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三章  絆の始まり 前編

 利知未と倉真の結婚までの話し、大学編の三章です。 90年代中頃に差し掛かる時期が、時代背景となっております。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、関係ございません)この作品は、未成年のヤンチャ行動、飲酒運転などを推奨するものではありません。


 アダム・マスターへの愛情に気付いた利知未は、いけない事とは知りながら年末に二度目の関係を持って

しまった。 それでも、終わらせなければなら無い事と決心をつけ、自分の心と戦っている。

 倉真は、利知未のことが気になり始めた。 その結果、綾子とギクシャクし始め、初めての恋人との別れを経験する。 そして春。 利知未達の住む町へと、引っ越してくることになった。

   利知未と倉真の関係が、一歩進み始める切っ掛けの第三章を、お贈りいたします。

   三章  絆の始まり  前編 (1 〜 6)


           一


 倉真は、四月の二週目には、めぼしい物件を見つける事が出来た。

 宏治から話しを伝え聞いた宏一が、昔の友人が結婚する前まで暮らしていた、安いアパートを紹介してくれた。

「築は古いけどな、大家がイイらしいぜ? 年の行った老夫婦でよ。 年金貰いながら小遣い稼ぎと、ボケない為の仕事でやってる事だからな。 オレのダチもよ、血の気が多い元気者なら、返って用心棒になるって、二つ返事で貸して貰ってた部屋だ。 お前にゃ、ピッタリだろ?」

と言う話しだ。 倉真は、直ぐに契約へ向かった。 宏一の紹介だ。 保証人も、そのまま引き受けてくれた。


 大家夫婦は、初めて倉真を見た時、やはり目を丸くしていた。

「変わった頭した、兄ちゃんだな」

そう言って、不器用に頭を掻き掻き、挨拶を述べた倉真を見て、豪快に笑い出した。 挨拶が出来るのなら、信用出来ると言っていた。 大らかな物だ。


 ゴールデンウィーク一週間前には、引越しを終わらせた。 勿論、利知未達も手伝った。 荷物もそれ程、多くはなかったので、半日で片付いてしまった。

「これから宴会、出来る場所が増えた!」 と言って一番、喜んだのは準一だった。

言葉通り、引越しを終わらせたその日の内に、祝いだと言って宴会が始まってしまった。


 それが四月二十二日。 日曜日の事だった。


 それより一週間前の日曜。 契約が整って直ぐに、倉真は利知未がバイト中のアダムへ、報告をしに行っていた。 そこで、珍しく里真と顔を合わせた。


 倉真が店内へ入った時、里真は休憩中の利知未から、お小言を食らっている所だった。

「…ったく、お前は。 遠慮がなさ過ぎだ。 この前は、人の勉強の邪魔してたよな? 二人共イイ人達だったから良かったようなモノの……」

「ごめんなさい。 これからはしない様にします」

少し俯き、照れ臭い笑顔を見せて、舌を小さく出している。


 利知未は自分の休憩時間を使っての、説教だったらしい。 暫くしてカウンターへ戻った利知未に、倉真が聞いた。

「ドーかしたンすか?」

「ああ、いらっしゃいませ。 何時、来たンだ?」

「つい、さっきっす。 利知未さんが、あそこで…、」

今は大人しく、参考書を開き直している里真の席を、後ろ手で指して見せた。

「ああ、あん時か」

小さく、呆れた様な表情を見せて、利知未が言った。

「常連客の邪魔スッから、説教しといたんだ」

「説教、っすか」

自分も利知未から、色々な薫陶を受けてきた。 里真が何をやったのかは知らないが、下宿店子達の中でも、利知未の立場はあまり変わらないらしい。

 里真に会うのも久し振りだ。 少し、挨拶をしておこうと思った。 倉真は利知未に、新しい住所が決まった事を告げ、珈琲をそのままに席を立った。


「ヨ、何ヤらかしたんだ?」

声をかけられて、里真が顔を上げた。 久し振りに見た顔に、笑顔を見せる。

「倉真君じゃない! 何時、来てたの?」

「里真ちゃんが、利知未さんに説教されてた間だ」

「あはは、見られちゃってたンだ」

照れ臭い笑顔を見せる。 里真は、確か自分よりも一つ年下だった。 今年は、受験生の筈である。

「勉強の邪魔して悪かったな。 今度、近所へ引っ越してクっから、一応、挨拶しとくわ」

言われて、里真は参考書を閉じた。

「折角だから、コッチの席へ移動してきなよ? 私も、息抜きしたいから」

里真に誘われて少し考え、そうする事にした。

「ンじゃ、珈琲持ってくるか」

一端、カウンターへ引き返した。

 気付いて、顔を上げた利知未に断って、珈琲に手を伸ばしかける。

「イイぜ? 持ってかせるから。 タバコだけ持てよ」

利知未が格好イイ笑顔を見せて、新しいアルバイトを目で呼んだ。

 利知未の目配せに気付いて、近付いて来たバイトは、この春休みから働き始めた高校生だ。 別所(べっしょ) 基樹(もとき)と言う、東城高校の1年生だ。 無口で大人しいが、良く気がつく真面目な少年だった。 彼も、長いバイトとなる。

 マスターは彼を、ポスト・瀬尾として、これから鍛えようと考えている。 さしずめ皐月が、ポスト・利知未と言う所かも知れない。


 倉真がタバコを持って席を移動すると、別所が珈琲を運んで来た。 利知未に指示され、お絞りとお冷は、新しく用意してくれた。 テーブルの上に並べ置き、会釈をして定位置へと戻って行った。

「何処へ引っ越してくるの?」

席へ落ち着いた倉真へ、里真が聞いた。

「住所、一応メモるか?」

「そうだね。 そしたら、また今度、倉真君も一緒に遊びに行こうよ?」

「ソーだな。 宏治や準一ナンかとは、良く遊びに行ってたみてーだな」

倉真は言いながら、契約書の入った封筒の中から、そのまま突っ込んであったボールペンを取り出す。 テーブルに据えてあった紙ナプキンを一枚抜き取って、契約書から住所を書き写し始める。

「ワリー。 電話は決まってネーンだ。 構わないか?」

視線をチラリと上げて、倉真が言った。

「うん、イイよ。 決まったら、また教えてね。 ……駅の、コッチ側ね?」

倉真の手元を覗き込みながら、里真が呟いた。

「あ、どっかで見た住所だと思ったら!」

バッグをゴソゴソとして、A6サイズの可愛いダイアリー手帳を取り出し、住所欄を開いた。

「やっぱり! バッカスの裏手じゃない!」


 宏治のセカンド・アドレスは、バッカスの所在地と、電話番号を記入してあった。 仕事中の連絡先だ。 勿論、電話をかけた事は一度もない。


「ソーだな。 宏一さんの紹介ナンだよ」

 住所を書いた紙ナプキンを渡しながら、倉真が顔を上げた。 珈琲を一口飲み、タバコへ手を伸ばす。 火を着け、一吸いする間、里真は黙って考えていた。

「……ね、倉真君は、宏治君と良く遊びに行ったりするの?」

「ツーリングは、チョコチョコ行ってるな」

「最近は、宏治君に会った?」

「里真ちゃんの方が、近い分、良く会うんじゃネーのか?」

「そーでもないよ? だって、宏治君は仕事、夜だし。 私も今は勉強が忙しいモン。 ……今年は、受験生だしね」

少しだけ、残念そうな笑顔を見せる。 直ぐに表情を変え、質問を始める。

「ツーリングって、何処まで行くの?」

「色々だな。 箱根辺りも良く走るし、江ノ島方面や、その先も行くぜ? 宏治の住処がコッチだからな。 房総の方は、アンマ行かネーけど」

「一番最近は、宏治君とは何処まで行ったの?」

「最近か? 宏治と行ったのは、山中湖辺りだな」

「富士山の方まで行ったの?! 運転、疲れない?」

「途中で休憩も入れるしな。 コー見えても、俺もアイツも結構、体力あるんだぜ? アイツ、意外とガタイも悪くネーし。 …背は、低いけどな」

「小振りでも、筋肉が引き締まってるって、感じなの? じゃ、洋服のサイズとか、どれくらいなんだろ……?」

 宏治の事ばかり気にする里真に、倉真は何かを感じる。 思い付いて、からかって見た。

「宏治にナンか、プレゼントでもする気か? アイツの誕生日、十二月だろ。 俺、来週なんだけどな?」

「ソーなの? 宏治君の誕生日って、十二月何日?」

「…って、俺は無視かよ」

呆れた顔で言われ、里真の顔が赤くなった。

「……ま、イーケドな。 アイツが気になってンのか?」

益々、里真が赤くなる。 俯いて、モジモジし始めてしまった。 倉真は面白くなる。


 倉真が里真を、本格的にからかい始めた頃。

 呑気な店主が、今日も個人的な買い物を終えて、佳奈美を引き連れて戻って来た。

「いらっしゃいませ、…って、ナンだ。 マスターか」

「ナンだって、言い草があるか?」

「利知未、ただいま! あのね、お土産があるよ」

「お帰り、佳奈美。 何、買ってきたんだ?」

佳奈美はカウンター席、利知未の目の前に座る。 雑貨屋の小さな可愛い紙袋からハンカチを取り出して、利知未に渡した。

「エヘへ。 綺麗な色でしょ? 私のと、色違いのお揃い!」

「佳奈美は水玉が好きだな。 サンキュ、好きな色だよ」

デザインは利知未の好みとは違っていたが、可愛い妹分の気持ちを(おもんばか)って、利知未はニコリと笑顔を見せた。

 佳奈美も嬉しそうに、得意げな笑顔を見せている。 マスターは娘を、愛しげに見ている。 その眼差しが、利知未の眼の端にも、微かに映る。

 まだ少し、気持ちが疼くのを感じる。 ……まだまだ、時間が掛かりそうだ。

 先週、克己と行ったツーリングでの会話が、少しだけ利知未の頭を掠めた。


「変わった組み合わせの席だな」

 声を掛けられて振り向いた。 マスターは倉真と里真の席を、視線で指し示していた。

「そうですね。 今度、倉真がコッチに引っ越してくる事になったんです。 挨拶して来るって、言ってたな」

利知未の言葉を聞いて、マスターはニヤリとした。

『ついと、こっちまで追い掛けてきたか。 ……どうなって行くやら』 そう思っている。

楽しそうなニヤケ顔に、利知未が突っ込んだ。

「何、考えてるンですか?」

「常連が、また増えそうだ。 商売繁盛、結構な事だ」

知らない振りをして、仕事に戻りながらそう答えた。

 倉真と利知未がくっつくのなら、一番良さそうだと思っている。 マスターのカップル判定眼は、この二人はベストパートナーだと、判定していた。



 倉真に突っ込まれて、里真は赤くなりながら、観念して話し出した。

「……気に成ってるって言うか。 …あのネ、当分、内緒にしておいてくれる?」

上目使いに、チラリと倉真の顔色を伺った。 倉真はタバコを咥えたまま、腕組をしてニヤリと笑っている。

「内緒にしておけって言うなら、ソーするぜ。 で?」

再び視線を落として、里真が恥かしそうに喋り出した。

「……宏治君が気に成り始めたのは、去年の夏頃からなんだけど。 好きだなって、思うようになったのは、秋頃からかな……? 良くね、和尚やジュン君達と遊びに行っていたんだけど、皆で遊びに行くと、いっつも利知未の話しになって。 ……何と無く、焼き餅焼いちゃったの」

去年の秋頃から利知未に感じていた、張り合う様な気持ちは恐らく、その所為だろうと自分で思っている。


「アイツ等と遊びに行って、利知未さんの話しに成るのは、ショーがネーと思うケドな。 俺等の中心人物だ。 何ツーか……。 核、みたいなモンだ」

それぞれが全員、利知未には世話にも成っているし、恩も感じている。 今では、すっかり気の合う仲間だ。 利知未は、そのカリスマ的存在だろう。

「……そこのところが、良く理解出来てないのね。 だから、気に成っちゃう」

「つまり、ソー言う意味で、宏治も利知未さんを気にしている。 みたいに、感じるって事か?」

両眉を器用に、互い違いにズラしている。

 上がっている眉は、里真の言わんとする事を理解し、下がっている眉は、もしもそうなら…? と、少し宏治を疑う様な、妙な気持ちの現れだ。


 倉真の質問に、里真は小さく頷いて見せた。 それを見た倉真は、自分にとっても希望観測的な返事をした。

「そりゃ、ないと思うケドな……。 アイツは、利知未さんのこと、姉貴分として信頼してる、って感じだ」

「そーなのかな? そうだとしても、どうして利知未は皆に、何時も、あんなに気に掛けられてるの?」

里真の質問に、言葉を選んで答える。

「利知未さんが、面倒見が良いんだよ。 俺等、普通に考えたら、とんでもないヤツ等の集まりなんだぜ。 …あの人は損得抜きで、俺達の事を色んな事から…、救い出してくれたんだ。 …ンで、そのお蔭で俺達みたいなヤツが、何とか大事件も起こさずに、生きて来られた…って、感じだな」

 到底、敵わない相手だ。 負けず嫌いな倉真が唯一、素直に負けを認められる存在だ。

 ……ついでに、自分の気持ちも整理をして見た。


「良く判らないけど……。 もしそうなら、益々、利知未には敵わないよ」

 自分の心を、里真に代弁された気がした。 暫し考えて、倉真が言う。

「女の子としては、里真ちゃんの方が、高位置に着けてると思うケドな?」

「どの辺が? だって、利知未はちゃんとした格好したら、凄く綺麗になるんだよ? 頭だってイイし、意外と家庭的な特技だって、持ってるし」

「そーなのか? そりゃ、驚きだ。 家庭的な特技って?」

「…料理。 すっごく、上手よ?」

「ウッソだろ?! 全然、そう言う風には、見えネーぜ?」

倉真は本気で驚く。 チラリと、カウンターの利知未を振り返ってしまった。

「だから、やっぱり敵わないと思うんだ……。 私は、特技って言えるほどの事も無いし、頭も、そんなに良くはないし。 顔だって、利知未は綺麗で大人っぽいけど、私は、童顔で色気も何にもないし。 スタイルも……」

