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インターン編  一 章

利知未の結婚までの物語、インターン編は、1990年代後半頃を時代背景として設定されています。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、関係ございません)


 利知未が大学四年の終わり、倉真と漸くお互いの想いを伝え合った。 そして利知未は、10年間暮らした下宿を退去した。 二人の新しい関係が始まり、利知未の生活環境も変わり、この4月から、利知未はインターン生活へと入る。

   一 章   手を伸ばして。


            一


 利知未の一人暮らしが始まる。


 新しい部屋は案外と広かった。 八畳の広さの洋室が一つに、キッチンは一人暮らし向きのアパート物件の中でも、少しだけ広めで五畳ほどだ。

 バス・トイレは其々、独立した個室になっている。 家賃も少々、高めかもしれない。 月、管理費込みの九万円也。 そこは流石に、母親からの仕送りに含まれる。



 四月一日。 新居に早速、双子が理由をつけてやって来た。

「まだ、何にも無いな」

「当たり前だ。昨日、引っ越してきたばっかりだろ」

「まぁまぁ。 今日の買い物、手伝いに来たんだし。 だんだんと部屋らしくなるんじゃないの?」

勝手に部屋の中をあちらこちらと見物しながら、双子は気楽な様子を見せる。


 本当に手伝いに来たのか、ただ単に、興味半分で遊びに来ただけなのか? 等と思って、利知未は小さく首を竦めてしまう。


「お前ら、折角の春休み中に、男ほって置いてイイのか?」

「利知未と違って、学校が始まれば毎日会えるし」

「だよな」

まだ、下宿でも使っていたソファと、小さなテーブルしか家具らしい物が置かれていない。

「ダイニングセットと、ベッドはどうするの?」

「洋室だからな、欲しいだろ?」

「あとは、本棚?」

「台所用品も、色々必要だよな」

「昨日はどうしたの?」

「落ち着かないからな。 引越しの報告がてら、アダムへ行ったよ」

「んじゃ、他に必要なもの書き出して、買い出しへ出よう!」

「…なんで、樹絵が張り切るんだ?」

「別にイイじゃん。 利知未の使ってた部屋、これから、あたしが使うよ」

「わたしは、玲子の使っていた部屋へ、移動する事にしたの」

「朝美がさ、その方が自分が掃除する部屋が減るからって、簡単に了承してくれた」

「寂しくて、夜眠れなくなるんじゃないか?」

「って言うか、初めて一人の部屋を貰えるから、ムチャクチャ嬉しいよ?」

「実家でも、わたし達は二人で一部屋だったモンね」

「な!」

 チャイムが鳴って、来訪者の存在を告げる。

「チョイ、買出しが必要なものを、考えてみてくれよ?」

二人に言って、利知未は玄関へ向かった。


 玄関扉を開くと、配送業者が伝票の束を持って頭を下げる。

「瀬川さん、お届け物です」

「ご苦労様です。 …明日香さんからか」

伝票にサインをしながら、利知未が呟いた。


 優夫婦は、何も出来ない代わりにと言って、主な台所電化製品を送って来てくれた。 お古のオーブンレンジの中に、短い手紙が入っていた。


《これから先、金の面での援助は難しい。 代わりに、冷蔵庫とレンジ、炊飯ジャー位は俺達が買うよ。 レンジは、家の中古で悪い》

そう書かれた手紙を眺めて、利知未は双子をキッチンへ呼んだ。


 折角、人手があるのだ。 一人では運び込みきれない電化製品を、二人に手伝わせてダイニングキッチンへと運び込んだ。



 落ち着きなおして、再び話が始まる。 運びこんだ道具類を前にして、双子も何故かワクワクし始めた。

「助かるな。 後デカイのは、洗濯機とパソコンデスクと、本棚くらいか」

「あと、ダイニングテーブル?」

「良かったジャン!」

「パソコン、いつ買ったの?」

「お古だよ。 宏一が譲ってくれた」

「そうなんだ! 使ってるの?」

「殆どレポート専用だな」

ワクワク感に気持ちが浮ついて、どんどんと話しが逸れて行く。


「最近、利知未の部屋にも行かなかったモンな」

「デートが忙しかったんだろ?」

「そっちこそ。 部屋へ行ってみても、居ない事の方が多かったじゃないか」

「あたしは、バイトが忙しかったんだ」

「本当に?」

「倉真とは、何処まで行ったんだよ?」

「……箱根に伊豆、埼玉方面は行ったな」

「誰が、ツーリング先を聞いたんだよ?」

「そんなベタベタな誤魔化し文句、通用しないよ?」

「…お前らから、そっちの方面で、突っ込まれるようになるとは」

「何だよ?」

「月日が経つのは、早いもんだ」

「何、年寄り臭いこと言ってんの!」

「利知未と会ってから、もう7年経つんだぜ? 色々、成長もするよな」

「成長したんだか、堕落したんだか」

「堕落って、酷いな」

「大人になったって、言って欲しいよな」

「だよね!」

このままでは、どこまでも無駄話が進んで行ってしまいそうだ。

 利知未は話しを打ち切った。

「くだらない事、言ってないで、買出し出るぞ?」

「「はーい!」」

「……里沙の車借りに行って、お前らまで拾ってくる事になるとは、思わなかったよな」

ブツブツぼやく利知未の後を追って、二人も玄関へ向かった。


 利知未のアパートは、下宿の最寄り駅から三駅分、離れた場所にあった。

 車なら、二、三十分の距離だ。 利知未は朝から、バイクで里沙の車を借りに行っていた。

今、利知未の愛車は、長年、駐車され慣れた下宿の駐輪所へ止まっている。 買い物が済めば車を返しに行き、愛車に跨ってこの部屋へ戻ってくる。

 その車を借りに行った時、双子が一緒にくっ付いて来た。



 買い物へ行き、先ずはキッチン用品と食器を選んだ。 食器棚も必要だ。 買い物リストへ加えた。

 本棚とパソコンデスク、ベッドと食器棚、ダイニングテーブルは、家具屋を探す。 その後で電化製品を見に行って、洗濯機を探さなければならない。


 始めに入った店で、樹絵が秋絵と、勝手に盛り上がる。

「な、これ、お揃いで有ったら、イイよな?」

「利知未と、倉真君の分? だったら、これもイイよ」

「あたしも、亨とお揃いのマグカップくらい、買おうかな」

「徳雄は、アンマリこうゆうの、好きじゃ無さそうだな」

「コンピューターお宅って、話だったよな」

「コンピューターだけじゃないよ。 映画サークル、自分の意思で入っただけあって、映画も凄く詳しい」

「知ってる! 亨の部屋で、映研のホームページ覗いた!」

「評価、厳しいでしょ。 何時も、とことん話し合ってるよ」

「んじゃ、秋絵の意見も入ってるのか?」

「女性にはこの点が受けているらしいって部分、大体わたしの意見を参考にしてるみたい」

「秋絵の意見を参考にしているんじゃ、評価レベル、落ちそうだよな」

「失礼だな。 わたしも彼に影響されて、最近は結構、厳しい目を持って見る様になったんだから!」

「それよか、これ! 面白いぞ?!」

急に樹絵があげた声に、秋絵も話していた内容を忘れて、反応する。

「顔が、飛び出してる!?」

アメリカンアニメのキャラクターの顔が、立体的に表面にくっ付いているデザインのマグカップを見つけて、キャピキャピと騒ぎ始めた。


 利知未は、勝手に盛り上がる二人を無視し、さっさと自分の分を見つけた。

ついでに倉真の分も、こっそり選んでみた。 レジを済ませてから声を掛ける。

「お前ら、もう買い物、終わったぞ?」

「もう?! 早いな」

「二人で三十分以上も話ししてんだ。 一人分の食器くらい、直ぐ見つかる」

「一人分しか、買わなかったの?!」

「なんで?!」

「必要、ネーだろーが。 行くぞ」

二人分を揃えた事は、知らない振りをしておいた。 双子を促して店を出る。


 少し遠くまで車を走らせ、良い家具が安く揃っていると、里沙から勧められた家具屋を目指した。 ここでも双子は賑やかだ。

「あ! あれ!! 里沙のデザインしたヤツじゃないか?!」

早速、樹絵が見つける。

「え、どれ? …ホントだ! この辺りの一揃え、セットで里沙のデザインだ!」

少し声が高かった。

 店員が目聡く見つけて、近寄って来た。

「いらっしゃいませ。 葉山さんの、お知り合いですか?」

年配の優しげな女性だった。


話を始めて、店主の奥さんであることを知った。

「そうですか、彼女の下宿の店子さんたちでしたか。 こちらのセットは、クローゼットと和箪笥、本棚、二段チェスト、電話台のセットで、大体四十万円。 特に新婚のご夫婦に人気が有るんですよ。 半年で、四、五セットは出ます」

「そうなんだ。 けど、新婚さんが揃えるには、手頃なのかな?」

「お安いくらいですね」

「利知未、これ買っちゃえば?!」

「バカ言ってンな。 一人暮らしで、これは揃え過ぎだろ。 大体、予算オーバーだ」

「何をお探し?」

「シングルのベッドと、クローゼットと和箪笥。 それと食器棚と本棚と、パソコンデスク、位ですね」

「後、一人用のダイニングセットも、あったらイイよね」

「二人用の方が、イイんじゃないか?」

「それと、わたし、気付いたんだけど。 レンジ台も欲しいよね?」

「全て、こちらでお求め下さる予定ですか?」

「里沙から勧められたので。 そうしてしまおうかと思ってます」

「そうですか。 下宿から、独立なさるんですね」


 利知未は家具類の予算を、全て合わせて十五万円内に納めるつもりで計算していた。 電化製品に十五万は掛かると思っていたが、優のお陰で、そちらは十万円以内で何とかなりそうだ。 その分、家具に回しても良いと思っている。

 それなら、どうせならベッドに掛けたいと思う。 睡眠時間は大切だ。


「それでは、ご一緒に探してみましょう。 そうね、葉山さんが以前デザインされたもので、一人暮らしに手頃な品も何点かあると思いますよ」

店主婦人が思い付いた顔をして、三人を促し、階を移動した。


 四階建ての店舗の、三階へ向かった。 季節柄、『一人暮らし応援フェア』と題された垂れ幕が飾っている一角へ向かう。

「ここに、何点かサービス価格で展示されてます。 彼女のデザインは幅広い年齢の方に人気が有るのよ。 親御さんと見にいらして、親子で意見が一致するのは、彼女のデザインが本当に多いの」

