三章 絆の始まり 後編
《三章 絆の始まり 6 》
七時三十分頃に下宿を出た。 徒歩二十分の距離に在る、レンタカー会社へ向かう。里真達は、八時に出れば間に合う計算だ。 二十四時間営業のスーパーで、待ち合わせの予定だった。 利知未は手続きを済ませ、車でそのまま倉真のアパートへ向かう。
倉真が用意した荷物を積み込んで、ついでに倉真も拾って行く。 荷物と倉真を乗せてアパートを出たのが、八時半頃だった。 二人きりで走らせて行く道程は、約十五分だ。
……そして、この瞬間が。
利知未と倉真の、これから先へと長く続く、大切な絆の始まりの二日間へと、繋がって行く。
三章 絆の始まり 後編 (7 〜 12)
七
集合場所へ向かう車の中で、倉真は一瞬、妙な感覚に捕われる。
『完全に二人切りってのも、始めてだな……』 アダムにもバッカスにも、必ず他人がいる。
客、マスター、利知未のバイト仲間。 宏治、美由紀、やはり、別の客。
ツーリングだって、利知未と二人切りで出掛けた覚えは無い。
今年の連休ツーリングでは、少しの間は二人でいた時間があったが、それにしても、周りには他の観光客の目もあるし、何と言っても屋外だ。
閉ざされた空間での、二人切りの時間は始めてだった。
『……ヤバイな、妙な気分になりそうだ』 ココで、何かをする気になる訳ではないが、利知未の顔は、マトモに見られない。 照れ臭い感じがして、窓の外へと視線を反らす。
「そーイヤ、ジュンは何時から、500にしたンだ?」
利知未が、思い付いて言い掛ける。
「ソー言われれば……。 俺が引っ越して来た時には、もう変わってたっすね」
「あたしは、アイツがいつ限定解除を取りに行ったかも、知らなかった」
「ソッチは、宏治から聞いてたっすよ? 去年の、秋頃らしい」
「って言うと、里真達と良く出掛ける様になった頃からか」
「ソーなんスか? それは、俺の方が知らなかった」
「確か、夏頃からだったけどな」
ハンドルを握りながら、話しをする。 寝不足に負けない様、頑張って見る。
「ジュンのヤツ、二輪AT免許が登場するまで、待とうかと思ってたって」
倉真は、いつか宏治から聞いた情報を思い出す。 少し笑える情報だった。
「ソーか、今に登場するンだよな。 …アイツらしい」
利知未も小さく笑う。
準一は元々、倉真や宏治の様に、バイク好きで免許を取得したタイプではない。『女のコにモテる為』だ。
そこから、話題の糸口が見つかった。 二人でバイクの話しや今日のコースの話しをしながら、集合場所へと走らせた。
途中で、目的地近くの地図を眺めながら、倉真がワクワクし始める。
「マジ、久し振りだぜ、峠走るの。 欲を言えば、自分のバイクで攻めたい所だったな」
「そーだな。 あたしも、倉真のバイクは借りて見たかった」
倉真の愛車は、海外の二輪耐久レースで良い成績を収めた車種を、モデルにして作られた物だ。 そのレースコースには砂漠も含まれている。 馬力があって、シートのスプリングも利いており、公道を長時間走らせることにも、その能力を発揮する。 バイクファンとしては、非常に興味深い車種だった。
いつも通りの話題を続けて、十五分間は、あっという間に過ぎてしまった。 待ち合わせ場所のスーパーへ着き、車を降りて一服タイムを取った。
話題が、利知未の身長の話しになり、男同士の様にふざけ合う。
その瞬間も、倉真は微妙な心持ちだった。
双子が、荷物・第1弾を運んできながら、二人にヘルプを出した。 倉真は、双子と利知未に荷物の積み込みを任せ、一人、店の中へ向かった。
「また随分、大量だな」
利知未が呆れ、ぼやきながら後部座席をずらし、後ろへ積み込んだ。
車は八人乗りの、白いワンボックスカーだ。 七人で乗り込み、補助席は使わない予定だ。
「マダマダ、こんなモンじゃ無いんだから! どんどん来るよ!」
積み込み作業をしながら、秋絵が言う。
「マジ、積み込めンのかよ……」
利知未は小さく溜息をつき、余り広くない載積スペースを眺めた。
倉真は店内で、袋詰めされて行く本日の材料を、溜息交じりで眺めていた。
「こんなに、積めンのかよ……?」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。 イザとなったら、バイクの後ろにも積むし」
準一が呑気に笑っている。 準一と宏治は、里真が会計を済ませた食材を、ドンドンと袋へ突っ込んで行く。 倉真も手を出し、荷物の山がショッピングカートへ積み上がって行った。
和泉と由香子が選んでいるアルコールと摘みで、取り敢えずの買い物は終了だ。 二人が再会したのは、このスーパーだった。
由香子は髪形をショートボブにし、ボリュームを抑える感じでシャギーを入れ、フワフワの癖毛はストレートに加工されていた。 眼鏡を外した由香子は、和泉が想像していたより、少しは大人びていた。
夢ばかり見ていた様な、トロンとした瞳の印象も、少し変わっていた。
利知未が十七歳の頃よりは、幼い感じだ。 けれど、それなりに綺麗にもなって来ている。
……色々と悩み、大変な思いもして来たのかもしれない。
「コッチに来る旅費、自分でクッキー焼いて作ったんです!」
そう言って、あちらでのアルバイト経験を話してくれた。
「何処かで働くって言うのは、流石に危ないし。 言葉も、不安だったから」
日本と違って、危険なのは確からしい。 一年半の内に、一度は近所で銃撃戦があった事もあると言う。
「私の作るミルククッキー、すっごく評判が良いんです! そりゃ、そうですよね。 何たって、新鮮なミルク使って、自家製のバターまで使ってるんですもん! お菓子もやっぱり、鮮度が大事ですよ?」
と、相変わらず良く喋った。
それでも和泉は、楽しい気持ちで由香子の話を聞いていた。 話しながらクルクルと良く動く瞳も、可愛らしかった。 そして和泉は、もう一つの発見をした。
眼鏡を外した由香子のチャームポイントは、瞳と同じ位に良く動いて気持ちを表す、丸い眉だ。 綺麗に、丘の様なカーブを描いている。
『真澄は、俺に似ていたからな……。 眉は濃かったかもしれない』
そう感じ、由香子と真澄を重ね見る気持ちが、少し薄れた。
話しながら、宴会の酒と摘みを物色した。
六本組の缶ビールを三つも載せた和泉に、由香子が目を丸くする。
「こんなに、飲めるんですか!?」
「足りないくらいだと思うけどな。 特に、利知未さんと倉真は。 あの二人は、鉄の肝臓の持ち主だよ」
声が笑いを含んでいる。 自分も、人の事は言えないと思う。
「それにしても…、まだ、買うんですか!?」
更に、缶焼酎も突っ込む。 そして、別の酒にも手を伸ばす。
「多分、これで程ほど、かな?」
和泉は、軽く拳に顎を乗せ、小さく首を傾げている。
「ビールに、焼酎に、カクテル!?」
「これと後、ウイスキーでもあれば、完璧なんだけどな」
「本当に? あの、ジュースか、お茶も買って欲しいんですけど」
「由香子ちゃんは、飲まないのか?」
「私は、遠慮します……」
いつかの醜態を、思い出してしまった。 瞳を上に寄せ、眉をハの字にする由香子の表情を見て、和泉は小さく笑う。
「どうかな? もう一人、酒豪がココにいるみたいだけど」
和泉にからかわれて、由香子は軽く肘鉄を入れて見た。
「もう! 私は、飲みませんから!」
少し脹れて見せる。 和泉は楽しそうに笑った。
ウーロン茶とミネラルウォーター、1リットルパックのジュースを2種類カートへ載せ、乾き物と缶詰を物色して、レジへ向かった。
全ての荷物を積み込み、今日のコースを確認して出発をしたのは、九時を回る頃だった。 二台のバイクと、和泉の運転するワンボックスカーが、16号線を北上して行く。
次の休憩場所へ着くまでは、約一時間半の道程だった。 利知未は後部座席で、一時間ほどは仮眠を取った。 助手席では倉真が、地図を見る。
「今日は、俺がナビやるぜ?」
「大丈夫か? 酔ったりしないだろうな」
「ヘーキだ。 …地図眺めンのは、嫌いじゃネーしな」
「そうか、それじゃ、頼むとするか」
運転席と助手席で、二人が相談をしている間。
一番後ろの座席で、双子と由香子が。 真ん中の列席に座る里真と、なるべく小さな声で、宿泊先のキャビン情報を交換している。
「今回の企画にピッタリの所を探して、決めたんだから。 由香子ちゃんも、期待していてね」
里真が、満面の笑みで後部座席に声をかける。
「企画? 何か、あるんですか?」
由香子が、素直に疑問を口にした。 里真は、少し照れながら答える。
「いつも身近過ぎて、見過ごしがちな人の素敵な姿を、再確認する為の旅行」
「それなら、もっと皆と仲良くなれそう!」
由香子が、嬉しそうな声で言う。 里真は満足げな笑みを浮かべていた。
休憩場所へ到着して車から降り、双子と由香子と里真が、バイク組の元へと走って行った。 和泉もエンジンを止めて、チラリと後部座席を見る。
「利知未さん、眠っているな」
「イイぜ? 俺が起こしてくから、先行ってろよ」
地図を確認しながら、倉真が言った。 今後のコースをチェックしている倉真に、利知未の事を頼み、和泉が車から降りた。 準一達の所へ歩き出す。
和泉が行ってしまって、バイク組と話しをしている間。
倉真は、のんびりと地図をしまい、後部座席の利知未を振り向く。
『良く、眠ってンな』 そう思いながら、暫くそのまま、利知未の寝顔を観察してしまう。
利知未は、夢を見ていた。 小学生時代の夢だ。 ジイちゃん、バアちゃん、優と……、まだ高校生だった裕一と、楽しく過ごしていた頃の夢。 穏やかな寝顔だった。
『寝顔は、可愛いんだな』 この人が、並の男よりも喧嘩が強いと言う事を、忘れてしまう。
『ソー言えば……。 あの時からだな』 自分が、利知未に不思議な感情を持ち始めた切掛けを、思い出した。
和泉の騒ぎの時、宏治の部屋で起こった、チョットした事故。
『綾子が、まだ、単なるクラスメートだった頃だ』 綾子を、受け入れられると感じた、あの時。
既に、利知未と綾子を比べ見ていた。 そして、利知未には敵わないと、改めて感じた。
『……野良猫のホットミルク、か。 俺にとっても、特別な味になったみたいだ』
あの時、話してくれた、利知未の大切な思い出話し。
ちりちりと、胸の奥に痛みを感じた。 ……利知未の大切な恩人・アダムのマスターに対して。
自分は、どうしたのかと思う。 気分を落ち着けて、前を向き直した。
バックミラーを調節して、利知未の寝顔を映す。 その寝顔は無防備に見えた。 倉真の中で、何かが疼き出した。
「…利知未さん、休憩場所、着いたっすよ」
「…ン? ……ああ」 気の抜けた声がして、利知未がトロトロと目を覚ます。
倉真が、利知未の右頬についた窓枠の痕を指摘した。
指摘された痕をチラリと気にしただけで、直ぐに「まぁいいか」と言って車を降りようとする利知未に、軽い憎まれ口を聞いて、小さく笑い合った。
先に下車し、歩き出した利知未の背中に……、……目が止まる。
……初めて、その背中を華奢に感じた。
自分の肩にちらりと視線を落として、仲間の男達の背中を見る。 比べて、利知未の背中を見る。
『俺達は……。 いつの間にあのヒトを、追い越してしまっていたんだろう……?』
宏治は利知未より、やや背が低いが、その背中は男らしく、逞しくなっていた。 準一さえ、利知未を追い越している。 和泉の、半袖のTシャツから覗く腕は、利知未の腕の倍ほども太く、逞しい。
『……俺達は、いつまでもあのヒトに、守られていてはいけない』 ……それなら、どうする?