何時か風呂場で擦れ違った時に感じた、利知未のスタイルの良さを思い出し、去年の秋、綺麗な感じで出掛けて行った時の姿も思い出した。


「ンな、比べて見たって、ショーがネーだろ? 利知未さんは、利知未さんだし、里真ちゃんは里真ちゃんだ。 充分、可愛いと思うぜ?」

「でも、男の子の目から見て、利知未と私、どっちの方に眼が行くの?」

 言われて、改めて考えた。 けれど、比べ様がない。 素直にそう言った。

「全く違うタイプだろ。 比べ様がネーよ。 強いて言うなら、好みの問題じゃネーのか? 俺は、二人が並んでれば……。 多分、利知未さんを見ちまうな……?」

「やっぱり、そーなんだ。 綺麗だモンね、利知未。」

「ッテ、違う違う! 俺は、あの長身と、男か女か判らない外見で、つい観察しちまうだろうって、意味だ。 宏治は、里真ちゃんを見るんじゃネーか?」

慌てて適当な理由をつけた。 倉真の慌て様に、里真が小さく笑った。

「ありがと。 …倉真君も、結構、優しいんだ」

「……俺は、優しくなんかネーよ」

綾子から最後に言われた言葉を、思い出した。


 その言葉を聞いて、里真はいつかの利知未を思い出した。

「倉真君、利知未と同じ事言うのね」

倉真が目だけで、疑問の意志を表す。

「前、由香子ちゃんを空港まで送って行った時、同じ事、言われたの」

ニコリと笑っている。 倉真は、少し照れ臭い気分になった。

「利知未の方が、捻くれた言い方だったけど……」

思い出してクスリと笑い、冷め切ってしまった紅茶に口を付けた。

「兎に角、聞いて貰って少しは落ち着いた。 ありがと。 …でも、本人には、内緒にしておいてね?」

「さっさと言っちまえば、イインじゃネーのか?」

「だって私、今年は受験だから。 ……もしも、告白して上手く行ったら嬉しくて勉強が手に着かなく成っちゃうだろうし、もし駄目でも、やっぱり落ち込んじゃって駄目だと思うのよ。 私は、利知未や冴史みたいに頭良くないし。 ……だから、もう暫く内緒にしておいてね?」

 小さく小首を傾げる里真に、倉真は頷いて、約束した。


 引越しが終わって落ち着いたら、宏治と二人、ツーリングへ出掛けて見ようと思った。 少しくらい鎌を掛けて見るのは、構わないだろう。


 その日から一週間後。 倉真が、利知未たちの住む街へ、引っ越して来た。



「もーチョイ早けりゃ、全員揃って花見が出来たんだけどな」

引越し後の宴会で、酒を飲みながら利知未が言った。

「この辺、いい場所があるンすか?」

「河原沿いにも、桜並木があるしな。 一時間以内の距離に、公園もある」

宏治も参加する。 準一や和泉も、話しに加わった。

「来年は、全員で行けるんじゃないか?」

「面白そーだ。 したら、利知未さんトコの可愛いコ達、誘ってこうよ!?」

「そーだな。 来年なら、宏治たちも二十歳か?」

「誕生日前だけどね」

「お前は、それ以前の問題だろ?」

「ッテゆ―か、今更、そんなコト気にすんのもヘンじゃン?」

「…ま、そりゃ、そーだ」

軽く肩を竦める様にして、利知未が言った。 楽しい雰囲気の宴会だった。

「今年もゴールデンウィーク、どっか走りますか?」

宏治が、思い出して聞いた。 利知未が考え始める。

「そーだな。 今年は、何処まで行こうか?」

「チョイ、足伸ばしテーな……。 富士山掠めて、山梨、静岡辺りまで行くのも、オモシロそうだな」

「オレ、パス。 その辺り、別の約束あるんだ」

準一はこの連休、年上の彼女と旅行へ行く計画があった。

 記念すべく二桁数目の彼女だ。 その相手とは、比較的長く続いている。 そろそろ二ヶ月だ。


 大学二年生の彼女だ。 利知未と同い年である。 年下の準一の無邪気さを、可愛いと思ってくれているらしい。お蔭で、喧嘩も余りしないで来られた。

 最近、準一は、自分の彼女と同い年の利知未を、比較対照して見ている。

『……いつかの利知未さんの方が、色気は上だよな。 けど、優しさの種類が、全然違う感じだな』

今日も酒を飲みながら、そんな事を考えていた。

 いつかの利知未とは、去年の七月、克己と恋人同士の振りをしていた時の利知未だ。 色々と想像する内に、きっと利知未は、自分達の知らない所で男と付き合った事も、深い関係を持った事もあるンだろうな、と思っている。

 その点、一番 敏感なのは、準一かもしれない。


「ンじゃ、また克己にも声掛けるか」

「そンなら、俺が連絡しとくか」

ついでに綾子の様子も気になる所だった。 バイトの途中に、妹・一美が通う中学にも、顔を出したい。 新しい住所を、妹だけには連絡するつもりだ。

「まだ電話、ついて無いだろ?」

「バイトの途中、克己の定食屋へ行くつもりっすから」

「そーか。 ンじゃ、頼むか」


 シツコイとは思いながら、克己との関係も、もう一度確認して見たい気になる。 利知未は今、昔と変わらない様子で、普通に酒を飲んでいる。 ……けれど。

 利知未の、偶に見せる女らしい表情に、倉真は心の疼きを感じている。

『利知未さん、自分で克己と連絡を取りたいと思ってンのか……?』

何でもない一言にも、過剰に反応してしまう。


 宏治は、綾子と別れた後の倉真を、注意深く観察している。

『本人、マジ、判ってないのか……?』

そう思うと、倉真の鈍さ、捻くれた気持ちの流れを、苦笑する思いだ。


「そーいや。 由香子とは相変わらず、電話してるのか?」

 利知未に振られて、和泉が反応した。

「まぁ、タマに。 …夏に、コッチへ遊びに来るって言ってましたよ?」

「そーなんだ! じゃ、また皆で遊びに行きたいね」

準一が、乗り気な調子で弾んだ声を出す。


 和泉の気持ちは、準一には解っている。 どうやら、真澄と比べ見ている所が、ある気はする。

『そーだ! どっかで二人を盛り上げてやろう!』

軽い乗りで、思い付いてしまった。

 今度、彼女に会う時に、少し良さそうなプランを相談して見ようと思う。

 準一の彼女は、将来、旅行代理店で働きたいと思っており、旅行をするのも大好きだ。 今度の連休プランも、率先して立てて準一を誘った。

『オモシロくなりそーだ……!』

急にニヤニヤしながら酒を飲み始めた準一を、皆が不思議そうな顔をして眺めていた。




           二


 引越しを済ませた週の中頃。 倉真は宣言通り、克己の働く定食屋で昼飯を食った。 仕事中にグダグダ話している訳にもいかない。 ツーリングの予定だけを伝え、夜、克己と何時も話しをしている居酒屋で、会う約束をした。

 その時間までに仕事を済ませ、間には、一美の通う中学へ向かった。


 自分も昔、通っていた中学だ。 殆どサボってばかりで、マトモに出席していた記憶はあまり無い。 バイクを校門脇に止め、タバコに火を着けた。

「コラ! 中学の校内で、喫煙するヤツがあるか!!」

怒声が響き、元気な男性教師が、ツカツカと近寄って来た。

「ア、藤野!」

「なんだ? …お前、館川か?!」

「うっす、久し振りっす」

ニ、と笑って挨拶をする倉真を見て、かつての担任教師、藤野 徹が、目を丸くする。 散々、手を焼かされた生徒だ。 忘れられる顔ではない。

「お前も、挨拶くらいは出来るようになったか!?」

けれど嬉しそうに、倉真を見て笑顔を作る。 直ぐに渋い顔になり、倉真の口からタバコを奪い取って、足元で揉み消した。

「ッテ、もう卒業しちまったんだし、大目に見て下さいよ?」

「馬鹿野郎! 卒業したって未成年だ。 見過ごす訳にはいかないだろう。 ……しかし、言葉も少しは、マトモになったみたいだな。 頭は相変わらずだが」

呆れ返った顔で、倉真を眺める。

「コイツは、俺のポリシーっすから」

「何しに来たんだ? 家を飛び出したって話しは、聞いていたぞ?」

「ま、チョイ、色々あったんで。 …妹に用事があるンスよ」

「三組の館川一美だな。 あの子は、お前と違って真面目な生徒だ。 同じ親御さんに育てられて、どうしてこうも違うんだ? 妹は、バスケット部のキャプテンをしているぞ」

「久し振りに会って、説教食らう事に成るとは思わなかったぜ」

首を竦める倉真を見て、藤野は軽い笑みを見せる。

「バイク便の仕事をしてるのか。 真面目にやってるのか?」

倉真の営業用バイクを見て、話しを変えた。

「ったり前だ。 好きな仕事して金が稼げるなんて、イイ世の中だぜ」

昔通りの言葉に戻ってしまう。

 この元担任は、倉真の進学についても時間を割いて、良く面倒を見てくれていた教師だった。

「高校は、一年も通わなかったそうじゃないか? 俺の努力が水の泡だな」

「そいつについちゃ、悪かったよ。 けど、今は充実してンぜ?」

「お前が大人しく通うとは、思ってはいなかったがな。 まぁ、大きな問題も起こさずに、無事に生活しているようだ。 …安心はした」

 ココで話しを区切り、話題を戻した。

「妹は、まだ部活中だぞ?」

「何時頃まで、やってンすか?」

「六時には、終わる筈だが」

「そーか、ンじゃ、また後で来て見るか。 …邪魔しました!」

挨拶をしてバイクへ跨り、エンジンを掛けた。

「気を付けろよ。 …タマには、顔を出しに来い」

 なんだカンだ言っても、手を焼かされた分、愛情も強い。 かつての教え子、問題児・館川の成長を、少しは見る事ができ、喜ばしく感じていた。

 倉真は軽く手を上げ、挨拶をして正門を出て行った。



 残りの仕事を片付け、自分のバイクへ乗り換えて、倉真が再び母校を尋ねたのは、十八時過ぎだった。

 部活動を終えた生徒たちが、正門脇に止まっているバイクと、その持ち主を、興味深そうに眺めながら帰って行く。

 時計を見て、その内の一人を捕まえて、バスケット部の練習は終わったのか聞いて見た。 驚きながら礼儀正しく教えてくれたのは、同じ体育館で練習をしていた、女子バレー部の生徒だった。

 程なく、一美が友人と現れる。


「一美!」

 声を掛けられて、驚いて振り向いた妹は、益々びっくりした顔をする。

「お兄ちゃん!! どうしたの?! 元気でやってたの?!」

駆け寄ってくる妹を、友人が立ち止まり、同じく驚いた顔をして見ている。

「一美ちゃんの、お兄さん?」

「あ、ごめん、小百合! 先、帰ってて!」

「分かった。 気を付けてね?」

「小百合もね! バイバイ!」

 挨拶を交わし、倉真に会釈をして歩き出す。 偶に振り向きながら、角を曲がって行った。


「いきなり、どうしたの? 今、大森にいるんだよね?」

 始めの引越しの時、母が宏治の母親・美由紀に聞いていたのだろうと思う。 自分からは、伝えていなかった。

「引っ越した。 安くて、イイ物件が見つかったからな」

「今度は、何処なの?」

「横浜だ。 一応、お前にだけは教えとこうと思った。 ……お袋、元気にしてるか?」

「気になるんなら、帰って来ればイイじゃない」

「そー言う訳には、いかネーな。 …オヤジとは、上手くヤレねーからな」

 小さな溜息をついて、一美が言う。

「全くもう。 二人揃って意地っ張りなんだから…! 住所、教えてくれるんでしょ? 待ってて」

鞄の中から、ノートと筆箱を取り出して兄に渡す。

「当分は、言わないで置いてくれ」

新しい住所と決まったばかりの電話番号を書きながら、倉真が言う。

「…ま、イーけど。 でも、何かあったら、お母さんには教えちゃうからね?」

「ナンか、あったらな。 ……今まで通り、ほっておいてくれりゃイー」

ノートを受取り、鞄へ仕舞い直しながら、一美が言った。

「家に寄ってけとは言わないからさ、送ってってよ?」

「…シャーネーな」

自分のメットを一美に渡し、自分はノーヘルのまま、一美を自宅近くまで送って行った。

 それから改めて、克己と約束の居酒屋へ向かった。



 克己と会い、酒を飲みながら話しをした。 始めはツーリングの相談だ。 少々、長い距離を行く予定で、出発も早い。 克己は前日から、倉真の新居へ泊まり込む事にした。

 利知未の事は、その時に聞いて見ようと思った。


 今日は、綾子の様子を聞く事にした。 ツーリングの相談が一段落着いてから、倉真が切り出した。

「綾子と会う事、あるのか?」

「タマに、お前の事を聞きに来るぜ?」

「そーなのか? …元気なら、イーケドな」

 綾子は元気を取り戻した感じだ。

 克己は、以前と雰囲気が変わってきたその様子を、倉真にも伝えた。

「……お前、もう綾子の事は、好きになれないか?」

「って言われてもな…。 嫌いになった訳じゃ、ネーンだけどな」

「それよりも、気に成る女ができちまったンじゃ、仕方ネーか」

克己は綾子の一途さに、気の毒な印象も持っている。 彼女に、早くマトモな恋人でも出来れば良いと、近頃、良く思っている。

「……アイツには、感謝してるぜ? …なんツーか、大事な事は、教えて貰ったような気がする」

以前の自分は、他人の事を思い遣る気持ちに欠けていたと、つくづく思う。

「身に成る恋愛ってのは、する方がいいンだろーな」

「克己は、なんもネーのかよ?」

「どーだかなぁ。 アンマ、そー言う気分には、ならないミテーだな」

今の所、なにも感じてはいない。

 惹き付けられる女が、身近に居ないと自分で思う。 ……ツマンねー人生送ってるって、事にナンのか? とは偶に思うが、恋愛なんて、焦ってする物でもないと感じている。

「ま、その内、そー言う気分になる事も、あんじゃネーのか?」

呑気に言って、酒を飲んだ。 倉真はチラリと、克己の表情を伺った。



 二十六日・木曜日。 利知未は講義の後、久世家へ回って行った。 佳奈美の家庭教師だ。

 智子は遠慮をする利知未に、毎回ホンの気持ちだと言って、三千円を包んで寄越す。 アルバイトみたいな物だった。

 同時に、その日は、マスター一家との、夕食タイムも待っている。

 利知未にとっては、試練と言ってもいいだろう。 未だにマスターへの想いは、消えてはいない。


 仲の良い家族と食事を共にするのは、自分の想いを再確認させられてしまう、嫌な儀式みたいだ。 それでも、この家族との関係は、今の所スムーズだった。

 佳奈美は、すっかり懐いている。 渉もしっかり懐いてしまった。 そして智子には、裏計画があった。


 利知未が、その相手だと疑っている訳ではないが、夫が偶にどうかすると、別の女に手を出しているらしい事は、見当が付いている。

 利知未は、自分の夫に世話になって来たと言って、感謝をしてくれている。 恩を感じている、と本人から聞いていた。 そこで、頭の中の計算機が、カタカタと音を立てている。

 利知未が、夫の浮気の出汁にされているのではないか? と言う計算だ。


 利知未と朝まで飲んでいたと言う日、実は、別の女の所へ行っていたのではないか……? 利知未は恩人に協力を頼まれ、口裏を合わせているかもしれない。 ……そんな疑惑がある。

 こうして家族ぐるみで仲良くしていれば、その内、利知未が真実をポロリと零してくれる事も、あるのではないか……?

