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一章 愛情の形 後編

《一章 愛情の形 6》

  「何か、企ててるんじゃないだろうな?」

  「とんでもない。 来週、利知未が休みを貰いたいそうですよ?」

  「そうか。 翠、出れるか?」

  「今、その相談をしていた所です」

  利知未も、シラを切ってマスターへ言った。

  「分かった」

  短く了解をして、マスターはカウンターへ入り、仕事に戻った。

  瀬尾が休憩を終え利知未と交代した。 休憩時間、翠の隣へ座って

  賄いを平らげながら、何気なく佳奈美の予定をマスターに尋ねた。


一章  愛情の形  後編(7 〜 11)

 

         七


 六月二週目。 利知未は変わらず、月・水のバイト後、一時間ほどはバッカスで飲んでいた。 二日とも、和泉と準一が一緒になった。


 水曜日。 久し振りに倉真も現れた。 何時も通り十一時半近くなり、利知未が顔を出す。 カウンター席の顔ぶれを見て、嬉しそうに声をかけた。

「久々、何時ものメンバーが揃ったな」

「倉真が来るってコトは、また! 彼女を、怒らせちゃったって事になるラシーけどね」

準一が、余計な情報を落とす。 早速、倉真に小突かれる。

「片っ端から、バラしてンじゃネーよ!」

「ご機嫌斜めだな。 今度は、何したんだ?」

言いながら利知未が、空いていた倉真の隣に座った。

「何したってンじゃ、ないんスけどね」

「また、彼女ほったらかして、遊び歩いたとか、そう言う事か?」

杉村達と久し振りに会い、宴会をしたのは確かだ。

 その日、深酒をして、そのまま泊まってしまった。 翌日、直接バイトへ出掛けて帰宅した時、既に綾子は、手におえない状態だったと言う。

「つまり、無断外泊?」

準一が聞いた。 面白がっている。

「それだけで怒ってんなら、まだ簡単だ」

事情を説明したが納得してもらえず、別の疑惑を持たれたらしい。

「俺が、そんなにモテる訳はない、とでも、言ってやったらどうだ?」

和泉が、からかい半分、笑いながら言う。

「ウルセー! テメーだって、モテねーだろーが」

「荷物はかなりの量、持てるぞ?」

利知未は二人の会話に笑ってしまう。

『コイツ等、すっかり仲良くなったな』 そう思い、嬉しく感じる。

 この仲間が集まって酒を飲む時、以前は真面目一筋だった和泉の肩から、すっかり力が抜けている。


「モテるモテないの話しなら、佐久間さんが良いネタになるな」

 宏治が、倉真の空になったロックグラスへ、ウイスキーを注ぎ足す。

「なんだよ? また、宏治のファンに手、出したか?」

利知未が聞いた。 宏治の表情が、微妙な角度に歪む。

「ファンっての、変な感じだな。 …まぁ、そんな所ですけどね。 昨夜も、顔出してたンですよ」

「で、オネーサマ方の一人と、夜の街へと消えて行った……、か?」

倉真が、大して面白くも無さそうに突っ込んだ。


 ツーリング後、アダムでの会話を聞いて、倉真も哲の性質をこう理解している。 ……どうやら、とんでもない女好きらしい。


「その佐久間さんと言うのは、そんなに女好きなのか?」

 メンバーで哲を見知っていないのは、和泉だけだ。

「かなり、だろうと思うぜ?」

「あれは、殆どビョーキみたいに見えるな」

倉真は、変な疑惑を綾子から向けられている、自分と比べて思う。 ……あいつに比べれば、自分はまだマシな奴だろう。

「ケドさ、そんなに誘うの上手いなら、オレ、ナンパの極意を教えてもらいたいけどな」

軽い準一の言葉に、利知未が小さく笑って答えた。

「お前にゃ、無理だな。 アイツの方法は、金がかかると思うぞ?」

「遊ばせる金があるから、あーゆー方法が使えるんだろうな」

宏治は今まで、哲がどうやってホステスを誘い込んでいたか、確りと観察済みだ。 哲の武器は、高い酒だ。


 高価な品は、やはり二流・三流の品と比べても、かなり飲み易いものだ。 普段、余り飲まない女性や、ここへ来る前、仕事で散々お客の相手をして飲んでいる筈のホステス達も、かなりの量が進んでしまう。

 ……利知未も、あの夜。 随分な量を飲み干していた。


 見た目もキザな色男だ。 その上、金持ちと来て、美味い酒をガンガン振舞う。 豊富な戦歴を持っているのだろう。 自身はそれ程、酔ってしまわないペースを、とことん守り通す。


「準一が哲のマネしよーと思ったら、先ずは酒に強くなるか、自分の酒の量を計算してセーブする技を、体得する必要が有ると思うぜ?」

「そりゃ、無理だ! オレ、自分の限界、シラねーモン」

「知らないって言うか……。 お前の場合、自分が何処から酔っ払ってるのかも、気付いていないな。 何時も、利知未さんに水をぶっ掛けられる」

和泉の言葉に、利知未も頷く。

「ソーだな。 あたしも、準一に水掛けてる回数が一番多いと思うぞ…? 今日は、まだ平気そうだな」

ロックを飲みながら、利知未がニヤリと笑った。


 久し振りにメンバーが勢揃いした事でもあり、利知未は月曜日より、三十分ほどは長居をした。十二時を回って一時間くらいは、今日は二人で来店したホステスとまた、一緒になって飲んだ。

 深夜一時頃、明日も学校があるからと、一足先に帰宅した。


 倉真はこの夜、宏治の部屋へ泊まり込んだ。 翌日、杉村達と宴会をした日と同じ様に、そのままバイトへ向かい、仕事を終えてから夕方帰宅した。

 勿論、綾子との喧嘩はエスカレートした。 考え無し、そのモノだ。


 哲は、今週の火曜日も空振りだった事になる。 しかし、ホステスの一人をホテルへ連れ込んだ事で、身体の欲求不満だけは解消した。 それでも、物足りなさは感じる。

……寂しさを共有できる相手としての利知未が、今の自分には必要だと、始めて気が付いた。



 利知未達が、久し振りにバッカスへ勢揃いした翌日の木曜日。

 哲は再び、バッカスへ足を向けた。

 欲求不満を解消する為とは、別の目的で利知未に会いたくなった。

『……心を満たす為に会いたくなる女は、アイツだけだな』 ……円を、別として。

 自分のプライドの高さが、大切な恋人を失う切掛けとなった、と。

 今、漸く認める事が出来た……。


 円の前で、素直な気持ちを表す事が出来なかった。 そこから生まれるジレンマがあった。

 欲求不満を解消する為に、女を誘う。 その時には、いくらでも優しい言葉も態度も、思ってもいない愛の言葉も、すらすらと口を付いて出て来る。

 ……幼い頃から感じてきた寂しさと、そこから滲み出す雰囲気は、女を落とすには、この上ない武器となる。

 遊び相手を得るためになら、手段として表現できる自分の情け無さも、本気で愛した円にだけは、どうしても見せる事が出来なかった。

 ……そんな情け無い姿は、円にだけは見せたくなかった。 本当は彼女にこそ、自分の寂しさを埋めて貰いたかった。


 円の大学時代の親友は、哲自身ではなく、バックに有る財力に興味を示した。 『この女は、何故、円の親友でいたのだろう?』 そう感じて、妙に苛立った。 それと同時に侮蔑した。

 哲は、冷ややかな企てを持って、彼女の誘いに乗った。


 それが、円を失う切掛けになるとは、その時は思ってもいなかった。



 利知未は、木曜日。 バッカスへ顔を出す。

 今日も、バイト日以外で現れた利知未を、少し目を丸くして、宏治と美由紀が出迎える。

「今日は、子供を手懐ける方法を、美由紀さんに聞きに来た」

二人の無言の質問に、利知未は、ふざけた軽い口調で答えた。

「子供を手懐けるって、誘拐でもするつもりですか?」

「ちょっと宏治! 穏やかでない事、言わないで頂戴。 客商売ナンだから」

利知未は軽く、吹き出してしまった。

「あたしがンな事、する訳ネーだろーが」

「そーですか? 利知未さんなら、やりかねない」

「宏治! 止めて頂戴! …やりかねないから、恐ろしいのよ」

「ッタク、親子で言ってくれるよな」

少し膨れて見せた利知未に、二人は笑う。

「普段の行いの賜物ね」

「ワルかったな。 非行少年、地で行く生き方で」

「一応、非行少女って、言うんじゃないっスか?」

「言ってろ。 …冗談は置いといて、普通の中一の女の子は、何が楽しいんだろうな?」

「やっぱり、誘拐?」

「マジな話しだよ、止めてくれ」

佳奈美を連れて、何処へ行こうか思案中なのは本当だ。 呑気にロックを飲みながら、事情を説明して意見を仰いだ。

「ショッピングなんか、楽しいんじゃない? 私も、もしも娘が居たら、一緒に出掛けて見たかったわ」

「それは母親心って、ヤツか? 娘心は、とっくの昔に忘れたとか」

「それを言うなら、利知未の方が良く解っていても、可笑しくは無いと思うわね」

「利知未さんじゃ、息子心になりそうだ」

「テメー、ヨク言ったな。 ……店が終ったら、覚悟しておけよ?」

ふざけて、指の関節を鳴らして見る。 美由紀が呆れて突っ込んだ。

「その行動が、息子心に近いと言われる、所以でしょ。 イイ加減に、もう少し女らしくなって貰いたい所だわね。 そのままじゃ、お嫁の貰い手も無くなりそうよ」

「そーしたら、宏一か宏治に貰ってもらおうか?」

「あら! それは名案ね。 それなら思う存分、暴れてくれて良いわよ? お嫁に来てから、私がじっくり特訓してあげるわ」

「また、言ってるぜ」

「墓穴掘っちまった」

 情け無い顔をする娘と息子に、美由紀が勝ち誇った笑みを見せた。



 直ぐに何時もの常連が顔を揃える。 美由紀は今日も、ボックス席に移動してしまう。 それから暫くした頃、偶にに来る雑貨屋のご隠居が中心の、塾熟年カップルも四人で現れる。 美由紀は益々、忙しくなる。

