの前だ。 引っ越しの手伝いに来た時の事を思い出し、改めて建物を眺めて見る。

『チョイ、古いけど、綺麗に整備してあんな』

白っぽい外壁も、数年に一度は塗り直しているみたいだ。 周りの落ち葉も、日に何度かは掃き清めているらしい。 堆く枯葉が積み上がっている様な事もない。 どうやら、大家が確りしているらしい。

 駐輪所も、トタン屋根を葺いてある。 そこに、倉真のバイクを見付ける。

「ココへ置けばイイか」

呟いて、バイクを駐輪所の片隅へ止めた。 二階へは外階段を上がって行く。 カンカンと、軽い足音が響いた。 部屋番号を確認して、チャイムを鳴らす。


 倉真は、トロトロと眠っていた。 風邪薬の中に、眠くなる成分も含まれている。 チャイムの音を3回、夢現で聞いていた。


「倉真? いないのか…? って、訳ネーか」

 バイクが、止まっていたのだ。 風邪を引いて、寝込んでいる筈だ。


 小さな声が耳に入って、イイ夢を見ている気分になる。 再びチャイムの音がして、その声が夢でない事に漸く気付いた。

「…利知未さん?!」

一気に目が冷める。 少し慌てて起き上がろうとして、クラリとした。

 落ち着いて、ゆっくりと起き上がり、いつも通りの、見っとも無い格好でいた事を思い出した。

『流石に、やばいか?』

箪笥を開けて、ジャージ生地のズボンを引っ張り出した。


 利知未は、部屋の中からし始めた、小さな物音に耳を済ませた。

「倉真…? 生きてるか?」

もう一度声をかける。 急に照れ臭い気分になり、ふざけた言葉を使った。

 ドアの向こうで足音がして、鍵が開く音がした。


 驚いた倉真の顔を見て、少し笑えてしまった。 けれど、その顔色が、余り良くない事を見て取り、心配顔になる。

「大丈夫なのか?」

「ナンで、利知未さんが…?」

「昨夜、宏治から連絡があった。 お前が風邪引いて寝込んでるから、見舞いに行ってくれって、…頼まれた」

 自分の素直な気持ちに従って来た事は、誤魔化してしまう。

『宏治のヤツ』

倉真は歯噛みしたい気分と、感謝の思いがごちゃ混ぜになる。

「兎に角、入って下さい」

「ああ、邪魔するよ」

倉真に促され、半年振りに、その部屋へ上がり込む。


 先に奥へ向い、台所と部屋の窓を、倉真が開けた。

「風邪、移っちまうから」

「そんなに、酷い風邪なのか?」

「ソーっすね。 滅多に、こんな風邪引かないっスよ」

「換気だけしたら、直ぐに閉めた方がイイな」

夕方の風は、すっかり冷たくなって来ていた。

「インスタントしかネーけど」

「イイから寝てろよ」

小さく咳をしながら、それでも湯を沸かし始めた倉真に、利知未が言った。

「ヘーキっすよ、こンくらい」

「平気って事、あるかよ? …熱は?」

「体温計、持って無いンスよ」

「呆れたヤツだな、今まで、どうしてたンだよ」

「風邪引くこと自体、殆ど無かったんで」

答えながら、また小さく咳込んでいる。 利知未は自分の額と倉真の額へと手を当てて、熱を測る。

 そうされて、ドキリとする。 ……冷たいけど、柔らかい手だな、と思う。

「結構、有りそうだな…。 お前、平熱とかは解るか?」

「…アンマ、覚えてないっスけど。 …そろそろ、薬が切れる頃なんスよ」

「だったら、起きてないで寝てろよ」

呆れ半分、怒った様な顔で、両手を腰に当てている。 若い母親みたいだ。

 また、新しい表情を見て、少し嬉しい気分になる。

「…分かった、寝ます。 …湯が沸いたら」

言いながら、小さなダイニングテーブルの椅子へ腰掛けた。 少し、立っているのが辛い感じだった。 綾子と同棲していた頃から、そのまま使っている物だった。 椅子も二脚セットで揃っている。

 倉真の頑固な性質は、解っている。 利知未は譲渡してやった。

「冷蔵庫、見せてもらうよ」

「ナンも、入ってないと思うっすけど?」

いつかの里真からの情報と、この前、マスターが言っていた言葉を思い出した。 ……利知未は、本当に料理が出来るんだろうか? 興味が沸いて来た。

「…卵くらいは、有るんだな。 後は…、野菜が少し残ってンな。 お前、料理するのか?」

冷蔵庫を閉めて、少し驚いて倉真を振り向いた。

「…昨日、宏治が持って来てくれたンじゃネーのかな?」

利知未は納得した。 自炊しているのなら、毎晩アダムへ来る事もないだろうと思った。


 棚も検分して、調味料の揃い具合も確かめる。

『…? にしては、揃ってンな』 何となく、感じる物があった。

 ……本当に、自炊していないのか? それとも、やはり女でも、いるのか?

