インターン編 三 章
利知未の結婚までの物語、インターン編は、1990年代後半頃を時代背景として設定されています。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。実際の団体、地域などと一切、関係ございません)
年末、倉真の浮気を疑った利知未は、倉真と付き合い始めてから、初めての大喧嘩となってしまった。その大喧嘩を収め、二人は同棲を始める事にした。
インターン二年目に入る春。 利知未と倉真は、新しく二人で暮らす部屋へと、引っ越してきた。
また此処から、二人の新しい関係が始まる。
三 章 二人暮らし
一
利知未と倉真の、同棲生活が始まった。 利知未がインターン二年目を迎える年の、四月三日・日曜日の事だ。
それぞれの一人暮らしの部屋から、新しい部屋へ荷物が運び込まれた。
キッチン周りとその他の電化製品は、主に利知未の物を使う事にして、倉真が今まで使っていた洗濯機や冷蔵庫、炊飯ジャー等は、あらかた処分してしまった。
単に、利知未の持っていた物の方が、新しいと言う理由だ。
寝室には大きなベッドが一台、入る。 二人で、探しに行ったベッドだ。
パソコンデスクは悩んだ末に、寝室へ置く事にした。
洋服ダンスも、まだ随分と空きがあった利知未の箪笥を持ち込む。 寝室へクローゼットを入れ、リビングへ和箪笥と、本棚を置いた。
洋室なのでテーブルやソファも、そのまま移動だ。 こちらはリビングへ鎮座する。 新たに三人掛けのソファだけ買ってくる事にした。
倉真の丸座卓は、準一が引き取って行った。 テレビは、ビデオ付きで秋絵が貰った。 新しい部屋の家具は、殆ど利知未の物が占めている。
ダイニングテーブルは、倉真の二人用を持ち込んだ。
「コイツも随分、古くなって来たよな」
キッチンへ据えたダイニングテーブルを眺めて、倉真が呟いた。
まだ新しい頃、醤油指しを倒して付いたシミが、薄くぼやけている。
綾子と生活をしていた頃の痕だ。 暫く眺めて、新しいテーブルクロスを買って来ようと思った。
利知未は寝室に決めた八畳間で、二人の洋服が入ったダンボールを整理していた。
ハンガーへ掛けて置いた方がいい物と、箪笥へ仕舞っても構わない物を選り分けて、ベッドの上とダンボール箱の中へ振り分けている。
倉真が食器と調理器具をダンボールから出していると、黒光りした羽を持ったすばしっこいヤツが飛び出して来た。
「コイツ、俺の部屋から紛れたか?」
倉真の住んでいたアパートは、不潔な訳ではないが古かった。 偶に何処かから紛れ込んで来るヤツがいた。
追いかけ始めた時、利知未が寝室から、ダンボール箱を抱えて現れる。
「倉真、こっちの服は、隣の部屋でいいよな……?」
「任せる」
すばしっこいヤツに集中していた倉真は、短く答えた。
ドサッと、何かが落ちる音がする。 顔を上げてみた。
利知未が抱え持っていたダンボール箱をその場に置き去りにして、すばやく寝室のドアへ消えた。
バタン! と音を立てて、ドアを乱暴に閉める。
「どーした? 何かあったか?」
異常な行動に倉真が心配して、寝室のドアノブをガチャっと回した。
物凄い力で抑え付けられていた。 ドアの向こうから、利知未の声がした。
「開けるな! アレがこの部屋へ入ったら、眠れなくなる!!」
「利知未?」
「退治するまでこの部屋、出ないから! 早く何とかしてくれ!」
「って、お前、ゴキブリそんなに苦手なのか?」
「わー! 名前も聞きたくない!」
『ゴキブリ』の言葉に合わせて叫んだ。
利知未の様子に驚いた。 同時に、こんな可愛い所も有ったのかと感じて、少し笑ってしまう。
「了解。 退治するまで、部屋出ないでイイ」
倉真は気合を入れて、丸めた新聞紙をふりかざした。
退治して残骸を綺麗に片付けてから、利知未に声を掛けた。
「もう出て来ても、平気だぞ?」
「本当にそれだけ? まだ、居るかも知れないだろ?」
まだドアノブをガードしている。
「荷物に紛れて入ったんだよ。 もしかしたら、そっちの部屋の荷物にも、」
倉真が言い掛けると、利知未が慌てて部屋を飛び出す。
そのまま玄関へ向かって、走って行ってしまった。 靴を履きながら、利知未が叫ぶ。
「殺虫剤、買って来る!」
「財布、持ってるのか?」
倉真に言われて、ポケットを探ってみた。 すっかり、忘れて来ていた。
「……取り敢えず、貸してくれるか?」
「判った」
倉真も玄関へ出て、利知未に自分の財布を手渡した。
利知未が買い物へ出掛けている間、倉真は利知未が落としたダンボール箱を、リビングに決めた六畳間へ運び込む。 適当に上の段から埋めるようにして、仕舞って行った。
服を片付けて、キッチン用品の整理に戻った。 細かい配置は利知未に任せようと思う。 判る物だけ片付けた。
その内に利知未が、ミストタイプのゴキブリ退治を買って戻った。
利知未は戻った途端、片付けを後回しにして、殺虫剤をセットする。
「先に、やっちゃいたいから。 暫く外、出てよう」
改めて自分の財布と、少し考えてタバコをポケットへ仕舞い、倉真の背中を押して玄関を出た。
鍵を掛けて、近所の散策へ回る。
歩きながら、利知未が言う。
「鍵、これから、一本ずつ持っていれば良いか?」
「その方が良いだろ?」
一つに纏めてあった二本の鍵を、一本ずつ分けて倉真へ手渡した。
「お前、ゴキブリ…、」
「名前を出すな! ……アレは、苦手なんだ」
「悪い。 …意外で驚いた」
「どーせ。 ……前、嫌な思い出があるんだよ」
中学二年の冬休みに、裕一のアパートで起こった出来事を、倉真に始めて話した。
その間、利知未は終始、眉を潜めていた。
話し終わった頃、倉真は腹を押さえながら、クククク、と、声を殺して笑っていた。
「……そんなに、面白いか?」
憮然として利知未が言う。
「いや、悪い。 …滅多に無い出来事だよ」
話していた間の利知未の女っぽい様子に、倉真は思った。
『こんな利知未を、いつも見る事が出来るなら、タマには出て来てくれてもイイか?』
口が裂けても、言えない事ではある。
スーパー、薬局、コンビニの場所を、確かめながら散策して行った。
病院は此処からならば、利知未が実習をしている大学病院まで、駅を挟んで徒歩三十分ほどだ。 駅前にはファミレスもある。
近所にタバコとジュースの自販を確認して、倉真が言う。
「中々、住み易そうだ」
「タバコの自販か?」
「それが無いと、キツイよな」
「コンビニも近くて、助かるな。 買い物は基本的にはスーパーで良いけど」
「腕の良いコックが、居るからな」
「それは、褒め言葉でいいのか」
「そのつもりだよ」
ついでにスーパーで、今夜の食材を仕入れて行く事にした。
その他、利知未がよく利用する事になりそうな書店は、駅前にある。
倉真の職場も此処からなら、バイクで十分程度だ。
「本当に良い物件、探してくれたな」
「何か、お礼したい位だ」
お礼と言って、思い付く。
「階下と隣に粗品、持って行かないとな」
「大家にも一応、回っとくか?」
「そーだね。 じゃ、ついでに洗剤でも見て行こう」
「洗剤で、良いのか?」
「他の物よりは、良いんじゃないか?」
「そーだな。 そーするか」
他に考えても思い付かなかった。 小袋で十袋入りの手軽な物を選んで、三つ包装して貰った。
時計を見て、セットして来た殺虫剤もそろそろ終わる頃だと思い、帰宅した。
それからが大騒動だった。
倉真は利知未に命じられて、アレの死骸が転がっていない事を確認した。 それから漸く、利知未がキッチンへ入る。
階下と隣への挨拶を終え、ついでに二人で一緒に、大家の自宅へも顔を出す。
面倒な事は全て、管理会社へ任せているから良かったと言いながらも、キチンと挨拶をしに来た二人に笑顔を見せてくれた。
再び戻り、倉真が部屋の荷物を片付けている間に、利知未は食器類と調理器具を、片っ端から綺麗に洗った。
倉真は、コレが三度目の引越しだ。 作業にも手馴れたものだ。 手際良く残りの荷物を片付けてくれた。
八時を過ぎ、漸く落ち着いて、利知未が作った引越し蕎麦で夕飯になる。
蕎麦だけでは倉真の腹に足りない。 飯も二合だけ炊き、天ぷらを出す。
「二人分なら、油も無駄じゃないし」
そう言って、利知未が笑顔を見せる。
料理をしながら、二人暮らしが始まった事を実感していた。
「明日は、二人とも仕事だな」
流石に少しくたびれた様子を見せて、倉真が言った。
「入浴剤、買って来たよ。 ゆっくり風呂に入って、今日は早めに寝よう」
食事を終えて、利知未が後片付けをしている間に、倉真が入浴を済ます。
「利知未、シャンプー、どこ置いた?」
風呂場から、倉真の声がした。 食器洗いの手を止めて、利知未が答える。
「ごめん。 まだ、こっちだ」
キッチンの片隅に置いてあったスーパーのビニール袋から、シャンプーとリンスを出して、ボディーソープも持って行く。
渡してから、倉真の着替えを準備した。
『……これ、何か……、幸せだ』
ふと手が止まって、利知未の頬が優しげな微笑に解れる。
改めて着替えとバスタオルを脱衣所へ持って行き、片付けの続きを始めた。 ついでに晩酌の用意も、簡単に済ませた。
風呂から上がって、倉真が目を丸くした。
「ビールで、良いか?」
「準備、してくれてたのか?」
「今日は、倉真が頑張ってくれたからな。 摘みも作ったよ」
利知未が少し、照れ臭そうな笑顔を見せた。
「サンキュ」
嬉しそうな笑顔を、利知未へ向けた。
ダイニングチェアへ掛けた倉真に、利知未がビールを注いでくれた。
「取り敢えず、乾杯だけしないか?」
「そーだな。 グラス、もう一つ出すよ」
利知未へ酌を反して、グラスを合わせた。
「倉真、今日は、ご苦労様。 ……これから、よろしくな?」
「こっちこそ、よろしく頼む」
乾杯して、一杯だけ飲んでから、利知未が立ち上がる。
「あたしも風呂、入って来る。 適当に飲んでてくれよ?」
「ああ」
入浴準備をして、脱衣所へ消えた。
利知未が風呂を上がってから、もう暫く二人で飲んだ。 十一時頃には寝室へ引っ込んだ。
大人しく、眠る訳が無かった。
倉真は、今日一日の利知未を見て、また愛しい思いが強くなった。
利知未は、本当に二人で住み始めた事に、まだ半分、夢を見ている気分だ。
『これからは、本当に……。 ……ずっと、一緒だ』
……二度と、愛しい人を失うのは、イヤだ。 ……怖い。
喧嘩別れとか自然消滅なら、まだマシだ。 もう二度と巡り合いたくないのは、ただ一つ。 ……死に別れ。
抱かれながら、利知未は心からそう思った。
利知未を抱きながら、倉真はふと感じた。
『……マジ、何時か、コイツに』
プロポーズをする日が必ず来ると、何故か確信した。
優に言われた言葉も、勿論、響いている。
翌朝。 新しい環境に移って、最初の一日が始まった。
利知未は六時半には起き出した。 倉真が家を出るのは八時過ぎだ。 七時半までは眠らせて置いてやりたいと思った。 なるべく静かに、二人分の朝食を作った。
倉真は、七時には目が覚めてしまった。 習慣だ。 今までは自分で朝食の準備をして、口へ掻き込む様にして食事を済ませ、急いでアパートを出ていた。
目覚めて、いつもと違う天井に一瞬、焦ってしまった。 ベッドも広い。
『……そうか、昨日から、利知未と』 住み始めたのだと、改めて思った。
じんわりと、嬉しさが込み上げる。
キッチンからの、美味そうな飯の匂いに誘われて起き出した。
七時に起き出して来た倉真を見て、利知未が笑顔で挨拶をする。
「おはよう。 早かったな、今、飯の準備してる所だよ」
朝から利知未がキッチンへ立っている光景に出会って、倉真はつい、呟いてしまう。
「……何ツーか、……幸せを感じるな」
倉真らしくない言葉に、利知未は軽く吹き出してしまった。
「七時半になったら、声掛けようと思っていたんだ。 取り敢えず、歯、研いて来いよ?」
「そーだな。 ……サンキュ」
「どういたしまして」
笑顔で返して、朝食の準備を続けた。
倉真は、洗面台の鏡に向かいながら、感慨に浸ってしまう。