立ち止まってしまった倉真を、利知未が振り向いて声を投げた。
「何やってンだ? 早く来いよ!」
「……直ぐ、行きます…!」
店に入りかけ、振り向いた利知未に答えて、倉真は漸く歩き出した。
店へ入り、二人席を5つ繋げて、全員が纏まって座れるスペースを確保する。 喫煙組の利知未、倉真、宏治が、隅に固まった。
宏治の隣には、里真が居る。 その前に秋絵が座り、由香子と二人に挟まれた樹絵が、準一の前に座っていた。
由香子と和泉は、向かい合って楽しそうに話しをしている。
「随分、賑やかそうだったな。 後部座席」
「ごめんなさい。 利知未さん、眠れたのかな?」
由香子が、反対端の利知未を見た。 既にタバコを咥えている。 チラリと視線を向け、由香子の言葉に反応しながら、煙を薄く吐く。
「ヘーキそーだったぜ? 頬っぺたに窓枠の後、つけるくらいだ」
倉真が利知未をチラリと見て、ニヤリと笑う。
「お前は、余計なコト言うな。 ジュンじゃネーンだから」
利知未もホンの少しだけ、仏頂面を見せる。
「オレじゃないんだからって、ドーユー意味だ?」
「言葉通りの、意味じゃないのか?」
「ナンだ? そりゃ」
和泉の突っ込みに、準一が一瞬、解らない顔をした。
その反応に、全員が小さく吹き出す。
「マジ、ジュンってば、自分のコト解ってネーの!」
樹絵が言って、ケタケタと笑い出した。
「ソーか? ンな事、ないと思うけどな」
準一が言いながら、コーラをストローで啜った。 いつも通り、呑気な様子だ。
目の前の準一を笑いながら見て、樹絵は一瞬、思う。
『ジュンって、年上に見えないよな…。 …可愛い、かも…?』
自分の気持ちに、何となく赤くなってしまう。
可愛いって…? そんな風に感じてしまった、自分の気持ちがくすぐったい。
「ドーしたンだ? 樹絵ちゃん、ナンか赤いぞ。 熱でもあンのかな?」
準一がストローを咥えたまま、全く構えないで手を伸ばし、樹絵の額を触る。 自分の額の熱と比べて見る。
そうされて、樹絵は益々、赤くなってしまった。
「あれ? オモシレー! ドンドン熱くなってく!」
面白がる準一に、利知未が厳しい声を出した。
「ジュン! 面白がってる場合か? そう思ったんなら、お絞りでも貰ってきてやれ。 ……本当に熱があったら、どうするんだ?」 ……本当に言ってやりたい事は、別にある。
樹絵が慌てて頭を振って、準一の手を払った。
「ナンでもない! 笑い過ぎただけだよ?」
払われた手を大人しく引っ込め、準一が立ち上がってカウンターへ向かった。 取り敢えず、利知未に言われた通りに行動して見る。
「これくらいで、足りるかな?」
十本も貰って来た。 利知未は勿論、仲間たちも呆れてしまう。
「…サンキュ。 でも、ヘーキだ」
樹絵が小さく俯いて、顔を上げて笑顔を見せた。 お絞りを、素直に受取った。
「ンじゃ、持ってっちゃおうか? 使えるんじゃン?」
準一も呑気に笑って、座り直した。
『…ッタク、解ってネーな』
利知未はタバコを咥えたまま、片頬杖をついて、心の中で呟いた。
ハンバーガーや、チキンを腹へ収めながら、御岳渓谷の峠の話題に、バイク好きが盛り上がる。
「次の釜の淵から先の道さ、俺もバイク走らせてーな」
倉真が言えば、宏治も弾んだ声を出す。
「御岳はカーブが五連続いてるもんな。 ヘアピン紛いのが」
「あの辺り気持ち良さそうだよな」
「あたしも思ったよ。 でも下りの方が興味あるな」
「やっぱり? おれもそう思います」
楽しそうな宏治達を、里真は隣席で眺めている。 話しは良く判らないが、幸せな気分になる。
「渓谷沿いだろ。 風も気持ち良いだろうな。 なぁ、ジュン、俺と代わらね?」
倉真が、樹絵をからかっていた準一に声を投げる。 準一は里真の横から顔を覗かせる。
「御岳? 良いよ。 オレそんなにバイク巧くないから」
「サンキュー! ジュン、愛してるぜ!」
喜んだ倉真が、何時もよりふざけた事を言う。
「オレも愛してるぜぃ! 倉真!」
準一は何時も通り、軽いノリで返す。
「お前ら、おホモだちかよ?」
宏治も笑いながら、二人の会話に突っ込んだ。
「あ、バレた? 一生懸命、カモフラージュして女の子口説いてるのに」
準一は、樹絵の手を握って見せながら、悪乗りをする。 秋絵が口を出す。
「樹絵を選んだ時点でバレるわね」
「なんだよ? 二人してさっきから! 酷いよなぁ、里真」
準一の手を振り解いて、里真の手を握り哀願する樹絵。 にこっと笑って里真が言う。
「そうよねぇ、樹絵は女の子に見えるもんね、一応」
「一応だとー? 酷っぇ!」
「その言葉遣いだよね。 問題は」
「うん、うん」
利知未と樹絵 以外の全員が、笑いながら頷いていた。
利知未は、樹絵の味方になってやる事にした。
「そいつは悪かったな。 見本が悪いんだ」 自分を指して、そう言った。
樹絵が準一を気にしている事には、とっくに気付いている。
「あ、利知未が樹絵に付いた!」
「旗色が悪くなりそうですね。 秋絵ちゃん。」
秋絵の言葉に準一が、スポーツ中継コメンテーターの様に、解説を入れる。
「そのようですね、 ジュンさん。 ココから、どう切り替えして行くのが、良いのでしょう?」
秋絵も真似をする。 倉真と宏治が慌てて、利知未と同盟を結ぼうとする。
「利知未さん、明日、下りの御岳を譲ります!」
宏治がやや慌てて提案した。 利知未はニヤリとしてやった。
「まぁ、良いだろう」
「危なかった……。 全員、渓谷の底に落とされるところだった」
準一が、またいらない事を言う。 利知未が凄みを効かせて、ボソリと言った。
「お前だけ、落としてやろうか……?」
「ごめんなさい! これからはちゃんと、樹絵ちゃんも女の子扱いさせてもらいます!!」
「その一言が、余分だっツーの!」
樹絵がそっぽを向いてしまった。
向いた側に座っていた由香子と和泉が、樹絵の目に溜まりかけた涙に気付く。 二人で目配せをした。
由香子が小さく頷いて、樹絵に声をかける。
「樹絵ちゃん。 お手洗い、一緒に行こ?」
樹絵は急いで、皆に気付かれない様に両目を拭い、元気な声を出す。
「そーだな、行っておこうか?」
二人揃って、店の奥へ向かって行く。 利知未は二人の姿を、少しだけ目で追った。
和泉と由香子より他に、樹絵の変化に気付いたのは、利知未だけの様だ。 和泉と軽く目が合った。
樹絵は由香子が個室へ入っている間に、顔をバシャバシャと洗った。 個室から出てきた由香子が、ハンドタオルを貸してくれる。
「サンキュー」 顔を拭きながら樹絵が礼を言う。
ハンドタオルと、もう一つ。 ……あの場から、自分を連れ出してくれた事に対して。
「ううん。 樹絵ちゃんもついでに入っていったら?」
「そうだな」
「待ってるから」
頷いた樹絵が、個室へ消える。 パタンと音をさせてドアを閉める。
鼻をかむ音が、小さく聞こえてきた。
「……あたしさ、アイツの事が気になってるみたいだ」
ドア越しに、樹絵のぼそぼそとした声が聞こえた。
「……でもレンアイカンジョーっての? 良く、解らない……」
樹絵の告白に、由香子は、「私だって、良く解らない」 と、答えた。
そして、自分の事を考える。 初めて、利知未と知り合った、あの時。
利知未を男と思い込んで憧れていた想いを、由香子は本当の恋愛感情だと信じて、疑わなかった。 ……けれど。
今日の利知未は、長袖Tシャツの腕を捲り、夏物のメッシュ編みベストを着て来た。 身体のラインは、完全には隠れていなかった。
表情も一年半前より、更に優しくなった様に感じていた。 女らしい感じの優しさだった。
……以前より、綺麗になった印象を持った。
『利知未さんは、……本当は、とても女らしいヒトだったのかもしれない』 ……多分、一年半前から、ずっと。
『あの時は私の為に、無理をしてくれていたのかも……』
そう感じて、ショックを感じるかと思えば、それ程の事も無かった。
代わりに、和泉と酒を選んでいた時や、二人で話しをしている時、安らぎを感じたのを思い出す。
『……和泉さんも、凄く優しい』 その優しさは、力強さも併せ持つ。
あの頃、利知未に感じていた優しさと、また種類が違う気がしていた。
二人が手洗いから戻ると、宏治、準一、里真と秋絵が、席を立つ。
和泉と利知未と倉真が、樹絵と由香子と五人で残った。
「大丈夫か?」 利知未に問われ、樹絵は何でもないと答えた。
倉真はその雰囲気を見て、何かを感じた。 ……樹絵が、少し目を赤くしている事に、初めて気付いた。
その後、全員がトイレを済ませて、改めて出発をした。 ここからは、利知未がハンドルを握った。 倉真は助手席で、ナビを続ける。
更に、約二時間を走らせ、二度目の休憩地点へと到着する。
バイクの二人は、先に到着していた。 車体の傍らにしゃがみ込んで、軽くチェックを入れている。
車が同じ自然公園の駐車場へ滑り込み、乗り込んでいたメンバーがパラパラと下車してくる。 女のコ達は、真っ直ぐに手洗いへ向かった。
倉真と和泉がバイク組の元へ近付いて、利知未は一人、喫煙所のベンチへ向かう。 顔を上げた宏治が気付いて、缶珈琲を片手に、利知未の近くへ向かう。
倉真は、準一のバイクをチェックし始めた。 隣で和泉が準一と話しながら、その様子を眺めていた。
利知未は喫煙所のベンチで一本吸い終わり、ボヤンとした視線をさ迷わせている。 ……まだ、眠い。
暫くして、もう一本を咥えて、火を着けた。
「お疲れ様です」
宏治の声がして、缶珈琲が飛んで来た。 良いコントロールだった。
利知未は片手で珈琲を受取り、礼を言ってプルトップを引き上げる。 そのまま、二人で話しながらタバコを吸っていた。
宏治は和泉と由香子の様子を尋ね、倉真がどんな様子だったのか問い掛ける。 今朝は利知未と二人切りの時間が、あった筈だ。
特に何でもなかったと聞いて、少し拍子抜けしてしまった。
『いつになったら、素直に認めンのかな……?』 倉真の気持ちを、案じてしまう。
その内に、倉真もタバコを吸いに現れた。
「ジュンのヤツ、タイヤが滑るって言ってたぜ?」
「何とも無かっただろう? あいつの癖の所為なんだ、多分」
コーナリングが、余り巧くないらしい。 宏治に言われて納得した。
「お前なら、何でもないと思うけどな」
「ソーか、ンじゃ、ヘーキか」
「ヘーキだろ。 バイクの調子は、悪くない」
「ワクワクして来たぜ」
「久し振りだモンな」
三人で、そのまま話しをして、十三時三十分頃、自然公園を後にした。
八
キャンプ場には、バイクを走らせた倉真と宏治が、先に到着した。 車のメンバーが追い付いてくるまで、二十分弱の間。
中学時代からの親友は、お互いの想い人の情報を交換し合う。
倉真は、約一月半振りの峠攻めに、気分が漸く晴れた感じだ。
宏治は、そろそろ本格的に、倉真の気持ちを引き摺り出そうと思う。
「何てゆーか…、大変な相手に惚れたモンだな。 …お前も」
そこまでの会話の流れで、宏治が指す人物が利知未である事は解った。
「……やっぱ、ソー言う事に、ナンのか?」
一度目の休憩で、彼女の背中に感じた思いが、素直な言葉で表れる。
それでも、まだ釈然としない。 ……敵わない相手。 それは、変わらない。
「…強情だな」
宏治に呟かれて、倉真は首を竦める。
「ナンてーか。 ……そう感じてンのか…まだ、釈然としネーんだよ」
利知未に守られたままでは、いけないと感じたのは、つい数時間前の事だ。
「お前の方は、どうなってんだ?」
自分の心は見えないままだ。 話しを変えて、宏治に振る。
「なんの事だよ?」
「里真ちゃんの事に、決まってンだろ? …お前もヒトの事、言ってる場合じゃネーだろ」
倉真は、宏治の背中を押してやろうと考える。
突つかれて、少し考えた宏治は、自分が里真とは釣合わないと感じている事を、倉真に始めて言い出した。
普通の女子高生と、高校中退の半端者。 夜、酒を出す商売の男と、受験生。 合い入れない関係だと、自分で思っている。
「バカな事、悩んでんな。 ンな事言ったら、俺と綾子は、ドーなンだ?」
別れた恋人だが、二年近くは付合っていたのだ。
「大体、里真ちゃんが、お前を好きだと言ってンだ。 関係無いだろ? 環境とか、立場とか。 返って都合イイかも知れネーだろ」
金は稼げる。 学校の長期休みは、昼からも会える。 モノは考え様だと、倉真が言った。
宏治は、耳を疑っている。
「ちょっと待てよ? いつ、ンな事聞いたンだ? 里真ちゃんが言ったって?」
普段の宏治とは反応が違う。 可笑しくなって、倉真は笑う。
笑いながら、四月に里真から聞いた事を、始めて宏治へ伝えた。
「この前の模試、成績上がったって昨日、言ってたからな。 今夜辺り、良いチャンスだと思うぜ?」
「…そうか。 ……そうだな」
綾子と倉真の同棲は、周知の事実だ。 その倉真からの言葉は、宏治の背中を押し出す力を、充分に持っていた。
「…ま、頑張れよ」
倉真が呟いて、二本目のタバコに火を着けた。
程なくして、和泉が運転する車が到着する。 目的地へ全員集合だ。
利知未がタバコを吸いながら、バイク組へと近付いた。 倉真と軽く言葉を交わす。 準一が、後を追って呑気に寄って来る。
「タイヤ、ナンとも無かった?」
「快調だったぜ。 お前、自分がコーナリング下手なの、忘れてんじゃネーの?」
咥えタバコで、倉真が準一をからかった。 準一は、自分のバイクの傍らへしゃがみ込む。 首を捻って、後輪を眺めていた。
秋絵から声を掛けられて、全員で荷物運びを始めた。
秋絵と里真、由香子の三人は、個人持ちバッグの選択を誤った。 普通の肩掛けタイプのバッグを持って来てしまった。 お蔭で残りのメンバーで、三人分の荷物を振り分ける。 樹絵は膨れっ面だ。
「だから、秋絵も里真も、ザックにすれば良かったんだ!」 そう言って、剥れる。
由香子は頑張って、宏治が持って来た釣り道具を運んでいた。 隣を歩く和泉は、二人分どころか、三人分ほどの荷物を担いで、平気な顔をしていた。
その、逞しい腕の筋肉を、由香子はつい、見つめてしまう。
「どうかした?」
「…え? …何でも、無いデス…」
赤くなった。 慌てて進行方向へと、視線を移した。
『お兄ちゃんより、よっぽど逞しいかもしれない……』
実兄が牧場で働く姿を、チラリと思い出した。 兄も、力はある方だった。
十五分ほど歩いた時、里真が十メートル程先の、キャビン二棟を指差した。 「見えたよー!」 と言う里真の言葉に、樹絵が歓喜の声を上げ、息を切らせながら走り出した。
樹絵の持っているビニール袋の中身が、ガサガサ・カチカチ音を立てる。
これは、摘みの乾き物と、缶詰が入っている袋だった。 女の子が持つには、かなりの重さだ。
「着いた、な」 「やっと……」 「っすね」 言葉少なに、利知未、準一、倉真が呟く。
利知未は、野菜の入ったビニール袋と、倉真の用意したゴミ袋や、簡単な救急セットを持っている。 アルコール類が入ったクーラーボックスを、襷掛けした準一。 もう一つの野菜が詰まったビニール袋と、ソフトドリンクが入ったビニール袋を持っていたのは倉真だ。 ……みんな、重い物ばかりだ。
由香子が持っている釣り道具も、結構な重さがあった。
「良かったぁ。 腕が抜けるかと思った」
「だから、俺が持つって言ったんだ」
ここまで来る途中で、言ってくれていた和泉の申し出を、由香子は断っていた。
和泉は生物類の入った物と、もう一つのアルコール類が入ったクーラーボックスを、二つも左右の肩に掛けている。 その上、釣り用のバケツと魚篭と、自分の荷物まで持っている。 それでも笑顔だ。 上り坂を十五分も歩いてきたのに、息も切れていない。
由香子は、和泉のTシャツの袖から覗いている立派な筋肉を、改めて呆然と見つめてしまった。
「向かって右側8番が女の子小屋、左側7番が男の子小屋って事で、よろしくね!」
幹事を引き受けている里真が、テキパキと指示を出す。
「食料はどっちに運ぶ?」 利知未が聞く。
「一階に、冷蔵庫と簡易キッチンがあるの。 食材は私達の方に運んで、おつまみとアルコールは、男の子の方に入れてもらおうかな」
「オッケイ!」 準一が答える。 早く荷物を置きたくてたまらない。
里真から7号キャビンの鍵を受け取ると、早足で玄関へ向かった。
「取り敢えず荷物置いて、食材整理をしちゃいましょ」
里真も、8号キャビンの玄関へ向かう。
「ね、7と8の、間のスペースって、何?」
秋絵が小走りで、里真に追いついて聞いた。 里真が、自慢げな含み笑いを見せて答える。
「あれがあったから、私はここに決めたのよ」