 宏治も、摘みの用意が忙しくなる。 作業をしながら、利知未とも話しを続けている。

 ……和やかな空気が変わったのは、更に一時間経った頃だ。


 哲が、九時半過ぎに顔を出した。


 美由紀は、哲を笑顔で迎え入れながら、内心で利知未を心配する。 宏治も、客として哲を笑顔で迎え入れ、キープボトルを用意する。

 利知未は以前と変わらない態度で、哲に接する。 美由紀や宏治の前で、怪しげな雰囲気を見せる事は、元から無いことだ。

 しかし、今夜の哲は、何時もとは酒の飲み方が違った。


 女を誘惑する時は、自分は酔わないペースを守るヤツだ。 けれど今夜は、お構い無しな感じがする。 利知未がペースを落として、哲に付き合った。


 今夜も車で来たと言う。 それにしては、飲み方が激しい。 利知未は十一時を回る頃、黙ってソフトドリンクへ切り替えた。

『今夜は、あたしが送る事になりそうだ』 そう感じたからだ。

常連組が帰り、ホステス達が来店する少し前、酔った哲に肩を貸して、車まで連れて行った。

 キーを借り、利知未がハンドルを握って、哲のマンションへ向かった。



 肩を貸して、哲の部屋まで入る。 随分、酔っ払っているが、それでもまだ飲み足りないと言って、哲はやや覚束ない足で、キッチンへ立つ。

 アイスペールを用意し、危ない手付きでアイスピックを使っている。

「危ネーな。 代わるよ」

小さく溜息を付き、哲の手からアイスピックを受取った。

「…済まないな」

小声で言って、哲はリビングのソファへ向かう。 そのまま、凭れる様にして腰を下ろした。

ポケットを探り、タバコを出して火を着ける。 前屈みになり、膝に肘をつき、目頭の辺りを片手の指で挟んでいる。

 利知未はアイスペールとグラスを持って、リビングへ入った。

「……今夜は、とことん飲みたい気分だ」

「…飲み仲間は、必要か?」

「……傍に、居てくれ」

 小さく頷いて、隣に掛けた。 ロックを作って、哲に渡す。


「……今のオレは、利知未にはどう見えている……?」

 ロックを煽り、哲が呟くように問い掛けた。

「どう、見られたいと思う?」

「質問してるのは、オレだ」

「……小さく、見えるよ」

 利知未の答えを酔った頭に反復させ、今はプライドが邪魔をしていない事を感じる。

「…そうか。 小さく見えるか…。 これが、本当のオレなんだろうな」

再びロックを煽る。 空になったグラスに当って、氷が鳴る。

「……アイツの前では、この姿を見せられなかった」

利知未が哲のグラスへ、ブランデーを注ぎ足した。

「…臆病だな」

利知未の呟きに、哲は自嘲的な笑みを浮かべる。

「…そうだ。 …だから、虚勢を張る」

「その癖、寂しがりだ。」

「アイツから、愛想を尽かされるのが、恐ろしかったんだ。」

「…そうなんだろうな」

『……男って、皆、そうなのかもしれないな』 利知未は、心の中で呟く。


 誰かの特別で居たい為に、無理をして格好つける。 ……その行動は、女には可愛く見える事もある。

『無理しちゃって』 そう感じながら、自分に良い所を見せようとする男の幼さに、女は母性をくすぐられる。 ……そう感じられない男は、その女にとっての特別には、成り得ない……。

好きと嫌いは、表裏一体だ。


 ……その姿をイヤらしいと感じる男に、女の貴女は、惚れるだろうか……?


「……好きだと言ってくれる女に、素直になれなくてどうするんだよ?」


「……愛する事は、信じる事か」


「愛してるって想いは、相手のマイナスの面まで愛しみ、……許す事。 あたしは、そう思ってる」

一度、言葉を切り、利知未は続ける。


「信頼は、二人で作るモノ。 お互いを許し合い支え合うことで、少しずつ形が見えてくる。 ……ケド、心の形は複雑で、何時も姿を変えるから、チョットでも目を話した隙に、見えなくなってしまう」

「……そんな時は、どうすれば良いんだ?」

暫く考える。 首を傾げながら、利知未が言う。

「……視点を少し変えて見るとか、冷静になって整理してみたりとか。 ……少し遠く離れて見るのも、タマには効果的なのかもしれないな? その内、光りが射して、その輪郭を教えてくれる……。 だったら、イイな」