 智子自身、利知未の事は気に入っている。 懐柔作戦に出ようと、試みている。


 そんな事もあり、利知未とこの一家は、表面的に見る限りは良い付き合いをしている様に見える。 利知未本人も、智子からの疑われ方が違う。 特に、肩身が狭い思いをする事はない。

 ただ、心の問題とは、今も一人で戦っている。

 それでも逃げ出さないのは、元々は負けず嫌いな利知未の、ポリシーと言えるかもしれない。



 里沙はゴールデンウィークの始め、駅南商店街のやや外れに出来た、『手作りケーキとハーブティーの店・りーふ』の、開店記念パーティーへ出席した。

 去年から、里沙がデザインを手がけていた、葉山修二の兄、修一の店だ。


 彼は脱サラし、以前から趣味でやっていた、ハーブ栽培を上手く利用した仕事をしたいと思っていた。 年は、三十六歳。 今年で三十七歳になる。

 落ち着いた物腰と、低い、痺れる様な良い声の持ち主だった。

 奥さんが、やはり好きでやっていたケーキ作りも活かせる仕事だ。 夫婦仲良く、経営へと乗り出した。

「私達には、子供がいません。 この店を子供と思って、大切に育てて行きたいと、思っております」

と、開店記念パーティーで挨拶をしていた。


 奥さんは数年前、病気で子宮を失ってしまった。 どんなに求めても、子供を授かる事は出来ない夫婦だった。 夫は、病を抜けてから沈みがちだった妻を元気付ける為に、この店を始めようと決心した。 そして、脱サラだ。

 店の名前は、扱う物と妻の名前・葉子を文字って決めた。 子供を作る事は出来なくなってしまっても、彼の妻を思う気持ちは変わらない。


 里沙は、この夫婦が好きだった。 とても仲の良いイイ夫婦だ。 将来、義兄夫婦となる気配が、現在は濃厚だ。 今日のパーティーにも、修二と仲良く揃って出席していた。


 修二は、真剣に考えていた。 里沙にプロポーズをする、タイミングを。

 現在、彼女が置かれている状況は、良く解っている。

 二十代の始めから、自分も関わった一人の女子生徒の為と、恐らく里沙本人の為に始めた下宿には、現在、七人の店子達が暮らしている。

 住み込み大家が居るからこそ、やっていける下宿なのは確かだった。 現在の店子中、二人を除いて全員が、中学・高校へ通う未成年・女子である。

 里沙には、彼女達が巣立つまで、確りと見詰め、見守る義務がある。

 だから、タイミングを計っているのだ。


 けれど、彼女は来年の二月で三十歳になる。 自分より一つ年上だ。 これから先の事を考えても、そろそろ確りと、将来の事を相談する必要のある歳だ。

 ……兄夫婦の為にも、子供が欲しいと思っていた。 里沙以外に、結婚をしたいと思える相手も居ない。


 里沙は去年の秋、利知未に軽く突っ込まれた事を切掛けに、少しずつ、これから先の下宿の在り方と、自分の在り方を考え始めていた。

 もしも、今の彼と結婚の話しが出るなら、その先の下宿をどうするのかが、一番の問題だ。

 せめて今、店子の中で一番歳下の美加が巣立つまでは、あの下宿を続けて行きたいと思っている。 ……可能ならば、その先も。

 仕事は、在宅の仕事だ。 続けようと思えば、何時までも続ける事は可能だ。 事務所をそのまま、あの場所へ残しておけば、平日の昼間は大家としての管理も続ける事は可能だが……。

 問題は平日夜と、日曜の事だ。 素直に大家業から身を引くのが、一番なのは確かだろう。

 ……けれど。

 それは、やはりしたくない事だ。 どうしても。 せめて、美加が巣立つ迄は。

 あの子達を見守り続けて行きたいと、切に願っている。


 今までは、プロポーズをされては来なかったが、気配は薄々、感じている。

 このパーティーでも、兄夫婦から遠回しに言われていた。 修二は特に否定もせず、今、良く考えている所だと答えていた。

 彼の気持ちは嬉しいと思う。 けれど、自分の事情を彼に押し付けるのは、いけない事ではないかとも、勿論、思っている。

 彼の事を、何処まで信じて相談するか? それとも、別れてしまった方が、彼の為になるのか……? 真剣に、悩み始めている所だった。



 利知未達は、五月三日の祝日。 ゴールデンウィークのほぼ真ん中に、何時もの集合場所へと集まった。 今日は少し遠くまで行こうと思っている。 普段のツーリングよりも、二時間ほど早い、朝・八時の集合だ。

 倉真は、克己と連れ立ってやって来た。


 昨夜は酒を飲みながら、勢いに任せて聞いて見た。

「克己は、本当に何でもネーンだよな……?」

「何がだ?」

「……利知未さんのことだ。 …なんでか、気になっちまう」

「お前な、マジに、解ってネーのか?」

「何がだよ?」

「…ッタク。 何度目だ? その質問。 ンなに気になるんならな…、…ヤメタ。 馬鹿馬鹿シー……。 勝手に想像してろ」

 本気でコイツは自分の気持ちに、何て鈍感なヤツだろう? そう思い、呆れ返った。 ついでに苦笑してしまう。

 それなら、どうせ綾子にも騙した儘の事だ。 コイツにも、もう暫く知らない振りを決め込んで見ようと思った。 その内、自分の気持ちに気付く時も来るだろう。

 それまでに、利知未に別の男が出きなけりゃイーが、と、兄貴心で、少しは心配もして見た。


 利知未はあれで中々、恋多き女のタイプらしい。 倉真もこの外見で、意外と初心な心の持ち主だ。

 その利知未の、普段の雰囲気とは大きくギャップのある性質も、中々、興味深い所だ。

 この二人がこれから、どうなって行くのかは解らないが、どちらも可愛い弟分と妹分だ。 暫くは、黙って観察させてもらおう。

 そう考え、倉真の質問には答えずに、無視をして酒を飲み始めた。

 ニヤケている克己の表情を、倉真は、面白くない気分で眺めていた。



 今日は気分を変えて、宏治に里真の事で、少し鎌を掛けようと思っている。 克己には、どうやら面白がられているらしい。 倉真は、それが面白くない。

 憂さ晴らしの気晴らしだ。 休憩場所でバイクを止め、自然に話し出す克己と利知未の、仲の良い様子をチラリと横目で見て、面白くない気分に拍車が掛かる。

 その気持ちを無視して、宏治に話しを振った。

「お前、利知未さんの下宿のコ達と、良く遊びに行ってるんだよな?」

「そうだな。チョクチョク、行ってる」

「何処行くんだ?」

「樹絵ちゃんの希望でテーマパークとか、スポーツ系が多いな。 ボーリングとか、スケートも行った」

「金、払ってやンのか?」

「昼飯くらいは、出してやる事が多い」

宏治はタバコを咥えて、倉真の質問に聞かれるまま、答えている。

「ボーリング、ね」

 倉真は呟いて、由香子も一緒に行った、いつかのボーリングを思い出す。


「里真ちゃん、相変わらずなのか?」

「スコアの事か? そーだな、相変わらずメチャクチャな投げ方のワリに、ラッキーな点のとり方してンな。 樹絵ちゃんは、運動神経がイイみたいだ。 今じゃ、一番上手いぜ。 今度また、行くか?」

小さく笑いながら、そう言った。 言葉の端を聞いて、利知未と克己が話しに加わった。

「樹絵、そんなに上手くなったのか?」

「結構、やりますよ。 今なら、倉真とも張るかもしれないな?」

負けず嫌いな倉真の性格は、解っている。 面白そうに倉真へ振る。

「ソイツはスゲーな。 昔、一度だけ行った事があったな?」

克己が倉真に言う。 樹絵の事は知らないが、倉真と張るなら相当だ。


 克己は普段、倉真とは飲みに行くか、バイクを走らせる事の方が多いが、以前、一度だけボーリングにも付き合った事があった。 克己は殆どやった事がなくて、ストライクをガンガン出す倉真に、教わった覚えがある。


「克己は、才能なかったよな?」

ニヤリと倉真が笑う。 ……心の奥の方で、利知未の前で、克己よりも自分の方が優れているモノがある事を、保持したい気分が芽生えている。

「バッティングセンターなら、今でもお前より上手いと思うぜ?」

 克己は小学生の頃、少しだけ少年野球の球団にいた事がある。 どちらかと言うと、倉真の方が運動神経は良いが、幼い頃にヤっていた事なら、まだ勝てる。


「そーなのか? あたしは行った事、無いな。 今度、行って見るか?」

利知未が、克己の言葉に乗った。 倉真は、また面白くない気分になる。

 その表情を、宏治も克己も見逃さない。 眉をやや上げた二人の目が合った。 つい、お互いの気付いた事に対して、小さな笑いが浮かんでくる。

「……ドーかしたか?」

二人の微笑に気付いて、利知未が小さく首を傾げた。

「いや、ナンでもネーよ」

克己が、知らない振りを決め込んで答えた。 宏治も頷いた。

「何でも、アリマセンよ」

そして二人は、再び小さく笑った。


 暫くの休憩後、山中湖を目指して走り出した。 再び休憩と昼食を取って、静岡側へ向かって、富士山を半周する様に山道を行く。

 雄大な富士を眺めながら走らせ、その姿に見送られ、五時前には走り慣れた箱根の山道へ指しかかった。


 二度目の休憩も、倉真が宏治に、里真について鎌を掛けて見る隙はなかった。

 克己と宏治は面白がり、次の休憩所では利知未と倉真を二人きりにして見たが、どうなる物でもない。

 まだ倉真は、自分の心を理解する事も、素直に、その気持ちに従う事も出来ないままだ。


 利知未が、自分にとって特別な相手らしい事だけは、何と無く理解し直した。

 ……後は、その思いを整理して、自分自身で受け入れる事が出来れば。

 恐らく倉真の悩みも、一つは解消出来るのかもしれない。



 帰り際に倉真は、一言だけ宏治へ問い掛けた。 一言、里真を、どう思っているのか?

 宏治は、少し躊躇ってから、短く答えを返した。

「気に成ってるのは、確かだ」

そう言って、フイと視線を反らした。 倉真は、それだけで充分だと感じた。




           三


 五月中頃。 倉真は同じバイク便の、横浜支店へ移動した。 こちらの支店は新しく、人手が足りないと言う事だ。


 倉真がバイトを始めてから、そろそろ二年半を数える。 その外見とは違い、意外と真面目な働き振りを買われ、ライダーバイトの責任者クラスに引き上げられていた。 時給も、手当てがついて上がっている。 社員登用の誘いもあった。

 だが、この会社の社員と言えば、事務所で指示を飛ばしたり、荷物の管理をしたり、バイトのシフト管理をしたり、営業車の車検・事故処理をしたりの、何でもありの雑務帝王チックな役割だ。

 バイク好きでやっている倉真としては、御免被る、と言う所だ。


 今もライダーバイトを続けている。 ただし、人手が足りない支店への移動と、変わらない立場で、どうしても仕事が終わるのが遅くなってしまう。

 金は稼げるが、息抜きをする時間がとことん減っていた。

 金はある訳だから、外食も増える。 最近はバッカスではなく、夜、利知未がバイト中のアダムへ行く事が、益々、増え始めた。

 飯なら、バッカスよりもアダムがお薦めなのは、言うまでもない。


 マスターは自分が睨んだ通り、増えた常連が顔を出す度、少し嬉しそうな顔をする。 嬉しそう、と言うよりは、ニヤケ顔かもしれない。

 その度に、利知未から突っ込まれている。 六月に入る頃には、古株バイト連中全員から、突っ込まれる様になった。

「マスターのお気に入りが、来ましたよ」 そう言われて、面白そうな顔をする。

「俺のお気に入り、って訳でも、無いんだがな」

利知未がいれば、利知未をチラリと見る。 いなければ意味ありげな視線を、チラリと倉真に向ける。 そうされる度、倉真は何と無く、見透かされている様な気分を味わう。

 利知未は何故だか、ホンの少し剥れる。 自分では、剥れているつもりは全くない。 笑顔を見せるようにしている。

 それでも、その度に感じるチクチク感は、誤魔化し切れていないらしい。


 利知未は今。 まだマスターへの想いを、捨てきれない自分を感じている。

 ……何とかしなければならない。 その思いに一生懸命で、自分に対する倉真の目が変わり始めている事に、気付く余裕はなかった。


『……多分、敬太の後で、始めて本気で愛したヒトだから。 そんなに直ぐに、浄化する事はないのかもしれない』

 敬太との別れから、完全に想いが途切れるまで、二年近くの月日が掛かっていた。

『だから、もう少し頑張らないと……』

自分に対して、叱咤激励している気分だ。


 想いに捕われる度、軽く目を瞑り、首を小さく振って気を張り直している。



 この五月、由香子から里真達に宛てて、一通の手紙が届いていた。 内容は和泉が、倉真の引越し祝い宴会の席で、漏らしていた事と同じだ。

 逸早く情報を掴んでいた準一は、既にゴールデンウィークの旅行で、彼女にプランの相談をしていた。 その準一の提案で、ドライブ旅行の話しが、この時期には出ていた。

 あくまで密やかに、利知未の知らない所で、夏の計画は進んでいた。



 五月中に双子は、バイトを決めた。

『愛犬の散歩、日曜・祝日の朝七時〜二時間で引き受けます』

 そう言う振れ込みで、五月の中頃からせっせと、ご近所愛犬家のお宅を営業して歩いていた。 期間は、夏休み一杯までだ。

 社会勉強の為に、働いてお金を稼ぎたいと、真面目な瞳でお願いをして見た。


 里沙の下宿は、町内・学区内では有名だ。 店子達の事は、家族と共に暮らす事が出来ない、気の毒な境遇の少女達だと思ってくれている。

 事実だが、実情は少しだけ違う事も、確かではある。


 里真はその例外の最たる物だし、自分の事を、気の毒な境遇なんて考えている子は、現在は一人も居ないと言っても、過言ではない。

 それは(ひとえ)に、大家である里沙の、努力と愛情の賜物でもある。 全員が、愛情に飢えている、等と感じる事なく、里沙の優しさに包まれて生活している。 店子同士も、姉妹の様なものだ。