店主婦人の説明を聞いて、利知未たちは始めて、里沙の仕事の成果を知る事ができた。

「折角だから、本棚とクローゼットは里沙のデザインから探さないか?」

樹絵の意見に、利知未も頷いた。


 里沙のデザインは、形がシンプルで、優しい掘り込みが品良くされているものが、多かった。 カラーに拘った物もあった。 部屋の雰囲気で、遊べる感じだ。


 スライド式の本棚とクローゼット、和箪笥を、セットで揃えた。

 ベッドと食器棚とパソコンデスクは、里沙のデザインではなく、手頃な値段の物を選ぶ。 ここまでの合計・およそ十四万五千円ほどだ。

 里沙の知り合いという事で、二割は引いてくれた。 ベッドには、予定よりも一万二千円ほど張り込んだ。

 ダイニングセットを一人用にして、レンジ台は安い物を選ぶ。

 明日、午前中に配達をして貰う事になった。 予算を三万以上残して、家具屋を後にする。 



 次は電化製品を探しに、更に車を走らせる。

 いっその事、秋葉原辺りまで出てしまおうと言う話になり、途中のファミレスで、昼食を取った。 当然、それぞれ自腹だ。 樹絵と秋絵は、春休みもアルバイトをしていた。

 新しい所を探すのが面倒で、夏と同じ所にしたと、二人揃って言っていた。


 昼食を済ませ、一時過ぎには電機街の大型店舗へ入った。

「駐車場探すのが、面倒だったな」

「この辺り、やっぱ駐車料金、高いよな」

双子は、一つの言葉が切っ掛けになり、また直ぐに無駄話が弾んでしまう。

「樹絵は、よく彼氏の車で遠出してるよね」

「釣りが多いよ。 今度、秋絵も彼氏誘って、四人で行こうよ?」

「徳雄は、好きじゃ無さそうだな」

「タマには外で遊んだ方がイイんじゃないか? 秋絵の彼氏、去年、真夏でも真っ白だったジャン」

「映画ばっかりだからな」

二人で勝手に盛り上がり、話をしていた秋絵が、気付いた。

「利知未、テレビとビデオくらいは、買わないの?」

「そー言や、そーだな。 家具の予算が浮いた分と、冷蔵庫代が浮いた分で探してみるか」

「そんなに大きくなくても、イイの?」

「一部屋に、色々と詰め込む事になるからな。 十四インチくらいで、イイんじゃないか」

「ビデオと一体型にしたら? 場所、取らなくて済むよ」

「で、利知未が新しいの買うことになったら、秋絵が貰うんだ」

「それも、イイな。 樹絵、タマにはイイ事、思い付くじゃない」

「タマには、って、余分だよ」

「お前ら。 本人の意思を無視して、話を勝手に進める癖、止めろよな」

言いながら、先ずは洗濯機を探す。


 幾つか見て回り、3.8リットルサイズの洗濯機を買う事にした。

「もうちょっと小さくても、良さそうだよな?」

「あたしは、ジーパンが多いからな。 サイズもでかいだろ」

「毎日洗濯すれば、平気じゃない?」

「時間が解らないからな。 最悪、2、3日に一回くらいしか洗濯、出来ないかもしれないし。 念の為だよ」

「真夜中に、洗濯機を回す訳にもいかないよな」

「だろうな。 …これが、三万くらいか。 六万くらい、テレビとビデオに回せる」

「テレビ台は、どうするの?」

「二、三万なら、買えそうだ」

「大きな買い物は、これくらいか」

「布団はもう買ってあるし、こんなもんだろ?」

「ガス台も有ったよね」

「始めに買っておいたからな」

「ベッドよりも先に、そっち買ってある辺り、利知未らしいよな」

買い物リストメモを、チェックする。

「掃除機、欲しいな。 それも見るか」

「そうか、今まで、下宿にあったの使ってたんだモンな」

「ンじゃ、掃除機を見てから、テレビとビデオ、見てみるか」

これで、買い漏らしは無い筈だ。

先に掃除機を一万円くらいで探して、テレビ、オーディオの展示場所へ移動した。


 最終的には、ビデオとテレビを別々に揃えた。 ビデオが壊れたらテレビまで使えなくなりそうで、一体型は避けた。 思いのほか安かったので、十六インチのテレビを選んだ。

 電化製品も、テレビ台と一緒に明日、午後に配達して貰う事にした。


 四時半過ぎには、アパート近くのショッピングセンターへ入る。


 そこで、洗剤や掃除用具、トイレットペーパー、風呂道具、まな板、包丁などのキッチン用品、ゴミ袋等を揃えて、ついでに食材を少し買い込んだ。

 ここでの買い物も多い。 塩コショウ、ダシ、醤油、砂糖、酒、ミリン。 ブイヨンと、コンソメ、酢、鶏がらスープなど、基本調味料から買い込む。


「今日、見て来た中で、一番ゴチャゴチャと多いな」

樹絵がショッピングカートを押しながら、感心している。

 秋絵も籠を持って歩いていた。

「お前らも、今日一日で一番、役に立ってるよ」

「どういう意味だよ」

「二人で話してばかりで、全然、役に立ってなかっただろうが」

「賑やかしって、事で」

秋絵が誤魔化し笑いをしながら言った。

「紙皿も買って行こう」

「何で?」

「何でも良けりゃ、夕飯作ってやるよ」

「本当?! ラッキー!」

「じゃ、先に連絡、入れてくる! 利知未、カートよろしく!」

樹絵が嬉しそうに、小走りして電話を掛けに行った。



 利知未が作ったチャーハンと、野菜スープで夕飯になった。

「明日、色々と来るんだよね。 もう一日、手伝いに来てあげようか?」

「お前ら、暇なのかよ?」

「大学は再来週からだし。 時間は余ってるよね」

「バイトは?」

「今日と明日は、休み貰っちゃったもんね!」

「利知未が、一人じゃ寂しいかと思ったからね」

「よく言うな。 どんな見返り、期待されてるんだ?」

「違うよ。 本気で、利知未が下宿にいた間、受験勉強とか、凄くお世話になったから。 お礼のつもりなんだけどな」

「引越し、大変だろうと思ったし」

 双子の言葉に、利知未は素直に感謝をすることにした。

「サンキュ。 …ンじゃ、明日も頼むか」

「電車でも一時間掛からないし、バスもこっちまで出てるでしょ? 明日は何時くらいから、人手が必要?」

「十時過ぎで、構わないよ」

「解った。 ンじゃ、明日、それくらいに来るよ」

「昼は、またなんか作るか」

「やった! それが、一番嬉しいよな!」

「利知未の料理、美味しいから! これからは、滅多に食べれないだろうし」


 秋絵の言葉で、一人暮らしが始まったことを、改めて思う。


「朝美、少しは出来るようになったし。 栄養失調だけは、ならないで済むんじゃないか」

 利知未は、寂しく感じたことを表には出さないで、捻くれたことを言う。

「美加が最近、色々、作れるようになっただろ? 一応、ホッとしたよな」

「だよね。 けど、樹絵はもう少し、覚えた方がいいんじゃない?」

「樹絵に比べれば、まだ秋絵の方が料理はやるよな」

「苦手なんだよな。 どうしても」

「その内、時間が有ったら、少しくらいなら教えてやろうか?」

「時間が有ったらね。 一応、頼んどく」

「お前の場合、包丁の持ち方から、教えなきゃなら無さそうだけどな」

「悪かったな。 あんま、器用に出来てないんだよ」

樹絵が少しだけ剥れた。 秋絵と二人で笑ってしまう。


『今夜は、寂しさも紛れてくれたけど……』 笑いながら、利知未は思う。


 これから、あの賑やかな下宿を出て、一人きりの生活が始まる。

 どれくらい、慣れるまでに時間が掛かるだろうか……?

 アダムも、バッカスからも、少し離れてしまった。 行けない距離ではないが、時間も中々、取れなくなりそうだ。

『……けど。 忙しくなれば、寂しく感じている暇も無いかもしれない』

そうなって欲しいと思った。

 自分が、意外と寂しさに弱い事は、解っている。

 ………倉真に、会いたくなった。



 夕食を終え、車を返しながら、双子を下宿へ送った。 誘われて、一時間程は秋絵が入れた紅茶を飲んで過ごした。


 九時前に再び、下宿を後にしてバイクへ跨る。 つい昨日感じた寂しさを、少しだけ思い出してしまった。




            二 


 この春休み、準一は透子に振られっぱなしだ。

『お財布連中との付き合いのが、忙しいのか』

今日も誘いを断られ、電話を切って、準一は思う。

『それとも、飽きられたかな?』

「ま、イーか。 風呂入って、寝よう」

呟いて、風呂場へ向かう。


 透子は、お財布連中よりも、ある中年男性と過ごす時間が、増えていた。



 利知未の新居が、漸く生活空間らしくなった、四月四日。

 いきなり透子がやって来た。


「どんな感じだ? はい、引っ越し祝い」

洒落たデザインの、ツインの食器を持って来た。

「よく、こんな重いもの運んで来たな」

「足があるから」

「ジュンか?」

「旦那」

「旦那ぁ?!」

声が、大きくなってしまう。

 透子の横から身体を伸ばして、玄関のドアを思い切り開いて、アパート前の道を覗く。


 セダンの隣で、車から降りて、何か道端に有るものを観察している、中年男性の背中が見える。

 ……何処かで、見た背広姿だと思う。


「……って、あれ、大河原教授か?」

「そう。 先月、プロポーズされた」

「何時の間に……」  他に言葉が出ない。


「旦那に頼んで、あんたの働き口、世話して貰ったから」

「もしかして、休み入る前にチラリと言われた、あれか?」

「そ。 感謝してね。 苦学生を優先的に世話するって、決まりらしかったから。 軽く捻じ込んで見た。 …ンじゃ、そー言うことで」

「上がっていかないのか?」

「アタシだけならともかく、あの人、上がらせる訳にも行かないでしょうが」

「ま、そりゃ、そーだけどな」

「旦那の紹介がてら、お祝い渡しに来ただけだから。 病院、頑張って」

ヘラリと笑って、階下への階段へ向かって行った。

「ちょっと待てよ?」

慌てて少し追いかけて、透子の腕を掴む。

「ん? 何だ?」

「結婚、したのか?」

「結婚は、卒業してからだな。 あの人の研究を手伝う」

「……そーか。 ま、何て言うのか…。 上手く、やれよ?」

「あれくらい歳が離れてれば、返って上手く行くんじゃないか?」

拘りの無い笑顔を見せる透子につられて、利知未も軽く笑顔になる。

「かもな。 お前の性格じゃ」

「じゃ、ね。 また、大学で」

「ああ。 学食くらいでなら、会えるだろ」

もう一度笑顔を見せて、歩き出す。 後ろ手に軽く、手を振っていた。

 透子の姿を、少し呆然として見送ってしまった。


 車の横で、透子が教授へ声を掛けている。 返事をして、のんびりと教授も車へ乗り込み直した。

 助手席へ乗り込む前、透子がもう一度、利知未を振り返って、笑顔で小さく手を振った。


 それに、利知未も我に返って、軽く合図を返す。

 セダンが道を曲がってしまってから、部屋へ戻った。



 玄関を閉め、透子からの祝いの品を、食器棚の空いているスペースへ片付けた。

 倉真がこの部屋へ来る事があれば、料理を盛って出してやろうと思った。



 棚に並んでいる、二人分の食器を眺めて、呆然と時を過ごす。

『……今日、日曜だ』  倉真に、会いたくなった。


 時計を見て、まだ十一時過ぎである事を確認して、電話に手を伸ばす。 コール四回で、倉真の声が、受話器から聞こえた。

「倉真?」

「利知未か? どうした。 引越しの方は片付いたか?」

「うん。 …これから、時間あるか?」

「どこか、走るか?」

「そうだな。 今からじゃ、あんまり遠出も出来ないし。 街中流そうか?」

「ああ、解った。 こっちから行くか?」

「そうだね、ここからの方が、出安いかな。 道、解るか?」

「住所と地図がありゃ、何処でも行くぜ? 元バイク便ライダーだ」

「そーだな。 じゃ、待ってる」

「昼前には着くよ」

「うん。 じゃ、後で」

返事を聞いて、電話を切る。



 外出準備を始めて、洋服の仕舞い方を失敗したことに気付いた。

「古着と、そうじゃないの、もう少し確り分けて置けばよかった」

 何処に何を仕舞ったのか、良く解らなかった。 双子が、適当に仕舞ってくれていた。 手近な洋服を見つけて、はっとする。

「……これ」

裕一の、お古のシャツが出て来た。

何と無く袖を通して、ぶかぶかな事を知る。 手がすっぽりと隠れてしまう。


 何時か倉真のジャケットを借りた、あの日のことを思い出す。

『……倉真になら、丁度イイかも』

そして、更に昔のことを、思い出してしまった。

『よく、河原へ遊びに行って、メダカ追いかけたな……』



 優は少し離れた所で、釣り糸を垂れていた。 裕一は釣りもしたい所だっただろうが、その頃はまだ小学校に上がる前だった利知未を、危なくないように監視しながら、一緒に遊んでくれた。


 両親が離婚して、一時預けられた家庭に馴染めないでいた、日曜日。


 あの時、優が使っていた釣り道具は、確か、裕一が学校の友人から借りてきた物だった筈だ。 玩具や、おやつの小遣いさえ、思い通りにならなかった頃だ。


 利知未はあの時、はしゃぎ過ぎてびしょ濡れになった。 それが原因で風邪を引いてしまった。 かなり酷い風邪になって、一週間近く寝込んだ。

 裕一はその時、中学へ上がる前だ。 毎晩、寝ないで利知未の看病をしてくれた。 昼間は学校の後、いつも手伝いをしていたと思う。 弟妹の分まで、良く親戚の家族へ使えていた。



