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インターン編  四章

 利知未の結婚までの物語、インターン編は、1990年代後半頃を時代背景として設定されています。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。実際の団体、地域などと一切、関係ございません)


 倉真との同棲生活も半年目を迎えた。 利知未の学生生活も、あと半年で終わる予定だ。

 利知未の雰囲気は、初めて倉真たちに会った頃とあまり変わらないままだが、倉真は段々と、利知未に対して、結婚を意識するようになり始めた。


 利知未シリーズ本編、最後の作品としてお贈り致します。 最後まで、宜しくお付き合いくださいますよう、宜しくお願いいたします。

     四 章  ジェラシー


           一


 夏休みが終わり、利知未の実習医生活も残り半年となった。

 来年の三月には、国家資格試験が待っている。 夏の間に出来る限り羽を伸ばして、これから先は今まで以上に、勉強へ勤しむ日々が始まる。

 実習科は、一学期に歯科と整形外科を回り、九月から産婦人科へ移った。 十月に眼科、十一月に耳鼻咽喉科、それから残りの三ヶ月を、再び外科へ戻る事になりそうだ。


 大学で、久し振りに透子に会った。

「また随分、日に焼けてきたな」

「旦那と、ハワイまで行って来た。 はい、土産」

定番のチョコレートを渡されて、顔を顰める。

「甘いもの、アンマ食えないんだけどな」

「病院にでも持って行ったら? 利知未には、これも上げよう」

「何だ? これ」

「夢を掴む為の、お守りみたいだな」

「サンキュ」

 くもの巣を模った不思議な形の、革製品のキーホルダーを貰った。

「アロハシャツの方が、良かったか?」

「……こっちで良い」

「そーだろう」

当然そう言うと思った、と言わんばかりの、会心の笑みを見せる。

「同棲生活は、どんな感じだ?」

「呑気だな。 会うどころか、連絡も取り難かった生活と比べると」

「上手く行ってる訳だ。 ま、利知未には首輪と鎖が必要そうだからな」

「どー言う意味だよ?」

「縄付けてないと、身近な男に走るんじゃないか?」

「何ツー言い草だ」

「付き合い、長いからな」

「悪かったな、尻が軽くて。 ……透子に言われたら、お終いだよな」

「アタシは、イイの」

「理由は?」

「チャームポイントだから」

 セクシーポーズを取っている。

「それが、新しい決めポーズか?」

「そろそろコレも、飽きて来たな。 次、考えるとしよう」

「……勝手にやってくれ」

昼食時間だった。 今日も透子は、言い捨て、やり捨てて、何事も無かった様に定食を突き始めた。



 午後からの病院で、外来で通院してきた、相良と顔を合わせた。

「瀬川先生、今、何処に居るの?」

「今は、産婦人科ですよ。 相良さんには縁の無い所です」

「それで、中々、見掛けなくなったんだ」

「何時、退院されたんですか?」

「八月の二十日。 今は、リハビリ通院」

「そうですか。 退院、おめでとう。 早くバイクに乗れるまで、回復するように頑張って下さいね」

会釈をして去りかけた利知未の後を、追い掛けた。

 松葉杖をカツカツ鳴らしながら、頑張って歩いている。

「全治、三ヶ月だって言われたから、あと一ヶ月くらいですよ。 バイク乗れるようになったら、一緒にツーリング行きませんか?」

「休み、合わないと思うけど?」

「学校、サボるし」

「真面目に勉強しないと、大学受験が大変になりますよ」

「大学、行く気も無いし。 クラスメートと比べて、呑気だから」

相良の言葉に、倉真の昔を思い出してしまう。


 適当にあしらいながら話をしていた。 相良は、産婦人科の前まで追い掛けて来た。

「相良さん、妊娠してるんですか?」

言われて周りを見て、少し慌てた。

 妊婦と、幼子を連れた奥様達の注目を、集めてしまっていた。

「流石にココは、居難いな。 また、来週の火曜日、リハビリだから。 返事、待ってます!」

慌てて松葉杖を鳴らしながら、産婦人科の前から逃げて行った。


『あれは、一応、ナンパなのか?』

 考えて、少し呆れてしまった。

『倉真より、ジュンの方が似てるかもしれない』

怪我をして入院をして、メゲずに女へ声を掛ける。 逞しい物だと思った。



 実習科によっては、土曜の実習が無かった。 それもあり、九月二十三日、金曜の祝日から土曜は、夜勤でバイトが入っていた。 夏休み中にも何度かあった事だ。

 利知未は午前中に家事を終えてから、午後にかけて仮眠を取る。


 倉真の休日が重なる時、利知未が眠っている間、倉真はバイクを弄っているか、近場を走らせるかして、睡眠の邪魔をしないようにしてくれる。

 折角だったので、その日は久し振りに、克己に会いに行く事にした。



 およそ一年十ヵ月振りだ。 利知未と付き合い始める前の、晩秋。 十ヵ月になる新藤家、長男・学をあやしながら、倉真の相手をしてくれた。

 あの時、以来だった。 引越しの連絡もしていなかった。


 二年近く振りにあった克己は、以前より少し、恰幅が良くなっていた。

「また、お前は。 行き成り来るヤツだな」

そう言って呆れながら、笑っていた。

「仲良くやってるのか?」

「それは、こっちの台詞だ。 家は見ての通り家内円満だ」

「響子さんの飯が、美味くて食い過ぎたのか?」

「お前も、またガタイが良くなったな」

「鍛えてるんだよ。 利知未に喧嘩で負けないように」

利知未の名前を呼び捨てる倉真に、克己は、二人がどうやら付き合い始めたらしいと、直感した。

「取り敢えず上がれ。 響子は今、学を連れて買い物中だが、茶位は出すぞ」

「邪魔する」

何年振りだろうが、克己との関係は全く変らない。

 今も克己は、倉真の良い兄貴分だ。 直ぐに、会わなかった時間も取り戻せる。


 利知未と付き合い始めたこと、従業員として整備工場で働き始めた事。 そして今年の四月から、利知未と生活を始めた事を、克己が入れてくれた茶を飲みながら話した。

「結婚は考えてるのか?」

「……俺は、そのつもりだよ。 何時になるかは判らないけどな」

「お前らなら、上手く行くだろ」

「そう祈ってるよ」


 それから先の夢の話もした。 克己は、心から応援してくれた。

 その内に響子が帰宅して、久し振りの訪れを歓迎してくれた。


 夕食を誘われたが、利知未が用意しているからと断って、五時前には克己のアパートを後にした。 帰りがけに、響子にも激励されてしまった。


 克己は、倉真を見送って、響子と言葉を交わす。

「利知未と同棲を始めたとはな」

「よっぽど、ご飯が美味しいのね」

倉真が夕食を断った時の雰囲気を思い出して、響子は含み笑いを漏らした。 克己は、一昨年の新年会を思い出していた。



 利知未は、丁度、倉真が新藤家を辞去した頃に起き出して、夕食の準備を始めていた。 夕食は、倉真と一緒に取ってからバイトへ向かう。

 六時半には、すっかり準備も整って、倉真の帰宅を待っていた。


 倉真の足音と、鍵を開けようとした時のチェーンホルダーの音を聞いて、利知未が急いで玄関の扉を開ける。

「お帰り」

「ただ今。 起きてたのか?」

「飯、出来てる。 食おう?」

「ああ」

笑顔を交わして、部屋へ入る。


 食事をしながら、今日の倉真の行き先を聞いて、利知未が剥れた。

「克己の所、行ってたのか?」

「久し振りにな」

「ずるいな。 だったら、あたしの休みの日に、一緒に行きたかったよ」

「悪い。 引っ越した事も、連絡してなかったからな」

「そう言えば、葉書、書かなかったな」

 仲間達には、直接会って住所を知らせていた。

「克己、前より太ってたぞ?」

「そーなのか? 幸せ太りって、事か。 ……倉真は太らないな」

 今日もガツガツと飯を食う倉真の様子を、呆れ半分に眺めて、利知未が言う。

「何時もかなり食ってるのに」

「その分、鍛えてるからな」

「何時?」

「お前に見られない所で、陰ながら努力してるんだよ」

「そー言えば、鉄アレイとか、握力鍛えるのとか、色々持ってたな」

「後は、仕事とお前の相手してれば、カロリー消費はバッチリだろ?」

「……何を言いたいんだよ?」

「いや。 浮気する必要、無くなったよ」

倉真の言葉に、利知未は膨れっ面を見せる。

「……倉真の相手するのも、体力使うんだけどな」

「お互い様だ」

「食事時の会話じゃ、ないだろ」

「…そりゃ、そーだ」

 話を変えた。

「晩酌の摘みも、冷蔵庫に入ってるから」

「サンキュ。 何時に出るんだ?」

「七時半前には、出るよ」

「そうか、残念だ」

「何が?」

「一時間あればと、思っただけだ」

 どこまで本気で言っているのやらと、思ってしまう。

「……スケベ」

軽く睨んで、舌を出してやった。 利知未の表情を見て、倉真は面白そうな顔をする。

「俺にとっては、褒め言葉だ」

「本気で、その感覚、理解できない」

「理解出来なくていいよ」

 酒も入らないうちに、下ネタになってしまった。


 食事を終え、時計を見て、慌てて利知未が椅子から立った。

「もう、二十分だ。 行かないと」

「片付け、やっとくよ」

「サンキュ、頼む」

 食器を流しへ出し、リビングへ入って、荷物を持って来た。 何時も通り、軽くキスを交わして、利知未はバイトへ出掛けて行った。



 夜勤バイトは、救急だ。 救急は今日も忙しかった。

 盲腸と腹膜炎を併発しかけた患者が、運ばれて来た。 直ぐに、当直外科医の手でオペが始まる。

 利知未は救急からの流れで、手伝う事になった。

 深夜はナースも少ない。 時により、処置の補佐をする手は足りない位だ。 インターンの手でも、猫の手よりは役に立つ。


 利知未は、昼間の実習時間や、バイトで書類整理を主にしていた頃に比べて、現場の処置に携われる機会が増えている。 議論よりも実践派の利知未にとっては、良い修行の場だ。



 翌朝、帰宅をしたのは、七時半過ぎだ。

 今日は倉真も休みだ。 多分、まだ眠っているだろうと思い、静かに玄関を入り、朝食の準備を始めた。 体力も消耗し、睡眠時間も十分に取れないのだから、どうしたって腹ぺこだ。


 風呂の準備もしようと思い、浴室に入り、古い湯が溢され、掃除をしてある事を知る。

『昨夜、倉真がやって置いてくれたのか』  嬉しいと思う。


 疲れきった朝、こんな本の少しの、倉真の家事の手伝いに、彼の優しさを改めて感じる。 幸せを感じる事が出来て、少しだけ元気が戻った。


『明日は、休みだ』

 今日一日、のんびりと過ごさせて貰って、明日は倉真と、何処かへ出掛けたいと思った。




 里沙の下宿には、夏休みが終わる頃に、新しい店子が二人増えた。

「永野 由梨、中学二年です」

「永野 壬玖(みく)、中学一年です」

 眼鏡を掛けた真面目そうなお姉ちゃんと、愛嬌のある可愛らしい妹だ。


 現在、下宿にいる店子は、双子も冴吏も美加も大学生だ。 少しオドオドする二人を、年の離れた妹達を迎える様に、温かく迎え入れた。


 冴吏は担当編集者の横繋がりで、無事にある会社の事務仕事へ、就職内定を決めていた。

 秋絵も、この夏は撮影の合間に、何社かを就職活動の為の、準備活動へ当てていた。 バイトに勤しんで、そんな気配を全く見せなかった樹絵の事を、流石に心配し始めている。


 樹絵は、十月までには、入学金の三分の二を貯める事が出来る予定だ。

 大学中退と、その後の事を、真面目に考え始めている。


 この頃までに、亨とは何度も話し合ってきた。 何処まで行っても、この件に関してだけは、平行線だった。

 それでも、亨の反対意見の裏側にある心配も、解るとは思う。 益々、悩みが深くなり、反動で、よく準一に付き合ってもらって気晴らしをしている。

 準一は相変わらず、呑気に応援ムードだった。 それが今の樹絵には心地良かった。


 正直な所、再び、準一に対する好意が、膨らんできた。

『……やっぱり、大学、十月には辞めよう』

準一に会って気分が晴れる度に、その決心が強くなる。


 そろそろ里沙と朝美に、先の話をしなければ成らない。 秋絵には、その後で打ち明けようと決心していた。



 丁度良いチャンスが、この二十三日に巡ってきた。

 朝美は仕事でAシフトだ。 里沙に無理をお願いして、夜、朝美が戻るまで残って貰う事にした。


 樹絵は始めて、この五月から自分がして来たことを、二人に話した。

「それで、夏休み中もアルバイトばっかりしてたのね」

里沙は、利知未が入居していた頃以来の、困った表情をしていた。

「どうやら、本気みたいじゃない? ……けど、この下宿の店子は、学生限定になってるのよね」

「それは、分かってる。 だから、下宿、出る事を考えてる。 ……これからは大学辞めて、来年の春まで、派遣でも何でも仕事して稼がないと。 両親には、流石に頼れないから」

「そうだね。 で、行く当て、あるの?」

「安いアパート、探すよ」

「って、言ってるけど、里沙?」

「そうね。 本気なのは、よく解ったわ」

「……お世話に、なりました」

立ち上がって、リビングを出ようとする樹絵を、朝美が呼び止めた。

「ちょっと樹絵。 まだ話し、終わってないんだけど」

「どうして? あたしは大学辞めて、店子じゃなくなって、来年から警察学校の寮に入る。  それ以外、何にも報告する事、無いよ?」

「気が早い! アパート探すの大変だよ? 利知未の時や、玲子の時とは違うんだから」

「そうね。 あの二人は、キチンと親御さんとのお話が合って、ココを出て行ったんだから」

「あたし、一つ名案があるんだけど?」

「なに?」

 朝美の言葉に、里沙が問い掛ける。

「樹絵に、寮入るまで、ココの管理の手伝いをして貰いたい。 正直、里沙が居ない時の仕事、大変なんだよね。 手がもう一つあると、助かるんだけど?」

「良いのじゃないかしら? ……本人が、良ければ」

朝美の言葉に、里沙が笑顔で頷いてくれた。

「……それって?」

「アンタは、バイトでも何でも頑張りながら、あたしみたいに休日と夜は、下宿の管理を手伝ってくれればいいのよ」

「いいのか?」

「どうせ、部屋は余ってるんだから。 警察学校の寮に入るまで、居たら良いじゃない?」

「その代わり、管理の補佐もして頂戴ね。 この家には、入居したばかりの、未成年の学生も居るんだから」

「……ありがとう」

 信じられない思いで、礼を言った。 二人は、ニコリと笑顔を見せてくれた。


 樹絵の目には、涙が浮かんできてしまった。



 その夜、漸く秋絵に話した。

「……なんか、ゴチャゴチャやってると思ったら。 呆れちゃうわ」

「ごめん。 話し、し難くて」

「樹絵の決めた事でしょ? わたしは、もう何にも言わない。 でも、亨君は何て言ってるの?」

「……亨は、反対してる」

「そっか。 ……解らなくは、無いな。 確かに、危険な仕事じゃないかと思うし。 でも、わたしは樹絵が警察官に憧れてるの、知ってたよ?」

「知ってた?」

「小学校、一年の時からでしょう? ……だから、応援する」

「流石、秋絵。 あたしの分身!」

 嬉しくて、抱きついてしまった。

「痛いよ、樹絵! 突進して来ないでよね?」

「……秋絵、ありがとう」

「……どういたしまして」

 樹絵の身体を抱き止めて、背中をポンポンと、軽く叩いてやった。



 十月に入り、樹絵は大学を辞めてしまった。

 亨とは何度も話し合ったが、結局、残念な結果になってしまった。

「オレは、やっぱり恋人としては、応援できないから……」

そう言って、亨は。

「……けど、樹絵の悲しい顔は、見たくないから。 ……友達として、応援するよ」

最後に、そう言ってくれた。




           二


 秋絵の所属する映画サークルで、徳雄がキャストをする事になってしまった。

 今年の新入生に、脚本を書くメンバーがいた。 文化祭上映用のミニ・ストーリーで、ホストクラブの話を書いて来た。 男性キャストは足りない。 普段は裏に回っているメンバーも、借り出される結果となった。