 それでも、町内の皆様の温かい瞳は、双子に『なんちゃってアルバイト』の、チャンスをくれた。 双子はこれで稼いだ金を、夏の計画資金に充てる予定だ。

 里真も今まで、お小遣いを溜めたり、お年玉の残りを溜めたり工夫して、それなりの貯金を持っていた。

 まだ、利知未には内緒にしている。 恐らく反対されるのではないかと、予想している。

 現在の夏計画は、『未成年・男女混合・一泊キャンプ』と、反対要素の目白押し企画だ。 お膳立てを完璧に済ませ、反対する隙を与えずに旅行へ雪崩込む、と言う企てだ。

 計画へ荷担しているのは里真と双子、準一の四人だ。 和泉と宏治には、夏休みの予定を立てている事のみ、報告してある。 二人には、仕事を休んで貰う必要がある。 早めに言って置かないと、参加不可能になってしまう。

 倉真と会う機会は、最近は、宏治でさえ中々なかった。


 日程はまだ、決定していない。 由香子が、何日からこちらへ来られるのか? 返事待ちの状態だ。 倉真には日程が決まった所で、当日を空けて貰う様にお願いするつもりだった。



 六月1週目の日曜から、双子のアルバイトが始まった。

 朝早くに起き出して、勝手に軽く朝食を取り、六時四十分頃、下宿を出て行った。 日曜だ。 まだ下宿の他メンバーは、目を覚ましてもいない。


 普通に歩いて十五分くらいの距離にある、ご近所愛犬家宅を回りながら、二人は犬達を掻き集めて行く。

 ご近所の愛犬事情は、小型犬が大半を締め、中型犬は全・六軒中、二頭だけだった。 大型犬は無理があると思い、始めから営業へ回ってはいなかった。


 中型犬担当の樹絵と、小型犬担当の秋絵が、反対周りに町内を一周して行く。 コースのほぼ中央にある公園で、時間を決めて落ち合い、犬達に水など飲ませながら、自分達も軽く休憩を取る予定だ。


 運動量の関係で、樹絵は行程のほぼ全てを、軽い駆け足で進めて行く。

 少し大回りのコースを取っていた。 自分の運動不足の解消も兼ねている。


 秋絵は、駆け足をする必要がない代わり、好き勝手にワチャワチャと動き回るチビどもを、何とかリードを絡ませ無い様、工夫しながら進めて行く。

 中間地点に到着する時間は、ほぼ同時刻となる。


 梅雨時期だ。 飼い主も、小雨がぱらつく中を散歩させるのは大変な事だ。 そう言う意味でも、この二人のバイトは有り難い事ではある。


 樹絵は雨合羽着用で、ジョギングをしている様な感じになる。 秋絵は傘を差しながらのリード捌きに、四苦八苦してしまった。

 中間地点の公園内に在る、東屋の屋根の下で二人が落ち合ったのは、八時を回ってしまった。

「うわ、予定時間オーバーしてる!」

秋絵が、腕時計を見て小さく叫ぶ。 樹絵は犬達と共に、公園の水飲み場で、小雨に濡れながら水分補給中だ。

「サウナスーツ着て、走ってるみたいだ」

水分補給を済ませて、犬達のリードを引っ張りながら、樹絵が東屋の屋根の下へ、呟きながら向かって来る。 額には汗をかいている。

「樹絵! 後半、急がないと」

「え? ナンで?」

公園の時計を振り向き見上げ、驚いた顔になる。

「八時半になるジャン! …ま、イイか」

「何がイイのよ? 残業手当もない、なんちゃってバイトなんだから。 自分達で行動時間セーブしないと、大損だよ?」

「九時までに帰ればイイだけジャン? ワンコロ達だって、コンだけ運動させたら大丈夫だろ。 そのまま送ってこーよ」

樹絵に言われて、そう考えればその通りだと、秋絵も思い直した。

「…じゃ、もう少しココで、休憩してこうか?」

「イインじゃン?」

リードをベンチの背凭れに括り付けて、樹絵は落ち着いてしまった。


 秋絵も、落ち着き直して、お喋りを始めた。

「利知未には、バイトを始めた事も、もう暫く内緒にして置かないとね」

「そーだよな。 あたし、利知未に突っ込まれたら、絶対、漏らしちゃいそーだモンな」

「ジュン君と樹絵が、一番怪しいよね。 口、軽いんだもん」

「なんだよ? それ! 里真だって、タマに大ボケかますジャン?!」

「里真は、絶対平気」

「ドーして?」

「里真も、宏治君と二人きりになれるチャンスが、欲しい筈だから」

「…やっぱ、そーだよな」

 樹絵の頭に、何故か準一の事が掠める。 『アレ? 何でだろう?』そう感じるが、サラリと流してしまう。 気の所為だと思った。

「って言うか、樹絵。 ナンか、ジュン君に似てきたよね」

「えー!? ドッコがぁ?! あたしは、アイツみたいにイー加減じゃないよ!」

「なに、ムキになってんのよ? さっきの態度は、ジュン君の影響だと思うんだけど」

時間の事を気にしないで、呑気な事を言ってのけた樹絵が、今までの樹絵とは違う感じだ。


 今までなら、それなら予定時間中に全行程をやり抜く! と言って、疲れた犬達を引っ張ってでも、直ぐに走り出したのではないか? と思う。

 勉強は嫌いで得意では無いけれど、こと身体を動かす事となると、樹絵の負けず嫌いに拍車が掛かって、直ぐにムキになってしまうのが性格だ。


「だって、結構 走ったし。 見ろよ? 汗、出てるんだぞ?」

樹絵は頭のフードをずらして、額を指し示した。

「雨かと思った」

「雨合羽着て走ると、スッゲー熱いんだよ。 今まで知らなかった」

ベンチの背凭れへ思いきり背中を預け、失敗した顔をして慌てて背中を離す。

「うわ、シャツの中まで、グシャグシャだ!」

その言葉を聞いて、秋絵は立ち上がる。

「じゃ、そろそろ帰ろうよ。 帰ってお風呂入った方が、良さそう」

「…みたいだ」

二人はリードを持ち直し、公園を後にした。



 帰宅し、風呂の準備をしに行った樹絵は、有得ない光景を目撃した。

「どうしたの? 樹絵。 ずぶ濡れで」

脱衣所で、風呂上がりの様子で出迎えたのは、玲子だった。

「ジョギングして来た。 …ってゆーか、玲子、何でコンな時間に風呂!?」

「私も、一時間くらい前に帰って来たトコだったのよ」

「玲子が朝帰り!?」

「なによ? ホワイトボードには、書いておいたわよ?」

何と無く、照れ臭そうな軽い脹れ面になった。 それさえも珍しい。

「…だから、雨だったりして」

「悪かったわね。 もう二十歳なんだから、大人の付き合いって言うモノが、あるのよ」

玲子の誕生日は、五月の始めだ。 利知未よりも一足早く、大人の仲間入りを果したばかりだった。 何と無く、樹絵の方が赤くなってしまう。

「風呂、入ってる?」

「これから栓を抜いて、洗うつもりだったから」

「そっか。 じゃ、あたしがやっとく」

「そう。 じゃ、頼んだわ」

そう言って玲子は、脱衣所を出て行った。

 樹絵は、脱衣籠の中をチラリと見てしまった。

『玲子、下着の趣味、変わったみたいだ……』 そう感じて益々、樹絵は赤くなった。

 知識は勿論、有る。 経験は勿論、無い。 けれど、そう言う相手が玲子にいた事実を、再確認してしまった樹絵だった。



 利知未は日曜の朝、予定よりも余程早い時間に、里真に起こされてしまった。

 里真が、ノートを持って利知未の部屋をノックしたのは、八時前だ。


 昨夜は、軽く飲み過ぎてしまった。 利知未は服を着替えるのも面倒になり、下着一枚でそのままベッドへ潜り込んでいた。 偶にある事だ。

 昨夜の深酒は、バッカスでホステス達とかち合ったのが原因だ。 時々、奢って貰い、大酒を飲んでしまう事がある。


 上半身裸で起き上がった利知未を見て、里真は何故か赤くなる。 利知未は構わず、両手を上げて大欠伸だ。

「ンだよ……? 日曜の朝っぱらから」

ぼやきながら、全く気にせずにクローゼットへ向かって行く。 中から部屋着のTシャツを出して、モゾモゾと被った。 ショートパンツも出して、取り敢えずの着替えを済ませてから、里真へ向き直った。 ……再び、大欠伸だ。


 里真は、ココへ来た理由も忘れて、利知未に軽い、ジェラシーを覚える。

『やっぱり、利知未はスタイル、イイな…。 足も綺麗だし』

 四月にアダムで、倉真と話した事を思い出してしまう。

『並んでたら絶対、宏治君だって利知未を見るよ……』


「で? 何何だよ」

 寝起きの機嫌悪そうな声で、里真は我に返る。

「もう! 利知未ったら。 いくらココには男の子がいないからって、恥かしくないの?」

つい、言ってしまった。

「玲子みたいな事、言うなよ。 で? ノート持って、どーしたンだ?」

利知未は、ベッド脇に脱ぎ捨ててあった上着から、タバコを探り出し、火を着ける。

「…昨夜、遅かったから、聞けなかったの」

「また、机で眠っちまったんだろ?」

「だって、利知未が帰って来たら、教えてもらおうと思ってたンだもの」

「そりゃ、悪かったな。 玲子も昨夜は、いなかったらしいからな」

玲子の事を考えて、一瞬ニヤリと笑ってしまった。


 利知未は玲子の変化も、恐らく店子達の中で始めに気付いた。

『アイツ、今年の誕生日辺り、怪しかったよな……』 その辺りのデートで、本当の意味で覚えてしまったのではないか? と、踏んでいた。 利知未のニヤケ顔が大きくなってしまう。


里真は、唇を少し尖らせる様な表情をしている。

「……シャーネーな、貸して見ろ」

ニヤケ顔を収めてノートを受取り、まだ剥れた様な顔をしている里真に、勉強を教えた。

 一時間半ほど見てやってから、漸く朝食を取りに、階下へと降りて行った。



 利知未が朝食を取っている間に、樹絵が脱衣所から出て来た。

「今頃、風呂かよ?」

樹絵は、利知未の姿を見て焦る。 バイトを始めた事は、まだ内緒だ。 視線を反らせて答えた。

「ジョギングして来たから」

「雨が降ってンのにか?」

「だからだよ。 最近、運動不足だからね。 風呂は洗っちゃったよ?」

「イイ。 シャワーだけ浴びてく」

「利知未は、今日もバイトか。 ……な、ジュンとか、タマには行くのか?」

「店にか? 最近は、減ったな。 特に準一はな。 どうやら、今の相手とウマが合うみたいだ。 今までで一番、長いんじゃネーか? ソッチに忙しそうだ」

何気なく言った言葉に、樹絵の肩がピクリと反応した。 利知未は、その反応に気付いた。

『……成る程な』  女の勘が働いた。

そう言えば双子と里真は、宏治、準一、和泉と良く遊びに行っている。 里真だけでは、無かったらしいと思う。


「けど、アイツ、飽きっぽいから」

無理矢理、笑顔を作って樹絵が言う。 何と無く、目が熱くなった気がした。

「そーだな。 ……3の倍数って、知ってるか?」

「算数?」

「みたいなもん。 3時間・3日・3週間・三ヵ月・三年を指すから、チョイ違うか…?」

「それが、ナンなんだよ?」

「仕事でも対人関係でも、壁にぶち当たったり、飽きたりするタイミングだ。 …そろそろ三ヵ月なんだよな。 ……賭けるか?」

「何を?」

「あいつ等、今月中に上手く行かなくなったりしてな」

「…そーかな? 意外と、長持ちしてるんだろ。 今回は」

「意外と、な。 ンじゃ、樹絵は持ち応える方に、賭けンだな?」

「……バカバカしい。 大体、賭ける物なんか、ナンにも無いよ」

「労働を賭けろよ? あたしは、そーだな……。 アダムのチョコレートパフェ、奢ってヤるよ。 あいつ等が今月中、持ち応えたら」

「じゃ、利知未はダメな方に、賭けるんだな?」

「あたしが勝ったら、日曜の当番、何時でもいいから一日替われ」

「賭ける物に、差が有り過ぎジャン?」

「ンじゃ、ケーキもつけるよ。 ドーだ?」

「レスカも追加!」

「…OK。 成立って事で」

「イイよ」

漸く気分が変わった樹絵に、利知未が軽い笑顔を見せた。 樹絵も釣られて、小さな笑顔を見せた。



 その日のバイト中に、利知未は賭けが、自分の勝利で終わった事を知った。

 久し振りにアダムへ現れた準一が、ダラケタ姿勢でコーラを飲んでいる。

「樹絵ちゃんたち、最近、日曜、暇?」

休憩を終えてカウンターへ戻った利知未に、準一が聞いた。

「また、どっか遊びに行くのか?」

「予定、空いちゃったからね。 暇潰しに」

大して、ショックは大きく無さそうだ。 それでも少しは、落ち込んでいるかもしれない。

「年上の友達は、金が掛かる」

小さくぼやきながら、ストローを咥えて頬杖をつく。 グラスから飛び出したストローの先から、コーラの滴がポツリと落ちる。

「お前、小学生じゃネーんだから、必要以上にカウンターを汚すな」

呆れて、布巾でグラス周りを拭きながら、利知未が言った。

 別れた理由など聞く気も無いが、内心では『やっぱりな』と思った。


 旅行好きな彼女が、ゴールデンウィークを切掛けにして、色々なプランを立てては誘ってくれるようになっていた。

 旅行先での金の使い方も、かなり荒かったらしい。 最近の準一は、日曜・祝日も仕事を入れなければ、稼ぎが追い付けない状態に陥っていた。

 そうすると、自然と彼女の旅行プランも、思い通りには運ばなくなる。

 それが積み重なって、結局は続かなくなったらしい。


「学生ローンって、そんなに融資額高いのかな?」

呟きが漏れた。 彼女は、いくつかカードを持っていたらしい。

「さぁ。 あたしは興味無いからな。 返せるアテの無い借金は、しないに限る」

「やっぱ、そーだよね。 樹絵ちゃんたちと出掛けてる方が、金が掛からなくて、オモシレーよ」

「イインじゃネーか? 同じレベル同士の方が、気も使わないで済む」

哲と、敬太を思い出す。 二人共、かなりのお坊ちゃんだった。


 敬太と別れた原因の一つは、自分と余りに違う生活環境に、気後れしてしまった部分もかなりある。 哲は、やはり金銭感覚や、生活環境に対する構え方が、余りにも違っていた。 どの道、続けられる訳のない相手だった。