『殆ど、結婚したのと変らないな』
昨夜から、今朝に掛けての利知未の態度、飯の準備。 一つのベッドで、夜を越す日々。
これから、ずっとこの生活が続いて行くのだと、改めて実感する。
『マジ、頑張らネーとな』 そう思う。
軽く鬚をあたって、顔を洗った。 倉真も当然、そんな歳だ。それほど濃い感じでは無い。
利知未と向かい合って、朝食を取った。 時計を見て、利知未が立つ。
「そろそろ、出ないとな」
「まだ、早くネーか?」
「折角、病院が近くなったし。 出来るだけ、歩いて行こうと思って」
「そーか。 じゃ、片付けはやってくよ」
「サンキュ、任せた」
食器を流しへ出して、軽く水で流し、桶に浸けた。
リビングへ入り、荷物を持って、玄関へ向かい掛ける。
「あ、忘れ物」
「何だ?」
顔を上げた倉真の頬へ、軽くキスをした。
「行って来る」
「…おお」
笑顔の利知未を、一瞬呆けて、見てしまった。
少し照れながら、利知未が言った。
「何、惚けた顔、してるんだ?」
倉真が返事を返す前に、利知未は背中を向けて、玄関へ向かい直した。
玄関の扉を開ける音を聞いて、気が戻って声を掛ける。
「気を付けろよ?」
「倉真も! じゃーな」
扉を閉める音を聞いて、利知未が外廊下を歩いて行く影を、キッチンの窓に見た。
へへ、と、小さく笑みが漏れた。
倉真は、八時十分には部屋を出ようと思う。 立ち上がり、食器を鼻歌交じりで片付けた。 それでも、呑気に一服する時間が残った。
準備を終えて部屋を出る。 玄関へ置いてあったゴミの袋が無くなっていた。 利知未が、持って行ったんだろうと思う。
靴を履き、玄関を出て鍵を掛け、腰のチェーンホルダーへ、引っ掛けた。
チェーンの音をチャラチャラ鳴らしながら、外階段を降りて行く。
八時二十分には整備工場へ到着した。 時計を見て、改めて少し嬉しく感じる。 朝から上機嫌な倉真を見て、保坂が突っ込んだ。
「何か、イイ事でもあったのか?」
「引越し、したんすよ。 ココまで近くなった」
「そりゃ、良かったな」
「ムチャクチャ、イイ事だらけだ」
倉真の見せた笑顔に、保坂も釣られて笑顔を見せた。
朝の空気を吸いながら、利知未の足の運びも軽やかだった。
倉真が整備工場へ着いた、同じ頃。
利知未も服を着替えて、仕事を始めていた。 今日も救急外来の手伝いに回る。 春休み中のバイト時間は、毎日の事だった。
今日も、忙しくなりそうだと思う。 改めて、頑張ろうと言う気分になれた。
四月四日、月曜日。 二人の同棲生活は、こうして始まった。
倉真は、その日の仕事帰りにホームセンターへ回り、新しいテーブルクロスを買ってから帰宅した。
二
春休みは四月十日で終わる。 里沙の下宿に残っている、双子の樹絵と秋絵も、大学三年になる。
美加も大学生だ。 無事、希望通りの進路を決めた。
冴吏は、今年で大学四年。 就職をどうしようかと、この頃、漸く考え始めた。
『作家で、何処まで出来るか判らないから。 定収入の確保も、必要だな』
そう思う。 それでも、この就職難の時代において、同級生達に比べれば、随分のんびりとしたスタートだ。
冴吏の連載は、中編と言う事で1クール6ヶ月で進めて来た。
お陰さまで、9月号の掲載が終わった後も読者からの評判が良く、その四ヵ月後から第二段を掲載させて貰っている。
ハードカバーブックを出すのも、それほど遠い事では無さそうだ。
双子は三年の夏から、就職活動をする事になりそうだ。
教育学部に居るからと言って、教師になるつもりは始めから無かった。
「取り敢えず、教員免許だけは取って置かないと勿体無いよね」
「一応、大学も真面目に行ってるしな。 ……その方が良いとは、思うけど」
秋絵の意見にも、樹絵はそれ程、積極的ではない感じだ。
「樹絵、免許取る気、無い訳?」
「……教師って、柄じゃないと思わないか?」
「体育教師でしょ? 似合ってると思うけどな」
「…そーかな」
リビングで、二人で話しながら、秋絵は樹絵の反応に首を傾げていた。
樹絵は、昔から警官に憧れていた。 先の事を、そろそろ真面目に考えなければならない、この時期になって、悩み始めてしまった。
まだ、誰にも話してはいない事だ。
新学期が始まり、利知未の事情がまた変る。
「今年は、火曜と木曜が午前講義だ」
「休めるのか?」
「基本的には、月曜日に休める筈だけどな。 倉真の誕生日もバイトだよ」
「それは、気にしなくて良いぜ。 今は、一日一度はお前に会える」
「……面と向かって言われると、何と無く照れ臭いな……」
「言ってる方も、照れ臭い。 ……と言うか、お前が赤くなるからだ」
四月十一日の夜、バイトまで終え帰宅した利知未と、晩酌をしていた。
「何だよ、それ」
利知未が少し膨れた。 倉真にとっては、利知未の膨れっ面は可愛い顔の一つに数えられる。 軽く頬が緩んでしまう。
利知未は、倉真と過ごす時間、昔、裕一と居た頃の自分を少し取り戻す。
「そう言えば、倉真は兄貴なんだよな」
「家族構成を言っているのか?」
「宏治が、倉真には妹が居るって、言ってたのを思い出した」
「四歳違いだ」
「じゃ、今年で十九歳か」
「その筈だな」
「大学、行ってるのか?」
「殆ど、連絡も取ってネーからな。 多分、行ってるんじゃないか?」
正月の年賀状を、思い出した。 今年、受験だと書いてあった。 無事に合格していれば、今頃は女子大生だ。
「あたしは、末っ子なんだよな」
「何か、イメージし難くかったんだけどな、今までは」
「どういう意味だよ?」
「最近は納得できる」
「どーせ。 甘えてるとか、言いたいんだろ?」
「チョイ、違うが…、ま、そんな所か」
「よく分からネー。 その感想」
「判らなくて、いいよ」
少し憮然とした利知未を見て、言葉にはしないで思った。
『甘えていると言うか、甘え上手だったんだよな』
一緒に住み始めて、そう感じるようになって来ていた。
倉真の操縦が、上手いだけかもしれない。 気付くと、色々と家事を手伝っている事が多い様な気がする。
「明日も仕事だ。 風呂入って寝るか」
考えを中断して、グラスのロックを飲み切った。 倉真が立ち上がる。
「着替え出しとくよ」
「頼む」
「ごゆっくり」
自然な雰囲気だ。 利知未は、倉真の世話を焼く事が楽しいと感じている。
幸せとは、こんな何気ない日常の、積み重ねでは無いかと思う。
利知未から一美の事を聞かれて、倉真は少しだけ家族を思い出す。
正月に来た一美からの年賀葉書に、母親はもう諦めているみたいだと書いてあった。 父親は恐らく、まだ自分の後を継いで欲しいと願っているのだろうと思う。
『そー言われてもな……。 和菓子職人なんざ、柄じゃネーよ』
風呂に浸かりながら、自分のこれまでを思い出していた。
実家を飛び出して、そろそろ丸六年が経とうとしている。
あの頃、毎日のように父親と大喧嘩をして、ついと高校も勝手に中退をしてしまった。 自宅に居るよりは、克己の部屋や、宏治の家に転がり込んでいた方が多かった。
昔から腕白で、両親には迷惑ばかり掛けて来た。 補導されて警察署へ迎えに来られたのも、一度や二度の話ではない。
無免許でバイクを乗り回して、ライブハウスに通い、好きなパンクロックや、へビィメタルのバンドの、ライブやコンサートへも足げく通っていた。
喧嘩も多かった。 喧嘩沙汰で警察のご厄介になったのは高校へ入ってからだが、危うく逃げ出した事は、それまでも数えられない程にある。
あの夏。 FOXと、そのボーカル・セガワに出会えなかったら、今の自分はどうなっていた事かと、改めて思う。
恐らく、前科者のリストに名前が残っていたのではないか?
名前が残っているだけなら、まだしも。 もしかしたら今頃、監獄の飯を食いながら、日々の労働に勤しんでいたとしても、不思議は無い。
『いろんな意味で、利知未は俺の恩人だ』
生活態度も男らしさも、優しさも、人を心から大切に思える気持ちも、全て利知未が教えてくれたと思う。
『絶対に、叶わない相手だと思っていた』
今も、人物としては、自分はマダマダだと思う。
それでも、雲の上に居た印象の利知未が自ら、自分の元へと降りて来てくれたとさえ感じる。
『アイツの弱さも、可愛い所も、あの頃のままの俺なら、絶対に見る事は出来なかった』
利知未には無理をしないで、素直にその弱さや悲しみを見せて貰いたいと思う。 ……自分の前でだけは、素のままで居て欲しい。
だから、利知未の膨れっ面も泣き顔も、勿論、笑顔も。 倉真にとっては可愛い素顔だ。
「倉真。 着替え、置いたよ」
脱衣所から、利知未の声が聞こえて来た。
「おお、サンキュ」
短く返事をして、湯で顔を洗う。 少し長湯をし過ぎた。
「背中でも、流すか?」
「いいよ、もう出る」
「そうか。 じゃ、あたしも準備しとこう」
声が聞こえて、利知未が脱衣所から出て行く気配を感じた。
新学期が始まり、あっという間に、一週間が過ぎてしまった。
折角、一緒に住み始めたのに、利知未の時間は今まで通り。 中々、二人の休日が重なる事は無かった。 利知未は、それが少し不満だ。
朝、起きて朝食を二人で取り、出掛けて帰宅してからは、夕食と晩酌と風呂。 勉強をしてから、就寝だ。
その生活が、春休みを過ぎてから続いている。
春休み中はそれでも、バイト時間が午後五時頃に終わっていた。
帰宅し、料理をして、自分も倉真も共に住み易い環境を整える事が、無理なく出来ていた。
『何か、倉真には甘えてばっかりだ』
倉真は当然ながら、やはり自炊をして来ていたらしい。
どうしても利知未の方が帰宅が遅くなる日、何がしらの夕食を準備してくれていた。 とは言え、倉真も帰宅が早い訳ではない。
半分は惣菜を買って来て、簡単なものを、偶には作ってくれる。
倉真の誕生日を翌日に控えた、月曜日。 利知未の休日に、考え込んでいた。
ざっと掃除を終え、洗濯機が止まる音を聞いて、洗濯物を干す。
二人分の洗濯物が、春の風にはためく光景は、相変わらず平和の象徴の様に見えていた。
青空に、白い鳩が飛んでいる光景を思い出す。
自分のインスピレーションに、少し呆れて赤くなる。
『心映像が、画面に映し出されたりしなくて、良かった……』
また、妙な感想を持つ。 どうやら、疲れているらしいと思った。 首を回し、肩の運動をして、伸びをする。 屈伸運動などもして見た。
『洗濯と掃除終わったら、先に買い物して、レポート書かないと』
今日一日の行動を考えて、溜息をついた。
明日は、バイトがある。 帰宅は、夜の八時半を過ぎるだろう。
『何か、プレゼントくらい、買って来てやろうかな』
買い物のついでに、見てこようと思った。
買い物をしていて、ふと考えた。
『そー言えば、倉真の好きな物、聞いた事無かった』
何時も、利知未の作るものは美味いといって、綺麗に平らげてくれる。
特に極端な好き嫌いは無い様子だが、それでも好きな物くらい、ある筈だろうと思った。 出来れば何か一品だけでも、今夜中に下拵えをして、朝、早起きして作ってあげられればと、考える。
『優兄は、揚げ物が好き何だよな。 チョイ、似ている所があるし……。 もしも好物まで一緒だったら、笑えるよな』
もし、そうだとしても。 揚げ物は、朝から作り置きする事は出来ない。
『今まで、一番良く食ってたのって、何だ?』
考えて、中華街で食事をした時の事を、思い出した。
『中華は結構、好きそうだった』
思い当たって、あの時、これは絶対、外せないと言いながら注文していた料理を、思い出してみた。
『麻婆豆腐に、エビチリ、酢豚もあったかも知れない。 それと、鱶鰭スープ。 ……中華の家庭料理定番が、多かったよな』
麻婆豆腐は、前に作った。 そこまで考えて、やっぱり止めようと思う。
『中華は、出来立てのが、絶対イイ』
作り置きして、温め直して美味しいものは、自分の好みで言わせて貰えれば、やはり煮物系、あるいはカレーやビーフシチュー位だろうか? おでんも美味いが、春には流石に暑苦しい。
それよりも前。 付き合い始める前から、二人でツーリングへ出掛けた時等の、ファミレスでのオーダーは何だっただろう?