「だから、何?」
「隣接している棟の、共通スペース! バーベキューも、あそこで出来るようになってるのよ」
「じゃぁ、別々に泊まってても、一緒にご飯食べたり出来るんだ! 良かったね、由香子!」
後ろについてきている、由香子を振り向いた。
「うん、楽しそう! でも、今は早く、荷物降ろしたい……」
「そーだそーだ! 早く入ろうぜ! もう腕の筋肉パンパンだよ!」
片道ずっと思い荷物を運んで来た樹絵が、憤懣やるせなく喚いた。 ……途中で秋絵が、荷物を交換してくれる約束の筈だったのに……。 流石に、ご機嫌斜めだ。
利知未は、ゆっくりと四人の後を行く。 鍵を空けて真っ先に中へ入った樹絵が、目を丸くして周りを見渡す。
「なんか、面白い作りだなぁ! あ、真ん中に螺旋階段がある!!」
階段斜め前に据えられている、細長い楕円形の、変わった形をしたダイニングテーブルの上に、ビニール袋を置く。 直ぐに、階段を上がって行った。
後に続いた由香子と秋絵も、釣り道具を玄関脇に置いて、追い掛けて上って行く。
利知未も女の割に力は有る方だが、流石にクタクタだ。 その上、寝不足での長距離運転だ。 気を利かせて、水を出してくれた里真に礼を言い、タバコを吸って一休みだ。
里真は一人で頑張って、運んで来た荷物を整理し始めた。
「全員でやれば、一時間もかからないだろ?」
利知未の言葉に、里真は作業をしながら答える。
「そうかもしれないけど。 でも、ご飯の支度の前に、ちょっと散歩でもしたいと思わない?」
「そうだな。 折角、こんな所まで来たからな」
「どうせだったら、温泉にも入りたいし。 それに九時前には、蛍も見に行きたいしね?」
このキャンプ村には、温泉もあった。 共同浴場として開放されている。
「やりたい事だらけだな」
「あはは、やっぱり欲張りすぎる?」
「良いんじゃないか。 …ンじゃ、とっとと三人を呼んでくるか」
「お願いしまーす!」
利知未はタバコを揉み消した。 二階の部屋を覗きに行った由香子と双子を呼びに行く為、席を立つ。
このキャビンは、丸太小屋風の造りの二階建て、3DKだった。 玄関を入って直ぐキッチンがあり、一階には八畳の和室もある。
螺旋階段で繋がった二階には、六畳の洋室が廊下を挟んだ左右に一つずつあり、それぞれの洋室からは、ベランダ風のバルコニーへ出る事が出来る。
左右の部屋から外へ出ると、衝立が一切ない、広々とした空間となる。 バルコニーを通って、二つの部屋への行き来が、可能な造りだ。
「このキャンプ村の売り文句でね、『仲間とのコミニュケーションを大切にしながら、プライベートも尊重できる癒しの空間』って言ってんだって」
と、利知未は後に、秋絵から教えて貰った。
その売り文句に則り、二つの小屋の間に共通スペースとしての、ガーデン・キッチンが作られているらしい。
男共の小屋では宏治が中心になって、酒と摘みの整理と、グラスの準備を始めていた。 倉真が食材を、共通スペースを通って女のコ小屋へと運んで来た。
代わりに釣り道具一式と、今後の行動計画を言付けられ、自分達の小屋へと戻って行く。
利知未が二階へ消えたのと入れ違いに、由香子と樹絵が階段を降りてくる。 三人で、食材整理を始めた。
「これ、全部、冷蔵庫へ収まるんですか!?」
大量の食材を改めて目の前にし、由香子が驚きの声を上げた。
「うーん、ちょっと無理そう……。 先にカレーの下拵えだけ、終わらそうか?」
「…その方が、イイと思います」
里真の提案に、由香子が頷いて準備を始める。
「サラダの食材は、一回、冷蔵庫へ入れちゃおーか?」
樹絵が聞き、里真が頷いて、改めて片付けと調理の準備を始めた。
由香子は、包丁もそれなりに使えていた。 里真も、ゆっくりと野菜を切り始める。 樹絵は一人でピーピー騒ぐ。
ホンの五分後、利知未の運んで来た救急箱を求めて、一端、荷物を纏めて突っ込んで置いた、和室へと上がって行く。
「よ、手伝いにきたぜ?」
倉真が共通スペース側のドアから、声を掛けた。 男四人が、女のコ小屋のキッチンへ入る。 判創膏を指に巻いた樹絵を見て、準一がケタケタ笑う。
「ナンだ! 樹絵ちゃん、もう怪我してンの?」
「煩いな。 アンマ得意じゃ無いんだ。 これでも、頑張ったんだ」
小さく脹れる樹絵を、由香子と和泉が、視線を合わせて遠くから見守る。
「やってヤるよ。 貸しなよ?」
包丁を樹絵から受取り、意外と器用な手付きで、ジャガイモの皮を剥き出した。 樹絵が、少し感心して見ている。
「バイトでさ、一回、やった事あンだ」
ニコリと、樹絵に笑顔を見せた。 樹絵は頭に、パッと血が上る。
「ソーなんだ。 意外で、驚いた」
「っしょ? オレも、これくらいっきゃ出来ネーけど」
呑気な笑顔で作業を続ける。 由香子の包丁を和泉が受取り、里真の包丁を倉真が受取る。 三本の包丁が底をつく。 宏治は、鍋を用意し始めた。
「おれ達がヤるから、里真ちゃん達は、風呂の準備でもして来いよ?」
宏治に言われ、任せる事にした。 調理師免許保持者がいるのだ。 自分達が手を出すより、確実かもしれない。
利知未は秋絵と、二階のバルコニーで話しをしていた。
一度目の休憩場所で、自分が樹絵に対して取ってしまった態度に、秋絵は暗く沈んでいた。 準一と一緒になって、樹絵をからかってしまった事を後悔している。
「ジュン君の事が気になってるのは、分かってたんだ。 でも、わたしが思っていた以上だった見たい」 秋絵は、そう言って俯いてしまう。
利知未は秋絵の言葉に、黙って耳を傾けた。 秋絵は続ける。
「何か、寂しいんだよね。 今までは、何をするにもずーっと一緒だったし、樹絵の思っていることや感じている事は、わたしも同じ様に感じる事が出来てたのに……。 いきなり、わたしの知らない樹絵が現れたみたい」
それは、始めての事だった。
今までの樹絵は、秋絵も一緒に、男友達と一緒に転げ回って遊んでいた。 当然、男のコを好きになった様子もなかったと思う。 樹絵は、利知未と宏治達の様な関係に、昔から憧れていた。
男のコ達と仲間みたいにして騒いだり、同性同士の様な付き合い方が、楽しいと感じていた。
……それが突然、だ。
今夜は、里真と同じ部屋にして貰おうと思っていると、秋絵が言った。
「タマには、離れて見るのも、悪くないんじゃないか」 と、利知未が優しい声で言う。
秋絵が気持ちを落ち着けてから、二人はキッチンへと降りて行った。
カレーの下拵えは、もう終わりそうだった。 男が包丁を握り、女が呑気に応援している。 利知未と秋絵は、呆れた顔を見合わせた。
和泉に言われて、利知未は風呂の準備をしに、和室へと上がる。
『あそこで眺めてたら、手を出してしまいそーだ』 折角、仲間達が頑張ってくれている。 料理は好きだが、今日の所は素直に、お言葉に甘え様と思う。
『それに、あたしが料理好きなの、あいつ等じゃ宏治しか知らないからな』 その隠した特技は、余り仲間には知られたく無い。 どうせ、また意外だと言われて驚かれるだけだ。
……好きな男相手なら、その特技は武器になる。
『…ッテも。 アンマ、そー言うつもりでやった事は、無かったけどな』
今まで好きになって来た、男達を思い出してしまった。
『敬太には、手料理、作ってあげられなかったな』 その点だけは、今も残念に思っている。
……マスターは、また話しが別だ。
考えていても仕方が無い。 風呂の準備をして、タバコに火を着ける。 携帯灰皿はポケットの中だ。
利知未は、タバコのポイ捨てはしない様にしていた。 特に、兄・裕一が亡くなってから後は。
携帯灰皿を持っていなかった頃から、そのまま捨てはしないで、せめて空き缶に吸殻を捨てていた。 ……それも、余り良いとは言えない事だが。
例えば、ツーリングへ出掛けた時。 大自然へ向けて吸殻を投げ捨てるのは、自然を愛していた裕一にも、申し訳が無い事だと感じている。 倉真と宏治にも以前、説教をした事があった。
今では二人共、素直に従っているが、利知未がいない所でもキチンとしているのかは、分からない。
一本吸い終わる頃には、カレーの下拵えも終了した。 秋絵が和室へ入り、準備をする。
九人でゾロゾロと、共同浴場へと向かった。
同じ頃、美由紀はバッカスへ向かう。
『宏治達、無事に着いたのかしら……?』
息子はまだ、十八歳だ。 今年の十二月で、漸く十九歳。
宏治が店を手伝い始めたのは、もう三年前だ。 一番、遊びたい歳頃から、良くやって来てくれた。
今回、申し訳なさそうに、今日一日の休暇を申し出た時、美由紀は快く承諾した。 木曜ならば、何とかなる筈だ。
その代わり、明日はどんなに遅くなっても、店に出るように言った。
金曜日は、宏治を気に入っている客も、顔を出すだろう。
『あのコ、アイドルか俳優にでもした方が、稼いでくれたかしら?』
少し、ふざけた事を思ってみる。 ホスト向きでは、無さそうだ。
『タマには、息抜きさせて上げないと。 …あのコも、可哀想よね』
そんな事を思いながら、最近は宏治のお蔭で楽になっていた開店準備を、一人で始めた。
美由紀が五時前から店に入ったのは、久し振りの事だった。
下宿では、冴史が原稿用紙に向かっている。
話しは、中頃まで進んでいた。 ラストシーンに向けて、動かさなければならない。 けれど、そのラストシーンが中々、イメージ出来ないでいた。
『これは、里沙と朝美がモデルの話だから……』 主人公は、二人だ。
里沙の、下宿を始めるまでの物語。 勿論、フィクションだ。 冴史の頭で想像した話しだ。
けれど下敷きは本物だ。 ……ラスト。 里沙はどんな気持ちで、この下宿を始めたンだろう……?
ペンを置き、頬杖をつく。 少し里沙と話しでもしたら、考えが纏められるかもしれない。 そう思い、階下へ向かった。
この時間、里沙は綺麗に化粧をし、外出の準備をしている所だった。
共同浴場までは、たっぷり二十分は歩いた。 途中の表示板と手元の地図を見比べながら、歩を進める。 良い散策コースかもしれない。
風呂に着き、集合時間を決めた。 男湯と女湯に別れて脱衣所へ入る。 女湯の脱衣所では、利知未がやはり、男と間違えられた。
由香子は、一つの決心をしていた。 ……もう一度、利知未を正面から、見てみよう。
そして、自分の心の変化を知る。
男湯では、髪を洗う必要の無い和泉が、ゆっくりと湯に浸かる。 準一は烏の行水だ。 和泉に付き合い、湯に浸かったり、風呂桶の縁へ座ったりしながら、のぼせない様に話しをしている。
「和尚さ、すっげー、筋肉付いたよね」
自分の腕と見比べる。 準一は、仲間内では一番細身だ。 倉真も中々、確りとした体を持っている。 全体に上に伸びる方が多くて、その筋肉の付き方は締まっている感じだ。 宏治も裸になると、肩から背中の形が良く整っているのが判る。 和泉は、腕も太いが、胸板も厚い。
「お前は、いつまでもヒョロヒョロしてるな。 どうせ暇な時間が多いんだろ。 ジムでも通って、もう少し鍛えたらどうだ?」
「マッチョじゃ、女の子にモテないからね。 困らなければ、関係無いよ」
「ヤる為の筋肉だけは、程ほどについてるって事かよ?」
倉真がニヤケ顔で、オモシロそうに突っ込む。
宏治も参加して、そちらの話題へ移行して行く。
「和尚は、固過ぎンだよな。 女の話しはネーのかよ?」
「…そうだな。 アンマリ、気になる相手もいなかったからな」
「克己みたいな事、言ってンな」
「同じ事、言ってたのか?」
「ああ。 ソーユー気にアンマなら無いミテーだ、とか言ってたぜ?」
利知未の事を聞こうとして、止めた日だ。 居酒屋で話していた。
「克己さんの意見も、解る気もするな。 焦ってするモンでもないだろう」
「そーそー。 焦ったら、女のコに文句言われるよ。 ズルイって」
「ソー言う意味じゃ無い。 人を好きになるのを、焦る事も無いと言ったんだ」
「お前は、言われた事があるのか?」
「ソー言うコも、いた」
「…ッタク。 何人とやってンだよ」
「六人くらい?」
真面目に指折り数えて、準一が言う。 倉真が小突いた。
「気が多過ぎだっ!」
「そうだな。 少し、落ち着いたらどうナンだ?」
和泉が、チラリと樹絵の事を思い出して言った。
倉真も和泉の言わんとする事に気付く。 宏治も何と無くは感じる。 倉真と宏治が、お互いを見た。
「何だ? 宏治と倉真、怪しい関係!?」
準一が、悪ふざけして突っ込んだ。 更にふざける。
「一緒にフライドチキンを食いながら、オレを愛してるって言ったじゃないか!?」
女っぽい仕草を真似して、ヨヨヨ、等とやって見る。 再び倉真に小突かれた。
「ィッテー! 単なるジョークじゃん? 怒らない、怒らない」
「仲間内以外の目があるんだ、少しは考えろ」
和泉が嗜める。 返って周囲からヘンな誤解を受けてしまう。
他の客から遠巻きに見られ、バツが悪くなって、女の話題へと戻って行った。
倉真は利知未の事を、宏治は里真の事を。 和泉は由香子の事を、思い浮かべる。 準一は、今までの女のコ達の話しをしている。
宏治は、今夜中にチャンスがあれば、里真に伝え様と決心していた。
倉真は、まだ良く解っていない。 最後の所で、捻くれた心が邪魔をしている感じだ。 その捻くれた心に、自分では気付き切れない。
和泉は、成長して来た由香子を思う。 真澄と重なる事は殆ど無くなってしまった。 由香子は良く喋り、元気で明るい。
妹と重なる事が薄れ、由香子個人を、異性として意識し始めている。
その時、女湯が、何か騒がしくなったのを感じた。
女湯では、和泉に対する自分の気持ちに気付いた由香子が、急に恥かしさを覚えて、頭に血が上って、湯当たりをしてしまった。
利知未が、由香子が湯船に沈み込む前に捕まえ、樹絵に補助して貰いながら、横抱きに抱き上げ、脱衣所へと運んだ。
里真に指示を出し、ベンチへ横にした由香子の頭を、水で濡らしたタオルで冷やし始める。 そっとバスタオルを体に掛け、水滴を拭取る。
交代で様子を見ながら着替えを済ませ、双子が由香子に服を着せる。 利知未が高熱でうなされていた時、着替えさせた手際の良さが役に立つ。
由香子の髪を、利知未が乾いたタオルで綺麗に拭き上げた。 それから自分の髪を乾かした。
その間、静かに横にしておいたが、由香子は目を覚まさない。 仕方なくロビーまで、そっと運び出す。
女湯が騒がしくなったのを潮に、宏治達も風呂を上がり、身支度を済ませてロビーで待っていた。
「由香子ちゃん、のぼせちゃったんだ?」
準一が、運び出されて来た由香子を見て言った。
「目を覚まさない。 眠ってるみたいだし、大丈夫だとは思うんだけどな」
利知未が、眉を軽く顰めながら呟いた。 心配そうな表情が、女らしかった。
和泉が由香子を背負った。 早くキャビンへ戻り、ベッドに寝かせてあげた方が良いかも知れない。 顔の赤さは大分、引いていた。
「お前等、先行って由香子の寝床、用意してくれ。 それと、飯の仕度も始めないとならないだろ?」
利知未が言い、メンバーが由香子を心配しながら、先へ立って歩き出した。
「大丈夫か?」
利知未が、和泉に聞く。 黙って頷いて、ゆっくりと二人は歩き出した。
歩きながら、静かに話し始めた。
「お前だけらしいな。 由香子に、手紙書いてやってたの」
「……みたいですね。 …まぁ、仕方ないんじゃないですか」
「あいつ等、手紙どころか、葉書さえ書かなさそうだからな」
小さくクスリと、利知未が笑う。 和泉は、何か考えている。
「……真澄を、思い出したんです。 始めて会った時」
やがて、小さく呟くように語り出す。
「FOXのセガワに憧れていた、あの頃の真澄に。 ……ソックリだと思ったんですよ。 何て言うのか、利知未さんの事を、一生懸命に話してた様子が」
「それで、気になったんだな。 ……一年半振りに会って、まだ真澄ちゃんと、重なってンのか?」
和泉は少し考え、小さく首を横に振って見せた。
「そーか」 利知未が呟いた時、由香子が和泉の背中で、目を覚ました。
現状を軽く説明し、利知未は由香子を和泉に任せて、仲間の後を追った。
二人切りになり、和泉の背中に揺られ、由香子は、幸せを感じた。
和泉は、背中の温かさに、心の安らぎを覚える。
『……真澄の、代わりじゃないな。 ……由香子は、由香子だ』
改めて、自分の心を確認した。 短い会話を交わす。
気持ち良い風が吹き、由香子は再び、目を閉じた。
二人が到着して、先に着いていた利知未と一緒に、背中で穏やかな寝息を立てている由香子を、ベッドへと運んだ。