 眼鏡を取った徳雄は、中々、愛嬌のある可愛い顔をしていた。

「徳雄って、前から思っていたけど、やっぱりベビーフェイスなんだ」

「キャストをやるつもりは、無かったんだけどな」

「いいじゃない? 特に台詞がある訳でもないし」

「秋絵も客でエキストラか。 芝居、出来るのか?」

「私も、特に台詞がある訳じゃないし。 ま、仕方ないよね、頑張ろう」


 樹絵の話は、秋絵にとって、やはりショッキングな出来事だった。

 応援する気持ちは本当だが、樹絵の行動から巻き起こった新しい風は、秋絵の、何か新しい事に挑戦したい思いに影響を与えた。


『わたしも何か、違う事をやって見たくなっちゃった。 役者はエキストラでも初体験だし。 ……いいタイミングかも』

そんな風に考えて、今回の話しに挑む事にした。

 折角、二年半以上、携わって来た事だ。 一つくらい映像に残るのも、いい思い出になるかもしれない。


 樹絵の行動を切っ掛けに、双子の心にも、少しずつの変化が訪れていた。




 十月十一日の月曜から、利知未の実習科が変わる。 その寸前の連休で、利知未と倉真の休日が三週間振りに一緒になった。


 前夜、ベッドで横になりながら、ピタリとくっ付いて話をした。

「……倉真は、あたしの何を見て、気にしてくれるようになったんだ?」

「いきなり質問されてもな。 ……答え難い」

「やっぱ、そーだよな」

 倉真の腕枕を外して、自分の腕を枕にして仰向けになる。

「何か、あったか?」

「……病院では、猫被ってるからな」

利知未は、相良の事を考えていた。

 あれから相良は、通院してくる度に、利知未を捕まえてツーリングへと誘う。 そのリハビリも、そろそろ終わる筈だ。 それがあってか最近、少ししつこい。

「倉真との初対面は、セガワだし……。 あの頃は、こんな関係になるなんて、全く思いも寄らなかったし」

「……だな」

 あの頃の事を、倉真も思い出した。

「始めは、格好イイ兄貴だと思ってたぜ?」

「兄貴か……」

自分のあの頃を思い出して、小さく溜息をつく。

「……今は、どう間違えても、男には見えネーよ」

 そう言って、再び利知未の頭を自分の腕の上に移動した。 肘から曲げて、胸の辺りへ軽く手を置く。

 利知未も倉真の方へ身体を向け、再びピタリと寄り添った。 利知未の頭に、倉真の唇が触れている。 安心感を覚えて、眠くなってきた。

 小さな欠伸をして、目を閉じる。

「……眠くなってきた。 ……お休み」

顔を上げ、倉真の顎へ軽くキスをする。 直ぐに寝息が聞こえ出す。

 利知未の寝顔を、倉真は暫く眺めていた。

「……倉真……。ずっと、傍に……、居て……」

 寝言を聞いて、愛しく思う。

「……俺も、寝るか」

利知未の体温を感じて、倉真も気持ちが安らぐ。 眠気が差してきた。


 欠伸をして目を閉じた。 明日は休みだ。

 枕元の目覚まし時計は、既に午前一時を指していた。


 朝、倉真は最悪な夢を見た。 悲鳴を上げて、ベッドから転がり落ちてしまった。 倉真の声と、落ちた時の振動に、利知未も目を覚ました。

「痛ててててて……」

頭を、床で打ってしまった。

 利知未が身体を横向きに、ベッドの上から倉真を見下ろしている。 まだ寝ぼけ眼だ。

「何、朝っぱらから騒いでるかと思った。 ……どっか、打った?」

流石に少し、心配した。

 倉真は利知未の姿を目に入れ、指を指して言う。

「あれ? 利知未。 ……って事は、……夢か」

当たり前だと、思い直した。 昨夜、抱き合ったばかりだ。

 それでも不安になってしまった。 ベッドの下から、掛け布団の中へと手を侵入させて、慎重に利知未の身体を探る。

「……朝から、何かする気……?」

利知未の色っぽい声が、質問をする。 改めて利知未の性別を実感して、漸く落ち着いた。

「……良かった」  呟いてしまった。

 利知未が目覚まし時計へ手を伸ばしす。

「七時か……。 仕方ない、起きるかぁ」

上半身起き上がり、大きく伸びをした。 ベッドの端へ腰掛け直した倉真に頼んだ。

「倉真、足元のシャツ、拾って」

「ン? ああ、…ほら」

シャツを手渡され、袖を通しながら利知未が聞く。

「何か変な夢でも、見てた訳?」

「……とても恐ろしい夢を見た」

「恐ろしい?」

利知未が目を丸くする。

 倉真は背中を向けたまま、両膝に肘を付いて、頬杖を付いていた。

「途中までは、いい夢だったんだけどな。 ……盛り上がって、これからって時に、お前が……」

「男に成った、とか?」

ビンゴ! と、叫びたい所だ。 変わりに、大きな溜息をついた。

 利知未は吹き出し、そのまま笑い出した。

「それで、いきなり確認作業に入った訳だ」

「すげー、ショッキングな映像だったんだぜ……? そこまで、笑うか」

利知未はまだ笑っていた。 止まらなくなってしまったらしい。

「昨夜、昔の事、思い出したからな。 ……にしては、全く!」


 随分、旺盛な想像力だ。 自分の首から下が男に成った映像とは、どんな物だったのだろう? と、利知未は思った。


「失礼なヤツだ。 ……とは言っても、仕方ないか。兄貴だった訳だし。 うん、同情の余地はあるな」

喋りながら服を着て、ベッドを降り、タバコへ火を着けていた。

 カーテンを開いて、窓を開ける。

「いい天気だな。 ……気の毒な倉真の為に、朝飯、美味いモノ作ってやるよ。 それから、久し振りにツーリングにでも行こうか?」

振り向いた利知未の笑顔に、倉真も漸く落ち着いて笑顔を見せる。

「そーすっか」

「うん。 じゃ、支度して、顔洗って! 直ぐに飯、作るよ」

タバコを消して、キッチンへと出て行った。


 その女らしいラインを見せる背中に、改めて倉真は安心した。

『……アイツの、始めの男は、どんなヤツだったんだ……?』  同時に、そんな疑問が頭を過ぎる。

 タバコへ手を伸ばした。


 初対面の時、利知未の正しい年齢は、中学三年の筈だ。

 まさかその頃に、という事も無いと思いたいが、利知未の事をよく知らなかった時期。 それは、知り合ってから三年ほどの間だ。

 その後の利知未に、男の気配、恋愛の気配は、感じた事がなかった。


 そこから計算するに、恐らく……。 大学時代、と言う意見が出る前に、思い出す。

 FOXを辞める頃の利知未からは、何と無くセクシーな雰囲気が生まれていた。 それが、セガワを止める決定打となったのは、確かだと思う。 

『とすると……、高校の、一、二年の頃か?』


 多分、ジェラシーだ。 最近の利知未は、すっかり女らしい雰囲気も見せてくれる様になってきた。 身体付きも、どんどんと色っぽくなって来ていると感じる。

 正直、驚いている。

『けど、利知未が高校一、二年の頃には……』


 男として、セガワとして、多くの少女ファンに囲まれていたのだ。 女らしいどころか、男らしかった。 しかも、格好良かった。

 その利知未の、恐らく、その頃から持っていたであろう女の部分を開花させた、正体不明の男の存在が、倉真の心にジェラシーを植え付ける。

『……今更、勘ぐっても仕方ネーか。 ……今は、俺の利知未だ』


 気持ちを納得させた頃、キッチンから、朝食の準備が整った事を知らせる、利知未の男らしい言葉が掛かった。

「倉真、朝飯、出来たぞ!」

「おお、直ぐ行く」

 小さくなったタバコを揉み消して、倉真はキッチンへと出て行った。


「和食にしてみた。 どうだ?」

「味噌汁に焼き魚、胡瓜と若布の酢の物」

「と、浅漬け」

「浅漬け?」

「知らないのか? 材料切って、袋に入れて、揉むだけで作れる漬物の元」

「便利なモンが、あるもんだ」

「だろ?」

 ニコリと、笑顔で利知未が言う。

「倉真は、本当は洋食の方が好きなのか?」

「和食も、好きだぜ? お前が作るものは、みんな美味いしな」

お代わり、と、早速、空になった飯茶碗を利知未に差し出す。

「ただ、家はもう少し、味が濃かったんだよな」

「もう少し、濃い方が好きか?」

「食い慣れてるだけだ。 お前の味付けは、不思議だよ」

「不思議?」

「薄味に見えて、確り美味い」

「ダシ、いっぱい使うからな」

「それでか。 懐石料理を作る女板前ってのも、向いてたんじゃないか?」

 懐石料理など食べてみた事もないが、テレビの旅番組やグルメ番組で、そんな事を言っていた覚えがある。

「倉真の口から、懐石料理、ね……」

 不思議そうに呟きながら、倉真の飯茶碗に、山盛りいっぱいのお代わりを注ぐ。

「テレビだよ」

「成る程。 はい、お代わり」

「サンキュ」

「商売でやるのは、難しいだろ?」

「お前なら、やれそうだよ」

倉真は早速、お代わりも掻き込み始めた。

 利知未から見て、倉真の食いっぷりは、いつ見ても気持ちがいい。 二人の食費は、三分の二が米代だ。


「鉄火丼、食いたいな」

 利知未が焼き魚を箸に摘んで、ふと言い出した。

「ツーリング、三崎にするか? 昼飯、海鮮も美味そうだ」

「朝飯食いながら、昼飯の話が出来るのが凄いよな」

「人間の三大欲ってヤツだ。 食欲、性欲」

「睡眠欲。 良く、そんな事知ってるな」

「この前、聞いたばっかりだけどな」

朝から三杯飯を腹に収めた倉真と、三崎マグロを食べに行く話になった。



 倉真と二人で行く時のツーリングは、成るべく女にしか見えない様に、服装に気を使う。

 ジャケットの下に着る、身体のラインを隠さない様なデザインのTシャツやタンクトップが、利知未の箪笥に増えていた。

 今日は、その中でもVネックの胸が開いた、身体にピタリと来る素材のTシャツを選んだ。 少し、セクシーな感じもする。

 利知未の選んだ服装ゆえか、ツーリング先で小さな事件に巡り合った。



 先ずは、三崎を目指して走らせた。 途中で軽く、休憩を挟んだ。

「まだ、バイクに乗ってると暑いよな」

言いながら、利知未がジャケットを脱いで、腕にかけて海を眺めに歩いて行く。

 その後姿に、釣り道具を担いだ男や、サーフボードを抱えた若者の視線が集まってしまった。 やや後ろから、利知未を追いかけるように歩いて行く倉真の目に、そいつらの視線の集まる場所は、よく解った。

 立ち止まり、景色を眺めていた利知未に追いついて、その腰に腕を回す。

「どうした?」

「……何でもネー」

彼等の目から、利知未の細いウエストラインを隠してしまおうと、考えていた。

「ま、いーけど。 風、気持ちいいな」

「だな」

 遠くから見ている男達の視線に軽いジェラシーを汲み取って、舌を出す思いだ。 上機嫌に成る。

『このイイ女は、俺の女だ』  そんな感覚だ。

 精精、イチャイチャしてやった。


「倉真、何か、ヘンだよ?」

 キスをして、唇を離した利知未が、少し不思議そうな顔をしている。

「そうか?」

軽く聞き返して、もう一度キスをした。

「……チョット、恥ずかしい」

再び唇を離して、利知未が言う。

 倉真は腕を、利知未の腰から肩へと回し直した。 引き寄せて、海を眺める。

「……タマには、見せびらかしてやりたい」

小さく吹き出して、利知未が小声で呟いた。

「……ヘンな倉真」

 それなら、と、確りと寄り添ってやった。


 十分程そうして過ごして、水分補給とトイレを済ませて、再びバイクで走り出した。 途中で、海岸線沿いから、少し山の中へ切り込んで、軽く遠回りをして行った。



 昼前には、美味い三崎マグロを食わせる店の前に到着した。

「そのまま海岸線、来ちまっても、良かったかな?」

バイクを止めて、利知未がジャケットを脱いで倉真に答える。

「いくらなんでも、それじゃぁ、昼飯に早過ぎるだろう?」


 脇の道を、犬をつれて歩いていた年配の女性が、利知未の男前な言葉と雰囲気に、目を丸くする。

 ジャケットを脱いだ利知未は、それなりに女性に見えている。

『最近の若いお嬢さんは、また随分な言葉使いをする物だわ』  そう思っている。


 視線に気付いた利知未が、振り向いて外面の微笑を称えて、会釈をした。 年配の女性は慌てて会釈を返して、犬を連れて歩き去って行った。

 それを見送り、ジャケットをサイドバックへ仕舞いこむ。

「それ、腰に巻かないか?」

「店、入ったら、邪魔だろ?」

そのまま、店へ向かって歩き出す。

 倉真は直ぐに追いついて、また利知未の腰へと腕を回す。


 そのラインは、倉真にとっては利知未の中で、特に最近、色気を持ち始めたラインだ。 他のやつにジロジロと見られるのは、少し許せないと思う。

『俺も、かなり独占欲強いな』

自分の気持ちに気付いて、自分に呆れた。



 昼飯を済ませて、時間は一時前だ。今度は、観音崎へ周って見る事にした。

 事件は、そこで起こった。



 倉真の希望で、利知未はジャケットをサイドバックへ仕舞って、腰を抱き合いながら、岩場へ降りて行った。


 ここでも、二人は目立っていた。 長身カップルで、利知未の容姿はモデル並だ。 目立たない訳がなかった。

 バイクから降りて、二人で歩いて行く様子から眺めていた観光客までいる。 女のバイク乗りは、それだけでも少し目立つものだ。


 視線とは不思議なもので、周りを巻き込む力がある。 誰かがじっと眺めている物は、その視線に気付いた、別の誰かの視線までも呼んでしまう。

「……何か、注目集めてないか?」

「そうだな」

利知未の言葉に倉真が答えて、二人は視線の少ない場所を探して歩く。


 随分と視線を感じなくなってきた頃、岩の陰から、未成年の飲酒少年達が三人、ふらりと現れた。

「おにーさん、キレーなオネーさん、連れてんジャン」

「チョット、貸してよ?」

酔っ払って、ヘラリとしている。 利知未と倉真は、視線を合わせて頷いた。

「酒は飲んでも、飲まれるな」

「飲酒運転、事故の元、ってな」

 ……二人が言ったら、警告の意味が薄れてしまいそうな標語かも知れない。

「何、ゴチャゴチャ言ってるんだ? こっち、良い所あるんだよ?!」

 少年達は三人で、二人を取り巻く。 益々、人気の無い場所まで、連れて行かれた。


 遠くから、その様子を目撃していた女性が、派出所へ向かって走り出した。



 二人を大きな岩の陰へ連れ込んで、少年の一人が、倉真を後ろから押さえ込みに掛かる。 残りの二人は、利知未へ向かって手を伸ばす。

「倉真、岩場だからな、気をつけろよ? 当たり所が悪けりゃ、あの世行きだ」

軽く呆れた様子で、小さく首を竦めて倉真が答える。

「承知」

利知未の雰囲気は、すっかりセガワ時代に戻っている。


 倉真を押さえ込みに掛かった少年は、振り向いた倉真にあっけなく撃退され、伸されてしまった。

 利知未に手を伸ばしていた二人も、いつか、和泉と倉真を投げ飛ばした、利知未の手並みに適う訳は無い。

 それぞれ腕を掴まれ、力を流され、手刀を食らわされて、うつ伏せに倒れ付してしまった。


「お見事! 鮮やかなもんだ」

「感心してる場合か? ココ、満潮が来たら海の中だぞ?」

「それもそーだ」

「倉真、ハンカチ持ってるか?」

「持ってネーな」

「仕方ないな」

 少し呆れて、利知未はポケットから自分のハンカチを取り出して、海水に浸す為に、その場を離れた。

 直ぐに戻って、ビショビショなハンカチから水を搾り出して、少年達の顔へ掛ける。

 倉真も、自分が伸してしまった少年の頬を、軽くピタピタと殴って、正気を戻させた。


 気付いた少年達に、利知未の一括が飛んだ。 迫力だ。 一気に酔いが覚めて、少年達は走って逃げ出した。



 人気の無い場所から、駐車場へ向かって、腰を抱き合い歩いて戻る。 途中で、女性に案内された年配の警察官が、走って二人の元へとやって来た。

 心配して、警察官を呼びに走ってくれた女性の行動に、丁寧に礼を述べ、簡単な調書を取りに、派出所へ向かった。


 派出所で、その警官は二人の無事に安堵し、少年達の行く末を心から心配して気遣っていた。

 彼らは昔から腕白で、小さな事件をいくつか起こしてきてはいるが、本当は捨てられた子犬を可愛がる事が出来る様な、気持ちの優しい少年達なのだと言っていた。


 今回の件では被害者に当る利知未と倉真は、同じく少年達を心配して庇う様子を見せていた。 自分達の昔に比べれば、どれほど可愛らしい不良少年達だろうと思っている。


 嘘のない、思いやりの気持ちを見せる二人を見て、彼は目を細めて言った。

「あなた達は、お似合いだ。 どうぞ末永く、仲良くして下さい」

そう言った言葉の真意を測りかねる二人に、警官は言葉を足す。

「偏見だけで、彼らを非難する大人も多い。 本当は、もっと親身になってやらにゃならんのに。 間違えかけたら、それを正してあげるのが我々、大人の務めなんですがね。 ……あなた達の様に子供の奥を見ようとする、見るだけではなく、間違えを見つけたら叱る事が出来る。 そう言う事が出来る両親の元で育つ子供を、私は見たいんですよ。 ……特に、これから未来にはね」


