二章 愛情の行き先 後編
《二章 愛情の行き先 〈……季節を越えて〉 6 》
小突かれた頭を摩って、深く考えない準一と、少しびっくりした顔で、利知未を
見る倉真を見て、宏治は、何かが引っ掛かる。
『……この前、佐久間さんが言っていた通り、なのかもしれないな』
……倉真は利知未の事を、女として気にし始めているのではないか?
けれど、本人が解っていないらしい。 突っ込むのは、止めにしておいた。
二章 愛情の行き先 〈季節を越えて……〉 後半(7 〜 10)
七
十二月に入って直ぐ、マスターが嬉しそうに宣言した。
「今年の正月休みは、偶然にも定休日から入るぞ」
利知未は、カレンダーを確認して聞く。
「そうですね。 だから、何何ですか?」
「二十八日は、恒例の忘年会だ。 早めに始めるぞ」
「成る程。 ゆっくり、たっぷり酒が飲める、って事ですか」
少し呆れてしまった。 同時に、不安が掠める。
『また、何時も以上に酒が入るって事か』
十月の、翠の送別会での事が、思い出される。
……あんなに酒が入る事があったら、また、抑えられなくなるかもしれない。
利知未からマスターへの想いは、この一ヶ月間で、強まるばかりだった。
普段はキツク抑え込んでいる分、その反動も大きい。
『……でも』 もしも、そうなったら? ……心が、素直に反応してしまう。
今は、バイトの時間だ。 利知未は、軽く目を瞑り、気分を切り替えた。
アダムが忙しいのは、忘年会の予約よりも、クリスマス・イブ〜当日の二日間だ。 それまでは、何時もと対して変わらない。
今年は、イブの二十四日が日曜日だ。 二十三日・祝日前日の、二十二日金曜からの三日間、夜のアダムは大繁盛だった。 予約しなければ、席がないくらいの状況だ。
年末の書入れ時である。 その三日間は、時給も少しだけ上乗せされる。
他には特に変わった事も起こらず、日が過ぎた。 悪魔の様に忙しかった三日間を抜け、更に3日が過ぎ、アダム恒例の忘年会当日がやって来た。
出掛ける前、利知未は自室で、仕度をしながら考えていた。
今日は成るべく、マスターの近くに座らない事にしようと思う。
『始めの内は、平気だろうけど……』
酒が過ぎてきた頃には、気を付けないと、マズそうな気がした。
利知未は、Vネックの厚手のセーターを、下着の上に そのまま着込んだ。 自前のレディースなので、身体のラインはそれ程隠さないデザインだ。
防寒にコートを着て、マフラーを首に引っ掛ける。 無意識に、少しは女を感じさせる服装を選んでいた。
十八時半を回る頃、下宿を出て、徒歩で会場へ向かった。
翠も、夫と参加した。 新婚の二人を迎え、十九時にスタートした今年の忘年会は、例年以上の盛り上がりを見せた。 酒の量も半端ではない。
智子も少しだけ顔を出した。 一次会だけ参加して、子供達を迎えに行く為、今日も一足先に帰って行く。
開始が早かった事でもあり、翠夫妻と智子、パートの二人以外が全員、二次会まで雪崩込んだ。
二十一時半には、スナックへ移動していた。 そこで、十二時頃まで飲み、さらに三次会へと向かう。 二次会の間に、終電の都合がある従業員は帰宅する。
三次会まで出た人数は、少なかった。 利知未に瀬尾、皐月と、マスターが残った。
利知未は、それでも二次会の後半から、少しマスターと離れた席で飲んでいた。 従業員も残っていたのだから、簡単だった。
三次会で向かったカウンターバーでも、敢えてマスターとの間に瀬尾を挟んだ。
そのバーは、まだ新しかった。 オープンから二年しか経っていない。 立地は、思い出ある高台の公園の、少し東側だった。
夜景が綺麗に見える席へ、四人で並ぶ。 乾杯をして、瀬尾が言った。
「また、相変わらずなメンバーが残ったな」
「翠の変わりに、皐月が入ったってトコか」
「仕事だけじゃなくて、付き合いの良さも翠さんの代わりナンだな」
瀬尾の言葉に反応して、皐月が、マスターの向こう側から顔を覗かせる様にして、会話に参加する。
「だって、どうせ家も近いし。 利知未ちゃんと妹尾君が残ってるんなら、あたしだって、一緒に飲みたいモン」
「長嶋は、瀬川のファンだモンな」
「なんだよ? ファンって」
「長嶋が、始めて瀬川を見た時さ、すっかり、間違えてただろ?」
瀬尾が、ニマニマしながら言い掛けた。
「ちょっと、バラさないでよ」
「ナンだ、なにか面白い事が、あったのか?」
マスターが、三人の会話に参加する。
皐月は他人にバラされる前に、自ら暴露した。
「あたし、利知未ちゃんが女の子だって知った時、実はショックだったんですよ。 結構、一目惚れだったんだから」
少し、剥れている。 マスターが呆れた様な顔をする。
あの時の事か、と、利知未は思い出す。
「ほっといたら、どうなるのかと思ってさ。 水沢君と示し合わせて、暫く黙っておいて見た」
「お前等、ナンで直ぐ、誤解を解いてやらなかったンだ?」
妹尾の言葉に、マスターが惚けた事を言う。 利知未は、彼の酔い始めを直感する。 そうなると、自分の言葉にも責任が持てなくなる筈だ。 突っ込んで見た。
「マスターも知らない振りをして、見ていたって事だよな?」
「馬鹿言え。 俺は、長嶋がお前を気に入ったなんて、知らなかったんだぞ?」
「ソーかよ? ……ありえネー」
「マスター、自分だけ逃げ様としてる!」
利知未の呟きに、皐月が乗っかる。 マスターは、視線を外して酒を飲む。 直ぐに店員を呼んで、追加を注文した。
話しが進み、話題が利知未の事へ集中して行った。 ガラスに映り込んだ姿を見ながら、利知未の容姿に付いて盛り上がる。
瀬尾は、酒が大量に入った時、利知未の目が、普段と違う事を発見した。 指摘され、利知未は始めて、その事に気付く。 そして、思い出した。
哲との切っ掛けと、マスターとの、あの夜。 ……もしかして、あの時も。
自分から、無意識に目で、彼らを誘っていたのか?
『そうだとしたら……』 アレは、やっぱり。 ……あたしの責任だ。
考え始めた利知未を、瀬尾が面白がって眺めていた。
「ソーか、瀬川もやっぱり、女だったんだ」
悩み始めた事を隠すため、利知未は、その言葉に反応する。
「人を、酒の肴にすンなよ」
「利知未ちゃん、人気者なのよ」
皐月が楽しそうに言う。 利知未は少しだけ、剥れた振りをする。
「おもちゃって、事かよ?」
「そーね、お人形さんかしら?」
クスクスと笑う皐月に釣られて、利知未も小さく吹き出した。 お人形さんと言われて、マスターに当て付けて見たくなった。
「ダッチワイフとか、言うなよ」
皐月と瀬尾は吹き出した。 マスター一人が、慌てて突っ込んだ。
「どの口が、そーゆー事を言うんだ」
「この口だよ」
利知未はマスターに、アッカンベーをしてやった。 ……ガキ見たいな事、してンな。 と、自分で思った。
店の看板は、二時だった。 バイト三人で盛り上がる中、マスターは一人、飲み続けていた。 利知未の当て付けが、少しは響いていた。
『……どうも、こうなってくると。 理性が、また飛びそうだ……』
時々、利知未の目を、映り込んだガラス越しに、チラリと見る。
利知未は何度か、その視線に気付いていた。
『……我慢、出来なくなりそう』
ふと、女っぽい表情が出る。 その度に、瀬尾が突っ込む。 突っ込まれて、利知未は気を張り直す。
……二時間近い間、お互いの気持ちは、交差し続けていた……。
看板で店を後にした頃には、すっかり酔いが回っていた。 帰る方向の関係で、今夜も。
利知未とマスターは、肩を並べる。
強い風が吹き去り、利知未が首を竦めて、小さく呟いた。
彼は、自分のコートを広げて、利知未の細い肩を包み込む……。
『……暖かい』 自然と、寄り添ってしまう。
『ダメだ…。 やっぱり、このヒトの事……。 ……結構、好きだ……』 愛している。
好きなだけなら、こんなには、彼を求めたりしない。
利知未は自分の心に、素直になって行く……。
『……飲み過ぎた』
彼も、飲み過ぎだ。 利知未を包み込んだまま、彼がポツリと呟いた。
「……ダッチワイフは無いだろう」
「気付いたか?」
「当て付けだな」
「ご名答」
寄り添ったまま、短い会話をする。