「……だったら、イイな、か」

哲が、小さく笑う。 利知未は自分のロックを作り、喉へ流し込む。

「あたしは、まだ十八だぜ? …ンな、完璧な答えなんか、持ち合せてるワケがネーだろ?」

「……それでも、女の心は、オレには解らない」

「コッチも男の心なんか、解らネーよ。 …お互いサマだ」

舌を出し、アッカンベーをして見せた。 少しだけ気分が解れて、哲は微笑する。 利知未も微かな笑顔を返す。


 手を出したい衝動に駆られ、哲は、その想いを引き込める。 今の想いは酒の勢いだと、自分に確認する。


 衝動を押さえて立ち上がり、寝室から薬を持って出て来た。

「二日酔い防止か?」

「いや、違う」

キッチンへ行き、服用してから答える。

「眠剤代りだ」

「……待てよ。 まさか、市販の頭痛薬か?」

「そうだ」

利知未が慌てて立ち上がり、哲の手から包装を取り上げる。 裏に書かれた文字を確認して、哲をキツイ目で見る。

「何時も、やってるのか?」

「どうしても、眠れない時はヤる」

 一瞬、哲の胃を洗浄しようかと身構え、手を止める。 睡眠薬を大量に服用した訳ではない。 返って良くないと、思い直す。

「酒と一緒に飲むな!」

厳しい声を出す。 哲は面食らう。

「…そうか、医大だったな。 医者の卵の前で、する事じゃなかった」

「そう言う問題じゃネーよ! マジ、ヤバイことだぞ? ……哲、お前、死にたいのか?!」

半分叫んで、目に涙が溜まりかける。

「死」と言う言葉は、利知未にとって、なによりも辛い言葉だ。

 ……裕一、由美、真澄……。  三人の顔が、脳裏を走る。


 利知未の目に、微かに滲む涙に、哲は本気で驚いた。

「……お前、泣いているのか…? …大袈裟だな。 タイした事じゃ、無いだろう?」

「ナンで死ぬかもしれない事を、タイした事じゃない、なんて言えるんだ? ……あたしは」

もう、イヤなんだ、と、言葉が続かない。

 溜まった涙が零れない内に、利知未はそっぽを向いてソファへ向かう。

「……ソファで寝るよ。 毛布を一枚、貸してくれないか?」

驚いたまま、哲は黙って毛布を取りに行く。

「お前が、ベッドを使えば良い」

言いながら、就寝準備をしようとする哲の手から、毛布を引っ手繰るようにして取る。

「……構うな…! ……お休み」

利知未は毛布を被って、そのままソファへ横になった。



 翌朝、寝起きの悪い哲を起こさずに、メモに自室の直通番号を書き残し、利知未は黙って、哲の部屋を後にした。



         八


 下宿へ戻ってテキストを持ち、朝食も取らずに大学へ向かう。 ……何も食べる気には、なれなかった。


 大学で、浮かない顔で過ごす利知未を、透子は暫くそっとしておいた。 こう言う時の利知未は、触らぬ神に祟り無し、の扱いが一番だ。

 昼頃には気を取り直して、透子を誘って学食へ向かう。 何時も通りのクダラナイ話しをし、気を紛らわせた。


 一日の予定を淡々とこなして、一段落した時。 また、気になり始めた。

 昨夜はやはり、今までの哲とは、様子が違っていた。 ……後悔、しているのだろう。

『参ったな。 ……やっぱ、気になる』  ほっとく事は、やはり出来ない……。

バイト後、少しだけ、様子を見に行こうと思った。

 進路を変え、哲のマンションへ向けて、バイクを走らせた。



 倉真と綾子の喧嘩は続行中だ。 それでも昨夜は、無断外泊二度目の穴埋めに、大人しく部屋で過ごした。 綾子は、口を聞いてくれなかった。

 今夜は、バッカスへ出掛けて行く。 口を聞かない綾子と過ごすのは、正直、キツイ。 カウンター席で、和泉と飲んだ。

 準一は金が入用な事があり、今日は夜間バイトに精を出している。


 準一に、何となく付き合っている様な感じの、彼女? が、出来た。

 休みの日に二人で遊びに行く、くらいの関係である。 デート代が必要になった。 バッカスでの酒代とバイク関係の金で、今の所、一杯一杯だ。

 その点は、今のバイトの仕方が、準一にとっては丁度良い。 必要な分だけ、短時間で稼ぐ。


 暫く二人で飲んで、カウンター内の宏治と三人で話し、その内、騒ぎたい気分になる。 ……騒がしさの種、準一が、こんな時に限って居ない。

「ったく、間がワリーな」

「どうやら今夜は、静かに飲みたい心境でも無さそうだ」

仲間の中では、物静かな和泉だ。 倉真のイライラを感じ、困った様な笑いを宏治に向ける。

「みたいだな。 何時もは利知未さんも、顔を出す時間ナンだけどな」

時計を確認して、軽く首を傾げる。

「あのヒトも、気紛れな所があるからな。 今夜は、もう来ないんじゃないか?」

「かもな。 …もう一組の常連組が、そろそろ顔を出す時間だよ」

商店街店主組は、少し前に帰っていた。


 直ぐにホステス達が、今夜は四人揃って来店した。

「なーに? 今日は、利知未が居ないね。 倉真君、ドーした?」

恭子が真っ先に声をかける。 陽気に酔っ払っている。

「久し振りじゃない? 佐久間さんも、今夜は居ないのね」

千春が、揃っている顔触れを素早く確認した。

「ナニよ、お持ち帰り希望だった?」

洋子が突っ込む。 少しバツが悪そうな顔をして、千春は椅子にかける。

「そー言えば、俺は、まだ一度も噂の男を見掛けていないな」

和泉が思い出した様に言った。 倉真は振り向き、恭子に言う。

「丁度良い、今夜はイイご機嫌だな。 看板まで、騒がネーか?」

「ナンか、むしゃくしゃしてンのね。 イーわよ、任せなさい!」

空いているボックス席へ移動して、恭子と洋子、倉真が騒ぎ出した。

 宏治を構っていた千恵美も、途中から参加する。


 和泉は当てが外れた千春と、静かにカウンターで飲み始めた。

「ナンか、ウチのお店みたいな雰囲気になったわね」

「何時も、ああ言う感じなんですか」

「そーよ。 恭子の席は、何時も大騒ぎ。 それが好きなお客様が、彼女のご贔屓さん。 成人したら、皆で遊びにおいで」

「…考えておきます」


 美由紀が、何時もの常連が座っていたボックス席を片付け終わって、カウンターへ入った。 今度は、宏治をボックス席へ出す。

 千恵美が大喜びで、宏治に抱き付いた。 ……これも、サービスである。



 下宿では、時計を眺めた里沙が、小さく溜息を漏らしている。 0時を回っても、利知未は戻らない。 昨夜も戻ってこなかった。

 仕事を片付けながら、二時過ぎまでは待っていようと決めた。 その時間になっても帰らないなら、今夜も戻らないだろうと思う。

『やっぱり、新しい相手が出来たのね』 その予想が今夜、確信に変わった。

外泊の連絡は入っていない。 手塚宅へ泊まるのなら、いつも0時前に必ず電話が入る。 里沙は、美由紀には感謝している。

 その内、お礼に伺わなければと、思っている。


 そして、里沙のこの夜の確信は、ここから五日間の利知未の行動で、完全に固まる事となる。



 マンション前、街燈の明かりの中へ、利知未のバイクが滑り込んだ。

 エンジンを止め、ヘルメットの風除けを指で押し上げて、七階を仰ぎ見る。 哲の部屋には、明かりが灯っている。

 何処かの女を、連れ込んでいたらどうし様か? と、一瞬思う。

 暫く、そのまま考え、心を決めてバイクを降りた。 もし女が居るのなら、部屋から出ては来ないだろう。


 エレベーターで七階へ向かった。 真っ直ぐ、哲の部屋前へ進む。


 ドアチャイムの音に、始めは気付かなかった。 気晴らしに、久し振りにキャンバスの前へ座っていた。 何を描こうか考え、利知未と円の顔が浮かんできていた。 イメージを固めるため、音楽を掛けようと立ち上がり、漸く二度目のチャイムに気付く。

 インタフォンを取り、小さな画面に映る顔を確認した。 その姿に驚き、返事もせずに、急いで玄関の鍵を開ける。

「利知未……」

「女、連れ込んでなかったな」

「…この部屋へ呼ぶのは、お前と…、…円だけだ」

「……そーか」

 哲に無言で促され、利知未は玄関へ、足を踏み入れた。


 リビングへ入り、今夜は哲が、飲んでいなかった事を知る。

「良かったよ。 また、昨夜みたいな事してたら、張り倒そうと思ってた」

「穏やかじゃないな。 …流石に、反省させてもらった」

利知未を、じっと見つめている。

「……お前の涙は、他の女の涙よりも応える」

 少し俯いた姿勢のまま、哲の視線を感じていた。 やがて、呟いた。

「……あたしは、死って事に、敏感なんだよ」

……詳しく語るには、辛過ぎる……。

「頼むから、二度と危ないマネ、しないでくれよ……?」

顔を上げ、哲の顔をじっと見つめ、言った。

「……昨夜は驚いた。 それ程、大変な事とは思ってはいなかった」

「そうだろうな。 …そう感じてるヤツの方が、多いよ、きっと」


 ソファの近くで、二人は立ったまま、話している。


「実際にあんな事で人が死んだなんて、余り聞かないからな」

「……確率的には、少ないんだと思う。 ……ただ、あたしの前では」

「お前を不安がらせるような事は、もう、しない事にしよう」

「ソーしてくれ。 …でなきゃ、本気で泣いちまうぜ?」

 利知未は、蘇り掛けた大切な人達との、別れの悲しみを押さえ込む。 何とか哲に、微かな笑顔を作って見せた。

「分かってはいるんだがな。 …薬を処方する為に、病院に行かなければならないのが、面倒だ」

「哲!」

「判っている。 もう、やらないと言っただろう? ……信用してくれ」

険しい顔になった利知未に、真面目な目を向けた。

「オレは、お前が本気で泣き出したら、多分、何も出来なくなる」

 哲が、情けの無い笑みを見せる。


 その結果、利知未まで失うのは、ごめんだ。 円の他に唯一、心を惹かれる女。

 ……その愛情の形は、少し違っている……。 ……心で抱きたい女、そう感じている。


「今夜は、酒は無しだ。 薬も飲まない」

 衝動に従って、理由を探す。

「……安眠の為の、協力をしてくれないか?」

 少し不思議な感情が、利知未の中でも生まれ始める。

「……とんだ、殺し文句だ……」


 まだ、愛情よりは同情かもしれない。 けれど、もう一つ……。


「……マジな誘いなら、女としての、身支度の時間をくれないか?」

「化粧でも、するのか?」

「昨夜から、風呂入ってない」

 利知未の言葉に、軽く吹き出してしまう。

「気を反らすヤツだ。 …オレは、気にならないが?」

「あたしは、気になる。 …待つのがイヤなら、NO。」

「…仕方ない、譲渡しよう」

クスクスと笑いながら、風呂の使い方を説明した。


 シャワーを浴びて、さっぱりした気分になる。 バスタオルだけ身体に纏って、リビングへ出た。 その利知未の姿に、哲は改めて見惚れる。

「……ナンだよ? …恥かしいから、アンマ見るな」

素面でじっくりと観察し、そのスタイルの良さを、再確認する。

「…勿体無いな。 …もっと普段から、女らしい格好をすればイイ」

少し剥れて、利知未は勝手に照明を暗くした。

「……気が、反れる」

その照れた態度に、可愛らしさを感じる。 利知未が、自分より七つも歳下だったことを、チラリと思い出す。

 利知未の細いウエストへ腕を回し、寝室へと移動した。


 哲との、3度目のその夜。 利知未の心が、少しだけ反応した。

 酒の勢いで関係した時には、感じられなかった部分があった。


 利知未の反応が変わった事に、哲も気付く。 心で抱く、その事の違いを、十八歳の女に教えられた。 ……そして。


 ……円への想いを、捨てられない自分の心を、改めて確認した……。


 哲は再び、ジレンマに襲われる。 ……二人の女への、形の異なる愛情……。



 利知未は、哲の心を身体で感じた。 ……円の事を、考え始める。



『哲が惚れているのは、あたしじゃない』 それは、別れた恋人、円だ。

 けれど、昨夜。

『アイツがあたしを抱いたのは、寂しさの穴埋めだけじゃなかった……』

 ……円の、代わりでも……。


 利知未は今、大学へ向けて、バイクを走らせている。


 今朝は、初めて哲と関係した翌朝と同じ様に、二人で向かい合って朝食を取った。 照れ臭さを隠して、何時も通りの会話をした。

 照れ臭い、その感情。 ……それは、今までの関係からホンの少しだけ、何かが変わり始めた、その証……。

 それなら、哲に対しての気持ちは、どう変わったんだろう?

 まだ本心から、……恋愛感情で愛しているとは、自分で思えない。

 お互いの、寂しい気持ちの共有者。 そこから、スタートする愛情。


 ……これは、愛情と呼べるのだろうか……?


 それでも、今まで以上に、彼の事が気になり始めた。

『円さんは、どう思っているんだろう?』

哲が、本当に惚れているのは円だ。 それは、変わらない。

 酒の勢い抜きで、本音を隠さずに抱かれたから、改めて気付いた。

『半分、遊びでシタ時とは、やっぱり違うから……』


 哲との関係を思い悩むその雰囲気は、久し振りに、利知未が本来持っている、女としての色気を滲ませる。

 本人は全く自覚無いその部分に、敏感に気付いたのはやはり透子だった。 今日も大学で、そこの所を突っ込まれる。


 利知未はバイトを終えてから、再び哲のマンションへ向かった。



 円は大伴と、二度目の約束をした。 今夜も二人、夕食を共にする。

 哲への想いは、取り戻し掛けている。

 けれど、最後の裏切りは、円の頭から離れない。

『このまま、哲ちゃんと会っても、どうしようもないから……』

 それなら、新しい恋に……。 自分を好きだと言ってくれる相手に、もう少し心を開いて見たら、どうなるだろう……?