部屋へ入り、出入り口に近いベッドへ、二人がかりで静かに横たえた。 由香子の顔を覗き込んで、利知未が言う。
「もう、のぼせてはいない様だな。 多分、疲れたんだろ」
「じゃぁ、俺は下を手伝います」
立ち上がりかける和泉の肩を、ポンッと軽く押さえて座らせ、利知未が立ち上がる。
「手は足りてるから。 お前は由香子の様子を見ながら、少し休んでな。 寝てるヤツ背負うのは大変だったろ」
和泉はニヤッとして見せる。
「いいんですか? 何するか、分かりませんよ」
「信用してるよ。 それでも何かあったら、自分に見る目が無かったって事だ。 そん時は、あたしが責任を取る」
ニヤッと仕返し、指の関節を鳴らす。
「あたしのやり方でな。 覚悟しておけよ?」
そう言って利知未は部屋を出て行った。
今の二人が喧嘩をしたところで、体格、力の差は自分の方が上である事を、和泉は知っている。 利知未自身、判っている筈だと思う。 態度とは裏腹に、その責任の取り方というのは、全く違う意味の事なのだろうと思った。
自分が把握している利知未の性格から、彼女は自分の残りの人生をかけて、何がしかの罰を受ける様な事も、厭わないと思われる。
判っているからこそ、自分達は利知未の信用を裏切る事が出来ない。 利知未と彼らの関係は、そう言う種類の物だ
利知未が二階へ行っていた僅かな間に、樹絵の我が侭が発動していた。
「……うー。 ……アイスが食べたい! 食べたい、食べたい、食べたーい!!」
「だったら、買いに行けば良いじゃない? ついでに、皆の分もヨロシクね」
里真が料理の手を止めて樹絵に言った。
手の空いた倉真が、荷物持ち兼・ボディーガードとして、樹絵と二人で、キャビンを出て行った。
残りのメンバーは、ハイペースで、カレーの仕上げに取りかかった。
九
樹絵と倉真はアイスの自動販売機を探して、すっかり道に迷う。
その途中で、花火をやるのに丁度良さそうなスペースを見付ける。
「な! この辺り、花火すんのに良くないか?」
樹絵に言われて、顔を上げる。 考え事をしていた。
「ソーだな。 後で、持ってくるか?」
「どうやって来たか、覚えてるか?」
少し考えて、首を竦めて見せた。 軽く笑顔を作って、倉真が言う。
「ワリー。 アンマ、覚えてネー」
「だよな。 …さっきから、何考えてンだよ?」
樹絵が少し呆れた様に、両手を腰に当てている。
「対した事じゃ、ネーよ」
「ソーか? その割に、呆けてたジャン」
「ソーだったか?」
樹絵が頷いて、歩き出す。
「ま、イーけど。 あたしは、大体覚えてるし」
「そりゃ、良かった。 で、自販はどっちなんだ?」
「…多分。 あ、逆に来ちゃってるよ!? マジかよぉ…」
道の端にある案内板を確認して、樹絵が情け無い顔をした。
「シャーネー、チョイ引き返して見るか」
樹絵が倉真の言葉に頷いて、進路を取り直した。
倉真は風呂帰り、宏治に言われた事を思い出して、考えていた。
「イイ加減、素直に認めたら、楽になると思うんだけどな」 そう言われた。
利知未の事を、どう感じているか? と言う話しだ。
「捻くれてるつもりは、ネーンだけどな」
「充分、捻くれてると思うけどな。 ってユーか、お前の場合、強情なだけだ」
そう言って、更に追い討ちを掛ける。
「あんまグズグズしてっと、兄貴を嗾けるぞ?」
「ドー言う意味だよ? 宏一さんが、利知未さんをナンか思ってンのか?」
少し焦った倉真の様子を見て、宏治が小さく笑った。
「兄貴って言うよりも、お袋だな。 タマに、酒が入ると言うんだよ。 『どっちでもイイから、早く嫁さん貰って来なさい』って、さ。 決まらないなら、利知未を連れて来るわよ? って、最後はいつもそう言われる」
「美由紀さん、利知未さんを本当の娘にしたくて、タマらネーみてーだな」
「だろ? イー加減、呆れちまうよな」
そう言って、笑っていた。 ……笑ってはいたが、冷やりともした。
『マジ、宏一さんや克己より、美由紀さんの方が脅威かもしれネーな……』 冷や汗が流れる思いだ。
そして、そう感じた自分の心を、見ない振りをする。
……その感覚は、つまりは、利知未の事を。
けれど、やはりそこから先の気持ちは、素直に言葉へ変わらない。
宏治から最後に投げ掛けられた質問の答えを、倉真も探している。
「お前、ナンでそんなに、頑なになってるんだ?」
……頑なに。 頑固に。
感じ始めている、今の疼く感情を、どう説明つければ良いんだろう……?
樹絵の後を、追い掛けて歩いている。 道は、やはり頭には入って来ない。
「あったぁーっ!! ヤッパ、こっちの方だったんだ! スッゲー、遠回りして来ちゃったよ」
少し、剥れ顔の樹絵を見て、倉真は軽く笑ってしまった。 余り記憶に無い利知未の剥れ顔が、樹絵の表情に触発されて頭を過る。
『……樹絵ちゃんは、マジ、利知未さんのミニチュアみてーだな』
昨日、アダムで秋絵と里真が頷き合っていた、樹絵のミドルネームだ。
偶に見る利知未の微かな剥れ顔を、可愛いと感じた事が、いつかあった様な気がした。 ……いつの事だったかは、余り覚えが無い。
気分を切り替えて、自販アイスの値段を確認して見た。 一つ二百円と言う高めの設定に一瞬、タバコの金額と比べてしまう。
財布の中身を確認して、小遣いとの兼ね合いを真剣に悩み始めた樹絵に、自分が払うと言って金を渡した。 ニコリと笑って礼を言う樹絵に全員分のチョイスを任せて、のんびりとタバコへ火を着けた。
フイに樹絵が真面目な顔をして、話し出す。 倉真は樹絵の悩みを聞いた。
質問に答える為に、倉真は改めて自分の心を、素直な気持ちで省みる。
由香子に昼間、聞いて貰った事を、準一の名前は挙げないままに、倉真に話した。
……気になる相手は居るけれど、そいつに女扱いされないと、悲しくなって涙が出て来るけれど……。 でも、レンアイカンジョーと言うのは、自分には解らない。
話しを聞いて、倉真は思う。 樹絵の相手が誰かは、直ぐに判った。
『準一か……。 やっぱりな』 風呂場で、和泉が漏らした一言。 昼間の休憩場所で、微かに赤くなっていた、樹絵の目。 ……あれは、泣いた後だ。 利知未は、気付いていた。
『利知未さんだったから、気付いたんだ……』
あの人は、今まで。 ……誰かを好きになった事が、あったのだろうか?
……無ければ、ココ数年での利知未の変化は、無かったのかもしれない。
けれど、それならば。 今の樹絵と同じ悩みを、抱えた事も……。
「あたしみたいなヤツでも、好きと思ってくれるヤツは、居るのかな……?」
樹絵は不安そうな表情で、そう切り出したのだった。
恋愛感情が解らないと言う樹絵。 準一に対して抱えている思いが、その物なのかも自信が無いと言う。
……それなら、自分が利知未に対して、抱いてる思いは?
同じかもしれないと、倉真は感じた。 樹絵の思いは、つまり。
『準一にとってだけは、特別な存在で居たいと言う思い』 自分は、利知未にとっての、特別な存在に……。
(お前、ナンでそんなに、頑なになっているんだ?)
(認めてしまえば、楽になれると思うけどな)
……どうしてその思いを、素直に認められない?
『俺が、守れるような、ヤワな女じゃネーよ』
……自信が、無いだけじゃないのか?
『……そーかも、知れネー……』
それでも、何かもう一つ足りない。 自分の心を、認めることが出来る為には……。
……確信が欲しい。 せめて、心の形が見えていれば。
「プラモデルの部品が足りなくて、俺が完成しない。 何処の部品が足りないのか? その部分の形が、見えてコねー。 ……答えはきっと、彼女が持っている」
「それが、好きって事なのか? じゃぁ、レンアイカンジョーって、何何だ?」
「俺にも良く解らネーけど、自分にとって大切な何かを求める思いや、必要とする気持ちが、そう言うモノなのかも知れないな」
「そうか……。 深いんだな」
お互いの悩んでいる事と、想いを話し合った。 樹絵は倉真が昨日、言っていた言葉が、頭の端にこびり付いていた。 ……倉真は利知未の事、昔から好きだったのか? そう、感じていた。
利知未が二階から降りてきて、調理に使った道具類などを洗い出す。
秋絵の質問から、和泉の妹、真澄の話しが、少しだけ準一の口から漏れた。
短く話しを切り上げ、カレーを仕上げながら、準一は真澄の事を思い出す。
『……もう、三年も経つんだな』
あの頃の、和泉の荒れ様。 自分を助けてくれた利知未と、仲間達。
準一も、感謝している。 けれど感謝の思いは、普段は表に現れる事は無い。
『いつでも呑気な、お調子者。 …って、感じか?』
仲間達は恐らく自分を、そう見ている。 …それでイッか。 とも、思っている。
『真澄ちゃんが、いつも楽しそうにして、いられるのなら』
真澄が亡くなり、三年経った今も。 その思いで構築されてきた自分自身は、そうそう変われるものではない。
『難しー事、考えンの苦手だし』
今、楽しければ、それでイイと思う。 ……そうすれば、真澄の事を思い出して、哀しい気分になる事も無くて済むから……。
『けど、真澄ちゃんと由香子ちゃん、何処が似てるんだ?』 和泉が、由香子を真澄と重ね見て来た事は、解っている。
けれど、準一から見た時、由香子と真澄は、全く別人だ。 顔が似ている訳でもない。
性格も、もしかしたら、真逆くらいに見えている。
『真澄ちゃんは、童話とかが、好きだったみたいだ』
小学校から中学まで、推奨図書に選ばれるみたいな、文学作品が好きだった。
『由香子ちゃんは、あの頃、アニメが好きだったんだよな』
アニメ、少女漫画。 ……利知未と見に行った映画も、少女漫画の作品だった。
『バッカスへ、利知未さんの後を追い掛けて入って来たのも、結構な行動力だよな』
何しろ家出で、北海道から横浜まで、出て来るほどの子だ。
『顔は可愛い感じだったな、あの時から。 真澄ちゃんは、大人しくて、清純そうな顔付きだった』
考えれば考えるほど、和泉の感覚が、準一には不思議に感じられた。
カレーが完成し火を止めた。 炊飯器の飯の具合を見て、本格的に夕飯の準備が進み始めた。 カレーは鍋ごと、飯もジャーごと持ち出した。
そうしている内に、由香子と和泉が、二階から降りてくる。
キッチンに居た里真に声を掛けられ、二人も一緒に残りを運び出した。
由香子は、完全に和泉の事が気になっている。 二人並んでいるのも、少し照れ臭い感じだ。 和泉もどうやら、同じらしい。
二人の雰囲気を見て、里真は内心、嬉しく思った。
『狙い通りかも?!』 気持ちが弾んで、いつも以上に張り切る。 活動的になる。
明るい里真の表情と心弾んでいる仕草は、宏治にも里真を益々、魅力的に見せる。 反動で、何だか照れ臭い感じだ。
利知未は、全員の様子を静観している。 ……今は、秋絵の事が気懸かりだった。
夕食が全て共通スペースへ運び出されて、里真と宏治がサラダの仕上げにかかる頃。 漸く倉真と樹絵が戻って来た。
宏治と準一が、自分達の小屋からビールと冷やしたグラスを運び出し、賑やかな夕食タイムが始まった。
カレーは、あっという間に無くなった。 男共は平均3.5杯は腹に収めた。 樹絵も負けてはいなかった。 お代わりを2回もする。 その旺盛な食欲に、準一がまた茶々を入れる。
「オレより、食ってるジャン!」
「自販探して、スッゲー歩いたんだ。 腹だってペコペコだよ」
「太っちゃうよ? アンマ夜食べると」
「煩いなぁ。 そんなコト言うなら、準一に買って来たキャラメルクッキーアイス、あたしが食っちゃうぞ?」
「マジ? さっすが樹絵ちゃん! オレが好きなの、良く覚えてたな!」
「何回も一緒に、遊びに行ってンだ。 イヤでも覚えちゃうって―の!」
けれど、同じ様に遊びに行っている、和泉と宏治の好みは解らなかった。
『あの二人は、アンマリ甘い物、食べてる所、見た事無かった』 そう、思った。
倉真にも聞いて見たけれど、同じ事を言って首を捻っていた。 その点で、利知未と倉真も同じだ。 三人の分は、適当に倉真の好みに合わせて買って来てしまった。
「俺も、アンマ食わネーからな。 こんな所じゃネーか?」
そう言って、バニラとカフェオレと、抹茶味のアイスを選んで見た。
カレーを平らげ、デザートで皆に配る。 ビールを片手にアイスを手にする姿は、少し笑える光景だった。 良く判らなかった三人には、利知未から選んでもらって見た。 利知未は少し悩んで、抹茶を手にした。
『利知未さんの好み、これかぁ? カフェオレ選ぶと思った』
倉真は、内心でそんな事を考えて見た。
「利知未、もしかして、かき氷頼むなら宇治金時?」
樹絵の質問に、中学の頃まで、良く食べていた種類を思い出してみた。
「レモンか、ブルーハワイだったな。 …もう、何年も食ってないけどな」
軽い笑顔で、そう答える。 樹絵が失敗した顔を、倉真と見合わせた。
「ヤッパ、シャーベットのレモン、選ぶべきだった?」
「それ位っきゃ、無かったな?」
「構わないよ。 抹茶なら、甘過ぎる事もネーだろ?」
「カフェオレは、何で止めたんだ?」
「缶珈琲もソーだけどな。 珈琲の加工品は甘く出来てんだよ。 最近は甘さを抑えたのも、出て来たけどな」
「成る程」 倉真と樹絵は、再び顔を見合わせて頷き合った。
アイスまで平らげ、ビールで、もう暫く晩酌タイムとなる。 準一が調子に乗って飲み過ぎた。 利知未は容赦なく、水道の蛇口の下へ準一の頭を突っ込んで、水をぶっかけた。
宏治達には何時もの事で、呑気に笑って囃したてている。 女のコ達は唖然として、その行動を見守ってしまう。
準一のヘルプに答え、樹絵が走って、バスタオルを取って来た。
八時半前。 食事の後片付けまで全員でかかって終わらせ、漸く里真の希望通り、蛍狩りへと出掛けて行く。
徒歩十五分ほど歩き、『蛍の小道』の標示を見付けた。 先頭を行っていたのは、花火の袋を下げた樹絵と、水を掛けられ、すっかり酔いの冷めた準一だった。
その後を、里真と宏治。 里真は夕食の席で聞いた、利知未の護身術が何か? を言い当て様とし、先ほどから宏治に笑われっぱなしだった。 宏治の手にはバケツが下がっていた。
その後ろから利知未達が行く。 利知未の喧嘩上等伝説を語る和泉と倉真の話しに、秋絵と由香子が夢中になっている。
初対面の時、和泉と倉真が利知未に投げ飛ばされた、と言う話しを聞いて、秋絵と由香子は目を丸くしていた。
黙って前を行く利知未に噂話を制されて、『蛍の小道』へと踏み込んだ。
自然と、由香子と和泉が二人で離れる。
同じ小道の中で、里真と宏治、樹絵と準一が、それぞれ二人切りで、蛍を眺めていた。
……お互いが、何処に居るのかは判らない。
川沿いに、意外と広いスペースを、蛍の飼育場所、兼、公園としてあった。
「この川自体は、加工されて作られてるんだね」
秋絵が、川の端へと進んで行く。
「アッチの本流から、水を引いてるみたいだな」
渓谷沿いの川は流れが早くて、蛍の幼虫を飼育出来る筈は無い。
もう少し進んで、蛍が一斉に明点する光景に出会う。
「……綺麗」 秋絵が見惚れて歩を進めた。 利知未が後を追う。
……倉真は、少し離れた場所で、立ち止まる。
利知未の背中を、蛍の微かな明かりに照らして、ジッと見つめる。
倉真はその背中に、答えを探していた。
利知未は秋絵の相談を、蛍を眺めながら聞いていた。 樹絵と準一の事を考えている秋絵が、一つの決心を語る。
素直に優しい気持ちで、その思いを利知未が受け止め、秋絵の表情に笑顔が戻る。
利知未は、秋絵の思いを受け止めながら……、…心の中では、あのヒトの事を思う。
『マスターと、裕兄。 ……やっぱり、似てるんだ』
明点する蛍の光に、裕一の魂を探す。 ……その影が、あのヒトの姿に重なる。
『……あたしが、ちゃんと生きていけるように。 ……ずっと、見守ってくれた』
裕一は、亡くなるまで。 ……マスターは、身近で。 ……今も、いつも。
『限りない優しさで、包み込んでくれる……』 けれど、忘れなければならない。
『あのヒトが守るべき、大切なモノは……。 ……他に、ある』
あたしじゃない。 彼の家族。 愛し子達…。 …愛する、奥さん。
秋絵の声に答えながら、その背中は、僅かに震え始める。 それでも、涙は見せない。
……今は、一人きりじゃない。
僅かに震える背中に、倉真は利知未の弱さを、始めて感じる。
『あのヒトは、……彼女は』 本当は、物凄く沢山の、悲しみを抱えている。
『強く見せている、その態度は』 彼女の本来、持っている悲しみを、覆い隠す。
どうして俺は、あの人の本当の心を支えてやれるほどの、強さを持っていないんだろう……?