「……そんな目、してたのか? ……あの時も」
「…忘れた」
「ごめん」
「何で、お前が謝る」
「……解らない。 ただ、何と無く」
利知未は顔を上げて、夜空を仰いだ。 星を見て、軽く目を瞑る。
『目、瞑ってても、全然、怖くない……』 裕一と居た頃の様な、安心感を覚える。
……この人は、きっとあたしが転ばない様に、気を付けてくれる……。
利知未は再び目を開き、星を見て小さく呟いた。
「冬の夜空は、……好きだよ。 星が、綺麗に見える」
「…そうだな」
二人で、夜空を仰ぎ見た。 ……どうしようもなく、この人の事が好きだ……。
無意識に、益々、身体を寄せてしまう。
彼もその身体を、力強く引き寄せた。
また今夜も、理性が飛んでしまった事を知る。
帰り道には、ホテル街がある。
衝動のまま、自然に二人は、建物の中に吸い込まれて行く。
『……なんで、こんな所に、コンな物があるンだろう?』
……アダムも、下宿も。 この道の先だ……。
部屋へ上がり、どうでも良い気分に捕われる。
いけない事だと言う意識はあるけれど……。 ……もう一度だけ、抱かれたい。
『親子見たいな、歳の差だけど……』
『……いつから利知未は…。 女になった……?』
娘と言っても可笑しくはない。 何しろ中学の頃、どう見ても女とは感じられなかった頃からの利知未を、ずっと見て来た。 ……けれど、今。
色気ある瞳を投げ掛けられて、ついに、自分の理性の弱さに、観念した。
利知未は、邪魔なセーターを脱ぎ捨てた。 下着姿を、自分から晒してしまう。
そのまま彼に近付いて、腕を回して、唇を重ねる。
薄く開いた瞳が、妖しい光りを宿している。 ……その瞳に、完全に我慢が出来なくなる。
彼のシャツのボタンを外しながら、その身体に、唇を這わせた。
「何で酒が入ると、そんなに色っぽく成るんだ……?」
「さぁ……。 人間の性、ってヤツ……?」
利知未から、積極的に動き出す。 彼の服を、脱がせてしまう。
二人、何も纏わない姿で、ベッドへ入り込む。
………彼女の真実の姿は、こうなって見ないと、見る事が出来ない。
普段は全く見せようとしない女らしい様子が、何時も一緒に仕事をしている彼女とは、別人を相手にしているような錯覚へと、誘い込む。
『女は魔物だ、とは、良く言った物だ……』
酒が回って、冷静な判断力はとっくに無くなっている。 ……その行為は。
妻帯者であり、雇用主である自分にとって、罪以外の何物でもない。
それでも。 ……利知未は、魅力的に成長していた。
『コイツは……。 本当に、あの利知未が成長して来た、姿なのだろうか……?』
思考と行動は、全く別の働きをしている。 ……ただ、今は。
……自分を求める一人の女に、素直な感情で、応えているだけ……。
利知未は、抱かれながら幸せを感じる。
『今、この瞬間だけは。 この人は、あたしだけの……』
いけない事だ。 解り切っている。 ……その行為も、想いも。
『……ケド。 これで、最後にしなきゃ……』
身体は、愛しい人の温もりに、動きに、素直に快感を覚える。
優しいその抱き方に、静かだけれど確りした悦びが、身体中に広がっていく様な感覚に包まれている。
……声が上がる。 …彼が、反応する…。
その背中に、頭に……。 彼女の手が、悩ましく動く……。
これを最後に。 ……そう決めて、二人の身体が離れる。
ホンの五分だけ、彼の腕枕に頭を預けた。 彼は少し、眠そうにしている。
静かにベッドを抜け出て、シャワーを浴びた。
少しだけ、トロトロとした。 十分くらいは、眠っていたかもしれない。 気が付くと、腕にあった頭の重みが、無くなっていた。
目が覚めて、シャワーの音を聞く。
ゆっくりと起きて、ワイシャツに袖を通した。 下着だけは履く。
ソファへ移動して、タバコをゆっくりと吸っていた。
一人目の妻と別れて、智子を、その娘・佳奈美ごと受け入れた十一年前。
あの時もしも、今の成長した利知未を知っていたら、どうなっていたのだろうか……? そう、一瞬だけ感じた。
『馬鹿馬鹿しい……。 有得ない事を想像するのは、愚かだ』
軽く首を振って、殆ど吸わずに灰になったタバコを揉み消した。
新しく一本咥えて火を着けた時、シャワーの音が止まる。
吸い終わる直前に、身支度を整えた利知未が、バスルームから出て来た。
「これっきりにするよ」 伏し目がちに、利知未が言った。
「そうだな……」 今の自分には、家庭がある。 愛娘と、息子もいる。
「一つ、教えてくれよ」
「何だ?」
「……奥さんを、愛しているよな?」
……もしも、愛して無いと言われたら、どうするつもりなんだろう……?
自分でも、解らない。 けれど、YESを聞けなければ、また、繰り返してしまうかもしれない……。
「……勿論だ」
……その一瞬の間に、何を思ったのか……? 自分でも判断が付かない。
「じゃ、墓の中まで持って行こうぜ。 お互いに。」
「……古い言葉を使うな」
そうか? と軽く首を傾げる利知未に、軽く目をやり、言った。
「俺も、シャワーを浴びてこよう」
「もう四時だ。 ……先に出るよ」
「…そうか」
……二人でココを、出て行く訳には行かない。
バスルームに向かい掛けたマスターを、軽く呼び止めた。 振り向いた、その唇を、利知未は奪った。
『…最後の、本音。』
「…チョイ、マジに成り掛けてたんだ…。 でも、忘れるよ」
少し、驚いているマスターの横を擦り抜け、部屋を出る前に振り向いた。
「良い年を!」
「…ああ」
彼の短い返事を聞いて、静かに部屋から出て行った。
外で、また冷たい風が吹き抜ける。 首を竦めて、歩き出す。
『……マスターのコート、暖かかったな…』
少しだけ、涙が滲んだ。 ……裕兄と、一緒に歩いているみたいだった……。
『…あたしにとっての理想の男って、裕兄。 …なんだろうな』
似た雰囲気を持つマスターに、惹かれた理由は、それかもしれない。
帰宅して、冷え切った身体を温める為、風呂に浸かった。 自分の身体をそっと手で辿り、愛しい人の抱き方を、改めて心に、刻み付けた。
明けて、一月。 由香子から双子へ宛てて、エア・メールが届いた。
瀬川の正体を知ってしまった事が、報告されていた。
今は、良い思い出だと。 里真、樹絵、秋絵と、瀬川にも、感謝していると書いてあった。
本当に立ち直ったと感じられるまで、三ヶ月かかっている。 その事には、触れない様にしていた。
和泉と時々、国際電話をする様になった、と書いてあった。 皆で、和泉と由香子の関係を、推理した。
利知未は納得した。 和泉が由香子を、特別な目で見つめていた事は、既に気付いていた事だ。 それより、由美と由香子への贖罪が、やっと一つの結果を導いた事を感じて、少しだけ楽に成った気がした。
正月休み明けのアダムに、臨時の手伝いで智子と佳奈美が入った。 渉も連れて来ていた。
どうやら、マスターとの関係は、バレずに済んでいるらしい。
ホッとしたのと同時に、智子へのジェラシーも、感じてしまった。
『……きっと、時間が解決してくれる』 そう思って、その想いに蓋をする。
佳奈美は、冬休みの宿題の残りを持ち込んできた。 利知未は手が空いた時間を使って、勉強を見てやった。
すっかり利知未に懐いている。 成績が上がったら、何処かへ遊びに連れて行く約束を取り付けられた。
佳奈美はその日から、今まで以上に頻繁に、アダムへ勉強を持ち込むようになった。 マスターは勿論、黙認していた。
瀬尾や皐月とも、今まで通り仲が良い。 今度、三人で遊びに行こうと、約束をした。
「瀬尾君も、利知未ちゃんも、車の免許持ってるんでしょ? どっか遠くへ遊びに行こう!」
「ケド、あたしは車、持って無いぞ? バイクはあるけど」
「瀬尾君が、車、持ってるんだよね。 運転手が二人もいれば、車は一台で充分じゃない? 高速代は、三人で折半すれば良いし」
「何処まで行く気なんだ?」
「雑誌を見て探しておくから! 春休み中で、アダムの定休日、どっか明けといてね?!」
少し強引な気もするが、皐月の提案に、二人は素直に従った。
『気晴らしに、丁度良いかもしれない』
利知未は、心の中でそう思う。 パーっと遊びに出掛ければ、少しは気分が晴れるだろうと思った。
