インターン編 二 章
利知未の結婚までの物語、インターン編は、1990年代後半頃を時代背景として設定されています。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。実際の団体、地域などと一切、関係ございません)
インターン生活で始めての夏休みが終わった。 利知未のアルバイト時間の関係で、二人はこの春までと比べて、中々、会う機会が取れないでいた。
利知未・大学五年(実習医一年)の、夏休み過ぎからの話です。
二 章 もっと近くへ……
一
八月の最終週、利知未と倉真は、土曜日から会う約束をした。
利知未は、病院で避妊薬を処方してもらってから、三週間経っていた。
下宿へ行って夜、倉真に会った日からこの二十日余りの間、利知未は少々、気の抜けた様な気分を味わっていた。
久し振りに里沙や冴吏ともゆっくりと話をして、里心が付いてしまったのかも知れない。 一人暮らしの寂しさを、改めて感じ始めている。
前日は土曜の夜勤の変わりに、金曜の夜勤が入っていた。
午前中にゆっくりと休み、午後二時過ぎに、利知未のアパート近くの喫茶店で待ち合わせていた。
倉真を待つ時間、利知未はボヤリと考え事をしていた。
下宿は、あのままの姿で長く留め置いてくれる話が、出始めていた。
十年も暮らしていた思い出深い場所だ。 本当にそうなったのなら、どれほど嬉しい事だろうと思う。 そこから、利知未の物思いが始まる。
先ず始めに、双子と里真を思い出す。 双子とはチョコチョコと顔を合わす機会もあるが、里真とは今年度へ入ってから、一度も会っていない。
次に、玲子を思い出す。 玲子は、もっと長い時間ご無沙汰だ。 もう二年半以上、会う事も、連絡を取り合うことも無く時間が過ぎて来た。
冴吏、里沙、朝美、美加の四人とは、双子同様、会う事もあるが、それにしても、玲子も含めて八人で暮らしたあの数年間の、何と騒がしく退屈の無い日々だった事かと、改めて考える。
玲子と朝美まで揃い、里沙と自分、九人で暮らした約二ヵ月半は、あっという間だった。 玲子が抜け、翌年の春。 里沙が結婚し、朝美を始めとして七人で暮らして来た二年間。
二人が抜けた寂しさは、朝美の賑やかな性格で、随分と誤魔化されていた。
『あの下宿も、今は五人か……。 五人で暮らしていたのは、冴吏が入ってからの一年間だったな』
あの頃は、自分はFOXと敬太との関係で忙しかった。 裕一の死を受けての悲しみと、由美との悲し過ぎる別れの中で、のんびりと過ごしていたと言う感じは全く無い。
それでも下宿の中自体は、穏やかな時期だったかもしれない。
翌年、朝美が抜けて直ぐに、双子が入った。
双子の賑やかさは朝美以上だった。 お陰で再び朝美を迎えた約三年前まで、全く寂しさは感じなかった。
その間に里真と美加も加わり、利知未自身の身の回りにも、色々な事が起った時期だ。
一人暮らしに慣れ始めた最近、よくあの頃の事を思い出してしまう。
『ホームシックって、ヤツかな……?』
中学一年のゴールデンウイークから、大学四年までの十年間を暮らしてきたあの場所が、利知未にとっては故郷のような物だ。
もう一つの故郷、大叔母の家屋敷は、主を失って十五年以上経った今、あの頃の面影を全く残さずに、低いビルが建ってしまっている。
それより以前は思い出したくも無い、思い出すことも出来ないくらい、幼い頃の事ばかりだ。 唯一、裕一と優と三人の思い出だけは、偶に振り返ってしまう。
けれど利知未の中で、それは禁止事項だ。
三人の思い出には、必ず、裕一の姿がある。 思い出すと、また泣きたくなってしまう。
随分、ボーっとした時間を過ごしてしまった。 二時を少し回って倉真が到着し、利知未に声を掛けるまで、たっぷり一時間近くは考え込んでいた。
「利知未、どうした?」
声を掛けられるまで、全く気付かなかった。
「今、来たのか?」
「そうだよ。 何、考えていたんだ?」
「何でもないよ」
微笑を見せて、倉真を迎えた。
「今日は、街中でも流すか?」
「そうだな。 近場の観光スポット回って時間を潰そうか?」
「だな。それで、丁度イイ位だろ」
店員が水を運んで来た。 珈琲を注文して、倉真がタバコへ火を着ける。
「明日は、休みなんだよな?」
「久し振りに、休みが一緒になった」
「一ヶ月以上振りだな」
「七月の、祝日以来だな。 …今夜、倉真の所に泊まって行っても、いいか?」
「最初から、そのつもりだったよ」
ニヤリと倉真が笑う。 利知未は少し、恥ずかしそうな顔になる。
『こういう経験が初めてな訳、無いのに……。 何か、照れ臭いな』
敬太と付き合っていた頃、いきなりバイクで会いに行った夜や、哲の部屋へ通っていた頃を、思い出してしまった。
「どうした?」
「何か、変だったか?」
「顔、赤くなってる」
倉真が優しげで、楽しげな笑顔を見せる。 その笑顔を見て、利知未は益々、照れ臭くなった。
倉真が注文した珈琲が運ばれてくる。 ゆっくりと飲んで、三時前に店を出る。
そのまま、横浜観光スポットを巡った。
今日も利知未は、休憩中もライダージャケットを、確りと着込んでいた。
「そんなに日焼けがイヤなのか?」
関内の中華街を冷やかし歩きながら、倉真が聞いた。
「綺麗に焼けてくれないからな。 それに、日焼けはシミの元だし」
「利知未が、シミを気にするのか?」
「倉真、あたしのこと どう見てるんだ?」
「男勝りな振りした、実は、かなり女らしい彼女、か?」
考えながら、倉真が答える。 利知未は、また照れてしまう。
「女は、シミ、皺、太り過ぎを、気にするもんだ」
「まだ、シミとか皺とか言うのは、早いんじゃないか?」
「今の内に気をつけて置かないと、年取ってから慌てる事になるだろ?」
「そー言うモンか?」
「そー言うモン」
少し赤くなりながら、利知未が言う。
利知未の様子を眺めて、倉真は思う。
『やっぱ、飽きる事は無いよな』
次々と、今までの利知未からではイメージが無かった新しい表情を、倉真は発見していく。 その度に惹かれる。
最近、利知未の照れた膨れっ面を見るのが、少し楽しくなって来た。 以前なら、恥かしくて中々、言えなかった様な事も、からかい半分に良く口にしてみる。
その度に、利知未の反応を見て、一人ご満悦な気分に浸っている。
『一生、傍に居ても楽しいんだろうな』
今日もまた、利知未を惚れ直した気分になり、肩に手を回す。
利知未も素直に寄り添いながら、その内に周囲の目が気になり始める。
「やっぱ、ジャケット脱ごう」
「そーしろ。 日焼けしないように、抱えて歩いてやるよ」
「荷物じゃ有るまいし」
小さく吹き出しながら利知未がジャケットを脱いだ。 女らしいラインを隠さない様に、気を付け始めた。 それでも周囲の視線は相変わらず集めてしまう。
但しその目は、怪しげなカップルを見る目というよりは、長身カップルに驚く視線へと変った。
利知未は輸入食材の揃っている店で、豆板醤やオイスターソースなど、何品かの調味料を買い込んだ。
「今度、料理の元を使うんじゃなくて、ソースから手作りの中華料理、作ってやるよ」
「楽しみだ」
「倉真も辛党だよな?」
「そうか?」
「タマに、蕎麦に入れる七味の量や、ラーメンの胡椒の量を見てびっくりするよ」
「お前も、パスタにかけるタバスコの量、半端じゃネーな」
「甘いよりは、辛い方が好きだからな」
話しながらレジを済ませた。
バイクへ戻り、買い込んだ調味料をサイドバックへ仕舞った。 そこから港の見える丘公園を目指して走らせた。
駐車場から直ぐの、山下埠頭の見えるベンチで、のんびりとタバコを吸っていた。 利知未は、またジャケットを着込んだままだ。
タバコはジャケットのポケットへ入れて来ていた。
「こうやってのんびり出来るの、貴重な時間だよな」
山下埠頭を眺めて、利知未が呟いた。
「そうだな」
ベンチの背凭れへだらりと両腕を引っ掛けて、倉真が言う。
会話なしで、呑気な時間が暫く流れた。
利知未は、また少しだけ昔の事へ、心が囚われ始める。
倉真は、ぼんやりと膝に肘をついて頬杖をつく利知未を、斜め後ろから何気なく眺めていた。
バラ園の方から、女子大生の二人連れが賑やかにやって来た。
「うわぁ! ココからの景色、素敵かも!?」
「本当だ! 山下埠頭、見えるよ? ヨットハーバーかな? あの向こう側!」
「だね! 風、気持ちイイ!」
山下埠頭側の策へ駆け寄って、二人でカメラを構え始めた。
お互いのカメラに、お互いの姿を、絶景をバックに収める。
「ね、折角だから、二人で撮っておこうか?」
「そうだね、誰かいないかな?」
きょろりと周りを見回して、利知未と倉真の姿を認めた。
女子大生は、友人の元へ駆け寄って小声で囁く。
「ね、あの人たち、ちょっと格好イイ?!」
「え? 本当だね。 折角だからシャッター、お願いしちゃおうか?」
「私、恥ずかしくて言えないよ」
「あたしが頼んで来ようか?」
「え? でも、恥ずかしくない?」
「シャッター頼むだけでしょ? 行くよ!」
ハッキリした性格と、やや引っ込み思案の二人だった。
友人をやや後ろに連れ、少し小柄な方へ声を掛けた。
「あの。 済みません、シャッター、押して貰って良いですか?」
声を掛けられ、利知未は銜えタバコのまま目を上げる。
後ろに隠れていた友人は、こっそりと見惚れてしまった。
目を上げて、ショートヘアの活発そうな女性と、セミロングの髪を編み込んでいる少し大人しげな二人連れに気付いた。
二人の雰囲気を見て利知未は、双子と里真を思い出した。
「良いぜ」
手を出して、カメラを受け取った。
「お願いします!」
元気な笑顔に、益々、下宿メンバーを思い出す。 微かに頬が緩む。
「どこ、バックにする?」
優しげに問い掛けられて、活発そうな女性も一瞬、照れてしまった。
「あの、山下埠頭、バックにして」
「OK」
動き出した利知未を、倉真が眺める。
『少し、元気になったか?』 思って軽く微笑む。
その倉真の表情を、活発そうな女性が偶々、振り返って目撃する。
「ね、あたしは、あっちの人が格好イイと思う」
撮影ポイントへ向かいながら、友人に囁いた。
「え? 由紀、ちょっとキツメな人の方が好き?」
「アンタは、美形好みよね」
「だって、見てるだけで幸せな感じにならない?」
二人の会話は利知未には聞こえない。 カメラを構えて声を掛ける。
「ちょい、逆光だな。 向き、少しだけ変えて見てくれ!」
「はい! こっちなら、平気かな?」
「OK。 撮るぞ?」
「お願いします!」
少しポヤンとした友人の隣で、明るい笑顔を見せる二人の姿を、カメラに収めた。
二、三枚撮ってカメラを返しに行き、もう一人の女性のカメラへ手を出して促した。
「そっちにも撮ってやるよ?」
「済みません、お願いします。」
活発そうな女性が、場所を変えて友人と立つ。 考えて、背後にチラリと倉真の姿が治まるように、態と動いた。
「この向きで、良いのか?」
「はい」
返事を聞いて更に二、三枚、もう一台のカメラへ収めてやった。
倉真は、楽しげにシャターを押している利知未を眺めていた。
女子大生は利知未の優しい対応に、もう一つ頼みごとをチャレンジしてみる事にした。
カメラを返して、再び倉真の隣で新しいタバコへ火を着けた利知未の元へ、おずおずと向かった。
「あの、有難うございました。 お二人は地元の方ですか?」
「地元って言えば、地元になるのか?」
利知未に振られて、倉真が会話に参加する。
「そーなるんじゃないか?」
倉真の声を聞いて、ショートヘアの女性の耳が反応した。
『ちょっと、イイ声だな』 そう感じる。
倉真は、身体の大きさから発する、一般に比べて少し低音な、ちょっとだけ響きの良い声の持ち主だった。
少しだけ赤くなりながら、ショートヘアの女性が言った。
「あの、私達、観光で来たんですけど。 この辺りのお勧めスポットとか、ご存知ですか?」
それから女子大生達に相談された。
気になる観光スポットが、デートコースチックな所が多くて、女の二人連れでは行き難い所があるという。
利知未は自分がジャケットを着たままだった事、これまでの態度が、つい下宿メンバーに対するように、やや男っぽかったらしい事に気付く。
『それなら、面白いな。 気晴らしに、このままで行くか?』
倉真の意見も聞かず、勝手に二人を観光スポットまで、タンデムさせてやる話を決めてしまった。
二人は驚いて、喜んだ。 その様子を見て、倉真も小さく溜息をつく。
『ま、イイか』
利知未の気分屋で面倒見が良い部分は、よく解っているつもりだ。 好きだと思える部分でもある。 素直に利知未の話に従ってやる事にした。
暫くは名前の呼称禁止だ。 小さく肩を竦めて、バイクへ向かう。
「パトに会わない様に、祈っておくか」
「だな。 タンデムヘルメットは、持って来てないからな」
バイクを交換し、タンデムシートの二人にヘルメットを被せて走り出す。
女子大生達と、桜木町の観覧車に乗り、ランドマークタワーの展望台へ上った。 女子大生達は、観光とデート気分を堪能して駅で別れて行った。
二人きりに戻り、時計を見るとそろそろ六時だ。
「買い物して、帰るか?」
「そうしようか」
下宿時代から良く利用していたスーパーへ寄り、夕飯の材料と他に、倉真が適当な食材を、カートへ入れて行く。
「卵くらいは、有るよな?」
「冷蔵庫に飯も、有ったと思うけどな」
「冷や飯じゃ、そのまま食うのはチョイ辛いな」
「チャーハンでも作るか?」
「いいよ。 あたしが適当に料理するから」
少し考えて利知未が言う。 倉真は嬉しそうな顔をする。
「久し振りに、利知未の手料理が食えるな」
「この前、約束したし」
二人で買い物をしながら、仄々と幸せな気分に浸った。
倉真の部屋に着いたのは、七時頃だった。
「イー加減、腹、減ってるだろ? キッチン、借りるよ」
靴を脱いで、キッチンへ上がり込みながら利知未が言う。
「ンじゃ、任せた。 俺は、風呂でも洗っとくか」
「後でシャワー借りてイイか? すっかり汗だくだ」
「好きに使ってくれ」
「サンキュ」
答えて直ぐに、調理に掛かった。 冷蔵庫から冷や飯を出し、先ずはチキンライスを作った。
倉真が風呂を洗い終わって、利知未の姿を眺める。
「まだ、少し掛かるし。 先にシャワーでも浴びちゃえよ? 倉真も汗だくだろ」
「それもそーだ」
倉真は再び、バスルームへと移動する。
利知未はチキンライスを完成させて、サラダに取り掛かった。 倉真がシャワーを終わる頃、倉真の分のオムライスに取り掛かる。
「二度目だな。 利知未がうちで飯作るの」
タバコを吸いながら、作業を眺めている。
「そーだな。 前は、倉真が風邪を引いて、寝込んだ時だったよな」
「もう、三年位前か? あの時は驚いた。 けど、嬉しかったな」
「覚えてるよ。 料理、出来たんスね、って倉真が呟いてた事」
「なんで、そー言うバツの悪い事、覚えてるかな。 照れ隠しってヤツだ」
「そーか? そー言う事に、して置いてやるか」
卵を返して、形を整えて皿に盛って出した。
「お待たせ」
「お見事!」
「デカ過ぎて肩凝るよ。 倉真の胃袋スペシャル。 卵、三個使用」
「後で、解してやるよ」
笑顔で言葉を交わして、利知未は自分の分へ取り掛かった。
それから五分後、二人で食卓を囲んだ。 一人の夕食よりも余程、楽しい時間を過ごす。
食事を終えて後片付けを済ませ、利知未がシャワーを借りている内に、倉真が買い込んできた食材を使って、摘みを三品用意した。
「倉真も自炊、ちゃんと してたんじゃないか」
「気恥ずかしくて、言えるかよ?」
「イイ花婿に成れそうだな。 うん、中々、美味い」
早速、利知未が手摘んで、その意外な腕前に笑顔を見せた。
「…飲まないか?」
飲みながら、今日の出来事を話した。
話している内に利知未の心は、また過去へと少し飛んでしまった。
心配顔の倉真を、利知未から誘った。
今日の自分は、気持ちが過去へと飛び過ぎる。
ただ、倉真に抱かれて、現実を実感したかった。
今日まで二回は抱き合った利知未の、初めて見る積極的な様子に、倉真は少しだけ戸惑った。
戸惑いながらも、利知未の心を微かに感じた。
朝が来るまで何度も。 利知未の求めに応え続けた。
そして、利知未は。
倉真へ心を委ね切り掛けている、現在の自分自身の心を実感した。
二
八月最終日、三十一日の火曜日。 利知未は笹原と食事へ行った。