「ンじゃ、来週、空けといてって、言っといてよ?」

「分かったよ。 ……晴れればイイな」

 窓の外、朝から振り続く雨を、カウンターから眺めやった。 利知未の顔には、微かな笑みが浮かんでいる。

『樹絵のヤツ、コイツが相手じゃ大変そーだ』 心の中では、そう呟いていた。


 準一は頬杖をついたまま、来週、旅行プランの練り直しを、ついでに相談しようと思った。




           四


 賭けの結果は、翌日の朝には樹絵へ伝わった。

 大欠伸をしながら、珍しく朝早く、朝食を取りに降りて行った。 びっくりする双子と里沙に挨拶をして、テーブルへつく。

「ドーしたンだよ!? 今日は、嵐でも来るのか?!」

「ウルセー。 今夜はバイトで遅くなるからな。 準一からの伝言、朝の内に言っとこーと思ったンだよ」

「なぁに? 伝言って」

「次の日曜、空けといてくれ、だそーだ」

「え?」

「また、里真や和尚なんかと、遊びに行きたいらしい」

 益々、目を丸くしている樹絵と、特に反応がない秋絵を見ながら、利知未はパンを頬張る。 里沙が、オムレツの乗った皿を運んでくる。

「サンキュ。 …で、賭けは、あたしの勝ちだ」

「賭けって?」

「ナンでもないよ」

秋絵の質問に、樹絵がそっけなく答えた。 何と無く嬉しそうな表情にも見える。 利知未は微かに笑顔になる。

「何時、替ってもらうかは当分、保留な」

「…分かった」


 さっさと朝食を済ませて、双子が席を立つ。

「日曜、空けとく。 言っといてくれよ?」

「昼過ぎくらいからが、丁度イイね」

双子は里沙に挨拶をして、話しながら玄関へ向かった。 里沙が二人を送り出した後、利知未をチラリと見る。

「なんだよ?」

「何となく、朝美を思い出したわ」

「どうして?」

「貴女も、イイお姉さんになってくれたと思ったのよ」

「何処が」

捻くれた態度で、利知未が呟いた。


 里沙は、先ほどの利知未と双子を見て、昔は喧嘩ばかりしていた利知未と玲子を、朝美が調停役になり、良く取り持っていた光景を思い出した。

 会話の意味も、その裏事情も解らないが、あの頃の朝美と今の利知未は、何処と無く重なる感じもする。 店子達の中での位置が、近いのかもしれない。


 この時、感じたインスピレーションが、今、里沙が抱えている問題への解決方法を導き出す、一つの切掛けとなった。



 十日の日曜は、午後から晴れ間が広がった。 双子と里真は、昼頃から下宿を出て、準一・和泉・宏治達と、遊びに出掛けて行った。

 何時か準一が、高校の友人とナンパへ出掛けた、クレープの美味しい店へとやって来ていた。

 この店は、女の子達には有名らしい。 言い出しは、双子と里真だ。 下宿の在る街から少し離れている。 雨もぱらつく事だし、和泉と宏治に車を出して貰い、連れて来てもらった。


 手塚家の自動車を管理しているのは、宏一だ。 普段はバイクで走り回るが、美由紀の買い物や、仕事で遠くまで出掛ける必要が有る時には、これを使う。

 美由紀は免許を持っていないため、今までは宏一が運転手を勤めていた。 宏治が去年の誕生日後、免許を取得してからは、美由紀の専属運転手の様になっていた。

 今日は、ご前中に美由紀の用事を済ませてから、車を借りて来た。


 和泉は勿論、仕事でも資材運びなどで運転している。 殆どペーパードライバー状態の利知未より、車の運転は安全かもしれない。

 準一が言い出したドライブ旅行の計画は、二人が居てこその立案だった。


 準一は彼女と別れた事で、プランを立てる為の情報源が途切れてしまった。 それなら、皆で相談する方が、効率が良いだろうと話しを始めた。

 和泉と宏治は夏計画の詳しい所を、この時、始めて聞かされた。


 週の中頃、由香子から返事が来ていた。 それを元にして、日付を決めた。

「けど、利知未さんに頷いてもらうのは、大変そうだな」

計画を知った宏治が、思案顔で言う。

「でもね、絶っ対! 外したくないのは、蛍狩りなの! 由香子ちゃんの都合的にも、ギリギリの線なんだよね」

里真は、買って来たばかりの旅行雑誌を開きながら、話しを続ける。

「キャンプ場、そろそろ予約入れないと、取れなくなっちゃうでしょ? 今日中に、出来れば、ある程度は決めてしまいたいのよね」

「平日か。 ドーかな?」

「木・金だったら、比較的、取り易いんじゃないのか?」

和泉の言葉に、樹絵が少し外れた返事をした。

 和泉は言葉の足りない所を補充する。

「仕事の都合が、どうなるか? って事だよ」

「おれも、チョイ、怪しいかな? まぁ、金曜の夜は店に出られるから…、」

「やっぱり、無理?」

里真が、不安そうな表情を見せる。 宏治は、これにはやはり弱い。

「…ま、大丈夫だとは、思うけどね」

帰ったら、美由紀に相談してみなければなら無い。

 里真がホッとした表情になる。 直ぐに和泉へ視線を移す。

「そうだな。 休み、取れなくは無いと思うけど」

和泉は、由香子に会いたいと思う。

 会社の雇用形態は派遣社員だ。 丸々二年、定められた休日以外で、休んだ事は無かった。

「良かった! じゃ、ナンとかなりそう?」

宏治と和泉が、それぞれ少し考えてから、頷いた。

「明日、言っておくよ」

「じゃ、今日中にココの会社へ、連絡入れちゃってイイかな?」

「構わないけど、キャンプか……」

「どうせなら、こっちの方がイイかも知れないな」

和泉が、キャビンの情報を指で指す。

「そーだな。 利知未さん攻略法としては、こっちがお薦めかもしれないな」

「どうして? どっちだって、変わらないじゃない? それに、お金かかるよ」

「おれ達もアンマ経験無いけど、里真ちゃん達だってテント張った事、余り無いんじゃないか?」

「不可能要素として突っ込まれるなら、先ずソコだろうな」

宏治と和泉が、頷き合いながら言った。

「お膳立て確りしておかないと、難しいと思うしな」

言われて、里真も考え直す。 準一では確かに、利知未攻略法までは頭が回らない。 なるべく安全に行って来られないのなら、反対されるだろう

「そっか。 それもソーだ」

準一が呑気に言った。 里真は、いくつかのお薦め要素を、読み比べ始めた。

「じゃ、何処にするかは、私に一任してくれる?」

「イイけど?」

「金額の上限だけ決めとこ。 そしたら、明日中には予約、取ってしまうから」

宏治をもう少し良く知りたいと、里真は思う。 受験勉強よりも余程、熱が入る。

 一生懸命な里真を見て、宏治は小さな笑顔を見せる。 向かいに座っていた準一が、その表情に逸早く気付く。

『和尚と、由香子ちゃんだけじゃ、無いかも?!』

益々、面白そうだと思う。  樹絵から自分に対する、微かな気持ちには、全く気付かない。

 準一は、自分の周りで起こる、面白そうな事へ対してだけは勘が働く。 周りが騒がしくなれば成る程、自分が楽しい。

 倉真とは、最近あまり会う機会が無い。 倉真の事まで気付いたら、準一は笑いが止まらなくなるだろう。


 その日の内に、向かう先と日程だけは、決まってしまった。



 利知未は、里真達の計画を知らずに、何時もと変わらない日々を過ごす。

 今は大学も、二年一学期・前半分のレポートとテストが大忙しだ。 高校までの中間テストの、変わりと言えるかもしれない。

 それでも相変わらず、週に二、三度はバッカスへも顔を出している。

 偶に一緒になるホステス達が、奢ってくれる。 哲も、月に一度位は顔を出していた。 哲は女に金を出させる事は、絶対にしない。 利知未にとって、バッカスはタダ酒の宝庫だ。