一月十一日から、大学の三学期が始まった。
一年間の総復習だ。 テストとレポートが、山ほど待っていた……。
八
倉真は最近、大人しい。 以前なら喧嘩になった些細な出来事も、反発が軽くなり、綾子の意見を入れてくれる。
飲みに行っても、必ず帰って来る様になった。
けれど、一時期治まっていた、泊り掛けでバイクを走らせる趣味は、再開している。 その時は、バイクの後にテントを括り付けて出掛けるので、はっきりと行先を聞かなくても直ぐに解る。
そして、土産を買ってきて、行った先でどんな事があったか? どんな奴と知り合ったか……? 綾子と向かい合って食事を取りながら、話して聞かせてくれる。
十二月〜一月いっぱいで、六、七回は泊り掛けのツーリングへ出掛けて行った。 大体、土日だ。
その代わり、綾子との約束もキッチリ守る。
一月に入り、正月が明けた頃。 バイクを新しく買い換えた。
気に入ったバイクは、同モデルで600ccと400ccがあり、どちらにするかは、かなり悩んだ。 金額を見て結局、中型にした。 機能的にも、自分の趣味にマッチしているバイクだ。 綾子を乗せて出掛ける事も勿論ある。
前のバイクに比べて、タンデムシートのスプリングも利いている。 ……けれど。
以前より、綾子を求める回数が、格段に減った。
……その分、クロートを相手にしているのだが、綾子に気付かれない様に、徹底的に隠し通している。
始めは、倉真の変化を嬉しく思った綾子も、一月の中旬辺りから月末にかけて、段々と不安が膨れ始めた。
十一月二十三日の、バッカスで。 準一と、利知未を間に挟んだ状態で、下ネタチックな話題が出かけた。
何も、考えてはいなかった。 普通に話題が始まりかけて、利知未に頭を小突かれた。
……その時の利知未の表情に、倉真は女っぽさを見た。
『ヤッパ、利知未さん。 ……少し、変わったか?』
初対面は、セガワだ。 すっかり男と信じ込んで、憧れた。
格好良かった。 あんな風に、格好良くなりたいと、……目標にした。 アレは、自分がまだ、中学二年の初夏。
一年以上、彼女の正体は知らなかった。 その間、あのヒトは何時も、格好良いままだった。
……中学三年の、夏休みが終わろうとしていた頃。
セガワが、瀬川利知未と言う少女の、別の姿だった事を知った。 歳も、一つしか違わないと聞いた。
……酷く、ショックを受けた。
『事実を納得して受け入れる様に成るまで、一週間以上かかった。 ……準一のヤツは、あの日から、全く拘らないで受け入れやがった』
和泉も、準一の呑気さに引き摺られる様にして納得したと、後から聞いた事があった。 比較的、最近の事だ。 アイツ等と知り合ってから、そろそろ四年と三ヶ月。
今の様に、全員で和気藹々と騒ぐようになってから、まだ二年に届かない。 その間に聞いた事だった。
その二年は。 自分が家を飛び出し、一人暮しを始め、綾子と同棲を始めた、その二年。
その一年半ほど前、高校の受験勉強で、部屋に監禁されていた頃。 利知未と五ヶ月ほど、顔を合わせない時期があった。
あの時も、何ヶ月も会わない内に、少し、女らしい雰囲気を持ち始めた利知未に、驚いた覚えがある。
妹と比べて、一美もあのくらいの年頃になったら、変わるかもしれないという可能性を、信じられない事だと思った。
それから一年の間に、また利知未に助けられた。 ……克己と綾子も絡んだ、暴走族との関わり。
無実の罪を着せられて、少年鑑別所の飯の味を覚えさせられた、一週間……。
『……克己、アイツは。 本当に利知未さんと、何でもないのか?』
利知未の事が、女に見え始めた切っ掛けは、七月のツーリングからだと、憶測を着けた。
……あの時、二人に感じたイライラは、ジェラシーだったのかもしれない。
『綾子がいるのに、考えられネー事だ……』 そう思った。
それから、秋の三週間に及ぶ大喧嘩を収めて、今は、綾子を大事にしなければと、改めて思い直した。
「態度で、感謝を示してやれよ」と、利知未に言われた言葉を思い出して、今、実行して見ている。 ……それでも。
『前より綾子の事を、想えなくなっている』
捌け口としての女を必要と感じる日は、敢えて綾子に手を出さない。
素直に綾子が可愛い、愛しいと思えた時だけ、抱く様にしている。
そうして見て、綾子を抱きたい衝動に駆られる日が、以前よりも減っている事に気付いた。
変わりに、利知未の事を考える時間が、今まで以上に増えている。
『……ケド、彼女には、俺は必要無い』 何故、そうなる? どうして、そう思う?
『克己が、彼女には丁度良い』 自分の周りのダチを見て、改めてそう感じる。 そして、苛々が込み上げる。
そうなると、捌け口が必要な気分になる。 けれど、無実だったとは言え、一度は鑑別所の飯を食わされた身だ。喧嘩騒ぎに紛らわせるのは避け様と、今は決心している。 ……バイクは好きだ。 そして、仕事道具だ。
無茶な運転も、バイク便のバイトを始めてからは、抑えていた。
その夜、綾子が熟睡するのを確認して、こっそりと部屋を抜け出した。
……捌け口を求めて、女を抱く。
新しい年が明けて、そろそろ、一ヶ月が経とうとしていた。
綾子は、今夜は目が覚めた。 玄関のドアが静かに開け閉てされた気配を、夢現に感じた。
深夜〇時を回る頃だ。 ……こんな時間に出て行って、何処に行こうと言うのか?
十二月の末頃から、二度は気付いた。 朝、倉真に問質すと、何時も言う事は同じだ。
「眠れなかったから、バイク走らせてきた」 そう答える。
綾子は、倉真が以前よりも優しく成ってきた事を感じていた。 だから二度とも、素直に信じる事にした。
けれど、最近。 その優しさに、疑問を感じ始めた。
些細な事で、直ぐに喧嘩をしていた時の方が、今より、よっぽど倉真の気持ちが解っていたような気がする。
最近の倉真は、全く気持ちが読めない時がある。
『……ずっと、倉真の事を見続けてきたから。 今までは、彼の気持ちも、推し量る事が出来た。 喧嘩になれば、本音が出てくるから……』
この二ヶ月、倉真と喧嘩になった覚えが無い。
『…ヘンなの。 仲良くしていられるなら、その方が良いに決まってるのに。』
克己と利知未は、喧嘩をした覚えが無いと言っていた。 …それは二人が、自分達よりも、よっぽど大人だからだろうか?
倉真達の世界も、ソッチ側にいる彼らも。 綾子にとっては、未知の世界の住人だ。
その思考回路も、行動パターンも、信じられない物がある。 喧嘩をして、倉真の本音が覗ければ、少しは理解も出来る感じだった。
『克己さんと利知未さんは、同じ世界を持っている人同士だから…。 喧嘩なんかしなくても、お互いの気持ちが分かり合えるのかもしれない』
どうせ、今夜もバイクを走らせているのだろうと、思う事にした。 明日の朝、聞いて見れば直ぐに解る。
……けれど、それが本当か嘘かは、やっぱり解らないかもしれない。
綾子は最近、言い様の無い不安に襲われている。
二月の前半。 佳奈美は、実力テストで成績を上げた。
実力テストは、一年間の総復習テストだ。 一・二学期のテストで解けなかった問題が、すらすらと解けた。 一気に、クラスで十人追い越した。
喜んだマスター夫妻は、アダムの定休日を利用し、利知未を夕飯に招待した。
仲の良い家族と、食事を共にした。
利知未の心は、まだ完全にマスターの事を吹っ切ってはいない。 けれど、終わらせようと決心した。 何時ものバイト中の、男っぽい自分を貫き通す事にした。
……心の奥は、まだチクチクしている。
それは、二月三週目の木曜、十四日のことだった。 バレンタインデーだ。 手土産に、大学近くにある美味しいと評判の店で、チョコレートケーキを購入して持って行った。
『家族全員で食べてもらうなら、構わないか』 そう、自分自身に納得させた。
……本音は、別の所にある。
久世家の玄関で、佳奈美と智子に迎えられた。 利知未はケーキの箱を、佳奈美に手渡した。
「成績上がった、お祝いだ。 あたしは、アンマ甘い物食わないけど、大学の友達のお墨付きだよ」
少年チックな笑顔を見せる。
ココから、利知未の戦闘は始まっている。
……いかにして、マスターへの想いを、抑え付け切るか?