 彼の言葉は、倉真が改めて、利知未との将来を真面目に捉え、考える切っ掛けを与えた。

 利知未の心にも、自分の本当の夢を問い掛け直す、切っ掛けを与えた。


 その夜、利知未を抱きながら、本当に子供を作ってしまったら、どうだろう? ……と、倉真は真面目に考えてしまった。




            三


 十月に入って直ぐ、樹絵は大学を辞めた。 同時に、今までアルバイトをしていたファーストフード店よりも、もう少し時給が良い所を探し始めた。

 新しいバイトを始める前に、普通車の免許も合宿で取りに行った。

 無事、合宿から戻り、普通車の免許を手にして、先ずは準一へ報告がてら、車を借りてドライブに行く約束をする。

 この頃、準一との雰囲気が、少しずつ変わり始めていた。 何と無く恋人? 位の感覚に、なってしまっていた。


 準一から樹絵を見る目は、この夏、よく遊びに出掛ける様になった頃から、少しずつ変化をしていた。

 樹絵は、以前よりも少し綺麗になっていた。 性格は今まで通り、殆ど代わり映えがしない。 一緒にいて楽しいのは変わらない。

 今までの、ナンパから付き合い始めたコ達との決定的な違いは、喧嘩をした後だった。

樹絵とは直ぐに仲直りをして、次の約束をする事が出来る。


 喧嘩したままでサヨナラをしても、また遊びに行く約束が簡単に決まったりもした。 その、仲直りまでの自然な感じが良かった。

 いつの間にか樹絵の事を、特別な存在に感じ始めていた。



 樹絵が運転する車で、二人でドライブへ出かけたのは、十月末の日曜日だった。

 途中で準一と運転を交代しながら、朝美推薦の、埼玉・城峰公園まで行って見ることにした。 丁度、冬桜が咲き始めた頃だ。


 樹絵が車を運転している時は、真剣そのものだ。 その表情を助手席から眺めながら、準一はニヤニヤしていた。


 途中で運転を交代してから、樹絵が今バイトを探している話をした。

「中々、良い所が無いんだよな」

「オレみたいに、派遣で稼げば?」

「それじゃ、朝美と里沙との約束に支障をきたすよ」

「管理の手伝いだって? 樹絵ちゃんに出来るのか?」

「今、里沙先生から、家事一般を特訓中」

「ンじゃ、今は家事手伝いって事になるのか」

「なんかのアンケートに職業記入欄があれば、そうなるよな」

「どんな仕事がいいんだ?」

「身体、動かす方がいい。 けど、工事現場とかは男の仕事だし」

「じゃ、コンビニのレジ何かじゃ駄目なんだ」

「時給が安い」

「それもそーだ」

 車窓から外を眺めながら、ふと思い出した。

「そー言えば、アダムの時給はイイって、何時か利知未が言ってたな」

「そーみたいだね。 最近じゃ、タレント性の審査もあるらしいけど」

「何だ? それ」

「この前、久し振りにアダムへ行って、マスターと話した時に、そんな事を言っていた。 あのヒトの事だから、冗談だろーけどな」

言いながら笑っている。

 それでも、相談する価値は有るかも知れないと、樹絵は思った。


 バイトの話が一端、収まり、準一がふいに聞いた。

「大学の彼とは、どーなったんだ?」

「…え、何で?」

「オレと、こーやって遊び歩いてて、影響ないのかなって、思った」

「……影響は、もう無いよ」

亨と別れた話を、始めて樹絵は、準一に話した。


 話を聞いて、準一は一言だけ呟いた。

「そーか」

チラリと樹絵を見て、ニコリと笑う。

「安心した」

「そんな事、ジュンが気にしてくれてるとは、思わなかった」

「一応ね」

 それから、準一は一日、上機嫌だった。



 公園に着き散策をしながら、他の観光客の様子を見た準一が言う。

「桜見て宴会するのは、春だけかと思ってた」

軽く酒を飲みながら、弁当を広げている人達が、思ったよりも多かった。

「自分で作って持って来た方が、良かったかな?」

「樹絵ちゃんが作れるのか?」

「言ったじゃん! 今、特訓中だって。 って言っても利知未みたいに豪華な弁当作るのは、無理だろーけど」

 二人は途中のコンビニで、弁当を買って来ていた。

「ンじゃ、その内、努力の成果を見せてよ?」

「いいよ。 もうチョット、出来るようになったらね」


 もう、四年以上も前だ。 由香子と一緒に、仲間でキャビンへ泊まった時。 始めて樹絵の包丁捌きを見て、準一は笑っていた。

 あの頃から随分、遠回りをして、二人は漸く今の様な雰囲気になれた。


 二人の記憶は、思い出の同じ所を、彷徨っていた。

 準一の事を好きだと、初めて気付いた瞬間。 樹絵の心は、そこに止まった。

 準一の心は、あの時、由香子と和泉の亡き妹・真澄の事を比べ、考えていた瞬間にストップしていた。


「……何、考えてるんだ?」

 真面目な顔を見せる準一が気になって、樹絵が問い掛ける。

「何でもない」

準一の心は、樹絵の声を聞いて現実へ戻って来た。


 直ぐに、何時もの気楽な笑顔を樹絵に見せる。

「……オレ、真澄ちゃんの事、好きだったんだよな」

「真澄ちゃんって、和尚の妹の?」

「そう。 幼馴染って、ヤツ」

「そっか。 ……そーだよな。 あたしは、その真澄ちゃんの事は知らないけど。 ……幼馴染って、大きいよな」


 由香子の事を思い出した。 ……由香子は今頃、元気にやっているのだろうか? 和泉とは、まだ続いているのだろうか?


「それで、忘れるために、ナンパばっかりしてたのか?」

「それも、あるかもな。 ……けど、一緒にいて楽しいコを探すことの方が、重大だったよ」

「そーなのか?」

「楽しくしてれば、悲しい事は思い出さなくて済むって、考えてたから」


 準一の、本音の部分に、樹絵は始めて触れた気がした。

『本当は、悲しくて、寂しかったんだ……』

樹絵の表情が、素直に悲しさを表す。

 その悲しさは、準一の心を思いやる気持ちから、生まれ出る。


「寂しそうな顔、しないでくれよ? 今から、大事なこと言おうとしてる」

「大事なこと?」

 頷いた準一が、視線を逸らして話し出す。

「探す必要、無かったのかもしれない」

「一緒にいて、楽しいコ?」

「そう。 ……こんなに近くに、ずっと前から居たんだ」

逸らしていた視線を樹絵へ戻して、笑顔を見せた。

「判らなかったよ。 今まで。 ……これからは、探さなくていいかも知れない。 樹絵ちゃんが、イヤじゃなければ」


 樹絵は本気で驚いた。 そして、急に照れ臭くなってしまった。


「……それ、どう取ったら、いいんだよ?」

「結構、マジ惚れってこと。 真面目に、付き合ってよ?」

「……それは、あたしの台詞かも」

首を傾げる準一の頬に、思い切って軽いキスをした。


 ビックリする準一の、一歩前へと樹絵が進んで、歩き出す。

「……マジ、もうナンパ、禁止な?」

 チラリと後ろを振り向いて、樹絵が言った。


 準一は、一気に顔中で笑顔を作る。 直ぐに樹絵に追いついて、その手を後ろから掴んだ。

 後ろから引っ張られて、樹絵は一瞬、バランスを崩した。 その身体を受け止めるように支えて、肩へ手を回して、ピタリと引き寄せた。

「……最高!」

準一の笑顔の呟きに、樹絵の顔は益々、赤くなってしまった。


 二人で、縺れ合うようにして、歩き出した。

 この日、樹絵の長い片思いは、ピリオドを迎えた。


 随分前から惹かれ合っていた二人は、そのまま、朝まで一緒に過ごしてしまった。 翌朝、樹絵は下宿へ帰宅して、呆れ顔の朝美に迎えられた。


 その後、樹絵はアダムで、アルバイトを始めた。



 ドライブの翌日には、思い立ってアダムへ出かけて行って見た。

 大学を辞めて、来年の春、警察学校の寮へ入るという樹絵の話を聞いて、マスターから言い出してくれた。

「利知未に聞いた事は無いか? アダムは、夢を持つ人物を応援する職場だ。 丁度、昼間の手が足りなくなる所だった。 時給、九四〇円だが、やるか?」

「マジで?! やります!」

「言葉使いは、直さないとな」

「気をつけます! 何時から、入ればいいんですか?」

「昼のバイトが、来週で一人辞める。 その代わりに、即戦力が欲しい」

「じゃ、明日からでもいいよ?」

「いい笑顔だな。 ……これは、タレント性も中々ありそうだ」

冗談めかしてそう言ったマスターに、準一が言っていた事を思い出した。




 利知未の眼科での実習は、十一月の十二日までだ。

 その後、二学期間は耳鼻咽喉科へ回って、冬休みを経て、三学期へ入ると同時に、再び外科で世話になる。

 一月、二月中旬まで頑張りながら、試験勉強が大忙しだ。 上手く行けば、三月の卒業で医師免許を手にする事と成る。

 その後、直ぐに医者として働く事も可能だが、努力目標として設定されている、二年間の研修医生活を取るのなら、そのまま、今、世話になっている大学病院へ通う事に成るだろう。


 利知未の専攻学部は、外科だ。 将来、手術からは逃れられない。

 それもあり、素直にもう二年の勉強期間を持とうと考えていた。 他人の身体にメスを入れると言うのは、やはり、かなりの決心が必要だ。


 最近、利知未の勉強が忙しかった。 休日も余り遠出はしない。 二学期に入ってから、利知未の就寝時間は、基本的には二時頃だ。

 倉真は、その利知未の努力をする姿を見て、改めて感心していた。 以前よりも家事を良く、手伝ってくれる様になった。



 明日は、利知未の休日だと言う日は、早めにベッドへ入る。 倉真の浮気が心配な所だ。 どうやら、倉真の我慢の限界が二週間くらいである事は、この半年で利知未にも判って来た。

せめて週に一度は、抱き合っている。

 利知未の方は、我慢するのなら一月位、それ以上でも我慢する事は出来る事でもある。


 翌日は利知未が休み、倉真が土曜出勤だと言う夜、ベッドで利知未が言い出した。

「……最近は、ヘンな店、行ってないよな?」

「行ってるように、見えるか?」

「タマに、あたしが夜勤バイト行ってる時は、心配になる」

行為を終え、下着とパジャマを着直しながら、利知未が言った。

「お前が頑張ってるのに、俺が我慢できなくてどうするんだよ?」

「…なら、イイけど」

パジャマを身に着け直して、再び倉真に、ピタリと寄り添った。

「信用、ネーな」

「信じていたいけど、二人で住み始めた切っ掛けが、切っ掛けだからな」

「あの時は、悪かったよ。 とにかく、今は信用していてくれよな?」

「……判った。 もう、寝ないとな。 倉真、明日は仕事だ」

「ああ、お休み」

「お休み」

 キスを交わして、眠りに付く。 ……あの十月の、ツーリングから。


 倉真は本格的に、利知未との将来を考え直していた。

『ただ、それによって、利知未の夢の邪魔になるなら……』

 まだ、その話をする時期では、無いとも思っていた。

『……にしては。 利知未は、もしかして妊症しない…、…いや、できないのか……?』

会社の先輩の、娘自慢を聞かされる事が有ると、そんな事を考える様になってきた。

 あれから、以前よりも気にしないようにして、思う存分な事をしている。

 そろそろ子供が出来ても、不思議では無いくらいだ。


 まだ話す時期では無いとは思うが、もしも子供が出来てしまえば、有無を言わさずそちらの話に持って行ってしまうのも、良いチャンスではないか? とは、考えていた。

 倉真は、利知未が避妊薬を利用している事は、まだ知らない。


 翌朝、利知未は七時には起き出して、朝食の準備をしてくれた。

 利知未の用意してくれた、朝食を取りながら、倉真が言う。

「お前、最近、夜中まで勉強してるよな?」

「昨日は、十二時には寝たけどね」

「毎朝、朝飯の準備するの、大変じゃないのか?」

「五時間は寝てるし。 倒れる事は、無いと思うよ?」

「そりゃ、そーかも知れないけどな」

「どうしたんだ? いきなり」

「……いや、何でもネー。 ……何時もサンキュ」

「どーいたしまして」

ニコリとする利知未を見て、倉真は考える。


『睡眠不足とか、妊娠しない事に関係あったり、するのか……?』

女じゃないから、判らないとは思う。

 どの道、利知未の国試が終わるまでは、今のままの方が良いのは確かだ。

『……気、早過ぎか』


 自分の最近の思考回路に、一応、反省はしてみた。

 現実問題として、仮に利知未にもその気が有ったとして、今の状態ではどうなる物でもない。


 ただ、チャンスがあれば、という気持ちだけは、心の奥で持っている。

 結婚願望が強いつもりは無いが、利知未がどうやらモテるタイプらしい事は、この半年で、漸く気付いた。 改めて考えて、自分の気持ちを垣間見てみても、頷けると思う。

 外見に惹かれ、内面とのギャップで驚き、更に知る事で意外な面が色々と見えてくる。 その上、他の男と自分の前での様子が、かなり違う。

 嬉しいと感じる男は、少なくないのでは無いだろうか?


『利知未が女っぽい様子を、他のヤツの前で見せてなければ、余計な心配なのかも知れネー』

こうなる前の利知未を思い出して、取り敢えず、焦る気持ちに蓋をした。


 今日も、利知未にキスで送られ、倉真は仕事へと出掛けて行った。



 利知未は倉真を送り出して、家事の一通りを終えてから、仮眠を取る事にした。 平均睡眠時間が五時間というのは、それなりにキツイ物がある。

 一日、二日の事ならば問題は無いが、一週間丸々その生活をして、自分の休日に仮眠を取って、身体を休めて漸く持っている。

 その上、今夜は、夜勤バイトが入っていた。

『これから、二月の試験までは、踏ん張り所だな』

 考えながら、ベッドへ潜り込んだ。



 利知未が夜勤バイトへ出掛ける二十分ほど前に、滑り込みで倉真が帰宅する。 今日は、七時まで残業があった。 バイクで十分の職場だ。

「風呂の準備も、出来てるよ。 あたしは先に入っちゃったから」

直ぐに夕食の準備を整えて、利知未が言う。

「サンキュ」

二人で向き合い、二十分で夕食を済ます。

 後片付けを引き受けてくれた倉真に礼を言って、今度は利知未が出掛けて行った。


 どうしても、こんな事は頻繁に起こっていた。

 それでも、お互い一人暮らしをしていた頃に比べて、余程、安心感がある。 今は、どんな勤務状態で擦れ違いが起こっても、必ず一日一度は顔を合わせることが出来る。


 倉真は、利知未にとっては元気の元だ。 顔を合わせて共に食事を取り、話をして笑い、偶には喧嘩もし、仲直りをして、お互いの存在を確かめ合う。

 ……そんな日常が、利知未の頑張りを応援している。


 不満があるとすれば、倉真の世話を焼く時間が、少ないことだろうか?

『自分が、こんなに世話焼きだとは、思わなかった』

最近、自分のその部分に、やっと気付いた。


 夜勤の救急バイトでは、笹原と顔を合わせる事が多かった。

 緊急オペも何度か、笹原を手伝って携わって来た。 笹原は、利知未の成長も身近で感じて来ている。 利知未の株は中々、下がらなかった。



 その夜は比較的、平和な日だった。 夜中、頼まれて、利知未が珈琲を淹れた。

 ドリップ式のセットが置かれているのは知っていた。 余裕がない時はインスタントで済ますことの方が多い。 始めて利知未の特技が、その夜のスタッフ達に知られた。

 救急の医師で、かなりの珈琲党がいた。 ドリップセットは、その医師が持込んでいた。  その舌が肥えた医師まで、利知未の珈琲を気に入ってくれた。 利知未はアダム・マスターの愛弟子である。 


 その日、外科の処置が必要な患者が運ばれ、当直だった笹原が呼ばれていた。 彼は処置の後で、利知未の淹れる珈琲の味を知った。

「三学期から、外科へ戻ってくるだろう? 楽しみが増えたよ」

笑顔でそう言われた。

「戻ったら、偶には夕食に付き合ってくれるかい?」

「……機会があれば」

「一人での食事は、やはり味気ないよ」

 他のスタッフから、離れた所で誘われた。

「瀬川さんは、何処へ連れて行っても、恥を掻かされる心配が無いからな」

「買い被りです。 本当は、丼物も口を付けて掻き込む方ですよ」

「丼物の正しいマナーは、それのような気もするな。 蕎麦は音を立てて美味そうに啜るのが、作って出した者への礼儀だろう?」

「そうなんですか。 知りませんでした」

 目を丸くした利知未を見て、笹原は笑顔を見せた。

「珈琲、美味しかったよ。 ご馳走様。 僕は、そろそろ外科へ戻らないと」

「お疲れ様でした」

会釈をした利知未へ軽く手を上げて、薄暗い廊下へと出て行った。



 朝七時。 救急でのバイトを終えて、利知未は帰宅した。

 日曜で、倉真は休みだ。 シャワーを浴びて、欠伸をしながら、のんびりと朝食の準備を始めた。

 八時半頃、倉真が起き出して来た。 二人で朝食を取り終え、倉真に手伝って貰って、洗濯と掃除を終えてから、軽く眠る事にした。

 倉真は今日も、バイクを弄っていた。

 利知未にも言われていたので、昼食を取りに部屋へ戻った。 倉真の腕時計は、アラーム機能付きに変っていた。 午前中からバイクに没頭する時は、昼にセットして忘れないようにしている。


 手を洗って、寝室を覗いて、利知未の寝顔を見て、抱きたくなる。

『……今夜は、我慢が利きそうもネーな』

思って首を竦める。 キッチンへ入り、勝手に昼飯を用意して済ませた。




            四


 四年ほど前から、バッカスによく姿を表す、女性客がいた。

 駅前のスナックで働くホステスだ。 朱美と言う名で、三十一歳。


 バッカスに現れる時、彼女は必ず、バーボンをロックで、ぐいぐいと煽り飲んでいる。 失恋の憂さ晴らしだ。

 宏治も、すっかり彼女の癖は把握している。 最後の一杯は、それまでの倍以上の時間を掛けて、ゆっくりと飲む。 そして、失恋の話をカウンターの宏治にしてから、タクシーを呼んで貰う。 印象の強い客だった。

 一年程前から、平日の余り忙しくない日。 美由紀は宏治に店の締めを任せ、一足先に帰宅していた。 朱美の相手は、宏治の仕事だ。


 十一月初旬、朱美は今日も最後の一杯を飲みながら、宏治に話している。

「全く、冗談じゃないわよ。 私がどれくらい、アイツの為に尽くして来たと思ってんの? ……それが、若い女に現を抜かして、奥さんとも別れて、その女と結婚するとか、言い出してんのよ? 信じられる? ……あーあ。 私、本当に男を見る目、無いみたい」

「次は、きっと良い人に巡り会えますよ」

「何時も、そう言ってくれるのよね。 ……アリガト。 貴方のそれ聞くと、また頑張れる気がするわ。 ……タクシー、呼んでくれる?」

「はい」

何時も通り、タクシー会社へ連絡を入れる。

 朱美は、残りのロックをのんびりと飲んで、迎えを待つ。


 ここからタクシーに乗るまでは、自分を振った男の悪い所、気に食わなかった事を上げながら、最後の憂さ晴らしだ。

 失恋の度にそれを繰り返す。 そこまでのメニューを終えると、翌日からすっかり立ち直って新しい恋へと生きるのが、彼女のスタイルだ。


 宏治は彼女に、女の逞しさを感じていた。

『利知未さんや、お袋の逞しさとは違うけどな』  そう思った。

 ……里真に、朱美の逞しさがあったなら、宏治の悩みも軽くなるのかもしれない。


 そして、短ければ半月、長ければ三ヵ月後には、また、朱美は来店する。

 それが、彼女の恋愛サイクルの様だ。 バッカスに来る日は、必ず一つの恋が終わった日だった。

 酒の量とペースで、その恋が彼女にとって、どれほど重要な物だったのかを推し量る事ができる。 短くても本気の度合いが強ければ、酒の量も多くなる。 長くても、始めから無理があったり、駄目だろうと思っていた時には、酒の量は少なくなる。