 そういう点では、利知未もチャッカリしている。


 倉真は、ほぼ毎日アダムへ顔を出していた。 すっかり夕飯の常連だ。

 ついでに軽い晩酌まで済ませてしまう。 帰れば風呂へ入って寝るだけの生活だった。 仕事が終わるのは、最近では十九時、二十時、当たり前だ。

 バッカスにも、暫く顔を出してはいなかった。

 怪しげな店通いは、続いている。 綾子と別れた今も、捌け口はやはり必要だ。


 双子と里真は、翌週も出掛けた。 旅行計画の中間報告と、相談が山程ある。 里真としては、宏治に会う絶好の口実だ。

 樹絵は、準一に対しての気持ちが、恋愛感情と言えるのか? まだ、判然としてはいない。 それでも準一に会える日は、やはりワクワクしてしまう。 

 自分の気持ちが解らない辺り、倉真と同じかもしれない。



 その週の土曜日・二十三日は、利知未の二十歳の誕生日だった。

 利知未は当日も、バイトをしてから帰宅した。 里沙は、利知未が帰宅するまで待っていた。 今日は寄り道をしてくる事も、無いだろうと踏んでいた。

 今年も美加が、プレゼントを今日中に渡そうと、何日も前から早めの帰宅を促していたからだ。 全く性格の違う二人だが、何故か上手い事いっている。


 美加は店子の中で一番、利知未に懐いている。 姉を慕っている様な感じだろうか。

 樹絵とは、少し歳の離れた友人同士、と言う雰囲気だ。 こちらは、利知未ミニチュアと、店子達から判断されている。 けれど、利知未よりも断然、扱い易いのは確かだ。


 十二時前には、美加との約束通りに帰宅した。 恒例のプレゼントを貰い、礼を言ってダイニングへ向かう。 里沙が仕事部屋から出て来て、夕食の仕度をしてくれた。

「また、随分と豪勢だな」

「今日は、貴女の記念すべき日、でしょう? 私も、お夕飯控えめにしておいたのよ。 ご相伴させてもらうわよ?」

そう言って、ニコリと笑顔を見せる。 利知未は、照れ臭い様な気分になった。

『……別に、構わなかったんだけどな』 そう思いながら。

 それでも、誕生日を寂しい思いで過ごさせない様にと、里沙が示してくれた優しさには、素直に感謝の気持ちが浮かんだ。


 ご馳走を前にして乾杯し、里沙が言った。

「記念すべき、成人への第一歩ね。 …貴女の気持ちも、これで少しは楽になれるのかしら」

「…ソーだな。 保護者無しで色々出来る歳に、やっとなれたよ」

「良く言うわね。 貴女には、今までも余り、関係無かったとも思うけど?」

クスリと笑う。 利知未も、これまでの自分の行動を振り返って、照れ臭い笑みを浮かべた。


 里沙は勿論だが、美由紀にも、かなりの迷惑を掛けて来てしまった。

 ……マスターにも、限りない愛情と、労りを貰って来た。

 今は亡き裕一にも、中学時代のセンパイからも。  ……そして、敬太。

 由美の事件の時、彼の優しさに救われた。 まだ中学三年生だった自分を、あの大事件の関係者と言う立場から、彼が守ってくれたのだった。


「……あたしは、色んな人達に守られながら、ココまで生きて来たんだな」 小さく呟いた。


 その分、宏治を始めとした少年達には、自分の出来る限りの事をし、助け、守ってきた事実。

 利知未本人は、確実に助けられ、守られて来たと言う意識を持たれている事には、全く無頓着だ。

 只、自分が沢山の人達から教えられ、与えられて来た物を、何も考えないで、彼等に示しただけの事。


 利知未の呟きを聞いた里沙が、微笑んで言った。

「貴女も、色んな人達を守って来たのじゃない……?」

利知未を中心とした少年達を、里沙は見た事がある。

 由香子を背負って、下宿まで送り届けてきた彼等は、あの夜。 里沙にも夜遅くの来訪を詫び、挨拶をして帰って行った。 由香子の見送りにも現れた。


 彼等も、もう少年では無いかもしれない。 あれから、一年四ヶ月を数えている。 あの年頃の少年達は、成長し始めれば、あっという間だ。



 利知未と共に夕食を終え、二人きりのパーティーをした。

 静かに飲みながら、今までの思い出話を語り合った。

「……貴女が一番、早熟だったわね」

二人きりだから、その手の話しも勿論、出る。

「あの頃は、心配させて悪かったよ」

「今だって、心配はしてるのよ? ……去年の春から夏。 恋人なんていなかったって言っていたけど。 本当の所は、どうだったの?」


 そろそろ時効だ。 哲は偶にバッカスで一緒になるが、今では単なる飲み仲間で、円と言う愛妻も得た。


「……付き合い掛けた、男はいたよ。 けどソイツは今、結婚したからな」

「じゃ、年上の人だったのね」

「歳だけ上で、テンでガキだったけどな」

 愛情のある、笑みを浮かべる。 言葉のキツさと裏腹に、思いは優しい。

「……それで? いつかの、残り香の人は?」

里沙が一番、気に成っているのは、そちらの事だ。


 利知未は今も、マスターへの想いを抱えている。 けれど、もう二度と関係を持つ気は無い。

 ……持ってはいけない人だ。


 想いを押さえ、利知未は答えた。

「大人の男だよ。 あの、ヘアダイの匂いの似合うような」

「そう。 そうすると、……優しくて、落ち着いた感じのヒトかしら?」

残り香を思い出して、里沙が呟くように問い掛けた。 利知未は、敢えて笑顔を作る。

「面倒見が良いヒトだよ。 子供好きで。 ……暖かい」

笑顔が、少しだけ崩れる。 里沙は、優しい声で言う。

「成る程ね。 …でも、ちょっと問題があるヒトだったのね。 環境とかに」

絹を巻いた様な、優しい表現だ。 ……利知未の心を、思い遣る。

「……終わった事だよ」

もう一度、表情を笑顔に直して、利知未が答えた。

 里沙は、利知未が今、終わらせようと頑張っている事を感じた。 それなら、応援するしかない。

「そうね。 次は、もっと良いヒトに巡り会えるわよ。 貴女なら」

「そーならイーけどな」

里沙の言葉に、利知未が少しだけ、不安な表情を見せた。

「大丈夫よ。 私が保証するわ」

里沙は優しく、力強い笑顔で言い切った。



 無事、二十歳を迎えた利知未は、翌日もバイトへ出掛ける。 里真達の計画は、まだ知らされていない。

 昼過ぎ、倉真が以前の様に、暇な時間帯にやって来た。


 マスターは今日も、呑気に買い物だ。 戻れば、佳奈美の勉強を見てやら無ければ成らない。

 佳奈美も、父親が日曜の昼間、チョコチョコ出掛けている事実を知った。 母親には内緒と言われて、大きな見返りを期待している。


 倉真が来たのは、利知未が休憩に入る寸前だった。 何時もの珈琲を注文し、利知未が淹れて出してくれる。 そのタイミングで、利知未の休憩時間が始まった。

「丁度イイ。 ゆっくり、話しが出来そうだ」

倉真の言葉に、賄いを持った利知未が、首を傾げながら隣へ座る。

「ナンか、あったのか?」

少し、不安な表情になる。 倉真は慌てて首を振る。

「違うっす。 七月の末、空けといてくれって、昨夜、連絡があったンすよ」

「誰から?」

「里真ちゃんから。 詳しい事は、聞いてないっすけど」

「何処か、遊びにでも行こうって言うんだろう?」

「多分、そうナンだろーけど。 …にしては二日間、空けといてくれって言われたんで。 今、仕事が忙しーんで、どうなるモンか」

「…二日間、ね。 二日掛けて、どっか攻略したいスポットでも、在るんじゃネーのか?」

「それなら、一日ぐらいは、付き合えるとは思うンすけどね」

「分かった。 一応、あたしからも言っといてヤるよ」

「すんません。 …って事は、利知未さんは誘って無いって、事なのか」

「あたしは、特に何も言われて無いぞ」

賄いを食べながら、利知未も知らない顔だ。

 それなら、自分も完全に断ってしまおうか? と、倉真は一瞬考える。

 けれど、直ぐに思い直す。 自分の事はさておき、宏治と里真の事は気に成る要素だ。

ついでに二人の様子を観察して見るのも、悪くない。


 久し振りに、休憩中の利知未とゆっくりと話しをした。

 夜はやはり忙しい。 利知未とは少しだけ言葉を交わし、飯を食い、軽く酒を飲んで、何時も一時間ほどで帰宅する。

 その後からバッカスに回る事は、先ず無い。 近過ぎる環境で、何時でも行けるだろうと思うと、睡眠時間と捌け口への所用時間の方が、やはり多くなる。

 泊り掛けでバイクを走らせるのも、最近はご無沙汰だった。 折角、一人の時間と金があるのだから、そろそろ再開しても良さそうかもしれない。

 何時か利知未も誘ってみたいとは思うが、それはやはり、遠慮してしまう。

 男同士なら、まだしも。 ……今までの自分なら、まだしも。


 今の自分が、利知未と二人きりで夜を共に過ごすような事をして、理性を保てる自身は、余り無い。

 それでも、いつかは、そう言う日も来る可能性が、あるのだろうか……?


 そこまで考えてしまって、慌てて首を振る。

『……何でンな事、考えちまうんだ? 俺は、彼女の事は尊敬…、している。 多分、そう言う言葉が、一番合っている表現だよな……?』


 綾子と付き合い、別れまで経験した結果、倉真の理念は一つの事に固まっていた。

 (すなわ)ち男は、女を守る為に。 ……守るべき相手が、自分にとってのパートナーと、なるのではないか?


『守りたいと思える相手』 その観点に立って見た時。

利知未は、自分が守れるほどの女ではないと感じる。 ……俺に守られなくても、自分を守れる強い女性。  だから、自分では力不足だ。


『自分が彼女より年上で、せめて、……立派な社会人として、立っているのなら……』

 その点で克己に対して、ジェラシーを感じているのかもしれない。



 それから、更に二週間の時が過ぎ、七月一週目・土曜。 夜十二時頃。

 すっかりお膳立てを済ませた里真が、利知未の部屋をノックする。 呑気な里真の声に、利知未は少し、面倒臭そうな気配を感じた。

「あのね、由香子ちゃんが、来るの!」

「…知ってる。 だから?」

読みかけのバイク雑誌を、裏返しに置いた。

「利知未も一緒に、皆で由香子ちゃんと遊びに行かない?」

「イインじゃネーか? 双子と四人で、遊びに行けば」

何となく、壁を周りに張り巡らせて見る。

「冷たい事、言わないでよ? もう、正体だって解っちゃった事だし。 改めて嘘抜きで、仲良くなりたいとは思わない?」

「…別に。 ソーは思わネーな。」

雑誌を手に取り直して、タバコを吸ってみた。 利知未の勘は、イヤな事程良く当る。 ……どうせ、無理矢理にでも付合わされる事になりそうだ。 と、思った。 それでも、一応は虚勢を張っておきたい所だ。

 利知未としては、改めて由香子と、どんな顔をして会えばイイのか? 気持ちが、落ち着かない問題であるのは、確かだ。


 その夜は適当な返事を返して、里真を部屋から追い出したのだった。




           五


 六月の二十四日。 利知未の誕生日翌日は、里沙にとって大きな切掛けの日曜日だった。

 その日。 里沙は葉山から、プロポーズをされていた。


 快く受けるには、問題が山積みだ。 一番はやはり、下宿の事だ。

「もう少し、良く考える時間が欲しいの」 直ぐには返事が出来ず、そう断って帰宅した。


 そこから、里沙の本格的な悩みは、始まっていた。


 今後の仕事にも、一つの転機が訪れている。 里沙を専属デザイナーの一人に組み込みたいと言う、新進の会社が現れた。 下宿のオーナー夫妻からの、ツテだった。


 今、世話になっている工場でも、既に何点ものデザインを形にして、売り出してもらっている。

 十点ほどのデザインをカタログにして貰ってあり、それを見た客から注文が入ると、歩合制でデザイン料が支払われるシステムだ。

 基本的に注文家具の製造会社だ。 里沙の仕事は、好意で引き受けてくれている。 ギブ&テイクで、工場からのデザイン依頼も受ける。

 里沙が個人で受けた仕事のデザインを、形にして貰うのも、その工場だ。


 そこでの仕事に新たな契約会社が加われば、里沙はこちらの仕事だけで、充分、生活が立ち行くようになる計算だ。 ……つまり。

 例え、彼からのプロポーズを受けなくても、一人でやって行く見通しは立てられる。 在宅の仕事で続けられるのなら、大家業さえ捨てる事は無い。

 ……それでも。 彼と家庭を持つ事も、叶えられるのなら、叶えたい望みだ。



 プロポーズから三週間経った、日曜の夜。 里沙は珍しく、リビングで一人、酒を飲んでいた。

 里真を部屋から追い出してから、利知未は寝酒を飲みに、リビングへ降りて行った。 そこで、珍しく一人でグラスを傾けている、里沙の姿を見付ける。

 誕生日以来、久し振りに里沙と二人、晩酌をした。


 途中、タバコを取りに行った利知未は、里真の部屋から聞こえてくる微かな話し声で、里沙が見合いをするらしいと言う、ガセネタを掴んだ。

 それからリビングへ戻り、再び里沙と酒を飲みながら、昔話が始まった。


 利知未が始めて、この下宿へやって来た時の感想を、里沙は始めて話した。

 七年前のゴールデンウィークだ。 あの頃は、店子も玲子と朝美、二人きりだった。 そこへ利知未がやって来た。

 それから二年間は里沙を含め、四人の共同生活が始まった。 この広い屋敷で、住人はたったの四人。


 その間に起こった、様々な出来事。 初恋と、裕一の死、由美の死。 悲しみを超えての、初めての恋人……。 三年間の内に、冴史も入ってやっと五人だ。

 その一年後。 朝美が退去し、変わりに賑やかな双子がやって来た。

 六人の生活。 中々、騒がしい日々だった。

 利知未も入居以来ずっと、一番の仲良しだった朝美がいなくなった寂しさを、実感する暇も無いほどの日々。 ……少女から女へと、変化した一年。


 当時のお小言を思い出して、利知未は微かに笑ってしまう。

「里沙から一番、お小言を言われたのは、あたしだな」

「そうよ。 貴女には随分、心配させられたわよ?」

「……ありがとう。 感謝、してる」

「どう致しまして。 ……私こそ随分、勉強をさせてもらったわ」

 少しおどけたやり取りに、今の幸せを実感する。


 それから、双子入居の翌年。 里真が入って、七人の生活。

 利知未は初めての恋人と、辛い別れを経験した。 悲しみに暮れる間も無く、倉真の絡んだ大事件、克己との出会い。 ……和泉の妹、真澄の死。

 更に翌年の二月、美加が入り、店子が勢揃いだ。 八人の生活が始まった。

 それからは、もう一年半が経過した。 ……哲と、マスターの時期だった。


 思い出話に花が咲き、晩酌を切り上げ、自室に引き取った時間は、明け方四時を回っていた。

 その間に、里沙の喜ばしい報告も、それに纏わる大きな悩みも、打ち明けられていた。

 今夜の昔話は、新しい選択を迫られた里沙が、自分の気持ちを整理する為の、大切な時間だった。



 翌日。 毎月二日の日曜休みが漸く取れた利知未は、朝寝を決め込むつもりで、明け方ベッドへ入った。

 しかし元気な美加が、惰眠を許してくれなかった。 朝、八時前に起こされ、仕方なく起き出して、朝食を取りに降りて行った。

 寝不足の大欠伸で挨拶をした利知未に、同じ様に寝不足の筈の里沙は、さわやかな笑顔を見せる。 本日の当番・里真の姿は無かった。


 玲子とも朝食の席で顔を合わせたが、ほぼ入れ違いで、デートへ出掛けて行った。 出る前、久し振りの嫌味を言われて、昨夜の昔話を思い出し、利知未は苦笑してしまった。


 玲子を送り出した後、美加が嬉しそうに言う。

「利知未ちゃんと、里沙ちゃんと三人で朝ご飯食べるの、久し振りだね!」

「そうね。 誰かさんは、大学に入ってから、すっかりお寝坊さんになってしまったものね」

玲子に引き続き、里沙にまで軽く言われ、利知未は話しを変える。

「悪かったな。 そーいや、今日の当番、里真じゃなかったか?」

「昨夜も遅かったみたいよ。 朝、見に行ったら電気も着けっぱなしで、机に突っ伏して眠ってるんだもの。 起こすの、可哀想になっちゃったの」

里沙が言う。 昨夜、自室に引き上げた時、里真の部屋から明かりが漏れていた事を思い出す。

『シャーネーな…。 これからは、チョクチョク覗いてヤるか』

大学受験勉強の大変さは、利知未も身を持って体験して来た事だ。


 最近の里真は時々、自分に突っ掛かってくる。 それも受験勉強のストレスから来るモノかもしれないと、利知未は考えていた。

 実状は全く別だ。 宏治の気持ちを勝手に想像し、ジェラシーを感じられていたとは、利知未には思いも寄らない。



 食事を済ませてリビングで一息着いていると、双子がアルバイトから帰宅した。 大騒ぎが始まる。 利知未は、二人のアルバイトは、七月から始まった物と思っている。

 双子は月頭まで口を閉ざし、密かにバイトを続けてきた。


 この時点で里沙は、里真達の計画に気付いていた。 利知未には内緒で話しを組み立てていた事も、承知している。

 最終的に、利知未が保護者になると思われる旅行の計画だ。 里真達だけで出掛けるよりは、余程安全だと思い、黙って見過ごしていた。

 由香子の為の計画でもあるらしい。 楽しい思い出を作って上げる為なら、それも良いかも知れないと思っている。

 何より、自分の問題が山積みで、そちらに気を向ける余裕も余り無かった。


 双子の帰宅から始まった大騒ぎは、利知未にこの計画を承知させる為の、里真達の企て事だ。

 これまでの数週間、宏治や和泉まで協力体制を取ってくれていた。 バッカスで顔を合わせても、知らん顔だ。

 和泉は、由香子に会いたい。 宏治は、気に成っている里真からの誘いだ。 協力しない訳が無かった。 そして倉真は、詳しい事は知らされていなかった。

 倉真には、利知未の承諾を得てから、改めて詳しい話しをするつもりだ。


 四週間に渡った計画立案の席で、早くから倉真にも協力を仰ごうと言っていた里真に、宏治が軽く入れ知恵をしていた。

「倉真は、利知未さんがOKすれば、間違い無く参加してくれるよ」

そう言った宏治の意見に、里真達は首を傾げていた。

「アイツは、利知未さんには、逆らえないよ」

「どうして?」

「……おれ達の中で、一番、彼女に世話を焼かせているヤツだから」

宏治は少し考えて、可笑しそうにそう言った。

「俺も、世話に成ったけどな。 …確かにアイツが一番、彼女に助けられている回数が、多いかもしれないな」

和泉も色々と思い出しながら、宏治の意見に頷いていた。

 その時、彼等の間にふわりと流れていた空気に、里真は倉真が教えてくれた、利知未と彼等との関わりを思い出した。

『利知未さんのこと、姉貴分として信頼してる、って感じだ』

倉真が、宏治を指して言っていたその意見にも、何となく納得出来る様な、そんな空気だった。

『……利知未って、皆にどんな風に、関って来たんだろう?』

 最近、利知未に対して感じていたジェラシーが薄れ、疑問が沸き起こる。


 彼等は、一様にこう言う。

『利知未さんには、感謝している。 到底、敵わない相手だ』

里真は思う。 彼女が、下宿の皆には見せないその素顔は、由香子の出来事があった、あの時。

 ……始めて、自分達に見せてくれた素顔。

『利知未に焼き餅焼くのって……。 もしかして、とんでもない勘違い……?!』

そう思えるようになり、里真は恥かしい気持ちになる。 そして、自分が宏治を本当に好きになっている事を、改めて確認してしまう。


『……それなら、もっと勉強を頑張って、堂々と宏治君に、気持ちを伝えられたら』

 ……もしも、この旅行で、そのチャンスに巡り会えたら……?