 つい、物思いへふけ過ぎていた。

 静かに頬を濡らしている涙に、気付かなかった。 チャイムの音で我に返る。

「…はい! 倉真?」

呼ばわりながら、裕一のお古を脱いで、ベッドの上へ置いた。

 まだ、透子が来た時のまま、優のお古のTシャツと短パンのままだ。 そのまま一度、玄関を開けて倉真を迎えた。

「早過ぎたか?」

「ううん、悪い。 直ぐ支度するから、待ってて」

「……泣いていたんじゃないか?」

「…平気だ。 上がってるか?」

「いや、着替えも今からだろ? バイクの調子、見とく」

「そうか? じゃ、5分で降りてくから」

「ああ」

ドアを閉めて、再び部屋へと、取って返した。

 取り敢えず直ぐに出て来た、優のお古を着込んだ。 ジーパン類だけは判り易く仕舞ってあった。


 バイクのキーを持ち、財布をポケットへ入れて、玄関を出る。 鍵を掛けて、バイクの止めてある駐輪所へ降りる。

「お待たせ」

「おう。 …何か、昔みてーだな」

利知未の服装を見て、倉真が軽く可笑しそうな顔をする。

「箪笥の整理、双子に任せてたら、何処に何が入ってるか判らなくなってた」

「樹絵ちゃんたちが、手伝ったのか?」

「ああ。 何処まで行こうか?」

「桜木町辺りでも、目指してみるか?」

下宿よりも、横浜や桜木町へ出安い立地だった。

「駅の近くに新しく出来たところが、有るんだよな」

「そこ、行くか」

受け答えながら、倉真が小さく笑っている。

「何か、可笑しいか?」

「いや。 服装によって、利知未の言葉使いがくるくる変るなと思ったら、笑えた」

「…悪かったな」

少し膨れた顔も、少年チックだ。 益々、倉真が笑う。


 利知未は、ついさっき感慨に浸って涙を流してしまった。 また思い出して泣きたくなら無いように、男っぽさが自然に上がる。


「行こうぜ?」

バイクの準備をして、跨って声を掛ける。

「ああ、行くか」

二人のバイクが、公道へと出て行った。



 男っぽく振舞う利知未は、やはり女には見え難いようだ。

 バイクを止めて、何時もの癖で手を繋いで歩いている二人の姿に、変な注目を集めてしまう。


 春休みだ。学生も多かった。 高校生くらいの少女たちが、特に興味深げな視線を、チラリチラリと投げかける。

「……何か、注目されてんな」

「だな」

チラリと目を合わせて、繋いでいた手を離してみた。

 暫くその状態で歩いていると、妙な注目の視線が無くなる。

「…これって、」

「そー言う事か?」

再び視線を合わせて、吹き出してしまった。

「だったら、面白いから、そのまま行こう!」

「そのまま?」

「倉真、あたしの名前、呼ぶの禁止な?」

「…何を考えてるんだ?」

「高校時代の、FOXのセガワを思い出してみようかと思って」

「…ま、タマには、面白いか」


 益々、態度や言葉を、男らしく変えてしまう。 気晴らしだ。

 そうしていた方が、悲しいことも思い出さないで済むかも知れない。


 敢えて、男性が興味あるような所ばかり、覗いてみる。

 CDショップに、楽器店。 本屋に、メンズの衣料品店。 アメリカン・アーミーのファンが入るような、雑貨店。

 途中、昼食に入った場所で、声を掛けられた。

「何か、何処かで見た事があると、思ったんですが……」

利知未を見ている。 社会人らしい、女友達の二人連れだ。

「どっちの知り合いだ?」

倉真に振ると、首を横に振る。

「昔、ライブハウスに、出演してませんでしたか?」

買って来たばかりらしい、一枚のCDを取り出して利知未へ見せる。

 手に取って、タイトルとバンド名を確認した。

「……これ、敬太がドラム叩いてる、バンドのCDだな」

「そうです! FOXってバンド、…ご存知ですか?」

 倉真と、軽く視線を交わす。

「知ってるぜ? ライブ、来てくれてたのか?」

「はい! じゃ、やっぱり?!」

女性はびっくりして、声が高くなった。 それで、再び注目の的だ。

 友人が、不可解な顔をしている。

「昔、よくアマチュアバンド見に行ってたって、言ったこと、あったよね?」

「聞いたことあるけど…?」

「ボーカルやってた、綺麗でカッコいい人が居るって、言ったでしょ?」

「…じゃ、この人?」

「ですよね?!」

再び倉真と視線を合わせて、可笑しそうな笑みを見せる。

「まさか、六年近くなって、あの頃の俺を知ってるコに会うとは、驚きだな」

 倉真は吹き出しそうになる。 利知未に、テーブルの下で足を蹴られた。

「イテ…! そこ、急所だ、急所」

「弁慶の泣き所か? 悪い」

仲良い二人を見て、元、FOXファンの女性が、目を丸くしている。

「今は、もうバンドは?」

「FOXは、まだ残ってるけどな。 俺は、ココ何年も、ギターも触ってないな」

俺、という時、あたし、と言いそうになり、少し表情が変る。

『昔と、逆だな』

 昔は、朝美と話した時、俺、と言いそうになって、あたしと言い直した。

「そうなんですか。 何か、久し振りにセガワさんの歌、聞きたくなりました」

「サンキュ」

笑顔で言われ、少女時代に戻ったような、恥ずかしげな笑みを見せる。

「ね、時間」

友人に言われて、時計を見る。

「映画、間に合わなくなっちゃうね。 行こうか?」

利知未からCDを手渡され、仕舞い直す。

「そうだ。 折角だから、握手して下さい」

少し目を丸くして、笑顔で元・ファンの要望に答えた。

「嬉しい! 昔、貴方の事、本当に好きでした。 ……お仕事、頑張って下さいね」

彼女が何歳かは知らないが、あの頃、セガワは二歳年を誤魔化していた。 逆算して当然、社会人だろうと踏んだらしい。

 彼女の計算では、セガワは二十五歳だ。

「サンキュ。 敬太のバンド、これからも応援してやってくれよ」

「はい。 失礼します」

軽く会釈をして、二人は店を出て行った。


 二人が出て行ってから、倉真が小さく笑い出した。 中々、収まらない。

「そんなに、笑うか?」

「悪い、つい、……。 駄目だ、我慢、利かネー…!」

声を上げて、笑い出してしまった。

 利知未が憮然として、最近の普段へと戻る。 女らしい、膨れっ面に成る。

「いいよ。 勝手に笑ってれば。 …笑い死にしても、知らネーからな」

膨れっ面で、頬杖をつく。 珈琲に手を伸ばし、そのまま飲んだ。

「すっかり、冷めてら」  不機嫌に、呟いた。

 自然な態度と表情に、倉真が笑いを収めて、利知未を見た。 愛しげな瞳になる。

 気付いて、利知未が視線を向ける。


 そのまま、恋人同士らしい雰囲気で、軽く見詰め合ってしまう。


 新しく入った客が、席へ向かう途中、二人の異様に見える雰囲気に、一瞬視線を向け、奇妙な顔をして隣を過ぎて行く。


「…今日は、変に注目集めちゃうな」

 気付いた利知未が、恥ずかしげにそっぽを向く。

「…そうだな」

倉真も、情けない顔になって、タバコへ火を着けた。

 それから、また男っぽい様子に戻った利知未と店を出た。


 桜木町の観覧車が、近くに見える。 思い付いて、利知未が倉真を誘う。

「観覧車、乗っていかないか?」

「タマには、イイかもな」

バイクを止めて、遊園地区画へ入る。

利知未は少し考えて、ライダージャケットを腰巻にして、袖部分で結び目を作った。 ウエストラインが締まり、胸のラインが少しハッキリする。

「これなら、女に見えるかな?」

「大丈夫じゃないか?」

利知未の姿を眺めて、倉真が頷いた。

「じゃ、行こう」

女らしくなり、倉真と腕を組む。 声も、高くするように気を付けて見た。


 敬太のことを、思い出していた。

 初めて、彼とファーストキスを交わした、あの場所へ。 倉真と腕を組んで、恋人同士らしく乗り込んだ。


 カップルの場合、大きなゴンドラに乗り込むとき、係員が問い掛ける。

「あちらの方達と相乗りになっても、よろしいですか?」

同じように、仲良さげなカップルを手で指し示す。

「出来れば、別で」

利知未が女らしい微笑を軽く見せて、係員へ答えた。

「かしこまりました。 少々、お待ち下さい」

次に並んでいるカップルへ、同じ問い掛けをする。 了承を貰うと二組のカップルを、先に到着したゴンドラへ案内する。


 次のゴンドラへ、二人きりで案内された。

「広いな」

「だね。 ……あまり混んでなければ、すんなり二人で、乗り込ませてもらえるんだけどな」

 昔、敬太と二人で乗り込んだ時を思い出して、利知未が呟いた。

「前にも、乗ったことあるのか?」

「…樹絵たちと」

「そうか」

利知未は、ウソをついた。

 敬太との思い出は、倉真に話すべきでは、無いと思う。

「遠くまで、良く見えるな」

「マリンタワーも回ってみるか?」

「倉真、高い所が結構、好きだな」

「気持ちイイと思うぜ?」

「…だよね」


 ゴンドラが、頂点へ差し掛かる。


「…ね、」


 寄り添っていた腕に、軽く力を込めて倉真を見る。 利知未の求めが、倉真に伝わった。

 ……あの時のように。


『……これからは、倉真と』  長い、キスを交わした。


 唇を離して、見つめ合う。

 倉真は、それ以上を求める気持ちが、疼きだした。


「……あと、少しだな」

「そうだね。 ……直ぐ、地上だ」


 気持ちを抑えて、外を眺めながら、利知未の肩を抱く。

 頭を倉真の肩に預けて、利知未の心は満たされる。



『こうしてるだけで、今は、幸せだな……』

 ……あの頃よりは、大人になったのかもしれない。


求め合わないままでも、倉真の想いは、利知未に伝わってくる。

『……倉真の事は、きっとで、信じられる』



 下宿を退去する数日前、心に浮かんできた不安に、利知未は答えを出した。




           三


 翌週の日曜。 準一は、久し振りに透子と遊んだ。

「なんか、初めてデートらしい感じだ」

「今までも、よく遊んでやったじゃないか」

「送迎と、夕飯と、買い物のお供?」

「ジュンちゃんが中古を買ってからは、助かったもんだ」

「んじゃ、そろそろ、頑張りを認めてよ?」

「認めて貰って、何をしたいんだ?」

「そりゃ、勿論」


 二人は水族館に居た。 透子の手を掴んで弾みをつけて、引き寄せてみた。

 準一の果敢なアタックを、透子はさらりとかわした。


「甘い」

 近付いて来た顔を軽く避けて、準一の腕から逃れる。

「…っとぉ!」

回遊魚の水槽へ、キスをしてしまった。

「そんなに、アジやマグロが好きか?」

「キッツイな」 ぼやいて復活した。


 笑っている透子の手を掴んだ。 珍しく真面目な顔を、準一が見せた。

「……後、何を手に入れたら、許してもらえるんだ?」

「大事な女、見つかったら紹介しろよ」

準一の真面目な顔も、透子は笑顔でかわしてしまった。

「それって、やっぱオレは、便利君以上にはなれないって、事か」

「弟みたいなもんだ。 同じ顔した彼は、要らないな」

「…そっか。 マジ振られたって、事になるのか?」

「可愛い弟君のまま、付き合ってやろうって事だ」

「……同じことだ」

 首を竦めて、透子の手を離す。

「あっさりしたもんだ」

「NOって答えを、認められない程しつこいヤツじゃ、無いだけだよ」

「利知未の躾が、行き届いているのか」

「なんだ? それ」

「可愛い弟君だな。 …イイ子、イイ子」

何時も通り拘りの無い笑顔で、準一の頭をカイぐる。

「今日は、旦那の所まで送って行けよ?」

「旦那?」

「大学出たら、結婚する」

「…何時の間に、そんな相手が出来たんだ?」

「今年の三月」

「スピード婚って、ヤツ?」

「そーでもない。 一年半は付き合ってた」

「マジで?」

「利知未と専門が分かれて、半年後くらいからだな」

「利知未さんは、知ってんの?」

「始めに報告したのが、利知未だよ。 ……両親より先にね」

 あの日、透子は、大河原を自宅へ招く前、利知未の新居を訪れていた。

「…そーだったんだ」

「両親の後で、ジュンちゃんに報告してやったんだ。 有り難く思えよ?」

「それが、努力の見返りか。 …何か、空しいな」

「これに懲りたら、少しは真面目に女と付き合ってみなさい。 深く付き合わなきゃ、女の事なんか解るワケが無い」

「高い授業料、払ったな」

「金も残ったでしょーが」

「それは、そーだけどな。 使う当てが、無くなったよ」

のんびりと歩き出す。


 回遊魚の前を過ぎて、深海魚の区画へ入った。

「利知未が躾担当。 アタシは、経済観念担当。 イイ姉貴達を持ったな」

「自分で言うか?」

「自画自賛は、アタシのチャームポイント」

何時か、学食で利知未に言った事と、同じ言葉で返した。

「…そーかもな。 トー子さんの魅力の、一つだと思うよ」

 準一は大人びた笑みを、透子へ見せた。


 この日を最後に、準一から透子への、無謀なアタックは静まった。



 同じ日曜。 利知未は春休みが終わる前に、もう一度、倉真とツーリングへ出掛けた。

 先週の失敗を思い出して、あの後、箪笥とクローゼットの整理をし直した。 今日は男に間違えられないよう、服装にも少し気を使った。


「やっぱり、どうせなら普通にしてたいよな」

「先週も中々、面白かったぜ?」

「それなら、また、その内に遊んでみようか」

「タマには、良いんじゃないか?」

 休憩場所でバイクへ寄り掛かって、缶珈琲を飲みながら話す。

「…って言っても、新学期が始まったら、暇、無くなりそうだ」

小さく溜息が出る。

「それは、仕方ネーな」

「……本当に、それでもイイのか?」

「お前の目標は医者になる事、だろ。 俺が邪魔して、どうするんだよ?」

「……サンキュ。 倉真で、良かった」

「何が?」

問われて少し恥ずかしそうに、そっぽを向いて答えた。

「好きになったのが」

「その言葉は、喜んでイイのか」

呟いた倉真へ視線を戻した。 目が合う。

「…そろそろ、出発しようか」

笑顔で言って、缶珈琲を飲み切った。

「だな。 まだもう少し、目的地までは距離がある」

 空き缶を屑篭へ捨て、再びバイクを走らせた。


 何時か、利知未が軽く事故を起こしてしまった、自然公園へ来て見た。

「あの時は、まだ初秋だったから、気付かなかったな」

「結構、桜があるな」

 あの時、怪我を洗った水道とベンチまで歩いて、並んで腰掛ける。 灰皿がある。 タバコへ火を着けた。

「……いい加減、止め時かな」

利知未が指に挟んだタバコを見て、呟いた。

「禁煙するのか?」

「挑戦、しようとは思うんだけどな。 …すっかり、依存症だ」

軽く首を竦めて見せる。

「無理しなくても、良いとは思うけどな」

「けどな?」

「…何でもネー」

 利知未が、女であることを改めて考えた。


『……もしも、ガキでも出来た時には、どうすんだろうな?』

 まだ、関係を深めてもいない内に、妙な事を思ってしまった。


「…キスした時、煙草の匂い、するから」

「俺も、止めるか?」