『……俺が、守りたいのは、彼女だ。 …彼女の、真実の姿』 一つの疑問は、消えてなくなる。
目隠しをして、見ないようにしていた、自分の情け無さ。
……それを認められて、始めて新たな、目標へと変わる。
『あの人を支えられる男になろう。 あの人が、悲しみを隠す必要がないくらいの、頼り甲斐ある男に』
それは随分、途方も無い目標にも感じる。 それでも、この自分の中に疼く何かが、その形を現した。
『この部品は、彼女そのモノだ』
彼女を受け止め、守る。 守れる様になって、始めて自分は完成する。
秋絵を腕にぶら下げて、振り向いたその表情は、…優しい、笑顔だった。
大切な人の、幸せを守る為に。 自分はそろそろ、復活しないとダメだ。
……あのヒトに守られなくても、確りと生きて行こう。
『今度は……。 あたしが、皆を守る番』 手段は、教えて貰って来た。
あのヒトにも、里沙にも、美由紀さんにも。 団部のセンパイや、仲間や、克己にも。 勿論、裕一にも。
……そして、哲や、敬太にも。
再び、歩き出す。 利知未の決心も、倉真の想いも。
『蛍の小道』は、里真と宏治、和泉と由香子の心も繋げた。 そして樹絵にも、一つの答えを教えてくれた。
全員が出口で再会した時、それぞれの心が、晴れやかに弾んだ笑い声を響かせる。
次は、花火だ、宴会だ!
嬉しそうに、樹絵が駆け出した。 秋絵と準一も、後を追う。
……そして、それぞれの想いも、駆け出した…!
十
葉山と向かい合って、食事を取る里沙の、その左手の薬指には。
新しい輝きが、キャンドルの、ほのかな明かりに揺れている。
「……今度は、両親に紹介しないと」
会話は、静かに進んで行く。
「私の両親にも、会って貰わないとならないわね」
「パスポートを、取っておくよ。 確か去年、切れてしまったんだ」
「貴方の冬休みか春休みに、時間が取れるかしら?」
「僕の希望は、冬休みだな。 ……春休みには、式場に居る予定だから」
葉山の言葉に、里沙が軽く両眉を上げて、クスリと笑う。
「大変。 じゃ、半年で朝美に、お料理教えておかないと」
里沙の少しおどけた口調に、葉山も笑顔を見せた。
「彼女、料理苦手だったかな?」
「得意と言ったら、閻魔様に舌を引っこ抜かれちゃいそうよ?」
「それは、大変だ」
笑顔で、これから先の事を、二人で話し合う。
冴史は、一人で集中している。 ……何時もと違って、静か過ぎる広い家は。
今、向かっているラストシーンのイメージを、膨らませるのに最適だった。
玲子は、十時頃には下宿へ戻った。 今日は、バイトの日だった。
玲子のバイトは家庭教師だ。 透子と違って、学校の掲示板を見て探したバイトだった。 意見も、少し違う。
『私の生徒は、どうやら基礎力が足りないみたいね。 その辺りを確り教えれば、応用力も伸びるンじゃないかしら……?』
教師も、昔考えていた職業の中に、含まれていた玲子だった。
冴史が玲子の帰宅に気付いて、里沙から言われた通り、夕食の準備をする。
玲子がダイニングへ入り、冴史に言う。
「冴史、勉強してて良いわよ? 自分でヤるから」
「私も、まだだったから。 ついで」
「じゃ、私が二人分やるわよ。 用意が出来たら呼ぶから、勉強してなさいよ。 受験生何だから」
玲子に言われて、冴史は大人しく自室へ引き取る。
けれど、向かう先は教科書ではなく、原稿用紙だった。
その少し前。 『蛍の小道』から、花火をする為に、真っ暗な広場へ移動していた。 散策路には、提灯がぶら下がっていた。 移動の道程は明るかった。
その広場は広く、提灯の明かりも中心部分には届いていなかった。 先に利用していた客の、片付け損ねた花火の残骸が少しだけ残っていた。 先ずは、それを片付ける。
それから、自分達の花火を取り出す。 宏治と倉真が、川からバケツに水を汲んで来ていた。
準備が整い、花火大会が始まった。 それぞれのパートナーと、笑顔で炎の花を咲かせていく。
利知未と倉真はその光景を、広場の端にある、ベンチに座って眺めていた。
ベンチの傍らには、灰皿が設置されていた。 利知未は樹絵に、ライターを持って行かれてしまった。
利知未のタバコに、倉真が火を着けた。 二人で呑気に、煙を燻らしていた。
「利知未さんは、将来ナンの専門医、目指してるんスか?」
医者を目指している事は知っている。 難関の医大に合格する為、バンド活動を終了してからの利知未が、受験勉強を頑張っていた事も解っている。
「外科か、心療内科でも目指すか?」 講座を決めるのは、来年からである。 半分本気だ。
「同じ医者でも、正反対じゃないっすか」
「だよな。 どっちも、昔のあたしや、おまえ達みたいなのに、馴染み深いと思わないか?」
少しおどけた様な事を言う。 倉真は、小さく笑った。
「そーかも、知れないっスね」
「お前等が将来、道を踏み外した時に、あたしが面倒見てやろうと思ったンだよ」
「潜りの医者って事っすか? そりゃ、イーや」
相槌を打った倉真と一緒に、軽く吹き出した。
会話の中で、女医と言う言葉には色っぽいイメージしかない、と言った倉真に、利知未はAVの見過ぎだと言って、面白そうに笑った。 いつも酒を飲みながら話している時と、同じ笑顔だった。
「けど、折角の長身だし。 モデルでも目指して見たら、良かったんじゃないっすか?」
軽く言った倉真の言葉に、敬太を思い出す。
「……アイツ見たいな事、言うな」 呟いてしまった。
倉真が軽く眉を上げる。 ……何かを思い出した利知未が、急に女っぽい顔付きになった様に見えた。
「…ナンでも無いよ。 ……お前は将来、何を考えているんだ?」
無言の質問に軽く答えて、利知未は話しの軌道を変える。
「俺は、バイクが好きだからな。 出来る限り、それに関わっていたいと思ってるっす」
「乗る方か?」
「若い内は、それで良いと思う。 ……最終的には、バイクショップでも開きたいなぁと。 片方で売って、片方で修理や整備。 整備工場だけでも良いな」
意外と真面目な答えが返って来た。 倉真ならばレース関係の事でも、言い出すのではないか、と考えていた。 ……橋田を、少し思い出した。
利知未より、一足も二足も早く、自分の夢へ向かって社会へ乗り出したセンパイ達を思い出す。
あのセンパイ達は、利知未にとっては超えられない存在だ。
ヤンチャ三昧の中学時代。 利知未をずっと守り、見つめ続けてくれていた人達……。
「マトモな仕事に夢を持てるんなら、将来、あたしが面倒見てやる心配も、無いかもしれないな」
そう言った利知未に、倉真は心の中で、感謝していた。
言葉では言い表せないほどの、恩がある。
今の自分が、マトモに両足を大地に着けて立っていられるのは、利知未との出会いがあったからだ。
補導事件、飲酒運転。 ……族との関わり、拘置所の飯の味。
……自分を成長させてくれた、綾子との同棲時代。
全ての影に、倉真を助けた、利知未の手があった。
『どう考えても、面倒掛けた事ばっかだな……』
……このヒトに、男として認めて貰えるようになれるのは、いったい何時の事だろう?
今、何か悩んでいる事や、気になっている事があるかと、倉真に聞かれた。
利知未は、マスターのことを思う。 ……それでも。
「今は、無い。 …あったとしても、タイした事じゃない」 そう答えた。
そんなことを急に聞き出した、倉真の事が心配になる。 反対に利知未から問い掛けられて、倉真が答える。
「……俺には、ジレンマがあるだけです」 利知未のことを想う気持ち。
彼女を、守り切れる程の力を持てない事を、実感している今の自分自身。
……そして、また。 利知未の返事に、救われてしまった。
「それなら、あたしだって持ってるよ。 お前だけじゃない。ただ、見ないようにしているだけだ。 その気持ちと正面切って向かい合おうとしている、お前は偉いよ」
「んな事……」
「逃げちまえば楽になる。 見ようともしなければ、もっと楽だ。 その代わり、何時かどでかいしっぺ返しがくる。 そうなってからじゃ、収拾つかなくなるのにな……」
利知未は、自嘲的に薄く笑う。 ……自分だって、まだ片付けられない問題を、抱えたままだ。
静かに何かを思う利知未の姿に、倉真は彼女の本音の部分を、本の少しだけ垣間見た。
……弱々しい利知未が、チラリと見えた。
ねずみ花火が足元で弾けて、二人は思い切り、びっくりする。
利知未の驚いた顔を、倉真は始めて正面から見た。
「なーに大人らしくしてんだよ?! 眺めてないで、一緒にやろーぜ!」
腰に両手を当てた樹絵が、ニコリと笑って、二人を誘った。
まだ、少し驚いた顔を、二人は見合わせていた。 樹絵は、小さく笑って、クルリと向きを変えて走り出す。
「早く、来いよ!」
少し離れた所で軽く振り向き、大きく手を振って、二人に声を投げた。
倉真が小さく笑った。
「……可愛い顔だな」 びっくりした利知未の顔が、可愛く見えていた。
「気持ち悪い事、言うなよ」 利知未は久し振りに、異性から言われた言葉に照れてしまう。
「訂正。 中々、魅力的な顔でしたよ」
視線を軽く反らして、倉真が微かな笑顔のまま、利知未に言った。
「なお悪い!」
照れて視線を反らして、小さく脹れる。 倉真は益々、笑い出す。
『スッゲー、可愛い』 そう思うが、言葉に出すのは止めにした。 代わりに、利知未の腕を掴んで、ベンチから引っ張り上げた。
『……軽い』 身長の割に、その手応えは軽かった。 素直に驚く。
『このヒトは……。 やっぱり、女だ』 ……自分にとっての、特別な女だ。
「行きましょ」
そのまま半分、引き摺ってしまう。
「おい! ちょ、待て!」 抵抗する力が、倉真の力に追い付かない。
『……何時の間に、こんな力の差が、出来ていたんだろう……?』
つんのめり掛けて、身体を倉真に支えられてしまう。
「平気っすか?」
「…ああ」
「チョイ、引っ張り過ぎちまった。すんません」
頭を掻いて、視線を反らした。 利知未の片腕を掴んだまま。
もう一度、利知未の腕を引いて歩き出した。
『振り解こうと思えば、振り解けるけど……』 利知未の中で、何かが変わる。
……本の少しの変化に、自分で気付けない。 ただ、何と無く。
『もう、コイツと喧嘩しても、勝てないだろうな……』 負けず嫌いが、顔を出さない。
『こうやって、段々と』 倉真達も、成長して行くのだろう。 ……くすぐったい。
心が、少しだけ反応した。
十時には、キャビンに引き上げた。 宴会の場所を男小屋の一階・和室に決めて、里真と双子が籤引き大会の景品を取りに、自分達の小屋へ入る。
その間に、宏治がチャッチャと、宴会の準備を始めた。
「流石、手際が良いな」
和泉に、感心して言われた。 由香子と二人で手伝っていた。
「商売柄だな」
そう言って、宏治が摘みの皿を仕上げて行く。
「便利だよね。 ソー言う仕事している、友達がいると」
準一はダイニングの椅子に座り、テーブルにだらしなく両腕と上半身を預けていた。
「呑気な事、言ってるなよ。 少しは酒でも運んで行け」
和泉に言われ、気の抜けた返事をして立ち上がった。
和室の準備は、利知未と倉真で片付けた。 備品の座卓を繋げ、広いテーブルを作る。 その上に、運ばれた酒と肴が並べられて行く。
二人でいる時の利知未の仕草は、今までと少しだけ違っていた。
本人も見ている方も、殆ど気付けない。 少し物を考える仕草や、その表情が微妙に優しい。 ……言葉は変わらない。
里真達が景品を運んで来る前に、宴会の準備は整ってしまった。
準一が調子に乗って、音頭を取った。 早く飲みたくてたまらない。
「ンじゃ、ソー言う事で、乾杯!」
「何が、ソー言う事、ナンだよ?」
「大体、お前が音頭を取ってンのが、良く解らネーよ!」
野次が飛ぶ。 準一は、全然構わない。 ヘラリとかわしてしまった。
和泉と由香子、里真と宏治、その近くには準一と双子がいる。 樹絵の隣で、利知未がグラスを傾けている。 倉真は、二人の前にいた。
「里真と宏治、由香子と和尚、か」
樹絵が、二組のカップルをチラリと見て言った。
「里真の希望通りの、組み合わせじゃないか」
利知未も答えて、タバコを咥える。 ポケットを探り、樹絵がまだライターを持っている事を思い出して、片手を差し出した。
「あ、ごめん。 忘れてた」
樹絵が上着のポケットを探って、利知未のジッポーライターを出した。
「何でジッポーなんだ? ガスライターの方が、色んな種類があるジャン? 可愛いのとかも」
「あたしが可愛いの持って、ドーすんだ? オイルの方が、外で使い易いんだ」
「海沿いとか、山ン中とか、風強い事あるっすからね」
「にしてはさ、もう少し、洒落の効いたのもありそうジャン?」
「いきなりライター通か? …まさか、吸ってネーだろーな?」
「吸ってる訳、無いジャン! こないだ、今日の景品探している時に、その辺のも探して見ただけだよ」
樹絵がニヤニヤとし始める。 景品の一つを、思い出した。
「タバコは吸う気無いけど、ライター集めるのは、楽しソーだよ?」
「吸う気が無いなら、金の無駄だろ」
「だからさ、利知未、コレクションしないか?」
「何であたしが」
「利知未しか、下宿で吸うヤツ、いないジャン」
「お前の楽しみの為に、金を使ってどうするんだよ」
二人の会話に、倉真も笑っている。 並んでいると、本当の姉妹に見える。
『随分、男っぽい姉妹だけどな』 自分の想像と感想に、更に笑みが零れてきた。
「あ、何、想像してんだよ!? スッゲー、ニヤケてンの!」
樹絵は話しながら、二杯目のビールを飲んでいた。 倉真に突っ込んだ。
軽く目が据わっている。 利知未から、ストップをかけられてしまった。
同時に、秋絵もドクターストップだ。 由香子は始めから、ウーロン茶とジュースを飲んでいた。 里真が準一に注がれながら、ついつい飲み過ぎる。
「ジュン、アンマ飲ませるなよ」
「だって、酒飲んでた方が、後が楽だよ?」
「…後って、何を指してんだよ?」
「そりゃ、勿論。 ………、って事に決まってんじゃン?」
無言で、宏治は準一を小突いた。
「え? ナンの話し?」