 今夜の相手は、本気の相手だったらしい。 ボトルが一本、空いていた。 新たにボトルを入れ、その半分程を残しての、ご帰宅だった。

 金払いは良いので、その点では上客と言えるかも知れない。


 朱美が最後の客だった。 送り出して、閉店時間を三十分、過ぎている事を知る。

『……ま、仕方ないか』

看板を片付け、カウンターの片付けを終えて、締めをする。 今夜の帰宅は、三時を過ぎてしまうだろう。



 十一月の三週目から、利知未の実習科が耳鼻咽喉科へ変わる。

 医師として患者を扱う場合、様々な可能性を考えた上で、初期処置を行う必要がある。 その時、自分の専門以外でも、ある程度の知識が必要に成る。


 利知未は当初の予定通り、外科医を目指して、もう一頑張りだ。

 後、四ヵ月後には、国家資格試験が待っている。


 十一月に入り、利知未の勉強時間が、また増えた。 毎晩、十時頃から午前二時まで医学書に噛り付いている。

 救急でのバイトのお陰で、少しは実践的な体験も出来た。 以前よりは、頭に入り易くなっている。

 耳鼻咽喉科でも、土曜日は実習が無い日が多かった。 その分、日曜日にかけての夜勤バイトも増えてしまった。


 倉真は少し、我慢するのが大変になって来た。

『利知未の夜勤の日、久し振りに抜いてくるかぁ……?』  思って、利知未の頑張りを見て、一応は我慢をする。 金も掛かる事だ。

 基本的に、遊びの金は自分持ちの二人だ。 懐具合から、利知未にばれる事も無いとは思うが、悩みどころではある。



 ある日曜日、今日も昼前から仮眠を取る利知未の邪魔をしないように、倉真は時間潰しに、ふらりと出掛けて行った。

 そこで、チンピラ然とした学生相手に、少し騒ぎを起こしてしまった。


 バイク雑誌でも買ってこようと思い、駅前の本屋へ歩いて行った。

 本屋へ着く手前で、店から飛び出してきた学生がぶつかって来た。 その後ろから、本屋の店員が追い掛けて走って来た。 万引きらしい。

 倉真にぶつかって転んだ学生が起き上がり、そのまま毒づいて走り去ろうとした。


 正義の味方を気取るつもりも無かったが、最近の我慢から旺盛な体力が発散しきれず、溜まりに溜まっていた。

 腕を伸ばして、その学生を捕まえた。 抵抗するので押え込むつもりが、弾みで殴ってしまった。 手加減していたつもりだが、学生は伸びてしまった。


 本屋の店員は一瞬ビックリして、立ち止まってしまった。 振り向いた倉真の顔に、びびる。 倉真の顔は少々、キツイ顔付きなのは確かだ。

「ワリー、押さえ込むつもりが、弾みで伸しちまった」

頭を掻いて、バツが悪そうな顔をしてしゃがみ込んだ。 学生の頬を軽く叩いて、正気付かせた。

「……ヒッ」 と、息を吸い込む音がした。

 気は戻ったが、抵抗の気力を失った学生を、本屋の店員が引っ立てて行った。 立ち去る時、倉真に軽く頭を下げていた。

 騒ぎで注目を集めてしまっていた。 益々、体裁が悪くなり、雑誌を諦め、そこから立ち去った。


 本屋の店先で、偶々その様子を見ていたのは、ご近所さんの加藤だった。 歩き去る倉真を追い掛けて、後ろから肩を叩く。

「館川さん!」

「……ああ」

振り向いて、知った顔に驚いた。

「見ちゃいましたよ、強いんですね」

「…拙い所、見られたな」

「どうして? 万引きを捕まえたんだから、格好良い所じゃないですか?」

加藤は倉真と肩を並べて、歩き出した。

「今日は、瀬川さんはご一緒じゃないんですね」

「利知未は、夜勤明けで寝てるんで」

「夜勤? 何のお仕事なんですか?」

「まだ、バイト学生っすよ」

「で、起こしちゃ可哀想だから、邪魔しないように出掛けて来たんですか?」

「ンな所っす」

「優しいんですね」

笑顔で言われて、照れ臭くなってしまう。


 行く先もなくなり、そのまま帰宅コースを取った。 加藤も近所だ。 話をしながら道を行く。

「ホント、背が高いな。 首上げてるの疲れちゃいそう。 瀬川さんとは、丁度良いバランスなんですね」

「そーなるのか」

「何処で知り合ったんですか?」

「……昔からの、ダチだったンすよ」

「そうなんですか! だから、二人の雰囲気は独特なのね」

「ンな、特殊かぁ?」

納得できない顔で、倉真が呟いた。

「何か、良い雰囲気なんですけど、一寸、周りの人達とは違う感じがするんですよね」

二人の事を思い出しながら、加藤が言う。

「まともな生き方して来ては、いネーか」

自分達と、仲間の事を思い出す。

 一般的には、外れ者。 非行少年の集まり、とでも言えば良いのかもしれない。


「そー言うのともチョット、違うんですけどね。 怖いとかでは、無いです」

「そりゃ、どーも」

「折角ご近所だし。 今度お二人と、のんびりお茶でもしながら、お話しして見たいな」

「言っとくよ。 アイツの時間が合えば」

「じゃ、電話番号、教えておきます。 その内、ご連絡くださいね」

にこりと言って、バッグからメモを取り出して、記入して倉真へ渡した。

 丁度、加藤の自宅前だった。 メモを受け取り、そこから三分ほどの距離にあるアパートへ、帰宅した。


 倉真はメモをダイニングテーブルの上に置き、手を洗って、昼飯の支度を始める。 正午を回ったばかりだ。

 利知未は、倉真の立てる物音に目を覚ました。 まだ二時間ほどしか、眠っていなかった。 欠伸をしながら、ベッドから抜け出る。

『……ま、良いか。 どーせ夜、寝るし』

 時計を確認して、寝ぼけ眼のまま、キッチンへと出て行った。

「悪い、起こしたか?」

「イイよ。 何、作ってんだ?」

「ラーメン」

「野菜、入れた方がイイよ。 あたしがやるから、倉真、ゆっくりしてなよ」

「寝てて、構わないぞ?」

「あたしも、腹減ってきた。 二人分、作っちゃうよ」

「んじゃ、任せるか」

「そーして」

手際よく、昼飯の準備を始めた。

 倉真はダイニングチェアに座り込んで、感心して眺めていた。

「お前に家事仕込んだの、大叔母さんって言ってたか?」

「そうだよ。 小学校二年の頃から、五年間みっちり仕込んでくれた」

「よく、お前が大人しく習っていたよな」

「上手かったんだよな、ばあちゃん」

「何が? 飯か?」

「あたしの扱い。 ……面白そうに、やって見せるんだよな。 目の前で」

 あの頃を思い出して、頬が緩んだ。



 まだ、利知未が幼い頃。


 縁側で歌を歌いながら、大叔母が鞘エンドウの筋取りをしていた。

「それ、そんなに楽しい?」

子犬を抱えた利知未が、その様子を興味深そうに眺めていた。

「楽しいよ。 利知未も、やってみるかい?」

利知未は少し考えて、頷いて犬を放した。

「手、洗っておいで」

素直に大叔母の言うことを聞いて、利知未が手を洗って、縁側に来る。

「いいかい? こうして、かたっぽの頭を取ったら、そのまま、スーって引っ張れば…、ほーら、綺麗に取れた」

言われた通り、利知未が挑戦し始める。


 中々、綺麗に取れなくて、ムキになってやり始めた。 その様子を、大叔母は優しく見つめながら、一緒に筋取りの続きを始める。

「見て! 上手く行った!」

「上手、上手! 利知未は器用だねぇ。 今夜はこれを使って、おふと鶏肉を煮てあげるね。 一緒にやるかい?」

「うん!」

頷く利知未の、頭を撫でてくれた。


 洗濯物も同じだ。 大叔母は何でも、楽しそうに家事をこなしていた。 利知未は何時も、大叔母の楽しげな様子に釣られて、自然と手伝っていた。

 何かを上手くこなした時、何時も大げさなくらいに褒めてくれていた。



「それで、お前は何時も、煽てられながら覚えてたんだな」

「そう。 今、思うと……。 何時か、自分達がいなくなってしまった時、兄妹で一人だけ、女のあたしが、兄貴達の面倒を見ることに成るだろうって考えて、そうなった時に困らない様に教えてくれて居たのかも知れない」


 利知未の作ってくれたラーメンを食いながら、話をしている。

「凄く感謝してるよ。 だから、毎年ばあちゃんの命日には、兄貴達と墓参りに行っていたんだ。 その度に一番長いこと、ばあちゃんと話してた」

「今年の正月も、長かったな」

その時の事を思い出して、倉真が言う。

 利知未も、あの時、後ろから聞こえていた、優と倉真の会話を、思い出していた。

「……そうだったね」

 あの時、嬉涙が流れて来ていた事は、内緒にしようと思った。

「ところで、このメモは何だ?」

「ああ、中華街のレジの加藤さんと、偶々、会った。 その内、一緒に茶でもしたいから、お前の都合が良い時に連絡をしてくれって、言ってたよ」

「何処、行ってたんだ?」

「本屋まで行った」

「で、何を買って来たんだ?」

 突っ込まれて、さっき起こった出来事を、倉真が話し出す。

「力、有り余ってンな」

 呆れた利知未に、倉真がニヤリと笑って聞く。

「力抜き、させてくれるか?」

「……今から?」

「我慢の限界かも知れネー」

倉真の言葉に、益々、呆れてしまった。


 それでも、昼飯を終えてから、倉真の要望に応えてしまった。



 二十三日の祝日になって、漸く二人揃っての休日が出来た。

「去年は、大きな事故があって、約束が守れなかった日だ」

前日、帰宅して晩酌をしながら、カレンダーを確認した。

「そー言や、そんな日だったな」

「今年は、バイトも休みだ」

リビングで飲んでいた。

 カレンダーの掛けてある壁際から、利知未が振り向いて、嬉しそうな笑みを見せた。

「一緒に住み始めて、良かった」

呟いて、ソファへ戻る。


 三人掛けのソファを、二人でゆったりと使っている。 背凭れに身体を預けて腰掛けた。 倉真が利知未の身体を、斜め後ろから抱える様にして、自分の身体にその背中を凭れさせる。

「うわ、溢れる!」

利知未が持っていた、グラスの氷がカラリと鳴る。

「…重く、ないのか?」

引き寄せられ、背中に倉真の身体を感じて、照れ臭くなる。

「全然」

「……体重、50キロはあるんだけどな」

「その身長で、50無かったら脅威だよな」

「……ま、そーだろーけど。 マジ、重くないの?」

「軽いくらいだ」

「嘘ばっかり。 ……けど、落ち着くな」

 素直に、身体の重みを預けてみた。 倉真の左腕が、利知未の肩へ回る。

「俺も落ち着く」

照れ臭いのと同時に、嬉しいと思う。 幸せを感じて、利知未の表情が柔らかく解れた。

「……俺も、一緒に住み始めて、マジ良かったと思うよ。 去年の今日は、本気で心配した」

「……ごめん。 連絡も出来なかったモンな」

「それは、仕方ない。 今更、気にすんな」

「……うん。 ありがとう」

 倉真の優しさを感じて、心底、気持ちが落ち着いた。

「この姿勢、癖になりそうだな」

「俺も、癖になりそうだな。 ……こーゆー事も出来る」

腕が肘から曲がって、利知未の胸元へ軽く触れる。

「マジ、イヤらしーな」

「俺からそれを取ったら、ツマラネーだろ?」

「どー言う意味だよ?」

膨れた利知未を、そのまま抱きしめた。

「今年は、こうしていられて、良かったよ」

倉真の言葉は、そのまま、利知未も同じ思いだ。


 去年の今日は、二人が知り合い、七年以上も付き合って来た中で、始めてその約束が果たされなかった日だ。 改めて、今の幸せを実感出来た。


「明日、久し振りに加藤さんがレジ打ってる店、行ってみようか?」

「そーだな。 こっちが休みでも、あっちは休みとは限らネーし」

「それで、もしも休みなら、帰って来てから連絡して見よう」

「だな」

 引っ越して来て始めての、ご近所友達になれそうな人だ。 機会があれば、連絡を入れようと思っていた。

「ついでに裁縫、教えてもらうか?」

「縫合は、出来たんだけどな」

「人の身体は縫う事が出来て、それより柔らかい布が出来ないってのは、どういう理屈だ?」

「そんなん、あたしが知りたいよ」

「そりゃ、そーだな」

くだらない話になって行く。

 少し剥れ顔を見せた利知未の顎を上げて、キスをした。 倉真には、利知未の剥れ顔も、可愛く見えてしまう。

 唇を離して、倉真が言う。

「今夜も、勉強するのか?」

「……今夜は…、…イイや」

「そりゃ、良かった」

 もう一度、利知未を確りと、抱しめた。



 翌日、予定通りに、二人で中華街までバイクを走らせた。

 加藤は出勤していた。 レジが空くのを待ちながら、食材や酒を選んだ。


 漸く手が空いた様子を見て、レジに並んだ。

「いらっしゃいませ! お久し振りですね」

「どーも。 連絡し様と思ったんだけど、中々、時間がなくて」

「良いですよ、私の休みも教えてなかったし。 瀬川さん、どんなお仕事されてるんですか?」

「医大生なんで。 休日と夕方からは、病院でバイト扱いなんです」

「そうだったんですか? びっくり! 秀才なんですね!」

「……そう言われると、違うと思うけど」

 照れ臭くて、視線を逸らしてしまう。

「じゃ、私の休み教えて、瀬川さんの、都合の良い日に合わせて貰った方が良いのか。 ちょっと待って下さいね。 先にレジ、終わらせないと」

会計を終え、サッカー台で購入した商品をビニール袋へ詰めている間に、加藤は自分のシフト表を、こっそりとコピーして持って来た。

「これ、渡しておきますね。 普段は、八時過ぎには帰宅してます」

「今度、連絡します」

「待ってます!」

 新しい客がレジに並ぶ。 加藤は急いで仕事へ戻って行った。



 帰宅して、加藤のシフト表を見ながら、自分のシフトと比べてみた。

 当分、約束を果たすのは、難しそうな事が判った。

「来月まで、持ち越しだな」

また来月、加藤のシフトを聞かなければならないだろう。




           五


 宏治は最近、里真と連絡が取れないでいた。

 元々、宏治の仕事の関係上、電話も中々する事が出来なかった。 良く二年近くも持ってくれた物だと思う。

 この前、里真に会ってから、二ヶ月以上の月日が流れていた。


 十二月の初旬に、朱美がバッカスへ現れた。 今度の恋は、一ヶ月で消えてしまったらしい。

 その夜の朱美は、何時も以上に荒れていた。


 半分残っていたボトルを、あっという間に空けてしまった。 それから二本、新たなボトルを入れて、既に三本目も半分以上減っている。

 十二時前に来店し、看板近くまで、ただ黙々と飲み続けていた。

「……夢も、恋も……、儚いものだわ」

 ポツリと呟いた。 その様子に何時もの逞しさは、見えなかった。

「そろそろ、看板です」

「もう、そんな時間なの? ……二時間以上も、飲んでたのね」

「はい。 身体、壊しますよ」

「優しい言葉を掛けてくれるのも、貴方位だわ」

 そのまま暫く、止まる。 やがて、ロックの残りを煽る。

「そろそろ、閉店時間です」

「いいじゃない。 後、一杯だけ。 ね?」

「飲み過ぎです」

「今度は、お姉さんに向かってお説教? 白けちゃうわ」

からかうように、軽く両眉を上げる。

「……判りました。 最後の一杯、作りましょう」

「ありがと。 ……何時も、悪いわね」

 ロックを作り、宏治は何時も通り、タクシー会社へ連絡を入れた。


 やがて朱美が、呟くように話し出す。

「……私の何処が、いけないのかしらね? いつも何時も、尽くして尽くして、お金も貢いで、身体も貢いで、結局バイバイ。 どの男も、捨てる時は本当にアッサリしてるのよぉ」

 カラリとグラスの氷が音を立てる。 朱美の喉が、ごくりと動く。

「……なんか、もう、疲れちゃった。 田舎に戻って、見合いでもしようかしら?」

何時もよりも弱気な朱美を、気の毒に感じた。

「店、出すのが夢なんでしょう?」

「そんな事も、言ってたわね。 ……あの時、たんまり手切れ金、手に入れてたから。 分不相応な夢を見てたのよ。 ……何年前の話だったかしら」

「三年位前だと思いますよ。 おれが聞いたのは」

「もう、そんな経つ? あのお金も、次の男に持ってかれちゃったのよ。 ……ホント、見る目が無いわ。 こんなんじゃ、見合いしたって、また駄目な男、掴まされちゃいそうよ」