「変かもしれないけど、嫌いじゃない」

「ミントガムでも、持ち歩くか」

「いいよ、何にもしなくて」

 倉真の言葉に、軽い笑顔を見せる。

「自分も吸うからな。 あんまり、気にした事は無かったな」

「そっか。 …じゃ、暫くは様子見よう」

吸い掛けの一本を、もう一口吸ってから、灰皿で揉み消した。 何と無く、水道へ向かって歩く。 軽く口を漱いで見た。

「どうしたんだ? いきなり」

「ちょっとだけ、チャレンジして見ようかと思った。 何時間、持つか?」

「三時間」

「五時間」

「賭けるか?」

「何を?」

「今、一時十分か。 …夕飯。利知未の手料理を、食わせろよ?」

「そんなもの、賭けなくても作ってやるけどな」

「今日の所は、ってことで。 俺が勝ったら、飯奢る」

「OK」

「じゃ、第一の難関。 昼飯、食いに行かネーか?」

「そうしよう」

倉真も煙草を消して、ベンチから立ち上がる。 利知未の元へ行くと、腕を組んで歩き出す。


 倉真は少し、意地悪だった。 利知未の前で、平気で煙草を吸う。 そして、ニヤリと笑う。

「やっぱ飯の後の一服は、格別に美味いな」

「言ってろ」

軽くあっかんベーをして見せて、珈琲を飲む。

「頑張るな。 …俺は、もう一服付けるか?」

「ご勝手に」

そっぽを向いて、吸いたくなるのを誤魔化した。

 倉真がタバコを吸い終わり、利知未が珈琲を飲み干して、腕時計を見る。

「今、二時二十五分。 後、三時間四十五分」

「一時間四十五分」

「絶対、吸わネー」

「精精、頑張ってくれ」

「そーする」

 今、二人の雰囲気は、恋人同士というよりは、仲の良い友人同士のようだ。


 店の外で、バイクに跨って倉真が言う。

「次の難関、休憩時間の一服」

「二時間、走らせてやる」

「俺が先行するか」

倉真が一足先に、ギアをチェンジして走り出しかける。

「卑怯だ!」

利知未は慌てて、後を追って走り出した。


 倉真はキッカリ一時間半、走らせて、休憩場所へバイクを止める。

「後、十分以内に吸いたくなる」

「十分くらい、簡単にクリアだな」

「そーか?」

さっさと自分はタバコへ火を着けて、美味そうに一服し始める。

「…なんか飲み物、買って来よう」

五分ほど頑張って倉真を見ていた。 吸いたくなって、逃げ出した。

 利知未の後姿を、面白そうに倉真が見ていた。


 態とのんびりと缶ジュースを買って来て、時計を見る。

「…四時十分。 三時間、クリア!」

ニヤリと、利知未が笑う。

「まだまだ、後二時間。 それまでに吸えば、俺の勝ちだ」

「我慢してやる」

「意地になってんな」

倉真が楽しそうに笑った。


 タイムリミットを迎える頃には、横浜に居た。 まだ、時間がある。

 山下公園へ向かって、薄闇の海を眺める。

「もう、六時だな」

「後、約十分か。 頑張るな」

「タイムリミットでココを出たら、中華街の店に入る」

「マジかよ? ンな金、持って来てたか…?」

「倉真から言い出したんだからな。 キッチリ、約束守れよな」

「…ほら」

倉真が何気なく一本、振るい出して利知未へ向けた。 反射的に手を伸ばしかける。 利知未は気付いて、手を止めた。 箱の中へ押し込み直す。

「…、嵌められる所だった」

「気付いたか」

ち、と小さく舌打ちをして、自分が一本取り出した。 倉真の様子を見て、利知未が笑う。

「財布の中身、確認しとけよな?」

「…しゃー無い」

 ポケットから、財布を出して札を数える。

「…二人で、一万五千から二万以内で、よろしく」

「んな、掛からないだろ?」

「中華街は、高いだろ?」

「金額見て、考えてやるか」

背後の時計を振り向いた。 倉真が、銜えタバコへ火を着ける。

「後、三分」

「一本、吸える時間だぞ?」

「いらない」

 再び倉真を振り向いて、女らしい笑みを見せる。

「……倉真」

タバコを、倉真の口から摘み取る。 目で誘ってみた。 つられた倉真と唇が重なる。

 ……長めに、キスをした。


 薄目を開ければ、時計が見える。 秒針の動きを見て、利知未が唇を離した。

「タイムリミット」

「…嵌められた」

「まだまだ、青いな。 倉真」

悪戯坊主のように笑う。

 倉真の口から摘み取った、短くなってしまったタバコの、最後の一吸いを、美味そうに吸って見せた。

 タバコを靴の裏で揉み消して、灰皿へと向かいながら言う。

「今日の倉真は、意地悪だった。 なるべく高いもの、奢らせてやる」

「上限、二万。 でないと、お前に借金することになる」

「じゃ、ギリギリで計算して選ぼう」

吸殻を捨て、軽く振り向いて、勝ち誇った笑みを見せた。


 約束通り、中華街へ向かってバイクを走らせた。 今夜は素直にバイクを中華街専用の駐車場へ止めた。

「利知未の飯、食い損ねたな」

「今度、賭け抜きで作ってやるよ」

「…楽しみにしとくか」

 答えながら、次に利知未と会えるのは、いったい何時になるのか? と倉真は思う。

電話で話すのも、難しくなりそうだ。


 もし、今日の賭けで自分が勝てば、どちらかの家で利知未が夕食を作る事になった筈だ。 良いチャンスだったのにと、思わない事も無い。


 同じ事を、利知未も思う。

『……態と、負けても良かったかも知れない』

新学期が始まり、バイトとしても病院へ通う事になれば、当然、夜間や日曜等の、医師の少ない時間へ組み込まれる筈だ。

 それは同じ様に、バイトを世話して貰っている先輩の生活を見れば、何と無く判る事だ。


『いいチャンス、自分で潰しちゃったかな……?』

思うけれども、今、どうしても倉真とそうなりたいかと言えば、少し違う感じもする。

 それよりも、一緒に過ごしているだけの時間にも、幸せを感じることが出来ている。

『……昔のあたしじゃ、考えられないけど』

 倉真の事は、信じていられる。 そう思う。

『倉真は、あたしにとって、心の片割れ、そんな気がする……』

離れられない、パートナーではないか? 一緒に居るだけで、安らぎを感じられる、唯一の存在。

 ……だから、焦る事は無い……。

 利知未は倉真に対して、そんな風に感じていた。



 翌日、月曜から大学が始まる。 利知未の大学は毎週水曜・金曜、午前中から講義を受けて、午後から大学病院へ行く。 平日は基本的に朝から病院だ。

 バイトの時間は、それから後。 同じ待遇の生徒は利知未だけではない。 適当にシフトを組まれてしまう。

 今月一杯の予定は、ほぼ埋まる。


 帰宅して、直ぐに倉真へ連絡を入れた。

「これから先、休めるのは基本的に木曜くらいかな?」

「平日じゃ、中々、会うことも出来ないな」

「そうだね。 今日も、働いて来た」

「で、この時間か」

八時半を回っている。

「仕事って、どんなことやるんだ?」

「書類整理や雑用だな。 後、救急外来で、血圧測ったりした」

「看護婦の手伝いくらいか?」

「看護師って、言わないと駄目みたいだよ。 男女雇用均等法」

「成る程。 特に病院じゃ、男も女も無いよな」

「そうだな。 力仕事も、結構あるみたいだ」

「それは、利知未向きじゃないか?」

「どうせ、筋肉付いてるよ。 バイク押して歩けるんだから」

「そりゃ、そーだ」

 電話の向こうで、倉真が軽く笑う。

「また来月、どういうシフト組んでくれるか解らないけど。 当分、日曜・祝日は無さそうだ」

「そうか。 仕方ないな。 こっちの休みは日曜と隔週土曜だからな」

「うん。 …ごめん」

「謝る事かよ? 気にすんな」

「…サンキュ。 倉真、飯、食ってるか?」

「相変わらず、アダムの常連だよ」

「そっか。 じゃ、マスターにヨロシク」

「ああ、言っておく」

もう少しゆっくり話していたい所だが、そろそろ自分が夕飯を済ませないとならない。 軽く腹が鳴り出す。

「あたしは、これから夕飯だよ。 じゃ、また」

「ああ。 身体、壊すなよ?」

「解ってるよ。 医者の卵が身体壊したら、洒落にならないし」

「だな。 じゃーな」

「うん。 また、電話するよ」

そして、受話器を置く。


 冷蔵庫を開けて、適当に料理をして夕飯を取り始める。

「……一人で飯食うの、なんか寂しいな」

下宿を出て、改めてそう感じる。 生活の雑音も殆ど無い。

『このアパート、結構、防音設備が整ってるみたいだ』

階下の音も、お隣さんの生活騒音も、殆ど無い。

『流石、月・九万、取るだけある』

妙なことに感心した。 思い付いて、テレビを付ける。

 テレビの音を聞きながら、食事を済ませた。



 利知未からの電話を終え、倉真は風呂へ入った。

「……バッカスで、宏治相手に軽く飲むか」

徒歩、5分の場所だ。 時間潰しにも丁度いい。

 さっさと入浴を済ませて、アパートを出た。




           四


 忙しい生活の中で、四月はあっという間に過ぎて行った。

 実習とバイトで通う大学病院で、利知未は一人の医師に目をかけて貰い始めた。笹原と言う、三十歳になったばかりの、若手の外科医だった。

 実習時間は、医師の診察の手伝いをしながら、自分でも医学書を捲る毎日だ。バイト時間になると、雑用部隊へ早変りする。


 バイト中の仕事は、倉真に電話で言った通りの内容だ。

 笹原は、利知未の手が空いた時、積極的に自分の仕事を手伝わせてくれる。

「瀬川さんは、中々、外科医向きだと思いますよ」

仕事中、時々、質問をする利知未に、笹原が笑顔で答える。

「そうですか? 自分では、まだ本当に選んだ学部があっているのかどうか、判断しかねます」

「目の付け所が、違う。 手先も器用でしょう」

「…どうも」

 少し照れ臭くなって、短く返事をして作業へ戻る。


 純粋に、才能を認めている。 才能と言っても、まだ詳しく判断できる段階ではないが、他の学生と比べ見た時に、彼女は外科医向きの性質の持ち主だと、笹原は判断した。



 五月中旬過ぎのある日。 笹原は仕事の後、利知未を食事へ誘った。 仕事を終えた時間が同じだったのと、夕飯時だと言う事で、深い意味は無かった。

 しかし、そこで利知未の素を、ほんの少しだけ垣間見た。


 気楽な店へ入って、笹原が聞く。 笹原の言葉使いは、比較的丁寧だ。

「普段は夕食、どうしているんだい?」

「無駄遣いも出来ませんから。 自炊してます」

「一人で暮らしているんだね」

「…親が、遠くで暮らしているので」


 あまり詳しく話す気は無い。 今日も食事を誘われた時、一瞬だけ考えた。 それでも彼が、自分に目を掛けてくれているらしい事は、感付いている。

 邪険に断りを入れるのも、申し訳ないかと思った。


「僕は、料理は全然駄目だな。 親元に長く居たからね。 覚える機会を逸したよ」

「普段も、外食が多いんですか?」

「お陰で、舌が肥えた」

穏やかな笑顔を見せる。

 それでも仕事中よりは、フランクな話し方だ。 いくらか利知未の緊張が解れる。

「私も、舌は敏感ですよ」

微笑を返すが、言葉遣いには気を使う。 

「この店は、値段のワリには、美味しいものを出してくれるよ」

「そうですね。 いい店を教えて頂きました。 ありがとうございます」


 丁寧な言葉は、アダムでのバイト経験の賜物だ。 テーブルマナーも、昔、敬太に教えてもらっている。 それなりの態度は取れる。

 笹原は利知未のその部分に注目した。 何処へ連れて行っても、恥ずかしくない女性だろうと見る。 改めて向かい合い、利知未の顔が綺麗に整っている事にも気付いた。

 頭の中で、計算機が動き出した。


 ワインのお代わりを、笹原自ら注いだ。 利知未はグラスを置いたまま、それを受ける。 利知未からは、無駄な酌もしない。

「テーブルマナーは、何処で覚えたの?」

「昔、教えてくれた人が居ました。 けど、この店はあまり堅苦しい感じでも無いですね」

微笑を見せて答えた。 笹原の計算機が、また動く。

「最初の印象よりも、よほど確りしたレディのようだ」

「どういう意味ですか?」

軽く吹き出してしまった。 笹原も笑顔を見せる。

「失礼。 もう少し、ちゃんとした所へ連れて行くべきだったかな」

「あんまり堅苦しい所は、苦手ですから」

「そうか」


 そのまま、静かに談笑しながら夕食を終えた。

 笹原は、その店から最寄りの駅まで送ってくれた。 紳士らしい態度だった。


 今日は食事に誘われたので、バイクも病院へ置きっぱなしだ。

 明日は木曜で、講義も実習も無い。 朝、取りに行かなければならない。


 電車に乗って、利知未は時計を見た。

『もう、十時になるんだな。 ……倉真に電話したかったけど』

帰宅すれば、十一時近くなってしまう。

『倉真も仕事、あるからな』

扉へ寄り掛かって、小さく溜息をつく。



 同じ頃、倉真はバッカスで、宏治を相手に酒を飲む。

「最近、よく来るな」

「時間潰しだ」

「利知未さんとは、やっぱり中々会えないのか?」

「忙しいんだろうな。 週に、二、三回は電話で話すぜ?」

「今日は、電話も無いのか」

「大体、九時半前に電話が無ければ無いな」

「よく、我慢してるもんだ」

「何だよ、それは」

「最後に会ったのは、四月だって言っていたよな」

「…だな」

少し不安になることが無い訳でもない。

 宏治は、あまり倉真の悩みに突っ込み過ぎても、拙そうだと思う。

「ジュンは、ついと透子さんに振られたらしいな」

「そうなのか?」

「彼女に、婚約者が出来たらしい」

「…意外だな」

「おれは、あまり彼女の事は知らないけどな」

「一生、遊び暮らしそうなタイプに見えていたぜ?」

「ジュンの、女性版って感じか?」

「だな。 顔も、タイプも似てたな」

「それなら、似過ぎて上手くいかなったんじゃないか」

「って言うより、遊ばれていただけ、か?」

「流石、利知未さんの親友」

「確かに」

二人で小さく笑った。

 準一は、相変わらず金曜日の常連らしい。 倉真も最近は、顔を出す事が多くなっていた。 よくココで顔を合わす。

 けれど準一のこの話を、倉真は始めて聞いた。


 十一時近くまで酒を飲んだ。

 倉真は職場まで、三十分近く掛けて通っている。 毎朝、八時前には家を出る。

 バイク便の頃よりも、時間は短くなった感じがしている。 残業が無ければ、六時半過ぎには帰宅も可能だ。


 小さい割には客が多い整備工場だ。 基本的には七時頃まで残る日の方が多い。 それでも真っ直ぐ帰宅すれば七時半だ。 バイトの頃は八時過ぎる事も、多々あった。 月々の稼ぎは、少し減ったかもしれない。


 帰宅してから風呂へ入った。 木曜以外はアダムへ寄って来るので、結局、八時半は回る。 

 利知未からの電話は、何時も九時頃だ。 土曜の夜から日曜は、夜間でバイトへ入ることが、多いらしかった。



 今年度へ入ってから、利知未の日常は、木曜・土曜に洗濯や掃除を片付ける。 土曜は、その後に仮眠を取ってから、バイトへ向かう。 日曜も、どうしても寝て過ごす事になりがちだ。