九月から実習科が、内科へと移動する事になっている。 当分、食事へ誘う機会も無いだろうからと言われた。
始めの三ヶ月を、現在専攻している科で実習を受け、それから約一年半掛けて、色々な科を回る。
途中でもしも希望が変わった者がいれば、新たに決めた科へ。
変らなかった者は、改めて数ヶ月を始めに実習した科へお世話になり、その中で医師国家資格試験へ挑む形を取っている大学だった。
店へ入り席に着き、食事が運ばれる前に笹原が言う。
「これから先は、一ヶ月ごとで色々な科を回る事になる訳だね」
「そうなります。 三ヶ月、お世話になりました」
ワインが運ばれて来た。 ボーイが戻ってから、話を再開した。
「実習をして行く内に、専攻が変わる学生も居ると聞いてきました」
「瀬川さんは、また外科へ戻って来る事になると僕は思っている」
「それは、適性が有ると判断して頂けたと言う事ですか?」
「以前、そう言わなかったかい?」
「……確かに、仰いましたね」
五月頃に言われた言葉を思い出した。
「学生には、余り言わない様にと言われているが……。 瀬川さんには期待をしているよ。 これからも勉強に励んで是非、同じ職場の同じ立場で、仕事をして見たいと思う。 健闘を祈っています」
「有難うございます」
激励されて乾杯をした。 十時前には食事を終えて店を出た。
その夜も笹原は、最寄の駅まで送ってくれた。
九月の二週目から、大学の講義も始まる。
内科へ実習場所を移して、同じ様に水曜、金曜の午前中は大学での講義だ。
実習科を移動したタイミングで、利知未の休日事情が変った。
「今月から月、二回は日曜も休めそうだ」
「バイト時間は?」
「取り合えず十一・十二日と二十五・二十六日は、バイトも無いよ」
「そうか」
電話で早速、倉真へ報告をした。 嬉しそうな声で話しをする。
「けど、土曜も朝から夕方は実習だけどね」
「夕方から会えないか?」
「…多分、平気だよ」
早速、十一日の約束をした。
その前に香とまた、飲みに行く約束をする。
「佐助のキープボトル、空けちゃいましょ」
バイト時間へ入り、書類を薬局に回した利知未を捕まえて、勢い込んで香が言った。
利知未は少し、目を丸くする。
「何か、有ったんですか?」
「ちょっとね」
「まぁ、イイですけど」
「じゃ、今夜」
「この間と、同じ時間になりますよ?」
「構わないわよ」
九月十日、金曜日の事だった。 新学期は既に、始まっている。
「先に行って、適当にやってるわ」
「そうしていて下さい。 八時半前には、着けると思います。 香さん、もう終業時間ですね」
「少しだけ残業になりそう。 返って丁度良いわ」
そう言って、香は仕事へ戻った。
薬局の、他の事務員へ書類を渡して移動した。 利知未は今日これから、救急外来の手伝いに回る。
書類整理とは別の意味で忙しく、また実践の勉強にもなる事だ。 どちらかと言えば、こちらの方がバイトとして遣り甲斐があった。
約束通りに八時半前、佐助に到着した。
「結構、飲んでるな」
振り向いて、お疲れ様と言った香の顔を見て、利知未が呟いた。
「スイマセーン! 氷とウーロン茶、デカンタで下さーい!」
店員へ向かって香が追加注文をする。
テーブル上の焼酎のボトルを見て、利知未が目を丸くしている。
「この前、まだ2/3位、残ってなかったか?」
ボトルの中身は僅かだ。
「ボトルも追加で」
氷とウーロン茶を持ってきた店員に、香が更に追加注文する。
「あと、梅茶漬け下さい。」
腹が減っている。 ついでに利知未も注文をした。
店員が注文を受け戻って行ってから、香に聞いた。
「何時ごろまで、残業だったんですか?」
「七時頃までよ」
「で、直ぐにココへ来たんですか?」
「そう。 一時間半は、経ってないと思うけど」
酒で赤くなった顔と、少しポヤンとした目で、腕時計を見ている。
利知未は自分でウーロン茶割を作って飲んだ。 一杯目を飲んでいる内に、梅茶漬けが運ばれてくる。
先に腹を満たしてから、グラスを空にして二杯目を作る。 香のグラスも空いて、新しい焼酎ボトルの栓を開けた。
「で、何があったんですか?」
「……別れた」
「って、彼氏と?」
こくりと頷いて、グラスの酒を煽る。
「それがさ、聞いてくれる? アイツいつの間にか、他に女、作ってたのよ!」
グラスを、テーブルへダンッと音を立てて置く。
「二人で居る時に女が乗り込んで来て、彼と別れてって、いきなり言われたのよね」
「……修羅場だった訳だ」
「派手な感じの、どこぞのホステス紛いの女で」
再び酒を煽って、飲み切った。
利知未は黙って、お代わりを作ってやった。
新しいボトルも、殆ど香が飲み切った。 途中で、お手洗いに立っていた。
香はどうやら、戻せばまた復活するタイプらしい。 再び席に着き、もう一本ボトルを追加した。
三本目のボトルが半分になった頃、ぐでぐでになった香を支えながら、店を後にした。 タクシーを使い、香の自宅まで送って行った。
翌日、香は休みだ。 利知未は朝、病院への行きに電車を利用して、帰りは佐助まで歩いた。 そこからバイクを拾って、買い物を済ませて帰宅した。
倉真が来る約束は七時半頃だ。 利知未の実習は、午後四時半に終わる。
佐助を回り買い物をして、帰宅は五時半近かった。
「倉真が来るまでに、片付けないとな」
風呂のスイッチを入れ、米を研ぎ、炊飯ジャーをセットしてから、料理に取り掛かる。
冷しゃぶサラダと、里芋の水煮を使って、簡単な煮物を作った。 人参を少々と干し椎茸、油揚げを使う。
昔、大叔母から教わった事がある。 学校行事の時の弁当に入っていた事もある。 ただし、大叔母は手抜きをせず、泥着きの里芋を使ってくれていた。
野菜は新鮮な物が一番と、いつも口癖のように言っていた。
冷蔵庫を開けて材料を取り出しながら、小さな鍋へ手を伸ばす。
「味噌汁も残ってンな。 豆腐でも足すか」
お椀に二杯分は残っている。 暑い時期だ。 鍋ごと冷蔵庫へ入れていた。
炊飯ジャーが電子音を上げる。 炊き立ての飯を簡単に切り混ぜた。
まだ、時間が有ると見て、もう一品、摘み兼用の料理を足す。 シラタキの明太タラコ和えだ。 フライパンで簡単に出来る。
ジャーの飯が蒸らし終わる頃には、料理も完成した。 風呂もとっくに入浴可能状態だ。 透子に貰ったセットの食器に、料理を盛り付けた。
丁度いいタイミングで、玄関のチャイムが鳴る。 時計を見て七時半になる事を確認した。鍵を開け、倉真を迎えた。
「時間通りだな。 いらっしゃい」
「邪魔する」
倉真は少し、ワクワクしていた。 利知未の部屋へ上がるのは、初めての事だ。 けれど照れ臭くて、その様子は見せられない。
軽く笑顔を見せて、玄関直ぐのキッチンへと上がる。
「後、味噌汁を温め直せば、直ぐ食えるよ。 部屋でテレビでも見てろよ」
「ンじゃ、そーさせて貰うか」
「適当に、ソファにでも座っていてイイよ」
利知未も少し、気恥ずかしい感じがしていた。
下宿時代から自分の部屋へ上がらせた男は、当然、一人も居ない。
あの下宿は一階部分以外、男子進入禁止区画だった。 当たり前である。
倉真は勧めに従って、利知未の生活空間へと足を踏み入れた。
始めの印象は、自分の部屋よりは荷物が多いと言うことだ。
収納は、天井から五十センチほどの所にある、作り付けのラックだけだ。 クローゼットと箪笥が目に入る。
『やっぱ、女だ。 服、多いのか?』
べッドの隣に、パソコンデスクが見える。
利知未がパソコンを持っている事を、倉真は始めて知った。 よく見ると宏一のお古だ。 見覚えている。
中学時代から、良く宏治の家へ泊り込んでいたのだ。 宏一の部屋へも勿論邪魔をしたことがある。
コンポとテレビにビデオ、大き目のスライド式本棚。 小さなテーブルとソファは、倉真は知らないが、利知未の下宿時代からの愛用だ。
洋室八畳の部屋は、家具の間に、それでも二畳分ほどの空きスペースを残していた。
『俺の似非六畳よりは、生活し易そうだな』
閉めたドアの向こうから、利知未の声が掛かる。
「倉真、しないとは思うけど、勝手に箪笥、開けたりするなよ?」
「分かってるよ」
短く返事をして、ソファへ座ってテレビを付けた。
十分もしないうちに、再び利知未から声が掛かる。
「飯、出来たぞ。 直ぐに食うか?」
「腹、減ってるよ」
「そうか、じゃ、飯にするか?」
「そーしてくれ」
答えながら、キッチン兼ダイニングへ向かいかける。
「パソコンデスクの椅子、持って来てくれよ?」
「OK」
利知未に言われて、部屋の奥へと椅子を取りに向かい直した。
利知未の出してくれた料理を見て、倉真は驚いた。
「一時間も無かったんじゃないか?」
「一時間はあったよ」
「にしても、良く作れるな」
「今日は病院の後だから、時間の掛かる物は無理だったよ。 次の機会には、中華料理でも作るか?」
「……イイ嫁さんに成れそうだな」 つい、呟いてしまった。
利知未にも聞こえて、少し照れ臭くなる。
知らない振りをして、倉真の飯茶碗へ山盛りにご飯を盛って見せた。
「飯の量、こんなもんでイイか? お代わりも、まだあるよ」
「サンキュ」
受け取って、利知未に促され、ダイニングチェアへ掛ける。
「食おうぜ。 戴きます」
二人で向かい合って、夕飯になる。
数日前に美加が送ってくれた緑茶を、食後に用意していた。
利知未が先に食事を終わり、倉真の食いっぷりを感心して眺めた。
「まだ、飯あるか?」
「チョイ待って」
立ち上がり、ジャーを開けて目を丸くする。
「凄いな。 四号炊いていたのに、これで最後だ」
倉真の飯茶碗に、最後の一粒まで綺麗に持って出した。
「やっぱ、男は米の消費量が多いな」
「料理が美味いと、いくらでも入るんだ。 お前、本気で料理、上手かったんだな」
改めて感心して言ってしまった。
今、何時もの倍近い量が、倉真の腹に収まっている。
「お前は、何時も失礼な発言してくれるよな。 今までだって、バッカスで散々、食ってるじゃないか。 ……けど、褒めてくれてサンキュ」
ニコリと微笑んで、利知未が言う。
「ちょくちょく、食わせてくれよ?」
「喜んで。 やっぱ、飯は一人より二人で食った方が、美味いよ。 作るのにも張り合いが出るしな」
飯茶碗に山盛り三杯の飯を、惣菜と共に綺麗に片付けた倉真へ、緑茶を出した。
食器を片付けに立って、利知未が嬉しそうに言う。
「良く食ってくれたな」
「美味かった。 ご馳走さん」
「作り涯あるよ。 コンだけ綺麗に食い切ってくれたら」
利知未の嬉しそうな笑顔を見て、将来もしも利知未と結婚をしたら、何時もこんな光景に出会えるのだろうか? と、倉真は思ってしまった。
それから利知未に促されて、風呂を借りた。
倉真が入浴をしている間に、利知未は裕一のお古の、スウェット生地の上下セットを、箪笥の奥から出した。 バスタオルと共に脱衣所の籠へ用意しておいた。
用意をしながら、裕一の事を思い出してしまった。
『きっと、倉真になら、丁度イイよな』
ぶかぶか過ぎて、自分で使う事は無かった。 それでも、裕一の形見として、大切に仕舞い込んでいた。
風呂を上がり、倉真は着替えが用意されている事に驚く。
『これは、俺が借りてもイイのか……?』
少し考えてから着替えた。 上下とも、サイズは合っていた。
脱衣所から出て来た倉真を見て、利知未は一瞬、ドキリとする。
『……裕兄』
見かけは全く似ていない。 強いて言えば、優の方に似ているくらいだ。
それでも一瞬、裕一が生前の姿を思い出してしまった。
裕一はその服を、部屋着として使っていた。 その格好で風呂上り、レポートに向かっていた兄の姿が、脳裏へ掠めて直ぐに消える。
「……サイズ、ピッタリじゃん? 兄貴の古着なんだけど、あたしじゃチョイ、デカかったんだ。 倉真に、やるよ」
無理に微笑を見せて、明るく言いかけた。
「……これ、もしかして裕一さんのか?」
「良かったよ。 倉真にピッタリで」
一瞬掠めた利知未の寂しそうな表情を、倉真は見逃さなかった。
「これ、置いといてくれよ。 また今度、泊まりに来た時に貸してくれ」
「……そうだな。 今度は、下着も買っておこうか? あたしも風呂、入ってくる」
軽く飲んでいたグラスを置いて、着替えを取りに部屋へ入った。
利知未の後姿を眺めやり、倉真は静かにダイニングチェアへ掛けた。
テーブルの上へ置きっ放しになっていた、タバコへ手を伸ばす。
「飲んでてイイよ。 暇だろ?」
部屋から着替えを持って出て来た利知未が、軽い笑顔を見せて言った。
「そうだな」
返事をし、立ち上がって、グラスを食器棚から借りた。
利知未はシャワーの音に紛らせて、小さく声を出して泣いた。
『……裕兄のこと思い出すと、……やっぱ、ダメだ』
普段よりも長時間、湯船に浸かり、逆上せそうになって漸く、風呂を上がった。
脱衣所を出た時、利知未の表情は既に、何時も通りに戻っていた。
それから二人で酒を飲みながら、明日の予定を決めた。
時々、利知未の視線が、どこか遠くを彷徨う。
心配そうな顔で見つめる倉真の視線に気付いて、少し慌てて笑顔を作る。
一時間ほどして利知未が立ち上がって、倉真の後ろへ回った。
後ろから倉真の身体を包み込むようにして、抱きしめた。
「どうした?」
後ろから回った利知未の手を、倉真の手が、優しく包み込む。
「……何でもないよ」
「何でもないこと、あるか?」
「……今は、倉真が居てくれるから……」
瞼が再び熱くなる。 泣き顔を見せたくは無いと思う。
倉真は肩に利知未の涙を感じて、黙ってそのまま、じっと動かない。
「……ごめん。 ……倉真」
「何だ?」
「………ずっと、一緒に居てくれるんだよな?」
「約束した」
「うん。 ……あたしより先に、……死ぬなよ?」
「百まで生きてやるよ」
「ムチャクチャ言うな。 ……けど、出来ることなら、百まで生きてくれよ」
「お前は、ずっと傍に居てくれるのか?」
「……あたしが倉真に、傍に居て欲しいよ……」
「分った。 約束するよ」
「……うん」
ゆっくりと振り向いて、立ち上がった。
それからベッドへ移動して、抱き合った。
抱かれながら、利知未はもう一度、涙を流してしまった。
『……裕兄、あたしたちが、ずっと一緒に居られるように』
見守っていて欲しいと、心から願った。
利知未の涙を、倉真は確りと、自分の心へと刻み込んだ。
三
倉真と、のんびりと過ごした日曜日を過ぎ、再び週が明ける。
朝から実習へ入り、昼休み、香と昼食を食べに病院を出た。
店へ入って、先ずは香が、週末の礼と侘びをした。
「ごめんなさいね、私、すっかり酔っ払っちゃって。 タクシー代、払うわ。 いくら掛かったの?」
「香さんの家までは、二千七百円くらいかな?」
「利知未さんの家までは、いくら? 全額、払うから教えてくれる?」
「いいですよ、二千七百で。 あと、飲み代半額足して、九千円貰えますか?」
「それなら、迷惑料込みで一万円、払うわ」
少し考えて、その金額で折り合った。 金の計算は、双方納得できるようにキッチリしておいた方が、これから先の付き合いには良い筈だ。
「あと、今日はお昼を奢らせてね」
「そこまでして貰っちゃ、返って悪いですよ」
「これから先も利知未さんとは、気持ち良く付き合って行きたいから。 今日の所は私の言う事、聞いてくれない?」
そう言われて、素直に奢って貰う事にした。
食事を終え珈琲を飲みながら、香から改めて彼氏との話を、素面の状態で聞いた。 落ち着いて話を聞いてみると、八月の頭頃から妙な気配は感じていたという。
「何と無く、何時も不機嫌な感じだったのよね。 その癖して、変な所で妙に優しかったりして。 あの時から、もうあの女と付き合っていた見たい。 私も迂闊だったわ。 あの時に気付いてキチンと話し合っていれば、あんな修羅場にならずに綺麗に片がついたと思うわ。 見てよ。 まだあの女に引っ掻かれた傷、残っちゃってるのよ?」
シャツの襟を少し開いて、鎖骨の下辺りの赤い痕を見せてくれた。
「その彼女は、背が低かったんですか?」
「そんな事、無かったわよ。 でも、利知未さんから見たら十分、低いかしら? 百六十前後って感じ」
香より少し高い訳だ。 すると鎖骨の下の傷跡が物語ることを考えて、利知未は視線を上へと逸らす。
「……恐ろしーぜ」
つい、素で呟いてしまった。
想像できるのは、ベッドの上やソファ、或いは椅子に座って居るような時に、圧し掛かられる感じで、襲われた事になるまいか?