佳奈美は喜んで、ケーキの箱を受取った。
「私達が、お礼をする為に招待したのに、悪いわね」
智子は、少し恐縮している。 佳奈美はお構い無しで、奥へ向かう。
「お父さん! 利知未が、ケーキ買ってきてくれた!」
父親を呼ばわりながら、トタトタと廊下を小走りに駆けて行く。
マスターは、リビングで渉を構っていたらしい。 はしゃぎ声を上げる愛息子を、肩車をして玄関先へ出て来た。
「悪かったな。 土産までもらって」
「社長にゴマすっとけば、これから先も仕事がし易いと思ったンだよ」
ニ、と笑って両腕を、胸の前で組む。
「兎に角、上がってくれ。 智子、準備は出来てるのか?」
「とっくに出来てるわよ。 さ、上がって、上がって!」
二人に促されて、利知未は靴を脱いで廊下へ上がった。
夕食を共にして、酒も入る。 リビングへ移動して、利知未は渉を構う。
「姪っ子より、一つ年上に成るのか」
三歳の男のコは、中々腕白だった。 八月生まれだと言う。 言葉は一応、覚え始めているらしい。 十歳も年上の姉がいるから、早いのかもしれない。
「り、ち、み…?」
タドタドしいながらも、ナンとか利知未の名前も覚えた。 覚えたら、連呼する。 抱っこして見て、結構重いんだな、と思った。
胸に縋り付かれて、少し、母性本能が反応した。 散々遊んで、疲れて眠ってしまった。 寝息を立てている。
「……可愛いんだな。 子供って」
呟いた声を聞いて、智子が言った。
「眠っている時だけよ? 可愛いのは。 まるで戦争ナンだから」
重いでしょ? と言って、渉を利知未の腕から引き受け様とした。 確りと利知未の首に縋り付いて、離れない。
「すっかり、気に入っちゃったのね。 布団へ、連れて行って貰っても良い?」
智子に言われ、頷いて渉を運んだ。 布団の上へ寝かし付けた。
「早く、子供欲しいと思う?」
「まだ大学あるからな。 …それに、この人の子供が欲しいって相手、今の所は、いないから。 …高校時代には、いたんだけどな」
小さく呟いた。 ……久し振りに、敬太のことを思い出した。
「随分、早熟だったのね。 意外な感じがするわ」
「智子さん、あたしと同い年で佳奈美、生んだんだよな?」
「そうよ。 お父さんは、誰だか解らないけど」
「…凄いね。 あたしには、無理だろうな」
利知未の呟きに、智子が優しい笑顔を見せる。
「生んじゃえば、ナンとか成る物よ」
「ソー言うモンか?」
「ソー言うモン。 …もう少し、飲み直さ無い?」
促されて、再びリビングへと移動した。
渉を寝かし付けたのは、九時頃だ。 佳奈美は宵っ張りだった。 利知未が久世家を辞去したのは、十一時近かったが、まだまだ元気だった。
リビングへ移動してからは、マスターをほっておいて、女三人で盛り上がった。 そこで、約束をした。
「実力テストより、学年末テストの成績上がったら、遊びに連れて行って」
「そうだな。 五人抜いたら、遊びに連れてってやるよ」
「絶対? それまで、また、勉強見てくれる?」
「社長が、黙認してくれるんならな?」
チラリと、マスターを見た。 智子が更に、夫に聞く。
「忙しい時間を外せば、大丈夫でしょ?」
「なにがだ? 勉強か?」
「良いよね? お父さん! 今までだって、そうやってたもん」
愛娘にまで言われて、マスターは少し顔を顰めながらも頷いた。
「仕方ないな。 日曜・祝日の午後三時から、一時間だけだぞ」
「はーい!」 佳奈美が元気に答えた。
利知未は、それから一時間位してから、久世家を辞去した。
バレンタインデーに、里真は悩んでいた。
『宏治君に、チョコ上げちゃおうかな……?』
由香子の出来事で、知り合った宏治達だ。 丁度、一年経った。
あの少年達を始めて見た時。 ハッキリ言って、里真は少々、引いてしまった。 髪型からして、特殊な四人組だ。 仕方が無い。
けれど、中でも宏治と和泉は、比較的、真面目そうな印象があった。
和泉は、少し怖いと思った。 身体も大きい。 剃髪は、やっぱり異質だ。 後で、少林寺を小さな頃から習っていたと聞いて、やっと納得出来た。
宏治は、髪を固めていた。 でも、ちゃんと黒かった。 こちらも、母親の店の手伝いをしていると聞いて、やっと納得だ。
更に中学時代は、利知未がマネージャーをしていた、応援団にいたと言う。 三年の頃は、副団長をしていたと、準一が教えてくれた。
城西中学は、里真も一年だけ通った学校だ。 内情も、少しは判っている。 里真の頃の副団長は、和泉と顔見知りだったと、これも後から聞いた。
宏治の、一学年後輩の時代だ。 まだ、少しは喧嘩騒ぎもあったようだ。
けれど何度か会っている内に、宏治の優しい性質を知った。 優しいだけじゃない。 かなり、確りとした考え方の持ち主だ。 高校を中退した理由も、母の店の手伝いを続ける為に、専修学校へ通い直す為だったと言う。
成績も落ち零れる事は無く、無事に一年通い続けた。
頼り甲斐もある感じだ。 初対面のあの日、樹絵と準一に金を貸していた。 確り、先の事を予測していた結果だ。 背が低い事を、コンプレックスに思っているらしい。 そこは、可愛い感じだ。 顔もアイドルみたいだ。
いつ頃からか、里真は宏治に惹かれ始めていた。 今は、彼の事が好きだと、自分で解っている。 ……けれど、近付き過ぎては、いけない人かもしれない。 環境が、やっぱり違う。 好きなだけで、乗り越えられるのか?
チョコレートは用意したけれど、自分が彼の相手になれる自身は無い。
結局、渡す事が出来ずに、この年のバレンタインは終わろうとしていた。
準一は時々、双子と遊びに行く様になっていた。 ノリは樹絵と良く合うが、突っ込みに秋絵がいると、更に楽しい。 一対二になるのは大変なので、和泉にも良く付き合って貰う。 彼女? は、他にいる。 現在、八人目だ。
大体、ナンパで見付ける。 カードマジックは、どんな時でも最大の武器だ。 遊び心で引っ掛けるので、一度か二度、遊びに行って詰まらないと、直ぐに会わなくなる。 そうすると、遊んでいて楽しい双子に声をかける。
近頃、ナンパにも飽きてきた。 女のコは好きだけど、彼女として付合いたい程のコは、中々いない。
『ナンで、倉真はモテるンだ?』 最近はそう思う。
綾子と言う、ちゃんとした彼女がいる。 人数の問題ではないと思う。 キチンと、恋人同士として付合えるコが、居るか居ないか? の問題だ。
自分もそれ程、熱は上げないけれど、女のコから熱を上げられている覚えも無い。 ……ただ単に、鈍感なだけかもしれない……。
樹絵は、準一から声をかけられると、ワクワク、ドキドキする。
『次は、何して遊ぶんだろう?』 何時も、準一は騒ぎを起こす。 色々な悪戯を思い付く。 一緒にバカな事をしていると、とても楽しい。 ……けれど。
準一が、和泉と彼女? の事を話し出すと、何故かイラっと来る。
自分は、そう言う風には成れない。 同性同士で騒ぐみたいなのが丁度良いし、面白いと思っている。
……筈なのに。
『利知未は、どうして皆とあんな風に、和気藹々(わきあいあい)と楽しそうに出来るんだろう? あたしも、あーゆー風に遊んでみたいな』 どうしても、女のコだ。 バイクの免許、取ってしまおうかな? と、最近思い始めた。
そうしたら、皆でツーリングに行く事も出来るかもしれない。
そう思って秋絵に相談したら、猛反対されてしまった。
「利知未を見てたら、分かるでしょ? お金、掛かるんだから。 樹絵は勉強、そんなに出来る方じゃないんだから、バイトしながら何て絶対無理! それに、危ないよ? 大体、免許取りに行くほどのお金だって無いでしょ」
言われて、渋々ながら我慢する事にした。
確かに、小遣いの余裕なんて全く無い。 バイトをしながら勉強するのだって、とっても無理だ。
利知未の事が羨ましく感じる、今日この頃だった。
バレンタインデーに、綾子はチョコレートを用意していた。
去年の今頃は、たしか倉真と喧嘩になって……。 怪しげな女からの電話があったのも、この時期だ。 けれど、始めて倉真からプレゼントを貰ったのも、この時期だった気がする。 丁度、バレンタインデーだった。
あの時、綾子が買って貰ったのは、オルゴール付きのアクセサリーBOXだった。 その中には去年の六月、倉真から貰った、誕生石のネックレスが仕舞われている。 これは一週間で三日間も無断外泊をした、お詫びだった。
久し振りに、ネックレスを身に着けた。 普段は、自分達にとっては少し高価な宝石を、無くすのが嫌で仕舞い込んでいる。
二人で出掛ける時だけ、身に着けていた。
倉真は、バイトを終えて帰宅する。 今日がバレンタインデーである事は、全く忘れていた。 綾子から夕食後にチョコを貰って、始めて気付く。
久し振りに、綾子がイジらしく思えて抱いた。 約、一ヶ月振りだった。
以前の倉真からは、考えられないスパンだ。 ……けれど、イマイチ夢中に成れない、自分の心の変化を知った。
女は、敏感だ。 彼の気持ちの変化を、夜を過ごしながら、気付く。
『倉真……。 やっぱり、他に好きな人が……』 ……それはやっぱり、利知未さんだろうか……?