由香子と和泉と、三人で話していた里真が、二人を振り向いた。
「何でもない」
少し、宏治の顔が赤い感じがした。 酒の所為だろうと、勝手に思った。
一時間ほど経ち、里真が仕切って、籤引き大会が行われた。 見事に一等を引き当てた倉真の景品は、映画のペアチケットに、クオカードだった。
「参ったな。 クオカードは、まだイイとしても」
ぼやいた倉真に、すっかり酔っ払った里真が勝手に、大声で利知未を誘ってしまう。
「なあに? 誘う相手の一人位いないの?」
ズバリと聞いてしまう。 そして、ここにきて回り始めた酒の勢いで、どんどん話を進める。
「それなら、夏休みで比較的、時間が取りやすい人が、いるじゃない」
くるりと瞳を回して、大きな声で呼ばわった。
「利知未―! 倉真君が来週の日曜、映画に行こうって!」
その瞬間、倉真本人と同じ位に宏治が慌てた。
倉真は机に突いていた頬杖の肘が滑って、顎をしたたか打ちつけた。
「里真、ちょっと来い!」
宏治が慌てて叫んで、里真をキッチンへ引き摺って行った。
「あぇ? 何処行くにょ…?」
「飲み過ぎだ。 水飲もう、な?」
「へーき、へーき」
引き摺られながら、終に足が縺れ出す。 可愛い酒乱が出来上がってしまった。
宏治は里真を引っ張って、ダイニングへ連れて行った。 倉真と利知未については、口出し無用だと思っている。
利知未は漸く、里真の酒の量に気付いた。 心配してダイニングを覗きに行った。 里真は、眠ってしまっていた。 宏治と二人で里真を運んで行った。
8号キャビンの二階、左の洋室に里真を運び込んだ二人は、そのままバルコニーへ出て一服した。 策に並んで寄りかかり、静かに煙を燻らせる。
「里真には、とんでもない酒乱の気が有りそうだな」
利知未が、ふっと表情を緩めて言った。
「そーかも知れませんね」
宏治も軽く、笑顔で言った。
「実は…、丁度良いタイミングで、二人きりになれたと思ってます」
「タンデムシートに乗せたい可愛い彼女」
利知未が煙を吐き出しながら、ボソッと突っ込んだ。
「やっぱ、分かりますか。 ……さっき河原で、…伝えました」
宏治は煙草を消して、背筋を伸ばす。
「おれ、里真と付き合います。 マジに」
「保護者の許可が必要か?」
「いただけますか?」
ふ、と軽く息を吐くように笑みを見せる。
……宏治も随分、男になった物だと、改めて、その成長を感じた。
「あたしは一日保護者だからな。 …ココで問題を起こさなきゃ、関係ない」
これからは、男として責任を持って、付き合って行け。 と伝えた。
宏治は、その言葉を、確りと受け止めた。
利知未と宏治が、宴席を外している間に……。
「……焦った」 倉真が、息を吐いて呟いた。
「焦る事ないだろ? ラッキーじゃないか。 酔っ払い様、様だよな」
7号キャビン和室に残っているメンバーで、倉真の内心を良く知っているのは、樹絵だけだ。 二人は部屋の隅で、小さめな声で話している。
由香子と和泉、準一、秋絵は、トランプでポーカーをして騒いでいた。
「樹絵ちゃん、もう酔いは覚めてるよな?」
「スッカリ素面だよ」
「意外と強いんだな。 一杯付き合ってくれ」
「良いよ」
グラスにビールを注ぎ、ついでに乾き物やチョコレートも近くに移動してきて乾杯した。
倉真は一気にビールを飲み干す。 すぐに樹絵が注いでやる。 もう一杯一気し、更に一杯。 それで漸く倉真は落ち着いた。 自分はチビチビ飲みながら、樹絵は四杯目を注いであげた。
「さっき、花火の時さ、何話してたんだ?」
樹絵の側の肘を使って、頬杖を突いている。 表情を覗き込まれるのが、照れ臭かった。
「将来の職業について。」
「はぁ? 折角のチャンスだったのに?」
「そー言うなよ。 結構、マジに話してたんだぜ」
「んー、でもあの後、手を握ってたじゃん。 あ、上手くいったんだなって、あたしは思ってた」
「あれは、そーゆうんじゃなかったンだよ。 半分、勢いだ」
「そーだったんだ」
倉真はグラスの半分くらいを、グイっと喉に流し込む。
「謎は、一つ解けたけどな……」
「どんな?」
「樹絵ちゃんの言う所のレンアイカンジョー? って、やつ」
「分かったのか? じゃぁ、形が見えてきたって、事? 良かったじゃないか」
「そーゆー意味では、確かに少し楽になったけどな」
「……あたしも、ちょっとだけ分かった事があるよ」
「どんな事だ?」
樹絵も、グラスの四分の一位を喉に流し込む。
「ジュンの何が、そんなに好く見えてるのか」
二人で同時にグイっとグラスを傾ける。
「俺達って、」
「似た物同士だな」
二人で目を合わせて、少し笑う。 お互いのグラスにビールを継ぎ足す。
「乾杯」 小さくグラスを合わせた。
同じ様な事で悩み、語り合った者同士だ。 戦友とでも表現出来る様な、友情が生まれた。 二人は、お互いの想いへエールを送り合う。
その後、利知未と宏治も宴席に戻り、予定時間を二時間近くもオーバーして、宴会が続いた。
利知未は無意識に、酒の量をセーブしていた。
今までならば、考えられない。 この仲間達と深酒をしたからと言って、何が起こる筈も無いと、そう感じてきていた。
宏治達は、利知未にとっては弟分だ。 兄貴分の克己と、そんな気にならないのと、同じ事だ。 今も、対して変わらない。 ……ただ。
まだハッキリとはしない部分で、彼等を、男として認め始めていた。
全員が自室へ引き取り、眠りについた時間は、深夜二時を回っていた。
そして翌朝。 六時には起き出して、顔を洗う。
折角、宏治が持って来た釣り竿を、活用しない手は無い。 渓流釣りへ、男四人に樹絵と利知未が混ざって、六人で出掛ける。
利知未は小学生の頃、少しだけ優とやった事があった。 宏治も宏一に連れられ、小学生の頃は良く出掛けていた。 今でも偶に行く事がある。
和泉、準一は、やはり小学生の頃以来だ。 男の子は、一度は通る道かもしれない。
倉真はツーリング先で、宏治に付合って二、三度、釣り糸を垂らした事がある程度だった。 小さなころ、父に連れられた事はあった様だが、殆ど記憶にない。 短気な自分には、向かないと思う。
樹絵は、大の特技だ。 北海道に居た頃、兄に連れられ弟達と良く出掛けていた。 兄が成長し、一緒に行かなくなってからは、樹絵が弟達を引き連れて、良く出掛けていた。 ……秋絵も、実は中々ヤるらしい。
経験と実力が物を言った。 樹絵が一人で、三人分の魚を釣り上げた。
樹絵は帰り道、準一と二人で、話しをすることが出来た。
準一の高校中退理由と、今の仕事に対する考え方を、始めて聞いた。
余りにも準一らしい答えで、樹絵は半分、感心してしまった。
話している内に、先へ行ってしまった仲間を追い掛ける時。 勢いで準一に腕を掴まれて、二人で駆け出した。 ……心が、明るい反応を示した。
『……あたし、ヤッパ、ジュンの事。 好き…、ナンだ』
樹絵も漸く自分の心を、素直に受け入れた。
キッチンへ残り、朝食準備をしていた由香子と秋絵は、二人でお玉を掲げた、可愛らしい笑顔で里真のカメラに収まった。
「…あ! 今の写真、絶っっっ対! イイ写真になるっ!」
シャッターを切った里真が、嬉しそうな笑顔を見せた。
二年半、写真部でカメラを構えて来た里真は、シャッターを切る瞬間に、その写真の出来を感じる事が、少しは出来る様になっていた。
「本当に!? すっごい、楽しみ!」
「絶対、送って下さいね!?」
二人に期待満面の瞳を向けられ、里真は胸を張って、快心の笑みを見せた。
十一
朝食の準備で、また宏治が頑張ってくれた。
利知未が、魚を上手く焼けない里真達に、見兼ねて手を出しそうになる。
里真のヘルプには、利知未よりも宏治が早く反応した。 宏治なら平気だろうと見て、利知未はそのまま、任せてしまった。
二日間、連続で寝不足だ。 朝食の準備が整うまで、仮眠を取る事にした。
朝食を終え、帰りのコースと休憩場所を話し合い、チェックアウトの準備を始めた。 食材は無くなった。 来た時よりも余程、軽い荷物だ。
ゴミ出しに行き、大方の荷物を車に積み込み、一時間ほど川遊びの時間を取る。
その間に、利知未と宏治、倉真と準一は、バイクをチェックする事にした。
「まぁ、問題無いとは思うっスけど」
それぞれが借りるバイクの調子を、その持ち主と共にチェックする。
「…だな。 燃料は、まだ平気だ。 エンジンの調子も、悪くないな」
キーを回して、暫く吹かして見る。 準一と倉真は、改めてタイヤを見る。
「溝も、まだ全然、平気じゃネーか。 お前じゃ、きついコースも走らせネーんだろ? 俺のは結構、減りが早いンだよな」
「長距離、行き過ぎジャン? まだ、泊り掛けで行ったりすンの?」
「暫く、行ってネーンだよな。 そろそろ、再開すっかとは思ってンぜ?」
言いながら、オイルの色も確認をして見る。
「…こんなモンか」
チェックを終らせて、手を洗う。 オイルで汚れた手が中々、綺麗になってくれない。
利知未が自分の荷物から、ボディーソープを持って来た。 石鹸の代りだ。
倉真が首から掛けていたタオルを借りて、手を拭いた。
「ンじゃ、声かけてくっか」
川遊びをしているメンバーを迎えに、歩き出す。
川遊びをしているメンバーは、ぼやいていた。
「水着、持ってくれば良かった!」
「だよな。 したら、あの辺り泳げそージャン?」
少し先に、やや水深が深そうな色をした、水面が見える。
「けど、水、綺麗ね!」
川底が、すっかり覗ける。 小魚がチラリチラリと、陽光を受けて光っている。
「タモが有ったら、掬えそうだな」
和泉も、川面を眺めて呟いた。
「持ってくりゃ良いジャン!?」
「掬って、どうするんだ?」
「飼って見るとか?」
「持って帰るのも、大変そうだ」
「ソーかも」
樹絵は少し残念そうだ。 本気で飼って見たいと思ったらしい。
直ぐに気分を変えて、水を掛け合って遊び始めた。
「すっかり、ぐしょぐしょだよ」
二十分程もそうして遊んで、服を乾かす為に、河原へ上がって来た。
腰掛けて、今度は止め処も無いお喋りが始まる。 そうしている内に、バイクの整備をしていたメンバーが、声を掛けながら現れた。 河原に全員が集合した。
「ね、まだ集合写真、撮って無いよね!?」
秋絵に言われて、里真がカメラの残りフィルムを確かめた。
「まだ、少し残ってる。 ココで、撮っちゃおう!」
川を背中に、全員が並ぶ。 前列に宏治、和泉と由香子が、しゃがみ込んだ。
後列に、準一、樹絵、秋絵、利知未と、倉真が並ぶ。
里真はピントを合わせて、シャッターを切ってくれる人を探した。
「すみません、シャッター、押してもらえませんか?」
大学生くらいの、カップルを見付けて声を掛けた。 彼氏の方が、彼女と顔を見合わせてから、笑顔で頷いて近寄って来た。
礼を言う里真からカメラを受け取って、少し驚いている。
「凄いカメラだね、ピントとか、大丈夫?」
「合わせてあるんで、ココからお願いします」
頷いて、カメラを構える。 里真が、宏治の隣にしゃがみ込んだ。
「じゃ、行きますよ?」
「二、三枚、お願いします!」
シャッターを切りながら、その人は笑いを堪える。
後列の四人の動きと、準一の顔が凄かった。 彼女は彼の後ろから眺めながら、クスクスと笑っていた。
「お前等、大人しく前見てろよ?」
利知未に言われても、その行動は止まらない。 利知未は、一枚目だけは無事な姿でファインダーに収まれた。 二枚目のシャッター音の、コンマ数秒前。 足を後ろへ踏み外す。
双子を避け様として、見事に川の中へ落ちてしまった。
「大丈夫ですか!?」
彼と彼女が、慌てた声を出す。 倉真が利知未に手を貸して、川から引き上げていた。 準一と双子は、元気に答える。
「大丈夫です! もう1枚、お願いします」
後ろの物音と動きに、前列の四人も振り返っていた。
「はい、前見て、前見て!」
樹絵と秋絵が、少し心配そうな顔をしている四人をしゃがませて、構え直させた。 四人の視線は、やや後ろへ行ってしまう。
それでも彼氏は確りと、三枚目のシャッターも押してくれた。
倉真と利知未の様子を横目で見ていた樹絵が、無言で「今、押して!」と、伝えていたからだった。
まだ、引き上げた時の腕をそのまま掴んで、身体を斜め前に向けていた倉真と、水を滴らせた利知未の姿が、確りとファインダーへ収まっていた。
カメラを受け取って、樹絵はフィルムが一枚、残っているのを見付けた。
里真を振り返った時、その向こうでTシャツを、胸の僅か下までたくし上げて絞っていた利知未と、首に掛けていたタオルを手渡そうとしている、倉真の姿を見た。 ピントは合っている。 迷わずシャッターを押した。
御岳渓谷に架かる吊り橋、楓橋を渡った先に、かんざし美術品館があった。
昼前に、そこへ寄って行こうと、話しが決まっていた。
そこまでと、もう少し先まで、倉真と利知未がバイクを走らせる。 宏治が車を運転していた。
楓橋に向うまでに、倉真は利知未と二人切りで話す、チャンスに恵まれた。
自分で認め、気付いたばかりの想いを、まだ伝えるのは早過ぎる。
利知未は、まだ自分の前で、哀しい顔を見せる事は無い。
『何時か、彼女の涙を、受け止める事が出来たら……』 その時、漸く自分の想いを伝えられる、そう思う。
倉真は、その決心だけを伝える。 それと、どうしても一言だけ、言いたい事がある。
……昨日からの利知未が、可愛く見えていた事。
「表情が、豊かになってるように、見えたンすよ」
倉真からそう言われ、利知未も言った。
「それを言うなら、お前等も昔より、良く笑うようになったよな」
「信用出来るヒトが、世の中にいる事が解ったンスよ。 ……ある人のお蔭で」
「良い事じゃないか」
「その人は、自分がボロボロになりながら、俺達を救ってくれた」
自分が救われたと感じている事を、手短に上げていく。
「そりゃ、随分、大層な御仁だな。 あたしに紹介して欲しいぐらいだよ」
「本人は、ただ面倒見が良くて芯の強い人だから、無意識の内にいろんな連中に感謝されてンですよ。……多分」