自虐的な笑みを見せ、もう一口、ロックを口にする。


 電話が鳴り、タクシー会社から配車が送れそうだと連絡を受けた。 どうするか朱美に聞いて、宏治が送って行く話になった。

 滅多にやらない事だ。 それでも、今夜の朱美は、ほっては置けないと感じていた。 彼女は馴染み客として、もう四年の付き合いがある相手だ。

 そして、その夜。 宏治は里真に対する、裏切り行為をしてしまった。


 元々、宏治は真面目な性格だ。 その上、里真の事は本気で愛しいと感じて、付き合って来ていた。



 翌朝、ベッドで朱美に言われた。

「優し過ぎるわね、貴方。 ……宏治君。 こんな、年増女を相手にして。 ……彼女に、悪かったわ」


 最近、里真には会っていない。 それに、これは男の責任だと思う。

 宏治は昨夜、酒は飲んでいない。 素面だったのだ。


「男の責任だろ? 朱美さんは、気にしなくて良い」

「……生意気」

 朱美は小さく笑って、ベッドを抜け出た。 素肌にシャツを引っ掛けながら、キッチンへと向かった。

「朝食ぐらい、食べて行ってね。 長年、男に尽くし続けて来た女の手料理は、中々、イケるわよ?」

朱美は鼻歌交じりで、朝食の準備を始める。


 カーテンの向こうは、既に日が高くなっていた。 宏治は、枕元のタバコへ手を伸ばして、火を着けた。

 ……灰皿の昨夜の残骸が、色褪せたように見えていた。


 それから、宏治と朱美の、身体だけの付き合いが始まってしまった。



 この頃、里真は会社の同僚から、アタックされていた。

 四年制の大学を出た、里真の二歳年上の同僚だった。 宏治達に比べれば、余程、普通の学生生活を送って来た、平凡な男性だ。

 性格は活発で、何時も明るく、話題も楽しかった。 入社してから一年半の間、友人として付き合っていた。


 初めは同期入社同士で、よく飲みにも出掛けていた。 四人から六人のメンバーで、入社当時から、仕事の愚痴を零し合ったりしながら、ストレス解消を共にしてきた仲間だ。

 今年の夏を過ぎた頃から、個人で里真を誘うようになった。


 そうなって来てから、約三ヶ月が過ぎた。 中々、会う事が出来ない宏治の代わりに、何度か食事に付き合った。


 里真はそうする事で、恋人に会えない長い時間を潰していた。




 十二月は教師も走ると書く。 あっという間に、利知未の大学も冬休みを迎えた。 この年末年始は、それこそ遊んでいる暇は無い。

 冬休み中も、病院にはバイトとして入っている。 すっかり、救急の手伝い専門になってしまった。 夜勤にも、そこそこの日数を組み込まれている。


「何ツーか……。 俺達の邪魔、されてる見てーなバイトシフトだな」

「三勤務おき位で、バッチリ夜勤が入ってるな。 …あ、でも年末年始は、去年よりも休ませて貰えてる」

「って、四日間か?」

「去年は二日しか休み、無かったから。 倍だよ、倍」

「……お前は、よく平気な顔していられるな」

「今は毎日、倉真と一緒に居られるからな。 前より、よっぽどマシだ」

そう言って、軽く笑って見せた。 倉真は少々、情けない様な表情をしている。


 国試が終わるまでは兎に角、頑張るしかないと、利知未は既に覚悟を決めている。 大学受験の時も、高校の受験の時も。 今まで頑張って、そして報われて来たのだ。


「お前がそう言うなら。 俺も我慢しなきゃ、どーしよーもネーな」

「サンキュ。 国試終わるまで家事の協力、今まで通りヨロシク」

「判ったよ」

 話を変えて、利知未が言う。

「加藤さんとは、まだ、ゆっくり会う機会が出来ないな」

「そうだな。 ……年明けまで待たネーと、お互い無理そうだ」

加藤のシフトも、また教えて貰った。 利知未のシフトと並べて見る。

「倉真は、去年と殆ど同じだよな」

「二十九日から、一週間だな」

「という事は、十七日が夜勤明けで、十八日の日曜が同じだ」

「後は、三十一日から、三日までだな」

「と、七日、夜勤明け休みの次。 八日の日曜」

「…そーなるな」

「後、十一日からまた、実習だ。 大掃除、どうしようか?」

「俺が休みの内に、出来るだけやっとくか」

「流石。 早速の協力、感謝」

二人の落ち着く姿勢で、晩酌中だ。

 頭を少し斜め後ろへ向けて、倉真の頬へ感謝のキスを、軽くする。

「物足りネー」

 利知未の頭へ手を回して、顔を向けてキスをする。


 二人で居る時間が少ない事もある。 こうしている時間は照れもしないで、精精イチャイチャしてしまう。


 偶に、下宿時代の同居人達や、今まで親しくして来た友人達の顔が浮かんで来て、利知未は思う。

『……こんな所、あいつ等には見せられないな』

倉真とて、同じだ。 和泉や準一、宏治達の前では、恥ずかしくて出来る事じゃない。


 最近、益々、女らしい身体付きになって来た利知未の細い身体を、こうして引き寄せていると、元々の旺盛な精力が抑えられなくなってしまう。

『マジ、適当に抜いて来ないと、ヤバイな』

利知未は今夜も勉強だ。 晩酌は、倉真に付き合っている程度だ。

 ロック一、二杯で、グラスを置く。


「今夜も、勉強か」

「国試、近いからな。 ……本当は、晩酌してる場合じゃ無いかもね」

「……禁酒、するかぁ?」

「それなら、晩酌代が浮くな。 …けど、無理だと思うけど?」

「…確かに」

 利知未が一、二杯を飲んでいる内に、倉真は何時も、三、四杯は飲む。

「ウイスキー止めて、暫くビールにでもするか?」

「それはそれで、金が掛かるな。 良いよ、無理しないで。 あたしも、少しくらい飲んだ方が、リラックスして勉強出来るし」

「……並みの肝臓じゃ、ネーよな」

「お互い様。 …さてと、あたしは勉強始めよう。 倉真、見たいテレビとか、あるか?」

「今日は無いな」

「じゃ、そのままこっちで、教科書、開くか」

「そーしてくれ」

テレビはリビングへ置いてある。

 倉真が、何か見たいテレビがある時は、利知未が寝室のパソコンデスクへ移動する。

 テレビを見終わり、寝室に倉真が引っ込んでくると、今度は利知未がリビングへ移動して勉強を続ける。


 偶に倉真は、ソファで眠ってしまう。 十二時を過ぎても来ない夜は、大体そうだ。 利知未の集中力は、中々、高い。


 勉強を終え、歯を磨きに部屋を出た時、リビングのドアの隙間から、漏れる明かりに気付いて覗いて見ると、倉真がソファの上で、テレビを付けたまま眠り込んでいる光景を目撃する。

 起こして起きる時は良いが、起きない時は、寝室から毛布を引っ張って来る。 その夜は、セミダブルの広いベッドを、一人で占領して眠る事になる。

 翌朝、大体、利知未は不機嫌だ。

 隣に、倉真の体温を感じて眠るのが、一番良く眠れるからだ。


 実習とバイトを終え、帰宅する頃には機嫌が戻る。 なので、その理由で利知未が不機嫌な日は、『触らぬ神に祟り無し』の、扱いだ。

 二人暮らしも八ヵ月を過ぎ、お互いの癖や性格を、理解できて来た。


 倉真の癖で判ったのは、バイクを弄り始めると止まらない事と、実は職人気質の持ち主らしく、何かをやり始めると、トコトン迄やってしまう事だ。

 優しい所も一緒に住んでみて、よく判った。 頑固な所は、昔から知れている部分だ。 利知未も頑固な所が有る。 喧嘩になるのは、大体それだ。

 ただし、仲直りも早かった。 一つでも歳が違う所が、良い結果を生んでいる。 必ずどちらかが折れる事が出来る。


 決まらない時は、勝負をして決める。 方法は、いつかのように腕相撲やトランプゲームのポーカーが多い。 腕相撲は利知未の分が悪い事が知れたので、最近はポーカーが多かった。

 利知未と生活を始めて、倉真の昔からの癖、家出癖は治まっている。



 十七日、利知未が仮眠を終えてから、久し振りに二人で晩の食材を買いに出掛けた。 折角だったので、駅前の商店街も周って見る事にした。


 商店街へ入って、少し裏道へ逸れた所に雑貨屋が在った。 書類整理の為、小さな引き出しを買って行こうと寄って行く。

 その途中で、利知未から、小さく息を吸い込む音がした。

「どうした?」

「……何でもない。 倉真、反対側に来てよ」

 右と左を入れ替わって、利知未が倉真の腕に、縋り付いて歩き出した。


 店に入り目的の物を手に入れ、レジを済ませて、倉真が来た方向へ進路を取って、歩き始めた。 その袖を引っ張って、反対側に利知未が歩き出す。

「こっち、遠回りじゃないか?」

「良いんだ。 ……今度から、こっち回ってかないか?」

「さっきから、どうしたんだよ?」

「……アレが、居た」

「あれ?」

「黒くて、羽があって、すばしっこいヤツ」

「ゴキ…っと、名前、禁止か」

利知未が黙って頷いて、そのまま軽く俯いてしまった。

「……この道、アンマ歩きたくない」

「抱き抱えて歩くか?」

冗談めかして言った倉真に、膨れっ面を見せる。

「そー言うコト言うと、本当に抱えて歩かせるぞ?」

「……体力、付けとくかぁ」

 呟くように言って、軽く笑ってしまった。

「お前、マジ、嫌いなんだな」

「あんな物、何でこの世に存在してるのか不思議だよ。 絶滅させてやりたい」

「マッドサイエンティスト」

「どーせ」


 嫌いなもの程、良く見えるものだ。 その調子で、利知未と出かける時には徒歩立ち入り禁止区域となった場所が、あっという間に出来てしまった。



「って言うか、何で冬に、あんな所にアイツが居たんだよ?」

 帰宅して、さっきの事をからかう倉真に、利知未が剥れた。

「餌探しじゃネーのか? あの当り、飯屋が何件か在ったよな」

「それなら、あの辺の飯屋、あたしは絶対入らない」

「外のゴミバケツ目当てだろ?」

「それなら、益々イヤだ」

「……ま、勝手にしてくれ」

「勝手にするよ」

本格的に剥れてしまった。 首を竦めて、倉真は部屋を出る。

 暫くバイク整備でもして、利知未の機嫌が直るのを待とうと思った。


 冬の日は短い。 四時半には暗くなってしまう。 帰宅して、二時間程バイクを弄っていたら、あっという間に薄闇に包まれてしまった。

「……しゃーねー、戻るか」

整備道具を片付けて、部屋へ戻った。


 戻った倉真を見て、リビングで勉強をしていた利知未が吹き出した。

「倉真、顔、真っ黒だぞ?」

「マジかよ? …先に風呂、入っちまうか」

「まだ、やってないよ?」

「良いよ、自分でやる」

「じゃ、着替え出しとくよ。 もう、四時半過ぎたのか。 あたしは飯の支度でも、始めるか」

 利知未も勉強道具を片付けて、キッチンへと出て行った。


 自分の汚れた顔を見て、利知未が吹き出した。 機嫌は直ったらしいと見て、倉真は取り敢えず、ホッとした。



 通常時間のバイト、夜勤、勉強、家事を繰り返して、あっという間に年末がやってくる。 一足先に休暇へ入った倉真は、約束通り大掃除をしてくれた。


 大晦日は、今年も利知未が煮しめを作ってくれた。 翌日の、雑煮の準備も整えた。 お飾り等も、今年は少しやって置こうと言う話になっていた。

「ばあちゃん達と、住んでた頃のこと、思い出すな……」

 玄関に注連縄を飾りながら、利知未が呟いた。 靴箱の上に、小さな鏡餅も置いて見た。




 同じ頃、優一家も正月の準備を終え、瀬川家の墓にも正月飾りを施していた。 裏白を、墓石の前に飾る。

 小学一年になった真澄も、裕一伯父さんの墓前に手を合わせた。

「ねぇ、ママ。 裕ちゃんは、伯父さんの名前を付けたの?」

「そうよ。 凄く穏やかで、優しいお兄さんだったって」

「パパと利知未のお兄ちゃん、だよね」

「真澄の名前は、利知未が付けてくれたのよ」

「そうなの? 知らなかった!」

 目を丸くする、娘・真澄の成長を、明日香は目を細めて見つめる。

「本当に綺麗な心を持った子に、育って欲しいって。 そう言ってたわよ?」

「キレイな心? …難しくて、よく判らない」

「そうね、先ずは、優しい人になって、お友達や裕一のこと、大切にしてあげて。 …それから、パパとママの言うこと、キチンと聞くこと」

「…はーい」

「お勉強、まだ一杯、残っているでしょう? ちゃんと、その日の分を終わらせてから、明日は初詣、行きましょうね?」

「うん」

「さ、早く帰らないと。 パパが裕一のお守り、大変になってる頃だわ」

「パパは、来ないの?」

「多分、二日に利知未と一緒に、来るんじゃないかしら? 大叔母さんのお墓参りもするだろうから」

「同じ所にあるの?」

「大叔母さんのお墓は、違う所よ。 菩提寺が違うから」

「菩提寺?」

「亡くなった方が、天国で幸せに暮らせるように、お守りしてくれている、お寺さんの事よ」

「ふーん。 …何だか、難しいの!」

「だんだん、覚えて行くわよ。 ママも教えてあげるから」

「覚えないと、いけない事なの?」

「真澄がもっと大きくなって、結婚して、子供が出来て、その頃には、パパもママもお爺ちゃん、お婆ちゃんだからね」

 真澄は、学校の勉強は普通だが、他の面では賢い子に育っていた。

 死、という言葉を使わなくても、その先の事は想像できる。

「……そんな、ずっと先の事、解らない」

「…そうね。 行きましょう?」

 頷く真澄の手を引いて、明日香は墓所を後にした。



 一年が、終わろうとしていた。

 利知未と倉真の、同棲生活が始まった歳が、暮れて行く。




          六


 利知未と倉真は、今年も大晦日から、近所の神社へ二年参りに出掛けた。

「ココも、お汁粉だ」

「そうだな。 ……思い出すか?」

「…やっぱ、少しね。 今年も、二日には優兄と墓参り行くよ」

「そうか」

「……倉真も、来てくれるだろ?」

「お前と優さんが、構わなければな」

「今年は、裕兄のお墓にも行きたいんだ」

「益々、兄妹水入らずの方が良くないか?」

「…あたしは、倉真にも一緒に、行って欲しい」

 倉真が居れば、優の前で泣かなくても、済むかも知れない。

「判ったよ」

 振る舞いを飲み終え、肩を抱いて歩き出す。



 翌朝、利知未が用意した雑煮を食べて、のんびりと過ごした。

「倉真は、実家に顔出さなくて良いのか?」

「今更だな。 俺は、始めから居ない事になってるんじゃないか」

「会おうと思えば、何時でも会える距離に居るのに。 何か、それって寂しくないか?」

「お前のお袋さんは、まだ外国か?」

「あのヒトは、もう日本には戻って来ないかもな。 ……それならそれでも、構わないけど」

「俺のこと、言ってる場合じゃネーみてーだな」

「その分、兄貴達と付き合いがあるから、まだマシだ」

「そー言われると、何とも、言い返せないな」

「…ま、あたしも、人の家庭に口出せる身分じゃ、無いけどな」

 話を変えて、明日の事を切り出した。

「真澄と裕一に、お年玉持って行った方が、良いのか」

「叔母さんになる訳だ。 普通は、持ってく物なのか?」

「学生の内は、構わないのかも知れないけどな。 ただ、お年玉って、貰って嬉しいものだろ?」

「俺がガキの頃は、あっという間に無くなってたぞ」

「何に使ってたんだよ?」

「……判らネー。 気付くと、スッカラカンになってた」

「呆れるよな」

「お前は、どうしてたんだ?」

「ばあちゃんが、貯金して置いてくれてたよ。 そー言えば、全然、手付かずで残ってる筈だな。 通帳、どうしておいたかな?」

「マジ、大叔母さんってのは、お前達の親代わりだったんだな」

「ばあちゃんが無くなって、裕兄が預かっていて、裕兄の遺品整理の時に、持って帰ってたんだ。 捨てる訳は無いから……」

「探してみるか?」

「元日から、荷物ひっくり返すのか? 別に、いいよ。 その内、出てくると思うし。 毎年、そんなに多くは無かったよ」

大叔母の独立していた娘夫婦が、利知未たち兄弟を気の毒に思って、毎年、包んでくれていた。 後は、大叔母夫婦がくれた分ぐらいだ。 5年分で、4万から5万円という所だろう。