克己と話しをした時、以来。 久し振りに、その疑惑が綾子の頭を擡げた。
『それでも、私は……』 彼が、好きだ。 ……でも。
想いが離れ始めた恋人を、引き止める最善の方法なんて……、……知らない。
少しずつ、二人の関係が、ギクシャクし始めた。
九
三月に入った。 利知未も玲子も、単位を落とす事も無く、無事に大学の一年を乗り越えた。
佳奈美は、学年末テストで七人抜いた。 意気揚揚と、アダムでバイト中の利知未に成績表を見せに来た。
この春休み、利知未は佳奈美と、皐月・瀬尾との約束が待っている。
バレンタインデーから2週間を過ぎ、倉真はまだ、綾子を抱いていない。
どうしても、自分の気持ちを誤魔化す事が出来ないまま、綾子と生活を続けていた。 あれから三週連続で、泊り掛けのツーリングへ出掛けている。
何時も、テントを借りて行くレンタル屋でも、すっかりお馴染みだ。
三月四日・日曜日。 久し振りに、利知未の居る時間にアダムへ向かった。
出先から直接、進路を向けた。 到着は、店が込み始める十七時過ぎになってしまった。
……話しをする暇、無さそうだ。
そう思ったが、土産を渡す間だけ珈琲を飲めば、それでイイかと思う。
綾子に買ったつもりのキーホルダーを、ポケットに突っ込んだ。
鈴を鳴らして、客席が七割ほど埋った、少し賑やかな店内へ踏み込む。
「いらっしゃいませ。 あ、カウンターでイイですか?」
顔を見て皐月が、倉真に言われる前に、カウンター席へ案内してくれた。
「珍しい時間のお出ましだな。 瀬川、今ホールへ出てるよ?」
瀬尾が、カウンターへ掛けた倉真に、お絞りとお冷を出してくれた。
店内を振り向くと、利知未が隅の席へ着いている客に、お絞りを出しながらオーダーを取っている所だ。
久し振りにその姿を見て、倉真の心が、小さな疼きを覚え出す。
「瀬尾さん、オリジナル・モカ・ブレンド、出して貰えるか?」
メニューの中でも、特殊な淹れ方をする珈琲だ。 聞いてみた。
「カウンターに入ってんだ。 珈琲・紅茶、ソフトドリンクにデザートは、お手の物だよ」
調子良い口調で、楽しげに答えた。
マスターがチラリと、倉真と瀬尾を見た。 目の前の客に、珈琲を出している。
「ンじゃ、頼ンます」
「畏まりました。 ディナーメニュータイムです。 お食事はいかがですか?」
店員らしく問い掛ける。 中々、呼吸を心得ている。 少し考えて、ディナー・ディッシュ・Aセットと書かれた、ボリュームがありそうなメニューを注文した。
……食べてる内に、利知未と話す機会が出来るかも知れない。
「ありがとうございます。 …一割、引いとくよ?」
瀬尾がこっそりと言った。 倉真が、金が無さそうな事くらい、知っている。 自分の友達が来ても、偶にそうさせて貰う。 従業員割引みたいな物だ。
「助かる」 倉真もニ、と、軽く笑顔を見せた。
先に出てきた珈琲を飲んで、ふと思う。
……確かに、味は何時もと同じだけれど、何かが違う……。
利知未が淹れた珈琲では、ないからだろうか? 彼女は、忙しそうに立ち働いている。 客席も、九割埋まった。
ディナー・ディッシュが出てきた。
大きな皿に、アダムお薦めのピラフとパスタが半人前ずつ乗り、鳥肉の照り焼きとサラダが、バランス良く盛られている。 スープも付いていた。
若いサラリーマン世代に人気があるらしい。 ボリューム万点で千二百円と、格安だ。 短いディナーメニュータイムに、毎日十皿以上は出る品だと、瀬尾が教えてくれた。
オーダーをカウンターへ持って来た利知未が、チラリと倉真へ笑顔を見せた。 忙しくて、話している場合では無いらしい。
結局、食べ終わるまで、利知未は忙しいままだった。
ポケットのキーホルダーは、渡せずじまいだ。 利知未がバイトを終える時間まで待つ事も出来ずに、レジへと向かった。
偶々、利知未の手が空いた瞬間だった。 倉真のレジを打ちに来た。
「ディナー・ディッシュ・Aセットと、…野良猫のホットミルク、合わせて1,460円になります」
倉真が少し驚く。 1,600円になる計算だ。
「計算、合ってるっすか?」
伝票を書き換えながら、利知未が言った。
「相談事があったんじゃないのか? ……何時もの居酒屋で、待ってろよ。 三十分もしたら、行けるぜ?」
金をやり取りしながら、利知未が優しげな笑顔を見せる。
倉真の心の、疼きが大きくなる。
「……綾子に、連絡しておくか」
呟きを聞いて、利知未が店内の公衆電話の在処を、指し示した。
「感心、感心」
小さく言って、ニ、と笑う。 ……ちゃんと、彼女の事を考えて居るらしい。
利知未は従業員らしく挨拶をし、倉真を送り出して、再び仕事へ戻って行った。
綾子は、何時もよりも帰りが遅い倉真を、心配していた。 電話を受けて、一応はホッとする。
けれど、これから利知未と会ってから帰ると聞いて、内心、ドキリとした。
倉真は、嘘を言う事も無いと、判断していた。
この時間から居酒屋へ行ったからといって、その後で利知未と、どうなる物でもないだろうと思う。 ただ、今は。 ……綾子よりも、利知未と居たい気がする。
どうしてそう感じるのか? ハッキリとは、判っていない。
倉真が席に着き、十分もした頃、利知未が現れた。
アダムで確りと夕食を平らげた倉真と違い、腹ぺこだ。 お結びと味噌汁も頼む。 腹がある程度満足してから、サワーを頼んだ。
バイクで来たから、深酒は出来ない。 倉真もバイクだ。 やはり、軽く飲む程度に収めた。
店に入る前に、荷物を積んだ倉真のバイクを、目に入れていた。 話しの始めに聞いた。
「また、あの趣味、再開してンだな」
「もうチョイ、暖かくなったら、縦断するつもりです」
「彼女は、怒らせていないのか?」
「……今ン所は。 …そうだ、土産」
ポケットから、キーホルダーを出した。 利知未は礼を言って受取る。
「軽井沢の方、行ってきたのか。 綾子ちゃんへは、なに買って来たんだ?」
聞かれて一瞬、戸惑った。 もう一つ、摘みになりそうな名産品も仕入れて来ていた事を、思い出して言った。
「食いモン、買って来たンすよ」
「成る程な。 …ケド、こっちの方が、喜びそうだ」
可愛いキーホルダーを、袋から出して眺めた。 ギクリ、とした。
「アイツには、何時もそンなンばっかだから、タマにはイイかと思って」
何と無く、倉真の微妙な変化を感じる。 けれど、突っ込むのは止めた。
「ンじゃ、有り難く貰っとくか。 バイクのキーに着けとくよ」
言いながら、その場でバイクのキーを出した。
倉真が、既に着けてあった、弾丸形のキーホルダーに反応した。
去年の誕生日に、美加から貰ったプレゼントだ。 利知未は笑みを見せながら、そのライターを使ってタバコに火を着けた。
「へー、面白れー。 …ジッポーになってンだ」
貸して貰って、じっくりと観察している。 自分もそれで火を着けた。
「小さくて、チョイ、使い難いか……?」
感想を言った。 確かに、男の手には小さ過ぎだ。
「美加から、貰ったんだよ。 去年の誕生日に」
「……利知未さん、何時っすか?」
「誕生日か? …六月二十三日だ」
誕生日には、何故か、男との思い出ばかりだ。
敬太との初めての夜。 去年の哲との、朝の会話。 思い出して、女らしい雰囲気になる。 一瞬で、気分を切り替えた。
……倉真の、自分を見る目が、少し気になった。
『酒、入るとヤバイからな。 …倉真が相手じゃ、ナンにも無さそうだけど』
少年チックな笑顔を作る。 用心するに越した事は無い。
「で? ホワイトデーのお返しでも、悩んでンのか?」
利知未に軽く問われて、話しを合わせる事にした。 丁度イイ理由が、あったと思う。
「お前から貰うんなら、何でも喜んでくれそうだけどな……?」
サワーに口をつけながら、利知未が言う。
「ソー言う、モンすかね?」
「ソー言うモンだと、思うぞ」
倉真は少し考えて、言葉を選ぶ。
「……利知未さんだったら、何が欲しいと思うっすか?」
「綾子ちゃんとは、趣味が違い過ぎると思うケドな」
「一応、参考までに」
利知未は、敬太から貰ったプレゼントで、嬉しかったものを思い出す。
「……そうだな。 恋人から貰うんなら、相手が好きな音楽CDなんかも、あたしだったら嬉しいな。 ……相手の事を、もっと良く知る事が出来そうだ。 ……後は、会えない時も思い出す事が出来る何か」
「バッグとか、アクセサリーじゃ、ないんすか?」
「だから、あたしだったらって、言っただろう? あたしが、そう言う物を欲しがると思うか?」
笑いながら、利知未が言った。 その笑顔を見て、気持ちが反応する。
「……ソー言うんでイイなら、金もかからなくて助かンだけどな」
「花束でも、喜ぶモンだよ。 女は。 ま、そうでないコも、タマには居るか?」
「そのヘンが、良く判らないンすよね。 コッチは」
「少なくとも綾子ちゃんは、花束でも喜ぶタイプだと思うケドな」
クスリと笑う。 そう言う印象だ。 ……控えめで、大人しい。
物よりも、心を欲しがるタイプだろうと思う。 倉真の事を、もっと知りたい気持ちが強そうだ。
「ケド、反って買い難いな……。 ソー言う物は」
「だろーな」
声を上げて利知未が笑う。
明るい表情に、倉真は少し複雑な思いだ。
『彼女の事を相談して、こう言う顔されるってのは……、ナンか、口惜しい感じがするぜ』
何故だろう? ……彼女の、特別な存在に成りたいのか?