しかも傷痕が残っているのは、通常ならば洋服で隠れている場所だ。
「ホント、怖かったわよ。 ……アイツ、何であんな女を好きになったのか」
香が言って、首を傾げる。
その様子は、失恋の痛手以上に、呆れてしまって物も言えない、そう言いたげな雰囲気に見える。
「取り合えず、落ち込んではいない見たいに見えますね」
「……私も、いい加減、イヤになって来ていたのかもね」
首を竦めて、紅茶を飲む。
「親戚が持って来た、お見合いでもして見ようかしら?」
「気晴らし位には、成るんじゃないですか? イヤなら断れば良い訳だし」
「そーね。 返って確りした良い人を、紹介してくれるかしら」
「親戚が持って来るくらいなら、そんなに酷い人物って事も、無いかもしれないな」
「そう思う?」
「後々の付き合いだって、ある訳だし。 普通は、マトモな話しか持って来ないんじゃないか?」
答えながら、朝美の事を思い出していた。 利知未は銜えタバコだ。
香の前では、すっかり素が出易くなってしまった。
「一度、会って見るか」
「報告、待ってます」
タバコを吸い切り、珈琲を飲み切って店を出た。
水曜日、透子と学食で話した。
「最近、あっちこっちで見合いの話し、してるよ」
「利知未の周りは、オネー様方が多いからな」
「透子も婚約した訳だし、なんツーか、妙な感じだ」
「羨ましくなったか?」
「何で、そう来る?」
「釣り目Gayとは、どんな感じだ?」
「変らないよ。 忙しくて、アンマ会う暇も無かったし」
「その割には平然としてるな」
「…のんびり、行くよ」
今月はもう一日、倉真と過ごせる日がある。
それもあって、つい一ヶ月前よりは、利知未の気持ちも落ち着いている。
自分の気持ちが落ち着いて、ふと疑問が浮かぶ。
「お前の旦那、両親といくつ違うんだ?」
「母親と五歳、父親と八歳。 一応、旦那の方が年下だな」
「兄弟みたいな相手に、お義父さん、お義母さんと呼ばれる気分は、どんなんだろうな」
「大反対に決まってるじゃないか。 だから、卒業まで様子見するんだって言ってたぞ?」
透子本人は構った事ではない。 簡単に言い捨てる。
「…やっぱ、そーだよな。 透子とは、十九歳、違う計算か」
「そー」
自分がマスターと関係を持ってしまった事を考えて、頷けない事は無いと思う。 マスターとは、二十二歳の歳の差があったのだ。
大河原は、四十二歳になるまで、独身で来た筈だ。 自分の時よりは、余程健全ではある。
「利知未の反応は、他のヤツと全然、違うな。」
透子が何気なく言った。 驚いている訳では、全く無いらしい。
「……ま、色々あって、イーんじゃネーのか」
「流石、動じないな」
「透子と八年近く付き合ってりゃ、度胸も据わるよな」
マスターとの事は、透子にさえ言うつもりは無い。 適当に誤魔化して、話を変えた。
倉真はあの夜を過ごして、おぼろげに考えていた利知未との将来の事を、改めて考える時間が増えていた。
あの時、利知未が倉真に言った言葉の、裏の気持ちは理解できる。
大切な人たちを、思春期の一番多感な時期に立て続けに失った利知未の寂しさ、恐れ、不安、……身を切る程の、悲しみ。
もう二度と、大切な人物を失いたくないと言う、切ない想い……。
『マジ、もう少し俺が確りしてやらネーと、アイツは……』
二度と利知未に、新たな悲しみの涙を流させてはいけない。
出来る事ならば、本気で何時も一緒に居てやりたいと思う。
綾子の時の様に生活を共にしてしまっても、良いかも知れない。
『……良いかも知れない、と言うよりは』
その方が絶対に良いのだろうと、心の奥で考え始める。
その為には、やはり自分が頑張らなければならないと思う。
試験をパスして医師になり、働き始めるまでは、利知未は学生だ。
『いっその事、優さん達みたいに、学生結婚、とか……?』
思ってみて、首を振る。
そんな事になれば、どうしても利知未の負担が増えるだろうし、何より彼女がどこまで考えているのかも、解らない事だ。
『どっちにしろ、先走り過ぎだ』
自分の考えに、蓋をする。
先ずは自分がもう少し、社会的にも人物としても成長しなければ、どうにもならない事ではある。
今は、ただ真面目に。 自分の将来の目標へ向かって、努力するのが先決だろう。
決意を新たに、仕事へ励む。
そうなれば当然、その真面目な働き振りにも磨きが掛かる。
色々な点で条件を譲渡して、倉真を社員として迎えてくれた社長は、倉真の成長振りに目を細めた。
人物を見て雇用を決めてはいるが、倉真の履歴には不安な点も勿論、あったのだ。 最近の倉真については、良い拾い物をしたと感じ始めている。
二十四日。 利知未の実習時間の終わりに合わせて、喫茶店で待ち合わせた。
「直、来て貰っても良かったんだけどな。 ついでに、買い物して行こう」
「今日は、中華を作ってくれるのか?」
「リクエストがあれば。 エビチリでも作るか?」
「麻婆豆腐も良さそうだ」
「ンじゃ、麻婆豆腐にしよう。 あと中華風卵スープ作って、サラダくらい食べたい所だな」
夕飯のメニューを決めて、喫茶店を出る。
倉真のタンデムシートへ跨って、買い物へ回った。
ついでに倉真の歯ブラシと、下着も一枚、買って行った。
「服は、また、裕兄のお古で構わないよな」
「寝るだけだ。 パンツ一枚でも、構わネーくらいだ」
「まだ、暑いからな。 夏は、本気で男が羨ましいよ」
「素っ裸で居ても、下だけ隠しときゃ犯罪にはならネーよな」
「そー言う事だよな」
「どーせ、他に人も居ないんだ。 素っ裸で居ればどーだ?」
「……スケベ大魔神」
倉真に、新しい仇名が出来てしまった。
「何とでも言ってくれ」
ふざけた会話に、二人で同時に、軽く吹き出した。
荷物を片手で抱えて、再びタンデムシートへ跨った。 倉真の運転は安全運転だ。 スピードを上げる事もなく、呑気に利知未のアパートへ向かう。
アパートの外でバイクを止め、スタンドを掛け、倉真が一度、荷物を引き受けた。 バイクから降りて、倉真から荷物を受け取って、一足先に部屋へ向かう。
倉真はバイクを駐輪所へ止め直してから、のんびりと外階段を上がる。
「邪魔するぜ」
「どうぞ」
食材の一部を冷蔵庫へ仕舞いながら、利知未が答える。
「倉真、自分の物、使えるようにして置けよ?」
「おお」
ビニール袋から、歯ブラシと下着を出して片付ける。
「こっちは、どこ置いとけば良いんだ?」
下着を手に持って、利知未に問い掛ける。 その手をチラリと視界に入れて、利知未が言った。
「そーだな、ベッドの上にでも、置いておけよ? 風呂も準備するから」
勝手に箪笥を開けられるのは、流石に遠慮したい。
倉真は、言われた通りに部屋へ入る。
「風呂が沸くまで、テレビでも見ててくれ」 キッチンから、利知未の声がした。
利知未は風呂のスイッチを入れ、炊飯ジャーをセットして、鼻歌交じりに料理を始める。元々好きな事で、二人分を作るのは、それ以上に楽しい。
暫くすると、倉真がパソコンデスクの椅子を持って、キッチンへ入る。
「今日もコイツ、使うんだよな?」
「サンキュ。 その辺、置いといてくれよ」
調理の手は止めずに、明るく利知未が礼を言った。
上機嫌な様子を見て、倉真はダイニングチェアへ腰掛けた。 頬杖をついて、利知未の後姿を眺める。
「見てても、詰まらなくないか?」
利知未の後姿が、倉真へ問い掛ける。
「そーでもネー。 機嫌がイイ利知未を見てるのは、楽しいぜ?」
言われて、少し照れてしまう。 照れ隠しに、倉真に仕事を命じてみた。
「だったら、サラダ、ヨロシク」
サラダ菜とトマト、キュウリと俎板、包丁をダイニングテーブルへ移動した。 レンジから、ブロッコリーと人参も取り出す。
「適当で、イイのか?」
「イイよ。 倉真のセンスに、任せた」
「任された」
返事をして、器用に包丁を使い出した。
その様子を少し眺めてみて、利知未は感心する。
「飾り包丁なんて、どこで覚えて来たんだ?」
「宏治に聞いた」
「バッカスでか?」
「飲んでる時に、チョイな」
和菓子職人の、父親の血かも知れない。
意外と職人気質な一面を、自分が持っている事に気付いてしまった。
「懲り過ぎて、手、切るなよ?」
「任せとけ」
手を止めずに倉真が言う。 何と無く、可愛く見えてしまった。
『……ガキ、みたいだな』
倉真は楽しげだった。 図画工作の授業中の、小学生みたいだ。 少し夢中になっている。
くすりと小さく笑って、利知未も調理を再開した。
料理の途中で、風呂の準備が整った。
「後でいいから、先に風呂、入っちゃえば?」
「飯の後で、イイ」
短く答えて、盛り付けに没頭している。
利知未は少しだけ呆れてしまう。 可笑しくなって、また少し笑ってしまった。
「じゃ、頑張れ」
「おお」
利知未も、最後の仕上げに掛かった。
倉真の協力で、予定よりも早めに夕食の準備が整った。
今日も倉真は、三杯飯だ。
「本当に、良く食うよな」
「美味いからな。 サラダも、イイ出来だろ?」
「お見事。 ドレッシングは、手作りにしてみたよ」
「美味いよ。 何でも、作っちまうんだな」
「好きだからね」
「……他のヤツに食わせるのは、勿体ネーな」
何気なく呟いてしまった。 利知未は、少し目を丸くする。
「…どーゆー意味?」
「何か、言ったか?」
気付いて、照れ臭くて誤魔化した。
「……イイよ、別に」
少しだけ、利知未が膨れる。 自分では無意識だ。
『透子に、からかわれた所為かな?』
膨れていた自分に気付いて、そう思う事にした。
夕食を終え、軽く飲んでから、入浴を済ませた。
倉真が風呂へ入っている内に、利知未は食器類を片付ける。
『……もしも、一緒に住んだりしたら』 ……何時も、こんな幸せな気分で居られるのだろうか?