『……まぁ、イイか。 買って来る物が少なくて、助かる』

気持ちを、違う事へと摩り替える。


「買い物、行って来るよ。 湯が沸いたら、寝てろよ? と、鍵どうする?」

「開けたままで、構わないっスよ」

 少し、期待感が高まった。 ……本当に、何か作ってくれるのか、そう思う。

「そーか。 …ンじゃ、二、三十分で戻るよ」

利知未が言って、玄関を出て行った。



 近所のスーパーで、果物を買った。 時期で梨が安かった。 栄養補給用に、バナナと林檎も買って行く事にする。

『粥の材料くらいは、揃っていたよな?』

先ほど見分して来た、冷蔵庫の中身を思い出す。 ついでに、饂飩も少々、籠へほおり込んだ。

『汁は、自分で作るか』

鰹節と、顆粒の出汁も籠へ入れる。 思い付いて、椎茸と白葱も入れた。

『土鍋、あったような気がする』 綾子と、二人で住んでいた時の物かもしれない。

酒は、料理酒ではなく、普通の日本酒を買う事にした。

『天ぷらは…、胃腸が弱ってたら、止めた方がイイよな』

変わりに油揚げを籠へ入れる。 鍋焼き饂飩でも、作ってやろうと思う。 ついでに明日の朝飯用に、粥も作っておけば、安心かもしれない。

 最後に薬局へより、体温計を買ってから、倉真のアパートへ戻った。



 倉真は、熱湯をポットへ移してから、大人しくベッドへ入っていた。

 そろそろ腹が鳴り始めた。 玄関が開く音がして、利知未の声がした。

「只今、で、イイのか……?」

ポツリと呟いて、首を傾げる。 ……ナンか、照れ臭い。

 倉真が起き出そうとする前に、部屋へ顔を出した。

「ちゃんと寝てたな、偉い偉い」

利知未に笑顔を見せられて、倉真も照れ臭い感じだ。

「偉い偉いって、小学生じゃあるまいし…」

照れ臭い気持ちを、誤魔化して見た。 利知未が買って来た体温計を倉真へ渡した。 素直に熱を測り始める。

「腹、減ってるか?」

「さっきから、鳴ってます」

「胃は、平気みたいだな。 …饂飩、作ってヤるから、待ってな?」

饂飩か、と思う。 それでも嬉しい。 …料理出来るンスか? と聞こうとして止めた。

 利知未がもしも、とんでもない物を出しても、平らげ様と思う。


 三十分くらいで、利知未は鍋焼き狐饂飩を、その汁から作って用意してくれた。

 ベッドへ運ぶか聞かれたが、倉真は自分からダイニングテーブルへついた。 ……一応、心の準備などして見た。

 出された鍋焼き饂飩を見て呟く。

「……美味そうだ」 味は、どうなんだろう……?