 結局、倉真が利知未の代わりに、真澄と裕一のお年玉を出してくれた。

「一応、社会人だからな」

「悪いよ。 そう言う間柄でも、無いのに」

「予行練習だ」

「どう取れば、イイんだ?」

「その内、そう言う立場に立たされるだろ? 一美が将来結婚すれば、俺にも甥っ子や姪っ子が、出来る可能性が在る訳だ」

「そーなるな」

「何時も、お前に世話かけてる礼だよ」

「…じゃ、有り難く貰っておこう」

 軽く頬にキスをして、礼を言った。


 翌日、ぽち袋を買ってから、倉真と二人で、優の家へバイクで向かった。



 優・一家の持ち物に、普通車が増えていた。

「どうしたんだ? あの車」

「私の両親が、真澄と裕一連れて、遊びに来れるように一台持ちなさいって。 半額、出してくれちゃったのよね」

「免許は?」

「優が一応、持っていたから。 その内、私も教習所へ通わされそう」

「それも、金は出してくれるとか?」

「そこまで、甘えるつもりは無いけど。 ただ、私が教習所へ通うようになれば、必然的に裕一は、両親が預かる事になるでしょう? それが、狙いじゃないかしら?」

「マジ、孫には激甘な訳だ」

「どうすればより長い時間、孫を相手に遊べるか、色々と画策中よ」

話しながら一端、上がり込んだ。 一寸、出掛けていると言う優を待つ。

 リビングに落着くと、真澄が新年の挨拶と共に、手を出した。 ニコリと笑っている。

「真澄。 その手は、なあに?」

明日香に怖い笑顔で問い掛けられて、真澄が小さく舌を出す。

 呆れて、倉真と顔を見合わせて、小さな笑顔を交わした。

「これだろ? 真澄の欲しいものは」

 利知未がポケットから、ぽち袋を取り出して、真澄へ手渡す。

「いいのよ、利知未。 まだ学生なんだし」

「倉真が、出してくれたんだよ」

「そうなの? 益々、申し訳ないじゃない」

「何時も、利知未に世話かけてるんで。 礼代わりっす」

倉真が言う。 真澄は大喜びで早速、中身を取り出している。

「全く、遠慮を知らないんだから」

 明日香は真澄に呆れながら、倉真に改めて礼を言う。

「あと、裕一にも」

「裕一は、まだ判らないから、いいわよ」

「だったら、明日香さんが預かって、大きくなるまで取っておいて上げてよ。 倉真の予行練習らしいから」

「予行練習?」

「妹がいるんだ。 将来、その妹が結婚したら、甥っ子や姪っ子が出来るだろ? その、予行練習だって」

「倉真君、お兄ちゃんなのね。 道理で」

「道理でって、どう言う事だ?」

利知未と倉真が顔を見合わせた。 明日香が小さく笑って、答えた。

「其々の家庭で、末っ子と、お兄ちゃんお姉ちゃんの組み合わせは、男女の関係でも上手く行き易いって、雑誌で読んだのよね」


 雑誌のネタで盛り上がり、話している内に優が帰宅した。

「何処、行っていたんだ?」

「自販だ、自販。 行くか」

墓参りだ。 利知未達も頷いて、立ち上がった。

 出掛ける前に早速、明日香からお年玉の件で、報告を受ける。 改めて優からも礼を言われて、倉真はやや照れ臭い思いをしてしまった。


 瀬川家の墓から、お参りを済ませた。 足には優の車を使った。

「便利には、便利だけどな。 離れた墓も、車があるから回れるし」

「孫を乗せて来るようにって、半額出してくれたんだろ? 墓参りの為に便利に使って、申し訳ない感じもするよな」

「オプションってヤツだ」

 利知未の言葉に、優が言って、小さく笑っていた。



 四日から、利知未のバイトが始まる。 倉真は、四日まで休みだ。 利知未の国試が二月の中旬に控えていた。


 一月三日。 夜、正月番組を呑気に眺めながら、晩酌をしていた。

「これで、当分のんびりしている暇、無くなったな」

「そーだな。 …今夜も、勉強か?」

「三箇日くらいは、休みたいよな。 ……去年の一月は、部屋探しばっかりしてたな」

「そうだったな。 不動産の坂下さんには、世話になった」

「いい部屋、見つけて貰ったよ」

 部屋を眺めて見た。 あと三ヶ月で、二人暮らし一年目を迎える。

「まだ、一年経っていないのに……。 色々な思い出が、出来た」

幸せそうに、利知未が呟いた。 倉真は、利知未の身体を引き寄せた。


 住み心地の良い部屋だ。 ご近所事情も悪くない。 新婚世帯が多いアパートだった。 加藤が二人の住処を知って、新婚さんかと思ったのも頷ける。


「加藤さんとは、今月も無理かな」

「お前の国試が終わるまで、無理じゃないか?」

「そーかも」

 また、加藤のシフトも教えて貰わなければ、約束が決められない。

「じゃ、二月の末まで、お預けだ」

「仕方ないだろ」

ピタリと寄り添って、年末年始休暇の、最後の夜を過ごした。

 その日は、利知未も勉強を休んで、早めに寝室へ引っ込んだ。

当然のように思う存分、抱き合ってから眠った。



 翌朝、よく眠っている倉真を起こさない様に、気を付けて朝食の準備を整えた。 折角の長期休暇だ。 ゆっくり休ませてやろうと思った。

 朝食を済ませ、寝室を覗いて、まだ目を覚まさない倉真の頬へ、軽くキスをしてからアパートを出た。


 八時過ぎに、倉真が目を覚ました。 利知未が、既に出掛けた事を知る。 寝ぼけ眼を擦りながら、キッチンへと出た。

 利知未は確りと、朝食を自分の分まで用意して置いてくれていた。

『……もしも、結婚できたら』  飯を食いながら、改めて考えた。



 アダムの年末年始休日は、毎年、同じだ。 去年も二十八日には忘年会を行った。 新人・樹絵は、あの頃の利知未と同様、歓迎の深酒の餌食となった。


 年が明けて、四日から店も始まった。

「明けましておめでとうございます」

着替えて、店内へ現れた樹絵から、新年の挨拶を受ける。

「おお、おめでとう。 忘年会は、良くついて来たな」

「ムチャクチャ、飲ませるよな。 利知未も、あんなに飲まされてたのか?」

「アイツは、俺たちが飲ませる以上に、よく飲んだぞ」

「…だろーな」

すっかり仕事にも慣れた。

 マスターとはバイトを始める前から、仲良く言葉を交わしていた樹絵だ。 職場の仲間とも、直ぐに打ち解けていた。


 マスターは樹絵を見ていると、利知未と仕事をしていた頃を思い出す。

 樹絵は正しく、利知未のミニチュアのようだった。 利知未よりは、素直かもしれない。 扱い易いのは確かだ。

「今日は、もう少し珈琲の勉強、して貰うぞ」

「アイアイサー」

樹絵にも、カウンター業務を教えて置く事にした。

 十一月の頭から、既に修行中だ。 そろそろ珈琲の終了免除も出せそうだった。 木曜日の定休日を含めた、週休二日だ。 利知未に比べて、修行時間はたっぷり取れている。

 中々、綺麗可愛い様子に成長していた樹絵は、タレント性も抜群だ。 素直で明るい笑顔に、いつの間にか常連達からも、可愛がられていた。


 その日は終了試験として、比較的暇な時間に、例の珈琲を淹れさせて見た。

「もう少し早くから、雇って置くべきだったな」

樹絵の入れた珈琲を飲んで、マスターが笑みを見せた。

「合格?」

「ま、良いだろう。 …良く、頑張ったな」

合格したからと言って、副賞が付く訳でもないが、その言葉は十分、嬉しいと感じられる一言だった。

 樹絵は、一緒にカウンターへ入っていた別所へ、ガッツポーズをして見せた。

 一つしか歳も違わない。 それなりに、仲良くやっていた。 別所は、樹絵が、利知未が元々住んでいた下宿の、店子仲間だと聞いていた。

『何と無く、似てる』

そんな風に感じている。

 ふと、マスターと利知未の関係について、自分が持っている疑惑を思い出してしまった。


 樹絵は勿論、制服もちゃんと女性用を着用している。 外見からの印象が重なることは無い。 ただ、喋りや雰囲気が何処となく、利知未を思い出させる。

 職場仲間として、少し心配した。

『まさか、佐藤さんが、マスターとそうなる事は、無いとは思いたいけどな』

 そう思い、つい樹絵のことを、繁々と観察してしまった。

「何だ? 何か、付いてる?」

樹絵は、自分の頬っぺたを撫でてみた。

「何でも」

別所は少し慌てて、視線を逸らす。

『余計なこと、言わない方が良いよな』

 思い直して、仕事へと戻った。


「二人居れば、平気だろう」

 樹絵の淹れた珈琲を飲み終え、マスターが椅子から立つ。

「お出掛けですか?」

「渉に、頼まれている物がある。 一時間、抜ける。 頼んだぞ」

「判りました」

少し呆れて、別所がマスターへ返事をする。

「また! 今度、奥さんに言いつけてやろう」

「俺が出掛けると言う事は、お前達を信用していると言う事だぞ?」

「だから?」

「…ま、大目に見てくれ」

「シャーない。 社長に逆らっても、イイ事無さそうだし」

「そう言う事だ」

「了解。 行ってらっしゃい」

「頼んだ」

 樹絵にも後を頼み、マスターはコートを引っ掛けて、店を出て行った。


 樹絵との会話で、益々、利知未の事を思い出してしまった。

『アイツは、頑張っているのか……?』

歩きながら、ふと思い、直ぐに思い直す。

『利知未の事だ。 今年中に、必ず国家資格試験も、クリアするに違いないな』

 マスターの頬には、微かに笑顔が浮かんでいた。



 バッカスも、本日から営業開始だ。

 朱美は、あれから度々、バッカスへ顔を出すようになっていた。

 今は、特に恋愛をしている訳でも、無かった。一人では寂しさを感じてしまう夜には、バッカスへ来て、酒を飲む。

 それから、看板まで飲んで、宏治に送って貰う。


 宏治は一度、朱美と関係を持ってしまってから、断ることも出来なくなっていた。 彼女の事は、気の毒だと感じているままだ。

 今は、お互いに異性を求める時、手頃な相手としての存在だった。


 年末年始には、里真とも会えた。 その時、里真は、宏治の微妙な変化を感じていた。

 どこか、以前よりもぎこちない宏治の雰囲気に、微かな不安を感じた。 


 宏治は、どうしても自分の裏切り行為を、正当化する事はできない。

 今まで里真には、辛い思いも沢山させて来てしまった。 朱美の逞しさが里真にもあればと感じていた、その理由は。

 中々、連絡を取り合う事も出来ない間、偶に電話で話した時や、デートをした時に現れる、里真の雰囲気が少し、弱々しく感じて来ていたからだ。

 里真は、何時も二人の関係に、不安を抱き続けて来た様に見えていた。


『……本当は、もっと早くに、里真を開放してやるべきだったのかも知れない』

 年末に彼女と会ってから、改めて、そう思い始めていた。




 一月も、過ぎて行く。 間の休日も、最近はすっかり勉強時間だ。

 昼間、やれるだけやる日は、夜、倉真の浮気防止行為が忙しい。 月の中頃、珍しく倉真が、風邪を引いてしまった。

「三十八度三分。 一応、明日病院行けよ?」

「直ぐ、治るだろ」

「うつされたんだよな? 子供から」

「社長の孫が風邪で学校休んで、昼間、調子が良い時に暇持て余して、整備工場へ来たんだよな」

「それで、また懐かれたのか」

「……ガキだけじゃなくて、風邪の菌にまで懐かれちまった」

軽く咳をする。

 利知未はバイトから帰宅して、食欲が無い倉真の為に、五分粥を作って出してやった。

「子供の風邪は、強いぞ。 どうせ、明日は休みだろ?」

「土曜休みだな」

「あたしは、外科で実習してるけど。 ついでに、血液検査、して見ろよ?」

「大学病院や総合病院へ行ったら、頼まなくてもされる物じゃないのか?」

「エイズ検診、ついでにして貰って置かないか? ……あたしも、やるから」

「血液型も、よく判らネーんだよな」

「丁度良いよ。 多分、A型じゃないかと思うんだけどな」

「理由は?」

また、咳き込む。 利知未は、倉真の背中を擦ってやった。

「結構、職人気質の持ち主だし」

「……エイズ検診、ね」

「将来の事、考えて」

 言ってしまって、少し照れ臭い顔になる。

「…お前も、やるか?」

「やるよ?」

「……シャー無い、やっとくか」

「うん。 じゃ、今夜は確り休んで。 あたしは、ソファで寝るよ」

「風邪、移ったら大変だからな。 悪い」

「どういたしまして。 どうせ、二時頃までは勉強してるし。 お休み」

額に優しくキスをして、目を閉じた倉真を確認してから、寝室を出た。


 翌朝、利知未は一足先に、実習で病院へ向かった。 倉真の粥も用意した。 寝室へ運んで、熱を測るついでに倉真に食べさせてやった。

「偶には、風邪も引いて見るもんだ」

「デカいガキだな。 病院、ちゃんと来いよ?」

「判ってる」

「じゃ、あたしは、時間だから」

時計を見て食器を流しへ運び、洗い物も今日は自分で済ませた。


 その日、倉真は病院へ行った。 二人のエイズ検診結果は、問題無かった。

 倉真の血液型は、利知未が睨んだ通り、A型だった。




            七 


 一月の倉真の風邪は、直ぐに治った。 二月になり、利知未は試験勉強のラストスパートに掛かった。

 十一日、祝日と、十二日の日曜は、二人の休日が一緒になった。


 十一日、朝、八時半過ぎに倉真と顔を合わせて、朝食を取る。

「お前、平気か?」

「何が?」

「疲れ切った顔、してるぞ」

「そろそろ、キツクなって来たのは確かだな。 再来週の月曜から、国試だ。 ラストスパートってヤツ」

「昨夜、何時に寝たんだ?」

「四時近かったかな? 倉真、よく眠ってたよ」

疲れた顔でも、笑顔を見せる。

「四時間も寝てないんじゃないか」

「四時間は寝たよ。 けど、後で軽く、眠っちゃうかもしれない」

「そーしろ。 洗濯は、やっとくよ」

「サンキュ。 ……ストレスも、溜まり始めたな」

考えて、結論を出す。

「今日は昼間、軽く寝て、今夜また勉強して早めに寝て、明日はストレス解消に使おう」

「付き合うぜ」

「うん。 じゃ、今日は家事の協力、ヨロシク」

少しだけ元気を取り戻した笑顔を、見せてくれた。


 倉真は、洗濯と掃除を引き受けてくれた。 その間、利知未はゆっくりと眠る事が出来た。 夜、十二時には勉強を終えてベッドへ入った。

 倉真が腕枕をしてくれた。 気持ちが落ち着いて、安らかな寝息を立てた。


 翌朝、七時には起き出して、朝食の準備に掛かる。

 今日は、勉強の事は忘れて過ごすと決めた。 決めてしまえば、利知未はスパッと気持ちを切り替えてしまう。


 七時半、準備を終えて、元気に倉真を起こしに行った。

「倉真! 早く起きろよ? 今日は、遊ぶんだからな?」

小、中学生時代に戻ったようだ。 少年チックな雰囲気が、利知未の元気に溢れていた。

「……判った、起きる、起きる」

ゆっくりと半身を起こした倉真に、目覚めのキスをする。

「飯、出来てる。 早く来いよ?」

「…おお」

大欠伸だ。 寝ぼけた倉真を見て、利知未が笑った。

「目やに、付いてるぞ」

言って、キッチンへと出て行った。


 利知未の後姿を見て、倉真は思う。

『何ツーか、逞しいよな』

昨日の、疲れ切った利知未の顔を思い出した。

『マジ、あいつ守ってく事、俺に出来るのか……?』

自分よりも余程、生命力に溢れていると思う。

 タバコに火を着け、一服してから、キッチンへと出て行った。



 食事を終え、利知未よりも先に着替えて、玄関から呼んだ。

「今、行く!」

声が返って、利知未が姿を現した。

「今日は、そっちの気分なのか?」

「また、男に間違えられそうか?」

「かなり、そんな感じだな」

「ま、イーンじゃ無いか? 今日は気晴らしだし、バイト代も入ったし」

「遊ぶ気、満々だな」

「何か、文句ある?」

「ま、良いんじゃないか」

 ストレートジーンズに、メンズのシャツ。 ライダージャケットを引っ掛け、バイク用の皮手袋を嵌めた、凛々しい利知未と玄関を出て、駐輪所へ向かう。


「今日は、街コース行ってみようか」

「この時期は、何処、行くのも辛いしな」

「レンタでも、借りるか?」

「やっぱ、バイクだろ。気晴らしなんだろ」

「バイクの方が、好きだよ」

 利知未が、少年チックな笑顔を見せた。



 少し大回りをし、コースをジグザグに取る。 横浜の観光・デートスポットを、横目で見ながら走らせた。


 中華街の片隅にバイクを止めて、豚饅を食い歩きして、店を冷やかす。

 今日の利知未は、本当に男っぽかった。 言葉使いも物を食べる様子も、初めて会った頃のセガワを思い出すようだ。

 此処まで来たので、加藤にも会って行く事にした。 お茶の約束は、まだ果たせていない。


 加藤の働く店で、珍しい酒を見つけた。

「47度? 結構、強いな。 買ってみようか?」

「晩酌で、味見するか」

摘みになりそうな物も何品か見つけて、籠へ入れた。

 レジへ向かって、加藤と話し込んでしまう。

「いらっしゃいませ! 中々、時間が合わないですね」

「そうですね。 国試が終わるまでは、無理そうだな」

 少し情けない顔をする利知未を見て、加藤が言う。

「いいですよ、仕方ないし。 そしたら、何時頃になりそうですか?」

「再来週、試験だから。 その後かな?」

「じゃ、休み、明けときますね。 それにしても、今日は格好イイ!」

「始めて道で会った時は、スカート履いてたからな」

「服装で随分、印象が変わるんだ。 感心しちゃう。 ね、今度、私が作ったチャイナドレス、着て見て下さいよ? 両スリットが、こーんな入ったやつ」

 踝から膝上二十五センチほども、指で辿って見せた。

「それなら、回し蹴りも出来そうだ」

「またぁ! 冗談ばっかり!」


 コロコロと笑う加藤を見て、倉真は思う。

『……いや、利知未なら、やり兼ねない』

 盛り上がる二人を尻目に、冷や汗を流してしまった。



 加藤の店を後にして、山下公園へ周って見た。

 冬とは言え、小春日和だ。 バレンタインデーも近い。 さっき寄って来た店でも、バレンタイン商品が並んでいた。 利知未は、こっそり一つ籠へ入れていた。 平日は会う事が難しいと思われるカップルが、チョコレートを渡している様子が、いくつか目に入った。