脱衣所の方へ軽く視線を向けて、そう思う。
風呂に浸かりながら、また倉真は、先走った事を考えてしまう。
『恋人って言うより、結婚相手としての方が、利知未は向いているのか?』
何よりも、飯が美味いのは一生の宝だ。
それ以上に、自分の夢を実現するのに、利知未の協力は必要だと思う。
『頭脳労働、俺は苦手だからな』
二人ともバイクが好きな訳だし、数学的な才能が、利知未には有る。
倉真の夢は、自分の整備工場を持つことだ。
それは技術だけでは、実現するのはどうしても無理な事だろう。 経済観念が必要だ。
運営事務、資金繰り……。 難しい事は、山ほど有る。
『アイツが傍に居てくれて、俺を助けてくれるのなら、必ず実現出来る』
確信として、そう感じる。 勿論、愛情もある。
……もしも、利知未が。 自分と同じ夢を、見てくれるのなら。
『……また、先走り過ぎだな』
倉真は反省して、湯船から上がった。
風呂上りに、もう一杯だけロックを飲む。
ダイニングから、部屋へと移動した。 小さなテーブルを前に、ソファとベッドへ腰掛けて、テレビの野球中継を見ていた。
利知未はベッドへ腰掛けて、ソファに座ってテレビを見ている、倉真の後姿を眺めていた。
『……裕兄の服、着てるからかな?』
前にもこんな光景に出会った事がある様な、錯覚に陥った。
視線を感じて、倉真が軽く振り向いた。
「どうした? チャンネル変えるか?」
「別にいいよ。 …あ、打った!」
「げ、マジかよ?」
「逆転ホームランか?」
「馬鹿言え、……よっしゃ!」
ライトがファインプレーを見せた。
利知未が何気なく問い掛ける。
「そろそろ、シーズンも終わるだろ?」
「今年も首位は有り得ネーな」
「それでも、横浜が好きなのか?」
「地元民愛ってヤツだ」
「三年半前までは、東京都民だったのにか?」
「三年住めば、愛着も湧くよな」
「成る程」
倉真がテレビを消して、立ち上がった。
「何か見たいもん、あったか?」
「特には無いよ」
「ンじゃ、歯、磨いてくるか」
「グラス、片付けるよ」
利知未も立ち上がって、キッチンへと向かった。
それから、5度目の夜を、共に過ごす。
……今夜も倉真は、元気だった。
翌朝、目覚めた時に、隣の倉真の寝顔を暫く眺めて、幸せな気分になった。
「ガキみたいな寝顔だ。 ……可愛い顔、してんじゃん」 小さく呟いた。
昨日の、サラダ作りに熱中していた倉真を、思い出してしまった。 視線を感じた倉真が、まだ眠そうな目を、薄く開ける。
「……ん…? 今、何時だ…?」
「おはよう。 まだ、七時過ぎだよ」
「…そーか」
倉真が目を擦って、大きく伸びをする。
二人で起き出して、朝食と洗濯を済ませて、映画へ出掛けた。
洗濯を干している中に、昨日の倉真の下着が混ざる。
風に軽くはためく様子を見て、利知未の目には、何と無く不思議で、幸せに感じる風景に見えた。
四
一ヶ月間の内科での実習は、あっという間に終わってしまった。
そのまま十月は小児科内科、十一月は泌尿器科へ回って、今学期は終わる予定だ。 三学期から循環器科と脳外科を回り、来年度の予定までは、まだ見えない。
ただし、この大学病院が持っている科の中で、残っているのは整形外科、産婦人科と歯科、眼科、耳鼻咽喉科。 それらの科を回ることだけは確かだ。 今の段階では、順番が見えないだけである。
最終的に外科へ戻って、残り数ヶ月の実習を経て、試験へ挑むことになるだろう。
十月の予定も、九月と大して変らない。 今月も月二回は、倉真とのんびりと過ごす事が出来そうだ。 利知未は安堵して、倉真へ連絡をする。
九時頃に電話を入れた。 呼び出し音が何時もより長い。
『……まだ、帰ってないのかな?』
留守番電話の音声メッセージを聞いて、受話器を置く。
倉真は、利知未と中々会えない時間を、整備工場で過ごす時間が増えていた。 今まで、バイクの事ばかりに夢中になって来た。 普通車の事も覚える必要がある。
同じ整備工場に勤める同い年の先輩が、仕事の後、頑張る倉真に付き合って、色々と教えてくれるようになった。
「おれは、館川と逆だな。 四輪が好きで、高校も選んだらかな」
「工業高校出身って、事だ」
「丁度、社長が四輪にも力を入れ始めた頃だったからな。 すんなり就職も決まったんだ」
工場に残り、車体の下へ潜り込みながら、保坂 貴昭と話しをする。
「これは、この部分、交換の必要があるな」
「擦れて切れ掛けてンのか」
「そー言う事だな」
客から車検で預かっている車だ。
今日は残業としてではなく、勉強のために残っていた。 作業そのものは明日の仕事だ。
「この位にしとくか」
「そーだな」
車の下から這い出て、時計を確認した。
「八時半だな」
「飯、食ってかないか?」
「そーするか」
木曜でアダムは休みだった。 保坂と飯を済ませて帰る事にした。
九時半過ぎに帰宅して、留守番電話の明かりが、点滅している事に気付く。ボタンを押して解除し、無言で切れている事を知る。 時間を聞いて、利知未だろうと思った。
直ぐに電話を入れてみたが、今度は利知未が中々、出ない。
後に回して、風呂を洗い始めた。
その時間、利知未は入浴中だ。 電話の音を聞いた気がして耳を澄ますが、気付いた時には音が切れていた。
風呂を上がって時計を見る。 十時になる事を見て、少し考える。
『さっきの電話、倉真かな?』
一応、電話をしてみる事にした。 そして、また擦れ違ってしまう。
今度は、倉真が風呂へ入っていた。
実は最近、こんな事が増えている。 利知未は少し、不安を感じ始める。
『何、してるんだろう? ……最近の倉真』
自分の事が、ウザくなり始めているのか? と、勘ぐってしまう。
実際は全く逆だ。 倉真は利知未の事を真面目に考え始めて、仕事にも今まで以上に頑張るようになっている。
けれど、『お前の為に、仕事を頑張っているんだ』等と、言うつもりもない。 それは流石に気恥ずかしい。
ほんの少しだけ、二人の心が擦れ違って、それでも翌日、倉真との連絡は取れた。 翌週の土日に会う約束をする。
今回は、倉真の土曜出勤と重なってしまった。 仕事の後に、倉真は利知未のアパートへ、直接、向かった。
今日も、利知未が作ってくれた料理で、三杯飯だ。
「……最近、仕事が忙しいのか?」
利知未は、少しだけ食欲が無かった。
何時も倉真が来る時には、四合の飯を炊いて置く所を、一合減らした。 それでも、自分の分には多過ぎだ。
「チョイな。 車検が増えてんだよな。 飯、まだあるか?」
「あるよ」
何と無く、利知未に元気が無さそうな気配は感じる。
けれど倉真は、自分の所為だとは全く思いも寄っていない。
「お前は大変なのか?」
「大変じゃない事が、ある訳無いよな。 難しい事だらけだ」
「そーか」
実習とバイトで疲れているんだろうと、勝手に解釈した。
「明日、気晴らしに、少し遠出するか?」
「そうだな。 最近アンマ、ツーリングにも行ってないしな」
倉真にお代わりを渡しながら、利知未が言った。
「どこ行こうか?」
気分を変えて、話を進めた。
少しだけ利知未が元気を取り戻した様子に、倉真はホッとする。 明日の行き先を決め、風呂を借りた。
酒が入って、今夜も抱き合う。
一度目が終わって、倉真は直ぐに復活する。 それから二度は抱合って、利知未は流石に、疲れてしまった。
暫くすると、眠くなって来て、ウトウトし始める。
「……利知未?」
寝息を聞いて、倉真が、利知未の顔を覗き込んだ。
かなり、良く眠っている。 可愛い顔だと思う。 少し、悪戯してみたい気分になって、倉真は、利知未の首筋へキスをした。
倉真の悪戯に、利知未は夢現なまま、微かな息を漏らす。
「……それでも、起きないか」
疲れているんだろうと思い、素直に眠る事にした。
翌朝、利知未は、倉真よりも早くに目覚め、彼が隣でよく眠っている様子を暫く眺めた。 ……気持ちの奥で、軽い疑惑が生まれる。
『昨夜の様子を見る限りは、何でも無さそうだったけどな……』
香の事を思い出してしまった。
『こんな状態の時に、いきなり他人が乗り込んで来たら……。 堪ったものじゃ無いよな』
軽く首を竦めて、ベッドから抜け出る。
倉真を起こさないように気をつけて、服を身に着け、洗面へ向かった。
新聞を取りに言って、今日の天気予報をみる。 洗濯機を回し、朝食の準備に取り掛かった。 米が残り少なくなっていた。 食パンを用意する。
ついでだったので、久し振りに朝から、ドリップ式で珈琲を入れてみた。
自分でブレンドして、懐かしの味を作る。 軽く豆を煎り直す所まで確りと再現して、冷蔵庫のミネラルウォーターをケトルで沸かした。
珈琲のセットは、ミルから全て揃えて置いてある。 休日は時々あの味を再現して、のんびりと珈琲タイムを取ることもあった。
倉真は、香ばしい匂いに誘われて目を覚ます。 枕もとの目覚まし時計を見て、七時半を過ぎている事を知る。 服を着直して、キッチンへと出た。
「おはよう」
「おす。 珈琲、淹れていたのか」
「久し振りにね。 『野良猫のホットミルク』…飲むか?」
「飲ませてくれよ」
「じゃ、先ずは歯、磨いて来いよ。 飯も出来てるぜ」
「サンキュ」
欠伸をしながら、洗面へ向かう。 その後姿を、利知未はテーブルへ頬杖を突いて眺めやる。
『……それでも。 やっぱ、こうしている時間は、……幸せ、だな』
大体、疑惑を持っていること自体、実はトンでもない勘違いである可能性もある。 今日は、二人の時間を楽しもうと決めた。
朝食を済ませて、珈琲を飲んで、洗濯を干してから家を出る。
九時になったばかりだ。 ココから箱根まで二、三時間という所だろう。
今日の目的地に決めた、箱根の森美術館へ到着したのは、十一時過ぎだった。 一時間と少し掛けて、ざっと眺めて来た。
「あたしは、美術はアンマ、好きじゃなかったんだよな」
「俺もだ。 ガキの頃、粘土細工くらいは、面白いと思ってたけどな」
「……そーだろーな」
サラダの盛り付けに、ムキになっていた様子を思い出す。
「なんだよ? その、間は?」
きょとんと、利知未を見ている。 その表情に、利知未は軽く笑ってしまう。
「この前。 サラダの盛り付け、楽しそうにやっていたなって、思って」
言われて、照れ臭い顔になる。
「ムキになっちまってたか…?」
「かなりね。 あたしは、楽だったよ」
「一人暮らしが長いからな」
「それと、ムキになるのと、どう関係有るんだ?」
くすくすと笑いながら、利知未が突っ込んだ。
「腹減ったな。 飯、食うか?」
誤魔化して話を変え、レストランを目指した。
レストランは丁度、混んでいる時間帯だ。 今は十月、芸術の秋だ。 美術館でのイベントも、それに則って賑やかな様子だった。
食事を終えて、珈琲を飲みながら、タバコを吸う。
「家族連れ、多いな」
「そうだな。 先週辺りは、もっと多かったんじゃないか?」
「連休だったしね。 どうせなら先週、休めればよかったのにな」
「仕方ないだろ?」
「……何時も、これくらいの感覚で会う事が出来れば、イイんだけどな」
「二週間に一度くらいで会えれば、俺も我慢、利くんだけどな……」
倉真の呟きに、利知未の勘繰りが復活してしまう。
実際、倉真は二週間以上、利知未に会えない時、相変わらず妖しげな店へ出掛けてしまう。 それで我慢していると言えば、確かだ。
関係が進んでから、益々、我慢するのが大変になってしまった。
この前、利知未と会えたのは、先月の二十五日だ。 今日は十月十七日。 その間、三週間。 ……先々週の中ごろ、また出掛けていた。
「……なんか、アヤしーな」
利知未の呟きに、倉真が反応した。
「何が?」
利知未が珈琲に口をつけて、倉真をチラリと、上目使いで見る。
倉真も珈琲に口を付けてから、タバコへ手を伸ばした。
利知未は視線を逸らして、窓の外を眺め、呟いた。
「……雲行きが」
それから少しして、レストランを出て時計を見る。 二時前だった。
これからまだ、何処か回れる時間だ。 今日は、何と無く疲れを感じていた。 温泉へ行こうと言う話になる。 美術館を出て、強羅温泉を目指した。
温泉の駐車場へバイクを止め、エンジンを切る。
「勢いで来ちまったけど、タオルも何にも、持って来てなかったな」
「借りれるか、買えるか、するんじゃないか?」
「それなら、イイけどな」
取り敢えず入湯料を払って、中へ入った。
売店で売っている土産の中に、手拭いを見つけた。
「こーゆーの使ってみるのも、良さそうだな」
「昔の人は、コレだった訳だ」
面白半分で買ってみた。 タオルも貸し出してくれるのを知り、それも借りる。
男湯と女湯に分かれたのは、三時頃だ。
「四時頃までに、休憩室でな」
「一時間も、入れるのか?」
「入ろうと思えば、入れるよ。 けど、倉真は長湯しないか」
「適当に、昼寝でもしてる」
「そーしてくれ。 じゃ、後でな」
そして、二手に分かれて、暖簾を潜る。
脱衣所で利知未は、首筋についている、倉真の悪戯の痕を発見した。
「……何時の間に」
つい、呆れて呟いた。 そういえば、少し色っぽい夢を見た覚えがある。
『明日から、何を着てけばイイんだ……?』
もう少し下なら良かったのにと、思った。
それから湯船に浸かって、今までの事を思い出してみた。
『……倉真と、関係が進んでから』 微かにでも、疑惑が浮かんだ事は、無かったと思う。
『けど……。 最近、やっぱり連絡、取り難くなってるよな』
いったい、何をしているのだろう?
仕事が遅くても、何時も八時半前には帰宅していたと思う。 その時間帯からなら、電話が擦れ違う事は滅多に無かった。 偶にあっても、大体がバッカスへ出掛けていたとか、その程度だ。
そう言う時は次の電話で、その時の宏治とした会話や、準一、和泉と会ったと言う様な報告があった。
『この頃、それも無いんだよな』
仕事が忙しくなったとは、言っていた。
考えが怪しい方向へ向かいだして、利知未は気分を変える為、露天風呂へ出る。
露天風呂へ浸かって、今度はそれよりも前の事を、思い出した。
倉真との関係が、徐々に進み始めた切っ掛けは、やはり喋り方を変え、名前を呼び捨てにしてもらう様になってからだった。
それからは、漸く2年経とうと言う所だ。
去年、利知未の誕生日頃から、お互いが想っている事には薄々、感ずいていたかもしれない。 ただ、全くその自信は持てないまま、数ヶ月が過ぎた。
完全にそんな気配を感じられたのは、去年の暮れ頃からだ。
中一の頃、アダムのマスターと出会った河原で、夜中。 二人で寄り添っていた、あの時。 ……倉真が、キスを仕掛けたあの瞬間。
その、マスターとの事も、思い出してしまった。
彼のお陰で、利知未は素直に、倉真に対する自分の想いを受け入れる事が出来た。 彼は、本当に恩人だと思う。
どうし様も無い不良中学生だった自分を、温かい目で見守って、優しく道を示してくれて来た、父親の様な存在。
女として成長をし、彼の事を特別な意味で意識してしまった。
それは、今となっては、少し切ない思い出だ。
『やっぱ、レストランでの一言、気になる……』
マスターとの事を思い出して、哲の事も思い出してしまった。
二人とも自分よりも別に、大切な女性や、家族を持っていた。
『つまり男って言うのは、そう言う相手が居ても、別の女を抱きたくなる生き物って、事だ』
そう思ってしまって、失敗したと思う。
思い当たらなければ、幾らでも誤魔化し様のある疑惑かもしれない。
倉真は頑張って、二十分は湯船に使った。 露天風呂にも移動して、何とか時間を潰す。
『利知未、タマにかなりの長湯になるからな……』
抱きながら、彼女の涙を見てしまった夜。
あの時も、かなり長い時間を、風呂場で過ごしていたと思う。
それでも時間を持て余す。 サウナを見つけて入ってみた。
あまりの暑さに五分でギブアップして、水風呂へ浸かった。 肩まで浸る。 水で顔をバシャっと洗った。
時計を見て、二十分は昼寝でもしていようと思う。 最後にもう一度、湯船に浸かり直してから浴室を出た。
着替えて、瓶牛乳など飲んでみた。 片手を腰に当て肩幅に両足を開いて、顎を上げてゴクゴクやって見た。
倉真の様子を見ていた、小学校低学年生くらいのお兄ちゃんと、まだ小学校にも上がっていない様に見える、小さな弟君が、面白がって笑い出す。 父親にねだって、牛乳を買って貰う。
兄弟は態々、縁台に座っていた倉真の隣へやって来て、同じ様な格好をして飲みだした。
「おい、溢してるぞ? ……あーあ、勿体ネーな」
倉真は買ってきた手拭いを使って、弟の顎を拭ってやった。
「どうも済みません」
兄弟の父親が、手洗い所から慌てて出て来た。 倉真は幼い兄弟に、懐かれてしまった。
「お兄ちゃん、名前、何て言うの?」
「ソーマだ、倉真。 お前は?」
「豊!」
「まもる!」
お兄ちゃんの真似をして、弟も元気に言う。 何と無く仄々してしまった。
「豊は、何年生だ?」
「一年。 守は、まだ幼稚園だよ」
「そーか」
短く会話して、時計を見る。
「済みません。 待ち合わせの時間ですか?」
父親の言葉に頷いて、兄弟の頭を撫でてサヨナラをした。
「じゃーな」
「バイバイ!」
二人は元気に手を振った。 父親も会釈をして挨拶をする。
親子と別れて、休憩所へ向かった。
休憩所へ向かいながら、手拭いの匂いを嗅いで、顔を顰める。
「臭ーな」
溢した牛乳を拭いた雑巾と同じ様な、堪らない匂いが鼻をつく。
「ま、シャーネーか」
呟いて顔を上げて、利知未の姿を探した。
見付からない。 まだ、出て来ていないのかと思った時、後ろから肩を叩かれた。
「何、ブツブツ言ってるんだ?」
振り向いて、湯上りの利知未の姿に気付いた。
「チョイな」
「少し休んでから、帰ろう?」
改めて休憩室で、水分補給をし直す。
休みながら、ついさっき出会った、幼い兄弟のことを利知未に話した。
「倉真、結構、子供好きなんだな」
「嫌いじゃネーよ。 ガキには、昔からモテるみたいだしな」
「みたいだな」
利知未は笑顔を見せながら、心の奥では疑惑が消え切っていなかった。
五
次の約束は、月末の土日だ。
それまで二週間、利知未は小児科での実習をしながら、自分も意外と子供は嫌いでは無かった事に、改めて気付いた。
心配顔の母親に連れられて来る子供達を見ていると、可哀想な気持ちと、少しだけ羨ましい様な気分になる。
『あたしが病気した時は、何時も裕兄に連れて行ってもらってたな……』
滅多に無かった事だ。
それでも怪我は多かった。 どちらかと言うと小児科内科よりも、整形外科へお世話になる事の方が、多かったかも知れない。
その度に裕一は、呆れた顔をして言っていた。
「もう少し女の子らしく、怪我をしない遊びでも、覚えてくれないか」
言われる度に、利知未は膨れっ面で答える。
「だって、ツマんネーじゃん! 人形遊びとか、ゴム飛びとか、バカバカしくてやってられネーよ。 サッカーとか野球やってる方が、楽しいし」
「……あと、喧嘩か?」
突っ込まれて、誤魔化して、視線を外した。
今、思うと。
裕一が医者を目指していたのは、自分の影響かもしれない。 病院へ連れて行くよりも、自分で診た方が早いと思ったのではないか?