 利知未は前の席について、倉真が食い始めるのを眺め始めた。 土鍋がもう一つ、美味そうなぐつぐつ音を立て始める。


「熱いから、気を付けろよ?」

促されて一口、意を決して口にした。

「………!」 そのまま、無言で食い続けた。

利知未の料理は、想像していたのと全く違った。 だし多めの味付けで、やや薄味でも、味が確りついている感じだ。

 素直に、とても美味いと感じた。 がっついてしまう。

 その様子を、利知未が微笑して眺めていた。 もう一つの土鍋が吹いて、火を止める。 倉真の目の前で、一緒に食べ始めた。


 倉真は、汁まで確り平らげてしまった。 それから顔を上げ、目の前で自分の分を食べている利知未を見て、急に照れ臭くなった。

「……スッゲー、美味かったっす」

「良かったよ。 何にも言わないで食ってたから、マズイのかと思った」

「……何てーか、……利知未さん、料理、出来たンすね」

言ってしまってから、慌てる。

「失礼なヤツだな。 でなきゃ、風邪引きに食わす物なんか、作れネーぞ?」

気恥ずかしさを誤魔化して、利知未は、笑いながらそう言った。


 それから食器を片付け、一つの土鍋に、明日の朝飯用だと言って、粥を炊いてくれた。 その間に、器用な手付きで梨を剥いてくれた。

 その手際に、今まで自分が持っていたイメージと、全く違う姿を見る。


 九時前には、倉真の部屋を出た。 思ったよりも長居をしてしまった。

 利知未の手料理のお蔭か、倉真の風邪は翌日には、殆ど治ってしまった。




          七


 倉真の部屋を出る前、利知未から次のツーリングを誘った。

「お前の風邪が直ったら、冬桜、見に行かないか?」

「冬桜…?」

「埼玉の、城峯公園って所が、有名らしい」

「始めて聞いたっスけど、イイっすね」

「だから、見頃が過ぎる前までに、風邪、完全に治しておけよ?」

「…了解」

利知未を玄関先へ送り、鍵を掛けて、そのままベッドへ入って、朝まで爆睡してしまった。

 その爆睡が、良かったのかもしれない。 翌朝、金曜日には、倉真はバイトへ復活した。



 金曜のアダムへ、倉真が飯を食いに来たのは、十九時過ぎだった。

「お前、もうイイのか?」

「昨日の鍋焼きが、効いたみたいっすよ」

カウンター席へ掛ける倉真に、利知未が目を丸くしている。

 二人が交わした言葉を聞いて、マスターは一人で、ニヤリと笑う。

「鍋焼き、作ってやったのか?」

マスターから聞かれて、利知未は瞬間、照れ臭い顔になる。

「利知未の料理の腕、どうだ?」

「…美味かったっすよ。 チョイ、驚いたっす」

 本当は、物凄くびっくりだった。 今朝、食った粥も、塩加減が良かった。

「何時も頼んでンの、食いたいンスけど?」

「本当に、良くなってンのか? 今日は、リゾットかグラタンにしておいた方が、イインじゃないか」

 利知未が倉真の様子を観察しながら、聞き返す。

『健康管理まで、利知未がするのか?』

マスターはそう思って、益々ニヤニヤし始める。 倉真も素直に、利知未の言葉には従う様だ。 グラタンにオーダーを変更した。

『コイツ等も、似合いだな……』


 三度、深い関係を持ってしまった利知未の事は、やはり他のバイト以上に気になるものだった。 つい、倉真を応援したくなる。

 二人が上手い事行けばいいと、本気で思っていた。



 朝美は、里沙に料理と下宿の管理を、色々教えられながら、この一ヶ月を過ごした。 仕事は、利知未たちを起用したチラシの効果が、かなりあった。

 チラシに載せた何点かは、売れ筋商品になっている。

 仕事も、開店してまだ三週間だが、売上は日々、右肩上がりだ。

 樹絵が巻いたチラシを見て、生活に余裕がある家庭の娘達も、何人か来店している。 双子が通う学校は、お嬢様学校の内に数えられる所だ。


 利知未は、あれから双子の学校で、また人気が上がってしまった。

「ね、樹絵。 今度、下宿へ遊びに行ってイイ?」

そう聞いてくるクラスメートが、増えている。

「イーけど、利知未はアンマ、下宿にいないよ」

「そうなの? 残念! じゃ、冬休みにしよう」

「利知未は女なんだけどな」

呟く樹絵に、友人が言う。

「だから、返って格好良く見えるんだよね。 目の保養になる男捜すのって、結構大変じゃない?」

「つまり、目の保養にするつもりで、いるんだ」

変なの、と樹絵は思う。

 だったら、彼氏でも探しに行く方が、よほど健康的な女子高校生の姿ではないか? と思う。

 この辺り、樹絵も少しは、女の子っぽい感覚が出てきた証拠かもしれない。


 準一とは、偶には二人で遊びに行くようになっていた。 デート、と言う感じは全くしなかった。 ただ、仲の良い友達同士な感じだ。

 準一も樹絵に対しては、他の女に対する時の様な触手が、動く事もない。 樹絵は最近、その辺りに新たな悩みを抱え始めていた。

『あたしも、色々な恋愛して見た方が、イイのかな……?』

そうすれば、もう少し女の子らしい部分が、出て来るかもしれない。

『けど、今ン所、そう言う相手も居ないしな』

 ……準一を除いては。

 結局、今のままが、一番イイかも知れないと思ってしまう。



 里真と宏治は、里真の受験勉強の邪魔にならない程度に、デートを繰り返していた。 大体、宏治が兄貴の車を借りて来る。

「バイクの後ろも、気持ち良かったな」

「偶には、いいんだろうけど、里真の受験が終わってからにしよう」

「利知未にも、禁止されているから?」

「…て言うか、確かに、タンデムは危険だから。 どんなに注意していたって、事故に遭う可能性はあるだろ? その時、バイクと車じゃ、死亡率だって違う物なんだ。 死なないにしたって、大怪我するだろ。 受験前にそんな事になったら、おれはどう責任取ればいいンだ?」