『大伴さんの良い所も、探して見てあげよう……』 怖気が立つほどの、嫌悪感を持っている相手ではない。

 今までは、ただの同僚。 けれど、会社での評判も悪くは無い。 真面目な人だ。

 ……女性に対する真面目さは、仕事に対する真面目さも同じ……。

 少なくとも、哲と付き合っていた時みたいな心配や不安感は、感じさせないでくれそうだ。

『物足りない…?』  浮かんできた言葉には、目隠しをする。


「……僕といても、詰まらない?」

 いきなり、大伴の言葉の意味を理解した。 そこまでの会話は、上の空だった。 誤魔化して、笑顔を作る。

「そんなこと、無いです。 大伴さん、釣りが好きなんですか?」

「少し、違うな。 海が好きだから、今度、挑戦してみたいなって」

「…ごめんなさい、ちょっと、ボーっとしてたみたい」

大伴が、少し悲しそうな笑顔で、小さく首を振った。

「気にしないで。 それより、ここのデザートは美味しいと評判だよ。 何か、頼まない?」

「甘い物、平気なの?」

「恥かしいけど、実は好きなんだ。 今度、ホテルのケーキバイキングにでも、行かないか?」

 円は曖昧な笑顔を作って、小さく頷いた。



 マンションの鍵は、開いていた。

「…哲?…入るぜ?」

声を掛けても、返事がなかった。 真っ直ぐリビングへ向かって行く。


 ソファに凭れた姿勢で、眠り込んでいる哲を見付けた。

「飲み掛けて、眠ってるぜ」 呆れて呟く。

 良くも、酒が零れない物だ。 哲の手の中で、氷が溶けて薄くなったロックが半分、微妙な角度でグラス内に留まっている。

 その手から、グラスをそっと取り上げた。 気配に、哲が目を覚ます。

「声かけても返事がないから、勝手に上がってきた」

哲は少し驚きながら、小さく嬉しそうな表情を見せる。

「今日は、来ないと思っていた……」

「邪魔だったか? …やっぱ、気になった」

「何がだ?」

「また、薬飲んでヤしないかと思って」

「…信用が無いな、女との約束は守る」

漸く、目が覚め始めた。

「来ないと思ってた割には、鍵、開いてたぜ?」

「…期待は、していたからな」

 素直な言葉に、心を少しくすぐられる。

「飯、食ったのか?」

「夕飯は食ってないな。 …それより、飲まないか?」

「空きっ腹に酒は、身体に悪いぜ。 ナンか、摘みでも作るか?」

「ロクな物は入っていない。 どうするんだ?」

「…そうだな。 冷蔵庫と相談デモするか」

グラスを哲に渡し、キッチンへ向かった。


 利知未は残り物で、野菜スティックのベーコン巻きと、自分の夕飯に和風パスタを作った。 そのまま、摘みにも流用した。

 二時過ぎまで飲み、キッチンを片付け、シャワーを借りてから、今夜はベッドを借りて眠った。 哲も、今夜は大人しく寝た。


 翌朝、八時過ぎに起きた。 朝から、サイフォンを使って珈琲を淹れる。

 哲が起きるまでの間、新たに増えたレポートを上げる為、本を読む。


 起き出してきた哲と向き合い、今朝もトーストとカップスープで、朝食を済ませた。

「また、意外な特技を持っていたものだな」

「料理だろ? 良く、言われる。 好きなんだよ、面白いから」

「コックでも、目指せば良かったんじゃないか」

「喫茶店経営ってのは、中学の頃、夢の一つだったな……」

進路について、裕一と話した時の事を思い出す。

「色々な才能があって、羨ましい事だ」

「哲も絵、上手いじゃないか?」

「アレは趣味だ。 仕事にはならない。」

「そーか? …あたしは、美術は嫌いだったからな」

「そんな雰囲気だ」


 何でも無い会話をしながら、食事をする。 こんな時間を共に過ごした事があるのは、円と利知未だけだ。 ……やはり、特別な女達だ。

 ……このまま、もしも円の事を忘れる事が出来るのなら、利知未と……。

 今の哲にとって、利知未は、そんな位置に居る女だった。


 十時近くなって、利知未が出掛ける。

「今日は、女子中学生とデートの約束があるんだ」

笑いながら言って、玄関を出る利知未に、哲は自分がいない時、鍵を何処においているのか伝えた。

「……今、オレの部屋に来るのは、お前だけだ。」

 哲の言葉に微かな笑顔を見せて、利知未が軽く頷いた。



         九


 佳奈美との約束は、昼からだった。 一端下宿へ戻り、講義のテキストを置いて行く。 買い足したい資料もあった。 本のタイトルを確認する為、バッグを開いて見て、一冊足りなくなっている事を知る。

『哲の部屋へ、忘れて来たか……?』 今朝の行動に思い至り、それに気が付く。

『…シャーネー。 佳奈美を送ってから、取りに戻るか。』

 提出期限と課題本数を考え、今日中に取って来る必要を感じた。


 服を着替えて、階下へ降りる。 昼食の準備を始めていたのは、本日の当番、美加だった。 危なっかしい手付きに、つい手を出す。

「包丁の持ち方、違ってるぞ。 …貸してみな」

美加が、嬉しそうな顔で利知未を見上げる。 葱を小口切りにしながら、利知未が言った。

「何、作る気だ?」

「うんとね、おソーメン、茹でるの。 美加、難しいのは出来ないから」

「じゃ、コッチやってる内に、湯を沸かせ。 …水の量、少な過ぎだ」

チラリと、美加の用意している鍋に目を向ける。 鍋も小さい。

 包丁を置き、大きな鍋を用意して水を張る。 溜まるまでに、葱の続きをとっとと終わらせてしまった。

「美加、いっぱい入ってるのは、重くて持て無いよ?」

「それでどうやって、湯で零す気だったんだ?」

結局、利知未が六人分の用意をしてしまった。 美加は生姜を擦った。


 用意を終えてから、時間を見る。

「ヤベ、遅刻だ!」

徒歩で行く予定だったが、バイクで向かう事に決めた。 慌ててバイクのキーを取りに、部屋へ戻ろうとする利知未を呼び止め、美加が言った。

「りっちゃん、ごめんね、ありがとう」

「気にすンな」

「あのね、二十三日は、絶対、お泊まりしないでね!?」

「…来週の金曜か。 バイト日だから、遅くはなるぜ?」

「でも、帰ってきてね?」

「分かった、じゃーな。 …ソーメン運ぶ時、重いから気を付けろよ」

「はーい! 行ってらっしゃい!」

美加に見送られ、キーを取ってきて、バタバタと玄関を出て行った。



 バイクで佳奈美を迎えに行った。 久世家の玄関先に、バイクを置かせてもらう事にした。 中学生を、タンデムシートへ乗せる気は無い。

 十分の遅刻だった。 佳奈美は少し膨れていた。

「利知未、遅刻!」

「悪い、勘弁。 ナンか買ってヤるから、機嫌直せよ?」

佳奈美は誰に似たのか、物品にやや弱い。 直ぐに機嫌が直った。

「ゲンキンなコね……。 悪いわね、宜しく頼むわ」

智子が少し呆れた顔をして、利知未に笑顔を見せた。


 来る前に、本屋へ寄るつもりだった。 それを断念したので、出掛けている途中で本屋に寄ってもらった。

 佳奈美の希望で、元町の商店街でのショッピングとなる。 十分の遅刻の代償に、中学生が持つには、少し値の張る麦藁帽子を買わされる。

 デザインは可愛かった。 佳奈美の好みだ。 つばはそれ程広くなく、薄いピンクの、水玉模様のリボンがアクセントになったモノだった。

 その後、喫茶店でケーキとジュースを奢ってもらい、佳奈美は上機嫌だ。

 お土産に、パン屋の菓子パンと、クッキーまで買う……。 偉い出費だった。 それでも、目的は果された。

「翠姉ちゃんのお願いかぁ……。 イイよ? 協力したげる。 その代わり、」

今度は、可愛らしい髪留めをねだられた。

『翠に半額、請求しよう』 顔では笑顔を作りながら、心の中でそう思った。


 佳奈美を送り届け、その大荷物に、智子が恐縮し捲る。

「イヤだ、佳奈美ったら。 何処でそんなマネ、覚えてくるのよ?」

今日、佳奈美を遊びに連れて行った目的を、勿論、智子は知らない。 佳奈美に隠れて、今日の出費を清算すると言われたが、丁寧に断った。

 久世夫妻への裏工作だ。 金を払われたら、意味が無くなってしまう。


 お茶をご馳走になり、再びバイクへ跨ったのは、七時過ぎだった。

 一度、下宿へ戻ろうと思ったが、哲の所へ行く時間が遅くなり過ぎてしまう。 そのまま、マンションへ向かった。



 マンションに着いたのは、八時になる頃だ。 朝、教えて貰った場所に鍵があるか確認する。 今は在宅中で有る事を知る。

 真っ直ぐに部屋へ向かい、チャイムを鳴らして見る。 今日も返事が無い。 ノブを動かして、また鍵が掛かっていないことを確認する。

「無用心だな」 小さく呟いて、静かに扉を開いた。


 声をかけても返事がない。 念の為、女物の靴が無いか確認して見る。 哲の靴しかないことを見て、奥へと進んだ。 リビングを入ると、照明だけが着いている。 主の姿は無い。

「……哲?」 不安に襲われる。 ……まさか、また、薬を飲んで、今度こそ……?


 耳を済ませて、シャワーの音も、トイレの音も無い事を確認する。 寝室を覗き、趣味の部屋も覗く。 そこにも居ない。

 仕事部屋を覗いて、パソコンデスクに突っ伏す哲を見付けた。

 慌てて近付いた。 寝息が聞こえて来た。

「……良かった……」

 力が抜けた。 膝が折れる。 死んでいるのかと、一瞬びっくりした。

 小さな声と気配に、哲が浅い眠りから目覚める。

「利知未……。 どうした?」

利知未の、ただ事ではない様子に、今度は哲が慌てる。

「…忘れ物したんだ」

力が抜けたまま、利知未が言いながら立とうとする。 少しクラリとした。 慌てて立とうとし過ぎた。 ……自分の勘違いは、知られたくない。

 哲が、ふら付く利知未を支えた。 利知未は直ぐに復活して、普通に立つ。


 リビングに移動して、忘れ物を見つけた。

「あった。 悪い、仕事の邪魔した」

そのまま玄関に向かおうとした利知未を、哲が呼び止める。

「貧血は、治まったのか?」

「タイした事は無いよ。 帰って、レポートやらねーと」

「帰らないと、進まないのか?」

「…今の所は、そうでもネーけど」

「本を読むだけなら、ここですれば良い」

 手を出そうと言うのではなく、ただ、居て欲しいと思った。

「オレも、今夜は徹夜だ。 眠くなったら、勝手にベッドを使ってくれて構わない。 戻る時間が、もったいないだろう?」

 言いたい事は伝わった。 少し考えて、利知未が言う。

「それなら、電話だけさせてくれ。 流石に四連泊、連絡無しじゃ、里沙に怒られる。」

「下宿の大家か?」

「ああ。 …美人だぜ?」

ニ、と笑った利知未に、微笑を返す。

「…そうか、それなら今度、挨拶させて貰おうか?」

「男は、居るみたいだけどな」

「残念だな。 …電話、しておけ」

仕事部屋へ入り掛けて、もう一言付け足す。

「シャワーも、好きに使って良い」

「そうだな、貸してもらうよ」

 