そこで、アダムを思い出す。 倉真が、何時も注文していたのは……。
『ディナーディッシュ・Aが多かった』
それなら昔、高林からレシピを教えて貰ったピラフでも、作ってやろうかと考えた。 米をバターで軽く炒めてから、炊飯ジャーへセットして行けばいい。
メニューを決めて、籠の中身を入れ替えた。
翌朝六時に起き出して、夕飯の下拵えをしながら朝食の準備をした。
倉真は最近、七時二十分頃までは、眠る様になっていた。 それでも余裕だ。 朝起きて洗面を済ませて、利知未と朝食を取り、毎朝、食器は片付けてくれる。 倉真が家を出るのは、利知未よりも三十分ほど遅い。
けれど、今朝は。
バターで米と、野菜の微塵切りを炒めている良い匂いに誘われて、以前と同じ七時頃には、目覚めてしまった。
「何、作ってるんだ?」
寝ぼけ眼で、キッチンへ入った倉真を振り返り、利知未が笑顔を見せる。
「おはよう。 おこしちゃったか? 悪い。 今夜の下拵えしてるんだよ」
「適当に、何か用意しておくぜ?」
「今夜は、腹減るかも知れないけど、あたしが帰るまで待っていられるか?」
「どーせ、帰るのは八時だ。 三十分くらい、待ってるよ」
「そーか。 じゃ、晩飯、期待しててくれよ?」
言って、料理の続きをし始める。
洗面へ向かった倉真の背中に、利知未の声が追いかけてきた。
「今朝は、パンでイイよな?」
「構わネーよ」
返事を聞いて、スクランブル・エッグ・トーストを、朝食に用意した。
どうせなら今夜は、ディナーディッシュ・Aを、丸ごと再現しようと思う。 鶏肉もタレに漬け込んで冷蔵庫へ入れた。 パスタのソースも同様だ。
今日も利知未はバイト時間、救急へ回るだろうと思う。 時間が押す様な急患が入らない事を祈った。
倉真は、今日が自分の誕生日である事を、すっかり忘れていた。
何時も通りに、利知未をキッチンから見送り、朝食の片付けをして一服してから、仕事へ向かった。
倉真は今日も残業で、帰宅が八時過ぎになってしまった。 利知未を待っている間に風呂を洗い、乾いた洗濯物を取り込む。 乾燥機能付きのバスは、二人の生活に丁度良かった。
バルコニーへ干した場合は、どうしても帰宅が遅くなるため、取り込む頃にはすっかり冷えてしまう。 その上、暗くなっても洗濯物が干してある光景は、空き巣狙いには持って来いの合図になる。
下着泥棒も同じだ。 よもや倉真の下着が盗まれる様な事は無いだろうが、流石に利知未の下着は心配だ。
どちらかが休みの日はバルコニーへ干して置けるが、ウイークデーには、危ない事この上ない。
二人の条件には、その点は入っていなかった。 不動産の従業員、坂下氏の手柄である。 以前この部屋を使っていたのは、両親がかなり稼ぎのある、お嬢様大学生だったらしい。 部屋も綺麗に使ってあった。
利知未が帰宅したのは、夜8時半前だった。 かなり急いで来た。 今日はバイクで行くべきだったと今更、思う。
帰宅して、夕飯の準備をハイスピードで整えた。
ピラフは出来ている。 鶏肉を焼いている内にパスタを茹でて、ソースをレンジで温める。 三十分以内に作り上げた。
出て来た料理を見て、倉真は素直に驚いた。
「スープは、インスタントだけど。 最近、アダムのディナーディッシュにも、ご無沙汰だろ? 高林さんから教わった通りに、作って見たよ」
「急に、どうしたんだ?」
倉真に聞かれて、少し照れ臭そうに視線を外した。 後ろ手に持っていたプレゼントを、倉真の前に置く。
「誕生日おめでとう。 あたしも倉真も、甘い物はアンマ食えないからな。 変りに、何か特別な事、してあげたいと思った」
「それで、ディナーディッシュか。 サンキュ」
「好きな物、ちゃんと聞いてなかったから。 良く食べていたの思い出して、やってみたんだ。 ……取り敢えず、飯にしよう?」
「そーだな」
酒も用意して乾杯をし、九時頃から漸く夕飯になった。
倉真はアダムの味を、すっかり覚えている。 利知未のディナーディッシュは、その味と、殆ど狂いが無かった。
あっという間に、一皿、平らげてしまった。
晩酌をしながら、利知未は倉真に聞いてみた。
「倉真は、何が好きだったんだ?」
「好き嫌いは特に無いな。 貧乏暮しをしていた頃に、昔、嫌いだった物も平気になった」
「それでも、好物ぐらいあるだろ?」
「そうだな……。カレーは好きだ」
「他には?」
「カツ丼も、良く食わせてもらったな」
子供の頃から、母親が良く作ってくれていた。
「丼物は好きだな」
「カツ丼、親子丼、中華丼。 そー言えば、麻婆豆腐も丼にして食ってたな」
「中華は大体、丼にしちまうな」
「麻婆茄子や、青椒肉絲やエビチリもか?」
「飯に乗せて食うのが、好きなんだよ。 一人だったからな。 洗いモンも少なくて済むだろ?」
「そー言う理由かよ。 揚げ物とか、好きかと思った」
「天ぷらもフライも、好きだぜ? コロッケも好きだったな」
子供の頃からの、好物を上げていった。
「何て言うか……。 高カロリーな物が多いな」
「だから、体力あるんじゃネーのか?」
「あたしは、ヘルシーな方が好きだけど、体力はあるぞ?」
「野菜も栄養が豊富だから、必ず飯の惣菜に何か食えって、宏治に言われた事があるぜ?」
「って言う事は、倉真の料理の師匠は、宏治だった訳だ」
「他に、聞けるかよ? んな、照れ臭い事」
視線を逸らして、酒を飲んで誤魔化した。
「……綾子ちゃんも、色々、作ってくれてたんじゃないか?」
何気なく、気になった。
聞かない方が良いと思いながら、つい、質問してしまった。
「そーだな。 ……気になるか?」
「…ンな事、……無いって言ったら、ウソになる」
軽く、視線を逸らして、呟く様に答えた。 チラリと、倉真を見た。
「……って、ごめん。 話の流れって、ヤツだ」
倉真の真面目な顔を見て、利知未は恥ずかしくなる。
『……ジェラシーって、ヤツだな。 ……イヤだけど』
それを感じてしまった自分が、恥ずかしいと思った。
『あの頃は……。 あたしも、まだ敬太のコト好きだったし……。 この感情は、フェアじゃない』
その後、哲とマスターがあって、倉真だ。 何とか気分を切り替えた。
「ごめん、折角の誕生日に、変なこと言った」
「気にするな。 ……俺は、嬉しいと思うぜ?」
「どうして?」
「愛情の深さを、感じられる」
ニヤリと、からかう様な笑みを見せた。 利知未は赤くなってしまった。
十二時前には、それぞれ入浴を済ませた。
利知未は、一時間ほどリビングで勉強をしてからベッドへ入った。
倉真のお陰で、喧嘩にはならなくて済んだ。 ただ、自分が恥ずかしいと感じて、頭を冷やすために、医学書を開いた。
利知未が寝室へ入った時、倉真はまだ起きていた。
考え事をしていて寝付けなかった。 もう眠っている物と思って、静かにベッドへ入った利知未に、腕を構えて、その頭を乗せた。
ピタリと寄り添って、朝まで二人ぐっすりと眠った。
三
ゴールデンウイークに、漸く二人の休日が一緒になった。 利知未のバイト日の関係で、倉真の三連休中、飛び石での合致だった。
「連休で合えば、旅行も出来るんだけどな」
前日の月曜日、利知未が夕食時間に言い出した。
「態々、出掛けなくても、のんびり過ごせりゃそれでイイだろ?」
「それも、そーだけど。 せめて一日は、ツーリングへ行きたいな」
「久し振りに、遠出するか?」
「じゃ、明日じっくり行き先を決めて、明々後日でイイか?」
利知未が、少し嬉しそうな表情になる。
「季節も良いからな。 山の新緑でも眺めながら、走らせるか」
「新緑も良いけど、海岸線沿いも気持ち良さそうだ」
「そーすると、湘南から箱根か?」
「何時も通りだな」
「タマには変えるか?」
「今回は仕方ないか。 その内、どっかで一、二泊しながら、遠出して見たいとは、思うんだけどな」
「お前が夏休みに入ったら、チャンスもあるかもしれないな」
「それまでは、お預けか」
「卒業してからじゃ、もっと無理だろ?」
「…それは、言えるな」
自分で選んだ道とは言え、この先どうなる事やらと、ややウンザリした気分にもなる。
『あたしも、マダマダ未熟ってコトだ』
大人に成り切れて居ない部分が有る事は、否めないと思う。
「……今の内、か」
「大学ってのは、遊ぶために行ってる様なヤツ等の方が、多いんじゃネーか? 医大行ってる分、真面目に勉強しに行ってンだよ。 お前は」
「まぁ、法律と医術は、遊んでちゃ身に着かないモンだろうけど」
「何つーか、…お前は偉いと思うよ、俺は」
「なんだ? それ」
倉真の言葉と表情に、小さく笑ってしまった。
「それでも、あたしはまだ、遊んでいる方かもな」
「上手も居るだろ?」
倉真が指を使って、両目の目尻を下げて見せた。
「…それ、透子の事、指してるのか?」
「その、つもりだ」
まだ目尻は下げたまま、倉真が言う。 吹き出してしまった。
「無理、有り過ぎだ!」
けらけらと笑い出した。 倉真は漸く目尻を戻す。
『やっと笑ったな』
そう感じて、自分のして見せた事に、照れ臭くなってしまった。
今年度へ入ってから、利知未は塞ぎ込み気味だった。 笑顔は見せるが、大笑いは余り見た覚えが無かった。
倉真のお陰で、久し振りに声を上げて笑った。 利知未は少しだけスッキリした気分になれた。
「じゃ、明日。 資料仕入れに、行ってこよう」
気分が解れて、利知未が楽しげな表情で言った。
利知未が休みの日は、倉真はなるべく早く帰宅するようにしていた。 今日も七時半には帰宅して来た。 それでも一時間の残業だ。
残業代と住宅手当のお陰で、四月から、また金を貯める事も出来始めた。 引越し代で、かなり貯金は減ってしまっていた。
仕送りとバイト代を足す利知未の稼ぎに比べて、月5、6万は少ない。 来年、利知未が国試をパスした後には、いったいどのくらい違うのだろうと、偶に考えてしまう。
『考えても、どーなるモンじゃねーな』
今日もふと思って、小さく首を横に振った。
樹絵は、連休中に亨と旅行へ出掛けた。 飛び石の講義も休んで、ゴールデンウイーク丸々、沖縄旅行だ。 三ヶ月前から、ホテルにも予約を入れていた。
北海道へも行ってみたいと、亨が言っていたが、樹絵の実家が北海道だ。 どうせなら、樹絵も旅行気分を満喫したいと言って、行き先を決めた。
旅行中に、樹絵は始めて、少しだけ自分の夢を亨へ話した。
「警察官か。 何で、憧れたんだ?」
「昔、弟も、まだ本当に小さい頃だけど、川で溺れた事があるんだよな」
「樹絵がか?」
「弟って、言ったじゃん。 あたしも、まだ小学生になったばっかりだったから、チョット怖くて、助けに行けなかったんだよ。 河原で、どうしようって秋絵とオロオロしてたら、巡邏中の警察官が助けてくれたんだ。 すげー、イイ人でさ。 ずぶ濡れのまま放心状態だったあたし達を、家まで送って行ってくれたんだ。 春の話だけど。 川の水は雪解け水とかで、冷たいんだよ。 その人、くしゃみしながら、泣き出しちゃったあたし達の頭、撫でてくれた」
「で、その人に憧れて、警察官になりたかったんだ」
「そう。 高校出て、警察学校行く事も考えたんだけど。 あたしの身長伸びたの、進路決めた後だったんだよな」
「身長が、何か関係、有るのか?」
「婦人警察官は、身長154センチ以上、体重45キロ以上ないと、駄目なんだよ。 あたし、154センチ越したの高校三年の三学期だ」
「今は、もう少しあるよな?」
「今は、156センチあるよ。 体重は平気だ」
「45キロ、あるのか……?」
亨が小声で呟く。 いくら彼女でも、女性の体重は聞けるものじゃない。
「50は、ないぞ?」
「そりゃ、そーだろうけど」
樹絵の身体つきを、思い出して見た。 バストも大きい方ではないが、無駄な肉は殆ど付いていなかった。
「……亨、何、思い出してるんだよ?」
「……別に」
「イヤらしーな」
「って、言われてもな。 …ごめん」
「…別に、イイけど」
樹絵が、少しだけ剥れて、直ぐに表情を変える。
「だからさ、来年の就職活動のこと考え始めたら、思い出しちゃってさ。 ……このままでイイのかなって、悩み始めた」
「夢は、夢だよ。 おれだって、ガキの頃はサッカー選手に憧れてた。 近所のサッカークラブにも、入ってたんだよ? これでも」
「そうなのか? 今は、やってないよな?」
「上手いヤツは、いくらでも居るからな。 挫けたのは、中学校へ入学してからだよ。 部活で、中々、レギュラー取れなかったんだ。 二年の冬まで」
「亨の中学、サッカー部、強かったのか?」
「県大会までは、何度も行ってるよ。 で、結局、今の夢は中学教師になって、サッカー部の顧問やる事だ。 当然、全国大会目指せるだけの部に、したいと思ってるよ。 ま、先ずは、教師にならないとな」
「そう言う夢も、イイと思う」
「だろ? 下手でも、サッカーは好きだからな。 今度、観に行かないか?」
「そうだな。 あたしも、スポーツ観戦は好きだよ。 プロ目指したいと思うほどの競技はないけどね」
「やっぱ、樹絵とは趣味もあうし、最高だ。 ……卒業しても、続けたいよ」
「……そうだね」
亨は、イイヤツだ。 本当にそう思う。 好きにもなれた。
けれど、これ以上の悩みの相談は出来ないなと、樹絵は思った。
五月の下旬には、警察官採用の一次試験がある。 悩みながらも樹絵は密かに、受けるだけは、受けてみようと考えている。
ただし、一次に受からなければ二次もありえない。 第一関門を突破できたら改めて、真面目に考えようと思っていた。
利知未と倉真は、3日、行き先を考えながら過ごした。 4日は利知未のバイトがあり、5日、ツーリングへ出掛けた。
朝、早めに二人はアパートを出た。 掃除洗濯は前日、一人だけ休みで時間を持て余した倉真が、一日かけて終わらせていた。
倉真は、普段は余りやらないが、やるとなったら徹底的にやるタイプだ。 昨日、利知未が帰宅すると、狭い玄関の片隅に、小型の物置が増えていた。
「工具類は、そこに入れた。 上に、メットも二つ、乗せられるだろ?」
「態々、買って来たのか?」
「片付かなかったからな。 靴箱の下の段、埋めてただろ?」
「そりゃ、そーだったけどな」
「普段、履かない靴、箱へ入れたままクローゼットの中だっただろ。 あの靴も、靴箱へ入ったよ」
「そんなトコまで、やったのか。 ご苦労様」
少し呆れながら、利知未は笑顔で礼を言った。
「倉真は、あたしよりも綺麗好きなんじゃないか?」
「そーでも無いと思うけどな」