と、宏治は真面目な事を言う。 その真面目さは、里真にとっては安心感だ。

「はーい、我慢します。 その代わり、第一志望の短大へ受かったら、その時は、バイクにも乗せてね?」

「約束するよ」

 そうして今日は、何処まで行こうかと話し合う。 ……二人の関係は、順調だ。



 金・土・日とバイトをして、翌週木曜日は、佳奈美の家庭教師に行く。

 マスター一家と過ごす時間は、利知未にとって、辛い時間では無くなっていた。 佳奈美とマスターの親子関係も、今の所は平穏そうだ。

 益々、腕白になった渉を見て、久し振りに姪っ子を見に行きたいと思った。


 二十八日・日曜日。 兄夫婦のご機嫌伺いへ行く。

「また、妊娠!?」

「またって事、無いでしょう? 真澄も三歳になったし、少しは楽になったから。 一人っ子じゃ可哀想でしょ?」

「で、今、何ヶ月ナンだ?」

「二ヶ月よ。 予定は、来年の六月。 利知未と同じ誕生日になったりして?」

明日香も、利知未と呼ぶようになっていた。 益々、家族みたいだ。

 最近、実兄・優の嫁ではなく、実姉・明日香と、感じる事がある。

「ソー成ったら、血筋も血筋だし、どーしよーもない性格に育ったりしてな」

「優に似たら、大変かもね」

おどけた言葉に、優が少し剥れ顔になる。

「言ってろ」

そう言って、昼飯を食う様子を、明日香と見ながら笑ってしまう。

『男って、結局、何時までもガキなのかもしれネーな』

倉真を思い出してしまう。


 完全に、利知未の心を占めている相手が、入れ替わっていた。


『どうしてだろう……? マジ、アイツが気に成り始めたみたいだ……』

マスターでも、克己でも。 勿論、宏治でも準一でも、和泉でもない。

『あたしは、本当にアイツが……。 …特別な意味で、好きになり始めている』


 ヤンチャな血を受け継いだ真澄が、利知未の背中へよじ登って来た。

 我に返って、真澄を構い始めた。

「りちみ、おんも、いこ?」

言葉は早い様だった。 やはり女の子だなと思う。 一つ年上の、渉より達者かもれない。

 昼食を終え、昼寝を決め込む優を置いて、明日香と真澄と三人で、近所の公園へと出掛けて行った。


 公園で、友達と楽しそうに遊ぶ真澄と、優しい笑顔で見つめる明日香を近くで見て、利知未は思う。

『こんな、幸せそうな家庭なら、あたしも……』

 出来るだけ早くに、持って見たいかもしれないと、思い始めた。



 十一月三日・祝日に、倉真と二人で、ツーリングへ出掛けた。

「殆ど、群馬だったんだな」

公園へ到着して、地図を見てみた。

 城峯公園は、旅行雑誌のページに載っていた。 公園付近までの道程は、少しはカーブも楽しんで走らせて来た。

「けど、良いタイミングみたいだ。 紅葉も、見頃だな」

地図を眺める倉真に、利知未が声をかける。

「取り敢えず、散策してみるっすか」

倉真が言って、地図を仕舞い込む。


 駐車場から、軽い上り坂を超えながら、公園内を散策し始めた。

 清楚な十月桜の花振りを、近景・中景・遠景に眺めながら歩く。


「弁当でも、持って来れば良かったか?」

 近くのベンチで、昼食をしたためている家族を見て、利知未が呟いた。

「さっきの店の飯も、そこそこ食えたと思うっすよ?」

「別に今、腹が減ってる訳じゃ、ネーンだけどな」

どうも、情緒的な感想は、倉真に通用しないらしかった。

 それでも、これが倉真らしいのかもしれない。 余りロマンチックな事は、彼の柄では無さそうだと思う。

『……それ言ったら、あたしも同じか』

 ふと思って、可笑しな気分になる。


 倉真は、綾子と良く行ったデートを思い出した。

『女はソー言うのが、やっぱ好きなンかな?』

利知未をチラリと、横目で見る。 何となく目が合って、照れ臭い気分になる。

『あの頃は、俺も金、無かったからな』

視線を反らしながら、そう思った。


 展望台への道標を見付けて、そちらへ向った。

 近くの下久保ダムの、ダム湖まで見渡せた。 今、丁度見頃の冬桜と、紅葉も綺麗に眺める事が出来た。 二人で景色を眺めながら、一服した。

「誰に聞いたンスか? ココ」

「朝美が昔、里沙と来た事があるって話してたんだ」

「朝美さん?」

「そーか、倉真は知らないよな。 あたしが、あの下宿に入居した頃、三年間だけ一緒に暮した、店子仲間だよ。 イイ、姉貴分だったんだ」

「その朝美さんが、遊びに来たんスか?」

聞かれて、利知未は今、朝美が再入居して来た事と、その理由とを話して聞かせた。

 倉真は、少し目を丸くして言った。

「里沙さん、結婚するンスか? そりゃ、めでたい事だ」

「問題はな、朝美の飯なんだよな」

半分おどけた、不安そうな表情を見せた。

「利知未さんが、作ったらイイじゃないっスか?」

「まだ、大学も忙しいしな。 バイトもあるし。 …出来るだけ手伝う気はあるんだけどな」


 三年から専門的な講座に分かれた時、透子とも離れる事になったとして、勉強の協力者が居なくなってしまう。 その点が、やや不安要素でもあった。

 来年一年、バイトと掛け持ちして、無理そうだったら、四年からはアダムも辞めなければならないかもしれない。


『……そうなったら、マスターと会う事も、減るんだろうな』

それは、やはり寂しい事だ。

 中学時代から、丸々七年半。 高校へ入ってからは、毎週2日。 大学へ入ってからは、ほぼ毎日顔を合わせていた。

 ふと、寂しそうな表情を見せる利知未に、倉真が聞いた。

「医大って、四年じゃないんスか?」

「医科大学、医学部は六年だよ。 …人の命、預かる仕事だからな。 イイ加減には、勉強できないだろう?」

「……何で、利知未さんは、医者を目指そうと思ったんスか?」

問い掛けられて、暫く考えた。 そして、答える。

「……大事な人との、約束なんだよ」

約束と、表現して良いのか? 少し戸惑った。

 裕一が亡くなった後、墓前に誓った自分の目標だ。 その時の事を思い出して、また、寂しい気持ちに成ってしまう。


 倉真はその利知未の横顔に、彼女の弱さ、哀しさを感じる。

「…頭良くなきゃ、目指せネーっスよね。 ……ヤッパ、利知未さんは、凄い」

他に言う事も出来なくて、在り来りな事を言ってしまう。

『もうチョイ、気の利いた言葉でも、出てくれりゃ、イーんだけどな』

自分でもそう思う。 情け無い気分になって、自分のふがいなさに、小さく諦めたような笑みが浮かんでくる。

「あたしは、頭イイ訳じゃないよ。 ……ただ、昔は、裕兄が良く勉強、見てくれてたからな。 その後、ダチにも助けてもらって、勉強して来たンだ」

寂しげな表情を引っ込めて、利知未が小さく笑顔を見せた。

『あの時の目標が無ければ、今頃、どうしてたンだろうな?』

自分でも、これまでの事を振り返って思う。

 会話が途切れて、暫く黙って景色を眺めていた。 倉真が、新しいタバコに火をつけた。


 難関の医大に受かり、それから二年近く、落ちこぼれることも無くやって来た利知未に、倉真は改めて、敵わないと感じる。

『その上、アダムのバイトもしてて、こーヤってツーリングへ出掛けたりもしてンだモンな。 ……勉強頑張れンのも、才能の内だ』

 俺は、どうやったら、この人を支えられる男に、成れるのだろう……?