「結構、人が居るな」

「デートスポットだからな」

喫煙ベンチを見つけて、座り込んで一服、付け始める。


 近くのベンチでも、チョコレートを渡している、カップルが居た。

「平日は、仕事で会えないでしょう? ……だから、今日、渡したかったの」

大人しげな女から不機嫌顔の男へ、おずおずとチョコレートを渡そうとしている。 男は不機嫌な表情のまま、そのチョコレートを女に付き返した。

「いい加減にしてくれ。 オレは、お前に騙されたんだ。 今日だって、お前がどうしても会いたいと言うから、丁度良いと思って来てやったんだ」

「丁度イイって?」

「二度と、オレに付き纏うな」

言い捨ててベンチを立ち、女を置き去りにして歩き去って行く。


「……嫌なもの、見ちゃったな」

 利知未が、小声で呟いた。 暫くして、女の啜り泣く声が、聞こえ始めた。

「……行くか?」

「そうしよう」

少し女の様子を気にしながら、利知未はベンチを立つ。

『……何とか、してやりたい所だけど』

 見ず知らずの人間が、関わるべき事ではない。



 歩き出して、直ぐに後ろから倉真にぶつかる、女が居た。

「おっと、…アンタ、さっきの?」

倉真が、転びかけた女を支える。 呟いて、利知未をチラリと振り向く。

「あ、ごめんなさい……!」

慌てて倉真の腕を離れ、走り去ろうとした。 利知未の手が伸び、ハンカチを女に手渡す。 少し腰をかがめて、優しく言った。

「使いな」

「……いいえ、ごめんなさい。 大丈夫です」

「良いから、ほら」

 利知未が自ら、女の涙を、ハンカチで拭ってやった。

「……そんな、知らない男の人から、優しくされたら……」

一気に、涙が溢れ出してしまった。 足から、力が抜けていく。

 倉真が慌てて、女の身体を支えた。



 三十分後。 さっきのベンチで、女を間に挟んで、倉真と利知未が座っている。 女の涙を倉真に預け、利知未は黙ってタバコの煙を燻らしていた。

「あの、ごめんなさい。 ……知らない人達に、迷惑掛けて……」

漸く涙が収まって、女が二人に詫びる。

「高校生、だろ?」

利知未の質問に、女が頷いた。 倉真は、本気で驚いた。

「高校生?」

「……はい」

「さっきの男は、どう見ても二十六、七歳に見えていたけどな」

 再び、少女が頷いた。

「……テレクラで、知り合ったの。 ……初めての人だったのに、私の本当の歳を知ったら、逃げちゃった……」

「……忘れちまいな。 辛いかもしれないけど」

利知未の優しい声に、少女はこくりと頷いた。

「腹減ったな。 倉真、飯食いに行こうぜ。 勿論、彼女も一緒に」

男っぽい様子に、更に磨きを掛けて見せた。

 少女は弓恵という名前だった。 遠慮をする弓恵の腕を引っ張って、ベンチから立ち上がらせる。


 そのまま、倉真のタンデムシートへ乗せて、昼食を奢って元町、桜木町、遊園地まで連れ歩いて精々、面白楽しく過ごした。


「……お前、何考えてるんだ?」

 ゲームに夢中になる弓恵を眺めながら、倉真が利知未に囁いた。

「別に。 嫌な事は、騒いで忘れるに限るだろ? …あたし、…っと、俺も、今日は気晴らしだからな?」

笑顔を見せて、軽くウインクをする。

「瀬川さん! 見て! 取ったぁ!」

「上手い、上手い! 今度、その隣の、狙って見ろよ?」

近寄り、ゲームのコインを足しながら、利知未が男前な笑顔を見せた。

 後ろからその様子を眺めて、倉真は小さく溜息をついた。


 散々遊び歩いて、弓恵が倉真と腕を組んで言った。

「年の離れた、お兄ちゃん達と遊んでるみたい!」

弓恵は大人しげな様子から一変して、積極的な明るい少女の素顔を見せて、楽しげに笑っていた。 片手は、利知未の手と繋いでいる。

 弓恵を挟んで倉真の隣を歩き、男前な雰囲気を見せながら、利知未の心は少しだけチクリと、痛みを覚えていた。

 夕食まで奢り、ファミレスで弓恵の要らなくなったバレンタインチョコを、三人で食べた。 甘いものは苦手な二人だが、笑顔で美味そうに頬張って礼を言った。


 すっかり元気を取り戻した弓恵を駅まで送り、大きく手を振りバイバイをする彼女に、笑顔で手を振り返して、帰宅した。



 利知未は帰宅して直ぐに、キッチンへ立つ。

「晩酌の準備するよ。 倉真、先に風呂、入っちゃえよ?」

「そーだな、そうするか」

自分で風呂を洗い、湯を張ってのんびりと浸かった。 利知未は今日も倉真の着替えを、準備してくれた。


 倉真と入れ違いに、利知未が風呂へ入る。

「後で摘み追加するから、先にやってていいよ」

「ビール、一本残っていたな」

「冷蔵庫」

脱衣所から、利知未の声が教えてくれた。


『やっと、何時もの利知未に戻ったな』 と、ホッとする。

 今日の利知未は、本当に男らしかった。 最近、トンとお目に掛かっていなかった姿だ。 本音を言えば、倉真は少しだけ自信喪失しそうな気分だった。


 やがて風呂を上がった利知未と、リビングで晩酌をした。 今日、仕入れて来た酒をグラスに注いで、乾杯する。

「今日は、お疲れ」

「お互いにな」

 利知未が一気に、グラスの酒を煽ってしまう。

「どうした?」

「どーしたんだろーね…?」

普段、余り無茶な飲み方はしない。 利知未自身、自分の飲み方に呆れる。

 呆れながらも更に一杯、もう一杯と、一気に行ってしまう。 顔が赤くなった。 アルコール度数、47度だ。 クラクラして当たり前だ。

「珍しいな、無茶飲み」

「ン? そーだな。 ……どうしたんだろう?」

一気に酔いが回って来た感じだ。 酔った時の利知未独特の、色っぽい瞳になっている。

 倉真はその目を見て、少しドキリとする。

「昔の事でも、思い出したか?」

下宿時代でも、思い出したのだろうか?

「それも、ある見たいかな……? そーだ、摘み追加するよ」

「まだ、かなり残ってるぞ?」

「……イーんだ」

少しだけ、ふら付く足でキッチンへと向かう利知未を、心配そうに見た。

 冷蔵庫を開け閉てする音がし、直ぐに利知未が戻って来た。

「……まだ、二日も早いけど、良いよな?」

倉真に小さな箱を、手渡した。

 倉真は包装を解いて、目を丸くする。

「これは、バレンタイン、か?」

「……何と無く、ね」

 ソファに座って、そっぽを向いて、グラスを手にする。

「食って良いか?」

「食えよ」

利知未の照れる様子に、倉真は小さく笑みを溢した。

 利知未から貰った、初めてのバレンタインチョコだ。 ビター味の、生チョコだった。


「美味い!」

「大袈裟だな……」

そっぽを向いたまま、利知未が呟いた。

「利知未、こっち、見てくれよ?」

「…やだ」

「それなら」

照れる利知未が心底、可愛く見える。

 腕を伸ばし、力を入れて、利知未の身体ごと自分の方へ向けた。

「うわ、零れるだろ?!」

 酒が、グラスで波立つ。 倉真の右手が伸びて、利知未の手から、グラスを取り上げた。 テーブルへ置きながら、耳元で言う。

「ペース、速過ぎだ」

「何か、落ち着かないんだよ」

利知未が手を伸ばして、グラスを取ろうとする。 その手を倉真が掴んだ。

 そのまま確りと抱き寄せた。

 抱き締められて、利知未が身動ぎをする。

「……お前、もしかして、……焼いてたのか?」

身動ぎする利知未が珍しい。

 何でも無い時は素直に、倉真にその身を預けてくれる。 ピンと来た。

「……そーみたいだ。 ……何か、どうすれば良いのか、判らないよ……」

恥ずかしげに、利知未が俯いた。


 愛しいと思う。 その髪を、倉真は優しく撫で、掻き上げた。

 利知未が、小さく笑う。


「……なんか、子供みたいだな、……あたし」

「こんなに色っぽいガキが居て、溜まるかよ」

「色っぽい、か。 始めて、言われた気がする」

懐かしい思い出が蘇る。

 顔を上げて倉真と目が合い、恥ずかしくなって、再び視線を逸らしてしまった。

「…なんか、恥ずかしいよ」

「俺は、嬉しいよ」


 利知未の顎を上げて、キスをした。 軽いフレンチキスを繰り返す。

 二人の気持ちが交わっていく。


 ソファで抱き合った。 部屋の明るさに、利知未の身体がハッキリと見えて、利知未は恥ずかしくなってしまう。


 お互いの想いが、確りと伝わり合った。 その夜は酒も回っていた。

 利知未は今までに無いほどの、悦びを感じた。


 初めて、失神する程の行為を体験してしまった。



 夜中、ふと目を覚まして、倉真がベッドへ運んでくれた事を知る。

『……チョット、恥ずかしかったな』

横になり、倉真の寝顔を愛しい想いで見つめた。

「……倉真」

名前を呼び、胸にキュンと来る感じを味わう。


『……わたしは』  ……彼の事を、本当に愛している。

 その思いに、改めて気付く。

「ありがとう。 わたしは、あなたを愛している」


 今日、弓恵と腕を絡めた倉真を見て、たったそれだけの事に、あれ程のジェラシーを感じてしまった。 ……今までも。

 自分が、女らしさに、自信を持てないでいたから。


『これからは、必要以上に男っぽく振舞う事を止めよう。 ……倉真。 あなたに、女としての自分自身を、もっと見ていて貰いたいから。 ……それでも、飾らない本心の部分で、それが出て来た時には』


「……許してね」 声に出して呟いた。


 倉真の唇が動き、寝言が聞こえる。

「……利知未」  その呼びかけに、両眉が軽く上がる。

とても素直な心で、嬉しいと感じられた。


 愛しい想いが、ジワリと広がった。 微かに利知未の頬へ、笑みが浮かぶ。


「お休み」

 よく眠っている倉真の唇に、そっと自分の唇を重ねた。


 再び横になり、倉真の腕に自分の腕を絡めた。 片手をその逞しい胸板へ当てて、ピタリと寄り添った。


 その夜、利知未の元には、今までに無い程の、深い、深い眠りが訪れた。


 自分の中に、心から愛しい想いを見つけた。 受け止めてくれる彼の存在が、ここにはある……。

 その実感が利知未に、大切な事を教えてくれた。



 世界中に一つだけ、自分の本当の居場所を見つける事が出来た、記念すべき夜だった。




           八


 樹絵は今年のバレンタインデーに、準一へチョコレートを贈った。

 十四日・火曜日に、樹絵のバイト後、アダムへと迎えに来てくれた。


 アダムは毎年、バレンタインデー、ホワイトデー、クリスマスには忙しくなる。

 昼間は待ち合わせに使うカップルも目立つ。 夕食時間には予約を入れて、席をキープするカップルも多い。

 店としても、カップルで溢れ返るこの好期を逃す訳には行かない。 その日スペシャルの、ディナーセットがメニューに加わる。

 樹絵も、夜七時過ぎまで残業となった。


 夕方六時を回った頃には、テーブル席が全て埋まっていた。 その中で忙しく立ち働く樹絵を眺めて、準一が目を丸くしている。

 準一は、樹絵の仕事が終わるまで、カウンターでコーラを飲んでいた。

「地獄みたいな、忙しさだな」

「書き入れ時だ」

マスターが準一の感想に、短く答えてくれた。 のんびりと無駄話をしている暇は勿論、無い。


 暇な時は、準一はマスターにとって、良い玩具だ。 いくつになっても屈託無い、恍けた準一の話し相手は、かなり良い時間潰しになる。

 和泉が顔を出す時は、静かに、大人らしい会話になる。 倉真が来れば、年の離れた弟を扱う様になってしまう。

 長年、利知未達の良き理解者、親父代わりの、兄貴代わりだった。

 利知未と深い関係を持ってしまった事は、自分でも不思議に感じる事がある。 それでも、利知未の成長を助けた、大恩人だ。


 今、樹絵の事は、それこそ娘くらいの感覚で大事に育てている。 その面倒見の良さは、何年経っても変わらない。


 中学一年の、野良の子猫の様な利知未を河原で拾ってから、早くも十二年の歳月が経とうとしていた。



七時半を過ぎて、漸く樹絵は仕事を上がれた。

「悪かったな、一時間半の残業だ」

「いいですよ。 ジュン、お待たせ」

着替えてカウンター席へ回った樹絵に、マスターが労いの言葉を掛ける。

「明日は、ゆっくり休んでくれ。 お疲れさん」

「本当に、休んで平気か?」

「始めから、そうシフトを組んであった。 明日は今日に比べて、驚くほど暇になる筈だからな」

 それ以上、呑気に話している暇は無かった。 マスターの笑顔に見送られて、二人はアダムを出た。


 取り敢えず、夕食を済まそうと話した。

「お好み焼き、食いたい」

と言う樹絵の言葉で、準一が昔から良く行っていた、お好み焼き屋へ行く。

「したら、ビールで一杯、飲みたい所だ」

「どうせ近所だろ? このまま、歩いて行ったら良いよ」

のんびりと夜の街を、散歩がてら歩いて行った。

 歩きながら、樹絵がチョコレートを、バックから取り出した。

「はい、甘党のジュン特製、巨大手作りチョコ」

「樹絵ちゃんが作ったのか?」

「里沙に教えてもらって、板チョコを湯銭で溶かして、型に入れただけだよ。 作ったって程の事はしてないけどね。 けど、板チョコ4枚使った」

 ニコリと樹絵が笑う。

「質より量で、OK! 流石だね」

「付き合い、長いからね」

仄々と、のんびりムードの漂う二人だった。

 その夜、樹絵は、準一の部屋へ泊まってしまった。



 準一は丁度この頃、新しい出会いを経験していた。 派遣バイトで雑用を手伝ったカメラマンが、準一の才能を買ってくれた。

 カメラの才能とは違う。 被写体にリラックスをさせる事が得意だ。

 始めて準一と仕事をした時、その事に気付いたカメラマンは、その日のバイト後に直接の連絡先を交換した。 それ以降、手が必要になると派遣を通さずに、直接、準一へ連絡を入れてくれる様になっていた。

 準一にも、その仕事は中々、楽しかった。 カメラマンの人柄も、準一には気楽な感じの人だった。



 このバレンタインデー、樹絵と準一は朝まで一緒に過ごした。 とは言っても、両親も居る。

 少しゲームをし、樹絵から貰ったチョコレートを摘みに酒を飲み、最近の仕事の話などしてから、準一のベッドを樹絵が借りて、準一は来客用の布団で大人しく眠った。


『樹絵ちゃんが、あの下宿を出たら、一人暮らしでも始めるかな?』

 準一は布団に入り、既にぐっすり眠っている樹絵の寝息を聞きながら、何と無く、そんな事を思っていた。

『どーせ、金は余ってるし』

透子に、必死でアタックしていた頃から続けていた貯金が、漸く役に立ちそうだと思った。

『……トー子さんにも、紹介、しないとな』

思いながら、酒が回って、ウトウトとし始めた。

 その夜、準一は、夢を見た。


 透子から完全に振られた、あの水族館で、樹絵と二人で回遊魚を眺めて、笑っていた。 大きな水槽から視線を感じて振り向くと、何故か透子が人魚のコスプレをして、二人を指差して楽しげに笑っていた。

 透子は笑った拍子に水を飲んでしまって、慌てて浮上して行った。



 はたと目を覚まして、準一は思った。

『トー子さん、人魚のコスプレって…、…それって……』 吹き出してしまった。

『余りにも、あのヒトらし過ぎる……!』 笑い出して、収まらなくなる。


 クククククと、腹を抱えて笑い続けていると、樹絵が目を覚ましてしまった。

「……ジュン、どーした?」

 寝ぼけた目を擦りながら、樹絵が半身を起こした。 ベッド脇の、床に敷いた布団で笑い続ける準一を、不思議そうに眺める。

「ごめん、起こした? あ、余りにも、可笑し過ぎる夢、見た」

樹絵も起きてしまった。 準一は、抑えていた笑いを開放した。

「どんな夢、見たんだ?」

うつ伏せになり、ベッドへ突いた両腕に、顎を預けて問い掛ける。

 準一から夢の話を聞いて、樹絵は目を丸くした。 想像して、樹絵も笑い出してしまう。

夜が明ける迄には、まだ四時間はある、午前三時頃の話だった。




 この年、この日。 宏治と里真にとっては、寂しい冬の日となった。


 宏治は、朱美との関係が、まだ続いていた。

 平日に会えない里真と、十二日に約束をした。


 何時も通り、ドライブデートだった。 里真の呟きに答えて、冬の海を目指して、走らせた。

 海に到着し、温かい飲み物を宏治が買って来た。 車の外に出るのは流石に寒過ぎる。 二人はフロント硝子を通して、車中から荒い冬の波を眺めていた。


 切り出したのは、里真だ。 身を寄せ、肩を抱いて貰って、呟いた。

「……ね、宏治」

宏治は、軽く里真を見て、目で問い掛ける。

「……もしかして、……他に、好きなヒト、出来たの?」


 手から。 肩に凭れた頭から。 里真の鼓動が、伝わった。


「どうして、そう思ったんだ?」

「……最近、前より連絡、取り難くなっちゃったし……。 偶に会っても、上の空の時が、悲しい顔の時と、半分ずつなの」

「……おれは、そんな態度を取っていたのか」

 小さく頷く里真の動きを、肩に感じた。

「だから。 もしかして、私よりも気になる人が、出来たのかと思ったの」

里真の身体が、細かく震え出した。

 泣き始めたのだと、体で実感してしまった。

「……私は、宏治の事、好きだよ? ……今までも、今も、……多分、これからも」

言葉が切れて、小さく啜り上げた。

「だけど、……宏治は。 ……私、今の貴方の心、引き止める方法、解らない……」


 愛している、と、言ってやりたいと思う。

 けれど、今の自分に、里真に愛の言葉を囁く資格は……、無い。


「ごめんな。 長い間、辛い思いさせて来た」

「……どうして謝るの? ……心変わりは、……あっても、仕方ない」


 宏治の優しい声に、里真の心が揺れた。

『私だって……』

里真は、去年の夏からアタックしてくる同僚に、少しだけ気持ちを惹かれ始めていた。

 それでも、宏治以上に好きになれる自信は、無いと感じていた。


「……ごめんね、私も嘘、言っちゃった。 ホントは、心変わりなんて、して欲しくないよ? ……でも、もしかして……」

 やっぱり、自分達は。 ……住む世界が、違い過ぎていたのかもしれない。

「……もう、私に出来る事は、無いのかな……」


 他に、好きな女が出来た事にしてしまった方が、良いのかもしれない。

 それならば、悪役は自分だ。 里真は綺麗な心のままで、新しい恋に出会う事が出来るかもしれない。

 悲しい決心が、宏治の口を付いて、里真の心を傷つけてしまった。


 それ切り、里真の自宅前へ着くまでは、何も会話が無かった。


 サヨナラをする時に、里真が宏治に告げた。

「……宏治に出会えて、幸せだったよ。 私は、ずっと忘れない」

助手席のドアを開けて、里真が車を降りた。 そのまま、真っ直ぐに玄関へ向かう。

 ドアに里真の影が消えてから、宏治は車を出した。



 帰宅して車を降りる時に、助手席に置き去りにされたチョコレートを、宏治は見つけた。


『……里真、ごめんな。 ……愛しい想いは、まだ……』   残っていたのに。


里真の置いて行ったチョコには、メッセージカードが、挟まっていた。

「今まで、ありがとう」  一言だけ、そう、書いてあった。

 里真と宏治はそれ切り、会わなくなった。


 会える訳は無いと思う。 宏治は自分の裏切りを、決して許せない。 ただ、新しく誰かを好きになる事も、当分は無いだろうと感じている。


 朱美とは、まだ続いている。 二人の間に恋愛感情は無い。 最後まで、お互いに失恋の傷を慰め合う関係のままだった。




 二月二十日から三日間掛けて、利知未が受けた、医師国家資格試験が行われた。 期間中、帰宅しては翌日の試験科目勉強を繰り返し、全日程後、漸く落ち着いて、見直し勉強をして見た。