褒められて悪い気はしないが、照れ臭い。
「風呂場も、カビ予防しといた」
「マジ、気が利くな。 あたしも、梅雨が来る前にやりたいと思ってたんだよ。 サンキュ」
風呂場も覗いて、目を丸くする。
「時間、余ってたからな」
「待っててくれよ? 飯、直ぐ作るよ。 コンだけ頑張ったら、腹も減っただろ?」
キッチンへ戻り、利知未は夕食の準備に取り掛かった。
食事中に、利知未が言う。
「倉真は、やり始めると、トコトンやるタイプだったんだな」
「途中で止められなくなるな。 お陰で好きな事だけは、覚えも早かったぜ? ……勉強は教科書、開くのもイヤだったけどな」
「らしいよ」
軽く吹き出した。
昔、まだ倉真にセガワが利知未だと、知られていなかった頃。 セガワに教えて貰ったギターのセッション曲を練習して、完璧に仕上げていたことを思い出した。
「ギターとバイクは、上手いよな。 倉真」
「両方とも、好きな事だからな」
「整備工場、持ちたいんなら、整備士資格も必要に成るんだろ?」
「社長が入社する時、時期が来たら取りに行って来いって言っていたな」
「応援、してくれてるんだ。 良い社長だな」
「資格を取れば手当も付くしな。 成るべく早くに欲しい所だよ。 俺は先ず一年、あそこで働いて、三級から挑戦だ」
「勉強、出来るのか?」
「やるしかないだろ? その後、三年働いて二級、更に三年働いて、一級だ。 単純計算で、下準備に七年掛かるってコトだ」
「で、金も貯めないと成らないし、十五年から、二十年計画か」
「二十年として、四十三歳だ。 出来れば四十前に、実現したいよな」
「兎に角、頑張るしかない」
「そー言う事だ」
「応援、してるよ? マジ、頑張れ!」
「……サンキュ」
利知未の夢もある。 自分の夢に付き合わせる訳には、いかないとも思う。 それでも、もしも夢が実現する時には、利知未に傍に居て欲しいと思った。
『こっちは、のんびり行くしか、ネーな。』
焦っても仕方が無い。 利知未も今、夢に向かって努力の最中だ。
ただ、利知未の希望は、早ければ来年には叶う事でもある。 それから利知未が納得するまでは、医者を続けて行って貰いたい。
その後、もしも。 自分の夢を、一緒に見てくれるのなら……。
これほど力強いパートナーは、居ないだろうと思っていた。
5日、朝は八時には出発した。 湘南海岸辺りで一度、休憩をして、その後、箱根を目指す事にした。 ツーリングコースとしては、ベターだ。
「箱根へ入ったら、強羅まで行って、久し振りに黒卵でも買って来たいな」
「良いんじゃネーか? ついでに、また温泉にでも浸かってくるか?」
「疲れ、取れるしな。 じゃ、今日はタオルを持って行こう」
出掛けの会話で、今日はタオルを持参していく事にした。
「こないだ倉真が買った、手拭の匂いには参ったよな」
「何回、洗濯しても、完全には取れなかったぜ? すっかり掃除用になった」
休憩中、去年の秋に出掛けた時の事を思い出して、話していた。
「今日のタオルは、牛乳、拭かないでくれよ?」
「あン時の兄弟に、また会う事もないんじゃないか?」
「倉真が溢したりして」
「そりゃ、無いだろ。 牛乳瓶の口は、丸ごと俺の口に収まるデカさだぞ」
「やった事、あるのか?」
「…ガキの時、チョイ、流行ったんだよ」
「学校でか?」
「俺のクラスじゃ、ポピュラーな競技だったんだ」
「くっだらネー!!」
話を聞いて、声を上げて笑い出す。
偶には大声で笑った方が良いと、一昨日、倉真のお陰で思うようになった。
最近、大笑いしていなかった事も、あの時、同時に思い出していた。
『やっぱ、倉真と一緒に住み始めて、良かった……』
利知未は改めて、そう感じていた。
強羅を目指して走らせた。 希望通り黒卵を買って、温泉にも回った。
「久し振りに遠出して、スッキリしたよ。 けど、今日は結構、暑かったな」
「そーだな、俺も汗だくだよ」
「丁度良いよ。 ゆっくり浸かって、疲れもついでに取って行こう」
温泉に到着したのは、昼過ぎだった。
三時間ここで過ごしても、七時頃には帰宅できる計算だ。 昼飯は、ここで済ます事にした。
「先ずは、風呂へ入ってこよう? どうせ、夕飯も遅くなるし」
「二時頃に、休憩所で良いか?」
「倉真、一時間も時間、潰せるのか?」
「何とか成るだろ。 この前も何とかなった」
「そっか。 じゃ、そうしよう」
「後でな」
今日も、別々に暖簾を潜って行く。
脱衣所で鏡を見て、あの時の事を、また思い出す。
『今日は、痕、付いてないよな』
ふと思って、チラリと確認して、安心して浴場へ入った。
倉真は、今日こそサウナに十分は入ってやろうと、気合を入れた。
『しかし、サウナで始発まで過ごすサラリーマンってのは、凄いもんだな』
よく、あんな暑い所で、そう何時間も時間を潰せるもんだと、変な事に感心してしまった。
利知未は浴場で、気楽に話しかけてくれた、お婆ちゃんと知り合った。
「綺麗なお嬢さんだね、大きいし。 モデルさんかい?」
目を丸くして、利知未を見た。 軽く観察されて、利知未は恥ずかしくなる。
「……大学生です」
「そうかい。 あたしの孫も、今、大学生なんだよ。 何の勉強、してるんだい?」
聞かれて少し考えたが、嘘を言っても仕方が無いので、素直に答えた。
「医大です。 今、六年」
「お医者様の卵かい? そりゃ、ご両親が大変だ」
「そうですね。 ……学費、高いですから」
「頑張って勉強して来たんだねぇ。 大変だったんだろ? 大学へ入るのも」
「入るのも苦労しましたけど、入ってからの方が大変でしたよ。 来年、無事に資格が取れればいいけど。 お孫さんは、何の勉強なさってるんですか?」
「孫は、遊んでばっかりだよぉ。 国文科だけどね、来年ちゃんと進学できるのか、あたしが心配しちゃうよ」
自分の事を突っ込まれないように、利知未は上手に話を向けて行った。
内心では、大叔母を思い出していた。 大叔母がなくなったのは、七十二歳と、女性にしては比較的、短命だった。
今、話をしているお婆ちゃんは、七十歳手前ぐらいだろうか? 利知未たちを引き取って育ててくれていた、元気な頃の大叔母と同じくらいだ。
大叔母の死因は、脳卒中だった。 大叔父は心筋梗塞だ。 油絵を描きながら、何時もパイプを銜えていた。
すっかり話し込んで、風呂を上がるのが、遅くなってしまった。
倉真は、頑張って七分間サウナに入った。
『……十分は、キツイな』
水風呂に浸かりながら、そう思った。
利知未と約束の二時よりも、十五分ほど早くに休憩所へ入った。
中々、利知未が出て来ないので、少し心配し始めた頃。 漸く利知未が、顔を赤くして現れた。
「随分、長風呂だったな」
「待たせて、ごめん。 風呂で、気のイイお婆ちゃんと知り合って、話し込んじゃったんだ。 すっかり逆上せちゃったよ」
手で、パタパタと顔に風を送っている。 ライダージャケットを手で持って、タンクトップ姿だ。
「飯、食えるのか?」
「長風呂って、体力使うよな。 すっかり、腹ペコだよ」
「そうか、良かったよ。 飯も食えないほどグロッキーじゃなくて」
「倉真も、顔、赤いな」
「サウナにチャレンジして見た。 この前より、二分は長く入ってたな」
「サウナか。 お婆ちゃんのお陰で、入らなくても汗かけたよ」
「機嫌、イイじゃないか?」
「……大叔母のこと、思い出したんだよ。 懐かしくなった」
「そうか。 泣いて無くて良かったぜ」
倉真の優しさを感じた。 笑顔で、食堂へ向かった。
その日は予定通り、夜七時過ぎに帰宅した。 それから夕食を済ませて、早めにベッドへ入った。
明日は、二人とも仕事だった。
樹絵は五月の四週目、大学を休んで、警察官採用一次試験を受けた。
まだ、誰にも話していなかった。 結果が出てから、秋絵には話さなければと考えていた。それから、バイトを始めた。
受かるかどうかはまだ判らないが、自分の勝手な考えでした事だ。 両親の反対は予想していた。 学費を一応、自分で稼いでおこうと考えていた。
四
六月に入り、梅雨がやって来た。
「風呂場で洗濯物干せて、良かった……」
利知未の休日に、取り込んだ洗濯物を畳みながら、呟いていた。
去年は、梅雨の晴れ間を盗んで洗っていた。 日によっては、一人暮らしで五人家族のような、大量の洗濯物に辟易していた。
それより昔は、里沙が同じ様に苦労していた事を覚えている。
店子達が揃って、一番多い時期には八人で暮らしていたのだ。 梅雨時期に車へ洗濯物を積み込んで、近所のコインランドリーへ通っていた里沙の姿を、覚えている。 最終的には、乾燥機を購入して対応していた。
『けど、やっぱ日光で乾かした方が、着た時に気持ちいいよな』
そうとも思う。 タオルも、バスタオルも。 風呂上りや洗面の時、肌触りや吸い取りが、違う気がする。
洗濯物をさっさと片付けて、夕食の準備に取り掛かった。
今日も倉真は、早めに帰宅した。 嬉しいとは思いながら、気にもなった。
「タマには、飲みに行ったりしないのか?」
「家で晩酌してるからな。 飲み仲間も居る」
利知未を指差して、倉真が言った。
「職場の付き合いとか、無いのか?」
「バイクだからな。 置いて帰ったら、一時間以上は歩かなきゃならネー距離だった。 今は、歩いても三十分チョイか?」
「その位なのか。 近くに駅もあるし、飲んで来ようと思えば、飲んで来れる距離だよ」
「職場が、駅から遠い」
「そっか。 あたしは、早く帰ってくれること自体は、嬉しいけど。 職場での人間関係とか、ある程度は付き合い良くないと、大変じゃないかと思った」
「職人馬鹿が多いからな。 イイ意味でも、悪い意味でも。 アンマ、人間関係がゴタゴタしてる所でもネーよ。 従業員七人中、四人は家族だし」
「社長と娘と、その娘婿と、社長の奥さんか」
「奥さんは、自転車とスクーター売ってる、店番だ」
「他の二人の先輩とは、上手くやっているのか?」
「一人は、同い年で仲良いぜ? 飯は、偶に食ってた」
「もう一人は?」
「結婚していて、小さなガキが居るんだよ。 娘らしくて、可愛くて仕方ない見てーだ。 まだ一緒に風呂、入ってるって言ってたな」
「いくつなんだ? その子供」
「確か、小学校へ上がる前じゃネーか?」
「けど、飲みに行く事あったら、行っても良いよ。 留守電に伝言を入れておいてくれれば。 これからは帰る前に、電話して確認するようにするから」
「そー言う機会があったら、そーさせて貰うよ」
頷く利知未を見て、倉真が聞く。
「お前は、付き合いは無いのか?」
「去年の暮れから、バイト時間が殆ど救急だろ? 昼休みは友達と行くけど、飲みには中々、行けなくなったな。 …けど、あたしも同じだよ」
ニコリとする利知未に、倉真が目で質問をする。
「飲み仲間、居るから」
倉真を指差して、酒を飲んだ。
「けど、梅雨時期はバイク通勤、チョイ辛くないか?」
「お前も、前はバイク通学だっただろ?」
「カッパ来てバイク乗ってると、タマにメットの風除けが白くならないか? 見にくくて、苦労するよな」
「曇り避けしておけば、かなり違うぜ?」
「スプレーのか? 効き目、あるんだ」
「バイク便で、教えて貰ったよ」
「そうか。 倉真はバイク便の時、雨でも何でも走ってたんだよな」
「仕事でな。 梅雨時期、少し手当て付けてくれてたぜ」
「そうだったのか」
「あの会社、独自の手当てらしかったけどな。 ライダーバイトのぼやきに、答えた結果だったらしい」
「いい会社だ」
「職場運は、悪くない見てーだよ。 俺は」
「倉真が、真面目だからだろ」
「真面目かぁ?」
「結構、真面目だと思う。 ……昔、知り合ったばっかりだった頃、宏治と仲良くなっていっただろ? あの頃、真面目な宏治と、何で上手く行っているのか不思議だった」
「どーしよーも、ネー奴だったからな。 俺も」
「だけど、倉真も結構、真面目な所が有るのが判って納得した」
「エライ言われようだ」
「本音。 今だから、言える」
「俺も、今だから言える事、あるぜ?」
「何?」
「実は、かなりモテていたンじゃないか? お前は」
「……何を根拠に」
「こーなって見ないと、判らない事が多かったよ」
「……モテてたとは、自分じゃ思わないよ。 ……セガワの時は、モテてたけどな」
照れ隠しに、そう言って膨れて見せた。
「その頃の話も、興味があるな」
「その内、話してやるよ。 今日は、もう風呂へ入って勉強だ」
話が進む前に、椅子から立ち上がって、グラスを片付けた。
「俺は、もう少し飲んでるよ」
「じゃ、先に風呂、貰っちゃうよ」
「ああ」
返事を聞いて、支度をしにリビングへ入った。
樹絵は警察官採用一次試験に、何とか受かる事ができた。
二次試験の通知を貰い、改めて秋絵にだけは話して置かなければ成らないと思った。
思ったは良いが、タイミングと、話し難い気持ちとが邪魔をして、どうしても打ち明けられないまま、数日が過ぎてしまった。
『やっぱ、二次試験、受かってからにしようかな……?』
悩んでいる時、朝美がある事を言い出した。
朝美は、樹絵が大学から帰宅するのを待って、部屋へ直接、訪ねて来た。
「カーテンもベッドも、結局、一年間そのまま使ってたんだ」
先ずは、何気なく部屋の様子を眺めて、気楽に話し出す。
「あたしも、ブルーは好きなんだよ」
「……灰皿とか、無いよね?」
「ココで吸うのか?」
「元々、利知未が吸っていたから、この部屋は既にヤニまみれよ」
「綺麗に使っていたと思うけどな、それなりに」
「無ければ、良いわ。 部屋から持ってくるよ」
一度、自室へ戻って、灰皿を持って、再び樹絵の部屋をノックする。
一服してから、おもむろに話し出した。
「この間、樹絵宛に警察署から、手紙が来てたでしょう」
「ああ、朝美が、休みの日だったんだ」
「……何か、仕出かしたの?」
「あたしが、変な事するわけ無いだろ? 利知未じゃ有るまいし」
「利知未が聞いたら、剥れるな。 …ま、何もしてなければ、良いけど」
「用事は、それだけ?」
「一応、大家代理ですから。 確認しに来たのよ」
「そっか。 ……平気だよ。 もうちょっとしたら、里沙も一緒に居る時に詳しく話すから、それまで待ってくれないか?」
「……罪を犯した訳じゃ、ないんでしょ?」
「当たり前だよ」
「了解。 樹絵も、もう成人だからな。 何かしたなら、逮捕状持った警官が直接、乗り込んでくるでしょ。 それも無い事だし、今日はこれまで」
軽く両手を挙げて、万歳をするような仕草を見せて、朝美は部屋を出た。