 平日は、十時半までに食事、風呂、電話を終わらせるようにする。

 それから二時間は確実に、勉強時間を取る。 場合によっては、ベッドへ入るのが深夜二時近くなる。

 それでも翌朝七時には起き出して、朝食と外出準備だ。


 大学へも病院へも、大体バイクで二、三十分。 講義がある日は、八時半に出れば間に合う。 朝から病院へ行く日は、八時半までに入る都合上、八時に家を出る。

 一ヶ月そう言う生活をして、収入は七万円を切ることを知る。


 親から十八万円は仕送りを貰うので、合計で二十四万円ほどになる。

 家賃を九万払い、光熱費と電話代に三万は出る。 バイクの維持費と経費の貯金で、五万は飛ぶ。 雑費に一万。

 食費を切り詰めても、小遣いとしては三万から四万円の生活だ。 その中でタバコ代が出る。


 真面目に禁煙をしてみようかと思いながら、断念してしまう。

『あたし、意外と意思が弱いな……』

勉強の途中、銜えタバコに気付いて、自分で呆れる。

 先ずは、ニコチンの量を減らしてみることにした。 それで慣れてから、改めて禁煙出来そうなら、禁煙をしてみようかと考える。


 最近、利知未のタバコは、以前よりも弱いものへと変った。 それからまだ、倉真に会う機会は無い。



 翌日、利知未はバイクを取りに病院へ向かった。

 洗濯と掃除を片付けて来たので、昼頃になった。 ついでに昼食を病院近くの店で済ませる事にした。


 手洗いへ立ち、ある客と入れ違う。 そこで、洗面台に置き忘れた口紅を見つけた。 少し振り向いて、扉を開けて声を掛ける。

「忘れてますよ?」

「え? 済みません、ありがとうございます」

ニコリと顔を上げた女性に、よく見覚えが有った。

「あれ? 片岡さん」

「貴女は、瀬川さん?」

薬局の女性事務員だった。


 利知未のバイト中の仕事は、基本的に書類整理だ。 患者の書類を薬局や会計へ、会計から書類保管場所への移動なども、勿論する。 当然、彼女とも顔見知りだ。


「今、昼なんですね」

「ええ。 瀬川さんは? 今日は、実習も無い日よね」

「昨日、バイク置いて行ったんで、取りに来たついでに」

「瀬川さん、バイクに乗るの?!」

「はい。 …意外そうですね」

「あんまりイメージに無かったわ」

「初めて言われました」

 小さく笑う。

「こんな所で、立ち話してる場合じゃないか」

「そうね。 お手洗いの前で、井戸端会議も無いわよね」

顔を見合わせて、笑ってしまう。

「じゃ、また、病院で」

「ええ、また明日」

会話を終えて、手洗い所へ入り直した。



 夜、九時過ぎ。 倉真へ電話をする。

 利知未の仕事時間がまちまちで、倉真から連絡を入れても空振りをしてしまう事が多い。 自然と、何時も利知未からの連絡になる。


「本当に、中々、会えないな……」

 珍しく、利知未が沈んだ声を出す。

「そうだな。 当分、土曜の夜間、続きそうか?」

「だな。 今まで、チョコチョコ会ってたから。 凄く、長く感じる」

「…仕方ないけどな」

「結局、今年の倉真の誕生日にも、会えなかった」

「月曜だったからな」

「バイト、始まったばっかりで、どの位で帰れるかも解らなかったから」

「今年の利知未の誕生日は、水曜だな」

「だね。 木曜なら、良かったんだけどな」

「それなら、俺の仕事の後で会えるからな」

「そうなんだよね。 …本当は、今日も、倉真の所まで行ってやろうかなと、チョイ思った」

「俺が行けばよかったな」

「仕方ない。 もう、遅いし」

「…だな」

 暗くなりそうで、倉真が昨日、聞いたばかりの話を振ってみた。

「ジュン、ついと振られたって?」

「ハッキリと、断られたみたいだな」

「落ち込んでるかと思えば、タマにバッカスで会っても、ケロリとしてやがるぜ?」

「らしいな。 バッカスにも全然、行ってないや。 宏治や美由紀さんは元気にしてる?」

「相変わらず、常連の相手が忙しそうだ」

「そっか。 和尚には、会う事ある?」

「偶にはな。 アイツ今年も牧場と、アメリカ行くみたいだぞ。 金、貯めてる」

「一途だな」

「そうだな」

「……下宿の皆は、どうしてるのかな」

「俺も最近は会ってないな。 遊びに行けばいいじゃないか?」

「木曜じゃ、皆、学校だし」

「里沙さんか、朝美さんは居るんじゃないか?」

「そーだな。 そこで時間潰して、夜、チラリと倉真に会えるかも」

「会うか?」

「…会おう」

「来週、バッカスでどうだ?」

「バイクで行けなくなるな」

「そー言や、報告遅れた。 普通車の免許、取ったぜ?」

「何時?」

「つい、この前だ。 仕事場で取るように言われた」

「そうだったんだ。 ……そう言う変化も、よく解らないなんて。 何か、寂しい感じがする」

「来週、免許見せてやるよ」

「楽しみにしてる」

「…バイクで来ても、構わないだろ」

「帰り、困るよ」

「……泊まって行けば、良い」

「…次の日、朝が早いよ」

「…そうか。 そうだな、悪かった」

「ううん。 ありがとう」

「礼、言われることでもネーな」

「倉真の言葉が、嬉しかったんだよ」

「これで喜んで貰えるとは、思わなかった」

「……本当は、ちょっと不安だった」

「何が?」

「倉真に、何時も近くに居てくれる女が出来てたら、どうしようかと思って」

「有り得ネーな。 職場でも、バッカスでも、アダムでも」

「どうして?」

「……言えネー」


 恥ずかしくて、理由なんて言える訳が無い。

『ただ、利知未よりも心を惹かれる女には、会わない。 それだけだ』

一応、心の中だけで、言っておいた。



 翌日、講義を終えて学食へ寄った。

「二日振りだな」

「水曜と金曜だけだからな。 ココで透子と会うの」

「釣り目Gayには、会ってないのか?」

「会う暇、あると思うか?」

剥れてしまう。 透子がヘラリと笑う。

「まぁ、まぁ。 膨れない、膨れない」

「そっちは、毎日会ってんだよな」

「研究所、同じだからね。 教授の部屋は、学部の隣」

「合間見て、やってんじゃネーのか?」

「鋭い! 何てね。 大学じゃ、やらないな」

「昼から、どーゆー会話だ」

「利知未から振ったんだろ。 さては欲求不満、満載?」

「…そー言うこと、言うか?」

「らしくない。 利知未なら、アイツの部屋へ押し掛け 兼ねない」

「そーユー目で、見てたのか」

「アンタの戦歴、知ってるからな」

「戦歴って、どう言う言い草だよ」

「そのまま、言葉通り」

「……相変わらずだ」

「変るわけ無いでしょ」

「自由奔放で、野放しにしてくれる相手って事か」

「お財布連中とは、切れたぞ?」

「一応、マジなんだ」

「でなきゃ、結婚は受けないだろ」

「そりゃ、そーだ」

 相変わらず、気楽な透子と話をすると、少しはストレスが発散される。

「同じ大学で、良かったと思うよ」

「感謝してね」

「追いかけて来たことか?」

「そう。 利知未と同じ大学を、選んでやったこと」

「遠慮会釈のない言い方だ」

「チャームポイントだから」

「そのポーズは、似合わないぞ」

いつかと同じ様に、人差し指を頬っぺたに当てて首を傾げる透子に、突っ込んだ。

「じゃ、これでどうだ?」

突っ込まれて、透子は新しいポーズを開発した。

 軽く後ろ髪を掻き上げるように、セクシーポーズを取る。

「学食で、そういう事するか?」

「決めのポーズを、研究中」

目を丸くして隣を通る新入生男子に向かって、ウインクなどしている。

 新入生は赤くなって、急ぎ足で隣を抜けて行った。

「飽きないヤツ」

「あの新入生、可愛かったな」

「旦那に説教されるぞ?」

「ばれなきゃ、平気じゃないか?」

「…言ってろ」

 透子は姿勢を戻し、定食を突き始めた。



 午後から向かった病院で、片岡 香と顔を合わせた。

「昨日はどうも」

「こちらこそ。 ね、瀬川さん、今度、一緒にお昼、食べに行かない?」

「良いですね。 来週、朝から実習ある日で、時間が合ったら」

「もう少し、話を聞かせて貰いたいわ。 バイクの事とか」

「興味、あるんですか? 喜んで」

「じゃ、約束ね」

 病院内で、利知未の新しい友人が出来た。




           五


 利知未は約束通り、薬局の片岡 香と、昼食友達となった。

 利知未の昼休みと香の昼休みが合う時は、大体、何時も一緒に食事を取りに出る。

 何度か出掛ける内に、酒を飲みに行く約束を交わす程になる。


 香と始めて昼食を取りに行ったのは、翌週の火曜の事だ。

 偶然、トイレで擦れ違った店へ出掛けた。


「ココはね、ランチセットがお勧めなの。 病院の食堂に飽きると、よく来るのよ」

「この前、パスタのAセット、頼みました」

「結構、美味しかったでしょう?」

「パスタは。 ただ、セットのデザートが、ちょっと」

「甘いもの、苦手なの?」

「余り、量を食べられませんね」

「それなら、こっちのセットの方が良いかな」

メニューの裏を返して、洋食ランチを教えてくれた。

「こっちはデザートの変わりに、スープが着くのか」

「男性向きメニューって、感じね。 量は多いけど」

「甘いものじゃなければ、結構な量、入りますよ。 丁度イイな」

早速、教えて貰ったセットをオーダーしてみた。

『まぁまぁ、かな……?』

出されたセットを食べてみて思う。 アダムの方が、味もボリュームも上だ。

『この店は、洋食ランチよりもパスタの方が美味いな』

 感想は、言わないでおいた。


 利知未は、アダムで長年バイトをして来た。 だから肩を持つという訳でもないが、過去、入った喫茶店や軽食を提供する店の中でも、アダムは上位に着けると感じてきた。

 流石、味で勝負する店だと、マスター自ら豪語するだけはあるのだ。


 その日、香には聞かれるままに、バイクの魅力を語ってしまった。

「実は、私の彼がバイク好きなのよね。 私はよく解らないから」

食後の紅茶と珈琲を飲みながら、時間ギリギリまで話した。

「後ろ乗せて貰った事は、無いんですか?」

「嫌がるのよね。 あの人」

「そうなんですか。 今度、乗ってみますか?」

「ちょっと怖い感じもするけど、興味はあるな」

「季節がイイと、後ろ乗ってても気持ちいいですよ」

「瀬川さんは、自分で運転するだけなの?」

「……偶には、人の後ろ乗ってます」

「彼氏?」

「…一応」

「ふーん、そうなんだ。 どんな彼?」

少し躊躇いながら、利知未が答える。

「バイク仲間、兼、飲み仲間です」

「背、高いの?」

「あたしよりは」

「じゃ、かなり高い人なのね」

「…ですね」

その時は照れ臭くなって来て、話題を変えた。


 だんだんと仲良くなるにつけ、香とは、恋愛の話もするようになった。

 香の彼氏は、どうやら仕事よりも趣味に生きるタイプらしい。 話題も自分が好きなものの話が多くて、香はいつも聞きに回る。 バイクの話など、何時もの事らしい。

 少しでも彼の話を理解してあげたいと、思っていたと言う。


 香と随分と仲良くなってきた頃、言われた。

「やっぱりバイクに乗るのって、男性が多いでしょう? 余り教えて貰える当ても無かったのよね。 利知未さんに会えて、良かったわ」

 二人は六月の中旬ごろには、名前で呼び合うようになった。



 五月下旬の木曜日。 利知未は久し振りに、下宿へ遊びに行ってみた。

「今日は、朝美が休みだったのか」

「何? あたしに会いに来てくれたって訳じゃ、無かったの?」

「朝美でも里沙でも良かったんだけどな。 朝美が居る日なら、久し振りに夕飯の準備、手伝う必要があるかと思った」

「ラッキー! 折角だから、ヨロシク!」

「いいよ。 三時過ぎに、材料買い出して来るか?」

「それまでは、のんびり話でもしてようか」

時計を見て朝美が言う。 珈琲を入れてくれた。

「酒は、夕食時だな。 バイク?」

「後でバッカスへ行って見ようかと思ったからな。 電車だよ」

「デート?」

「デートって言うか、久し振りに、ね」

「久し振りって、アンタ、倉真君と会ってない訳? 二ヶ月近くも?!」

「会う暇、あると思うか……?」

学食で透子に突っ込まれた時と同様、膨れっ面になる。

「大体、木曜しか休みないし」

「倉真君の仕事は、日曜休みって事か」

「そうだよ」

「押し掛けてるかと思った」

「透子と同じ事、言うなよな」

「透子ちゃんにも、同じ事、言われてンの?」

少し目を丸くして、軽く吹き出す。

「さっすが、突っ込みどころは一緒だな」

「…そんなに、意外かよ?」

「意外も意外。 空から、槍でも降って来そうだな」

「二人揃って、どーユー目で人の事、見てんだよ」

益々、膨れてしまった。


 三時過ぎまで話をして、買い出しに行った。 里沙の車を使う。

「そー言えば、倉真も普通車の免許、取ったって言ってたな」

「話はしてるんだ」

「電話でね」

「遠距離恋愛並だな。 それで、よく持っているもんだ」

「ほっとけ。 朝美は、色っぽい話は無いのかよ?」

「あると思う?」

「あっても可笑しくない歳だよな」

「実家から、見合いの話は持ってこられたけど」

「断ったのか?」

「今は仕事が忙しいし、楽しいし。 大体、話を持って来たのが、親戚の中でも世話好きで有名なオバチャンでさ。 あたしが断っても、直ぐ次を探すタイプよ。 その意味では断わり易くて良いけどね」