『もし、そうだとしたら、回りまわって結局、自分に戻ってきたって事か?』
母親に連れられている子供達を見ながら、ふと、そんな事を思う。
自分に呆れる様な気分で、何と無く情けない顔をしてしまう。
「瀬川さん、医師が不安そうな顔をしないの」
年配ナースの婦長に、こっそりと突っ込まれてしまった。
「済みません」
慌てて表情を変えて、笑顔で患者へ接した。
利知未は、子供の気を逸らすのが上手かった。 注射の時などには重宝がられた。
泣きそうな子供の前、ナースの後ろ側へ立って手を振って、袖口に隠した小さなマスコットを、手品の様に出して見せたりした。
すると子供は、そちらに気を取られ、チクっとする間に注射は終わる。
週一で来院する子に、手品のお姉ちゃんと仇名をつけられてしまった。
『けど、病気も色々だ……』
入院しながら、定期的に診察を受けに来る子もいる。
手術を間近に控えた子供もいる。 そうかと思えば、風邪や腹痛で来院する子供もいる。 喉に何かを詰まらせて来た子供は、救急での処置後、帰宅して、数日後に状態を診せに来る。
小児科は、アクロバットな来院理由も、意外と多かった。
子供は、目を離すと何を仕出かすか解らない生き物、と言う事だ。
将来、結婚でもして、子供が出来た時。 本当に自分は、良い母親になれるのか? 少し、不安も感じ始める。
『ンな先の事、今、考えても仕方ないか』
一日の実習とバイトを終え、着替えながら、そんな感想を持った。
倉真は、相変わらず帰宅が遅い。 アダムへ寄る時間も、最近は八時過ぎだ。
「利知未とは、会っているのか?」
マスターに聞かれて、飯を平らげながら答える。
「月に一、二回は」
「そうか。 アイツも忙しいんだな」
「その内、一緒に来たいとは思ってるンすけど」
「時間が出来たら、かならず来いよ」
「言っときます」
今日は金曜日だ。八時過ぎのアダムは忙しい。 マスターとの会話も、のんびり交わしている暇は無かった。
「この前、利知未が珈琲、淹れてたっすよ。 オリジナル・モカ・ブレンド」
「あれは、利知未の味だからな」
「前、聞いたことあるっす」
「そんな話まで、していたのか。 ……そうか」
利知未が倉真に想っている愛情の深さを、マスターは実感する。
かならず、この二人は長く続くと、改めて確信した。
マスターの見立てに反して、利知未は最近、悩みがちだ。
翌日の土曜日。 今日は、出勤だった香と、昼食を取りに出掛けて、またも突っ込まれる。
「また、新しい悩み事?」
「……また、溜息を数えられていたとか?」
「正解。 今日は、この店へ入って三回目よ」
「…済みません」
「倉真君のことか」
「鋭いですね」
「利知未さんが悩むのは、大体それでしょう? 恋愛には、悩みが付き物よ」
『学業の事でもタマには悩むけどな。』 と、少々、捻くれて見た。
昼食時間に少しだけ話を聞いてもらって、また飲みに行く約束をした。
今夜も佐助だ。 バイト時間の後、夜八時半に待ち合わせた。
「今日も、ボトルが空いてしまいそうだわ」
利知未の、何時もよりもハイペースな様子に、香が目を丸くしている。
「……確信は、無いんだけどな。 けど、あの一言が、やっぱ気になる」
「けど、この前会った時、それ以外はなんとも無かったんでしょう?」
「まぁ、一応」
「他に女が居るなら、アイツみたいに、妙に何時もより優しいとか、不機嫌そうだとか、ありそうな感じもするけど」
「倉真が優しいのは、何時もだし……。 不機嫌な様子は、無かったな。 機嫌はイイくらいだった」
「ご馳走様」
利知未の話を聞いて、香は軽く首を竦めて見せる。
そう言われて、利知未は照れ臭くなってしまう。
「やっぱ、あたしの思い過ごしかな……?」
「そんな感じも、するけど。 でも、疑心暗鬼になってしまえば、何でもないことも、異常に気になり始めるものよね」
「…それも、そーだけど」
酒を飲む。 タバコへ手を伸ばして、火を着けた。
「利知未さんって、飽きない子ね」
小さく笑う香に、目で問い掛けた。
「いつか、酔っ払い相手に大立ち回りして、凄く男っぽい所があるなって、感心していたんだけど。 こういう話をして見ると、物凄く可愛らしいところもあるし。 かと思ったら、病院の先生方の評判も中々、悪くないし」
「多重人格みたいな、言われ方ですね」
「凄く、色んなカラーを持った子って、感じね」
「気分屋なのは、確かですけど」
「そこが、利知未さんの魅力なんじゃない? 彼氏もベタ惚れだったりして」
からかわれて、赤くなる。 その様子を見て、また香が笑う。
「ほんっと、可愛い!」
けらけらと笑っている。 少し、朝美を思い出した。
「そう言えば、何時か言ってたお見合い、してみたんですか?」
「今度、してみる事にしたわよ。 来週の日曜」
「どんな人ですか?」
「まだ、何とも言えないけど。 再来週辺り、また飲みましょ? 報告するから」
「いいですね。 …その頃には、こっちの問題、片付いていれば良いけど」
「問題、ないと思うんだけどな」
「なら、いいですけどね」
その後は、敢えて倉真の話はしないようにし、十時前には店を後にした。
翌週の週末、倉真に連絡を入れた。 今度は一度で連絡が取れた。
「ここの所、毎回あたしの部屋だったからな。 今度は、こっちから出向くよ」
「明日、実習とバイトの後に来るってのは、無理か?」
「無理じゃないとは、思う。 けど、遅くなるよ?」
「構わない。 …飯、俺が作っておくぜ?」
「マジかよ? 倉真、マトモなモノ、作れンのか?」
「バカにすンなよ、コレでもお前より長いこと自活してんだ」
「そーだったな、悪い」
翌日は倉真が夕食を用意してくれる事になった。
電話を切って、先週、香と話していたことを思い出した。
『……やっぱり、優しいよな。 倉真』
何時もよりも優しいかどうかと言うのは、倉真については、判断基準にはならなさそうだと思った。
それでも今回、倉真の部屋へ行ってみようと思ったのには、一応の理由がある。 もしも、他に女の影があったとして、部屋の様子は、以前と変わらない状態であるのかどうか?
『疑いたくは無いけど。 ……やっぱり、気になる』
考えながら入浴を済ませて、勉強時間を取る。
思った以上に捗らなくて、十二時前にはベッドへ入った。
土曜出勤の日だった。 倉真は朝から、部屋の片付けを簡単にしてから仕事へ向かった。
殆ど寝に帰っているだけの部屋だ。 それ程、散らかる物でもない。 ただ、昨夜の晩酌の後が、丸座卓の上に残っていただけだ。
夕方、それでも七時までは残業だった。 買い物を済ませて帰宅した。
昨夜の電話で、居酒屋系の摘み兼用料理を作っておくと、約束していた。
利知未は、救急外来の手伝いに回っていた。
夕方、事故があって、患者が数人、運ばれてきた。 まだ医師免許も持っては居ない。 出来る限りの手伝いをする。 意識確認や応急処置は、当然、仕事の内だ。
それでも良くやった。 簡単な擦り傷、切り傷は、利知未に回ってくる。
時々、救急外来の手伝いをしている実習医の中でも、利知未のすばやい対応と判断力の的確さは、群を抜いている。
最近は書類整理よりも、こちらの手伝いに回される事が増えていた。
一段落して時計を見ると、九時半を回っていた。 一時間半の残業だ。
「何とか、落ち着きましたね」
「ご苦労様。 残業になってしまったな」
「仕方ありませんね」
「今日はもういいよ」
「はい。 お先に失礼します」
一仕事終え、笑顔を見せてロッカールームへ向かった。
急いで着替えて、病院を後にした。 倉真のアパートへの到着は、十時過ぎになってしまった。
バイクを止めて、外階段を上がった。
部屋の前に着くと、倉真がチャイムを押す前に、玄関を開け迎えてくれた。
「遅くなって、ごめん」
「仕事、大変だったのか?」
「チョイね。 飯、出来てるか?」
「当然だ。 飲みながら、食わネーか?」
「そうしよう、腹ペコだよ」
利知未の疲れた顔に浮かぶ笑顔に、倉真は優しい顔で答える。
「早く上がれよ?」
「お邪魔します」
玄関へ入り靴を脱ぐ。
直ぐのキッチンに用意された料理を見て、目を丸くする。 四、五品の料理が、盛り付けも凝った様子で、テーブルを埋めていた。
「随分、沢山、作ったんだな」
「時間、あったからな。 気付いたら、こーなってた」
照れ臭そうな様子を見せる。 可愛い様子に見えて、笑ってしまった。
『また、夢中になって、盛り付けてたんだろうな』
利知未は手を洗って、倉真が用意した、飯茶碗の前に腰掛けた。
酒も入り、今日の仕事の話をする。
「夕方の事故って、ニュースでやってたあれか? 西横浜駅近くの、16号線」
「多分、それだな。 本格的に道が混み始めるチョイ前の事で、まだ被害が少なくて済んだみたいだ」
「五時過ぎると、混むよな、あの道」
「だよな。 …救急外来に、この前スカウトされたよ」
「なんだ? そりゃ」
「国試受かって医者になったら、二年くらい救急へ来ないかって」
「どうするんだ?」
「あれは、確かに遣り甲斐はあるけど、あたしは遠慮したいな」
「時間も、滅茶苦茶になりそうだよな」
「それ以上に、物凄い重労働だ」
「向いてるんじゃないか?」
「倉真まで、そー言うコト言うか?」
「才能を評価されるってのは、イイ事だろ?」
「そりゃ、そーだけど。 ……したら、きっともっと、倉真と居る時間、なくなると思うけど?」
「それは、拙いな」
「…我慢、利かなくなる、とか?」
軽く突っ込まれて、倉真は話を変えて、誤魔化すことにした。
「風呂、入ってるぜ?」
「…そーだな。 借りるか」
「俺の我慢が利いてる内に、出て来てくれよ?」
「どー言う意味だよ?」
「やる気満々って、意味だ」
へへ、と笑ってみせる。 利知未は少し、呆れてしまう。
「今日は、疲れてるんだけどな」
「風呂、入ってくりゃ、疲れも癒されんだろ? 入浴剤、買っておいた」
「サンキュ。 倉真のシャツ、貸してくれよ?」
立ち上がって、倉真に言う。
「下着はネーぞ?」
「当たり前だ。 …もしあったら、タダじゃ置かない」
恐ろしげな笑顔を見せてやった。 首を竦めて、倉真が立ち上がる。
「バスタオルと着替え、出しといてやるよ」
「ヨロシク」
利知未は風呂場へ向かった。
脱衣所から、もう一度声を掛けた。
「洗濯機、回しちゃってイイのか?」
「頼む。 お前の下着くらい、明日の朝には乾くだろ」
「だな」
返事を聞いて、倉真はニヤリとしてしまう。
返事をして、利知未は、はたと気付く。
「…って、今日はノーパンで居ろって、事か?」
呟いて、大声で言ってやった。
「スケベ大魔神!」
「良い響きだよ」
倉真の気配を感じて、慌てて浴室へ入った。
着替えを持って倉真が、入れ違いで脱衣所へ踏み込む。
「惜しい。 もうチョイ、早く持って来れば良かったな」
浴室で倉真の声を聞いて、利知未が呟いた。
「マジ、イヤらしーよな」
「今更、恥ずかしがる事でも、ネーんじゃネーか。 背中、流してやろうか?」
「遠慮します」
「残念だ」
小さな倉真の笑いを聞いて、利知未は赤くなってしまった。
風呂を上がり、倉真の用意してくれたシャツを着て、ん? と思う。
「確かに、大きくて、ミニワンピースぐらいの丈は、あるけど…」
シャツを思い切り下まで、引っ張ってみる。 膝上三十センチ程の長さだ。 あと五センチ短ければ、お尻が見えてしまう。
おずおずとキッチンへ顔を覗かせて、まだ飲んでいた倉真に聞いた。
「あのさ、倉真。 下着は仕方ないとして、短パンか何か、貸してくれないか?」
「出て来てみろよ?」
言われて、恥ずかしげに姿を現した。
「良い長さじゃネーか?」
「……恥ずかしいよ」
「構わないだろ? 何時も短パンで居るのと、大して変らないんじゃないか?」
「そりゃ、そーだけど」
『せめて、下着を着けていれば……』 と思う。
倉真は、構ったものでは無いらしい。
「出て来て、もう少し飲まないか?」
「貸してくれる気は、ない訳だ」
「どーせ、邪魔になる」
「…スケベ」
「褒め言葉だな」
「その感性、信じられない」
ニヤリとした倉真へ、小さく舌を出した。
倉真が立ち上がり、利知未の手を掴んで、ダイニングチェアへ座らせた。
もうイイやと思い、利知未も従った。 ロックを出されて、少し剥れてグラスを煽った。
「イイ飲みっぷりだ」
倉真が、笑顔でもう一杯作る。
「摘み、まだあるぜ?」
「この時間じゃ、贅肉の元だ」
「そーか?」
それから、また暫く飲んでから、部屋へ移動した。
部屋へ移動して、直ぐにベッドへ連れられる。
「……コレ、恥ずかしいな……」
「俺は楽だ」
耳元、首筋、胸元へと、倉真の頭が移動していく。
手は、既に腿の辺りを彷徨っている。
「……そんなに、急がないで……」
切なげな息の狭間に、利知未が懇願した。
「我慢の限界だ」
二週間、利知未を抱けなかった。 倉真の我慢のリミットは、その位だ。
積極的に攻め始めて、利知未の準備を確かめる。 シャツを脱がすのももどかしげに、進入していく……。
倉真を身体の奥へと感じて、利知未の疑惑も、今だけは消えてしまう。
その夜も、倉真は何度も、利知未へ挑みかかって行った。
夜中過ぎまで愛し合い、翌日、太陽がすっかり昇り切ってから、二人は目覚めた。
朝食を取るのも、遅過ぎる時間だ。 ベッドで呑気に過ごしながら、倉真が言う。
「今日は、アダムへ行かないか?」
「……そうだね。 マスターにも、ずっと会ってない感じだ」
「んじゃ、開店と同時に乗り込んで、昼飯でも食うか」
時計を見て、利知未が答える。
「もう、十時過ぎてるんだ…。 起きよう」
起き出して、二人で大きく伸びをする。
腕を下ろして、倉真が利知未の肩へ手を回し、二人、キスを交わした。
それから三十分後には、アパートを出て、アダムへ向かっていた。
六
倉真と共に、彼の服を借りて、ジーパンの裾を軽くロールアップして現れた利知未を見て、マスターは笑顔を見せる。
「いらっしゃいませ。 朝一の客が、お前らとは。 今日は良い一日に成りそうだ」
「朝飯、食ってないんすよ。 ランチメニュー、食わせて下さい」
「利知未は、作ってくれなかったのか?」
ニヤリとして、突っ込んだ。 利知未は少し赤くなる。