「あたしも里沙も、あんた達の事は信じているからね?」
ドアを閉める前に、朝美が一言、残していった。
二次試験は、七月の一週目だった。それに受かれば、来年の春から十カ月間の寮生活が待っている。
『そうなったら、ココは、出る事になるんだよな……』
朝美が吸った煙草の匂いを追い出すために、窓を開けた。 小雨が、外灯に照らされ、降りしきる光景を眺めながら考えた。
里沙の元には、新たな入居希望者からの、相談が持ち込まれていた。 大きく宣伝はしていないが、何処かからのツテで、耳に入れたらしい。
朝美に相談し、それからでなければ結論は出せない。 改めて後日、連絡を入れる約束をした。
六月も忙しい日々の中、気付けば利知未の誕生日、二十三日が迫っていた。 今年は木曜日だった。
インターン二年目に入ってから、大学の講義が午前中にある日だ。 午後から病院で実習、夕方からバイト時間なのは変らない。
今年の倉真の誕生日に、利知未が買ってくれたのは靴下だった。
仕事の関係で、汚れも激しければ解れもする。 利知未は、料理は得意だが裁縫は苦手だ。 靴下の穴を摘むくらいなら、何とか出来ないことも無いが、その当りは返って倉真の方が、上手いくらいだ。
倉真は自分の誕生日を忘れても、利知未の誕生日は覚えていた。 頭を悩ませる事が有るからだ。 ……プレゼントを考えて、今年も決まらない。 久し振りに樹絵へ連絡をして、協力を仰いで見る事にした。
日曜と隔週の土曜は、倉真の休みで、利知未のバイトだ。 バイクの後ろへ樹絵を乗せて、買い物へ出掛けた。
久し振りに会った樹絵は、以前よりも少し、綺麗になっていた。
「どうせなら、利知未が喜びそうな物じゃなくて、倉真が利知未に上げたい物を探そう」
「…って、それが決まらないから、相談したんだけどな」
困った顔の倉真を見て、樹絵がニマリと笑った。
「洋服、選んで見たらどうだ? 朝美の店に行ったら、いくらか負けてくれるよ。 それに、朝美はコーディネート得意だし。 相談してみよう。 サイズは知ってるか?」
「タッパが有るからな。 どうなるんだ?」
「体系、二十歳頃から変らなければ、朝美が知ってるかも」
「あの、チラシか! ……そうだな、行ってみるか」
という話になり、朝美が勤務中の店へ、二人で向かった。
店に入り、朝美にも久し振りに会った。
「珍しい組み合わせじゃない? どーしたの」
「利知未の誕生日プレゼント、相談されたから、連れて来た」
「樹絵、イイ判断! 相談、乗るよ。 予算は?」
「いくらあったら、良いんだ?」
「プレゼントするなら、物にも寄るけど、最低一万は考えてね」
「んじゃ、上限二万で」
「OK。 どんなのが良いの? ボトムはパンツ?」
考える倉真に、樹絵が言う。
「スカート、履かせたいと思わないか?」
「……利知未が、履くか?」
「倉真君に貰った物なら、履いてくれるんじゃないの? じゃ、ミニはかなり拒否反応見せてたから、ロングにするか。 利知未は背も高くて、スタイルも良いから、シンプルな物の方が栄えると思うけど」
「任せます」
「ついでに、トップも合わせて探そう。 ジャケットとインナーと、ロングフレアで良いかな……? ミュールも買って行ったら、完璧だな」
朝美に店内を案内してもらい、樹絵の意見も参考にしながら、プレゼントを探した。
色合いが綺麗なものを選んだ。 フレアのスカートは、淡いグリーンからシーグリーンへと、グラデーションをしている、軽い生地のものを選ぶ。
トップもそれに合わせ、シンプルな、少しレースをあしらったデザインのキャミソールを探した。 更に細身のサマージャケットを探して、踵の高さが五センチあるミュールを、朝美が選び出した。
「これ履いても、倉真君の方が身長、高い訳だ。 ね、今年のチラシモデル、二人で参加しない?」
「そー言うのは、苦手なんで」
「勿体無い。 殆どプロモデル並みの体系、二人ともしてるのに。 ま、イイか。 気が向いたら、八月中に連絡頂戴」
「一応、言って置きます」
「ヨロシク。 二割引するから、一万四千四百円ね。 箱代は、負けてあげる」
「どうも」
金を払って店を出て、樹絵に付き合わせた礼で、昼飯を奢った。
昼食へ入った店で、樹絵から聞かれた。
「ジュン、最近まだナンパしてるのか?」
「アンマ聞かなくなったな。 って言っても、俺も最近、アイツに会ってないけどな」
「そーか。 折角ココまで来たんだから、和尚やジュンの所へも行って見ないか?」
「あいつ等は日曜休みだな。 ……居るか判らネーけど、回るだけ回ってみるか」
「そーしよう!」
昼食を済ませて、和泉の家から回ってみた。
和泉は、まだ少林寺修行の手伝いをしている道場から、戻っていなかった。
「今日は、午後までやって来るって、出掛けて行ったのよ。 ごめんなさいね」
母親に、済まなそうに言われた。
「こっちこそ、急に訪ねて来て、済ンません」
「倉真君ね、来てくれた事は言って置くから。 また、遊びに来て」
返事をして、萩原家を後にした。
二軒間を挟んだ、準一の家へ回ってみた。 準一は、ついさっき起き出して来たと言う。
「デカイ荷物だな」
バイクのハンドルへ手提げのペーパーバックごと引っ掛けて置いた、利知未へのプレゼントを見て、準一が目を丸くした。
「走ってる時は、あたしが肩に掛けてたんだよ。 これ、どうしよう?」
「オレの部屋、置いとく? どーせ、バイク取りに戻るだろ」
「そーだな、そうして貰っとくか」
「OK」
バックを持って、準一が屋内へ一端、引っ込んだ。
直ぐに出て来る。 倉真が、ある事を思い付く。
「お前、木曜は何時に帰ってる?」
「今度の? まだ仕事入れてないからな。 一日、寝てるかもしれない。 最近、夜勤やってるんだ」
「それで、今日も昼まで寝てたのか?」
樹絵が、準一に聞く。
「そう。 何時も、九時半頃に家を出てる」
「そうか。 ……物は、相談なんだけどな」
「何?」
「木曜、仕事帰りに寄るから、それまで、あの荷物を預かって貰えないか?」
「いいよ。 何で木曜?」
「ジュン、覚えてないんだな。 利知未の誕生日だよ」
樹絵が、準一の質問に答えた。
「ンじゃ、あれはプレゼントって事か」
「そーだよな。 あんな大きくちゃ、当日まで隠しておけないモンな」
「そー言う事だ。 じゃ、頼む。 ……何か、甘いモン奢ってやるよ」
「預かりチンって事か。 ンじゃ、奢られよう」
三人で甘味屋へ入った。 倉真は、珈琲がメニューにある事を見て安心した。 樹絵と準一は、二人とも甘党だった。
樹絵は、これが良い切っ掛けになった。 亨や秋絵に中々、相談できない事も、準一になら、軽い気持ちで話せそうだと感じた。
久し振りに会った準一は、以前よりもいくらか、落ち着いて来た様に見えた。 けれど、その日は、自分の悩みは口にしなかった。
準一は今夜も仕事へ行く。 倉真も、利知未が帰宅する前には帰るつもりだ。 甘味屋を二時過ぎに出て、四時頃までゲームセンターで時間を潰し、樹絵は準一が送って行ってくれる事になった。
利知未へのプレゼントを準一に預け、木曜日の八時頃には取りに来ると約束をして、二人と別れた。
二十三日・木曜日。 利知未は何時も通り、講義と実習、バイトを終えて、夜八時半に帰宅した。
倉真は約束通り、仕事帰りに準一の家に回ってプレゼントを持って帰宅した。 そこから、バイクで三十分は掛かる。 利知未と帰宅が、同じになってしまった。
外階段を上がる前に、顔を合わせた。
「倉真、今、帰ったのか? お疲れ。 仕事、忙しかった?」
「仕事は、何時も通りだよ」
答えながら一瞬、拙かったと思う。 ペーパーバックを、利知未側から目立たないように持ち替えた。 利知未が気付いて、その背中を見る。
「デカイ荷物だな。 どうしたんだ?」
「…何でもネー」
「…ふーん」
チラリと、不可解な顔を見せた。 利知未が扉の前に立ち、鍵を開ける。
「飯、これから作らないとな。 倉真、待てるか?」
「ピザでも頼むか?」
「チラシ、入ってたね。 そーしようか? 来る前に、風呂入っちゃえ」
「良いんじゃネーか」
話しながら玄関へ入り、キッチンへ上がる。
利知未は直ぐに電気を付け、リビングへ入ってチラシを探した。
倉真は、その隙にプレゼントを持って、寝室へ入った。 取り敢えずクローゼットの中へ無理矢理、押し込んだ。
「倉真、何、食べたい?」
「任せる」
利知未が適当にオーダーを決め、電話を掛けた。
風呂を上がり、届いたピザを晩酌の摘みにして、食事と兼用にした。
「遅くなっちゃったな。 太りそうだ」
時計を見て、九時半を回っている事に気付いて、利知未がぼやいた。
「チョイ、待ってくれ」
頷く利知未を置いて、寝室へ入ってプレゼントを持って来た。
「それ、何なんだ?」
「先ずは、乾杯しよう。 ……誕生日、おめでとう」
倉真に言われて、目を丸くした。 プレゼントを渡されて、更に驚いた。
「……ありがとう」
「今度それ着て、映画でも見に行こう」
箱を開ける前に言われて、中身を知る。 利知未は笑顔で頷いてくれた。
五
翌週の月曜日、二十七日。 利知未は休日にクローゼットを開いて、倉真からのプレゼントを眺めている。
『……倉真、あたしにスカート、履いて欲しかったんだ』
綺麗な色とシンプルなデザインで、直ぐに朝美のコーディネートだと気付いた。 サイズも、測ったようにピッタリだった。
あの夜、倉真に促されて、一度だけ袖を通してみた。 普段しない格好を披露して、照れて赤くなる利知未を見て、倉真は少し目を丸くしていた。
「……似合うかな?」
無言で見つめられて、利知未が恥ずかしそうに聞いた。
「似合うよ。 ……普段から、もっとそう言う格好してくれないか?」
「……考えとく」
直ぐに、部屋着へ着替えてしまった。 倉真は残念がっていた。
「せめて、もう暫く着ていて欲しかったな」
「汚したら、イヤだから」
照れ臭くて、何時までも着ていられないと、あの時は思った。
『……スカートとかワンピース、買っておこうかな』
倉真が、その方が良いというのなら、偶には着てあげようと思う。
『掃除が終わったら、少し見に行ってみよう』
静かにクローゼットの扉を閉めた。
倉真からのプレゼントは、大切に着て行きたい。 普段着用のスカートでも、探してこようと思った。
昼前に家事を片付けて、午後から夕飯の買い物ついでに、洋服を見た。
『夏は、もしかしたらワンピースの方が、涼しいのか?』
一着、手に取ってみて、自分が着た所を想像して、赤くなってしまった。
『ワンピースは、昔、敬太の前で着た切りだ』
初めて恋人から洋服をプレゼントされたのは、中三のクリスマスだ。
あのワンピースは、三度ほど袖を通して、それから身長が伸びて小さくなってしまった。 最後に着たのは、翌年のクリスマスだった。
捨てるに捨てられずに、箪笥の肥やしになっていた。 一人暮らしを始める時、一足先に実家へ戻った里真へ、餞別代わりに譲ってしまった。
他には、一度だけ。 大晦日から元日にかけて、敬太と泊りがけでデートをした日。あの頃、利知未はホテルのレストランでの食事に、相応しい服を持っていなかった。 里沙のワンピースを、借りて行った。
他のスカートは、中学・高校での、制服のみだった。
『改めて探そうとすると、よく分からないな』
ウエストに合わせれば、Sサイズだ。 しかし、丈が格段に短くなってしまう。
倉真から貰ったスカートは、ウエストがゴムで、スカートと同じ生地で出来た紐を結んで、調節するタイプだった。
『あーゆーの、探した方がイイのか?』
恥ずかしいのを我慢して、朝美に相談した方がいいかも知れない。
それでも、部屋着に丁度良さそうな、シンプルなミニワンピースを一着だけ買って行く事にした。
『……短パンよりは、丈、長いよな』
そう思う事にして、半分無理矢理、自分の気持ちを納得させた。
それから、食料品売り場で、夕飯の食材を買って帰宅した。
夜は倉真と、ゆっくりと過ごしたいと思った。 食材を整理して冷蔵庫へ仕舞い、炊飯ジャーのセットだけしてから、今日は勉強時間を先に取る事にした。
買ったばかりのワンピースを、着ていて見る事にした。
六時頃まで勉強をしていた。 今日も、倉真が帰宅するのは恐らく、八時頃だ。 乾いた洗濯物も片付け、風呂の準備を終えて夕食を作る。
『休みは、殆ど主婦の生活だよな』
ふと、そう感じた。
それが、嫌な訳ではない。 大叔母と共に暮らした五年間で、家事は教わって来た。 今は、世話をする相手が倉真だ。 返って楽しいくらいに感じられている。
『里沙は、凄かったんだな』 下宿を思い出して、思う。
二人分の家事をこなすのも、大学と病院の合間では大変な事が偶にはある。 里沙は、多い時で八人の世話を一人でしながら、仕事までしていたのだ。
その生活は十年近く続いていた。 その上、現在は通いでそれを続けている。 今は店子の数が減り、朝美も居るが、大変な事には変らない。
下宿を出て一年以上経ってから、里沙の大変さを推し量る事が、漸く出来るようになった。 自分は、マダマダだなと思った。
考えが止まった途端、今の服装に、違和感を覚えてしまう。
『……確かに、涼しいけど……。 やっぱ、変な感じだな』
スカスカしていて、何と無く恥ずかしい。 自然と立ち居振る舞いも、下着が見えたりしないようにと気を使う。
それで初めて、男が女にスカートを履いて居て欲しいと感じる、気持ちのメカニズムの一端に、気付いた様な気がした。
『やっぱ、見た目に雰囲気も、違うんだろうな』
何とか気を逸らそうと、頑張ってみた。
八時前に倉真が帰宅して、利知未の努力は、一応は報われた。 倉真は、ビックリするほど喜んでくれた。 その反応に、利知未は益々、照れ臭くなってしまった。
直ぐに七月になる。 樹絵はその一週目、二次試験を受けに行った。
二次試験は、面接と身体検査、適性検査、体力検査だ。 一度目の適性検査と身体検査よりも、細かい内容だった。
『……これで、本当に受かる事が出来れば』
後は金を貯めて、車の免許も取りに行かなければならない。 ココまでやって、樹絵の気持ちも漸く決まって来た。
『ただ、やっぱり秋絵と、朝美達に話すのは、受かってからにしよう』
話して、試験に落ちてしまえば、色々と騒がせる事になるだけだ。 それでも自分の気持ちを整理するために、誰かに話を聞いて貰いたいと思った。
『……一度、亨には話してみようか?』
自分の行動に、どんな反応をするのか?