 その夜は、このリビングで2冊の本を読み切った。 途中でシャワーを借りて、それから二人分の夜食を作った。

 三時過ぎまでかけて読破し、要点をメモってから、ベッドを借りて眠った。 哲は、本当に徹夜で仕事を上げていた。


 朝、講義のテキストを取りに戻ってから、大学へ向かう。 その為に、七時半頃には出ようと、仕度をしていた。

「昨夜は、眠れたのか?」

水を飲みに来た哲が、徹夜明けの眠そうな顔で問い掛ける。

「ああ。 四時間は寝た」

「そうか…。 仕事は、片が着きそうだ。 …今夜、お前の飯が食いたいな」

そう言われて、少し目を丸くする。

「今日はバイトだぜ? 夕飯じゃなくて、夜食になっちまう」

「返って丁度良い。 オレも仕事が片付いたら、少し眠ろうと思っていた。 目が覚めるのは多分、九時過ぎだ」

利知未は少し考えて、頷いた。

「分かった。 何が食いたい?」

「何でも良い。 利知未は洋食派か?」

「どっちかッテーと、和食派だな」

「お前の、得意な物で良い」

「了解。 じゃーな、遅刻しちまう」

「朝の挨拶は、無いのか?」

「そう言う関係でも、ネーだろ?」

「相変わらず、味気ない事を言うな。」

呆れた顔を見せる。 利知未は小さく笑ってしまった。

 擦れ違いざまに、軽く頬へキスをしてやった。

「物足りないな」

哲が手を伸ばす。 利知未は得意の合気道で、その手を掴み上げる。

 驚いた哲に、ニヤリと笑って見せる。 痛みを感じる前に手を離して、擦り抜けて行った。 靴を履きながら挨拶をする。

「じゃーな、…行って来る」

玄関を出て行く利知未を見送り、哲は仕事部屋へ戻って行った。



 下宿へ戻り、急いで着替えて、荷物を持った。 ダイニングへ寄って、トーストを咥えた。 慌しい利知未の様子に、里沙が呆れ顔だ。

「今夜は、キチンと戻ってくるんでしょうね?」

聞かれて、少しバツの悪い顔になる。 パンを頬張ったまま、短く応えた。

「…夕飯、いらネー」

牛乳でパンを流し込んで、里沙から突っ込まれない内に逃げ出す。

「行って来る」

「ちょっと、利知未…!」

「遅刻しちまう。 じゃーな!」

利知未はバタバタと、出掛けて行った。 里沙は腰に両手を当て、小さな溜息をついて見送った。


 大学では、朝一番に会った透子から、突っ込まれた。

「また、偉い重そうジャン?」

二日分のテキストを、持って来ていた。

 今夜、バイト後に哲の所へ行くのなら、どうしたって朝帰りになる。 それなら、持ち返る必要の無い物だけ、大学へ置いておいた方が慌てないで済む。

 生徒一人一人に宛がわれたロッカーへ、今日いらないモノだけ、積め込んだ。

「…チョットな」

「男?」

「…似たようなモン」

曖昧に答える。 透子が、ニヤニヤする。

「妊娠には、気を付けてね」

「勝手に言ってろ」

言いながら、自分でも一瞬ドキリとする。 今月の予定日は、まだ十日は先の筈だと、頭で確認する。

 ……先週の金曜日は、ヤバイ日だったかもしれない……。



 講義の後、買い物を済ませてから、バイトへ向かった。 厨房の高林に両手を合わせて、業務用冷蔵庫の端を借りた。

 夜のカウンターで、相変わらず男前な雰囲気で仕事をしている利知未を見て、高林がマスターに、こっそりと呟いた。

「アレで中々、モテるみたいですね」

「利知未か? …それなら、もう少し女らしくなっても、可笑しくは無い筈なんだがな」

「いやいや。 昔に比べたら、よっぽど娘らしくなってますよ」

高林に言われ、マスターは改めて、利知未の様子を眺めた。



 倉真はこの土日を、綾子のご機嫌取りに充てていた。

 土曜日はバッカスには行かずに、真っ直ぐ帰宅して、大人しく過ごす。

 翌日、最低限の言葉しか発しない綾子を、半分無理矢理、連れ出した。


 金曜日、ホステス達から、入れ知恵をされて来ていた。 最近、女性に人気のスポットへと、綾子を連れて行った。 倉真は、余り好きではない感じの場所だ。 滅多にしないプレゼント攻撃などして見る。

『……俺は、何をやってンだ?』  心の中でだけ、ぼやいて見た。


 丸々一日、我慢と努力の甲斐があり、今回の事だけは、何とか収束を見る事が出来た。 しかし、出費は痛かった。

 新しいバイクが、また一歩、遠退いてしまった……。


 綾子は、始めて宝石を貰った。 高価な物ではないが、誕生石をあしらった、可愛いデザインネックレスだ。 倉真が、バイク購入の為に貯めていた金を、使ってくれた。 気持ちを察して、許してあげようと思った。

 ……タダし、また同じ事をされたら、今度はもっと尾を引くだろう……。


 今回、倉真の無断外泊数、1週間で合計・3日。 怒らない筈が無い。

 仲直りから一晩明け、倉真と綾子の朝食風景が、平穏な姿に戻った。



 利知未はバイトを終え、哲のマンションへ向かう。

 十二時前には到着し、一時間弱で食事を作る。 すっかり夜食だ。


 哲は九時過ぎどころか、十一時過ぎまで眠り込んでいた。 丁度、腹も空いた頃だ。

 夜中でも有るし、さっぱりとした味付けの『鳥胸肉の梅肉ソース合え』を作ってみた。 どうしても野菜が食べたくて、サラダも用意する。 ドレッシングは、和風の手作りにした。 味噌汁も作る。

 約一時間で、それだけの料理を仕上げた利知未に、哲は素直に驚いた。


 利知未は、流石に眠くなる。 今朝は四時間睡眠だ。

 それでも軽く酒が入り、つい、雰囲気で、4度目の夜を過ごす。

 明日は、下宿に寄る必要は無い。 八時過ぎに出れば、間に合うだろう。


 そして翌朝、やっぱり寝過ごしてしまった。

 今朝も慌しく部屋を出て行く利知未を、哲は、寝呆けたまま見送った。



 学食で、透子と相変わらずの会話をしながら、今夜こそ下宿へ戻ろうと考えていた。 昨夜の様子と、今朝の状態を考えれば、哲も少しは落ち着いた感じがする。 講義のレポートも三本、纏めが残っている。

 今後の予定を考えて、ふと、円のことを思う。

『やっぱり哲は、円さんと寄りを戻した方が、イイ』


 哲から自分に対する想いは、抱かれる事で気付く。

 今は、少しは愛情を感じられる。 昨夜も、その事は感じた。


 けれど、そもそもの愛情の発祥が、円との別れに寂しさを覚えていた哲の、その想いの摩り替え行為だ。

 利知未がそれを受け入れたのも、敬太との別れから復活した気持ちが、新しい愛情を求めていた、その寂しさが原因だと思う。


 敬太と付き合っていた時に感じていた、彼の存在を強く求める想いを、今、哲に感じる事は無い。……それよりも、哲の心を救ってあげたい、と言う気持ちの方が、上かもしれない……。