『……取り敢えず、今は。 自分の事を頑張るしか、ないのかも知れネー』


 倉真のタバコが小さくなってから、利知未が声を掛けた。

「そろそろ、行かないか?」

「そーっスね」

タバコを揉み消して、利知未の視線を気にしながら、少し離れた灰皿へと、吸殻を捨てに行った。 その様子を見て、利知未は小さく微笑んだ。

「ナンか、可笑しい事、あったんスか?」

利知未の方へ戻ってきながら、倉真が聞いた。

「いや、別に」

 デカイ子供を、躾ているみたいな気分だと思っていた。

『……けど、あたしが、本当の子供の躾なんか、出来るようになるのか?』

兄嫁と、姪っ子の事を思い出した。

 そこに将来の自分の姿を、重ねて想像しようとして、赤くなる。

「ドーしたンスか? 赤いっすよ?」

「……ナンでも無い。 気の所為だ」

顔を見られないように、倉真の一歩前を歩き出す。 ……戸惑っていた。

『……何でだ?』


 想像しかけた、幸せな家庭の風景の中で、幸せそうな自分の隣には。

 ……大人びた倉真が、微笑んでいた……。



 克己の働く定食屋に、新しく雇われた女性は、二十五歳の離婚経験者だった。 性格や生活に問題があって、離婚となった訳ではないらしい。

 それは、真面目な働き振りを見ていれば、分かる事だった。

「宇佐美 響子です。 よろしくお願いします」

そう言って、初出勤の日、派手な頭をした克己を、少し目を丸くして見ていた。 定食屋の主人が、克己の頭を小突く様にして説明した。

「親戚のガキだ。 頭はこんなだが、真面目なヤツだ。 怖がらなくて良い」

「…そうですか、色々、教えて下さいね」

やや引き攣った笑顔で、改めて克己に挨拶をした。


 彼女がここへ働きに来てから、一ヶ月が過ぎた。 克己に対しては、やはり始めは引き気味だった。 最近になって、漸く打ち解けた。


 十一月の二週目に、倉真が本当に久し振りに、克己の定食屋へ昼飯を食いに来た。

 午前の仕事量が少ない日だった。 少しこちらへ来る必要の在る配送物があり、それを最後に回し、ついでに足を伸ばしてみた。

 二ヶ月以上振りだった。 次の休みは、利知未もバイトだ。 暫くぶりに、克己とツーリングに出掛けるのも、良さそうだと思った。

 飯を食いながら、偶に克己と言葉を交わす様子を見て、響子は納得した。

倉真が始めに店へ足を踏み込んだ時、やはりその頭の特殊さに、内心は驚いた。 客相手だったので、頑張って笑顔で対応していた。


「新藤さんのお友達だったんですね」

 店が暇な時間になり、揃って賄いを食べながら、響子が聞いた。

「ア? ああ、倉真の事か。 …ダチってーか、弟分だな」

「かっちゃんの昔からの知り合いで、真面目なのはあの子位だよねェ」

常時勤務パートのオバちゃんが、克己の飯のお代わりを注いでくれながら、会話に口を指し挟む。

「頭は、克己同様、派手だけどな」

主人も口を出す。 克己は少しバツの悪い顔をして、飯をかっ込む。

「暫く、顔出さなかったじゃないか?」

「アイツ、横浜へ引っ越したンすよ」

「そぉだったの、どーりで」

オバちゃんも、納得顔になった。


 従業員は、この四人だけだ。 忙しい時間は、主人の奥さんも店を手伝う。 主人夫婦は年老いた両親と同居しており、奥さんは普段、舅夫婦の面倒を見ている。

 パートのオバちゃんも六十を超えて、少々、立ち仕事が辛く成ってきた。 それで、響子を雇った。 それでもまだまだ、元気ではある。


「克己、調理師免許は、どうするんだ?」

「次くらいの試験、受け様かとは思うンスけど」

「早めに言えよ。 その日は、カミさんを店へ出さなきゃならないからな」

 何時も十四時半から一時間半、準備中の札を出している。 休憩と、夕食時間の仕込みの為だ。 昼までで足りなくなった食材も、この時間に仕入れ直す。

 朝は、配達を利用している。

「仕入れ、行って来ます」

「おう、頼んだ」

飯を食い終わり、茶を飲んでから、克己は店を出て行った。



 利知未と倉真は、二週に一度はツーリングへ出掛けるようになった。

 偶に、準一や克己も一緒に出掛けた。 宏治は、里真との約束が忙しい。

 それでも、何回かに一度は、昔からのメンバーで出掛ける。



 和泉は、一週間ほどアメリカへ出掛けていた。 戻ったのは、十月十日過ぎだった。 それから、週に一度や二度は、バッカスで一緒に飲んでいた。

 美由紀から頼まれた物も、既に渡してある。

「また、行く時は教えてね。 お願いするから」

そう言われて、冷や汗を流して、宏治と苦笑し合った。



 十二月に入り、冬休みが目前へ迫ってきた。 この冬休みも、瀬尾と交代でシフトを組んだ。 その方がお互い、色々と都合が良い事も出て来た。

「来年は、就職活動忙しくなるからな。 今年の夏も、何社か回ったけど」

「内定、取れたのか?」

「オレがそんな、優秀な人材に見えるか?」

「自分で言ったら、お終いじゃネーか」

冬休み前、瀬尾とバイトが一緒に成った時、そんな話しをしていた。


 別所は、相変わらず無口で真面目に働いている。 時々、利知未をチラリと見ては、赤くなったりしている。

『普段の瀬川さんは、女っぽく見えないけど……』

あの朝、シャツの胸元を三つも開けていた、その胸元のラインは。 チラリとしか目に入らなかったものの、色っぽく感じた。

『……って言うか、元々、美人だよな。 あの人』

 少しだけ、見る目が変わってしまった。 今までは、先輩バイトでも、同性の先輩と仕事をしている気分だった。 少し視点を変えてみると、客に対する気の配り方も、やはり女らしい所がある事も見えてきた。