不安もあるが、話さない訳には行かないだろう。 翌日、大学の後に亨と出掛けた。
出掛けた先で、樹絵から話を聞いて、亨は先ず始めに、ビックリした。
「まだ、受かるかどうかは、判らないけど」
二次試験まで終わらせて来たと聞いて、何と言って良いのか戸惑う。
「……そこまで真面目に、考えていたんだ」
頷く樹絵を見て、言葉を捜した。
「あの時、もう決めてたのか?」
「あの時?」
「ゴールデンウイークの、旅行」
「……あの時は、まだ決め兼ねてた。 ただ、一次試験が五月の末だったから、後悔するよりは、挑戦してみようと思って」
「それで、一次試験に受かったのか」
「うん。 ……二次試験、受ける前にも話そうと思ってたんだけど。 何と無く、話せなかった。 ……ごめん」
「受かったら、大学辞めるのか?」
「まだ、悩んでるよ。 けど、もしも二次試験にまで受かったら、……あたしは、行きたい」
樹絵の真面目な顔を見て、亨は視線を逸らしてしまった。
「……出来れば、もう少し早くに、相談して欲しかったな」
「……ごめん」
「良いよ。 それは、もう。 ……でも、俺は樹絵と一緒に、大学ちゃんと卒業して、同じ体育教師になれたら良いと思う。 それから先も、続けて行きたいから。 勿体無いよ、折角、三年も通って来たんだ。 来年で無事に卒業も出来そうだしね。 ……樹絵は体育の先生、似合うと思うよ?」
「…ありがとう」
「兎に角、結果が出たら、もう一度話し合わないか?」
「判った」
本音を言えば、亨には頑張れと応援して貰いたかったと思う。 それでも、彼の気持ちも判らなくは無い。
また、改めて話し合うと約束をして、その日は別れた。
亨は、樹絵の行動に本気で驚いていた。
彼女の事は、よく判っているつもりだ。 行動力が有る事も、二年間の付き合いで理解していた。
もしも樹絵が目指しているものが、もっと違う職種だったら、素直に応援出来るとも思う。 けれど警察官と聞いた時に、始めに思ったのは、危ない職業だという事だった。
婦人警官の仕事のイメージは、やはり交通整理だ。
けれど、それは表面的な事だ。 警察は、男も女も無い仕事だと思う。 普段は交規取締りをしていても、犯罪者が目前に現れれば、市民を守るために自ら盾に成らなければならなくなる。 ナイフや拳銃など、危険なものを振りかざすヤツも居れば、可笑しな薬で異常な行動へ走る犯罪者も居るだろう。
恋人には、そんな危険な仕事に就いて貰いたく無いと思うのが、当然だ。
『……けど、オレが止めても、聞いてくれる性格でも無いかな?』 そうとも思う。
樹絵が警察官に対して抱いている憧れは、相当な物だったらしい。 それでも受かった時には、改めて確りと引き止めようと思う。
『もしも、受かれば』
不合格を願うのは、可哀想かもしれない。 けれど、それを願う他、無いかも知れない。
亨の願いも空しく、それから二週間後、樹絵の元へ合格通知が届いた。
梅雨も明け、暑い日が続く中。 夏休みとなった。
倉真は、恥ずかしがる利知未を促して、自分が贈った洋服を着せて、出掛ける事にした。
アパートを一歩出ると、利知未は倉真に、ピタリとくっ付いて歩いた。
「そんなに、恥ずかしいか?」
腕に縋るようにして、自分を隠しながら歩く利知未を横目で見て、倉真が聞いた。
「……恥ずかしい。 …だって、何か、スースーするし」
可愛く感じて、笑ってしまった。
「笑うか? 普通」
「剥れるな。 折角よく似合ってるのに、台無しだよ」
「……どーせ」
何時もよりも可愛らしい様子を見せる利知未と、道を歩く。 それは楽しい事だ。
「こんな所、知り合いに見られたら、チョイ嫌だな」
「良いじゃネーか。 見せ付けてやろう」
腕を解いて、肩を抱いて歩く。 話している傍から、声を掛けられた。
「こんにちは。 デートですか?」
声を掛けられて、一瞬、誰だか判らなかった。
「よく、二人でお店に来てくれてますよね? 判ります? 中華街の輸入食材を売ってる、スーパーで……」
あ、と思いついて、彼女は下ろしていた髪を、ポニーテール風に手で纏めてみせる。
「あ、あの店の、レジの!」
利知未が気付いて、言いながら倉真を見た。
「そう! ご近所さんだったんですね!」
「ちわ」
倉真も判って、軽く挨拶を交わした。
「この辺りに、お住まいなんですか?」
「そうです、そこの角を曲がった所。 お二人も、この辺りなんですね」
「そこの、アパートです」
「やだ! 結構、近所じゃないですか?!」
「ですね」
笑顔を見せた利知未を、レジのお姉さんが、じっくりと観察してしまう。
「背が高いカップルだから、印象が強かったんですよ。 スタイルも良いのね、羨ましい」
「……そんな事は」
「私、洋服デザインの専門学校出身なんですよ。 学生時代に、自分で作った洋服を着て、ファッションショーをしたこと有ったんだけど。 貴女みたいにスタイル良くないから、折角のデザインが全然、栄えなかったわ」
「そうなんですか? 裁縫は大の苦手だから、尊敬します」
「そんな大層な物でも、無いのよ。 あ、自己紹介もマダでした。 ごめんなさい。 私、加藤と申します」
「瀬川です」
「お二人は、もしかして新婚さんですか?」
「……違います。 俺は、館川って言います」
一瞬、間があったことに、利知未が倉真をチラリと見た。
「これから、お仕事ですか?」
「今日は、私も休みです。 ごめんなさい、こんな道端で立ち話も無いですね。 また、お店にいらして下さい」
「はい」
頷いて会釈を交わして、加藤と別れた。
暫く歩いて、倉真が言う。
「お前、病院では、ああ言う喋り方なのか?」
「一応、気を使ってる」
「そーか」
倉真が、嬉しそうな笑顔を見せた。
「何、言いたいんだ?」
「……いや。 普段からこう言う格好して、ああして喋っていれば、絶対に男には見えそうもナイと、思っただけだよ」
「スカート履いてる男は、カマだけじゃないか?」
「どっかの民族衣装も、スカートだろ?」
「ああ、スコットランドの民族衣装だ」
「そうだったか?」
「バグパイプで有名だよな」
加藤と顔を合わせて、世間話をした所為か、自分の服装を忘れてしまう。 自然な様子に戻って、駅へと向けて歩き出す。
何時も通り、やや大又に歩き出して、その歩き難さで再び思い出した。
「……一瞬、忘れてた」
また恥ずかしそうな様子に戻って、倉真の陰に隠れだす。
利知未の様子に、倉真がくすくすと笑っていた。
その日、倉真は嫌がる利知未を、朝美の働く店へと連れて行った。
利知未の格好を見て、朝美が満足そうな笑みを見せる。
「やっぱり、あたしのコーディネートはイイね」
「自画自賛って言うんだぞ?」
「ふくれっ面も、可愛らしいじゃない。 ……弄りたくなって来た」
「何、する気だよ?」
「良いから、ちょっとおいで」
利知未を引っ張って、トイレへ向かう。
「倉真君、適当にその辺、見てて。 十分で戻るから」
何だか判らなかったが、倉真は頷いて、二人を見送った。
倉真を見覚えていた店員が、スカートを見ている倉真に気付いて、声を掛けた。
「いらっしゃいませ。 今日も、彼女へのプレゼント探しですか?」
「あ、いや。 チョイ、時間潰しに」
照れてしまう。
彼女は以前、利知未をモデルに起用した頃からの従業員だ。 先ほど朝美に連れて行かれた利知未を、チラリと見ていた。
『瀬川さんの彼氏か』 と、内心では興味津々だ。
「瀬川さんなら、これも似合うと思いますよ」
そう言って、裾のデザインが少し変っているスカートを、商品の中から選び出して見せてくれた。
「足、長くて綺麗じゃないと、こう言った変わった裾あしらいの物は、難しいんですけどね」
それから利知未に似合いそうな洋服を、何着か見せてくれた。
話を聞いている内に、利知未を引き連れた朝美が、トイレから戻って来た。
「お待たせ」
後ろから肩を叩かれて、振り向いた。 朝美の後ろで、利知未が背中を向けて立っていた。
「何、恥ずかしがってんのよ? チャンとこっち向いて!」
無理矢理、利知未の身体の向きを変えてしまう。
利知未は恥ずかしそうに、顔を伏せていた。
「どうしたんだ?」
倉真が、その利知未の顔を、軽く覗き込んで聞いた。
「……化粧、してきたのか?」
「……無理矢理、されたんだ」
朝美は近くに居た従業員を連れて、二人の傍を離れた。
暫く、何も言葉が出なかった。 お互いに照れ臭くて、倉真が視線を逸らす。
「……綺麗だと、思うぜ」
ぼそりと呟いて、出口へ向かって歩き出す。
利知未は真っ赤になって、急ぎ足で倉真の後を追った。 途中で朝美を振り向いて、チラリと睨んでやった。
追い付いて来ない利知未を、軽く倉真が振り向く。 慌てて後を追いかけた。
朝美は、ニマリと笑っていた。
綺麗に化粧をして、そのスタイルの良さが引き立つ服装をした利知未は、街中で変に注目を集めてしまった。
五センチのミュールを履いているお陰で、更に背も高い。
隣を歩く倉真も、それでも五センチは上背がある。 長身カップルだ。
途中でモデル事務所のスカウトマンに、捕まってしまった。 ハッキリと断って、映画館へ逃げ込んだ。
「あ、これ、何時か二人で見に行った映画の、続編だ!」
「そうだな。 やっていたんだ」
「……見てこうか?」
「だな。 あの、しつこいスカウト、まだその辺に居そうだ」
夕方からの上映を、見ていく事にした。
利知未が二十歳の時、キャビン一泊旅行で倉真がゲットした映画鑑賞券を使って、初めて二人で見た、思い出の作品の続編だった。
遅くなってしまったので、夕食まで済ませて帰った。
倉真は綺麗な利知未を連れて、上機嫌だ。 奮発して、少しだけ豪華な夕食を奢ってくれた。
「割り勘で、良いよ?」
「今日は、奢らせろよ?」
「……判った。 ご馳走様」
今日は電車を利用していた。 気兼ねなく、ワインで乾杯する事が出来た。
その夜は、何時も以上に盛り上がってしまった。
六
樹絵は、夏休みに入って直ぐ、改めて亨と話し合った。 それでも、亨の意思は変わらない。
樹絵も折角、受かった事だし、本格的に大学中退と、その後の為のアルバイトを探し始め様と思う。
二人は少しだけ、擦れ違い始めてしまった。
亨のことを、嫌いになんてなれないと思う。 彼は、準一の事で沈みがちだった樹絵を元気付けて、大切にしてくれて来た。
けれど、この事についての意見の相違はどうしようもない。
『……あたしが諦めれば、済む話だけど』
それで、後悔はしないのか? ……それは、無理だろう。
悩んで、気持ちを誰かに聞いて貰いたくなった。
倉真に付き合い、利知未の誕生日プレゼントを探した日。 久し振りに会った、準一の事を思い出した。 一週間悩んで、連絡を入れた。
準一は、すっかり夜勤生活に嵌ってしまった。 金になるからだ。 昼前の、樹絵からの電話で起こされた。
電話口の寝ぼけた準一の声を聞いて、久し振りに樹絵の心臓がドキリと脈打った。 ……何故だろうと一瞬、思う。
「今日も、夜勤?」
「そうだよ。 どうしたん?」
「……今から、会えないかな? チョットだけ話、聞いてくれよ?」
「いいよ。 夕方までは暇だし」
「サンキュ。 じゃ、アダムで待ってる」
「了解」
電話を切って、外出準備を始めた。
アダムで、準一と昼飯を済ませた。 ここでは顔見知りも多くて、話し難い感じがした。 準一が、気を利かせてくれた。
「何か判らないけど、取り敢えず出てから話し、聞こうか?」
そう言った準一の気遣いに、少し驚いた。 以前の準一だったら、こんな気の配り方は出来なかったのでは無いかと思う。
「……うん」
素直に頷いて、アダムを出た。
マスターは、少し珍しそうな顔をしていた。
街中をふらふら歩いて、中々、話始められない樹絵の様子を見て、準一はドライブに誘ってくれた。
「車の中なら、何言っても平気だろ?」
「……ありがとう」
樹絵は初めて、準一の運転する、軽へ乗り込んだ。
「車買って、どれくらい経ったんだ?」
「今に三年。 去年、車検だったよ」
「車検代、高いんだよね」
「これは、軽だからね。それでも安いよ」
「そうなんだ」
ハンドルを握る姿を、新鮮な目で見てしまう。
また、ドキリとしてしまった。 少し慌てて視線を逸らす。
『……亨の事、好きな筈なんだけどな』 自分の心が、よく判らない。
気分を切り替えて、話し出した。
話している間、準一は適当に車を走らせていた。 気付くと、湘南海岸辺りまで来てしまっていた。
「こんな方まで来て、時間、平気なのか?」
「片道一時間半。 まだ、三時過ぎだよ。 仕事は十時からだ」
「……そっか」
「で、樹絵ちゃんは、これから先どうしたいんだ?」
「……あたしは、やっぱり警察官になりたい」
「じゃ、イーンじゃ無いか?」
「イイって?」
「本当にやりたい事あるのに、無理して我慢する必要、無いと思うよ」
ミラー越しに、樹絵に笑いかける。
「オレなんか、マダ先の事、決まってないからね。 まだ、探してる最中だ。 夢があるなら、それ目指して悪い事は無いんじゃん?」
「気楽だな」
「悩んだって決められない事なら、悩まない。 何かやって失敗して痛い目見たって、自分で決めた事なら、諦めもつく」
「……ジュンは、そうやって来たのか?」
「そうやって来て、失敗だらけだよ。 っても、オレはアンマ気にしない性質だからな。 一晩寝れば直ぐ忘れる」
「得な性格だ」
「樹絵ちゃんは、悩んじゃうのか?」
「悩みだらけだよ」
「そう言う風には、見えなかったな」
「それ、どーゆー意味だよ?」
「即断決行、利知未さんにそっくりだ。 そう思ってた」
「……利知未みたいに頭良くないし、器用でもないから」
「利知未さんは努力家だって、倉真が言ってたよ」
「何時?」
「結構、前だ。 まだ倉真が、あのアパートに住んでて、利知未さんとそう言う関係になってからだよ」