 そして、計画立案をしながら、勉強にも力が入るようになった。

 塾で行われる次の模試は、八日・日曜から数え、二日後に迫っていた。



 木曜日。 倉真は週に1回、食材と包丁・宏治直筆レシピとフライパン・鍋・調味料等との、戦いの日だ。

『……面倒だな。 チャーハンでも作るか』

宏治から、始めに教わったのは、味噌汁と肉野菜炒めだった。

「後、魚が焼ければ、取り敢えずの栄養は確保出来ると思うけどな?」

そう宏治に言われながら、その後からも、いくつかのレシピを譲り受けた。

 教わり始めて、一ヶ月も経たない頃、綾子が泊まるようになっていった。


 それからは、全く手を着けた覚えの無いレシピを、引っ越しの荷物整理で見付けた。 仕事が忙しくなり、今はアダムのディナーメニューに、世話に成りっぱなしだ。


 そして、店の定休日。 倉真の、木曜クッキングが始まった。

「待てよ? 飯、炊いてネーのか!?」

時計を見る。 既に二十時だ。 倉真は、つい数十分前に帰宅したばかりだ。

 ぶつぶつとぼやきながら、思った。『ヤッパ、綾子が居てくれた時は、楽だったんだな……』


 洗濯も掃除も、綾子と別れてから自分でやる様になった。 そちらは、どうやら自分の性質に合っている様で、それ程の苦労も無くこなしている。

 しかし料理は、中々、難しい。 つい外食が増えてしまう。 弁当も多くなりがちだが、少し味気なくも感じる。


 結局、米を急速炊飯で炊き、二十一時過ぎになり、始めに覚えた味噌汁と肉野菜炒めで、本日のディナーとなった。

「……ナンか、侘しい物を感じるな」 箸を咥えて、小さく一人ごちだ。

 食器の後片付けも、面倒臭いと思う。

『誰か、飯を作ってくれるヤツが、いればな』 そう思い、四月に里真からもたらされた情報が、頭を掠めた。

『……利知未さん、マジ、料理得意なのか?』 どう考えてもイメージが浮かばない。


 アダムのカウンターで、珈琲を淹れる男っぽい仕草や、バイクをかっ飛ばして走り去る姿。 大酒を飲んで、仲間と大笑いをしている様子。 ……誰かが下手をカマした時、素早く腕を掴んで捻り上げる、勇ましい光景……。


「ダメだ。 ヤッパ、考えられネー」

呟いて、食器を持って立ち上がる。 何故か思う。

『こりゃ、俺が飯、作れるようになった方が、イーかも知れネー……』

思ってしまって、首を振る。 ……俺は、何を想像しているんだ?!

 自分の思考回路が、信じられない。 気分を変えて流しの水道の蛇口を、思い切り捻った。 水が、盛大に流れ出す。

『疲れてンのか……? トットと風呂入って、寝るか』 洗い物を片付けながら、小さく溜息をついた。



 十四日・土曜日の午後。 里真は宏治からの参加費用を受取る為に、アダムへ行った。

 利知未がバイトへ入る前の時間だ。 昼間のバイトに案内され、窓際のテーブル席へ着く。

 何時も通りに紅茶とケーキを注文して、宏治が来るまでの時間、参考書を開いて時間を潰した。

 昨日まで、4日を掛けて行われた塾の模試結果は、まだ出ていなかった。


 約束の時間を五分ほど遅れて、宏治がバイクでやって来た。 マスターは、久し振りに利知未の弟分を、カウンターから見た。

『随分、大人っぽくなったもんだ』

背も170センチ程まで伸びている。 顔立ちも身体付きも、以前の彼から見たら、随分と逞しく、精悍なイメージだ。

 真っ直ぐに里真の席へ向かう様子を見て、何となく微笑んでしまう。

『中々、絵になる二人だ』

満足げな微笑を浮かべるマスターの前で、常連の紳士が、つられて微笑を見せる。 まだ湯気の立つカップを口に運び、小さく呟いた。

「相変わらず、ココの珈琲は美味しい。 香りも良い」

 賞賛の言葉に、マスターは礼を言って、視線を手元へと戻した。



 遅刻を詫びながら席へついた宏治に、里真は参考書を閉じ、笑顔を見せた。

「和尚の分も、預かって来たけど?」

「ありがとう。 和尚は、最近もお店へ顔を出すの?」

「準一と良く来るよ。 最近は、倉真が顔を出さないな」

「お店の近くに住んでるのに?」

「近過ぎて、足が遠退いているのかもしれないな」

店の裏手の道を五分も歩けば、現在の倉真が暮らすアパートへ着く。

「そう言う物かしら?」

「仕事も、忙しそうだからね」

「……宏治君達の、言った通りだったよ」

里真が上目使いに、チラリと面白そうな視線を、宏治に向ける。

 店員が、宏治のオーダーを運んで来た。 一度言葉を区切る。

「始めは、一日位なら、ナンとかなるかもしれないって、利知未から伝言があったんだけど」

あの朝の企て事は、宏治達の意見や協力の甲斐もあり、無事に成功していた。

 利知未も承諾してから、改めて連絡を入れた時、二つ返事でOKを貰った。

「だから言っただろ? アイツはおれ達の中でも、利知未さんに、特に頭が上がらないんだよ」

 倉真の想いに気付いているのは、今の所、宏治と克己と、何時か店で倉真に挑戦的な笑みを見せて行った、哲だろうと見ていた。

 マスターが気付いている事は、宏治も知らない。


「倉真君って、そんなに利知未に、世話を焼かせて来たの?」

「話し出したら、一日じゃ終わらないと思うけどな」

「そーなんだ。 …その内、ゆっくり聞かせてね?」

「…その内にね」

金の受け渡しを先に終わらせ、ゆっくりとコーヒーを飲みながら話しをしていた。 会話の向きが変わり、宏治が思い出した様に言い出した。

「この前、利知未さんが里沙さんと買い物に言っている所、見かけたンだ」

「何時? あ、もしかして、この前の日曜日?」

あの日は確か、利知未のバイトが休みの日だった。 午後から里沙に頼まれて、荷物持ちとして買い物に付合っていた。

 宏治が頷いて、話を続ける。

「そう、その日だ。 …利知未さん、もしかしてまた背が伸びたのかな? 里沙さんとの差が、前に見た時よりも大きくなっていた気がする」

去年の秋、170の大台に乗った情報は入っていた。 遅れる事、四ヶ月。 宏治もこの春頃、偶々、自分の身長を知る機会が合った。 やっと170きっかりまで、伸びていた。

 ……けれど、そろそろ止まったみたいだ。


「そーだね。 去年の秋より、また少し伸びたみたい」

「やっぱりか。 ……何て言うか、外見を気にするのもどうかとは思うけど。 正直、羨ましいよな。 傍から見てると、まるで美男美女のカップルだよ…って、利知未さんに聞かれたら、張り倒されソーだ」

少しおどけて言った宏治の言葉に、里真は小さく微笑んでおいた。

「……何時までも、男っぽさも抜けないヒトだ」

宏治は呟いて、倉真と利知未の事を考える。

『倉真は、何時頃のタイミングで、彼女を女として意識し始めたんだろう?』 自分達の前での利知未は、相変わらず男っぽい。


 それでも昔に比べたら、随分と女らしい雰囲気も、見せる様にはなって来た。 だからと言って、宏治から利知未を見る目は変わらない。

 五年前の夏、補導事件の夜。 あの時、美由紀が宣言した通り、手塚一家は揃って、利知未も家族の一員としての扱いだ。 その環境は、今も変わらない。

 相変わらず利知未は時々、宏治の家へ来ては泊まって行く事もシバシバだ。 母親の美由紀が、大のお気に入りなのだ。 すっかり姉貴である。 ……変わり様が無い。


「けど、おれは初対面からずっと、あのヒトを追い抜けないままだ。 身長も、格好良さも」

「…そんな事は、無いと思うけど」

里真の言葉に、目を上げて微笑んで、礼を言った。

 笑顔で礼を言われて、里真は一瞬ポッとなる。 慌てて視線を反らし、話しを変えた。 何気なく腕時計を見て、慌ててしまう。

「大変! 塾、間に合わなくなっちゃう!」

「もうそんな時間か? …良いよ、送って行ってやるよ」

「…もしかして、バイクで?」

「大丈夫だよ。 タマに和尚を乗せて、長距離走ってる。 …メットもあるから」

里真と、ゆっくり話してみたいと思っていた。

 始めから今日は、塾の前の待ち合わせだと聞いていた。 それで、タンデム用のヘルメットも持って来ていた。

 ……後ろに乗せたいと思える、里真の為に。

 その思いは、伝えられない。 彼女は、自分とは違い過ぎると感じている。


「…じゃ、お願いしちゃおう。 …安全運転で、お願いね?」

「当然だよ」

笑顔で答えて、伝票を持って席を立つ。 宏治が、里真の分まで払ってくれた。

 里真は、幸せな気持ちになった。 ……まるで、デートみたいだと思った。



 翌日の十五日。 日曜の午前中に、里沙は掃除をしていて、或物を発見した。

 冴史の定期購読本だった。 ソファの上から、雑誌を取り上げる。 織り込んであったページが、パラりと開いた。

《新人発掘コンテスト・閉め切り・八月十八日・土曜必着》                             


「……あの子」

 小さく呟いて、冴史の部屋辺りに当る、天井を見つめた。

『受験勉強、頑張っているのかと思えば』

少し呆れる気分だが、微笑が浮かんでくる。 ……冴史なら、受験も作品作りも、頑張るに違いない。そう、信じられる。

『頭の良い子だから』 心配はしなくても、良いかも知れない。

 夢を追い掛けながら、現実も確りと見極める目を、冴史は持っている。 黙って見守ろうと、里沙は思った。

 あの利知未でさえ、信じて来たのだ。 それに比べれば余程、気楽だ。 そして、里沙は今まで七年間。 店子達から裏切られたと感じた事は、一度としてなかった。

 黙って雑誌を閉じ、元在った場所へと、静かに置き直した。


 里沙がリビングの掃除を終わらせ、二度目の洗濯物を干しに、物干し場へと出ている時。

 塾から帰宅した冴史が、リビングに姿を表した。 ソファから雑誌を取り上げて、少しだけ周りを気にしてから、そのまま自室へ引き上げた。

 里沙は、硝子越しにその様子を見ながら、知らん振りをして作業を続けた。


 本日の当番は秋絵だった。 洗濯物第一弾と、朝食の準備は片付けていた。 洗濯機を回したまま、樹絵と二人で買い物に出掛けていた。 

 帰宅し昼食の準備を始める。 その一時間ほど前、利知未は今日もバイトへ出掛けていた。


 昼食を終えて、樹絵は準一から参加費用を徴収するべく、再び下宿を出て行った。

 着々と準備は進んでいる。 旅行の日程は、今月の二十六、二十七日の木・金だ。

 由香子が下宿へ来るのは、来週の月曜・二十三日の予定だった。




           六


 二十日・祝日の金曜日から、学生達の夏休みが始まった。

 それより数日前から、利知未の大学は、既に長期休みへ入っていた。


 この夏のバイトは、瀬尾と交代で入る事になる。 月頭には、既にシフトも出ていた。

 その後に入った旅行との兼ね合いで、妹尾に急遽、二日間を交代してもらう相談をした。

「その辺り、デートの予定があったんだけどな?」 妹尾はそう言いながら、だからイヤだと言うのではなかった。

 見返りを期待した瀬尾のニヤケ顔に、土産の約束と今後の交代を条件に、二日間をすんなりと空ける事が出来てしまった。 利知未はちょっと考えた。

『いっそのこと、あたしの予定が合わなければ、無理矢理、中止させられたのか?』 

考えたのは、本当に一瞬だけだ。 先ず無理だろうとは思った。

 すっかり乗り気の里真達から、恨みを買うのも面倒な事だ。 ……その上、里沙まで快諾していた。


 里沙は、旅行の日程に合わせて、葉山と会う約束があった。 プロポーズの答えを、伝えなければならない日だ。 丁度良いタイミングではある。

 店子の殆どが出払っている夜なら、夕食の準備も簡単で済む。 当日は冴史と玲子に、留守番を頼む事になる。

 今後の事は、まだ答えが出ていない。 最後の詰めが、決まらない。



 二十日・夜。 九時を回る頃から、最終的な旅行打ち合わせ会がリビングで行われた。 双子と里真、そこに利知未も参加させられる。

 参加費も後一人、倉真から受取るだけだ。 今夜の打ち合わせは費用面での最終決定と、付録として里真達が計画している、籤引き大会の商品資金相談だった。 ついでに、宴会の話しも出た。


 利知未は途中で抜け、ダイニングへ灰皿を持ち込み、晩酌タイムへと移行する。 風呂上がりの里沙も一緒になり、二人で軽く飲み始めた。

 ここの所、仕事が忙しかったらしい。 少し疲れ気味の里沙を気遣い、短い時間でお開きとなる。 一時半を回る頃には、利知未も自室へと引き上げた。



 二十二日。 里沙の悩みは、一つの解決策を導き出した。

 夜・八時過ぎに電話が鳴る。 本当に久し振りに、元気な朝美の声が、受話器から飛び出してくる。

「里沙、久し振り! 元気?」

「朝美? 久し振りね。 …ええ、元気よ。 利知未達? 相変わらずよ」

今週、利知未が朝美の知らない店子達と、旅行へ出掛ける話しをした。

「ナンだ、平和にやってるんじゃない。 安心したわよ」

「良いお姉さん振りよ?」

「あの利知未が!? お兄さんの間違いじゃないの?」

ケタケタと、明るい笑い声が弾ける。

「…そっか、でも。 久し振りに、会いたくなっちゃったな」

「遊びに来れば、良いじゃない」

「ソーだね。 これからはチョクチョク、遊びにも行けそうだよ?」

間を置いて、朝美が嬉しそうに言い出した。

「あたしね、今年の秋から横浜の新店舗へ、移動する事になったの!」

「そうなの? 朝美の今の仕事って、衣料品メーカーの販売よね?」

「うん。 …で、里沙に相談があって、電話したのよ」


 棲家を探している。 どうせなら思い出深い、下宿の在る街へ引っ越して行きたいから、物件を探してみてくれないか? ……朝美は、そう言った。


「本当は、また里沙の下宿で、一緒に暮らせたらイイんだけどね。 流石に、それは無理でしょ? 学生限定の下宿だもんね」

言われて、里沙は思い付く。 ……だったら、朝美に住み込んで貰えれば。

 自分の休日は、日曜で無くても構わないとも思う。 朝美が夜の下宿で留守番を引き受けてくれるのなら。 ……ココを諦めなくても、何とか出来るかもしれない……。 せめて、美加が巣立つまでの間。