「…寝坊したんだ」
赤くなりながら、倉真と二人、カウンター席へ腰掛けた。
今日は、皐月が朝から入っていた。
まだ、他の客が入る前だ。 嬉しげに近寄ってくる。
「いらっしゃいませ。 久し振り、利知未ちゃん! ……二人は、何時からそう言う関係なの?」
耳元で、小声で聞かれた。
皐月は、まだ二人が付き合う前から、よく知っている。
倉真が綾子と大喧嘩をして、休憩中に賑やかに過ごした日が、昨日の事の様だ。
「今年の、二月ごろからだよ」
「もう、九ヵ月は経ってるじゃない! 報告、遅過ぎ」
軽く剥れて見せた。 その表情に、利知未が笑う。
「皐月は、まだ松尾さんと続いてるのか?」
「続いてるわよ。 英紀が他の女に行かない限りは、大丈夫だと思うけど?」
「そりゃ、良かった。 皐月からベタ惚れって、コトだ」
「懐が大きいって、言って貰いたい所だな」
喋っている内に、新しい客が来店して、皐月は仕事へ戻って行った。
久し振りにアダムのランチメニューを食べて、改めて美味いと感じる。
「やっぱ、飯はココが一番だな」
「飯だけじゃないぞ。 アダムの表看板は珈琲だ」
「覚えてるよ。 けど、同じ様な店いくつか知ってるけど、やっぱりココが繁盛している理由は、厨房社員の腕前だと思う」
「厨房に専属社員、置いている喫茶店ってのも珍しいよな」
利知未の言葉に、倉真も言った。
「この店を作る時にな、今までの喫茶店にない経営をしてみようと思って、始めたんだ。 高林は、昔からの友人だ」
「そうだったんだ。 それは初めて聞いたな」
「松尾は、高林が連れて来た。 知り合いの息子だが、いい腕を持っているって言ってな。 ……アイツは、本当はもっと大きな店で働いても良いと思うんだがな。 この店が好きだと言ってくれた」
「良い話じゃないか」
「俺も、お前と同じだ。 良い仲間に出会えたから、こうして自分の城を持ち続ける事が出来ているんだ」
初めて聞くマスターの話に、彼の人柄を改めて感じる。
倉真は黙って、利知未とマスターの話を聞いていた。
店が混み始めた十二時過ぎ頃、利知未と倉真はアダムを後にした。
今日も伝票には、『ノラHM 三八〇×2』と、マスターの文字で記入されていた。
そのまま街を回った。
倉真のアパートからだ。 アダムへ行くにも三十分はかからない距離なので、徒歩で来ていた。 思い出深い場所を、二人で呑気に散歩した。
ついでに勢いで、準一の家へ寄ってみた。
「日曜だってのに、出掛けてないとは思わなかった」
「んじゃ、なんで来たんだ?」
「居たら、久し振りに顔でも見てやろうと思って」
利知未の返事を聞いて、準一が言う。
「車出すよ。 どっか、行こうか?」
「そうだな。 タマには良いか」
倉真は利知未と顔を見合わせて、頷いた。
「じゃ、和尚も誘って行こう。 少林寺の手伝い、午前中だけだから」
準一の提案で、そこも思い出深い、萩原家の菩提寺へ向かった。
和泉も拾って、準一の軽は、少し狭苦しい状態になってしまった。
それでも久し振りの再会に、利知未は喜んだ。
利知未の嬉しそうな顔を見て、倉真も嬉しいと感じる。
「コレで宏治も居たら、昔からの仲間が全員集合って事になるよな」
「宏治は、日曜は毎週、里真ちゃんとデートみたいだよ」
「羨ましい事だな」
和泉の言葉を聞いて、由香子の事を思い出した。
「どこ行こうか?」
「今、何時だ?」
準一に聞かれて、和泉がカーステレオの時計を確認する。
「二時になる所だな」
「じゃ、江ノ島辺りが、適当か?」
「運転、変るか?」
「ヘーキだ。 …トー子さんのお陰で、車の運転には慣れたよ」
準一に、拘っている様子も見えなかったが、利知未は少し気になった。
「透子とは、もう会わないのか?」
「旦那が居るんじゃな、邪魔できないよ」
「……そうか」
「何で利知未さんが、そんな顔するんだ? 気にしてないよ。 流石に始めは、チョイ落ち込んだけどな」
変らない笑顔を見せながら、その表情は、昔よりも大分、大人びていた。
「……ジュンも、成長したもんだ」
「もう、二十一だからね。 成人式、終わってるし」
「言うようになったな」
和泉が目を丸くして言った。
「和尚は、将来の事とか、考えてるのか?」
利知未にそう振られて、和泉が考え深い笑みを軽く見せる。
「まぁ、色々と」
「そうか。 お前の事は、心配しないでも良さそうだけどな。 けど、何かあったら相談してくれよ? ……出来るだけ、力になるよ」
「有難うございます。 ……利知未さんは、変らないですね」
「どういう意味だ?」
「相変わらず面倒見が良い、優しい人だ」
バックミラー越しに笑顔で言われて、少し気恥ずかしい気分になる。
照れ臭そうな顔をした利知未を見て、倉真が軽く、肩へ手を回した。
「あ、この車は、いちゃつき禁止だぞ?!」
バックミラーで後ろを見た準一が、突っ込んだ。
「ウルせー。 ミラーの位置、ずらして置けよな?」
倉真がニっと笑って、後部座席からミラーへ手を伸ばす。
「あ、ちょい、ちょい! 監視がなくなったら、何するか解らネーじゃん!? 和尚、ガードしてよ?!」
「と言うか、バックミラーの位置ずらしたら、お前の運転が心配だ」
倉真の手を掴んで、力を込めて下ろしてしまう。
「イテ! お前、力、入れ過ぎだ! こら」
「悪いな。 俺も少し、焼けて来たみたいだ」
和泉が、チラリと後ろを振り向いて、ニヤリとして見せた。
利知未はすっかり、照れてしまった。 照れ隠しに一喝を入れる。
「お前ら、いい加減にしろ! ジュンの運転の、邪魔になるだろ?!」
久し振りの一喝に驚いて、倉真と和泉のジャレ合いが治まる。
準一は、一瞬ハンドルを、揺らしてしまった。
「うわ! ジュン! ハンドル、確り握ってろ!」
よろめいて、倉真の身体に支えられる。
「利知未さんの声、迫力あり過ぎだよ…、って、倉真が、いちゃいちゃしてるそ?!」
「バカヤロ、お前の運転が荒いんだ!」
「……確かに」
和泉も、サイドの手摺に捕まって、呟いた。
江ノ島で遊んで、再び馴染み深い街へと戻った。
準一が、倉真のアパートを回ってくれた。
一度、部屋へ上がって、洗濯物を取り込んだ。 服を着替える。
「……今日は、帰したくない気分だ」
倉真は、着替えている間も利知未の傍にいた。
「明日、早いだろ?」
「そうだな。 悪い」
「……本当は、あたしだって、もっとゆっくりしてたいけど」
着替え終わって、倉真を見る。 倉真の腕が、利知未の背中へと回る。
素直に身を委ねて、その姿勢のまま小声で話す。
「…今日は、楽しかったな。 久し振りに、皆に会えたよ」
「俺は、ちょくちょく会ってるけどな」
「倉真。 ……ありがとう」
「礼、言われることじゃネーよな。 賑やかだったのは、ジュンだし」
「……二人きりで、過ごした方が、良かったかな?」
「お前が最近、元気無さそうだったからな。 あいつらに、元気を分けて貰った感じだ」
「そうだね。 ……次は何時、会えるんだろう……?」
「予定が決まったら、連絡寄越せよ」
「うん」
中々、離れることが出来なかった。
倉真の体温と優しさを感じて、利知未の疑惑が、収まった。
ゆっくりと身体を離して、軽いキスを交わした。
倉真が外まで、送って出て来てくれた。
「じゃ、また、連絡するから」
バイクへ跨って、利知未が言う。
「ああ、待ってる。 最近、俺も帰りが遅いからな。 メッセージ、残してくれよ? ……お前の声、聞けないと心配になる」
「判った。 ……じゃーな」
ヘルメット越しに笑みを見せて、エンジンをスタートさせた。
軽く手を上げ、合図をすると、利知未のバイクが走り出す。
倉真は利知未を見送って、ゆっくりと部屋へと、戻って行った。
倉真と会ったのは、本当に月末の事だった。
十一月の二週目から、利知未の実習科が、小児科内科から泌尿器科へと変った。 今学期、最後の実習場所だ。
利知未はバイト時間、書類整理を一時間し、その後、必ず救急へ回されるようになった。 帰宅が、今まで以上に遅くなる事が増えてしまった。
十一日・木曜の夜。 少し考えて、夜九時半頃に倉真へ連絡を入れた。
帰宅して直ぐ、倉真は電話の呼び出し音に気付く。
コールが何時もよりも長い。 留守電のメッセージが聞こえ始めた時、受話器が上がる音がする。
「倉真? 今、帰ったのか?」
「悪い、先輩と飯、食って来た」
「そうなんだ」
間に合ってホッとする。 慌て過ぎて、玄関扉が転がった靴で半開きだ。
「今月は、どうなった?」
「今月は、一日くらいしか無理そうだな」
「何時だ?」
「二十三日の祝日。 二十二日は、また遅くなりそうだけど」
「そうか。 俺が、行くか?」
「倉真が平気なら、あたしがまた、仕事の後に行くけど?」
「そうだな。 じゃ、そうするか」
約束をして、電話を切った。
次の約束まで、まだ二週間近くある。
『来週辺り、我慢、利かなくなりそうだな……』
倉真はチラリと、そう思った。
日々、忙しく過ぎて行く。 利知未は倉真に会えない事で、先月、感じていた疑惑が、再び頭を掠め始める。
『けど、この前会った時、そんな気配は感じなかったし……』
思い直して、医学書へ向かう。
寝る前の二時間から、日によって四時間は、相変わらず勉強時間へ充てている。
その、倉真と会えない間に、香のお見合い報告を聞いた。
「どーなったんですか?」
「悪い人じゃ、無かったけど。 ちょっと違う感じもしたから、断ってしまいました」
「どう、違っていたんですか?」
「私の感覚と、ちょっと、ずれてる感じ?」
「Aの話をしていて、Bの話を返す様な?」
「そう! そんな感じ! 始めは面白くて良かったんだけど、長く付き合っていったら、きっとで疲れそうだと、思ったのよね」
「成るほど。 ダチなら、面白いで済むことだけどな」
「お見合いって言うと、結婚まで考えるでしょう?」
「ですね」
昼食時間だった。
話の内容が内容だったので、今日も病院を出て、何時もの店で向かい合っている。
「けど、一回お見合い受けちゃったから、その後も続々、写真、持って来られているのよ。 困っちゃう」
「何人か、会ってみたらどうですか? 断り続けていれば、その内、諦めてくれるんじゃないですか?」
「それか、ムキになって、益々エスカレートするかよね」
「それも、有り得るな。 けど、中には、良い相手も居るかも知れないし」
「今年一杯って、期限でも付けて見ようかしら?」
「良いんじゃないですか? それでも良い相手に会えなかったら、来年からはもう結構ですって、年末辺りに、やんわりと断りを入れたら」
「そうしてみようかしら。 その前に、諦めてくれる可能性も有るし」
「ですね」
「利知未さんの方は、どうなの?」
聞かれて、少し考えて答える。
「この前、会った時には変らない感じだったけど……。 会えないと、やっぱチョイ、不安になるな……」
「それは、仕方ないと思うけど。 だけど、中々会えないから、偶に会うと新鮮で、いいんじゃないの?」
「……付き合い、長いからな」
「元は、バイク仲間兼、飲み仲間って、言っていたわね」
「もう、八年。 顔、会わせてる相手だから」
「で、付き合い始めてからは?」
「今月で、一応、十ヶ月弱くらいか……?」
聞かれるままに、答えてしまう。
「で、関係が深くなってからは、どれくらい?」
「大体、……、って、それは、やっぱ言えない」
慌てて話を打ち切った。 照れている利知未を見て、香が笑う。
「ま、大体、察しはつくけど。 利知未さんが良く、溜息着き始めた頃からだろうから、五ヶ月くらいかしら?」
「……判っているなら、突っ込まないで下さい」
益々、赤くなった利知未を見て、香がまた笑った。
倉真は、利知未との約束の日まで、かなり我慢をしてみた。
仕事に力を入れて、妙な感覚に陥らないように、努力をした。
そして、約束の日が、やっとやって来る。
約束の二十二日。 また、事故が起こった。
今回も救急として、沢山の患者が運ばれて来た。
それは、利知未のバイト時間が終わる、寸前の出来事だった。
今日も救急の手伝いに回っていた利知未は、時間だからと言って、上がる事は出来ない。 約、八時間。 明け方近くまで忙しく働いた。
間に連絡を入れることも、出来なかった。
倉真は、利知未が中々現れないことに、不安を感じてテレビを付けた。
十一時頃のニュースで、大きな事故が起こっていた事を知る。
「あの辺りだと、利知未の病院、救急指定だな」
多分、この前の約束の日と同じ様に、手が離せない状態になってしまったのだろうと、考えた。
四時を過ぎた頃、漸く利知未の手も空いた。
時計を見て、溜息をつく。
『コレから行く訳にも行かないし……。 寝てるだろうから、連絡も無理だな』
疲れ切った顔をしている利知未に、夜勤で入り、救急に借り出されていた笹原が声を掛けた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「何人か、外科病棟へ入院だよ。 ベッドが一杯だ」
「そのようですね」
「漸く、一息入れられそうだ。 瀬川さんは、昨日から連勤だね。 早く帰って、ゆっくり、休むんだよ」
「有難うございます」
挨拶をして、上がることにした。
今日の利知未の活躍を、笹原は見ていた。 益々、利知未の価値が上がった。
帰宅して、利知未は泥の様に眠ってしまった。
目が覚めたのは、午後四時過ぎだった。 今日は祝日だ。 目覚めて始めに、倉真へ連絡を入れた。
「昨日は、ごめん」
「ニュース見た。 多分、無理だろうと思ったからな。 気にすんな」
「……有難う」
「ゆっくり、休んだのか?」
「今まで、眠っていたよ」
「そうか。 無理、すんなよ?」
「…うん」
「来月、また連絡くれ」
「分かった。 本当に、ごめん」
「今日はのんびり、過ごせばいい」
「そうするよ。 明日から、また大学と実習だから」
電話を切って、風呂へ入った。
これから会いたい気もしたが、体力的に無理だと感じる。
風呂を上がり、何時もの珈琲を淹れ、飲んでいる内に腹が鳴り出す。
軽く食事を取り、少しだけ勉強時間を取ってから、早めにベッドへ入った。
倉真は、利知未からの電話を終え、会いたい気持ちが膨らんだ。