「そうなんだ。 ……そうかもな。 あたしは知らないけど、高校入試の時も睡眠時間削って勉強してたって、前、里沙が言ってた。 大学入試の頃なんか、あたし達の勉強見ながら、自分の勉強してたよ」
「だから、そー言う事なんじゃないか?」
「どう言う事?」
「頭良くて、何でも器用にこなす利知未さんも、実は自分が決めた事だからって、頑張ってムチャクチャ努力して、目標に向かってるって、事」
「あたしに、あんな真似、出来るかな?」
「出来るか、じゃ無くて、やっちまったモン勝ち」
「……また、いい加減な言葉だな」
「だから、オレなんだよ」
ヘラリと笑った。
「何か、ジュン見てたら、悩んでるのバカバカしくなって来た」
「イイ事だ。 気晴らしは、何時でも付き合ってやるよ? どーせ暇、持て余してるんだ」
「……サンキュ。 なんか、腹減って来た」
「消化早いな」
「仕方ないだろ。 さっきも考え込んでて、殆ど食ってないんだ」
「オレも小腹が空いてきた。 どっか、入るか?」
「うん」
樹絵の顔に笑顔が浮かぶ。 準一は、その様子を見てホッとした。
準一に言われて、漸く樹絵も気持ちが固まって来た。
それでも亨との事は、やはり悩みどころだ。 更に、大学を辞めてしまったら、あの下宿も出なければならない。
入学資金を貯めるまでは、大学にも通い続けなければ成らないだろう。
その日から樹絵は、夏休み中、バイトに勤しんだ。 ファーストフード店の他に、準一に教えてもらって、派遣バイトにも登録した。
何故か、我武者羅になって金を稼ぎ始めた樹絵を、秋絵は心配そうな顔で見守っていた。
理由を聞いても、車の免許が欲しいからとしか、樹絵は答えない。 それにしては貯め過ぎじゃないかと聞いたら、軽く答えられた。
「車の免許取ったら、車も欲しくなるかもしれないし。 服だってCDだって、ゲームだって、欲しい物だらけだよ」
笑顔でそう言われて、それ以上は突っ込めなくなった。
樹絵の言葉に、少しだけ納得してしまった部分もあった。
利知未の夏休み中のバイトは、相変わらず救急が多かった。 その中で偶々一週間、リハビリの手伝いに回った。
利知未は一学期間に、二つの実習を終えていた。 夏休みに入る直前に、整形外科へ回っていた。 そこで、一人の若者と知り合っていた。
その若者とは、よくよく縁が有ったらしい。 初めて彼がこの病院へ来たのは、バイク事故を起こしての救急外来だ。
その時は利知未のバイト時間の事で、彼の救急処置を利知未が手伝っていた。 翌日の実習時間に整形外科の入院患者として、また利知未と会った。
それから更に、八月へ入って直ぐのバイト時間。 リハビリをしている彼と又、会ってしまった。
「相良さんとは、よくよく顔を合わせますね」
電気治療ベッドへ横たわり、タイマーのブザー音で、偶々手が空いていた利知未が、機械を止めに来た。 その時、笑顔で手を振られてしまった。
「縁、有るンじゃないですか? 瀬川先生、実習医だったんですね」
機械だけ止めて、次の仕事へ移ろうとした時、呼び止められた。
「この前、病室の窓から、瀬川先生がバイク乗って行ったの見ましたよ」
最近、徒歩で通っていた。 この前というのは、倉真と映画へ出掛けた翌日の事だと思う。
あの夜、少々、遅くまで盛り上がってしまった。 翌朝、珍しく寝坊をして、慌ててバイクへ跨って、久し振りにバイク通勤となった。
「そういえば、バイク事故でしたね」
「あれ、大型ですよね? 今度、挑戦しようと思ってたんだ。 そしたら、この事故でしょう? 両親に大反対されてます」
「でしょうね。 次の方が待ってますので、メニューを進めて下さい」
ニコリと笑顔を見せて、次の仕事へ向かった。
相良は、少し利知未に憧れていた。 仕事をする利知未の後姿を眺めながら、余り気の入らない様子で、本日のメニューを終わらせた。
帰宅して、夕食時間に相良の話題になった。
「バイク事故も、多いんだろうな」
「横浜は特に多いみたいだ。 バイク乗りの比率が、高いんじゃないか?」
「それで、同じくバイク乗りの利知未に、よくよく縁が有ったのか」
「それは、どうだろう? まだ高校生だよ。 なんか、昔の倉真を見てるみたいだ」
「モヒカンにでもしてるのか?」
「そー言う意味じゃないよ。 ヤンチャそうな男の子だ」
「……男の子、か」
「何だよ?」
「歳、取ったな」
「悪かったな」
膨れた利知未を見て、倉真が笑う。
「甲子園のお兄さん達が、いつの間にか皆、年下になっちゃったな」
丁度テレビのニュースで、今年の甲子園情報を見たばかりだった。
「俺は、高校には殆ど行ってないからな。 アンマ、懐かしいとか思えネーな」
「あたしの行ってた高校は、スポーツ進学を目指すクラスがあったんだよ。 毎年、本大会へ進んでいたみたいだ」
「みたいだ、って辺り、アンマリ興味なかったのか?」
「バンドと勉強が、忙しかったからな。 あの頃は」
「そーだったな」
そのまま、昔の話題へと移ってしまった。
夏休み中、何度か二人の休日が重なった。 今は一緒に住んでいる。 たった一日の休日でも、のんびりと過ごす事ができる。
朝、利知未は、倉真の小さな叫び声で目を覚ました。
「……どうした?」
まだ寝坊けたまま、ベッドの上に半身起こしている倉真に、利知未が聞いた。
聞きながら、昨夜も裸のまま眠ってしまっていた、その身体を、夏掛けを引き上げて隠した。
「……お前に、初めて投げ飛ばされた時の夢、見た」
「って、ライブハウスの?」
「ああ」
「また、いきなりだな」
目をぱちぱちと瞬いて、利知未が身体の向きを変た。
「昨夜、昔の話したからカモ知れネー」
「…今、何時?」
目覚まし時計を見て、まだ六時前だと知る。
「……もーチョイ、眠れそう……」
欠伸をして、再び利知未が布団へ潜り込んでしまった。
「今日は、あたしも休みだし……」
「…そーだな。 もう一寝入りするか」
直ぐに寝息を立て始めた利知未に、釣られるようにして倉真も二度寝へ入った。
それから二人が目を覚ましたのは、九時過ぎだった。
のんびりと起き出して、軽く朝食を取りながら話した。
「倉真。前、言ってた事、覚えてるか?」
「何時だ?」
「夏休み入ったら、一泊か二泊で泊りがけのツーリングへ行きたいって、言ってただろ?」
「ああ、ゴールデンウイークの時の話か?」
「そう。 二泊は無理だけど、二十七・二十八日の連休、行かないか?」
「今から予約、取れるのか?」
「探してみよう。 今日、本屋と旅行会社を回って、パンフレット貰って来ないか?」
「良いんじゃないか」
「じゃ、そーしよう」
朝食を終え、上機嫌で後片付けを済ませた。
倉真も協力をし、洗濯を担当してくれた。 家事を二人で分担して、何時もの休日より早くに片付いた。
それでも、朝はのんびりと寝過ごしてしまった。 昼頃、アパートを出る。
本屋で旅行雑誌を買って来た。 ついでに旅行会社ではパンフレットを貰いながら、現在の月末情報を教えて貰って来た。
まだ空きがある場所も有るという。 帰宅して、インターネットも使って調べる。 旅行雑誌に、色々な宿泊所のホームページアドレスも載っていた。
プリントアウトした情報を見ながら、晩酌ついでに相談をした。
「お盆を過ぎれば、まだ余裕あるものなんだな」
意外と、予約が取れそうなホテルや民宿、コテージが残っている。
「そうだな。 ……これ、面白そうだな」
「どれ?」
「プールと、変わった温泉が色々あって、ついでにコテージにも泊まれる」
「海じゃなければ、何処でもいいけど。 よく見せてよ」
倉真からプリントを受け取って、良く読んでみた。
「プールも室内なら、日焼けもそんなに酷くならないか」
「お前、マジ日焼け気にしてンな」
「前にも言っただろ? 肌が赤くなって、痛くなるんだよな、昔から」
「色が白いヤツは、赤くなるよな。 小学校のクラスメートに、そんなヤツが居たよ」
「だから、成るべく日焼けはしたくない。 …けど、ココはあたしも興味ある」
「温泉は、好きだな」
「疲れ、取れるからね。 始めて行ったのは、……、朝美や樹絵達とだ」
「そうだったのか? ……俺も、お前と付き合い出してからだな」
昔、一度や二度は、克己や宏治とツーリングへ出掛けたついでに、入った事もあったと思う。 よく行き始めたのは、利知未と付き合い出してからだ。
「倉真、海パン持ってるか?」
「持ってネー」
「あたしも、昔のはもう着れないな。 ココ行くのは良いけど、温泉も水着着用になってるよ。 その代わり、混浴なのか」
水着着用と聞いても、混浴の響きには惹かれる物がある。
「予約、まだ大丈夫そうだな」
「ココにする?」
「そうしないか? 伊豆高原なら、バイクで行けるよ」
「……そうだな。 じゃ、インターネットから、予約しちゃおう」
「出来るのか?」
「アドレス、書いてある。 インターネット予約も受け付け中だって」
「俺は苦手だ。 任せる」
「OK。 じゃ、早速やって置こう」
一端、寝室へ入り、パソコンの前に座った。
三十分も掛からずに、予約を済ませて利知未がリビングへ戻る。
「取れたよ。 お盆休み、水着を見に行かないとな」
それは、少し恥ずかしい感じもする。 何と無く照れ臭そうな顔をしている利知未へ、倉真が言った。
「俺が金、出してやるよ。 その代わり、ビキニを着てくれ」
「何だよ、それ? だったら、自分でワンピース買うよ」
「ボーナスが入ったんだ。 普段、お前に世話かけてる礼だよ」
「だったら、ビキニじゃなくてもイイだろ?」
「俺は、お前のビキニ姿が見たい」
ぷっと剥れて、倉真を上目遣いで軽く睨んだ。
「良い顔だよ」
「煩い。 ……そうだ。 それなら、倉真もビキニタイプにしろよ? それがイヤなら、あたしもイヤだ」
「そりゃ、ネーだろ? お前は似合うと思うが、俺は似合わないと思うぞ?」
「そんなん、着て見なくちゃ分からないだろ?」
「俺が、トランクス派なのは判ってンだろ」
「だから?」
「女は、ビキニも下着も、変らないんじゃないか?」
「だったら、それこそ態々そっち選ばなくても、同じだろ?」
喧嘩と言うよりは、じゃれ合いかもしれない。 軽い言い合いに成ってしまった。
「よっしゃ、勝負!」
「何するんだよ?」
「ハンデ付き腕相撲でどうだ?」
「馬鹿にしてる?」
「力じゃ、負けないぜ?」
「…判った。 あたしが両手で、倉真が片手な」
「よし、来い!」
テーブルの上を片付けて、腕相撲が始まった。
いくらなんでも、両手 対 片手で、負けるとは思わなかった。 利知未は、女の割には力がある。 腕に力を入れれば、コブだって出来る。
五分ほど頑張ったが、二人の力の差はやはり大きかった。 それでも倉真は、途中で一瞬、体制を崩してしまった。 正直、冷やりとした。
「俺の勝ちだ」
「くそっ! いい所まで行ってたのに!」
「ビキニ、着ろよ?」
「……勝負で負けたんだから、仕方ない」
利知未は膨れながらも、しぶしぶ了解した。
「んじゃ、そろそろ風呂入ってくるか」
倉真は意気揚々と、風呂場へ向かった。 利知未は、今日も着替えを用意する。
『ハンデ、でか過ぎたか?』
倉真は、頑張った右腕を、風呂へ入って軽く解してやった。
七
お盆休みに約束通り、水着を買いに出掛けた。 倉真は結局、トランクスタイプの海水パンツを選んだ。
利知未は、嫌々ながらもビキニを選んだ。 色だけは、赤を勧める店員と倉真に従わずに、自分が好きな色、ブルーとグリーン、黒の三色から探した。
カップル専用の試着室が用意されている店だった。 普通の個室へ向かいかけた利知未を、店員がカップル用の試着室へ入れてしまった。
「……これ、恥ずかしくないか?」
「何時も、見てるけどな」
「……イヤらしーな。 …後ろ、向いててよ?」
恥ずかしがる利知未に言われ、残念だと言いながら、倉真が背中を向けた。
三着の水着を着て見せて、倉真に言われ、グリーンを選んだ。
会計を済ませ、喫茶店で一休みした。
「倉真は、黒選ぶと思ったよ」
「黒も良かったけどな。…セクシー過ぎだ」
言われて、赤くなる。
「……そんな事、無いと思うけどな」
「他のヤツも居る所で、アンマ刺激的な格好は、して欲しくないな」
「……そー言うモンか?」
「少なくとも、俺はイヤだと思うぜ?」
「なるほど」
照れ臭いが、嬉しいとも感じた。 店を出てから、確りと腕を絡めて歩いた。
倉真は一人の休日に、バイクの整備を始めた。
「随分、走って来たな……」
走行距離は、もう8万キロ以上になっている。
車でも10万キロ走ればポンコツだ。 バイクは、それ以上に敏感かもしれない。 エンジンが普通車のように、格納されている訳ではない。 利知未に習って、カバーを買って、夜は覆っておく事にした。
ついでに、利知未のバイクの調子だけ見て置いた。 整備するかどうかは、本人に聞かずに勝手にする訳には行かないだろう。
「利知未も、走ってるな」
それでも、まだ7万キロには届かない。倉真のように、日本縦断に挑戦した事もないのだから、当たり前ではある。
少し、大型を走らせて見たくなった。 今夜、利知未が帰宅したら、了承を取ろうと思った。
好きな事を始めると、倉真は止まらない。 昼食も取らず、夕方までバイクを弄り続けてしまった。
「ただいま。 整備してたのか?」
利知未に声を掛けられて、振り返った。
「もう、そんな時間か?」
「六時になるよ。 何時から、やってたんだ?」
「……十一時頃からか?」
少し考えて答えた倉真を見て、呆れてしまった。
「昼飯は?」
「そーイヤ、腹減ったな」
「昼も食わなかったのか? ……マジ、呆れるな」
「やり始めると、切りがなくなる」
道理で洗濯物も干しっ放しな訳だと、利知未は思う。
「三十分で用意するよ。 切りつけて、上がって来いよ?」
「判った」