結局、プレゼントは決まらないまま、その日は利知未と別れた。
倉真が帰宅したのは、十時頃だ。 それでも、飲みに行ったにしては早い。
何時もキーホルダーを買って来た倉真が、今日は忘れたと言って、名産品だけ綾子へ渡す。 酒の摘みっぽかったので、聞いて見た。
「ビール、飲む?」
「イイ。 風呂、入ってるか?」
「うん…。 温め直すね」
頼む、と言って、着替えを取りに部屋へ入る。 連絡を貰っていたので、綾子も今夜は、一人で夕食を済ませていた。 明日の朝食で、倉真分の惣菜を出そうと思い、片付ける。
……けれど、倉真の様子は、やっぱりおかしいと感じる。
倉真は、帰宅して綾子を見て、やはり妙な気分になった。
『……綾子が居るのは、当たり前なんだよな。 一緒に、暮らしているんだ』 求めている姿は、別人だと思う。 一緒に晩酌をしたい相手も、……違う。
利知未と酒を飲んでいた時間が、楽しかったと思う。
『利知未さんとは、昔からの飲み仲間だしな……』 そう、理解する事にした。
……それでも綾子とは、シックリいかない感じがする。 綾子自身が、以前よりも引き気味だ。
綾子は、倉真の気持ちを知りたいと思うのと同時に、知ってしまったら、ショックを受けてしまいそうな、嫌な予感にも捕われていた。
一週間は、そのまま、何事も無く過ぎた。 土曜の昼頃、何時ものようにテントを借りに行こうかと、倉真が出掛ける準備をしていた。
綾子も土曜、午後休みを貰っている。 日、祝、土曜午後は、学生バイトがいるからだ。 バイトを始めた頃からそうだった。
帰宅した綾子が、倉真が出掛ける所にぶつかる。
「また、今夜から出掛けちゃうの……?」
そうだとしたら、四週連続だ。 ……不安になる。
「何処か行きたい所でも、あるのか?」
「…そう言う訳じゃ、無いけど」
「…そーか。 ンじゃ、構わネーよな?」
直ぐに返事が来ない。 倉真は立ち止まり、綾子を見る。
綾子は俯いている。 暫く見詰めて、小さく溜息をついた。
「……そーだな。 ここんトコ、連続だ。 …今夜は、止めにする」
綾子が、顔を上げて言った。
「倉真……。 最近、優しいね……」
「優しかったら、ナンか悪―のか?」
「…違う。 嬉しいけど……」
「ケド、ナンだよ?」
綾子はじっと、言葉を選んでいる。 ポツリと、言った。
「……喧嘩していた時の方が、倉真の事、判っていた気がする……」
なにも、言えなくなる。 ただ、ジッと綾子の様子を伺った。
「…ね、倉真。 ……私、変わった?」
「何時からの事、言ってンだ?」
「初めて、倉真に会った頃。 ……倉真は、前から優しかったけど、素直じゃなかったから」
「……優しくなんか、ネーよ」
小さく首を振る綾子に、倉真が答えた。
「お前は、前より元気に成ったな…。 …元気な時が、あったよな」
小さく、自嘲的に笑った。 ……元気じゃなくなったのは、俺が利知未さんの事を、女として捉え直した頃からだ。
「……今の倉真には、私は……。 邪魔なだけ見たい」
呟いてしまって、後悔した。 涙が、溢れ出した。 向きを変えて、逃げ出した。
追い掛けようとして、倉真は止まった。
『……もう、ダメかもしれない。 アイツの事を、好きだと思えなくなっている……』
嫌いに成った気も無い。 けれど、……愛しさも感じられない。
綾子は、克己の所へと向かった。 倉真の事で相談出来るのは、綾子にとっては、克己だけだった。
泣き晴らした目をした綾子を、克己は一晩、泊めてやった。
二人の事は、最後まで自分が、責任を持ってやらなければ成らない。 と感じている。
……自分の、お人好しさ加減を知った。
けれど、ココから二人がどうなろうとも、口を出す気は無い。 そこまでは、するべきではない、と思った。
翌朝、実家へ戻ると言う綾子を、克己はバイクで送って行った。
玄関先で、ヘルメットを返して貰いながら、聞いた。
「どれくらい振りだ?」
「……一年、半くらい」
「一人で、入れるか?」
「…大丈夫です。 …ちゃんと、両親に謝らないと」
綾子は微かに、笑顔を見せた。 ……これ以上は、自分が関わる事ではない。
「…ソーか。 …倉真には、オレが言っておく」
「お願いします。 ……克己さん、最後に、教えて下さい」
無言で問い返す克己に、綾子が真剣な目を向ける。
「利知未さんは、本当に、克己さんの……?」
……騙し通しておこうと思う。
「彼女だよ」
「…そうですか。 …そうですよね。 ……倉真、可哀想」
綾子は一瞬、俯いてしまう。 ……倉真の事、好きだけど……。
好きだからこそ、彼の重荷に成るのは、やっぱり嫌だと思う。 それに、心が離れた彼と、これから先に生活して行っても、哀しいだけだ……。
「送ってくれて、ありがとうございます。 ……落ち着いたら、また、会いに行っても良いですか?」
倉真のその後を、教えてもらいたいと思う。
「構わネーぜ。 ……じゃーな、元気でヤれよ」
頷く綾子に軽く手を上げ、合図をして、走り去った。
綾子はバイクを見送ってから、深呼吸をして、玄関へと向かった。
十
克己がアパートへ戻ると、倉真がバイクに寄りかかり、タバコを吸っていた。 克己の姿を見止め、タバコを足元へ捨て踏み消した。
「…綾子、出て行った」
「解ってる。 …実家へ、送って来たぜ」
「…ソーか。 迷惑かけて、悪かった」
「……お前、利知未の事が好きなのか?」
「……自分でも、良く解らネー。 ただ、綾子よりは、気に成り出した」
「勝手なヤツだな」
「…ソーだな」
「どっか、走りに行くか?」
「……江ノ島、行かネーか?」
利知未と克己が、初めて会った時に向かった先だ。
「…イイな。 行くか」
二人で、バイクをスタートさせた。
数日後、倉真がバイトへ出掛けている時間に、綾子は一人で戻った。
両親には、たっぷりと叱られた。 けれど、前より気丈に成って戻って来た彩子を、少し嬉しそうな顔をして、受け入れた。
バイト先へも連絡を入れた。 あの土曜で、辞めた事に成る。 給料だけは、以前から使っていた口座へ、振り込んでくれる約束だ。 仕事は真面目だった綾子だ。 怒りながらも、手が足りなく成る事をぼやいていた。
荷物を纏めて、鍵をテーブルの上へ置いて、最後に掃除と洗濯をして、倉真のアパートを出た。
これから綾子は、新しいバイトをしながら、定時制の高校へ通う。
随分、遠回りをしてしまったが、自分を取り戻させてくれた倉真の事を、恨んではいない。
……まだ、心が立ち直るまでには、時間が掛かりそうだ。
春休みに入り、始めのアダム定休日を、利知未は佳奈美との約束に充てた。
三月二十二日、映画を奢る事になった。 アニメ映画だった。
去年、バレンタインデー前日、由香子を連れて行った時の事を思い出す。 同じ映画館だった。 利知未はやっぱり、途中で少し眠ってしまった。
見終わり、映画館を出る前に、佳奈美のクラスメートと鉢合わせた。
「佳奈美ちゃん! …あれ? お兄さん、いたっけ?」
利知未を見て、勘違いする。 ……まだ、やっぱり女には見えないらしい。 そう思い、自分に呆れて笑ってしまう。
「利知未は、お兄さんじゃないモン、お姉さん!」
「え? ソーなの!? 格好イイ、お姉さんじゃん」
お姉さんに、格好イイと言うのは、誉め言葉なのだろうか……?