 直ぐに話しをしてみた。 朝美は喜んで、引き受けてくれた。



 里沙に明るい光りが見え始めた、その翌日。 由香子が遥々、アメリカからやって来た。

 外見は、少しは大人っぽくなっていた。 髪もショートヘアになり、眼鏡もコンタクトだ。 背も、少しは伸びている。 顔付きも、やや大人びてきた。



 朝から曇り空の広がる日だった。 双子は、里真が塾の夏期講習を終える時間に合わせ、駅前で待ち合わせて由香子を迎えに行った。


 美加はこの日から、約二週間の里帰りだ。

 午後から新しい仕事のクライアントと、仕事の打ち合わせがある里沙の代わりに、利知未が里沙の車を借りて、美加を駅まで送って行った。

 今日のバイトは、夕方からだった。 朝っぱらから、樹絵の仕掛けた悪戯に一騒動があり、余り機嫌の良くない利知未は、今夜、再会する由香子の事で益々、気分がブルーだ。


 バイト中、帰り際の皐月に、突っ込まれてしまった。

「利知未ちゃん、今週、旅行の計画があるんでしょ?」

「ん? …まぁ、嫌々ながらな」

「普通、旅行って、ワクワクする物じゃないの?」

「普通の旅行ならな」

「それで、来た時から膨れっ面な訳だ」

言われて、自分の顔を抓って見る。 客商売だ。 気を付けていたつもりだった。

「あははは! 大丈夫。 お客さんには、何時も通りにしてたわよ?」

珍しい利知未の行動が、可愛らしく見えて、皐月は声を上げて笑った。

「あーッタク、焦らせンなよ」

「お土産、期待してるからね」

「…分かったよ。 お疲れ」

「お先にね」

ニコリと手を振って、皐月はアダムを出て行った。



 由香子を迎えに行った里真達は、そのまま乗り換え前の駅周辺で、荷物をコインロッカーへ預け、遊んでから下宿へ向かった。

 ゲームセンターへ入り、四人でプリクラを撮り、アクションゲームに嵌まり込む樹絵へ、隣から声援を送る。 対戦してくれた学生は中々強かった。 負けず嫌いの樹絵は、千円もそのゲームへ注ぎ込んでしまう。

 取り敢えず一勝を収めて、時計を見る。 四時半を回ってしまった。


 此処から下宿まで、約一時間かかる。 里真は利知未がバイトへ向かう前に、帰宅しようと思っていた。 もう、間に合わないだろう。

 残念そうな里真と違って、樹絵は少しホッとしていた。

『朝、悪戯して来ちゃったからな。 早く帰ったら、怒られちゃうよ』 そう考えた。

秋絵も、その現場に居合わせた。 同じ思いで、時間の管理を態と蔑ろにして見ていた。

『夜、利知未が帰ってからなら、もう遅いし。 怒られないかもしれない』 秋絵も、樹絵と同じ様な事を思う。

 少し脹れて、ゲームに夢中になっていた樹絵に、軽く文句を言う里真の言葉に耳を塞いで、二人でチラリと視線を交わした。 由香子は、何かに気付く。

『樹絵ちゃん達、早くに帰りたくない、理由でもあったのかも?!』

小さく笑ってしまった。

 何をヤらかしたかは知らないが、昔と全く変わらない。 北海道に居た頃、あちこちで悪戯をして、由香子も一緒に良く怒られたものだった。

「イイですよ、里真さん。 私も、久し振りに日本へ来たから、楽しかった!」

まだ、少し怒っている里真に、由香子が軽く取り成した。


 漸く下宿へ到着したのは、十八時少し前だった。

 途中で、アイスやクレープなどを食べ歩いて来た。 お腹はそれ程、空いてはいない。 それでも、由香子を迎えて里沙が出してくれたチーズケーキは、何の問題も無く腹へ収まる。

 冴史も一緒に軽くお茶をして、相変わらずの大騒ぎが始まる。

 樹絵と秋絵は、本日も元気に、リビング中で追いかけっこをかました。


 利知未はその日、バイト後にバッカスへ回って行った。

 真っ直ぐ帰ったとしても、由香子と顔を合わせる時間が長くなるだけだ。 朝の双子の悪戯に、説教をしようにも遅過ぎる。


 今日は、和泉と準一も顔を出さない。 静かにカウンターで、ロックを飲む利知未に、宏治が何気なく話し掛けた。

「今週の木金、ですね」

「ああ、ソーだな。 お前、店休んで平気なのか?」

「元々は、お袋が一人でやっていた店だし。 木曜は、まだ大丈夫だって」

「成る程な。 で、金曜に帰ってからは、店に出る訳だ」

「ソーなります」

「ご苦労な事だな」

「…利知未さんこそ、運転、大丈夫なんスか?」

「平気だろ。 バイクが車になるだけだ。タマに、里沙の車も運転してるし」

「そう言われれば、そうですね」


 この前の日曜、利知未と里沙を見かけた事を、宏治が話した。

「なんだよ? 声、掛けてくれりゃ良かったのに」

「おれも、運転してる途中だったから」

「相変わらず、美由紀さんの専属してンだな」

「兄貴が、面倒臭がるからね」

軽く肩を竦める。 お互い、敢えて恋愛の話しはしない。

 宏治は、倉真の様子を、暫くは観察してやろうと思っている。


 利知未は、里真から宏治への想いは、自分から漏らさない方が良いだろうと考える。 宏治が里真をどう想っているのかは、見当が着いている。

 ただ、綾子と付き合い始める前の、倉真と同じ様な悩みは、宏治も抱えているだろうと思っていた。

 だからこそ、二人の自主性に任せるべきだろう。 想いを伝え合うか? それとも、想いを抱えたまま、別の恋愛を探す事になるのか……?

 利知未からは、見守ってやるしか、出来る事は無さそうだ。



 二時過ぎに帰宅した利知未を待っていたのは、朝の騒ぎなど比べ物にはならないほどの、大騒ぎだった。

 これも、双子の悪戯だ。 悪戯と言うよりは、由香子への思い遣りだろうか?


 双子と由香子は、こんな時間まで起きて、リビングで待っていた。 一年半振りに再会した由香子と、そっけない挨拶を交わした。

 それから、風呂へ向かった。 小雨のばらつく中、バイクを走らせて来たのだ。 頭からつま先まで、グショグショだった。

 風呂に入り、髪を洗い出した利知未は、由香子の耳を劈く様な悲鳴に、思い切り驚いた。

 双子が由香子に、利知未の正体を再確認させようとして、嫌がるのを無理矢理、利知未が入浴中の風呂場まで、引っ張って行った。


 里沙と冴史が、由香子の悲鳴に驚いて、様子を見に起き出して来た。

 里真は爆睡中だ。 一度眠れば、地震が起ころうが、強盗に脅し付けられようが、全く目を覚まさないのが里真だ。


 玲子は彼氏と二人、外泊中だ。 すっかり、朝帰りもするようになっている。 ただし、何時も大体、ホワイトボードへ記入済みだ。

 そこの所が、利知未とは違う。


 騒ぎが一段落着いた時、改めて由香子と、再会の挨拶を交わした。

 由香子は、始めはショックを隠せない様子だった。 だが、フイに笑い出す。

「これからは、格好イイお姉さんが出来たって、言い触らします」

そう言って、ニコリと微笑んだ表情は、一年半前の由香子と比べ見て、随分大人びた印象になっていた。

 利知未の心は、漸く平常を取り戻す事が出来た。 ……今度こそ、本当に。

 自分の過去の過ちに、一つの答えが、示された気がした。



 翌日は、由香子を引き連れて、双子と里真が午後から、遊びへ行った。

 更にその翌日は、里沙が由香子と、ショッピングへと出掛けた。

 里沙は、デートに着て行く為の、ワンピースを探しに行きたかった。 由香子は、自分サイズの洋服を、大量に仕入れたいと思っていた。 二人とも、見に行きたい物が洋服だ。 丁度良かった。

 午後になり、里沙の仕事が落ち着いてから、連れ立って出掛けて行った。


 その間に、里真と双子は最後の参加費用を徴収するべく、倉真とアダムで待ち合わせた。 利知未もバイト中だ。

 倉真は超特急で仕事を片付け、バイトの時間を間抜けして、約束の時間、アダムへ向かった。 昼休憩もマトモに取ってはいない。 コンビニで握り飯を仕入れ五分で腹へ収め、その時間分を配達に回した。

 アダムで話しが出来るのは、一時間が限界だ。 昼休みを、ここで消化する。


 会社の上着を引っ掛けた倉真の腰には、太目のチェーン・ホルダーが下がっていた。 そのチェーンの音は、倉真が現れる時、いつも合図となる。

 初めて、その事を突っ込まれた。 樹絵が気になって、倉真に聞いた。

「な、仕事中でも、それ付けてンのか?」

「これか? …実家飛び出してから、アパートの鍵とバイクのキー、忘れない様にくっ付けて歩いてンだ。 今更、外すのも、ナンか落ち着かネーしな」

「けど、会社の上着には、ミスマッチって感じ」

秋絵も突っ込む。 里真が到着する前の会話だ。


 暫くして里真も揃い、本題に入る前に、もう一つの話しが出る。

 倉真達と、初対面を果したあの時。 樹絵に積極的に手を出していた、倉真の態度が話題に上った。

「何がイイのか、樹絵相手に」

そう言われて、樹絵が脹れる。 樹絵は、利知未のミニチュアと、店子達には判断されている。即ち、お姉さんと言うよりも、お兄さんらしい利知未は、女としての魅力に欠けている事の代名詞になるのでは……? と言う意見だ。


「だから、話し掛け安かったんだけどな」

 つい、漏らした倉真の言葉は、樹絵の頭に、こびりついた。


 一時間しか持て無い会見時間内に、里真が、前回の模試で成績が上がった事と、明日行くキャビンの細かな情報が、倉真へ伝えられた。

 最後に翌朝からの行動予定を確認して、倉真は仕事へ戻って行った。

 レジを打ちに出てくれた利知未から、仕事への労いの言葉を貰い、倉真は元気付けられて、残りの仕事をハイペースで片付けた。


 明日の朝は、利知未がレンタカーで、倉真を迎えに行く事になっていた。



 その夜、和泉は。 明日の事と、由香子の事を考えていた。

 真澄を失ってから始めて残った、優しくて暖かい思い出は、和泉の中で、由香子の存在を徐々に膨らませていた。


 由香子の姿は、一年半前に見たきりだ。

 あの頃の由香子は、肩まで伸ばしたフワフワの猫毛と、顔の割に大きな眼鏡が印象的な、どちらかと言うと幼い顔をした少女だった。

 その外見は、僅か十四歳で亡くなった真澄の、あの頃の面影を思い出させられる、可愛らしい雰囲気だった。

 明日、久し振りに会う由香子が、あの頃と何ら変わらない幼い顔付きの少女であれば……。

和泉は、そのまま妹を見る様な気持ちで、接する事が出来るだろう。 偶に電話で聞く声も、余り代わり映えはしない。


 けれど、もしも……。 成長を感じられる姿で、現れたら?

 その時は、彼女を見る目が、変わってしまうかもしれない。


 由香子と真澄を比べ見ている。 比べ見ていると言うよりも、真澄と重ねて見ているのかもしれない。 その判断は、自分でもついている。

『準一より、一つ年下だったな……。 樹絵ちゃんと秋絵ちゃんの、幼馴染みの同級生だったんだ』 今は亡き真澄の、一学年・年下と言う事だ。

 準一も今年で、十八歳だ。 樹絵・秋絵の双子は、次の誕生日で十七歳。

『真澄が死んだ歳よりも、二歳年上になった計算だ』 その年頃の少女の変化は、身近で利知未の変化を見て来た和泉には、想像出来ない事でもない。


 十七歳と言う事は、自分が境内で、利知未の女らしさを始めて実感した、その時の彼女の歳と同じだ。


『……会って見なければ、どうなっているかは、解らないけどな』

 ベッドへごろりと横になり、腕枕をしてジッと天井を見詰めている。

『いい加減、眠らないとな。 明日は、寝不足で運転する訳にはいかない』

そう考えて、目を閉じる。 ……この夜、和泉は。

 始めて由香子と会った頃の夢を、何度も、何度も。 繰り返し見ていた。



 利知未は、二十時までアダムに残る事になった。 結婚式の、二次会の予約が入っていた。 開始は十八時半からだ。

 今日は、近藤が早めに入ってくれる予定だった。 瀬尾も勿論、数の内だ。 それなのに、こんな日に限って、近藤の入りが遅くなってしまった。


 近藤は、今も昼の仕事とアダムのバイトを、掛け持ちでやっている。

 マスターから、従業員として雇ってくれると言う話しも、聞いてはいる。 だが後、二百万程は貯金を増やして置きたいと言うのが、本音だった。 その為には、今の状態が一番稼げる。

 その代わり、貯金が目標金額に達した時には、迷わずマスターからの好意に甘えるつもりでいる。 その為に、後二、三年。 掛け持ち生活をする必要が、ありそうだった。


 そんな事情で、今日は昼間の仕事がトラブルに見舞われ、どうしても残業になってしまうと言う近藤を、攻められよう筈は無い。

 利知未は、彼が駆けつけてくるまで、大人しく残業を引き受ける事にした。


 帰宅して夕飯を済ませ、風呂に入ったのは二十二時だ。 明日の仕度をしていると、透子から電話がありヘルプを出された。

「利知未、悪い! バイクで迎えに来て!!」 その連絡は、その一言で終わった。

 透子は今、大学近くのバーで飲んでいると言う。 コンパに誘われて出掛けて来たはイイが、少し面倒な男に気に入られ、帰るに帰れなくなり、電車の時間が無くなったと言う。

「…って、明日、早いンだぞ? 解ってて、連絡して来たのか?!」

言い掛けた言葉は、受話器を置く音に空しく遮られた。


 〇時を回る頃。 利知未は仕方なくバイクを走らせた。 透子を拾い、ついでに利用され、透子の男だと紹介される。

『…何何だ? …ッタク』

身体のラインが解らない服装をして来てしまった事を、後悔した。

 それでも長く引き止められるのは、面倒だった。 明日は早い。

 適当に誤魔化して、さっさと透子を乗せ、バーを離れた。 送り届けて帰宅した時間は、三時近かった。 ……これで、寝不足決定だ。

 すっかり目が冴えてしまい、寝酒を飲んでベッドへ入った時間は、明け方四時近かった。 遅くとも、七時に起きなければ間に合わない。

 利知未はたった三時間の睡眠で、長距離を運転するハメに陥った。


 翌朝、七時三十分頃に下宿を出た。 徒歩二十分の距離に在る、レンタカー会社へ向かう。

 里真達は、八時に出れば間に合う計算だ。 二十四時間営業のスーパーで、待ち合わせの予定だった。

 利知未は手続きを済ませ、車でそのまま倉真のアパートへ向かう。 倉真が用意した荷物を積み込んで、ついでに倉真も拾って行く。

 荷物と倉真を乗せてアパートを出たのが、八時半頃だった。 二人きりで走らせて行く道程は、約十五分だ。


 ……そして、この瞬間が。

 利知未と倉真の、これから先へと長く続く、大切な絆の始まりの二日間へと、繋がって行く。


                 (三章  絆の始まり  7 へ続きます)


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