朝美がハンドルを握っていた。

「世話してくれる人が居る内が、花だって言うけどな」

「誰が言っていたの?」

「病院で、仲良くなった人が言っていた。 そう、両親に言われたって」

「その人、何歳?」

「あたしより二歳上だから、今年で二十五歳の筈だな」

「成る程ね。 昔の人が言う所の、結婚適齢期ってワケだ」

「そうなるのか?」

「三十前に見つけないと、一生結婚できないみたいな事、言うよね」

「言われてる訳だ」

「言われ捲くりよ」

「…大変だ」

「大変よ」

 それ程、大変そうでもなく、言い放った。


 買出しを終え、四時半ごろから夕食の準備を始めた。

 五時過ぎ、始めに帰宅した樹絵が、驚きながら嬉しそうに言う。

「利知未が今日の夕飯、作ってくれてるんだ! やった!」

「やった! …って、どう言う言い方よ?」

朝美に突っ込まれて、舌を出す。

「着替えて、手を洗って手伝え」

利知未が調理の手を止めずに、樹絵に命じた。

「教えてやるよ」

軽く振り向いて、樹絵を見る。

「……遠慮したいなぁ」

「文句言ってる側から、苦労して料理する側に回れよ?」

「そーだ、そーだ! 利知未、もっと言え!」

朝美が楽しそうに発破を掛ける。

「仕方ないな。 手伝うか」

「早くしろよ?」

 返事をして、樹絵が着替えのため、一度、自室へ引き上げた。


 樹絵には、付け合わせを作らせて見た。 早速、包丁の使い方から、利知未の突っ込みが入る。

「お前も包丁の持ち方、違うな。 家庭科で、やらなかったか?」

「そんなの、覚えてない」

「人差し指まで使って、握るな。 コントロールが悪くなる。 まな板と並行に立つ。 肩、力入り過ぎだ。 姿勢を崩すな!」

「超スパルタだな。 あたし、里沙に教えて貰って良かった」

隣で朝美が呟いた。

「朝美。 先に油、材料に回さないと焦げるぞ?」

「げ、こっちにまで突っ込みが入るか」

「イカ、火を入れ過ぎると硬くなる」

「はい! 先生! 気を付けます!」

ふざけた口調で言った朝美が、菜箸を持った手で敬礼の真似事をした。

「…けど、前よりは慣れて来たみたいだな」

「優しい里沙先生に、教えて貰ったから」

「悪かったな、厳しい先生で」

「本当だよな。 勉強の方が、まだ優しく教えてくれてたよ」

「口を動かすのと、手を動かす速度は同じで頼むぜ? 夕飯、八時過ぎちまう」

「アイアイサァ」

 気の抜けた返事が、返ってきた。


 樹絵の担当した付け合せは、胡瓜が皮一枚で繋がって出て来た。 ある意味、器用な事ではある。 利知未は栄養バランスを考えて、スープを担当した。

 朝美の担当した中華風海鮮炒めは、やはり少しだけイカが硬かった。 味付けだけは、利知未がチェックを入れたので、それなりに美味しかった。

「ま、こんなもんか」

「瀬川先生、採点も厳しいな」

「料理は手際だぞ? 材料を炒める順番も、重要だよ」

「やーい、朝美、減点だ!」

「お前は、野菜くらい、ちゃんと切れる様になれ」

「樹絵も減点だ」

「利知未が作ってくれてたから、安心してたんだけどな」

秋絵が、繋がった胡瓜を箸で摘み上げて、しげしげと眺める。

「何だよ、自分は帰って来て、食うだけのクセして」

「仕方ないでしょ? サークルの撮影、押しちゃったんだから」

「わたしは、美味しいと思うよ」

「美加は、やっぱり可愛い子だ。 利知未先生、厳しいんだよ」

「ずっと前、わたしも包丁の持ち方、教わったよ? けど、怖くなかった」

久し振りに利知未に会えて、美加は嬉しそうだ。 ニコニコと食事をする。

「冴吏は、また原稿か?」

「サークルの脚本に、時間取らせちゃったからな。 締め切り近くて大変そう」

「連載、始まったのか?」

「四月号からね。 面白いよ」


 冴吏の連載作品の、主人公のモデルは利知未だった。 男っぽいアウトローなヒーローが、活躍している。

 掲載された雑誌を読んでいた秋絵が、思い出して含み笑いをした。


「読書してる暇も無いからな。 その内、本が出来たら、読んで見るか」

「楽しみにしていなよ。 第一話、大好評らしいから」

 内容は全く説明をしないで、秋絵がニコリと笑った。



 倉真は仕事の後、食事も取らずバイクだけアパートへ置き、真っ直ぐにバッカスへ向かった。 約、二ヶ月振りで利知未に会える。

「宏治、何か食いモンないか?」

 七時半頃、現れた倉真に、早速、言われた。

「アダムの定休日だな。 ピラフで良いか?」

「上等だ」

カウンター席へ腰掛け、お絞りを使う。


 去年の六月から、今年の三月。 利知未が手伝う金曜のバッカスへ、毎週、倉真は飯を食いに来ていた。 その名残で、少しは腹の足しになるメニューも、通常メニューへ組み込まれる様になっていた。 評判が、良かったからだ。

「何か食事の代わりになるメニューが有ると、助かるな」

定期的にやってくる、単身赴任のサラリーマンが、そうリクエストをした。

 それを切っ掛けに、業務用の冷凍ピラフぐらいは、常備して置くようになった。 フライパンだけあれば調理は可能だ。 金額も、殆どサービス価格だ。

 現在、それが中々、好評である。


 宏治が用意したピラフを食い終わる頃、利知未が来た。

 お互いに、心の底からは嬉しいと思う。

 けれど、宏治や顔見知りの常連達の手前だ。 何でもない顔で、昔と同じ様に自然とカウンター席へ掛ける。

「いらっしゃいませ。 久し振りですね」

「そうだな。 まだ仲間用のボトル、置いてるか?」

「勿論、置いてありますよ」


 茶目っ気で、ネームプレートにFOXと記入されているキープボトルを用意する。 アイスとロックグラスも、同時に出す。

 利知未達の繋がりは、当然FOXだ。

 宏治を除いて、倉真、準一、和泉は、利知未が出演しているライブハウスで知り合った。 ボトルのネームは、その象徴みたいなものだ。


「倉真も、久し振り。 乾杯」

宏治にも、水割りを用意して、三人でグラスを合わせた。

 こっそりと、カウンターの下で、二人は手を繋ぐ。


 左手でグラスを掲げた倉真に、宏治は気付く。 敢えて、気付かない振りをして、ポーカーフェイスを貫いた。 カウンターに立つ者の、礼儀だ。


 宏治の気遣いは、二人には通じる。 繋いだ手に、力を込めた。


 利知未は明日、朝から病院だ。 終電の時間もある。 十一時半頃、バッカスを出た。

 倉真は勿論、駅まで送る。 久し振りに、二人きりの時間を持てた。


「終電だけなら、十二時過ぎまであるけどね」

 店を出て、腕を組んで歩きながら、利知未が言った。

「やっぱり、帰るのか?」

「…明日、早いから」

「…そうか」

酒も入り、倉真と二人きりで、利知未の雰囲気が女らしくなる。

「……けど、二人きりに、なりたかったから」

「二ヶ月ぶりか」

「だね。 …結構、シンドかったな」

「俺もだ」

短く答えてから、少し慌てて付け足した。

「悪い」

「どうして?」

「俺が言ったら、駄目だろ?」

「…そんな事、無いよ。 嬉しい言葉だ」

倉真の顔を見上げて、ニコリと笑う。 倉真の足が止まる。

 絡めていた腕を優しく解き、利知未を引き寄せて、抱きしめる。

 利知未は素直に、倉真に身を委ねる。


「…お前の誕生日、必ず会おう」

 無言で、小さく頷いた。 暫く、そのまま抱き締め合っていた。


 利知未が顔を上げ、二人の視線が合う。 人通りも殆ど無い。

 少し長い、キスを交わす。


 唇を離して、暫く見詰め合ってしまう。

 倉真は、また、利知未を抱きたい心境に駆られる。


 利知未は、疼く気持ちも勿論、感じる。 それでも、焦る気持ちを抑える理性も働く。 二人きりでいられる瞬間に、今まで以上に幸せを感じた。


 利知未の背中に回している腕を、中々、収めることが出来なかった。

 再び力が入り、利知未が少しだけ身動ぎをする。

「……倉真、痛いよ」

利知未に囁かれ、漸く腕の力を緩めた。

「…悪い」

利知未は小さく、首を横に振る。

「こうしているの、……嬉しいけど。 …終電、間に合わなくなっちゃうよ」

「……そうだな」

ゆっくりと、利知未の身体を開放した。その細い肩に、手を回す。

 利知未は、倉真の肩へ、軽く頭を預けた。 ピタリと、寄り添って歩き出す。



 駅の改札前で、終電に間に合うぎりぎりまで話していた。

「……本当に、遠距離恋愛みたいだな」

「誰かに、言われたのか?」

「朝美に昼間、からかわれたよ」

「…似たようなモンだろ」

「…そうだね。 ……時間は、距離と同じだ」

 昔、敬太と別れた時、感じた想いを改めて実感してしまった。

「……そうかも知れないな」

 呟く倉真の言葉に、利知未は思う。

『けど、あの頃よりは、倉真のこと、信じてる……』

信じられている。


 それは、ここまでの長い時間を、仲の良い仲間として一緒に過ごして来られた、倉真が相手だからだと感じる。

『倉真と知り合ってから、もう直ぐ八年。 ……敬太と付き合うまでは、たったの一年。 全部合わせても、たったの二年十一ヵ月……』


 改札を入ってしまえば、また暫く、会えなくなる。

 それは勿論、寂しいし、少し辛いとも感じる。 けれど相手が倉真なら頑張れると、自分を励ます。

「……そろそろ、行かないと」

「そうだな、気をつけて帰れよ。 ……着いたら、遅くても構わない、連絡してくれ」

「分かった。 …また、来月に」

「遅くなっても良い」

「うん。 …電話で、時間とか決めよう?」

「ああ。…じゃーな」

「後で、電話でね」

 お互いに、軽く頬へキスを交わして、別れた。


 利知未の姿が改札内へ消えて、姿が見えなくなるまで、倉真は見送っていた。

 姿が消えてしまう前に、利知未が軽く振り向いて小さく手を振った。

 片手を上げて合図を返して、タバコを銜えて歩き出す。


『時間は、距離と同じか……』

タバコへ火を着け、薄く煙を吐き出す。

 利知未の言葉を、心の中で呟いた。




            六 


 大学では学食で透子と。 病院では、香と仲良く昼食を取る。

 笹原は、あの夕食の後も時々、利知未を誘うようになって来ていた。


 笹原と出掛けた時は、やはり少し緊張する。 けれどやはり、邪険にはし難い感じだ。 笹原は医師として、才能が有ると見た後輩を指導してくれる、良い先輩医師の顔を崩さない。

 利知未に対して打算的な計算が働いていた事は、全く気付かせる事も無かった。


 時間がある時には、利知未の国家資格取得のための知識吸収に、よく力を注いでくれた。 その点で利知未は、感謝をしてはいる。


 笹原とは、五月の下旬のあの日以降、一度だけ食事をした。 利知未が、堅苦しい所は得意では無いと断っていたので、気楽な店を選んで誘う。

 普段から外食が多い笹原は、グルメ情報に聡かった。

『確かに、高過ぎると言うことも、無いけど…。』

 医者の給料なら他愛の無いような金額も、月々三万から四万の小遣いを遣り繰りしている利知未にとっては、やはり少々、高い感じがする。

 勿論、笹原は奢ってくれるが、それはそれで、続き過ぎるのもどうかと思う。 三回に二回は、断りを入れていた。


 相変わらず、倉真とは週に二、三度、電話で話すのが精精の所だ。

 必ず電話が出来るのは、木曜だ。 それ以外は、その時々でまちまちだった。


 翌週の水曜日が利知未の誕生日という頃になって、漸く当日の時間と待ち合わせ場所を決めた。

 倉真は五月下旬のあの日から、押さえの利かない気分になっていた。

『俺の前に居る時だけ、見せる利知未の仕草や、雰囲気は……』


 初めてセガワに会った頃、そして、その正体を知ってから。

 長年、見続けてきた利知未と、確実に違うと思う。


『可愛い所も、かなりあるけどな。……どっちかってーと、色っぽい感じだ』

 彼女の事は、よく知っているつもりだっただけだと、今更、思う。

『全く見せようとは、しなかった。 アイツは』


 知らなかった事を一つずつ見つける毎に、愛しいと感じる想いが強くなる。 その想いが積もって、今、彼女を抱きたい思いに駆られる。


『……俺は、独占欲が、意外と強いヤツだったみたいだな』

 利知未の全てを、自分だけの物にしたいと、本音部分が要求している。



 あの日。 バッカスから駅まで、利知未を送った夜。

 本気で、彼女を引き止めたいと思っていた。

 自分の部屋へ連れて来て、朝まで二人で過ごしたいと、強く感じた。


『けど、無理矢理あいつを抱くのは、……違う』

力任せに襲い掛かるような真似は、どんな事があっても、してはならない。

『……あいつを、傷つける事になったり、するのか?』


 既に二十歳を超えて、十分、大人の関係を求めても可笑しく無い歳なのは、確かだ。

 それでも、倉真の希望的観測として、利知未にはそう言った経験が無いことを、無意識に祈ってしまう。


 そんな希望を持っている自分に、気付いた時。

 自分は本当に独占欲の強い男だったんだなと、感じてしまう。


 もう、我慢は出来ないだろうと、悟る。



 六月二十三日。 利知未のバイトが確実に終わる、夜九時半に待ち合わせた。

 利知未は電車を使って、十年間暮らした下宿がある街の駅前にある、深夜まで営業している、喫茶店へ向かう。

 以前、由香子の事を、由美の思い出と共に、初めて美由紀に話した場所だ。


 今夜、これからどうなるのかは、既に予想している。 バッカスも、アダムも、二人にとっては馴染み過ぎて、今夜の約束には、照れ臭いと感じた。


 先に到着していた倉真を、店内の片隅にある喫煙スペースに見つけた。

 利知未は、ほんの三週間ぶりに見た倉真の、身体の大きさを再確認してしまう。 昔、見た二人掛けの小さなテーブルが、縮んだような印象だ。

『前、向かい合って座ったのは、美由紀さんだからな…。』


 子供の頃、凄く大きく見えていた公園の遊具が、大人になって見てみると、小さくなった様な印象を受けるのと、似ている。

 可笑しな感慨に、軽く頬が緩む。


「お待たせ」

 微笑を見せて、倉真の前に立つ。

「おお」

倉真は銜えタバコで、ぼんやりと考え事をしていた。 利知未に声を掛けられて、気が戻った。 タバコを銜えたまま声を出して、灰を落としてしまう。

「何、考えてたんだ?」

「…プレゼント、見付からなかった言い訳を、考えてただけだ」

小さくなったタバコを灰皿で揉み消しながら、倉真が答える。

「時間が、プレゼントだと思ってるけど?」

「時間?」

「倉真と、誕生日を一緒に過ごせる時間。 ……明日も仕事、早いだろ?」

前の席へ腰掛ける。

「それで良いなら、いくらでも睡眠時間削って、時間を作るぜ?」

「馬鹿言わない。 身体、壊すぞ」

「そーなったら、お前に直してもらえば良い」

「残念、担当が違います」


 利知未は、くだらない事を話して、リラックスしている自分を知る。

『笹原先生に誘われてる時は、絶対に有り得ないな。』

当たり前だとは思うが、そんな事を感じた。


「飯、まだだよな。 どうする?」

「この時間からじゃ、居酒屋かファミレスだな」

「誕生日に居酒屋ってのも、何だな」

「ファミレスに、移動しようか?」

「そうだな」

 灰皿と空のカップを持って、倉真が立ち上がる。 利知未も立ち、店を出る。



 近くのファミレスへ入り、軽く食事を取った。 この時間に大食いをしては、贅肉の元だ。 利知未は必死になってダイエットをするタイプでもないが、健康管理には、流石に気を配っている。