「城西中学の、卒業生なんだよ。 今度、図書室で昔の卒業アルバム、一緒に見てみようよ」
佳奈美の言葉に、利知未が反応した。
「そんなモン、置いてあったか?」
「在るんだな、これが。 一学期は図書委員してたから、詳しいよ?」
自慢げに笑っている。 利知未は、櫛田や橋田達の卒業アルバムを、見たいと思った。
「貸し出しは、してネーよな?」
「残念、閲覧だけ! だから、さっちゃん。 学校始まったら、見に行こうよ」
「面白そう! 久世、りちみさんって言うの?」
「違うよ。 瀬川 利知未って言うの」
「瀬川、利知未さん? お姉さんじゃ、無いジャン!」
「お姉さんで、イイの!」
「ま、イーケド。 …ちょっと待って…。 あの、斎藤貴子って、知ってます?」
「斎藤貴子? …もしかして、貴子の妹か?」
弟がいる事は、知っていた。 妹は、居なかったとは思う。
「従兄弟のお姉さん。 アルバムで思い出した! 小学校の時、貴子ちゃんから卒業アルバム見せて貰った事、あったんだ」
意外な縁に、利知未は驚いた。 久し振りに、貴子に会いたくなった。
その日、帰宅してから貴子へ電話をした。 貴子も大学生だ。 春休み中に、一度会おうと約束を交わした。
勢いで、皐月と瀬尾との約束の日、貴子も誘ってしまった。
貴子が、利知未のバイト中のアダムへ来た時のことだ。
「三年ぶりくらい? 利知未に会うの」
「まだ、三年は経ってないと思う。 …FOXの、ラストライブ以来か?」
「え? 利知未ちゃん、ナンかやってた事あるの?」
暇な時間で、休憩時間に入っている。 賄いを食べながら話していた。 利知未の隣に居た皐月が、驚いて聞いた。
「利知未、中学から高校二年の始めまで、FOXってバンドで、歌ってたンですよ」
貴子は相変わらず、積極的だった。 もの怖じないで皐月に答える。
「へー。 そうだったんだ。 おれも初めて聞いた」
カウンターの中から、瀬尾が言った。 可愛い貴子に、少し興味を持った。
「ソー言えば、高坂と、まだ付き合ってンのか?」
利知未は話しを変える。 あの頃の事を、話題にしたくは無いと思った。 ……気恥ずかしい感じだ。
「高校までは、付き合ってたけど。 あいつが働き始めちゃったから、時間が合わなくなっちゃったんだ」
「…ソーか。 アイツ、ナンの仕事してンだ?」
「スポーツクラブで働いてるよ。 インストラクターじゃ無いけど」
「日曜祝日が、忙しい仕事だな」
「ソー。 だから、自然にネ」
話しが変わって、皐月と瀬尾の興味が反れた。 それから四人で話している内に、次の定休日の約束に、瀬尾が貴子を誘った。
遊びに行った日も、会えなかった三年近くの話しに、盛り上がった。
貴子は、駅伝で区間賞を貰った事がある事を、話してくれた。
従兄弟の『さっチャン』のことも、話した。 これを切っ掛けに、また、連絡を取り合うようになった。
貴子が、瀬尾からアタックされ始めたのは、それから間も無くの事だ。
こちらは、どうやら新しい恋愛が始まりそうだ。
倉真から、綾子と別れた話しを聞いたのも、この春休みの事だ。
四人で遊びに行った後日。 四月頭の、日曜の事だった。
倉真は、利知未のバイト終了時間に間に合わせて、アダムの鈴を鳴らす。
皐月が案内してくれた。 今日は、利知未がカウンターに居た。
「例のヤツ、頼ンます」
そう言って椅子に掛けた倉真を、利知未は一瞬、心配そうな目で見る。
マスターは、今日も自分の前に居る客へ、珈琲を出す。 そして、二人をチラリと見る。
『彼が一番、ココへ来る回数が多いな……』 そう見る。 恋愛関係ナビゲーターとしての、勘が働く。
『コイツは、ひょっとするかもしれないな……』 微かに、笑みが零れた。
常連が、マスターの表情に突っ込んだ。
「何か、楽しい事が見つかりましたか?」
「…ええ、少し」
微笑を浮かべたまま、客に答えた。
マスターの前に居るのは、定年になったばかりのサラリーマンだ。 かなりの珈琲党で、日曜は必ずこの時間に現れる、初老の紳士だった。
「やっと、平日の昼間から、ココの珈琲が飲める身分になりました」
彼はそう言って、マスターへ微笑を返した。 マスターは、彼を労った。
「お勤め、ご苦労様でした。 今後ともよろしくお願い致します」
……この人は近々、春休み中の里真に、新聞の解説をしてあげる事になる。
利知未のバイト後、何時もの居酒屋へ行った。
バッカスでは、宏治や準一、和泉も居る事が多い。 少し報告し難い気もする。 ……利知未には、先に伝えようと思った。
腹を満たして、今日もサワーで飲み始める。 利知未が話しを向けた。
「今日は、彼女に連絡しなくても、イイのか?」
倉真とココで話しをするのは、何時もその事絡みだ。 何気なく聞いた。
「……綾子とは、別れました」
少し驚いた。 けれど、突っ込む気は無い。 ……元々、綾子は倉真と違って、生活態度も真面目な少女だった。…収まるべき鞘へ、収まっただけだ。
「ま、恋愛なんて、どう転ぶか解ったモンじゃネーしな。 彼女の為には、この方が良かったのかもしれないな」
言葉を切って、一つだけ聞いた。
「ちゃんと、実家へ戻れたのか?」
「それは、大丈夫だったみたいっす。 ……先月の中頃に、部屋にあった荷物が無くなってて、手紙が、あったンすよ」
「ソーか。 …なら、それでイインじゃネーか? ……お前は、平気なのか?」
「…俺の、所為だと思うンで、…平気ですよ」
酒を煽る。 利知未は優しげな瞳で、倉真の横顔を見ている。
『弟、みたいなモンだからな』 労わってやった方が、イイかも知れない。
「部屋、引っ越そうと思って。 コッチで、ナンかイイ物件、あったら教えてもらえないっスか?」
「探すだけ、探しておいてやるよ。 ケド、宏治達の方が、地元の事情には詳しいかもしれないな」
「…っスね。 相談して見ます」
未成年と言う事で、また保証人を探す必要もある。 今度は、克己にでも頼んで見ようかと、考えていた。 宏一でも良いかも知れない。
今度の引越し先は、妹にだけは知らせておこうと、考えていた。
利知未は翌日、克己とツーリングへでも、行きたい気分になった。
綾子の事は、克己も知っているだろう。 少しだけ、不安が浮かんでいた。
「マスター、今月の日曜休み、次の日曜に貰ってイイですか?」
帰り際、カウンターを片付けるマスターに声をかける。
「次か? …大丈夫だな」
シフト表を確認して、すぐにOKを貰った。
「久し振りに、珈琲でも飲んでいかないか?」
「…ソーですね、酒じゃなきゃ、ヘーキそーだ」
ニヤリと答えた利知未に、マスターがシブイ顔を見せた。
「まだ、そういう事を言うのか? 余り苛めるな」
「女は、受身ですから」
「お前に限って、それは無さそうだな」
「ドーユー意味ですか。 …ったく」
少し仏頂面をしながら、カウンター席へ掛けた。
「赤毛のモヒカン、…倉真だったか?」
珈琲を出しながら、マスターが言う。
「倉真が、どうかしたのか?」
少し慌てる。 自分の前では、何でも無さそうに見せていたが、もしかしてマスターには、何か打ち明けていたのかも? と思う。
「やけに慌てるじゃないか。 気になるのか?」
「…気になるって言うか。 アイツは、仲間内で見てても、何と無く心配になる。 ……あたしの中学時代に、似てると思わないか?」
「そう言うつもりで、見た事は無かったな」
「…ナンか、やったのかと思った」
「そんなに危なっかしいヤツでも、無いだろう?」
言われて、ン? と思う。
「それって、あたしは中学時代、危なっかしく見えていたって、事か?」
「見えていなかったと言えば、嘘になるな」
「……どーせ。 …で、ナンか、あったのかよ?」
膨れっ面になる利知未を見て、マスターは微かに予感した。
……利知未から見ても、倉真は少し、特別なヤツかもしれない……。
「いいや。 ヤツには、彼女は居るのか?」
「誰かに紹介でも、頼まれたのか?」
「単なる興味だ」
「……別れたばっかりだって、言ってたな」
マスターは確信する。 ……ヤツは、利知未を気にしている。
「好い相手が居たんだな。 …見掛けよりも、イイ奴そうじゃないか?」
「あたしのダチに、芯から腐ってるような奴は居ネーよ」
「…そうか、ダチか」
呟く言葉に、利知未は不可解な顔をする。
「昔、一度だけお前が連れてきた、気合の入った奴は、今どうしてるんだ?」
「気合の入った奴?」
「リーゼントで、垂れ目の先輩だ」
「櫛田センパイの事か? …多分、寿司屋で板前修業、頑張ってると思う」
「そうか。 その内、様子を見に行きたいと思わんか?」
「…行って見たいのは、山々だけどな。 寿司なんて、高くて手が出ネーよ」
「佳奈美の成績がまた上がったら、奢ってやるぞ?」
「マジかよ? ドー言う風の吹き回しだよ」
「タダの気紛れだ」
「…ンじゃ、マスターの気が変わらない内に、佳奈美の家庭教師でもしに行ってヤるか」
「そうしてやってくれ」
「今度の定休日にでも、邪魔するよ」
会話をしながら、タバコを一本吸い、珈琲を飲み干した。
「そろそろ、帰らないとな」
十二時前には、克己に連絡を入れ様と思う。
席を立つ利知未に、挨拶をして送り出した。 ……アイツ等のことは、長い目で見てみよう。 そう、考えていた。