 同じ様な寂しさは、多分、自分も知っているから。


 それでも、今の自分は、決して一人きりではない。


 利知未は、5日振りに自室へ戻った。 やっと、マトモに睡眠を取った。

 それから一週間、利知未の無断外泊は収まった。


『でも、いつまで持つのかしら…?』

里沙は、確信している。 ……今の利知未には、新しい相手が出来ている。

 そうなれば、何日も大人しくしていないのが、利知未の行動パターンだ。 気は抜かずに、もう暫く観察をする事にした。

『けど、今回のお相手は、前回とは様子が違うのかしら?』

少なくとも、以前の時と比べて、女らしさが顔を出さない。

 その代わり時間がある時は、店子達。 ……中でも、美加や双子の世話を焼く姿が、多く見られている。 …解り易いコだ…。 と、里沙は思う。

 今回のお相手は、利知未に、世話を焼かせるタイプの男なのだろう。


 里沙の想像通り、それから直ぐ、利知未の戻らない夜がやって来た。

 今度は、夜十時過ぎになって、バイクで出掛けて行った。



 それまでの一週間。 哲は、女を誘いに出掛けなかった。

 今までは、買い物に出掛ける瞬間さえ、手頃な女を無意識に探していた自分が、全くその気になれなかった。

 ……二人の女が、常に心の中に居る……。


 殆ど眠らず、衝動のままに筆を取り続けた。 記憶を便りに、一枚の裸婦画を完成させた。 モデルは、利知未だった。 しかし、納得の行く出来には、仕上らない。

 ……生身の利知未に、会いたくなる……。

 リビングのテーブルに置いてある、メモの番号へ。 始めて電話をした。


 六月二十二日・夜十時過ぎ。 待つ時間が長く感じ、一人、酒を煽る。



 十一時、少し前。 哲のマンションへ到着する。

 鍵が開いたままの玄関を開け、利知未が部屋へ、足を踏み入れた。




         十


 奥へ進んで見て、呆れる。今日はリビングだ。

「哲、どうした?」

ソファに凭れて眠っている、哲の身体を揺する。 軽く眠っていた程度だった。 直ぐに、薄く目を開く。 眠そうな表情で言った。

「……来て、くれたのか」

「死にかけたような声を出されて、あたしが来ない訳、無いだろう?」

電話の声を聞き、また頭痛薬を、酒と一緒に飲んだのかと思った。

「そんな声を出していたのか?」

「判ってネーな、テメーの事が……。 酒の飲み過ぎだろうとは、思った。」

「そうか。 ……座ら無いか?」

促されるまま、哲の隣へ腰掛けながら、利知未が聞く。

「何時頃から、飲んでいたんだ?」

「…八時は、過ぎていた」

哲が、利知未にロックを作って渡す。 受取り、一口飲む。

「それで? 今夜は、どうしたンだ?」

少し、考える間があった。

「酒の相手が、欲しかっただけだ」

「……そーか。 イイぜ、付き合ってヤるよ」

「明日も、大学だろう。 …済まないな」

「今更な事を言うなよ。 …明日は、午前休講だよ」

哲が微かに笑う。 …自分の言葉と、行動がチグハグだ…。 思い付いて、立ち上がった。

「丁度良かった。 仕上げを、手伝ってくれ」

「仕上げ?」

哲は趣味部屋の扉前に立ち、軽く後ろを振り向く。

「酒を、持って来てくれて構わない。 …来てくれ。」

利知未はグラスを持ったまま、立ち上がる。 一足先に中へ入り、明かりを着ける哲の後に続いて、部屋へ入った。


 キャンバスに掛けてあった白い布を、哲が取り去る。 目顔で利知未を傍へ呼び、その絵を見せた。

「……これ?」

「お前だ。」

「……見れば、判る。 ケド、あたしはこんな、女っぽい顔してないぜ?」


 キャンバスの利知未は、優しげに微笑している。 少々、色っぽい表情でもあった。

……利知未は、その絵が自分に見え切らない。

 姿形は、そのモノだ。 けれど、表情の裏側に、別の女の影を見る。

「……優しさが、違う」 哲が、小さく呟いた。 実物の利知未を見て、筆の迷いを実感した。

 動かなくなる哲をじっと見つめて、利知未が静かに言った。

「…で。 これを、どう仕上げるンだ?」

「……」

何も答えない哲に、優しい声をかける。

「……哲。 これは、あたしじゃないよ。」

「……そのようだ」

「哲が、本当に描きたいのは、この絵の裏に居る女。 ……円さんじゃないのか? …ッテも、あたしには、ゲージュツなんて理解出来ないケドな。」

小さく笑って、ロックへ口をつけた。

「ちゃんと、描き直せよ。 本当に描きたいものに。」

「……その方が、良さそうだ。」

「今から、やるか?」

 じっとキャンパスの絵を見つめてから、布を掛け直す。

「明日からにしよう」

「そーか。 …じゃ、もう少し飲まないか?」

静かに踵を返して、リビングへ向かった。


 絵のことには、全く触れない様にしながら飲んだ。

 哲の本音は、利知未には見えている。

 本人は、自分の本心に気付かない。 ……目隠しをしている。


 利知未を愛し始めている事は、自分で解っている。 けれど、円に対する想いは、利知未に惹かれる心に、比例して増して行く……。

 二人の女に対する想いで占められ、今は悪癖が芽を出す隙を与えない。


 暫く飲んで、利知未は少し、意地の悪い質問のし方をしてみた。

「今夜は、眠剤が必要な気分だったのか?」

哲は直ぐには答えなかった。 言葉を選んで、捻くれた方を選択した。

「…そうかもしれないな」

「無遠慮なヤツだな。 もう少し、可愛い答え方を知らないのか?」

「お前の質問のし方が、意地が悪いんじゃないのか?」

利知未は小さく、顔を顰めて見せた。 一瞬で顔を戻し、微かに笑う。

「…まぁ、眠剤変わりでも、構イヤしネーケドな」

「お前は…、…本当に、それでいいと思っているのか?」

「少しは、気にしてくれてるみてーだな」

「……当たり前だ。」

哲は、信じられないと言う顔をしている。

 ……けれど利知未の言葉は、本心ではないだろうとも感じる。

「……円さんとは、もう一度良く話し合った方が、良いンじゃないか?」

 利知未の言葉をじっと聞き、良く考えて、哲が言う。

「……お前が、…イヤ。 俺が、円を忘れる事が出来るのなら、お前は傍に居てくれるのか……?」

 本音の告白と取って、良いのだろうと思った。

 けれど、利知未は小さく首を振った。

「無理だよ。 …あたしの問題じゃなくて、哲の問題だ」

顔を上げ、哲を見つめ直して、言葉を続ける。

「哲は、本当に円さんを忘れる事が、出来ると思っているのか?」

じっと、見つめ合う。 哲の目は、迷いを隠せない。

「今夜は、良く眠った方が良い。 ……ずっと、眠ってなかっただろう?」

利知未から手を伸ばして、囁いた。

「眠らせてやるよ」

唇を重ね、再び離れる。 哲が、利知未のシャツのボタンに手をかけた。


 そのまま、ソファで抱き合った。

 哲の中で、また利知未の占める割合が増える。

 ……それと同時に、円への想いも、また強くなった……。


 利知未の心も、また動いた。 ……段々と、心に哲が、入り込む……。

『でも、だったら、益々……』

 身体の反応が、また少し敏感になる。 ……徐々に、愛し始めている……。

『……ミイラ取りが、ミイラになる……』


 ……こんな愛情の形も、有得るのかもしれない……。



 ベッドへ移動し、利知未の体温を感じて、良く眠った。

 一週間ぶりの、深い眠りだった。利知未も、この夜は良く眠った。


 翌朝、昼近くに起き出した。 珍しく、哲の方が早起きだった。

 哲はリビングのソファで、新聞を読んでいた。

「良く、起きれたな」

下着一枚の姿で、リビングへ出る。

「刺激的な格好だな。 帰したく無くなる」

「ショーがネーだろ? …哲の横の服、取ってくれないか?」

腕で胸を隠して、少し剥れる。

「渡さなければ、出掛けられないな」

面白そうな表情で、おどけた事を言う。

「……もーイイよ、自分で取る」

ソファの後から手を伸ばした。 哲が、素早くその手を掴んで引き寄せた。 そのまま唇を奪って、頭を引き寄せる。 今朝も舌が侵入して来た。

「ン、…ンンン…! 哲、フザケルな!」

無理矢理、唇を離して、利知未が剥れた。

「朝の挨拶が、欲しい所だった。」

「……もう、昼だろ? …学校、行かなきゃならネーンだ」

 剥れた顔のまま、服を拾って洗面所へ向かった。


 身支度を整えて、再びリビングへ出る。 ダイニングへ向かい、珈琲を淹れ、サイフォンの音を聞きながら、眠くなる。

 珈琲の入ったマグカップを哲にも渡して、昨夜の話しの続きをした。


 円と、もう一度会ってみる、と言った哲の言葉に、利知未は笑顔で頷いた。

「上手く、行けば良いな。 …良い連絡、待ってる」

自分の使っていた歯ブラシを、捨てて置く様に言って、玄関を出た。

 二度と泊まりに来る事も、無いだろうと思っていた。

『今の内だな……。 これを越したら、……辛くなる』


 これ以上、哲のことを好きになる前に。

 ……今ならまだ、ミイラになりきっては、いない筈……。


 出掛けの哲との会話で、利知未は今日が自分の、十九回目の誕生日である事を思い出した。 美加に、一ヶ月も前から言われていた。

『十二時前には、帰らネーとな』 バッカスへ回るのも、今日はお預けだ。


 大学では、透子から基礎化粧品と、口紅をプレゼントされた。

「少しは、構ってあげないとね。 綺麗になって、一緒に男漁りに出掛けよう!」

透子の言葉は、本気ではない。 何時もの単なる思い付きだ。 けれど自分のタイミング的には合い過ぎで、利知未は可笑しくなって笑ってしまった。

「それも、タマには面白いかもしれネーな」

そう言って声を上げて笑った利知未と、透子は一緒になって笑っていた。



 バイトまで終えて、十二時少し前に帰宅する。 美加が、起きて待っていた。

 誕生日プレゼントを、どうしても今日中に渡したかったと、ニコリと笑っていた。

『今年の誕生日、受験やなんやで、美加には何も上げてなかったな』

そう思って翌日、大学とバイトの合間に、商店街へ寄って行った。


 美加へのプレゼントを探しに行った商店街で、偶然、準一と見知らぬ少女が一緒にいるのを見掛けた。

『アイツ、いつの間に女が出来たんだ?』 思ったが、準一が気付かない様子だったので、知らない振りをした。 遠目でその相手を見て、準一の好みを知る。

『……結構、面食いみたいだ』 少し、笑ってしまった。

美人タイプではないが、顔は小作りで目が大きく、可愛らしい。 洋服の趣味を見ると、恐らく、歳よりは若く見えそうな感じだ。 ……準一よりも年上かもしれない。

『アイツも、色々覚えちまいそうだ』

 準一の中学時代を知ってる利知未としては、少し不思議な感覚だった。



 利知未は再び、バイト後の、バッカス常連になる。

 哲は、姿を見せなかった。 ……七月の、ある日を越えるまで。

 ホステス常連の千春は、すっかり当てが外れっぱなしだ。 戯れに最近、和泉を構い始めている。 和泉の真面目さが、新鮮に感じられるらしい。


 和泉は、何度か由香子へ、手紙や葉書を出している。 近頃、国際電話もし始めた。

 ……少しずつ二人の関係が、動き始めている。


 宏治も、どうやら、男になってしまったらしい。

 ホステス常連仲間でも、特に宏治にご執心だった千恵美から、何度か誘われた。 客に手を出す気は全く無かったのだが、ある時、酒を過ごした千恵美を自宅まで送るハメに陥った。

 千恵美は味見を終えて、益々、宏治にご執心だ。 ……見ている分には、面白い。


 宏治は確り、美由紀に釘を刺された。

 けれど、仕方が無い事かも、とも思う。 宏治も十八歳だ。 いくら確りしていても、誘惑に勝てるほどの経験は、超えてきていない。

 丁度、そう言う事に興味津々な歳でもある。

「これを教訓にして、お客に手を出す事が、これからは無いように」 そう言い渡して、収めた。


 里真については、まだ、そう言う対象になる相手ではない。 軽々しく手を出して、良い相手だとも思わない。 彼女は普通の女子高生だ。 まだ、二年。

 ……自分達と、世界が違うのも確かだ……。


 七月二週目の水曜・5日から、翌6日へと変わる頃。 利知未は、再び哲から連絡を受け、マンションへ向かった。

 全てが、その日までに、仲間に起こった出来事だった。



 哲はその日、円の絵を完成させた。 利知未の絵を塗り潰して、その上に描いた。

 ……あの絵は、失敗だった……。  そう、感じていたからだ。


 利知未に対する想いも、決して遊びでは無くなっていた。

 それでも、惚れていると感じた利知未の、真実の姿を、キャンバスへ写し取る事が出来なかった。 ……円の絵も、まだ本当の意味での完成とは言えない。


 あの日、生身の利知未に会いたいと思った。

 同じ様に今夜、生身の円に会いたいと思った。

 ……その思いを切掛けにして、円に連絡をした……。


 哲からの連絡を受けて、円は戸惑った。 ……愛情は、消えていない。

 けれど大伴とも、何度かデートを重ねていた。 本気で考えてあげなければと、感じ始めていた。

『もし、今日、哲っちゃんに会ったら……』 ……自分の心は、どんな反応を示すのだろう?