 取り敢えず、ビールで乾杯だけはした。 利知未には、倉真の明日の仕事への影響も心配な所だった。

 食事をしながら、倉真が何気なく言う。

「今日は、帰るなよ」

「足が無いから、泊めて貰わないと、野宿しないとならないよ」

構える気持ちは、初めからない。 利知未も、倉真と同じだ。

 ……そろそろ、理性を超えた想いが、疼き出している。

『やっぱり、中々、会えないから……』

信じてはいるけれど、勿論、不安もある。

 それ以上に、元々、それで愛情をより強く感じる性質を持っている。


 店を出て寄り添い歩きながら、自然に倉真の部屋へと、二人の足は向いた。



 部屋へ上がり、改めてウイスキーで乾杯をする。 既に十二時近い。

「漸く、お前をこの部屋へ連れて来れたな」

「前にも、来てるよ?」

「関係が、違った」

「…そうだね。 じゃ、あたしも始めて、ココへ来た」

倉真の気持ちに、利知未も同調する。

 キッチンではなく、ベッドの側面へ寄り掛かるようにして、寄り添っていた。


 ふと有る事を思い出して、倉真が言い出した。

「聞かせたいCDが、あったんだ」

「どれ?」

倉真は立ち上がり、一枚のコンパクトディスクをCDラックから取り出す。

「ココは、防音設備が整ってネーからな。 流石に、この時間じゃ掛けられないな。 コイツ、俺が昔、好きだったバンドのギターが、ソロで出したカバーアルバムだ」

再び隣へ座って、タイトル欄を見せる。

「3曲目の曲名、見覚えないか?」

「……これ、いつか、あたしが倉真に教えた、あれか!」

「そうだ。 聴いて、驚いた。 久し振りに買ったCDに、これが入ってた」

倉真がそう言って、嬉しそうな笑顔を見せた。

「……懐かしいな。 聴きたい所だけど」

「やるよ。 開封してあるヤツでワリーけど、プレゼント代わりだ」

「本当に、いいのか?」

「ああ。 ダビングしてある」

「ダビングした方で、いいよ?」

「思い出したんだ。 何時か、お前が言ってたこと」

 軽く首を傾げる利知未に、優しい笑顔を見せる。

「条件が漸く揃ったからな。 ……恋人に貰うなら、相手が好きな音楽CDでも、お前は嬉しいと思うって、言った事があったよな?」

「……あんな前の事、覚えてたんだ」

 心から嬉しいと感じて、利知未の雰囲気が、今まで以上に柔らかくなる。

「思い出した」

「…ありがとう。 ……凄く、嬉しいよ」


 柔らかな微笑を交わし、キスを交わす。

 寄り添い、暫く、幸せな沈黙が落ちる。


「……ね、シャワー、借りてもいいかな?」

 何と無く照れ臭そうに、利知未が聞いた。

「その時間が、惜しいな」

「汗臭いよ。 バイトの後だし、今日、蒸し暑かったし」

「…構わない。 …どうせ、汗、掻くだろ?」


 もう我慢は、利かないと感じる。 確りと抱き寄せて、唇を重ねた。


「…倉真、言い出したら、聞かないよな」

「良く解ってくれてるな」

 そのまま利知未の首筋へと、倉真の頭が移動して行く。

「……ん、イイ、よ。 ……抱いて、くれる?」

「我慢の、限界だよ」


 倉真の行動を、利知未は素直に、受け入れた。

 首筋から胸元へと唇を這わせながら、利知未の服へ、手を掛けた。


「……この姿勢じゃ、座卓、蹴っ飛ばしちゃいそう」

 利知未の囁き声に、その身体を半分、持ち上げるようにして、ベッドの上へ移動した。

『……力強い……』

倉真の行動に、利知未は改めて、二人の力の差を知った。


 ベッドへ横たえられ、倉真の身体を抱きしめた。

 倉真は利知未の身体を、慎重に探り始めた。


 ……利知未の息が、微かに漏れる。

  愛撫され、敬太との始めての夜が、フラッシュバックしてくる。


『………倉真は、あたしにとって、二人目の……、恋人…』

 丁度、七年前だ。 利知未が、十六歳になった夜。


 今夜、二十三歳の誕生日。

『……今は、倉真の事だけ、感じていたい……』


 漸くお互いの想いが、遂げられた夜。


 自分の身体を夢中になって探っている、倉真の背中に回した腕へ、切ない想いを込めて抱しめる………。



 利知未の敏感な反応に、綾子を始めて抱いた夜を、思い出す。

『……やっぱり、利知未は』

 初めての経験と言う雰囲気は、けして、感じられない。


 ジェラシーを感じる。

『……そりゃ、そうだよな』  納得し切れない思いを、打ち消すように。

 ただ、夢中で利知未の身体へ、没頭して行った。


 手を下へと移動して行き、利知未の身体の状態を知る。

「……ちょっと、恥ずかしいよ」

零れる吐息の狭間に、利知未の囁き声が聞こえる。

 手の動きに合わせて、切なげな声が上がる。


『……もう、無理だ』


 ……早く、彼女を抱きたい……。


 二人の身体が、ゆっくりと、一つになっていく。


 約、二年半振りに、利知未の身体は、異性の身体を受け入れた。


 一瞬だけ違和感を覚えて、声が詰まる。


「……痛い?」

「…大、丈夫…。 …直ぐに、……から……」


 直ぐに繋がった場所から、悦びが身体を走り始める。


『……かなり、敏感なんだな』

利知未の反応に、無意識の奥で、そう感じる。

 同時に、どうしてもジェラシーに似た感情も、湧き上がる。


「利知未」 名前を繰り返して呼んだ。


 今、腕の中に居る彼女を、本当の意味で自分だけの物へとする為に。


「……倉、真……」

 彼の呼び掛けに、応えるように。 利知未も繰り返して、名前を呼ぶ。

『……今は。 ……昔の思い出に、蓋をして』


 倉真の想いだけを、その身体に刻み付ける。


 徐々に、動きが早くなり、二人で同じ悦びを分かち合った。


 求め合い、一度身体を離して、息遣いだけが静かな部屋を埋める。


 漸く利知未を自分の物にすることが出来た喜びと、始めてではなかった事実に疼くジェラシーを一端、収めた。


 利知未の頭を、自分の腕の上へ移動させる。

 利知未の身体が、横向きになって、倉真の顔を、そっと覗き込む。


「……ショック、だったかな……?」 

囁くように、利知未が聞いた。

「……少し、な」

正直に答えてしまって、自分の言葉に、少しの嫌悪感を覚える。

「……そっか」


 ……倉真の想いは、解ると思う。


 恐らく彼の中で、自分に対するイメージに、過去の恋愛経験を想像する事は難しいのだろうと、感じる。

 少しだけ悲しい気分に囚われて、利知未は身体の向きを変える。


 倉真の腕が肘から曲がって、利知未の胸を軽く愛撫する。

 ピクリと反応して、息が漏れる。 手が止まり、倉真が言う。


「……気にする事じゃない。 この歳で経験無かったら、返って驚いたよ、多分」

 自分にも言い聞かせている部分がある。


「……そうだね」

 その心を敏感に感じて、利知未の心が微かに揺れる。


『……昔のコト、……倉真には、話した方が、イイのかな?』


 倉真に全てを解って貰いたい気持ちと、やはり言えないという思いが、利知未の心を揺らしている。


 利知未の頭を優しく枕の上へ移動し、向きを変え、その瞳を覗いた。

「それでも、今は。 俺だけの利知未だ」


『……負けず嫌い……? けど…、凄く、……嬉しい』

 何故か、目頭が熱くなった。 ……彼の言葉に、感動をしたのかもしれない。


 その思いは口にはせず、代わりに倉真の唇を求めた。

 倉真が応えて、キスを交わす。


 再び、お互いを強く求め合う。

 それから繰り返し、お互いを求め合った。


 何年間も、心の底では求め合っていた事実を、お互いに実感した。


 数年分の想いを、今夜で全て、埋め合わせようとしている様だ。


 抱く度に、倉真は利知未を、自分の物へとして行く。

 抱かれる度に、利知未は倉真を、実感として受け入れていく。


 繰り返し、繰り返し。


 会えなかった時間を埋めて行く。

 求めて、叶えられなかった思いを、塞いでいく。



 翌朝、くたびれ切っていた利知未は、確りと目を覚ませなかった。

 夢現に、倉真と朝、キスを交わした。


 鍵を置いておく場所を、まだ半分眠っている利知未へ告げた。

『大丈夫か?』  ちゃんと、覚えていられるのか?

 少しだけ不安になったが、それ以上に寝ぼけ眼の利知未を、愛しく思う。

『ま、帰ってきた時、まだ利知未が居てくれても、嬉しいけどな』

 思いながら、適当に飯を済ませて、仕事へ向かった。



 十時過ぎになって漸く目覚めた。 倉真がちゃんと仕事へ向かったらしい事を知って、ホッとした。

 手紙を置いて、倉真のアパートを後にした。


 ……次に会えるのは、いったい何時になるのか?