それでも、疲れ切っている様子の利知未に、無理をさせては、いけないと感じた。
今日まで我慢していたが、やはり夜になり、自分の欲求を収める為、例の怪しげな店へ出掛けてしまった。
十一時ごろ店を出て、十二時前には、久し振りにバッカスへ顔を出す。 身体の欲求だけではなく、気持ちのストレス発散もしなければ持たない。
看板まで飲んでから、帰宅した。 明日は仕事だ。
七
十二月の三週目、十二日からは、大学は長期休みだ。 それでも、利知未のバイトはある。 年末年始など、特に人が必要だ。
利知未はすっかり、救急に組み込まれてしまった。
バイト実習医の中でも、利知未にはそちらの適性があったらしい。 医師免許が無いのだから、本格的な処置は無理だが、それでも十分、役に立つ。
利知未も、教科書に噛り付くよりも、実践をこなした方が余程、身に成る。 身近で救急病棟の医師達の活躍を見て、適性に益々、磨きが掛かっていく。
それでも、知識の吸収は必要だ。自分でも良く、勉強をして行く。
倉真と会えたのは、丁度ドタキャンの一ヵ月後、冬休みに入ってからの、二十三日、祝日の事だった。
それまでに倉真は、二度ほど、怪しげな店へ通ってしまった。
贔屓にしているソープ嬢に促されて、今までしたことが無かった様な事まで、覚えてしまった。
当日は、二十二日から、倉真が利知未のアパートへ向かった。
利知未も、午後五時でバイト時間を終え、買い物をして帰宅した。
倉真の仕事が終わり、一度帰宅してから、利知未へ連絡を入れる。 この前の様に、いきなり帰れなくなる様な事が無いとは、限らないからだ。
夜七時頃に、倉真からの連絡を受けて、利知未がホッとした声を出す。
「今日は、無事に戻ってこれたよ。 もう、夕飯できてる」
「そうか。 じゃ、三十分で行く」
「待ってる」
倉真の声も、心なしか、ホッとしていた。
電話を切って、急いで部屋を出て行った。
チャイムの音に、利知未が玄関を開けて、迎えてくれた。
「今日は、残業無かったのか?」
「三十分くらいだな。 ……やっと、利知未に会えた」
思わず、抱しめた。 まだ、靴を脱ぐ前だ。
「倉真、痛いよ」
嬉しい想いを抑えて、照れ隠しに利知未が言う。
「……悪い、つい」
利知未を離して、照れ臭そうな顔をした。 利知未は、その様子を見て小さく笑う。
倉真は鍵を閉め、ドアチェーンを掛けて、靴を脱いだ。
直ぐに夕飯になる。 倉真が手を洗っている内に、利知未が食事の用意を整えた。 何時か、哲から手料理をリクエストされて作った、鳥胸肉の梅肉ソース和えを作ってみた。
「流石、色んなモン、作るな」
「コレは、料理本見て覚えたヤツだよ。 レパートリーは殆ど、大叔母や里沙に教わったのが、多いけどな」
「何時か蕎麦掻きの食い方、教えてくれたって、言ってたな」
「……あたし達兄弟にとっては、実の親以上の存在だよ」
懐かしさと悲しさで、ほんの少しだけ、利知未の表情が曇る。
直ぐに笑顔を作って、倉真に言った。
「今度は、酢豚でも作ってやろうか?」
「パイナップルは、入れるのか?」
「嫌いなら、入れないけど」
「不思議な味になるよな、アレ入ってると」
「少し甘くなるか?」
「無しで作れるものなのか?」
「入れなきゃ、いいだけだ。 酸味は酢でカバー利くし。 肉を柔らかくする作用もあるはずだから、その辺りは、いくらでもやりようがあるよ」
「んじゃ、期待しとくか」
笑顔で言って、美味そうに今日も、三杯飯を食う。
その夜も、抱合った。
抱かれて、倉真の微妙な変化に気付いてしまった。
『……いつもと、違う……?』
それでも、約二ヵ月振りの事だ。 身体の反応は、敏感になってしまう。
一度目を終え、今日も倉真の癖に、少し膨れてトイレへ立った。
再び、ベッドへと戻った利知未を、倉真は後ろから抱すくめる。
「チョッと、…、待っ…て……。……」
耳朶を噛まれてしまって、利知未の身体が反応する。
「ココも、急所か」
倉真は、新たに利知未の身体を開拓して、笑みが漏れる。
そのまま二回戦目に、引きずり込んでしまう。
二度目で、何時もとの違いが、疑惑から確信へと変ってしまった。
行為が終わり、ベッドで寄り添う形のままで、利知未が切り出した。
「……倉真」
「何だ?」
「あたしにバレたら、困るような事、何かしただろ……?」
問われて、一瞬どきりとした。 誤魔化して答える。
「……何の事だよ?」
「ナニ、の事だよ」
「何を根拠に……?」
知らない振りをする倉真に、鎌を掛けてみようと思った。
倉真の瞳を、その瞳に捕らえ、じっと、見つめる。
倉真は、目を逸らさない。 逸らしたら、負けだと思う。
「……攻め方、変ってるよ?」
「…え?」
予測していない言葉だった。 間抜けな声を出してしまう。
利知未は、態とニヤリと笑って見せた。 一瞬だけ、倉真の視線が逸れた。
「……本当に、男って言うのは、バカだな……」
他に誤魔化し様も、有るのでは無いかと思う。
それでも、核心をつかれた時、男は女以上に弱いのではないかと思う。
もう一押し、倉真の口から本当の事を聞き出したくて、利知未は身を捻る様にして、倉真の身体の上へ身を乗り出す。
再び、その視線を捕らえて、じっと見つめた。
倉真は今度こそ、目を逸らさない様に頑張った。
その内に、利知未の瞳が曇りだす。
それでも、頑張る。 口を割らない。
『今、声出したら、肯定しちまうよな』
ソープ嬢を抱いて欲求を満たした事を、利知未は言っているのだろうと、流石に思う。 心まで、あちらに行っているつもりは全く無い。
「……頑固なヤツだな」
姿勢を崩さずに、利知未が軽く息をつく。
「解ったよ、何も言わなくて良い。 ………あたしの話し、聞いてくれよ?」
パジャマの上着を肩に軽く羽織り直した。
上半身を起き上がり、枕へ背中を、軽く預ける。
ゆっくりと、利知未は話し始める。
「あたしは、本当は…、…女として男に愛される自信が、無いんだよ」
今までの関係を、思い出していた。
敬太の事を信じられなくなって、自らサヨナラした あの日。
敬太の事を忘れた頃、哲との関係。 その頃から心の奥にあった、アダム・マスターとの、危ない情事。
……敬太の後、関係した二人の男には。
自分以上に、大切な人達が居た……。
「だから、倉真の事が気になり出した頃、自分で自分の気持ちを抑え付けた。 自信が、無かったから。 今までの二人の関係が、大切だったから……」
その先の言葉を、考える。
「だから、それまでの男同士見たいな付き合い方を、崩せなかった」
……もしも。 そう、もしも……。
「あたしが、異性としてのお前を、必要とするような態度を取るようになったら……。 ……逃げられると、思った」
自分の言葉に、小さく笑う。
逃げられるとは……。 他に言いようが、浮かばなかったものか……?
『漸く倉真の気持ちが判って、自分の想いを伝えられて……。 それまでの、長かった時間……。 今は……』
今は、幸せな筈。
利知未の言葉に、倉真は戸惑っていた。
何故、今、利知未が、この話をしているのか? ……疑惑があるのなら、はっきりと追求してくるモノでは無いのか……? と。 綾子との関係を思い出す。
「あたしが、今、言いたいのはさ、……つまり、お前に、他の女相手に女を求められると、……また、自信を失いそうだって、コト」
そこまで言って、利知未の話は、途切れた。 泣きたい様な気分だ。
そこまで聞いて、漸く気付いた。 ……利知未が、恐れているのは。
『俺の気持ちが、離れたと思ってンのか……?』
愛しさと、申し訳ない気持ちが、浮かんできた。
「……悪かった」
やっとの思いで、一言だけ、口にした。
謝られて、利知未の心が締め付けられる。
『……ココで、謝ると言う事は?』
「どんな、相手なんだ? 本気でその子、好きになっちまったのか……?」
言われて、倉真が驚いた。
「……お前、何か勘違いしてるぞ?」
「何がだよ? 他に好い女が、出来たんじゃないのか?!」
感情的になってしまって、自分に驚く。 倉真も本気で驚いた。
今までの利知未からは、全く、想像出来なかった反応だ。
『あたし、どーしちゃったんだ?!』 戸惑い、怒り、悲しみ。
ベッドから降りて、タバコへ手を伸ばした。
落ち着かないと…、落ち着かないと…、思って、焦って、火が着かない。
イライラして、ライターを握り締める。 タバコをパソコンデスクの隅へ、バンッと音を立てて、叩き置く。
倉真が、反射的に利知未へ手を伸ばした。
身動ぐ利知未を力任せに、ベッドの上へ引っ張りこんで、力いっぱい押さえ付ける。
『落ち着け、利知未、落ち着け!』 心の中で、叫ぶ。
じたばたする利知未を、足も使って押さえ込んだ。
「落ち着いてくれよ? いーか? 俺は、確かに浮気をした」
「離せよ!」
利知未の目から、涙が零れる。 それを見て、倉真は益々焦る。
「だけどな、お前が思っている様なことじゃ、無いんだよ!」
「力尽くかよ?! 卑怯者!」
叫びながら、利知未は自分が解らない。 ただ、逃れようと暴れる。
「卑怯って、言うか? だから、普通に他の女に惚れたんじゃ無いんだよ!」
「遊びだって言うのか?!」
「それも、ある意味当りだが、外れ!」
「何なんだよ?! 言い訳するなら、もっとマシな事、言えよ!?」
どうしても、倉真の身体から、逃れられなかった。 力の差が、何時の間にこれ程になっていたのか……? 悔しい思いも、浮かんでくる。
「ソープ嬢に本気で惚れるかよ?!!!」
渾身の大声だ。 隣近所まで、響いてしまったかも知れない。
利知未のじたばたが収まり、倉真はバツの悪い思いに捕らわれる。
「………何だよ……? それ……」
涙が、頬をすっかり濡らしていた。
唖然とした利知未を見て、倉真も漸く身体を離す。 すっかり疲れて、転がった。
「……だから、そー言う事だよ。 ……金払って、処理させて貰ったって事だ」
憮然と言い放った倉真に、利知未は言葉も無い。
そのまま、暫く沈黙が落ちた。
「……でも…、だからって…、…やっぱり、良い気持ちはしないよ………」
数分たち、やっと利知未の声が出た。
「……そーだよな。 だから、悪かったって」
利知未の腕が、目の上に上がって、そのまま、顔を隠す様にして、泣き出した。
……自分で、自分が良く解らない。
『こんな気持ち、初めてだ……。あたし…、本気で倉真の事…、好きだ……』
好きだから、付き合っている。 好きだから、こういう関係になった。
………好きだから、倉真が、他の女を抱くのは、………イヤだ。
……それなら、哲や、マスターと関係してしまった、あの頃。
『あたしは……。 少なくとも、二人の女性に、酷い事をしていた……』
倉真への想いと、過去の過ちを悔いる思いで、利知未の涙は止まらない。
身を震わせている利知未に、倉真が気付いた。
「利知未? 泣いているのか……? ……ごめん」
言いながら、利知未の身体を引き寄せた。 横になったまま、抱しめる。
倉真の言葉に、利知未の涙は、また溢れ出す。
『ごめんって、言った……?』
倉真からの謝罪の言葉は、いつも「悪い」「悪かった」だ。 その思いの深さを、知る事が出来た。
倉真に身体を預けて、腕を彼の首筋へと回す。 肩を借りて、泣き続けた。
いつの間にか、二人。 その姿勢のままで、眠ってしまった。
朝、倉真は利知未よりも、早くに目覚めた。
『昨日は、焦った……』
泣きながら眠ってしまった、利知未のあどけなくも見える寝顔を、暫く眺めた。
その内に、嬉しさが身体の内側から湧き上がってきた。
『あの事で、あれ程、取り乱していたって事は……』
利知未が自分に抱いてくれている、愛情の深さを実感した。
『………絶対、コイツを、離さない』
一生掛けても、守り通したい。 傍に置いて、歳をとるまで。
……何時か、この世から、サヨナラする日まで。
『利知未より、長生きしなきゃな。 ……大変だ』
微かに笑みが浮かんでくる。
それから時計を見て、静かにベッドを抜け出た。 まだ、六時前だった。 目が冴えて、眠れるものじゃない。
思い付いて洗面を済ませて、朝食を用意しておく事にした。
利知未が目覚めたのは、八時過ぎだった。
隣に居る筈の倉真が居ない。 何も身に着けない状態でベッドを出て、テレビとの間の壁に掛けてある、一辺三十二センチ四方の鏡を覗く。
「……酷い顔」
呟いて、暫く呆然としてしまった。
昨夜の事を思い出して、何とも言えない、恥ずかしい思いに捕らわれた。
ノックの音がした。 慌ててベッドの端に腰掛けて、掛け布団を胸の上まで引き上げる。 自分の行動に、不思議な感じがした。
この前は、倉真の前で、平気で服を着替えていた。
『あたし、何、焦って隠してるんだろう……?』
ドアが開いて、倉真が顔を出す。
「起きたか? 朝飯、出来てるぜ」
「どーゆー風の吹き回しだよ?」
「…浮気の、侘び」
横を向いて、ボソッと言った。 利知未へと視線を戻して、ニヤッと笑う。
「何か、色気のある格好だな」
観察されて、恥ずかしくなって、赤くなって、そっぽを向いた。
「……服、着るから。 出ていてくれよ」
今までに無い、女っぽい様子を見せる利知未に、倉真の眉が軽く上がる。
「分かったよ。 早く来いよ?」
短い返事を聞いて、後ろ手にドアを閉めて、キッチンへと戻った。
部屋を出て、新聞を読んでいる倉真に、目を丸くした。 短い会話をして、脱衣所兼用の洗面所へ向かう。
顔を洗って歯を磨き、洗濯機を回しながら、ふと考える。
『……倉真は、精力強過ぎだからな』
二ヶ月近くも会えない内に、我慢が出来なくなった。 ……そう言う事なのかも知れない。
洗面を終えキッチンへ入り、倉真が用意した朝食を食べた。
『……マジ、自炊してたんじゃないか』
何故か、どうでもイイ事を思う。 少しだけイラっと来た。
「なぁ……。 聞きたいんだけど」
無言で食事をしていた利知未が、話しかける。
「何だよ?」
「……本当に、そう言う店に、行ったのか?」
「…そうだよ。 悪かった。 お前が先月、急に都合が悪くなった事、あっただろう? それで、我慢が利かなくなった」
「……前から、そうだったのか?」
倉真がぎくりとして、顔を上げた。 …何時から、怪しまれていたんだろう…?