『……やっぱり、マスターと何かあっても、不思議じゃないよな』

 最近、偶にそんな事を、思い始めていた。




           八


 里沙と葉山は、四月に結婚式を控えている。

 冬休み中、三日間だけ里沙は泊まりがけで出掛けて行った。

 自分の家族に、フィアンセを紹介するためだ。 その為に、晩秋から大忙しだった。

 仕事を片付け、朝美に三日分の料理をレシピつきで教え、バタバタと日々を過ごしていた。

 その間に、玲子はアパートを見つけ、退去していた。


 玲子の引っ越しは、十一月末だった。 前日は、予定通り独立記念パーティーをした。

 その席で樹絵は、利知未の相手を頑張れと激励され、冴史とは、今までの思い出話に花を咲かせ、朝美は過去話・玲子編を語った。

「最初の頃、良く利知未の事で相談受けてた時期も、あったよね」

「どーしよーも無い同居人と、一緒になっちゃったって、悩まされたわよ」

「玲子は、昔から真面目過ぎだっツーんだ」

「アンタは、イイ加減過ぎだった」

「最後まで、言ってくれるよな。 ……まぁ、これからはその嫌味も聞けなくなると思うと」

「少しは、寂しいとか思ってくれてるわけ?」

「…だーれが! 清々するぜ」

利知未が、昔の様な捻くれた事を言って、舌を出した。


 正直、寂しいとは感じていた。 けれど利知未は、中学二年の夏から今までも忙しくて、余り玲子と顔を合わせる事は無かった。

『もーチョイ、喧嘩していたかったかな……?』 素直な気持ちでは、そう感じていた。


「これからは、利知未だけが家庭教師、出来る事になっちゃうんだ」

 秋絵の言葉に、玲子がクールに、長年の喧嘩相手へエールを送る。

「そう言う事かしら。 …ま、ガンバンなさいよ」

「玲子から応援されるとは、思わなかったぜ」

利知未は呟いて酒を飲み、小さく首を竦めた。



 里沙は、学生達が冬休みに入り、早い内に、葉山と共に機上の人となる。

 出掛けまで、留守中の下宿を気にし、朝美へ色々と説明をしていた。


「大丈夫。 この下宿の勝手は、充分承知よ。 今からそんなで、結婚してからどうすンのよ?」

 最後には朝美から、そう突っ込まれてしまう。

「解ってはいるのだけど…。 やっぱり色々、心配してしまうのよ」

自分の心配性に、少し呆れながら里沙が言う。

「皆、冬休みに入ったんだし。 店子は一人、減ってしまったし。 料理は、イザとなったら、利知未にヘルプするわよ」

立っている者は、親でも使え、の精神だ。 朝美は、これから先の下宿への携わり方を、その精神で行く事に決めた。

 自分は仕事をしながら、夜の管理人となる訳だ。 店子達を信じて、利知未でも上手く使って、上手に乗り越えて行ければイイと、性根を決めている。


「……朝美に来てもらって、正解だったわね」

里沙は、朝美のあっけらかんとした明るさ、強みを知っている。

 店子達も、すっかり朝美に懐いている。 自分も昔から、朝美には助けられて来た。

 漸く落ち着いた気分になり、迎えに来た葉山と共に、タクシーへ乗り込んだ。 朝美に笑顔で見送られて、里沙は家族の元へと向った。



 タクシーの中で、葉山が言った。

「こちらの高校へ、赴任申請を出したよ。 …部屋は、この町で探そう」

自分の我が侭に、合わせてくれ様とする葉山に、里沙は心から感謝をした。

「……あなたに会えて、良かった」

里沙の呟きを聞いて、葉山は優しくその手を握って、笑顔を見せた。



 クリスマス期間中のアダムは、やはり今年も忙しかった。 その日は冬休み中でも、瀬尾と同じ時間に入ってフル稼働だ。

 イブが二十三日の振替休日である事で、忙しさに輪を掛けた。 それでも、去年ほどの事は無かった。

 時期的に、大学生カップルも多い。 同じぐらいの歳頃のカップルを眺めて、瀬尾が少々、羨ましそうな顔になる。

 貴子も、瀬尾がこの時期、忙しい事は解っている。 折角のクリスマスを、二人で過ごしたい思いを持ちながらも、我が侭を引き込めてくれた。


「顔、覇気がなくなってるぞ?」

食器を下げてきた利知未に、小さな声で突っ込まれてしまう。

 慌てて、気を張り直して、何時ものお調子者店員へと変わる。

「瀬尾の調子良さも、売上向上の武器だな」

何時か、マスターが言っていた。 思い出して、利知未は小さく笑ってしまう。


 閉店時間まで大繁盛だった。 仕事の後、三日間の働きを労って、マスターがクリスマスケーキを用意してくれた。

 出勤していた従業員全員で、ケーキを囲んで、三十分ほど休憩した。

「今年は、二十八日が金曜だからな。 去年みたいに、早く忘年会を始める訳にも行かない。 何時もの居酒屋で、十二時開始だ」

少し残念そうに、マスターが言った。

「それで、良いじゃないですか。 どうせ、朝まで残るやつは残るんだろうし」

瀬尾を見て、皐月の顔も思い出した。


『もう、深酒しても、多分、平気だ……』

マスターへ対する愛情は、浄化したみたいだ。

 恩人、友人、父親の様な、そんな存在へと、変化している。


 替りに、十一月の始め、冬桜を眺めながら想像してしまった、あの幸せの光景が……。

時々、チラリチラリと、利知未の脳裏を掠める。