階段を上がりかけた利知未に、倉真が思い付いて声を掛けた。
「お前のバイク、今度、整備しておいても良いか?」
「そーだな、最近、手、入れてなかった。 ヨロシク」
「おお」
ニコリと笑顔を見せた利知未に、短く返事をして、再びバイクへ没頭し始めてしまった。
夏の日は高い。 七時過ぎまで、まだ明るい。 それから一時間、倉真は部屋へ戻ってこなかった。
洗濯物を片付け、風呂の準備まで終えてから、流石に倉真を呼びに行った。
顔も手も、油塗れで真っ黒な倉真を見て、呆れながらも笑ってしまった。
「もう、七時過ぎたのか?」
「とっくだよ。 …にしても、真っ黒だな」
額の汗を汚れた手で拭って、更に黒くなる。 利知未は吹き出してしまった。 笑いながら、利知未が言う。
「イイけど。 今度やる時は、頼むから繋ぎでも着てやってくれよ? そのTシャツ、汚れ落ち切らないぞ?」
自分の出で立ちを上から眺めて、頬を指で掻く。
「悪い」
「飯、食おう。 腹ペコだよ」
「待っていてくれたのか?」
「一人で食っても、美味くないよ。 …でも、その前に風呂入った方が、良さそうだな」
「湯船が汚れるぞ?」
「いいよ。 洗えば済む。 今日は暑かったから、あたしはシャワーだけでも構わないし」
話しながら、流石に倉真も工具類を片付け始めた。
片付けが終わるのを待ってから、二人で部屋へと上がって行った。
その日から、倉真は風呂を、先に利知未へ譲るようになった。
自分が先に入った後には、湯船を洗い、風呂の湯を変えて置いてくれた。
樹絵は夏休み中、度々、準一と連絡を取るようになった。
亨との事と、自分の夢についての悩みで、どうしても気分が晴れない時、準一は良い遊び相手になった。
浮気と言うつもりは全く無い。 準一は友人、亨が恋人なのは変らない。
この頃、準一も以前に比べて、ナンパをする事が無くなっていた。 樹絵は良い遊び友達だ。
透子に振られてから、どうしても他の女の子を、貪欲に探し回る気力は無くなっていた。
準一にとって、どんなに可愛い子でも、性格がイイ子でも。 透子に比べれば、味気ない存在に見えていた。
樹絵は、透子に会う前から仲の良い友人だ。 利知未と並んで、一緒に遊んでいて楽しい子、ベスト3の一人である。
樹絵の気晴らし相手で、遊びに出掛けていれば、取り敢えず楽しかった。
それでも樹絵の中で、段々と準一の存在が、亨よりも大きくなり始めて来た事実は、否めない。
亨とも、連絡はしている。 ある日、亨との電話の後にふと考えた。
『チョットだけ、気が逸れて来ただけだよな……。 元々は、ジュンの事が好きだったんだから…、…しょうがない』
今、樹絵の夢を応援してくれている相手は、準一だ。
亨は兎に角、心配が強い。 ……その心は、複雑だ。
『樹絵が、もしも警察官になるのなら、危険な事も心配だけど』
それ以上に、出来れば。
卒業までも、それ以降も、良い関係を続けて行きたいと思っている。
『……樹絵が大学を辞めたら、中々、会えなくなるよな』
そのままサヨナラする事にも、なり兼ねない。
どうしても、素直に彼女の夢を応援するのは、難しいと感じていた。
利知未と倉真の月末旅行までの間に、倉真は利知未のバイクの整備も終わらせた。 自分のバイクを弄っていた日と、同じくらいの時間を割いてしまった。
その日もあの時と同様、利知未に呆れられてしまった。
バイクのサイドバックへ、水着と一泊セットをコンパクトに纏めて積み込んだ。
目的地の伊豆高原まで、休憩を二回挟みながら、呑気に遠乗りを楽しんだ。 途中、休憩場所でバイクを交換して行った。
「やっぱ、倉真のバイクは走りやすいな」
「俺も、お前のバイクの方が、走らせ涯がある感じだ」
「これからも、タマには乗っていてイイよ。 スペアキーは、何時も置いて行ってるし。 燃料補給だけ、ヨロシク」
「そうだな。 お前のバイクも、俺のバイクと同じ距離、走らせて見るか?」
「二万キロ近くも、走らせられるのか?」
「…一年は掛かるな」
「だろうな」
日常の通勤に毎日、利知未のバイクを使っても、一年以上は走る計算だ。 一年で走らせるのなら、間のツーリングも、このバイクを利用する事になる。
「倉真の整備、イイよ。 あたしがやるより、よっぽど調子いい」
「現役だぞ? それで商売、してる様なもんだ」
「そりゃ、そーだな。 ……休みの日、また頼むよ」
「持ち主が構わないなら、チョクチョク整備しておいてやるよ」
「ただし昼飯くらいは、ちゃんと食えよな? この前も、昼抜きでやってただろう? 身体、壊すぞ」
「医者の卵に言われちゃ、言う事、聞くしかネーな。 気を付けるよ」
「そーしてくれ。 家に救急車呼ぶのは、止めて欲しいからな」
看板に傷が付く様な物だ。 医者の同居人が不摂生では、お話にならない。
「運ばれて、利知未に救急処置をされる事になるのか」
「その可能性、高いな」
当然、あの辺りの救急指定病院は、利知未の実習病院だ。
再びバイクを走らせ、二度目の休憩で昼飯を済ませた。 目的地へ到着したのは、午後三時頃だった。
チェックインしてコテージへ入り、部屋を探索した。
「一応、風呂もあるんだな。 風呂のお湯は温泉みたいだ」
「ココまで来て、部屋で風呂入るヤツいるのか?」
「……女は、有ると思うよ」
生理中は、共同浴場は入浴禁止が殆どだ。 それを言っても倉真に判る訳は無いかも知れない。
『……今月、まだだな』 ふと、気になった。
それでも、ピルを使うようになって、いくらか周期がずれて来ている。 妊娠の心配は、無いと思いたい。
「飯、外で食うだろ? 先に風呂、行かないか?」
「そーだな、支度しよう」
支度をする前に、リビングと寝室を覗く。
「寝室は、アパートの方が大きいな」
「ベッド、デカイな」
「ダブルだろ? うちのは、セミダブルだから」
「楽しみだ」
ニヤリと倉真が呟いた。 チラリと振り向いて、軽く睨んでみた。
「……何が?」
「……水着姿が」
利知未の突っ込みを誤魔化して、寝室を出た
「スケベ」
利知未は取り敢えず、小さく毒づいておいた。
荷物を片付け、財布とタバコの他に、水着とタオルだけ持ってコテージを出た。 まだ、四時前だ。 建物続きで浴場とプールへ出られる。
レストラン、リラックスルーム、ゲームコーナー、マッサージコーナー、休憩所と、色々あった。 エステコーナーまで完備されている。 浴場へ向かう途中、マッサージチェアを見つけて、後で使って見ようと話した。
利知未は、あれから買い足していたロングワンピースを持って来ていた。 着替えが楽だと思ったからだ。 流石にバイクには乗れない。
部屋を出る前に着替えて来ていた。 ミニでなければ、外へ出る事も慣れて来た。 倉真から貰ったサマージャケットも、ポケットが丁度良い。
「財布はジーパンに収まるな。 タバコとライター、お前のポケットへ入れて置いてくれよ?」
「OK。 一時間後に休憩所…って、約束しなくても良いんだな」
「混浴だからな、楽しみだよ」
また、倉真がニヤリと笑う。 利知未は、赤くなってしまう。
「……本当は、ビキニ着たく無かったんだけどな」
「じゃ、後でな」
利知未のぼやきは聞こえない振りをして、男性更衣室へ入って行った。
利知未は、倉真の背中に軽く舌を出して、アッカンベーをしてやった。
更衣室の外で、倉真と会う。 そこから浴場へ出て行った。
「凄いな、六種類もある!」
「ココだけじゃ無いんだろ? パンフレットに、全部で十二種類の変り温泉があるって、書いてあったよな」
「一日じゃ、入り切れないな」
「明日、チェックアウトしてから、また来れば良いんじゃないか?」
「じゃ、今日は半分、制覇しよう!」
ジェット風呂、泡風呂、岩風呂、打たせ湯、変り湯、露天風呂が三種類、岩窟風呂、簡易サウナ、他に、大浴場が二つ。 かなり広いスペースが、浴場だ。
更に、普通のサウナと水風呂も、勿論ある。
利知未は、ジェット風呂が気に入った。 けれど、ビキニのブラが取れそうで、ゆっくり浸かっていられなかった。
胸を押さえる様にして、ジェット水流に当っている利知未に、倉真が言う。
「どうしたんだ?」
「…何でもない。 これ、気持ちイイよな」
「疲れに利くな。 もう少し、ジェットが強くてもイイくらいだ」
「あたしは、これでも十分だと思うけどな。 ……泡風呂行こう」
湯を上がって、泡風呂に移動した。
倉真もジェット水流が気に入ったらしく、利知未が移動してからも、一人ご満悦の様子だった。
泡風呂も気持ち良かった。 ブラの心配もしなくて済む。 のんびりと浸かった。
利知未は、長い時は徹底的に長風呂だ。 利知未が二つの変り湯を楽しんでいる内に、倉真は一箇所ずつ、六種類の風呂を試して来た。
「打たせ湯も、気持ち良かったぜ?」
「もう、回って来ちゃったのか?」
「ンな長く、浸かって居られネーよ。 腹、減った」
湯船の外で、しゃがみ込んで、利知未のビキニ姿を堪能する事にした。
「……何、じっと見てるんだよ?」
「いや、良い眺めだと思って」
「イヤらしーな。 他の女も、そんな目で眺めて来たのか?」
偶々、近くには耳の遠そうなお婆ちゃんが一人、居るだけだった。
「焼き餅、焼いてくれてるのか?」
「……別に、そー言う訳じゃ、無いけど」
耳が遠いと思っていたお婆ちゃんが、微笑ましげに二人を眺めた。
視線に気付いて、慌てて話を止めた。
「新婚さんかい? 仲が良いねぇ」
赤くなってしまう。 俯いた利知未の代わりに、倉真が言った。
「そー、見えますか?」
「違うのかい?」
「…ま、そーです」
どっちの言葉に肯定か、判らない答え方をした。 利知未が目を上げて倉真を見る。お婆ちゃんは、新婚さんに肯定と取ってしまった。
「お子さんは、まだなのかい?」
「俺の稼ぎが、まだ追いつきません」
利知未が少し膨れて、無言で倉真を攻める。
「いいンじゃネーか?」
倉真がニヤリとして、湯船に浸かって、利知未の隣へ来た。
利知未は赤くなったまま、少し横に避けて、倉真の居場所を作った。
「婆ちゃんは、孫は未だですか?」
「そんなに若く、見えるかい? もう、曾孫まで居るよぉ!」
どうやら、都合の良い耳の持ち主の様だった。 照れてコロコロ笑いながら、手を顔の前で、振っている。
倉真が面白がって、話し相手をし始めた。
「若いっすね、驚きました」
腹が減って来たのを、話し相手をして誤魔化そうとしていた。 どうせ、まだ利知未は上がりそうもない。
十分ほど、お婆ちゃんの曾孫自慢に付き合った。 いい暇潰しになった。
漸く風呂を上がって飯に有り付けたのは、七時過ぎだった。
あの後、利知未に付き合って、取り敢えずもう一周してしまった。 いい加減、風呂に浸かり疲れた倉真は、利知未のビキニ姿の観賞に時間を費やしていた。
その内に、利知未も見られ慣れてしまった。
「さっき、なんで嘘言ったんだ?」
レストランで食事をしながら、利知未が突っ込んだ。
「話を合わせただけだよ」
「合わせる必要も、無かったと思うけどな」
「乗りだ、乗り。 それとも、お前はイヤだったか?」
何気なく問われて、また赤くなってしまった。
「……イヤだとは、言ってないけど」
「ンじゃ、良いンじゃネーか? 面白い婆ちゃんだったな」
「倉真、年寄りにも優しいんだな」
「お前の影響だよ」
「あたしの?」
「お前には、色々、教えて貰って来たよ。 ……感謝、してる」
急に真面目に答えられて、照れ臭くなってしまった。
「……明日、雨が降りそうだ」
照れ隠しに利知未が言った捻くれた言葉に、倉真は小さく首を竦めた。
「そーかもな」
真面目に感謝の言葉を伝えたり、照れずに愛しい態度を表すのも、昔の自分では考えられなかった事だと思う。
倉真は利知未に、愛情を持っているのと同時に、心から感謝もしていた。
夜。 二人は改めて、お互いの想いを確かめ合う様に抱き合った。
翌朝、朝食を済ませてチェックアウトをしてから、昨日入り損ねた風呂へも入って、ついでにプールでも、一時間ほど遊んでから帰った。
途中の休憩で昼飯も済ませて、帰宅したのは七時過ぎだった。
朝、風呂に浸かって来たので、シャワーで軽く汗を流し、簡単にソーメンで夕食を済ませ、水着を脱水にかけ、干してから晩酌をした。
「また、何処かのプールでも行くか?」
「折角、水着も買ったしね。 海よりは、日焼けもしないし」
「そン時は、カメラも持って行かないとな」
「……撮るつもりか?」
「カメラ持って行って、他に何するんだ?」
「水着姿だけは、止めてくれ」
「どうして?」
「……恥ずかしいから。 一生、残るんだぞ?」
「一生残るから、良いんじゃないか?」
「絶対、イヤ!」
恥ずかしがる利知未を肴に、倉真は楽しそうに酒を飲んだ。
二人暮らしが始まって、まだやっと五ヵ月だ。
それでもお互いの心の中で、一生のパートナーになるであろう相手に出会っていたのだと、改めて感じ始めていた。
これから先、二人の思い出は、まだまだ増えて行く事だろう。
インターン編・三章 了 (次回は、2月 22日 22時頃までに更新予定です)
インターン編・三章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。この章の初稿完成は、2006年8月1日となっておりました。
次回の四章で、利知未シリーズの本編部分は終了です。 その後、社会人になってからの利知未と倉真の、結婚までのバタバタした(?)お話は、4月中に全て上げてみようかと思います。 連載ではなく前後編として、5作。
どうしようかと考えましたが、やはりそこまでの話で完了となる物語ですので、宜しければ、またお付き合いくださいましたら嬉しく思います。
次回、本編部分の最終章となります。 また金曜日に、皆様と此処でお会いできますよう、心よりお祈り申し上げます。