「箱根、行った時。 倉真が呟いた言葉が、ずっと気になってた」
「……そんな、前からか?」
「前、言っただろう? 好きな相手の事は、良く見てるんだって」
お前が思うより、女はこう言う事には勘が働くのだと、言われた。
バツが悪い気分で、あらぬ方向を眺めやる。
「あーあ。 今度、倉真がそー言う事したら、今度は、あたしも浮気してやろうかな?」
挑戦的な口調に、倉真が焦った。
「それは止めてくれ! 勘弁してくれよ、反省してんだからさ」
テーブルに両手を着いて、頭を下げる。 その様子を見て、利知未が言う。
「……今回は、勘弁してやるよ。 …けど、心配だ」
頬杖を付いた姿勢で、利知未が続けた。
「……いっその事、一緒に住んじゃおーか?」
チラリと倉真へ視線を投げる。 倉真が驚いた顔を上げる。
「……マジで?」
「…お前がイヤなら、しないけど。 ……その代わり、浮気には浮気で返すかも知れないな。コレから……」
椅子の背凭れへ、背中を預けて、珈琲へ手を伸ばした。
「部屋、探そう」
間髪を入れずに、倉真はきっぱりと言い切った。
倉真のきっぱりとし過ぎた態度に、今度は利知未が驚いた顔を見せる。
「本気で、イイのか?」
「願ったりだ」
ニヤリと笑顔を見せた倉真に、利知未は照れてしまった。
それでも、嬉しかった。 少しだけ視線を逸らす。
「お前は、良いんだよな?」
倉真の言葉に、こくりと頷いた。 その様子が、可愛く見えた。
嬉しそうな顔で、倉真が言う。
「部屋探しは、年明けになるな」
「……そー、だね」
照れた顔のまま、利知未はもう一度、頷いてくれた。
八
年末年始も、利知未はバイトだ。 それでも倉真の正月休みに合わせて、約一週間を利知未のアパートで過ごした。 年末の三十日から正月四日までだ。
倉真の部屋へ行くより、元旦と、その翌日以外、毎日バイトへ入る利知未の部屋へ泊り込んだ方が、何かと好都合だ。
利知未がバイトで遅くなる日、倉真は夕食を用意してくれていた。
三十一日には、バイトの後、利知未が煮しめを作ってくれた。
「コレ、去年も食わせて貰ったんだよな」
「まだ、一日の差で今年だよ」
「そうなるのか」
この一年間を振り返って、色々な事が思い出される。
夜、年越し蕎麦を食べ、今年も近所の神社へ二年参りへ行った。
「明後日、優兄の所へ、顔出す事に成ってるんだ」
「そうか」
「一緒に来てくれるか?」
「行って良いなら、行くぜ?」
「良いに、決まってる」
神社の前で、初詣で客の後について待ちながら、寄り添って話をした。
この神社は、振る舞いがお屠蘇とお汁粉だった。
参拝を済ませて、振る舞いを戴きながら、利知未が懐かしげな顔をする。
「ここは、裕兄が住んでたアパート近くの神社と、一緒だな」
「去年、言っていたな」
「流石にこの歳で、お汁粉は渡されないけどね」
「飲みたいのか?」
「甘いの苦手だって、判ってるクセに突っ込むんだな」
少しだけ、利知未が剥れて見せる。 可愛く感じて、笑ってしまう。
お屠蘇を飲み切り、肩を抱いて歩き出す。
初詣から帰り、元旦から、抱き合った。
ベッドに横になり、寄り添いながら、話した。
「一緒に住み始めたら、毎日、倉真に会えるよ」
「そりゃ、そうだな」
「何の感慨も無いような、冷めた言い方だな」
「嬉しくて、小躍りしたいくらいだ。 ……で、どうだ?」
照れ臭くて、嬉しい思いを大げさに表すことは出来ない。
「…バカにしてる?」
「いいや。 からかってる」
「……イイよ。 勝手に、踊ってれば」
腕枕の腕を外して、利知未がそっぽを向いてしまった。
「お休み」
「怒るな、冗談だ」
「知らない」
そのまま、眠ってしまった。
翌朝、倉真よりも早起きをして、雑煮を作ってやった。
「あけましておめでとう」
寝ぼけ眼で、部屋から出て来た倉真を、利知未が笑顔で迎えた。
「機嫌、直ってんな」
「からかい返し」
「…負けたよ。 美味そうだ」
「顔、洗って来いよ?」
「そーするか」
短い会話に、幸せを感じられた。
元日をのんびりと過ごして、翌日、優の家へ行った。
明日香が、お節と酒を用意して、持て成してくれた。
「今年も、バァちゃんの墓参り、行かないのか?」
「倉真も居るし、真澄と裕一も、まだ小さいからな」
「良いわよ。 行って来たら?」
「倉真、どうする? 一緒に、来てくれるか?」
利知未に聞かれて、倉真が答える。
「邪魔じゃ、無ければ行っても良いけどな」
「お前がよければ、行くか?」
優もすっかり、倉真を気に入っている。 どうやら二人は気が合うらしい。
「優さんも、そう言ってくれるんなら、行くか?」
「うん。 行こう」
二人の様子を、明日香と優も、微笑ましげに眺める。
倉真も一緒に三人で来た墓参りで、利知未は長い時間、墓前に頭を垂れている。 優と倉真は少し前に参拝を済ませて、やや後ろから利知未を見守っていた。
ふと、倉真が言い出した。
「利知未と、一緒に住もうと思ってます」
「そうか。 先の事は、考えてくれているのか?」
「……俺は、考えてますよ」
後ろでの会話が、利知未の耳にも入ってきた。 静かに、涙が零れた。
涙が収まるまで じっと大叔母夫婦と話をしていた。
『……大切な相手、見付かったよ……』
そう、語りかけていた。
涙が収まって立ち上がり、振り返って笑顔で、二人を見た。
「お待たせ」
「長い事、話してたな」
「ここ数年、来れなかったからね。 数年分、話しておいた」
「行くか」
倉真と利知未の会話が途切れて、優が声を掛けた。
利知未は、一足先を歩く。 後ろで優と倉真が、話を続ける。
「俺達の、家の事情は判ってるよな?」
「少しは、話を聞いてますよ」
「そうか。 一応、今は俺が、利知未の親代わりだ」
「ええ」
「……良く、報告してくれたよ。 その内、ちゃんとした挨拶を、お前の口から聞けるのを楽しみにしてるぜ?」
「……利知未に、振られないように頑張るか」
「筋金入りの、跳ねっ返りだ。 精々、頑張ってくれ。 ……他のヤツにくれてやる位なら、お前の方が安心出来そうだ」
「期待に応えるのは、大変そうだ」
首を竦めた倉真を、優が微笑して見ていた。
「優兄! 倉真! 何ごちゃごちゃ、話してんだよ? 電車の時間、逃すぞ?!」
かなり前を行っていた利知未が、振り返って大声で二人を呼んだ。
翌日、利知未はバイトだ。
「勝手に箪笥、開けないでくれよ?」
「開けるかよ。心配すんな、適当にやってる」
「うん。 じゃ、行ってくる」
まるで新婚夫婦の様にキスを交わして、利知未はアパートを出た。
倉真は昼間、一度、自分の部屋へ戻った。
年賀状をチェックし、空気を入れ替えて、再び利知未のアパートへ向かう。
一美から、年賀状兼、近況報告の葉書が届いていた。
『明けましておめでとう。 元気にしてますか? ご飯、食べてる? 私も今年、大学受験です。 お兄ちゃんが、新しい住所を教えてくれた時から、もう三年も経っちゃった。 いい加減、お母さんも諦めムードです。
家は私が貰っちゃうからね。 お兄ちゃんは、好きな事して生きれば良いよって、お母さんも言ってます。 お父さんだけ、まだ諦めが付かないみたいだけど。 時間が解決してくれると思うから。 精一杯やりなさいって、お母さんから伝言です。 タマには、家にも顔出してね。』
と、細かい文字で書いてあった。 他の年賀状と違う場所へ仕舞い、部屋を後にした。
それからもう一日、利知未と過ごして、四日の夕方、改めて自分の部屋へ帰宅した。 明日から、倉真も仕事が始まる。
一月は、正月明けの のんびりムードを引きずる暇も無く、忙しく過ぎて行く。 倉真と会うのは、月末までお預けだった。
利知未は、香の親戚からの、お見合い攻撃の経過を聞いた。
「結局、いい人は居なかったな。 年末に、暫くは様子を見て置いてくださいって、断っておいたわ」
「暫くはって、また、見合いする気あるんだ」
「二、三年して、結婚相手が見付からなかったら、また考えるわ」
「それまで、ほって置いてくれれば良いけど」
「その点が不安要素よね。 ……利知未さんは? どうなったの?」
「…引越し、しようと思って。 今、二人で部屋探し中です」
「学生結婚でも、するの?」
「それは、しませんけど。 取り敢えず、一緒に住む事になりました」
「そう。 それも良いかもしれないわね。 それなら会えない間の疑惑も、生まれる心配が無さそうだし」
「そう思って」
「良く、彼氏が承知してくれたわね」
「……結構、乗り気でした」
「何と言うか……、お幸せに」
「それは、まだ早いでしょ」
「その内、そうなりそうだもの。 今の内に言っておくわ」
「随分、気の早いお祝いだ」
肩を竦めて、小さく笑った。
「コレも、内緒で」
「分かってるわよ。 心配しないで」
何時もの店で、昼食中の会話だった。
月末から、二人の本格的な部屋探しが始まった。
「これ、どうだ? 洋室九畳、風呂、トイレ別」
「一部屋じゃ狭いよ。 二人分の荷物、入る訳だし。 一部屋は寝室にして、一部屋はリビングにしたい」
「一部屋で十分じゃないか?」
「あたしが、偶に遅くまで勉強してるし。 倉真の睡眠、邪魔しちゃうよ」
「そうか、まだ国試前だからな。 勉強に集中できる部屋が必要か」
「出来れば二部屋。 バス、トイレ別、キッチン広めが、良いな」
「高くないか?」
「十万前後で。 あたしのバイト代もあるから、計算したけど、何とかなると思う。 欲を言えば、倉真の勤務先にも病院にも近い所」
「随分、条件厳しいな」
「先の事、考えた結果だよ」
「了解」
雑誌を見て、不動産へも通い始めた。
利知未は救急へ回される事が増えて、残業も多くなってしまった。 お陰さまで、バイト代で十万前後の収入がある。 母親からの仕送り十八万を足して、二十八万から三十万近い金を、毎月手にする様になっていた。
貯金も始めた。 引越し代は、親に頼る訳にはいかない。 去年の十一月頃からだ。
現在、それでも二十五万は貯まっている。 礼金敷金は、倉真からも半額出る筈だ。 何とかなりそうな計算だった。
中々、いい部屋が見付からず、部屋探しは来月へと、持越しとなった。
二月は、十一日の祝日に、倉真と会う事が出来た。
その日も雑誌を眺め、夕飯の材料買出しを早めにして、ついでに不動産会社を回ってみた。
部屋を探すに当り、倉真がキチンと就職をしている事が有利となった。 利知未の、月々の収入も有利な条件となる。
唯一、難色を示されそうな条件。 同棲カップルである点は、利知未の機転でクリアとなる。
「私が大学を出たら、結婚をする予定ですので」
倉真はびっくりしたと同時に、吹き出しそうになってしまった。 利知未の猫かぶり状態が、楽しかった。
それでも納得できる物件は見付からずに、またも持ち越しとなる。
「そうですね、三月の入れ替え時期に合わせて、そろそろ色々な部屋が出回ってくると思いますので、まめに顔を出して見て下さい」
不動産会社の従業員に、笑顔で言われた。 利知未より、二歳年上の男性だった。 名札に『坂下』とあった。
坂下氏の身長を見て、利知未は宏治を思い出した。 人当たりの良い、いい感じの青年だった。 彼は利知未達の担当者になってくれた。
いい物件が出て来たら、倉真の家へ連絡を入れてくれる約束をしてくれた。
「優しい人で、良かった」
買い物をしながら、先ほどの不動産の青年の話をする。
「それにしても、随分、上手いこと猫被るな」
「何か、文句あるか?」
笑いながら言った倉真を、軽く睨んで、膨れた。
「冗談だよ。 ところで、あの言葉は本音か?」
「あの言葉?」
「利知未が卒業したら、結婚ってヤツ」
「……口から、出任せだよ」
『今の所は』と、心の中で付け足した。
月末近くにもう一度、会うことが出来た。 早速、不動産屋へ回ってみた。
坂下氏は、幾つかの物件を見付けてくれていた。
「ただ、まだ正式に出してない物なので、連絡もしませんでしたが」
単身赴任や、今年卒業予定の大学生が住んでいる部屋が主だった。
「学生で、こんないい物件に住んでるヤツが、いるんだな……」
倉真が、目を丸くしていた。
「それぞれ、家庭の事情もありますから」
ニコリと笑って、坂下氏は曖昧に誤魔化しておいた。 守秘義務は負っている。
「もう少し待って下さい。 必ず、もっとお二人の条件に合う物件、見つけますよ」
坂下氏は高校卒業後、直ぐに現在の会社に入社し、優しくも厳しい諸先輩方に、鍛えられてきたと言う。
現在は肩書きも貰っているのが、名刺を見て分かった。
「営業チーフ補佐?」
休憩に入った喫茶店で、倉真が改めて名詞を確認して唸った。
「俺より、三歳くらい上だよな」
「そう言っていたな」
「三年後、俺に肩書きが付く事は、無さそうだ」
「気にするのか?」
「気にしない事も無いな」
「知らなかった。 倉真のそう言う所」
「どう言う所だ?」
「意外と出世欲、あるんだな」
「出世欲って言うか、自分の城を持ちたいと思ってるからな。 つまり、社長だよな」
「そうなるな」
「そー言う事だ」
「どー言う事だ?」
「良いよ、判らなくても。 自分でも、よく分かってネーし」
倉真の言葉に、少し呆れてしまった。 それでも、頑張れと激励をした。
三月に入って直ぐ、倉真の留守番電話に、坂下氏からのメッセージが残されていた。
『いい物件、出ました。 必ず納得されると思います。 是非、印鑑ご持参でいらして下さい』
直ぐに、利知未へ連絡を入れた。
六日、日曜日に、丁度いい具合で利知未も休みになった。 二人で例の不動産会社へ出掛けて行った。
店内へ入ると、他の従業員の相談に乗っていた坂下氏が、笑顔で迎えてくれた。 物件の見取り図を持って二人の前に座る。
「印鑑、ご持参頂けましたか?」
少し冗談めかして、そう言った。
見取り図を見せて貰い、契約内容を聞かせてくれた。
「お二人の希望地より、ほんの少しだけ東ですが。 車で五分位の差です。 問題、ございますか?」
「それは、大丈夫です」
「では、細かい話をしますね」
そして、先ずは部屋の状態を説明してくれた。
「洋室八畳と、六畳の二部屋。 キッチンは六畳あります。 洗濯機置き場も屋内です。 バスは、乾燥機能を備えてます。 梅雨時期や夜中でも、洗濯を干す事は可能です。 その分、バルコニーは狭いのですが、角部屋です。 日当たりも、南西向きなので悪くありません。 勿論、トイレは独立してます。 生活の諸注意としては、ペット禁止、音楽活動禁止。 防音は悪くないです」
そして大家ではなく、不動産会社が管理している場所である事を聞く。
「大家さんは、うちの系列不動産に管理を全て、お任せしてくれております。 面倒な付き合いは、無くて済むと思いますよ」
物件としては、問題なかった。 気になるのは家賃だ。 駐車場も、どうなっているのか、少し気になる。
「駐車場は有りますが、バイクなら駐輪所で大丈夫でしょう。 将来、車を持つ事になった時には、月々一万で、アパート直ぐ脇の駐車場を使えます。 お家賃の方は、……管理費込みで、十万五千円です」
二人で、顔を見合わせてしまった。
どんなツテがあって、こんないい場所を見つけて来たのかと、驚いた。
「不動産は、足で稼ぐものです」
驚く二人に、坂下氏は自信に溢れた、笑みを見せた。
「ご契約、されますか?」
「勿論!」
二人で、声を揃えて即決した。
「では一応、部屋を見に行きましょう。 昨日、空いたばかりですので、まだ整備はされてませんが、今月中に入居可能状態になります」
坂下氏の運転で、物件を見せて貰いに行った。 近くにスーパーも駅もあった。 物件そのものも、一目見て気に入った。 嬉しそうな二人を見て、坂下氏も満足げな笑顔を見せた。
事務所へ戻って、直ぐに契約書へ判を押した。
利知未は、下宿を出て一年間暮らした、仮初めの部屋を後にした。
倉真は丸々、三年間を、あの部屋で暮らした。 思い出も盛り沢山だ。
新年会、利知未が見舞いに来てくれた、あの秋。 二人で、ビデオを見た。
付き合い始めて、初めて利知未を抱いた部屋。
そうなる前に、和泉と準一に、利知未との事を突っ込まれた事もあった。
克己も、宏治も泊まった。 歩いて五分の距離にはバッカスがある。
「随分、世話になった部屋だ」
荷物を運び出されて、がらんとした部屋を眺めて、少しだけ切ない様な気持ちに捕らわれた。
「……けど、二人暮らしには、狭過ぎる」 呟いて、思い出深い部屋を後にした。
気持ちを新たにして、走り出した。
インターン編・二章 了 (次回は、2月15日 22時頃までに更新予定です)
インターン編・二章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
今回の初稿完成は、2,006年 7月19日でした。前章完成からは、9日間掛かっていました。
次章 二人暮らし から、利知未と倉真の二人での生活が始まります。 利知未の様子がまた少し変化するまで、いくつかの出来事が待っております。
来週も、予告通りの時間前までに更新が出来る様に、編集作業、頑張ります。
また宜しくお願いいたします。