『ナンか……。 段々、あいつの事、考える時間が増え始めている』


 あれから何度か、準一や克己も誘って、ツーリングへ出掛けていた。

 彼等が一緒になると、どうしても昔からの自分が表へ現れる。

 倉真と二人で出掛けた時は……。 無意識にでも、自分の本音の心がチラチラと顔を出し始めた。 ……気を張る事が、出来なくなる瞬間が、増えている。

 その変化は、どうも照れ臭い、くすぐったい様な、可笑しな感覚だ。


「何、考えてんだ?」

 瀬尾に聞かれ、慌てて物思いから復活した。

「ナンでも。 …さてと、そろそろ帰るかな」

「まだケーキ、残ってるぞ」

「瀬尾、知ってんだろーが。 あたしは、甘い物アンマ食えないンだ」

「酒も、用意してあるんだがな?」

マスターからも突っ込まれて、利知未はグラスに注がれた酒を、一杯だけ、一気に飲み干してしまった。

「流石に疲れた。 今日はもう、帰って寝るよ。 お疲れ、お先に」

空のグラスをマスターへ返して、まだ賑やかな店を出て行った。



 二十八日の忘年会には、今年も翠が顔を出した。 智子も、子供達を主人の実家へ預けて現れる。 すっかり平気な気分で、皐月も混ざって、ワイワイと騒ぎ始める。

 皐月は、その明るくお茶目な性格で、すっかり従業員一同と仲が良い。 厨房の若い社員・松尾と、どうやら最近、良いムードの様だ。


「松尾さん、何時のまに前の彼女と別れたんだ?」

瀬尾が、酒の席で調子に乗って突っ込んだ。

「それは禁句だって。 今、微妙なトライアングル状態らしいから」

バイト仲間の水沢が、瀬尾に慌てて言った。

「どうやら、面白い事になってるみたいだな」

「突っ込み禁止事項だよ? 今夜の」

水沢からダメを出されて、一人で楽しませて貰う事にした。


 女同士、酒の進んだ状態で、利知未達は皐月の口から、トライアングルの恐怖を語られた。 松尾と離れた席についていた。

「早く、はっきりして貰いたいよね」

皐月のぼやきに、既婚者二人が頷いている。

「所で、利知未ちゃんは、変わった事は無いの?」

「変わり様がネーだろ。 バイトと大学で忙しいし、タマの休みだって仲間とツーリング行ってンだ。 ナンかアりゃ、直ぐ解るんじゃネーか?」

「そーね。 注意深く観察してると、恋愛状態の利知未は、偶に雰囲気が違っている事があるもんね」

翠に言われて、少し照れてしまう。 ……翠にも、敬太との関係があった頃には、バレていたのか。 と、改めて感じる。

「そうなの? どう言う風に違うの?!」

皐月が翠に、興味津々で尋ねた。 智子も、少し興味深そうな顔をしている。

「物思いに深けている事が、多くなるわね。 それと、普段はしない様なミスも」

「ソーナンだ! じゃ、今度から良く観察して見ないと」

「あたしのコト観察して、ナンか面白いのかよ?」

「面白い、って言うか、興味津々?」

キャハハ、と笑う。 利知未は少し剥れた顔を見せた。

 その翌日からアダムは、年末年始休みへ入った。



 年が明け、一月三日。 ここ数年、すっかり習慣になった新年会を、倉真のアパートでやった。 例年通り克己も呼び、何時もの仲間が勢揃いする。

 今年は、里真と双子まで混ざってしまった。 三人は克己と初対面だ。 その派手な頭に、目を丸くしていた。


「流石に、このアパートへ九人も入るのは、キツイモンがあンな」

乾杯をして、克己を三人に紹介して、利知未がぼやいた。

「じゃ、どっか行く?」

「正月の三ヶ日にやってる店は、ファミレスくらいだろ?」

秋絵の提案に、利知未が突っ込んだ。

「そりゃ、ソーだな。 …台所との仕切り戸、外しちまうか?」

克己の提案に、準一が乗る。

「イーじゃん! 外しちゃえ!」

樹絵まで一緒になって、戸をガタガタとやり始めた。

「ッテ、お前等! 人の部屋、勝手に弄るな!」

倉真が言ってもお構い無しだ。 里真と秋絵も笑ってしまう。 宏治と和泉は、苦笑いしている。 利知未は小さく肩を竦めて、やはり小さく笑ってしまう。

「昔からのメンバーにコイツ等が入って、無敵のお騒がせ集団だな」

呑気に言った利知未に、倉真がぼやく。

「利知未さんまで、気楽な事、言ってくれンぜ」

諦めて、座り直して酒を飲む。 克己はそんな二人の様子を観察する。

 数分後、台所との仕切り戸は、狭いベランダの片隅へ追いやられてしまった。 一応、部屋は広くなった様な気がした……。


 昼からの宴会だった。 利知未は明日、朝からバイトへ入る。 夜通し騒ぎたい気分でもあったが、里真の勉強も忙しい。 七時過ぎに、下宿組は、倉真のアパートを後にした。


 男が五人残って、宴会を続けた。 最後には雑魚寝してしまう。

 その前に流石に寒くなり、台所との仕切り戸を元の場所へ戻した。 和泉が、準一の尻拭いだ。 準一はすっかり出来上がって、役に立たなかった。



 一月の四週目、例年通り、二日間に渡ってセンター試験が行われた。

 里真と冴史が、今年のチャレンジャーだ。 里真は、夏過ぎから、利知未のバイト日以外の夜、勉強を見て貰って来ていた。 最後に行われた模試では、何とか第一志望大学への合格率、80%近くまで上がっていた。