櫛田を思い出したのは、自分が知っている限りで初めて、利知未が気に入った男だろうと、感じた覚えがあったからだった。
克己に連絡を入れて、次の日曜、ツーリングへ行く約束をした。
「他のメンバーは?」
「…今回は、あたしが克己に相談事があるんだ」
「…綾子の事か?」
「ソー言う事。 だから、二人の方がイイ」
「…分かった。 何処へ行く?」
「そーだな、久し振りに、箱根でもイイな」
何時も通り、バッカス前で会おうと決めて、電話を切った。
間の木曜は、約束通りに佳奈美の勉強を見に行った。
新学年が始まる前に、一年の頃に判らなかった部分の、総纏めをした。
「時々、家庭教師しに来てあげてくれる?」
夕飯をご馳走になりながら、智子に言われた。
まだ、少しチクチクする部分はある。 けれど、学校が始まってからでも、木曜の夜、時々は来る事を約束した。……このチクチク感が収まって行くのを、確認して行きたい。
「家庭教師代、払った方が良さそうね」
「構いませんよ。 …マスターには、何時も世話になってますから」
「そう? そう言って貰えると、助かるわ」
答えながら、それでも少しは包んであげようと、考えていた。
佳奈美も、利知未に教えてもらう方が、嬉しいらしい。
「利知未、内の子になりなよ?」
無邪気な事を言う。 困ったような笑顔を見せて、利知未が言った。
「お母さんが、若過ぎるだろ? 母さんじゃなくて、姉さんになっちまう」
「お姉さんも良いわね。 じゃ、旦那の実家に養女に入って貰わなきゃ」
笑いながら会話をする女三人を、マスターは渉を構いながら、横目で見ていた。 …時々、冷やりとする事もある。
従業員に手を出した、罰が当たっているのかもしれない。
ツーリングの朝、克己が出掛けようとした所に、綾子が現れた。
「ごめんなさい。 出掛ける所ですか? 出直します」
すっかり落ち着いた様子を見せる。
「少しくらいなら、平気だ。 …元気そうだな」
「…何とか、滑り込みで定時制の高校へ合格しました。 三日前から学校が始まって。 生活が変わったら、何時までもクヨクヨしていられなくて」
「イイ事じゃネーか」
「今日は、利知未さんとデートですか?」
「…ま、そんな所だ」
利知未と二人で出掛けるのは、嘘ではない。
「相変わらず、仲が良いんですね。 ……倉真は、どうしてますか?」
「少しは、反省してるぜ。 ケド、相変わらずだ」
「じゃ、まだ片思い、ナンだ……」
克己は流石に、心苦しくなる。 ……何時まで、騙しておくべきか。
「でも、元気なら、それで良いです。 …ちょっと、複雑だけど」
「…だろうな。 アイツが片思いで無くなる時は、オレが振られた時って事になる。 どうなるかは、解らネーな」
「……私は、二人共、応援してあげたいけど。 でも、口惜しいから。 克己さん、頑張って下さいね。 …時間、遅れちゃいますね。 また、その内に」
「…ああ」
短い会話を終えて、綾子が帰って行った。
十分程、約束の時間に遅れた。 利知未は怒らないで、笑顔で迎える。
何時か、宏治と倉真と四人で行った、箱根のツーリングコースを辿った。
休憩所で、利知未が話し出した。
「去年、克己と恋人の振りしたのが、倉真達に何か、影響して無いかと思ったンだ」
綾子に、影響したのではないか? と考えている。
克己は、倉真に影響したと見ている。
「アンタの不安は、綾子か? 倉真か?」
「綾子ちゃん、元気にしてるのかな」
「…今朝、会ったぜ」
びっくりして、克己を見る。
「元気そうだった。 アイツは、もう平気だと思う」
今朝の様子を、話して聞かせた。 倉真の事については、触れないでいた。
今の利知未の不安は、綾子の事だ。 それを解消してやる事が、大切だ。
「……そうか。 定時制の高校、行き始めたんだ。 …良かった」
ホッとした利知未が、女らしい笑顔を見せた。
「利知未は、今、好きな奴はいないのか?」
急に聞かれて、戸惑った。 ……マスターの事を、聞いてもらったら、楽になるのだろうか?
「…克己の事も、好きだぜ?」
「兄貴、センパイ、だろ? …ソー言うんじゃ、無くってよ」
「……終わらせないと、いけない人がいる」
克己には、素直に話せる気がした。 けれど、心配はさせたくない。
「身内か?」
「……身内って言えば、身内だな。 …大人の、男」
やはり、心配になる。 ……コイツは、困った妹だ。
「良く解らネーケド、終わらせる気は、あンだな?」
「…そのつもりだよ。 …ヘーキだ。 心配、しないでくれよ?」
「無茶な事、言ってくれンな、アンタも」
首を竦めて、溜息をつく。 利知未は克己に、情け無い笑顔を見せた。
「ごめん。 言っといて、そりゃ、無かったよな。 …ケド、一人で考えてるよりは、楽になれた気がする」
「コンなモンで、楽になれンのか?」
「誰にも、言えないでいたからな。 …ヤッパ、克己は兄貴だ。」
「困った妹がいたもんだ。」
腕を組んで、利知未を眺めた。 困った兄貴の顔だ。
「もう少し、時間は掛かりそうなんだ。 ケド、ナンとかなりそうな気がして来た。 …サンキュ」
礼を言われて、複雑な思いがする。
「アンタは、強い女だな。」
自分には、手に追えないような気がする。 綾子に応援されても、こればかりはどうにもならない。 やっぱり妹だと、再確認した。
「……オレからも、相談なんだけどな」
切り出されて、首を傾げて克己を見た。
「綾子に、何時まで嘘を付き通す?」
「……墓の中まで、って訳にも、いかなそうだ」
タダ、もう少しは、そのままにしておいた方が良さそうな気もする。
「……一応、相思相愛なんだし。 自然に、その内別れるか」
「意味の違う、相思相愛だケドな」
利知未に言われて、そう考えれば、もう暫く嘘をついている事も、楽に感じられそうだと思った。
……確かに、今はまだ、時期早々だ。
「心苦しい感じが、してるんだな」
詳しい感情の行き来は良く解らないが、克己は綾子と、まだ会う事もあるのかもしれない。 克己に、申し訳無い気がした。
「…ンじゃ、もう一度、振りでもして、気分を盛り上げとくか?」
悪戯っぽい笑顔を見せて、利知未が言った。
「勘弁してくれ。 …本気で手を出したくなったら、ドーすんだ?」
「ンな、女っぽくはないだろ?」
「……ソーでも、無かったと思うぜ」
倉真が、あれから利知未を気にし始めたのは、確かだと思う。
「理性ってのは、完璧なモンでも、ネーからな」
「……その通りだな」
克己の言葉は、痛い所をついていた。 自分を振り返って思った。
「冗談はおいといて、そろそろ走るか」
「ソーだな」
休憩所を後にして、昼飯を取って帰る事にした。
大学二年の新学期は、四月十日から始まった。 今年も一週間の様子見をして、前年度とバイト事情が変わった。 今年は、月曜は無理そうだ。 変わりに火曜が大丈夫そうな感じだ。
ついでだったので、日曜をもう一日休ませてもらおうと思った。
皐月もすっかり、一人前だ。 カウンターは、マスターと瀬尾がいれば、昼間は大丈夫そうでもある。
今年のバイトは、火・水・金・土曜と祝日が基本だ。 日曜は各週で決めて休みを取る。 それでも、便利時間バイトだ。 決まった日曜に確実に休みを貰うのは、不可能かもしれない。
里真は春休み、平日のアダムで、初老の紳士と知り合った。
新聞を興味半分で眺めて、事件のあらましが気になった記事があった。
春休みは、昼間も入ることが多かった便利時間バイト、瀬尾を捕まえて説明を頼んだ時。 近くの男性が、感心して話してくれた。
「新聞を読むのは、良い事だね」
自分の娘は、高校時代に新聞を開いていた所を、見た事がないと言っていた。 それで、解り易く説明してくれた。
何度かそんな事があり、そのうち利知未に見咎められた。
それは、新学期が始まってからの、日曜の事だった。
倉真は、四月の中旬に、バッカス近くのアパートを見付けた。
月末には、引越しをして来た。 今回は、克己と宏一に、保証人を頼んだ。
以前の不動産に比べて、いくらか審査が軽い場所だった。
今までのアパートで、家賃を溜める事も無く、二年近く生活して来た事で、そう言う面での信用が比較的、簡単に取れた。
仲間が近所に勢揃いだ。利知未も、嬉しいと思う。
利知未が、この街に来てから七年目の春は、仲間達と一緒に迎えた。
利知未シリーズ大学編 第二章 了(次回は、12月21日 22時頃 更新の予定です)
大学編・二章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。<(__)>
高校編までの話と比べて、少々、違う面でヘビーとなって参りましたが……。(やはり恋愛ネタは、成長物語には欠かせない要素なのでしょう、と思います)次章まで、まだ利知未の気持ちの問題は、続いていきます。
変わらず、お付き合いいただける事をお祈り申し上げます……(−人−)
次章『絆の始まり』は、また二部分に分けての同日更新となります。
本編を書き始めた切っ掛けになった、由香子関係の中篇読み切り作品がありまして、その第二段を追いかけながら、ストーリーが進んでまいります。
そして、将来の利知未と倉真にとって、大事な出来事となるお話です。
来週も、無事予告時間までに、皆様とお会い出来ますように、頑張ります。 よろしくお願いいたします。