感謝している方が、実はお人好しかもしれないよ、と利知未に言われた。
苦笑する様な思いで、倉真はその言葉を肯定した。
『この人は、こう言う人だ。 ……だから、マダマダ』
……重い感情は返って、彼女を苦しめてしまいそうだ。
何時か、その人の支えになれる様な男に、なりたいと思っている。
倉真のその言葉に、利知未は女らしい笑顔を見せた。 頑張れ、と言った。
それは倉真が、始めて見た笑顔だった。 同じ思いで見せて貰って来た今までの表情は。 ……何時も、少しセガワチックな、男っぽい笑顔だった。
二人切りで話したパートナーは、後二つ。
和泉は由香子と。 そこまでの道程で、今度は自分が会いに行くと、確りと約束をした。 ……由香子は、嬉しさと寂しさで、涙を流す。
里真と宏治は、樹絵達を待つ間に、仲良く話していた。
何時でも、デートの約束が出来る二人だ。 穏やかな空気が流れていた。
樹絵と準一と秋絵は、三人で仲良く騒ぎながら、楓橋を目指す。
樹絵は思う。 ……準一とは、まだこうして。 仲良く騒げれば、それで良いかも知れない。
自分が感じている想いは、準一にとっては、的外れな感情かもしれないと思う。
『だから、まだ、もう少しは。 ……これでイイか!』
ふざけ合い、準一を小突き、秋絵が笑う。 三人には、この関係が丁度イイ。
秋絵が、二人の事は長い目で見守ろうと決心している事を、樹絵は知らない。 ……準一も、こう言うヤツだ。 樹絵も、恐らく初恋だ。 『焦ったって、仕方が無い』
自分がどうする事の出来る話しでも、勿論、無い。
かんざし美術品館で、昼食を済ませてしまう事にした。 ざっと見て回り、それぞれが土産を物色する。
里真達は、下宿の残りのメンバーに。 宏治と和泉は家族に。 準一は、土産など買って行く気も無い。 倉真は、克己に。 利知未は、兄夫婦と透子。 皐月と、瀬尾カップルと、……マスター一家に。
車の載積スペースは、食材の代りに土産を積んで、再び走り出す。
倉真を最後に、和泉と里真達を先に送り、レンタカーを返しに行った時間は、十時を回っていた。 倉真が、自分のバイクで併走して行った。
利知未に、帰りの足になるからと言って、タンデム用のメットを積んで、車の後を追う。
そのままレンタカー会社から、利知未を乗せて。
八景島の近くまで、夜のタンデムツーリングへ出掛ける。 ……利知未と、少しでも長く一緒に居たい。
倉真の行動力に、利知未は苦笑してしまう。
父親と喧嘩し、家を飛び出した。 学校も自分でさっさと辞めて、綾子と同棲までして来た倉真だ。 その行動力は、利知未の制止が利く所ではない。
海の公園で、タバコを吸いながら缶珈琲を飲み、バイクの話しをした。
そして、来週の日曜日の、映画の予定を立てた。
「出来れば、アクションとかがイーな」
利知未の意見に、倉真は嬉しそうな笑顔を見せる。
『ヤッパ、映画の趣味は、綾子より利知未さんだ』
自分に合う事を、嬉しく思った。 ついでに、映画後のツーリングを決めた。
「そン時、俺のバイクと交換しましょ。 俺も、大型走らせテーし」
「丁度イイな。 あたしも、倉真のバイクは前から走らせて見たかった」
「利知未さんなら、何時でもイイっスよ? 貸します」
「約束の日が、楽しみだ」
少年チックな笑顔で、利知未が礼を言った。 まだ、こちらが自然だった。
翌日の土曜は、夜からバイトへ入った。
「あまり人に贈る物じゃないって、昔、大叔母さんから教わったんだけど」
バイト後、マスターへ、一家への土産を手渡した。
かんざし美術品館で、ツゲの櫛をマスター夫婦に。 可愛いデザインの簪を、佳奈美へ買って来た。 渉にはまだ早い。 それと、土産の菓子を渡す。
「念が篭り易いとは、言われているみたいだな。 まぁ、お前じゃ篭る念も無さそうだ」
マスターはそう言って、男持ちの櫛を取り出して見る。
「使いやすそうだ。 有り難く貰っとくぞ」
『篭る念は、本当に無いのかな……?』 利知未は、少しだけ考える。
……あたしの念が篭って、マスター夫婦が、離婚しなきゃイイけど。
瀬尾と貴子の分は、ロッカーの上へ張り紙をして置いた。 皐月の分もだ。 夏休み中は、瀬尾と徹底的に、時間がずれている。
皐月と貴子には、やはり簪を買って来た。 瀬尾には、菓子で良しにした。
『正月の晴れ着にでも、合わせてくれればイイけどな』
そう考えて、佳奈美と貴子、皐月の分を選んだ。 透子には少し悩んで、別の物を買って来た。 明日、土産を渡す為に会う約束だ。
倉真は、三日間休みを貰った。 普段は日曜に休む所を、木・金・土と休んだ関係で、その後七日間、連続でバイトへ入る。 一ヶ月の収入を減らすには、今回の出費は大き過ぎだ。
仕事は真面目だ。 すっかり、会社側からも頼りにされている。
日曜は、お得意様である各企業も休みの所が多い。 比較的、呑気な日だ。
利知未を乗せて、夜のタンデムへ向かった翌日の土曜日。 克己に土産を渡しに行った。
気持ちの整理をつけたばかりだ。 土産を渡しに行く事よりも、話しをするのが目的だった。 克己も日曜休みだ。 仕事の後、いつも通り居酒屋へ向い、軽く飲む事にした。
「最後にもう一回、聞いとかなきゃならネー事が出来た」
酒が進んでから、倉真が言う。 克己が、当たり前の顔で答える。
「利知未さんとは、マジ、ナンもネーんだよな?」
「しつこいヤツだな。 妹みたいなモンだよ」
「……ソーか。 克己とは、敵にならなくて済みソーだ」
「…随分、時間がかかったモンだ」
「認められなかったからな。 …自分の、情けネーとこは」
「ソーだろーよ。 テメーもイイ加減、負けず嫌いなヤツだ」
克己に言われて、倉真は小さく笑みを見せる。
『負けず嫌い、って言うのか?』 ただ、何度か利知未に言われて来た通り、ガキなだけだと、自分で思う。
「克己がトットと、イイ女を見付けて結婚でもしてくれた方が、安心だな」
「アンマ考えた事、ネーな」
「…ソーなンだろーけどな」
首に縄をつけてくれる女が克己に出来れば、本気で安心出来るんだけどな、と思う。 何でもないと言われても、今の所、一番、利知未と深い関係になり易い男かもしれないと、倉真は思っていた。
克己は、利知未のある男に対する想いを、チラリと聞いている。
『倉真のヤツ、ソイツを超える事が、出来るのか?』 やはり心配ではある。
利知未にとっても、今の想い人との関係は、早くに蹴りを着けた方が良さそうな感じだ。
「……まぁ、頑張れや」
酒を飲みながら、倉真へ短くエールを送った。
日曜日。 利知未は昼間、透子と会って土産を渡す。
「ナンだ? これ!」
木で出来た、オカシナ顔をした人形のキーホルダーと、名物の菓子だった。
「行った先に由来した、って感じの物じゃ、無いジャン」
「そんなもん買って来たって、ツマラネーだろーが。 透子とソックリな性格と顔をしたヤツが、それ見て大ウケしてたンだよ」
「そんな綺麗な子が、居るんだ!」
「自分で言うか? 残念、男だ」
「じゃぁ、美少年って感じか。 成る程、成る程」
ケタケタと、また呑気に笑っている。 利知未もつられて、つい笑う。
それから旅行前日のコンパで、透子を気に入っていた男が、しつこくて大変だと話しが始まる。
「連日、電話来てんだ。 利知未の事、マジ、男だと勘違いしてて、無茶苦茶 面白いけど」
「その誤解、解いとけよ」
「何で? そんなコトしたら、益々しつこくなるジャン? 面白がって居られる状態が一番だから、そのままにしとくよ」
何も考えないで透子が言って、アイスレモンティーをストローで啜る。
利知未は溜息をついて、タバコに火を着けた。
その夜、下宿店子がリビングへ揃う。 美加はまだ里帰り中だ。 里沙の、葉山との婚約が知らされた。
店子達が、口々にお祝いの言葉を発する。 里沙は笑顔でその祝いの言葉を受けてから、真面目な話しを始める。
「下宿の事なんだけど……。 皆にも、聞いて貰わなければならない事」
そして、朝美の事を告げる。 利知未は、嬉しい提案だと思う。
「私は、朝美さんって言う人が、どう言う人かは知らないけど。 良く知ってる利知未と玲子と冴史が、反対しないのなら、大丈夫だと思う」
里真の言葉に、三人が肯定の意志を表す。
「朝美なら、問題無いと思うわよ」
『料理が少し、不安だけど』 と、玲子は心の中で付け足して思う。
「あたしは、朝美には恩があるからな。 …問題無い」
『当分、あたしが飯作り、手伝おうか……?』 利知未も、心の中で付け足して思う。
同じ事を思っている二人の視線が、チラリと合う。 微妙な空気が流れる。 冴史は、何と無くその雰囲気を感じて、小さくクスリと笑ってしまった。
「大丈夫でしょう。 私も、朝美は好きだよ?」
冴史も笑顔で言った。 玲子が最後を纏め、別の報告をする。
「じゃ、問題無しね。 ついでに言ってしまうけど。 私、冬にはココを退去する事になるわ」
玲子は、今の彼氏が暮す場所の近くへ、引っ越す予定でいた。 その為の資金も、大学へ入ってから貯めて来た。 後、二ヶ月もすれば、予定金額へ手が届く計算だ。
「玲子が、出てくのか? …寂しくなるな」
樹絵の言葉に、玲子が言う。
「最近は、私もココに居ない事が多かったから。 皆、直ぐに慣れると思うわ」
「……そっか。 寂しくなるけど、記念すべき独立だ。 盛大にパーティーでもして、送り出してあげようよ」
冴史が言う。 玲子とは上手く行っていた。 寂しいと言う点では、樹絵より上かもしれない。
利知未も、喧嘩相手が居なくなるのは、残念な気もする。
「ま、仕方ネーな。 あたしは、平和に生活出来る様になる、って訳だ」
「また、捻くれたコト言ってる。 私よりも、利知未の方が寂しいかもね」
冴史に言われて、ニヤリと笑って見せる。
「清々するぜ。 代りに樹絵でも、からかう事にするか」
「樹絵。 利知未の相手、任せるわ。 頑張んのよ?」
玲子も不敵な笑みを、樹絵に見せた。
美加には、里沙本人から話した後、利知未が確りフォローへ回ると約束をした。 話し合いはそこで終わり、後は一昨日までの話しをしながら、残りのケーキと紅茶で寛ぎタイムとなる。
十一時前には、それぞれの自室へと引き取って行った。 成人三人は、それから明け方まで。 里沙と玲子の前途を祝して、宴会をしていた。
十二
翌日の月曜日。 七月最終日に、写真が出来てきた。 早速それぞれの相手へ、渡しに行く相談をした。
利知未は、倉真と日曜、映画の約束がある。 倉真への受け渡しを引き受ける。 里真は勿論、宏治へ渡す。 ついでにデートの約束をする。
樹絵は早速、準一へ連絡を入れた。 和泉には、由香子の分と纏めて、秋絵が引き受けた。
利知未は昼間、アダムでバイトだ。 宴会の後遺症・寝不足で出掛ける。 今週の予定は、火曜が休みで、水曜・金曜が夜、土曜が昼。 妹尾との兼ね合いだ。
写真が出来た翌日・火曜日。 樹絵は準一に、焼き増し分を渡しに行った。
「お、バッチリじゃん!」
集合写真を見て、準一が嬉しそうな顔をした。
「ココ、見てくれよ? なぁ、この二人、結構、似合ってると思わないか?」
三枚目の利知未と倉真を指して、樹絵が言う。
「倉真と利知未さんか。 面白そーだけど、どーかなぁ?」
解ってないの、と樹絵は思う。 倉真の事は、応援するつもりだ。
『あたしは、どーなるのか分からないけど』 そうも思う。
それでも、準一と二人で会うのは今日が始めてだった。 照れ臭い感じと、嬉しい気持ちが内混ぜになっている。
その後、準一のタンデムシートに跨り、マリンタワーへ遊びに行った。
利知未には内緒だ。 タンデムは禁止されている。
展望台から景色を眺めて、準一が喜んでいる。
「ヤッパ、高い所って気持ちイーよな!」
子供みたいに、設置されている望遠鏡にコインを入れて、覗き込む。
「お、ヨットが見える! あれも、乗って見たいよね」
準一に言われて、隣でそちらの方向を見た。 準一に引っ張られ、半分ずつ望遠鏡を覗いて見る。
ピタリとくっつく形になって、樹絵は鼓動が跳ね上がるのを感じる。 準一に気付かれるのは恥かしくて、慌てて離れた。
「ジュン、ガキみてーだな」
「何が? …あ。 オモシレーもの発見!」
再び、望遠鏡を独り占めしながら、準一が楽しそうな声を上げる。
樹絵は、その準一の様子を、少し赤い顔のまま、微かな笑顔で眺めていた。
翌日・水曜日。 里真を迎えに来た宏治の車を、冴史が発見した。 学習塾ビルの前だ。
玄関を出て、真っ直ぐに宏治の車へ向いながら、里真が笑顔を見せている。 バッグから大判の茶封筒を取り出す。
「お待たせ。 写真、いっぱいあるよ?」
「凄い量だな。 どっかで飯でも食いながら、のんびり見ようか?」
「そーしよ!」
里真が頷いて、助手席へと乗り込む。
二人の車が出発するのを玄関から見送って、冴史がのんびりと塾ビルを出て行く。
「仲が、よろしーコトで」
呟いて、冴史もバッグの茶封筒を確認する。 原稿は上がっていた。
それでも、ギリギリまでは構成し直そうかと、考えてみた。 ……コッチは、来週でもイイか。 そう決める。 茶封筒を仕舞い直した。
早く下宿へ戻って、原稿用紙へ向おうと、足を速める。
同日、水曜。 アダムへ倉真が、いつも通り夕飯を食いに来た。 利知未が失敗した顔をする。
「今日、持って来ちまえば良かったな」
「何をっすか?」
「写真、出来たんだよ。 日曜に渡せばイイかと思ってた」
「それで、イイっスよ。 どーせ呑気に眺めている暇、ネーし」
二人の会話を隣で聞いて、マスターは微かに笑みを見せる。 自分が睨んだ通り、進んで行くのではないかと感じていた。
同じ週の土曜日、十八時に利知未がバイトを上がり、その三十分後。
秋絵が、写真の受け渡しの為、和泉をアダムで待つ。
夕食は、済ませてから出て来た。 デザートを頼む。 和泉の仕事の関係で、待ち合わせの時間が、この時間になった。
十九時近くなり、和泉が直接、仕事先から向かって来た。 少し遅れた事を詫び、帰りは車で送って行くと言ってくれた。
和泉は集合写真の顛末が気になっていた。 どんな風に撮れているのか?