「ヤるだけヤッたし、ナンとかなる、なる!」

自分を励まして、冴史と二人、試験会場を目指して下宿を出た。

「来年は、あたし達の番かぁ……」

樹絵が、玄関先で二人を見送って、溜息をついていた。



 里真と冴史が、本試験に忙しい頃。 利知未は、裕一の七回忌へ参列する。

 明日香も、妊娠五ヶ月目に入り、目立ち始めた腹に黒いワンピース姿で、真澄を連れて来た。


 七回忌と言う事は、裕一が亡くなって、早くも六年の月日が流れたと言う事だ。 優は長兄の享年を、何時の間にか追い越してしまった。

「今度、男が生まれたら、兄貴の名前つけたいな」

法事後、酒の席で優が小さく呟いていた。 位牌は、優が守っている。


 実母が始めて、明日香の両親と顔を合わせた。 娘婿の実兄の七回忌と言う事で、明日香の両親も参列してくれたのだった。

 母は、始めて見る孫娘を、参列者から訝しげな目で見られない程度に、可愛がっていた。

 利知未には、勉強の進み具合など問い掛けた程度だ。 利知未は母と、殆ど言葉を交わさなかった。

 優が母に対していた態度を見て、次兄が随分、大人になっている事を感じた。


 法要が全て終わってから、優の家へ寄って一休みした。 その時、優が今の胸の内を、妹へ語った。

「……オレも、親父になったからな。 少しはお袋の事も、考える事が出来る様になった。 …兄貴は、お袋の事を悪く言った事は、無かったよな」

 裕一の歳を二つも超え、三歳になる娘を持ち、漸く少しだけ、裕一に追い付けた様な気がすると、言っていた。



 三月は、直ぐにやって来た。 高三コンビは、無事に高校を卒業した。

 高校生の受験が忙しくて、同じく受験生だった美加の事は、余り構ってやれなかったが、美加も無事、通うに楽な東城高校への受験を終了した。

「玲子ちゃんが、行っていた高校だよね。 …玲子ちゃんがいればな。 色々、学校の先生の事とか、聞けたのに」

そう言って、少し寂しそうな顔をした。

「何言ってるの。 東城高校は、あたしの母校よ? あたしが教えて上げるよ」

朝美が言って、昔の事を話し出す。


 里沙も、始めて朝美に会った頃を思い出して、あの頃お世話になった大崎先生は、今も東城高校にいらっしゃるのかしら…? と、首を傾げる。

 里沙と朝美の話しを聞いて、樹絵達は始めて、里沙が東城高校で本の少しの間、教鞭を取っていた事を知った。

「大体が、里沙がこの下宿を始める切っ掛けが、当時高校一年だったあたしとの関わりが元なんだよね」

「私と利知未は、その辺の事情も聞いた事、あったね」

冴史が、利知未の顔をチラリと見る。 三月初めの、土曜の夕食時だった。

 利知未も揃って夕食を取るタイミングは、何時も土曜日の事だ。 利知未は土曜、食事をしてから夜、バイトへ出掛けて行く。


「ソーだったな。 耳にタコが出来てるかも知れネー」

 朝美から、何度か聞いていた。 利知未が里沙に余り心配を掛け過ぎると、当時の事を、話して聞かせていた時期があった。

 中一の、七月頃まで。 利知未がこの下宿へ入居し、二ヶ月位までだ。

 丁度、マスターとの出会い前の、無断遅刻、早退、欠席時代だった。


「タコが出来てるって、言ってくれるねぇ! アンタにあの話しをしてた時、あたしがどんなに、利知未の事を心配してたと思ってンの?」

 話しの向きが、怪しくなってきた。 また、妙な思い出話に移行する前に、利知未はさっさと食事を終わらせ、席を立った。

「昔話に付き合ってるヒマ、ネーンだよな。 バイトいかネーと」

逃げ出す利知未の後を追って、朝美が言った。

「イイよ? 利知未がいない所で、皆に話しちゃうから」

「止めてくれ。 アンマそーいう事スッと、飯の準備、手伝わネーぞ」

「それは、マズイな」

朝美が呟いた。 利知未は勝ち誇った顔をして、ダイニングを出て行った。


「朝美が来てから、利知未、面白いよな」

樹絵がポツリと呟いた。 秋絵や里真も頷いた。 冴史は里沙と、小さく笑った。



 冴史は三校、里真は四校を受験した。 高校の卒業式後も、まだそれぞれ、本試験を残していた。 漸く二人の受験が一段落を向えた頃、美加が中学を卒業した。 保護者代理として、里沙が出席した。

 里沙の結婚式は、後、一月後まで迫っていた。



 その頃。 利知未は、冴史への電話を取り次いだ。

 雑誌編集者からの、様子伺いの連絡だった。 大学受験の成果など、冴史と十分程話していた。

 見所のある作家卵を、手元で育てて見たい為のアフターフォロー、と言う感じだろうか? デビューした訳でも、入賞を手にした訳でもない冴史にとっては、有り難い事だった。



 高二の双子や、中学へ通っていた美加よりも少し早く、利知未の大学は、春休みを迎えていた。

 春休みも勿論、瀬尾とは交代でシフトへ入る。 瀬尾は、今年の夏休み前には、アダムを一端、辞める予定だ。

 就職活動が忙しくなる。 もし早めに内定を貰えたら、その時は大学卒業迄、もう一度世話になろうかと考えていた。

 皐月は、トライアングルも終結した。 最近、改めて松尾と付き合い始めた様子だった。

 ……アダムの中も随分、春めいて来たもんだ。 と、マスターは思う。



 克己は、宇佐美 響子と、段々と親しくなってきた。

 何か、切っ掛けらしい事があったと言う訳ではなく、何となくお互いで、気になり始めた感じだ。

 響子は、前の結婚を失敗し、もう二度と男性の外見に騙される事が無い様にしようと、学習していた。

 外見が特殊な克己に対して、その友人に対して。 先ずは中身を確りと見定める目を持つ為の、訓練をするくらいのつもりで接していた。

 そして、やはり人を見た目で判断するのは、間違いの元だと実感した。

 克己は、特に意識していた訳ではなかったが、元々、どうやら持っていたらしい、面倒見のイイ性質が、響子へ対しても発揮された。

 二人は徐々に、良好な関係を構築して行った。



 春休みへ入った頃。 利知未は、倉真へ対する気持ちの整理も、着き始めた。

『……何時までも、弟分だって思い込もうとしていても』

 どうしたって、自分の心は、誤魔化す事なんて出来ない。


 実際、倉真は変わって来たと思う。

 まだまだ危なっかしいと思う事だってあるけど。 ガキみたいだな、って思う事もあるけれど……。

『初対面の頃から比べて、確実に、大人になった』

実兄・優が成長した事を、実感したのと同じ様に。 倉真の成長だって、実感できると思う。

 ……血が、繋がっていないのだ。 好きになったって…。


 仕方ない、当然かもしれない。 宏治達と過ごして来た時間を、改めて振り返って見た時。

 一番、多くの時間を、二人で過ごして来た相手だと思う。

『大半が、綾子ちゃんの事での、相談だったけどな……』

……それでも。

 まだやっぱり、今までの雰囲気をガラリと変える事なんて、出来ない……。

 気恥ずかしくもあるし、何より、あいつ等の前での自分が、嘘だった事なんて、一度も無い。


『だから……。 まだ、このままの関係を続けられたら、その方が絶対イイ』


 相変わらず、利知未は倉真達の前では、男っぽいままだ。 けれど、それが自然だった。

 ……今は、これでイイ。


 倉真は、今はただ、利知未を支えられる男になるため、自分自身を鍛えている途中だ。

 ……いつかは、必ず。



 倉真が、利知未達と同じ街へやって来て、一年の時が過ぎ様としていた。




 利知未シリーズ大学編 第四章  了(次章は 2008年 1月4日 22時頃更新予定です)


 大学編、4章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

 この回の作品を直していて、あることに気付きました。 初めてこの章を書き終えたのが、2006年5月6日となっておりまして、あれから既に一年半もの時間が流れていたのだと思い、びっくりしています。

 ああ、年をとると、時間がたつのが早いと言うけれど……。なんか、変に落ち込んでしまいます(−−;)

 次回、五章から、二人の関係は、また少しずつ変化していきます。 二人の想いが育っていく過程を、

どうぞお楽しみください。

 

  年末に差し掛かって参りました。 今年一年、本当にありがとうございました。

  2008年が、皆様にとって、より良い年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。

  来年も、お付き合い頂けますよう、宜しくお願いいたします。 <(__)>

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