 加藤との約束が果たされるのは、三月に入ってから、利知未が無事に卒業をした後の、春休みになりそうだった。



 見直し勉強を終え、十二時を過ぎてから、利知未がキッチンへ出て来た。

「首尾は?」

「まだ、起きてたのか?」

「お前が頑張ってるのに、眠ってられるか」

「…の割に、晩酌中か」

「悪い。 明日は、休みだからな」

「日曜だね」

「お前も飲むか?」

「少し、飲もうか」

利知未は歯を磨きに、洗面所へ向かう途中だった。

 取り止めて、ダイニングチェアに腰を下ろす。 倉真がロックを作ってくれた。

「サンキュ」

グラスを受け取って、笑顔を見せる。

「取り敢えず、何とか大丈夫だと思う」

「そうか。 お疲れ」

「お疲れ」

乾杯をして口を付けた。


「一週間、飲まなかっただけなのに、…美味い、じゃ無くて、美味しいな」

 言い直した利知未に、倉真が目を丸くした。

「何? 何か、ヘン?」

「いや。 どうした心境の変化かと、思った」

「これからは、気を付け様と思って。 仕事、始まるだろ…、じゃなくて、始まるから」

「病院で、化けの皮が剥がれない為にか?」

「化けの皮って、酷い言い草だな。 …ま、そんなトコ」

「何時まで、持つかな」

「何時までも、持たせるよ。 元々、相手によって言葉、変わってたし」

「ストレス死、するなよ?」

「ストレス溜まる前に、倉真に甘える」

ニコリと可愛い笑顔を見せる。 ここへ来て、また利知未の新しい表情発見だ。

 改めて、これから先も飽きる事は無さそうだ、と思った。


 暫くして、利知未がタバコを持って来た。 銘柄が変わっていた。

「それも、今後の為か?」

「変えたばっかりだよ。 やっと、慣れた」

「メンソールか。 男が吸うと不能になるって、言ってたヤツがいたな」

「俗説だよ。 ただ、口当たりが軽過ぎて、本数が増えちゃうんだよな」

「アンマ、意味無さそうだな」

「そーかも」

火を着けて軽く吸い込み、吐き出す。

「今日は、ゆっくり眠れそうだ」

ホンの二杯で、大欠伸が出てくる。

「やっと、睡眠時間が増えるな」

「だね。 ……けど、重荷が下りたら」

その先を言わなくても、伝わってしまった。

「ンじゃ、とっとと歯、磨いて来るか」

「うん。 グラス、片付けてから行くよ」

「おお」

 それから十分後には、ベッドの上にいた。


 ここの所、こちらもご無沙汰だった。 お互いに、すっかり求め合う気持ちが高まっていた。

 早く眠るどころでは、無くなってしまった。



 三日後、直ぐに卒業式がやって来た。 卒業と同時に、利知未は無事に医師免許を手にした。 その後、十日間だけ春休みだった。

 直ぐに、利知未は研修医として、二年間実習で世話になった大学病院へ、勤める事になる。


 当時の二年間の研修医義務は、努力目標として設定されているだけだ。 人によっては、直ぐに医師として何処かの病院で働き始める者も居る。

 中には親の病院を手伝うと言う、恵まれた境遇の者もいた。 そう言った者達は、将来、親の器をそのまま、引き継ぐ事が出来る。


 短い春休みの間に透子の結婚式があり、加藤とのお茶の約束も、漸く果たす事が出来る。 透子の結婚式は、四日・土曜日に行われた。



 透子の友人として列席した。 透子の学部仲間の一部は、招待客だ。 教授の結婚式でもあるのだから、当然ではある。

 何か仕出かすのでは無いかと、利知未はやや構えていた。 透子の事だから、考えられない事ではない。

 しかし、仕出かしたのでは無く、利知未がやらされてしまった。



 披露宴の二時間前に、花嫁の控え室に呼ばれて顔を出した。

「おめでとう」

祝いの言葉を掛けた利知未を、透子が振り向いた。

綺麗なウエディングドレス姿の透子が、その格好に不似合いな含み笑いをしていた。

「よ、ご苦労。 利知未、アンタまだギター弾けるよね?」

「いきなり、何なんだ?」

ドレスの裾で隠れていた足元から、何かを取り出して寄越した。

「知り合いに借りてきた。 ヨロシク」

「ヨロシク?」

「親友の結婚式に、ウエディングソングを歌う友人の姿は、ポピュラーだよな?」

「…やらせる気か?」

「祝辞、して貰おうと思ったんだけど。 それじゃ、面白くないからな」

「もう何年も、弾いてないぞ?」

「だから、披露宴までの二時間で、キッチリ練習、ヨロシク。 ココ、使っていいから」

「……早くに呼び出して、何を考えているのかと思えば」

「利知未に歌わせたい曲の準備も、整ってるから」

 アッケラカンと言い放つ透子から、コード譜を渡されてしまった。

「CDも在るぞ?」

「…二時間で、人前で披露出来るまで、練習しろってか?」

「聞いたこと、ある曲だと思うから。 平気でしょ? じゃ、あたしは忙しいから。 これから、先に写真撮影するらしい。 ヨロシク」

言っている内に、係員が花嫁を呼びに現れた。


 透子は利知未を控え室へ置いて、出て行ってしまった。

「ったく」

溜息をついて、ギターのチューニングを確かめて見た。

『しゃーない。 ……透子には、世話に成りっ放しだったからな』

譜面を見て、練習を始めた。

 披露宴までに、利知未はキッチリ、一曲モノにしてしまった。


 透子の要望通りに、祝辞の時間の一部を使って歌を歌った。 式場の協力の下、スポットライトに照らされて、およそ八年ぶりで、単独ミニライブとなってしまった。

 新郎新婦は大いに楽しんでくれた。 会場からも大きな拍手を貰った。

 演奏を終え、照れ臭くなって、挨拶もそこそこに引っ込んで、ロビーで一服つけてしまった。


 利知未と透子の友情は、これから先も長く続いて行く事になりそうだ。





          九   (エピローグに変えて)


 透子の結婚式の翌日、加藤の家へ、二人でお邪魔した。

 加藤の母親は、お菓子作りが趣味と言う、若々しい人だった。


 二人とも、甘いものは余り食べられない。 二人にだけ判る、引き攣った笑顔で礼を言って、加藤親子の世間話に付き合った。

 何時か加藤が言っていた、深い両スリットが入ったチャイナドレスを、お近づきの印にと言ってプレゼントしてくれた。

 ……何時、着る事が出来るのかは、謎である。


 加藤母の手作り菓子を戴いて、利知未は下宿の事を思い出した。

『里沙、よく、ケーキを作ってたな』

利知未の為に甘さ控えめのケーキを、大学受験の十八歳の誕生日に、出してくれた事もあった。


  皆は、元気でやっているのだろうか……?




 下宿の店子一年生達は、すっかり打ち解けていた。

 姉の由梨は、今までの店子の中では、玲子タイプだ。 真面目な優等生である。

 妹の壬玖は、強いて言えば里真タイプだろうか。 可愛らしいけれど、リーダーシップを取りたがる、中々に活発な少女だ。

 よく、姉妹喧嘩をしている。 その度に、壬玖の話し相手は双子の役目だ。

 由梨は時々、妹の悪い所を辛口な調子で、冴吏に聞いて貰う事がある。


 朝美は、下宿店子の関係相関図を、里沙と話し合う事がある。 それでも大きな問題が起きる事もなく、取り敢えず半年は過ぎて来た。


 三月の末には、冴吏が店子から抜ける。

 何時か、朝美が結婚でもする事になった時には、後を引き継ぐと約束をしていた。 それまでは仕事の傍ら、作家としての創作活動に専念する予定だ。 その為の独立である。

 作家としても、徐々に名前が知られ始めた。 そろそろ、二年間続けて来た中編小説が、ハードカバー本になる話も出始めていた。

 その前に、書き溜めてあった短編集が、一足先に店頭へ並ぶ。

 短編集の発売は、今年の五月になる筈だった。


 樹絵も三月の末には、九年間住み慣れた、賑やかな下宿を後にする。

 その先の、準一との関係には多少の心配も、勿論ある。

『けど、アイツのこと心配してたら、心がいくつあっても、足りないよな』 と、覚悟を決めた。

相変わらず呑気で軽い準一は、目を離したら何処へ飛んで行ってしまうのか、よく判らない。

 準一が、危ない所へ飛んで行ってしまう前に、この街へ戻って来たいと考えている。

『恋人が警官だったら、危ないヤツ等の方から、近寄って来ないかもしれないし』

 今は、そう思う事にしていた。

 ……先は、マダマダ、長い。


 美加も、最近では、すっかりお姉さんらしくなって来た。

 中学生姉妹の勉強は、美香が見てあげる事が多かった。



 和泉は、相変わらず年に一度は、アメリカへ渡る。

 牧場の経営に携わる話は、暫くは保留だ。 それでも、北海道での住み込みバイトの内に、家畜人工授精師の免許は取得していた。

 次は、二級認定牛削蹄師(うしさくていし)でも、目指して見ようと考えている。


 何処まで続けられるかは判らないが、由香子の事は真面目に考えていた。


 由香子は、アメリカでの生活にも慣れ、友人も沢山出来た。

 年に一度、和泉が来てくれるのを、毎年、首を長くして待っている。 身近にボーイフレンドも何人か居るが、ステディな関係なのは、今の所、和泉のみだ。

 もしも、このまま続けていけるのなら。 将来は、日本に戻ることも考え始めていた。




 利知未の春休み最終日は、三月十二日、日曜日だ。

 前日の十一日、土曜日は、倉真も休みだ。 二人の休日が、最後の最後で連休で同じになった。


 土曜の夜。 二人は何時も通りに、リビングで晩酌をしている。

「明後日から、社会人な訳だ」

倉真の身体に自分の背中を凭れさせて、利知未がふいに言う。

「そうだな。 社会人としては、俺の方が先輩って事だ」

「……そんなに、嬉しい?」

「そりゃ、唯一、お前より先に行ってる事だからな」

「ヘンなの。 二人で何か競ったって、仕方ない気がするけどな」

「男のプライドってヤツだ。 どうせ、稼ぎも追いつけネーだろーからな」

「やっぱ、女よりも何か秀でた物が無いと、やり難いのかな……?」

「普通、そうなんじゃネーか?」

「けど、倉真は、あたしよりも優れたもの、色々持ってると思うけどな」

「例えば、何だよ?」

「バイクの運転と整備は、完全に倉真の勝ちだ。 体力だって、力だって、いつの間にか凄い差が、出来てたし」

「そりゃ、仕事と、元々の肉体的要素ってヤツだろ?」

「それじゃ、イヤなの?」

「イマイチ、満足できネーな」

「稼ぎとか、社会的地位とか、人間性には関係ないとも思うけど」

「人間性ね。 ……それが、お前よりも優れてるんなら、焦る事もないんだろうけどな」

「……もしかして、何かコンプレックス、感じてたりする?」

「コンプレックスってのは、チョイ違うな。 違うと、思いたいよ」


 倉真が、そんな風に思っているのなら、それは違うと、利知未は言いたい。

 けれど上手い言葉は中々、思い浮かばなかった。

『……それなら』  行動で、示してしまおうと思う。

自分は、倉真が居なければ駄目だと言う、その想いを。


 グラスを置いて、身を捩る様にして倉真に身体を預けた。 首に手を回して、確りと抱しめる。

「利知未?」

「……このまま、じっとしててよ。 ……倉真」


 倉真の頭が、利知未の首筋にピタリと止まる。 温かさと呼吸を感じて、目を閉じた。

 益々、ピタリとくっ付いた利知未の身体に、倉真も腕を回して行った。


 抱しめられて、利知未が囁く。

「……ね、先輩。 後輩に、何か激励の言葉、くれない?」

「頑張れ、で、良いのか?」

「うん。頑張る。 ……疲れたら、甘えさせてよね? 倉真。 倉真が居てくれれば、きっとで頑張れるから」

「……お前が、それで元気になるなら、いくらでも甘えてくれよ」

「倉真以外の人に抱しめられても、元気には なれないよ」


 ゆっくりと、身を離して、キスを交わした。

 唇を離して、見詰め合った。


「自信、持ってよね?」

「……そうだな」

「でなきゃ、甘えられなくなっちゃうよ」


 二月の、弓恵と出会った、あの日頃から。 利知未は倉真の前で、益々、可愛い様子を見せ始めた。 今日もワンピース姿だ。



 倉真は、ここまでの、二人で過ごして来た年月を思う。


 始めは格好イイ兄貴だったセガワを、その正体を知り、一年後には、心の奥で愛し始めていた。

 その事に気付くまでには、色々な事が合った。

 綾子との関係も、今となっては、自分が成長するための試練だったのかもしれない。


「始めてお前の事、意識した切掛け思い出した」

「何時?」

「宏治の部屋で、寝ぼけて、お前の胸、触っちまった日だ」

「そんなこともあったよね。 ……スケベ」

「スケベって事、有るかよ? 純情な少年だったんだ」

「今の倉真からは、想像出来ないよね。 旺盛過ぎて、大変だよ」

「旺盛っての、判ってるんなら。 ……今、我慢できなくなってる事、判るか?」

「……ベッド、行こうか?」

 返事の変わりに、立ち上がって、利知未を抱え上げてしまった。

「ちょっと、倉真?」

「このまま、連れてく」

「……敵わないな」

素直に、抱き上げられたまま、部屋を移動してしまった。



 確りと、お互いの存在と愛情を確かめ合った。

 何度も抱き合って、漸く身体を離して、寄り添って話した。


「明日、タンデムで出掛けない?」

「運転、しないのか?」

「……偶には、呑気に風を感じたいな」

「何処まで行く?」

「そうだな。 何時か、倉真の後ろに乗って行った、海の公園でも目指してみようか?」

「いいな。 初日の出も、あそこで見たよな」

「そうだね」

 利知未が身体を軽く起こして、倉真の顔を覗き込んだ。

「……もっと、二人きりの思い出、沢山作ろう?」

「ああ」

利知未の笑顔を見て、その身体を引き寄せる。

 利知未が、小さな欠伸をした。 倉真も釣られて、欠伸が出てくる。

「……眠くなって来た。 お休み」

 そのまま倉真の腕の中で、利知未は朝まで、ぐっすりと眠った。



 翌日、約束通り、タンデムで海の公園を目指した。


 バイクを降りて砂浜に腰掛けて、二人、寄り添っていた。 何時か、夜の公園で過ごした時とは、二人の距離が全く違う。

 50センチの二人の距離は、今、ほんの少しの隙間も無くなっていた。

「……ね、倉真」

「なんだ?」

「倉真が、他の女の子と居るだけで、イライラするようになっちゃったよ」

「そりゃ、嬉しいな」

「……だから、もう、他の女に目が行かないくらい、いい女で、居続けたいと思ってる。 ……ちゃんと、受け止めてくれるよね?」

「……他のヤツに、渡して堪るかよ」

「ありがとう。 凄く、嬉しいよ。 ……これからも、ずっと……」


 顔を上げ、倉真の唇に、自分の唇を重ねる。

 キスをしながら、囁いた。


「……愛してるよ。 倉真」



 春の波が、静かに寄せては、返していく。

 優しい波音に包まれる中で、二人の時間は止まっていた。




    二〇〇六年八月十七日 利知未シリーズ本編 最後のお話  ジェラシー  了

       (2008年2月22日 改定 了)


 此処までの長いお付き合い、本当にありがとうございました。 心より、お礼申し上げます。


 この章のラストを切っ掛けに、利知未はもっと女性らしくなろうと努力を始めます。 そこを、利知未の成長物語として、本編の区切りとしようと思い、書いておりました。



 ここから先の、番外編として作った結婚までのお話が後、少しあります。 そちらは全体的に、利知未よりも倉真が頑張るお話しになっていたりします。


 番外編は、直しが進みましたら単発で上げていこうかと思います。 連載としては、ここで終了となります。 ここまで読んで下さいまして、本当にありがとうございます。

 先のお話のアップ時期は未定ですが、また掲載できましたら、『お喋り広場』内、掲示板をお借りして、ご案内させて頂きたいと思います。(また、「利知未シリーズ」 と、キーワードに入れておきます)


 それでは、また皆様と作品を通して、お会いできますよう心よりお祈り申し上げます。

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