 答えを見極める為に、心を決めて、彼のマンションへ向かった。

 そして、見付けてはいけないモノを見付けてしまった。

 何も言わずに、直ぐに部屋を飛び出した。 ……九時ごろの事だった。



 利知未は、夜中の電話にドキリとした。 ……もう二度と、あの部屋へと向かう事は、無いだろうと思っていた。

 それでも、円とどうなったかは、気になっていた。

 初めは、外で会おうかと言ってみたが、酒に酔った哲の声が、部屋へ来て欲しいと、そう言った。


『どーしよーも無い……。 やっぱり、気になる……』

 二週間ぶりに、哲のマンションへと、バイクを走らせた。


 今日も、鍵は掛かっていなかった。 声を掛けて、奥へと向かう。

 哲がリビングで、ボンヤリと酒を飲んでいた。

「……哲。 今日は、どうしたんだ?」

反応が鈍い。 スローモーションで、軽く顔を上げる。

「酷い顔してンな。 飲み過ぎだ。」

哲が、目は無表情のまま、唇だけで薄く笑う。

「……いきなり、済まなかった」

「円さんとは、話し合ったのか?」

「そんな間も無く、飛び出して行った」

酒を飲み、また止まる。 利知未は、ポケットからタバコを取り出す。

「追い掛けなかったのか?」

一本咥えて、火を着けながら聞いた。 今は敢えて、女の自分を抑え込む。

「……歯ブラシが、見つかった。 …どうやって、言い訳できる?」

「捨てなかったのか? ……バカだな」

「ああ、バカなんだろう。 ……捨てられないさ」

「どうして?」

「…解らないか?」

「解らないな。」

「…惚れた女だ。」

「マジで惚れてる女が、いるだろう?」

「一つじゃないんだ。 感情ってヤツは。」

「……あたしじゃ、哲の心は救えないぜ」

「救いを求めて、お前を抱いたんじゃない。 …イヤ、初めは、そうだったのかもしれない」

「今は、違うのかよ? ……眠れない夜の、睡眠薬じゃないのか?」

「まだ、そう思っているのか?」

「…そう、思わせておいてくれよ。」

「……勝手な女だ」

「……勝手な男だよ」

「…そうだな。 …オレは、勝手な男だ。」

 利知未が、タバコを揉み消す。 その動作を待つくらいの、間が開いた。

「……今は、お前を抱きたい」

「眠剤変わりか?」

「どう思われようと、関係無い。 …理屈じゃないんだ」


 手を伸ばして、利知未を引き寄せた。 哲の目は、真面目だ。

 抗う気には、成れなかった。 されるがまま、唇を重ねる。


「オレは、お前に教えられた」

「……本当に、勝手な男だ。 ……どうして」

 ……ほって置いてくれないんだろう? ほって、置けないのだろう……?

「一番イイ方法を、考えないか?」

利知未が囁く。 哲は無言で、その唇を塞ぐ。 ……そのまま二人、肌を併せる。


 抱かれて、自分の心を知る。 ……愛情を持っているのと、持っていないのとでは、感じ方が違う……。  悦びは、心が合って、感じられるもの。


 それが、哲から教えられた事。  二人が知った、一つの真実。

 同時に、哲の心も知る。  ……愛情の形は、決して一つではない……。


 これを最後の関係と決め、この夜だけは素直に、心から抱かれた。


 そして利知未は、一つの決心を固める。

 ……円だけが、本当の意味で、哲の心を救える……。



 翌朝、利知未から、円をもう一度ここへ呼べと提案する。 ……哲の気持ちは、嘘ではなかった。 自分の中にも、生まれた愛情がある……。

 けれど、もう一つの愛情こそが、彼が本当に守るべきモノ。


 夕方、短い髪を更に短く切り、時間を計って、再び哲の部屋を訪れた。




        十一


 円を、ペテンにかける。 ……利知未は、男の振りをする。

『もう、こう言う事は、しない方が良いんだろうけどな……』 けれど、二人の別れの原因を考える。

 元に戻そうと言うのなら、女の自分は邪魔になる。 ……その存在も、心も。

 邪魔な物は、排除するに限る。 二人の会見の場へ、哲のバイク仲間の少年として、姿を表した。


 歯ブラシの持ち主は、哲のマンション付近で、バイクのエンジン・トラブルを起こし、数日間、泊まり込んでしまった少年。


 髪を切り、身体のラインが解らない様に、優の古着を着た。

 利知未の、その姿と仕草に、円はすっかり少年だと信じ込んだ。


 哲は目を丸くしていた。

 二人きりになったホンの二、三分。 これでサヨナラと、別れの挨拶をした。


 気持ちは、それ程苦しさを覚えなかった。 敬太との別れに比べたら、ナンでもない。 そう思った。


 哲には、本当に大切な女が残る。 二度と、彼女を泣かせるなと、男らしい態度で言い切った。

……これで、The Endだ。

 最後に、哲はガキだと言って、ニヤリと笑ってやった。



 そして利知未は、また一つ。 女としての、自分を知った。

 ……その変化は、開けてはいけない、心の玉手箱を開いてしまう……。


 利知未自身は気付かない内に、静かに……。 封印の帯は解かれた。



 六月三日に利知未と会ってから、一ヶ月を数えた。

 克己は、あの夜の利知未の小さな悪戯に、自分の心を一瞬、見失った。

 そして改めて、考えて見た。 ……アイツに、惚れたのか……?

『……ナンか、違うな』 男女の関係を超えて、どちらかと言えば、兄妹の心境だ。

『…それも、かなりのシスコンだ』 可愛がっている妹が、もしも怪しげなヤツに手を出されかけていたら、兄貴は、きっと心配になるだろう。

 それなら、自分が信頼出来る親友にでも、紹介した方がイイと思うかもしれない。 …どちらかと言えば、そう言う感じだ。


 そこの仮定に行き付くまでに、たっぷり二週間は掛かった。 その間、全く勉強は頭に入らなかった。 元々、教科書は嫌いなタチだ。

『アイツ、どう言うつもりで、あんな悪戯を仕掛けたンだ?』

ただ、面白がられていただけだ。 そう思った。

(アンマリ兄貴が、余計な心配して煩いから、チョイからかってやろう)

そんな感じかもしれない。 ……それなら、その方が気楽だ。


 克己は利知未が、昔の団部先輩の一人と、自分を重ね見ていた事など、全く知らない。 それも随分と、利知未に影響を与えたセンパイだ。

 憎からず、思ってはいる。 ……兄貴に甘える様に、甘えていた相手だ。


 利知未から橋田に対しての恋愛感情は、当時も無かった。 好きだったのは、櫛田センパイである。 ただ、その思いに気付かせてくれたのは、橋田だった。

 ……そう言う意味で、深い感謝を持っている相手だ。

 克己が思っているよりは、少しは深い感情かもしれない。


 これも一種の、感情の摩り替え行為ではある。

 中学時代の様に、甘えられる兄貴分が出来た。 それを、嬉しく思う。


 その部分の、意思の疎通がなされたのは、七月の後半。

 利知未が哲との関係を終らせ、漸く落ち着いた、夏休みのことだ。



 利知未は、七月の日曜休みを、二十三日に貰った。

 久し振りに仲間で、ツーリングへ出掛けた。 今回は、宏一と哲は抜きだ。 折角だったので、綾子と和泉も連れて行った。


 嫌がる倉真を、無理矢理承諾させた。 仲間と綾子が、初顔合わせだ。

「そうやって皆で会っておけば、あたしとの関係を疑われる事もないんじゃねーか?」

そうすれば、喧嘩の原因が一つ減る事になる。 綾子の安心感を煽る為、その日は殊更、克己と仲良くして見せた。

 この中で、そう言う振りをするのなら、克己が一番、都合がイイ。 和泉では真面目過ぎる。 準一は、その反対。 宏治は、例え真似事でも、お互いに非常に遣り難い。


 その中で、お互いの気持ちを話す機会も生まれた。


 休憩場所で、態と二人で仲間と離れた。

 皆よりも少し遠い所で、仲良さそうに肩を並べる。 会話は、届く距離ではない。

 念の為、準一には口留をしておいた。 何かをポロリと落とすのなら、準一しか考えられない。


 綾子は、倉真の隣にくっつきながら、何気なく利知未を観察していた。

 克己は今日のメンバー中、唯一、自分が以前から知っている人物だ。 そこも、少し気になった。 綾子は綾子で、克己には感謝している。


 倉真も、気が気ではない。 利知未の企ては聞いているが、それはそれで何となく、面白くないとも感じている。

 準一は、面白がっている。 和泉と宏治は、知らん顔だ。 綾子も混ぜて、集まってクダラナイ話をしていた。



 皆から離れた所で、克己が言った。

「アンタも、世話焼きだな。 アイツ等が何回喧嘩しても、関係ネーだろ?」

「……そーなんだけどな。 …ドーも、倉真は何時ものメンバーん中でも、ほって置けない感じがするんだ」

「オレも、ナンでかアイツには、世話焼かされてるな……」

綾子の事に関して、自分がアッチコッチと忙しかった頃を思い出す。

「……得な性分、なのかな?」

克己の言葉に、倉真の事を指して、利知未が呟いた。

「そーかもな。 ……ヘンな事、聞いてイイか?」

「なんだ?」

克己は暫く考え、成るべく遠くから、言葉を選び出す。

「……佐久間。 ……アレから、アイツとナンかあったのか」

利知未は少し考え、克己に悪戯を仕掛けた日の事を、思い出す。

『克己には、少しだけ話そうか……』 一言で、表す事にした。

「……終ったよ」

「終った? やっぱ、付き合ってたのか」

不安な表情になる。 ……利知未は、それで傷つけられなかったのか……?