見事に、決定的瞬間が写っていた三枚を眺めて、大笑いした。
「ジュン君がね、利知未を笑わそうって、写真撮る前に耳打ちしたの」
それで樹絵も調子に乗り、秋絵もつい一緒になってしまった。
「秋絵ちゃん達は、良く落ちなかったな」
「ねー! けど、わたしたちは、足元も見えてたから」
仕上って来た写真は、その時の皆の関係が良く解る、良い写真だった。
和泉が、秋絵と由香子の写真を指差した。 二人がお玉を掲げた、朝の写真だ。
「これ、よく撮れてるな。 俺にも一枚、焼き増しして貰ってくれるか?」
秋絵も由香子も、可愛い笑顔で写っていた。 里真が、太鼓判を押した通りの出来だ。
「OK。 里真に頼んでおくよ。 由香子、次は何時、来れるのかな……?」
和泉の気持ちを、思い遣る。
秋絵の言葉に、和泉は少し、寂しげな笑顔を見せた。
『何時まで、続くかは解らないけれど』 もし、続くのなら、ずっと続けたいと思う。
和泉の、一生かかってやりたいと思える仕事が、漸く少しずつ、見え始めていた。
『牛や豚を相手にするのも、楽しそうだ』 心の中で、呟いていた。
翌日の日曜・八月五日。
利知未と倉真は計画通りに、朝一のロードショーに間に合わせて、映画館前まで、それぞれのバイクを走らせた。
「これにするか」
「っスね」
映画は直ぐに決まる。 原始の地球が、ある公園内で復活してしまう。
考古学者の主人公達と、肉食恐竜との戦いが始まる。 ラスト、ヘリコプターがやって来て、助けられるまでの間。 かなりの迫力で展開されて行く……。
「うげ…」
途中で、利知未が小さくうめいた。 かなりリアルな、恐竜の食事シーンだ。
映画も気になるが、利知未の表情も気になる。 チラリと、横目を向ける。
『……これも、始めて見る顔だ』
スクリーンに映し出されている映像とは、不似合いな微かな笑いが、倉真の口元へ浮かんだ。
利知未がチラリと倉真を見る。
「……面白いか?」 小さな声で聞いた。
倉真は、自分の口元に浮かんでいる微かな笑いを手で隠して、気持ち悪そうな目をしてみた。
「ッテーか、スッゲー迫力」
「…だな」
二人で、スクリーンへ目を向け直した。 映画その物には、嵌まってしまった。
嵌まった証拠に終了後、隣のゲームセンターで、今、見てきたばかりの映画のゲームを見付けた二人は、千円分も注ぎ込んで遊んでしまった。
それから箱根へ向けて、バイクを交換して走らせた。
芦ノ湖近くの店へ入り、昼飯を取った。 写真は、その時に渡された。
今日の利知未は、ライダージャケットの下に、身体にピタリと来る素材のTシャツを着ていた。
お蔭で、利知未が周囲から性別の誤解を受ける事もなく、倉真は充分デート気分を味わえた。
性別の誤解さえなければ、利知未は綺麗な女性だ。 スタイルもイイ。
倉真は少し、鼻が高い様な気分にもなれた。
利知未は意識せずに、少しは態度が改まっていた。 大きく変わった感じではないが、何と無く行動が大人しい。
雰囲気が、克己と恋人の振りをしていた時に、ほんの少しだけ近い感じだった。
途中で自分の、少しの変化に気付く。
『なんだか、妙な感じだな。 ……今までと、少し違う感じだ』
倉真が、一人の男である事を、認め始めている。 くすぐったい、と、また思う。
花火を眺めていた時。 ベンチから立ち上がった時の、倉真の力強さを感じた瞬間と、気持ちが重なる。
『……らしくネーな。 ……けど』
嫌な感じは、しないと思った。 渡された写真を見ながら、楽しそうな倉真の表情を、タバコを吸いながら眺めていた。
まだやはり、危なっかしい倉真の印象の方が、利知未の心を占めている。
二人で酒を飲みに行った事も、何度もある。 アダムのカウンターで、二人で会話をして来た事も、沢山ある。
倉真が始めて二輪の免許を取った日は、利知未がタンデムシートへ倉真を乗せて、自宅近くまで送って行った。
ずっと、姉弟みたいな関係だった。 倉真は、仲間内でも特に危なっかしく感じる、困った弟みたいな物だ。
ギターを、二人でセッションした。 セガワではなく、利知未としての音で。 駅前の広場で、観客を沸かせた。
あの瞬間から、今までの事を、何故か思い出した。
「ドーか、したンスか?」
写真から目を上げた倉真が、ボーっとしていた利知未を見る。
倉真の声に反応した時、長くなったタバコの灰が、ポロリと落ちた。
「ヤバ。 写真、平気か?」
少し慌てる。 灰は、落ちたばかりはまだ熱い。
倉真は、また利知未の新しい表情を見た。
「平気っす。 それより、利知未さんの珈琲に、灰が落ちました」
「マジかよ?」
アーア、と言う、少し情け無さそうな顔も、殆ど始めてだ。
「もう一杯、頼みますか。 俺も、もう少し写真見てたいっすから」
倉真が優しげな笑顔で言った。 利知未からも、始めて位の倉真の表情だ。 何となく、照れ臭い気分になった。
……倉真の前でやってしまったヘマと、そのヘマを見て吹き出すのでもなく、優しげな表情を見せた倉真に。
「そーだな、頼むか」
利知未も微笑を返して頷いて、倉真が店員を呼んだ。
九日・木曜日。 明日は現在、美加が通っている城西中学の登校日だ。
その日の午後。 美加が、静岡特産の名産品を山程抱えて、帰って来た。
駅までは里沙が迎えに行った。 車の中で、自分の婚約と、下宿に朝美が来る事を、順々に話して聞かせて来た。
美加は、里沙の結婚の話しは喜んでくれた。 ただ、その先。 下宿の話しになると、少しだけ表情が曇る。
「じゃ、里沙ちゃん、居なくなっちゃうのね……」
「居なくは、なら無いのよ。 ただ、平日の昼間に居るだけになるから、学校の時期は、あまり会えなくなってしまうかもしれないの」
そう言われて、半分だけ気持ちを持ち直す。
「学校がお休みの日は、毎日会えるのね? じゃ、我慢できる。 ……その代わりね、里沙ちゃんの得意なケーキの作り方、色々、教えてくれる?」
「勿論、良いわよ。 じゃ、これからは美加が、私のケーキを皆に作ってくれるのね。 ありがとう」
里沙に礼を言われて、美加は少し照れた顔を見せた。
朝美の事については、利知未が折りを見て、段々と話して聞かせる。
玲子の事は、もう少し先になってから、話そうと思った。
美加が土産に持って来たのは、お茶とお菓子。 そして神奈川では滅多に見かけない、鰯ハンペンだった。 普通のハンペンと違って、色が黒く、蒲鉾形の薄い物だ。
里沙がその日の夕飯に、フライにして出してくれた。 そのハンペンを食べて見て、利知未は酒の肴に合いそうだと感じる。 日本酒か、焼酎がイイかも知れない。 食後、早速、上手い日本酒を仕入れて来た。
その夜、軽く網で炙ったハンペンを肴にして、里沙と酒を酌み交わす。
「イイな、これ。 その内、あいつ等にも食わせてやろう」
利知未の呟きに、里沙が言う。
「利知未の、飲み仲間達? …まぁ、イイけど。 一応、あの子達も未成年の筈よね」
「今更。 あいつ等は、高校通ってた頃からの飲み仲間だぜ?」
「呆れてしまうわね。 ……でも、イイ子達みたいじゃない?」
最近の里真の様子と、双子の様子を思い浮かべる。
「…当たり前だ。 あたしの、可愛い弟分達だからな」
そう言って、タバコの煙を薄く吐く。
少しは、お兄さんではなく、お姉さんらしい表情になって来ていた。
「朝美は何時、来るんだ?」
「九月の第二日曜日、と言う話しよ」
「九日か。 丁度、一ヶ月後だな。 新学期が始まる前の日だ」
「どんな感じに、なっているかしらね?」
「朝美の事だ。 対して、代わり映えしないんじゃネーか?」
「そうねぇ。 …電話の様子は、相変わらずだったわ」
朝美は昔、FOXのライブに、二回だけ来てくれた事もあった。 あの時、リーダーとイイ感じだった事を、何と無く思い出した。 リーダーは今年で二十六歳だ。 まだ結婚はしていない。 朝美は、二十四歳になる筈。
『もし、二人が再会したら、ナンとかなったりシテな』
あまり、有得なさそうな想像ではある。 けれど、少しニヤケてしまう。
「何か、面白い事でも思い出したの?」
「ン? 別に。 朝美が、どうなってるのか、楽しみだと思っただけだよ」
「対して代わり映えしないと、思ってるんじゃないの?」
「その可能性が、高そうだって事だろ? 楽しみなのは、変わらないよ」
それから暫く、朝美の事を話しながら飲んだ。
アダムの定休日以外は、倉真はすっかり夕飯常連だ。 この夏休み、その時間帯にバイトへ入ったり、入って無かったりと色々な利知未とは、大体、週二回くらいは顔を合わせた。
十二日の日曜日。 利知未は昼からバイトへ入った。
「来週。 渓流釣りの時に言ってた、海釣りへ行くって。 樹絵から伝言だ」
今日もディナーメニューを頬ぼる倉真に、利知未は店子達からの言伝をする。
「どうやって行くンスか?」
「和尚と宏治が車を出すって、言ってたな」
「そうすると、分乗して行くって事か。 …ッテも、釣りかぁ」
「お前、アンマリ好きじゃ、無さそうだったよな」
渓流釣りの時の光景を、思い出した。
「利知未さんは、行くンスか?」
「数には、入れられてるみたいだ」
利知未も行くなら、と、倉真は思う。 けれど、やはり釣りは余り好きではない。
それなら、ツーリングへ行くつもりで、付き合おうかと思う。
「付き合うとしても、バイク走らせて行きテーな」
「イインじゃないか?」
「車には、全部で八人は乗れる計算なんスよね?」
「そうだな。 二人共、軽自動車だ。 チョイ、狭そうだよな」
「っしょ? 利知未さんは、バイク使うつもりないんすか?」
「今の所はな。 またコース決めて、休憩場所を決めるのも面倒だし」
「…後ろ、乗ってきますか?」
少し考えてから、倉真が言った。 利知未は、あの夜のタンデムを思い出す。
倉真の運転は、安定していて安心感がある。 シートの乗り心地も悪くは無い。
けれど、樹絵達の手前、それは無理だろうと思う。
「タマには、イイとは思うけどな。 樹絵達にはタンデム禁止してる手前、あたしがやる訳にも、いかネーだろ?」
「それも、そーっスね」
「……けど、狭い車に乗り込むのもナンだな。 あたしもバイク、出すか」
二人で話して、バイクを出す事に決めた。
最終的には、双子と準一が和泉の車へ乗り込んだ。 里真と宏治は、二人切りでのドライブ気分だ。
そして、倉真と利知未も。 二人で、ツーリングへ出掛けている雰囲気になる。
二人は、途中でバイクを交換した。 利知未は箱根を走らせてから、倉真のバイクがすっかり気に入っていた。
その光景に、和泉や準一、秋絵も、何となく気付き始めた。 確信ではないので、単なる噂話だ。
樹絵は、何を言われても、黙っている事にした。 大体が、利知未本人が認める訳は無いとも思う。
目的地に着いて、倉真も一応は釣り糸を垂らして見た。 道具は宏治に借りた。 和泉と準一は、昔、使っていた釣り道具を、引っ張り出して来た。
「基本的には川釣り仕様だな。 防波堤の方でも、行ってみるか?」
二人の釣り道具を検分して、宏治がポイントを決める。 樹絵は夏のバイトで稼いだ残りで、自前の釣り道具を整えてしまった。
「また、無駄使いして! そんなの揃えたって、足が無いじゃない」
秋絵にシブイ顔をされたが、妹も意外とやる事は勿論、知っている。
「イイジャン? 秋絵にも、タマに貸してヤるよ!? 足ならココに居るし。」
利知未を振り向いて、ニヤリとした。
「お前の足になるために、またレンタカー借りるのか? 金の無駄だな」
「車なら、里沙の借りればイイジャン? あたしも、大学行ったら免許取りたいし」
「そっか! 今日も、借りてくれば良かったんだ! 何でバイクにしたのよ?」
秋絵に突っ込まれて、倉真とチラリと横目を合わせた。
「あ、なーンか、今の雰囲気、怪しい!」
里真が参加して、声を上げる。 利知未は、何でもない風に答えた。
「倉真のバイクが、気に入ったんだよ」
準一も乗ってきて、からかい始める。
「バイク? 倉真じゃないのか。 ツマンねー!」
樹絵がチラリと倉真を見た。 倉真は指を立てて、秘密の意志を伝える。 樹絵が解った顔をして、話しを反らした。
「グダグダしてないで、さっさと釣り、始めようぜ!?」
声を上げ、自前のセットを手にして歩き出した。
その日の秋絵の腕前に、仲間が全員目を丸くしていた。 もしかすると、樹絵よりも上手いかもしれなかった。
月末の二日間。 里真と冴史は、全国模試を受けて来た。
志望校合格率は、冴史が80%、里真が63%だった。
『原稿、書いていたから、こんなモンか』 と、冴史は納得顔だ。
里真は受験まで、また出来る限り、利知未の家庭教師を受ける事となる。
「シャーネーな。 次の模試までに、75%、目指すぞ?」 そう利知未に言われて、小さくなる。
「大体、お前は自分のレベル以上の場所、目指し過ぎだ」
呆れられたが、気にしない事にした。
高校受験だって頑張った。 大学だって、頑張ろうと思う。 ……心の支えには、宏治がいる。
冴史は夏休みが終わる頃、良い知らせを受け取った。
受験勉強を後回しにして書き上げた作品が、雑誌編集者の目に止まった。 入選は逃したが、夢に向っての希望が生まれた。
店子達にはまだ内緒にしている。 里沙にだけは報告をした。
利知未は、月末の日曜。 夜からのバイト前に倉真のバイクを借り、横浜の街を二人で流した。
店子達から、噂が流れ出す。
それでも利知未は、知らない振りを決め込んだ。
……まだ、想い人は別に居る。 けれどそれは、言えない事だ。
思い出深い夏は過ぎ、中学・高校生の、新学期が始まった。
大学編 第三章 了 (次回は12月28日 22時 更新予定です)
大学編の中でも一番長い3章に、最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
ここから、二人の関係が少しずつ変わって行きます。 変わらずお付き合い頂けましたら、幸いです。
次章、冬桜〈秋の花見〉からは、倉真の男としての成長が、殆ど裏テーマとなっていると、作者は思います。(--;)
利知未の心の決着も、もう少し持ち越します。また来週、宣言通りの時間に、皆様にお会いできますよう頑張りますので、よろしくお願いいたします。<(__)>