「…チョイ、違うかな? ……付き合い掛けた」

「付き合い掛けた、だけか?」

「…付き合い掛けた、だけだよ。 克己が、心配する程の事じゃ無い」

言って、微笑して見せる。 女らしい表情だ。

「……それで、傷付かなかったのか?」

「傷付いたりは、してないよ。 ……大事な事を、知った。」

大事な事がナンなのか、聞こうと思って、止めた。

「……そうか」

何かを言い掛けて止めた様子に、利知未は少し首を傾げる。

「ナンで、そんなに心配してくれるんだ?」

「ドーしてだろーな? ……どうも、妹でも出来た心境だ」

利知未は少し驚いて、そして、嬉しい気持ちが生まれた。 小さく笑って言った。

「ンじゃ、あたしと克己は相思相愛だ。 あたしも、克己と居ると兄貴と居る様な気分になる。 ……どっちかッテーと、センパイかな?」

最後の小さな呟きに、克己が反応した。

「兄貴とセンパイじゃ、意味違わネーか?」

「そうだな、もう少し詳しく言うと……。 中学の頃、同じ様な気持ちで甘えさせて貰っていた、センパイを思い出す」

言葉を切って、懐かしそうな微笑が浮かぶ。

「スッゲー、感謝してるセンパイだよ」


 克己は、自分に対して感謝してる、と言われた訳でもないのに、何故か照れ臭い気分になる。

 それから、漸く納得した気になった。

「成る程な、相思相愛か……。 面白い相思相愛も、あったモンだ」

「これも一つの 『愛情の形』 って事か」

「愛情の形? ナンだ、そりゃ」

「あたしが、この頃知った『大事な事』だよ」

なぞなぞを解いて見せた、子供の様に笑った。 少し間があり、克己も小さく吹き出した。 釣られ合って、笑い合う。

「また、ガキみてーな顔してンな」


 宏治達が、離れた所で笑っている二人を、楽しそうに見ていた。


 綾子は、二人の様子を見て、納得した気分になる。 克己が、あんなに楽しそうに笑って居る所は、始めて見た。 ……少しだけ、ホッとした。

『利知未さんは、克己さんと付き合っていたんだ』 勝手にそう解釈した。

 それなら倉真とも仲が良くて、当然な気がする。


 倉真は、少しだけ釈然としない感じだ。 ……小さく、表情を歪めていた。



 その日は解散するまで、克己と精々、本当の恋人同士のような振りをした。

 朝、集合したバッカスの前まで戻り、和泉は宏治のバイクから、準一のバイクに移動する。 短距離ならば、ライダーが準一でも平気だ。


 倉真達が挨拶をして走り出す前に、利知未は態と、克己を呼び止めた。

 ついでに止まった倉真達に、利知未が言う。

「あたしは、克己ともう少し居たいから、……先に帰れよ?」

一瞬、倉真の表情が変わる。 ……もしかして本当に二人は、何時の間にか付き合い始めたのかと、勘違いした。

 綾子が、その倉真の表情を素早く見た。 利知未は、その反応に気付く。

「お互いに、野暮は無しって事で」 綾子に、軽くウインクをして見せた。

 益々、態と克己に寄り添う様な仕草をして見せる。

 克己は、やはり少し照れてしまう。 恋人同士の振りをして見せる利知未は、いつもと違って、女の色気が滲み出している。

『これじゃ、倉真も騙されるだろうな』 そう感じて、吹き出しそうになる。

 誤魔化す為に、利知未に合わせた。

「ソー言う事だ。 ……倉真の事、頼むぜ?」

軽く、利知未の肩など抱いて見せる。 利知未も嫌な顔一つしない。

「おら、トットと行け!」

空いてる手で、「アッチ行け」の仕草をした。


 倉真は、綾子の視線を感じて、動き出す。 ……あそこまでヤるのなら、やっぱり芝居は芝居だ、と納得をした。 ギア・チェンジする。

 綾子は二人の様子に、信憑性を感じた。 ……本当に、仲がイイんだ。

「倉真、行こう?」

綾子に言われ、頷いてバイクをスタートさせた。


 倉真のバイクが見えなくなってから、チラリと横目を合わせる。 目が合い、吹き出して、二人揃って、腹を抱えて笑い出した。



 下宿店子達の夏休みは……。

 美加は今年も、大半を実家で過ごす。 長期休みは何時もそうだ。

 玲子は彼氏と、一週間の北海道旅行へ出掛けた。 旅行前、双子から北海道のお薦めスポットなど、聞いていた。 里帰りも、する予定がある。


 冴史も二週間ほどは、実家へ戻った。 本当は帰らないで、こちらに残って原稿用紙に向かっていたい心境だった。

 毎年、秋に募集している、学生小説作品コンクールへ、出品の予定がある。 去年は、学校代表までは選ばれたが、惜しくも選外で終った。 後一歩で佳作に手が届きそうな勢いだった。 今年は雪辱戦である。

 試しに里真が、部活で撮影した写真を何点か、貸してもらった。

 そこからインスピレーションが繋がらない物かと、頭を捻っている。 主人公のモデルには、勝手に利知未を起用する。

 今年の、バレンタインデーの事件をヒントにした、面白い作品が書けそうだったのだ。

 ……勿論、利知未には内緒だ。

 そう言う事で、実家でも、暇があればメモを片手に頑張っていた。


 里沙は7月中に、例の内装デザインを、受け渡さなければならない。

 最後の、手直しの真最中だ。 建築士に図面へ起こして貰う関係上、月末がギリギリのラインだった。 それでも納得の行く仕事を上げたかったので、無理をお願いして、一ヶ月延ばして貰っていた。

 受け渡しが終われば、葉山との約束が待っている。


 逸早く、里沙に恋人が出来た気配を感じたのは、やはり利知未だった。

 そうは言っても、『どうやら男が出来たみたいだ』程度で、相手が誰かまでは、見当も付いていない。

 これまで、店子の中で唯一。 恋人との付き合い方について、里沙から散々お小言を戴いてきた利知未だ。 その手の雰囲気には、他の店子に比べても一番、敏感に反応する。

 玲子も自分に恋人が出来てから、いくらか勘が働くようになった。 最近、少しだが酒も嗜む様になった玲子と、昔から隠れてでも晩酌を続けていた利知未と、成人している里沙は、偶にはリビングで一緒に晩酌をするようになった。


 双子は、里真と相変わらず仲が良い。 時々、宏治、準一、和泉辺りと、遊びに行く事もある。 この夏休みも、何度か遊びに出掛けた。


 和泉は真面目に働いている訳だから、やはり日曜が丁度良い。

 子供達の拳法修行の手伝いは、ボランティアでやっているだけだ。 用事が入れば、休んでも構わない。

 毎週、遊びに行っていると言う事でもない。 誕生日を過ぎて、直ぐに自動車教習所へも通い出した。

 自動車の免許を取ったら、少し、一人暮しもして見たいと思い始めた。


 準一は最近、哲張りの? ナンパヤローに、近い雰囲気になって来た。

 大体、短ければ一週間、長くて一月くらいのスパンで、遊びに行く女のコが、くるくると変わっている。 本人が言うには……。

「え? 彼女とか、恋人って訳じゃないよ。 皆、友達」 と、言う事らしい。

ソコを突っ込まれても、相変わらずヘラヘラ笑っている。

 ……樹絵は最近、その準一を見て、何故かイライラする事がある。 小さな恋愛感情が、生まれ始めた気配だ。 本人は、全く気付いていない。

 秋絵は、何となく首を傾げる。

『樹絵。 ナンか少しだけ、変わったのかな……?』

ずっと、二人一緒に育ってきた。 ……本人よりも、敏感かもしれない。



 利知未と克己は、ツーリング以来、更に仲の良いダチ関係となった。

 倉真の誤解は、一応、克己がこっそりと解いたらしい。

 電話で克己が笑いながら、その模様を話してくれた。


 利知未は夏休み、バイトをもう少し増やした。

 基本は大学に入ってからの、夜シフトだ。 店の稼動見込みによって、急遽、昼から入ったり、休みを入れ替えたりは、相変わらずだ。

 マスターは利知未と瀬尾を、便利時間バイトと呼んでいる。


 瀬尾とも、バイト仲間として相変わらず仲が良い。 以前と同じく、二人揃って夜のカウンターへ入る日は、どうしても寄席のような雰囲気になる。 それはそれで、楽しみにしている客も居る。

 瀬尾は大学で、落語研究会に籍を置いていたらしい。 この夏休みに入ってから、利知未は始めて、それを知った。

 瀬尾は、その時始めて、利知未が医大生である事を知った。

「オレ達、意外とイー加減?」

「ソーかもな。 一緒にバイトする様になって、約二年もお互いの情報、交換した事も無かったンだ」

 ……因みに、瀬尾は体育大学では無く、文系の学生だったらしい……。

 改めて知って、二人で呆れて笑ってしまった。


 そして利知未は、今も女性客に人気がある。 カクテルも、簡単なモノなら、作れるようになっていた。



 翠の結婚式の仲人は、漸く久世夫妻が引き受けてくれた。

 佳奈美のオネダリ攻撃に、先ずは智子が折れた。

「新しい着物、丁度イイから、作って貰っちゃえば?」

 佳奈美のその一言が、決定を促した。 ……佳奈美が、モノに弱いのは、どうやら母・智子譲りだったらしい。

 愛娘と、尻に敷かれがちな妻からダブルで攻撃を受け、マスターは観念した。


 利知未は、ある日。 バイト後に、マスターから呼び止められる。

「お前、佳奈美と、どんな約束をした?」

 カクテルを出しながら、利知未に何気なく鎌をかけた。

「約束? ナンの事だ」

「六月頃、翠と何か企てていたな」

言われて、思い当る。 利知未はシラを切る。 マスターが話しを変える。

「可愛い猫の髪飾り、高かったんだろうなぁ。 誰に買って貰ったのか、教えてくれないんだが。 ……まさか、中学一年生にアクセサリーを贈るような、気の利いた少年も、……中々、居ないだろうな」

ニヤリとしながら、態と大きな声で呟いている。 利知未は聞こえない振りをして、タバコを吸って見る。

「……そうすると、年上の少年か? あのくらいの歳の少女なら手懐け易いと踏んで…、イヤ、マサカな……。 しかし、佳奈美は将来、きっと美人になりそうだ。 …そうは、思わんか? 親として、心配な事だな。 しかし俺が認めない男には、絶対にやらんぞ。 今から、空手か柔道でも覚えるか? 気に入らないヤツなら、追い返してやる」

 利知未は、堪え切れなくなって笑ってしまった。

「……やっぱり、お前か」

「マスターの、親バカ振りには負けるぜ。 大体、佳奈美が嫁に行くのなんて、何年先の話だよ?」

笑い続ける利知未に、マスターが真面目な顔をして言った。

「そう、何年も先の話じゃない。 お前も、もう十九だ」

 六年が、瞬く間に過ぎた事を感じ、利知未も真面目な顔に戻った。



 利知未の心の中には、随分前から生まれ始めている、小さな、けれど深い愛情がある。

 ……まだ、利知未は気付いていない。


 ここ数年間で、一番、平和な時期かもしれない。

 ……けれど、これから先。

 利知未の心の奥の愛情は、平穏な時間に小波を起てる小石となる。


 拾い上げるまで、後、ワン・モーション。



 ……穏やかな水面へ向けて、小石が投げられようとしていた……。




 利知未シリーズ大学編 第一章 了 (次回は12月 14日 22時頃更新予定です)


中学編、高校編からを、お付き合い下さっております皆様、大変、お待たせいたしました。

大学編からの皆様、これから宜しくお願いいたします。(もしも気に入ってくださいましたら、ここまでのお話も覗いて見て下さいませ)


大学編から先は、恋愛の話が多くを占めて参ります。これから更に成長していく仲間達を、また応援していただけたら幸いです。


では、次章の予告も少々。 哲との関係を経て、また一つの『大事なこと』に気付いた利知未は、長い間、自分を見守って来てくれた、あの人へ対する想いに気付き始める。

 倉真は、一年半前から付き合い始めた綾子に対する気持ちが、徐々に変化をし始めていく。

 それぞれの関係は、どうなって行くのか……?


 次章 愛情の行き先《季節を越えて……》も、二部分に分けての同日更新となります。

 また来週、皆様とここでお会い出来ますように……。

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