 電車に揺られながら、今まで以上に、会えない時間の辛さを感じた。




            七


 倉真の事を思って、溜息をつく瞬間が増えている。

「どうしたの? 浮かない顔、してるじゃない」

病院での実習日、七月一週目の、金曜日。

 昼食の途中で、香から突っ込まれてしまった。


「…チョイ、ココじゃ話し難い感じだ」

病院の食堂だ。

 日替わりメニューのカレーを前にし、利知未のスプーンは、ライスを無意味に突き崩す。

「じゃ、今夜、飲みに行こうか?」

「そー、だな。 そうして貰えると、助かります」

随分と仲良くなった香とは、敬語が崩れ易くなっていた。

 場所を考えて、病院内では一応の言葉遣いで話をする。

「佐助でいいか」

「いいですよ。 けど、終わるのは八時です」

「いいわよ。 明日、私は休みだから。 適当に時間、潰してるわ」

「どうも。 じゃ、終わったら、直接行きます」

取り敢えず、あまり進まない食欲を無理矢理、押えつける。 半分、水で流し込むようにして食事を終えた。


 午後四時半までは実習時間だ。 利知未を教育してくれる医師は、基本的には笹原ではなく、年配のベテラン外科医だ。 穏やかな人柄だった。

 手術を見る機会があると、その普段の穏やかさを感じさせない様な厳しさを見せる。 何時か手術見学の後、利知未に言った。

「判断力と決断力、集中力が大事です。 勿論、すばやい処置も。 何百回、何千回やっても、手術(オペ)に慣れ切る事は有りません」

それまでの厳しさがすっと引っ込み、穏やかな表情をしていた。


 笹原も、利知未の教育を担当する医師には、一目置いている。

「瀬川さんは、幸せですよ。 塚田先生に教育して貰えて」

 自分も、あの人柄は尊敬しているのだと、言っていた。


 五時から八時はバイト時間だ。 今日も書類の整理が忙しい。

 仕事中と実習中は、どうしても倉真の事を思う余裕も無い。

 自然と、休憩時間や昼食時間に、物思いに耽る姿を目撃されてしまう。 つまり、香の前では、溜息をつく瞬間が増えてしまう。



 八時半前に、香と待ち合わせの居酒屋『佐助』へ到着した。

「お疲れ様」

「お疲れ様」

小さなボックス席で、香が待っていた。


 バッカスの倍ほどの広さの店だ。 居酒屋としては狭い方だろう。 病院から近過ぎず遠過ぎずの、都合の良い立地だった。 二人で飲む時は大体ここだ。


「取り敢えず、中生でいいか」

お絞りを使いながら、利知未が言う。

 店員が直ぐに突き出しと中生を運んで来た。 乾杯して飲み始める。

「腹、減ったな…。 お結びと、味噌汁ありますか?」

「梅、鮭、明太タラコ、昆布です。 どうしますか?」

「明太と、昆布で」

「畏まりました!」

直ぐにオーダーを取って、引き返していく。


 他にも二、三の摘みをオーダーして、二杯目からは焼酎に切り替える。

「バイク、どうするの?」

「飲み過ぎないようにすれば、平気かな」

「強いわよね、利知未さん」

「酒豪って、言われる」

「ところで、最近の溜息は、どうしちゃったの?」

「…そんなに、目立ちますか?」

「お昼中に、5回は付いてたわよね」

「正の字書いて、数えてるんですか?」

「気になるわよ? 意外と」

「…済みません」

「どーいたしまして」


 それから、もう暫く酒を飲み、少しだけ香に話しをした。

「成る程、彼の休みが土日じゃね。 溜息も出るか」

「…前は、そうでもなかったんだけど」

「そーね。 先週くらいから? 溜息が良く出るようになったの」

「…ですね」

「そう言う理由で上手く行かなくなっちゃった人も、知っているからな。 結構、辛い所よね」

「香さんの薬局は、日曜休みですよね」

「土曜も、結構休めるわよ? だから、何とか持ってるみたい」

 何とか、という言葉に反応する。

「それでも、何か有るんですか?」

「私の場合は、彼の性格に問題アリね」

「趣味に生きるタイプ、ってこと?」

「それが一番かな。 真面目に仕事、してないのよ。 有給休暇は、毎年使い切ってるわね」

「遊びに行っちゃうんだ」

「そう。 だから、同期に先を越されちゃうのよ」

「出世に、あまり執着しないだけでしょう?」

「良く見れば、そうなんだけど」

 酒を飲んで、香が言う。

「って、私のコト話して、どうするの? 今日は利知未さんの悩みを、聞きに来たんだから」

言われて、もう少しだけ酒を飲む。 原因は解っていることだ。


 倉真との関係が進み、比較対照する状態が出来てしまった。

 今までは中々、会えないのもある意味、仕方が無い事だと思えていた。 けれど、お互いの肌を許しあった、あの夜から。 ……近くに居る、彼の存在を実感出来たから。

 前より余程、一緒に居たい想いが、強まってしまった。


「……もう少し、我慢した方が良かったのかな」

「それは、不健康でしょう」

「不健康、ですか?」

「そう思うけど。 だって、本当に好きなら当然でしょう?」

「そりゃ、そうですけど」

「彼氏が、可哀想だと思うし」

「……言えるかも」

 倉真の、かなり旺盛な精力も、実感してしまった。

「…変な事、聞いていいかな?」

「何?」

「普通、何回戦までなら、いける?」

目を丸くして、香が赤くなる。

「また、凄い質問ね。 ……そんなに、激しかったの?」

「と言うか……、体力が、あるから」

自分から聞いておきながら、利知未も赤くなってしまう。

「……普通、多くても、2回?」

「…やっぱり、そんなものかな。 ……十代の頃は、…回はしないと満足出来なかったけど」

最後の呟きに、香がまた目を丸くする。

「早熟だった訳だ」

「……それも、よく突っ込まれる」

益々、照れ臭くなって、無言で酒を飲む。

「ま、兎に角、飲んで気晴らし!」

言って、香が店員を呼ぶ。 面倒で、焼酎のボトルを入れてしまった。

「どうせ、チョコチョコ飲みに来るし。 良いわよね?」

「良いんじゃないですか?」

 佐助にも、キープボトルが出来てしまった。


 そこそこ飲んで、店を出たのは、十時過ぎだった。 利知未は最後の一杯をウーロン茶にして、軽く酔いを冷ましていた。


 店の外で、バイクに手を掛ける。

「飲んでなければ、後ろ乗せて行けるけどな」

「駅まで近いし、大丈夫よ」

言っている傍から、酔っ払いが店に入る時、香にぶつかって因縁を付けた。


「…おう! 危ネーじゃねーかぁ? あん? 綺麗なオネーちゃんだな!」

 酔っ払いは信じられない力で、香の腕を掴む。

「痛い! 離して下さい!」

「ぶつかった詫びに、酒、付き合えよ? …お、あん…???」

利知未がバイクを離れて、酔っ払いの肩を叩く。

「オッサン、飲み過ぎだ」

「何だぁ? オネーちゃんの、コレかぁ?!」

シャックリをしながら、香に小指を立てている。

「利知未さん!」

カチンと来て、反射的に利知未の合気道が発動してしまった……。

「ウルせーんだよ!」

 酔っ払いは、綺麗に投げ飛ばされてしまった。


 香の腕を掴んで、バイクへ半分、無理矢理、乗せてしまう。

「本当は、飲酒運転ではしたくないけど……。 また何かあったら、危ない」

ヘルメットを香に渡して、ノーヘルで跨ってしまう。

「大丈夫なの? こんな事して」

「駅まで、三分って所だし。 警察の前、通らない様にするよ。 確り捕まっててくれ」

男っぽい素が出て来てしまう。

 香は頷いて、素直に送ってもらった。


 警察派出所の無い駅南に、バイクをつけた。

 利知未はスタンドを駆けて、先に自分がバイクから降り、香に手を貸し、バイクから降ろしてやった。

「怖かったけど、気持ち良かった」

「だろ? だから、バイクは止められない」

「利知未さん、こっちが、本性なの?」

「……内緒で」

人差し指を口の前に当て、軽くウインクをする。

「OK。 さっきは、ありがとうね。 格好、良かったわよ?」

「女に格好イイって、褒め言葉なのかな?」

自分に呆れて、呟いてしまった。

「褒め言葉、褒め言葉。 じゃ、また来週、病院でね」

「お疲れ様」

 軽く手を振って、改札へ向かう香を見送って、再びバイクへ跨った。


 帰宅して、風呂へ入って眠ってしまった。

 今日は、勉強時間を取るどころではない。 疲れてもいた。



 翌朝、九時頃に目を冷まして、洗濯と掃除を片付けた。 洗濯機を回している時間、倉真へ連絡をする。

 今月のシフトを改めて見て、再来週の祝日ならば、倉真に会える事を知った。

「って言っても、一日だけだからな」

「久し振りに、走るか?」

「そうだね」

「朝、迎えに行くよ」

利知未の連絡を受けて、倉真は嬉しそうだった。


 倉真の休日は、日曜・隔週土曜と、祝日だ。 流石に病院も、祝日は学生の実習を受け入れない。 それで漸く、時間が合った。



 七月二十日、平日の祝日。 朝、利知未のアパートまで倉真が迎えに来た。


 外階段を下りながらの質問に、利知未が答える。

「夏休みも、バイトは入るんだよな?」

「金は必要だし。 勉強にもなる訳だから、我侭言ってる場合じゃ無いよな」

あの夜からは、三週間以上の時間が経っていた。

「仕方が無い、か」

軽い溜息を聞いて、利知未が気分を変えるために、話の向きを変える。

「今日は、どこまで行く?」

抱え持っていた雑誌を、倉真に一度預けて、バイクのカバーを取りさる。

 倉真は雑誌を、勝手にパラパラと捲ってみた。

「そーだな。 箱根は、この前のツーリングで行ったな」

利知未が思い付いて、倉真から雑誌を返して貰いながら言う。

「……伊豆の方、行ったら遅くなるかな…?」

受け取った雑誌をパラパラと捲る。

 伊豆の観光スポットを紹介してあるページで止まる。 地図のページを確認して開く。

「伊豆か、イイかもな」

あの辺りにも、思い出がある。


 岩場でイソギンチャクの食事風景を見てしまった利知未の、あの時の可愛く見えた表情を思い出した。


「国道1号を走って、135で下ろう。 途中の小田原城で、少し長く休憩しながら、チョコっと観光でもしてみようか?」

「何時も、その雑誌を見てるのか?」

「タマにね。 今度ツーリングへ行けそうな時は、どの辺りを走らせたいかって、考えながら眺めてたりするんだ」

「成る程」

「結構、便利だぜ? 普通の地図も見るけどな」

サイドバックへ雑誌を仕舞いながら、利知未が言った。



 休憩所に決めた小田原城まで、ノンストップで走った。

 バイクを駐車場に止めて、天守閣公園を目指して、手を繋いで歩き出す。 擦れ違う観光客の目が、少しだけ気になった。

「…ジャケット、脱いで来れば良かったな」

「暑くないのか?」

「日焼け、したくないんだよね」

「気にしてたのか?」

「意外そうな声、出さないでくれよな」

利知未が軽く膨れる。 可愛く見えて、笑ってしまう。

「そーイヤ結構、白かったな」

一ヶ月近く前の、あの夜を思い出してしまった。


「……倉真、何時の事、思い出してるんだよ?」

利知未が横目で、倉真の少しにやけ掛けた表情を見た。

 倉真は、利知未の視線に気付いて、空いている手で鼻の下を覆う様にして隠す。

「…スケベ」

「健康すぎて、タマに持て余すよ」

繋いでいた手を離して、利知未の肩を抱いて、引き寄せた。

 幸せを感じて、利知未の頬には微笑が浮かんでくる。 手を倉真の腰に回して、寄り添いながら歩いた。


天守閣公園には、売店と遊具と、何故か巨大な動物達が居た。


 一種類は象だった。 それにも驚いたが、更に利知未は驚いて、ある動物の策へと駆け寄ってしまう。

「何で、こんな所に象と、……キリンまで居るんだ?!」

子供に戻ったような、はしゃいだ声を上げる。

「さぁ…。 どーしてだろうな?」

利知未の肩へ回していた手の行き場を失って、ポケットのタバコへ手を伸ばした。

 振り向いた利知未が、ぷ、と剥れる。

「倉真! 灰皿、あっちだぞ?」

「悪い。 後にするか」

ポケットへタバコを仕舞い直した。


 改めて策に寄り掛かって、キリンへ手を伸ばしている利知未の隣へ行く。

「キリンって、やっぱり首が長―な! 当たり前だけど」

近くへ子供のキリンがやってきて、利知未の手へ鼻面を押し付ける。

「くすぐったい…! 全然、人間を怖がらないよ?」


 まるで、小学生に戻った様な利知未を見て、倉真の心に、何故かチクリと針が刺さる。

 キリンの子供が親元へ戻って、利知未は手を引っ込めた。


 首を傾げて、倉真の横顔を少しだけ覗き込む。

「……何を、考えてたんだ?」

「何って…、…また、新しい表情、見せてもらったなって、さ」

「それだけじゃ、無いだろ?」

「…どうして、そう思った?」

「何と無く、伝わるんだよ。 ……こんなに、傍に居れば」

 倉真の腕に、優しく触れた。 寄り添い、じっと見つめる。

「…お前の目は、千里眼か?」

「好きな相手の事は、よく、見てるんだよ?」

倉真の瞳を覗き込んで、利知未が言う。

「だから、微妙な変化だって、見逃したくないんだ」


 利知未の表情に負けて、倉真は何に対してジェラシーを感じてしまったのか、白状してしまう。


「馬鹿みたいなことだ。 ……お前が、見せてくれる新しい顔は、…裕一さんの前では、当たり前に出ていた表情なんだろうなって、そう思った。 ……見っともネーな。 焼餅、焼いちまったみてーだ」

「……本当に、馬鹿。 今のあたしは、倉真だけのものじゃ無かったのか? 嬉しかったんだよ、あの言葉。 ……兄貴は兄貴、倉真は、倉真」

 倉真の腕に自分の腕を絡めて、益々ピタリと寄り添った。

「これから、ずっと一緒に居てくれるんだろ? ……裕兄とは、十四年も一緒に居たんだ。 倉真とは、まだ十年も経ってない。 ……これから、もっと沢山、見つけてくれよ? ……あたしが素直になれるのは、倉真の前だけなんだから」


 キスを交わしそうになり、邪魔が入る。 利知未は、やはり女に見えていなかったらしい。女子高生の声に、利知未が小さな溜息をついた。


「気にするな。 ……俺には、ちゃんと女に見えてる。 見せ付けてやろう」

徐々に好奇な目を持ち始めた周りの観光客の目も無視して、利知未の顎を上げ、キスをした。 ……態と、深く、長く。


 途中で正体をばらして、三三五五散っていった観光客に、小さく舌を出す。 二人で、小さく笑いあった。


「けど、やっぱ、次は間違われないように気を付けよう」

 呟く利知未に、倉真が言う。

「男に見えていた方が、安心かもな」

「どー言う意味?」

「悪い虫が、着かないで済むだろ? 中々、会えなくても」

「そー言う風に、取るのか。」

寄り添いながら歩いて、バイクへ向かっていた。

「…寄ってくか」

「…だね。 さっきのキスで、すっかり我慢、出来なくなっちゃったよ」


 利知未は少し、恥ずかしげに顔を背けた。 その額辺りへ、倉真が軽くキスをする。

 隣を擦れ違っていった観光客が、奇異な目を一瞬向けた。


「け、勝手に見てやがれ」

 小さく呟いて、倉真が後ろを歩き去っていく観光客へ舌を出す。

「…面白いな。 ……倉真」

呼びかけて顔を向ける倉真の唇へ、利知未が軽くキスを返した。


 また違う観光客が、慌てて隣を通り過ぎる。

 小さく笑って、腰を抱き合うようにして歩き出す。


 帰り道、結局二人は伊豆まで行かず、途中のホテルへ寄って行った。





           八


 倉真と会った日、既に大学は夏休みに入っていた。 それでもバイト学生として、病院には通っている。 次に会えるまでの、その間に。

 利知未は香に相談をし、決心して産婦人科を受診する事にした。


「妊娠したって、訳じゃないんでしょ?」

「…そーだけど。 倉真の癖が、ちょっと不安要素だ」

「避妊、しないの?」

「……結構、勢いでそのまま、やっちゃうな」

「お暑い事で」

「香さんの彼氏は、ちゃんと避妊するのか?」

「それ以前ね。 ……最近、ちょっと上手く行ってないから。 けど、避妊はしてくれてたわよ」

 途中の呟きが、利知未には気になった。

「まぁ、そうね。 最近はピルも頼りになるようになって来たから。 備えあれば憂いなしって言うし。 ただ、生理の周期は変るかもしれないわよ?」

「副作用って、やつ?」

「排卵を抑制する訳だから、乱用は良くないわよね。 でも、月に一度か二度しか会えないのなら、ピンポイントで服用するようにすれば、大丈夫じゃないかしら?」

「そうか。 じゃ、決心して、受診してくるか」

「火曜日がお勧めね、午前中。 滝川先生だから、女性だし相談もし易いと思うわよ」

「サンキュ。 じゃ、来週にでも受けてみるか」

朝からバイトへ入った日の、昼食時間だった。


 病院の食堂ではなく、偶に行く店で、二人で食事をしていた。

「折角、夏休みに入ったのに、相変わらず土日が多いのね」

「バイト? ま、金には、なるよな」

「平日にして土日に休み貰えれば、もっとデートも出来るでしょうに」

「少しくらい相談には乗ってくれるみたいだけど。 …あんまり、こういうことを理由にして、融通利かせてもらうのは、好きじゃないし」

「私しか、あなたに彼氏がいるコトは知らない訳だ」

「…なるべく、内緒で」

「利知未さんには、内緒が多いわね。」

「アンマ、真面目に生きて来なかったからな。 医者になれなくなる」

「そんなに犯罪チックなこと、して来たの?」

「伊達に喧嘩上等な訳じゃ無いのは、確かだ」

少しおどけた利知未の言葉に、香が軽く吹き出した。

「随分上手に、猫を被っているものよね」

「顔も性格も、猫タイプみたいだから。 …昔、恩人にも野良猫って言われたコトがある」

「野良猫? ヤンチャな野良猫ね」

「ヤンチャで済めば、まだ可愛いよな」

「自分で言ってしまう辺り、らしくて良いわ」

 香と二人、くだらない話をして休憩時間を過ごした。



 夏休み中の平日休みは、週三日で貰えていた。

 一人暮らしを始めて、そろそろ四ヶ月。 一ヶ月くらい前から何と無く、ホームシックに似た感情に襲われ易くなっていた。

『……明日、下宿へ遊びに、行ってみよう』

 風呂へ浸かりながら、ふと思った。


 普段、午前中に大学がある水曜と金曜が、現在の利知未の休みだ。 木曜は別の同じ境遇の学生が、元から入っている。

 利知未と同じ境遇の学生は、一学年に四、五名だ。 5、6年で、合計9名の学生が居る。 バイトを世話して貰うにも、狭き門と言う所だった。 透子の旦那の声が、上手い事、響いてくれた結果だった。



 久し振りに、下宿へ遊びに行って見た。

 倉真にも会いたい所だが、今日は水曜日だ。 また、倉真を寝不足で仕事へ行かせるのも、心配なコトだった。

 同時に、まだ利知未は、避妊薬を処方してもらってはいない。

『今日の所は、大人しく下宿と、…アダムにでも、顔出して見るか』

バイクで下宿へ向かいながら、倉真の事は考えないように気を付けた。


 洗濯と掃除だけ終えて、十一時過ぎには、下宿のある街へ到着する。

 昼食を取るため、下宿へ向かう前にアダムへ向かった。


「いらっしゃいませ」

 すっかり、カウンターに立つ姿が板に着いた、別所に迎えられる。

「お久し振りですね。 マスター、今は厨房を見てますよ」

お冷とお絞りを出して、はにかんだ笑顔を見せる。

「随分、様になったな」

アダムでのバイト中の頃の、自分に戻ってしまう。

「流石に、四年もバイトしてますからね」

随分、大人っぽくなっていた。 別所は今年、大学一年の筈だ。

「マスター、相変わらず日曜は出掛けてるか?」

「もう、習慣ですね。 この前、久し振りに佳奈美ちゃんが来てましたよ」

「佳奈美も、高校二年だモンな。 少しは大人っぽくなったかな」

「そうですね。 背も、伸びてました」

「デレデレだったろ?」

「相変わらず、愛娘って感じです」

想像して、軽く吹き出してしまった。

 ランチセットをオーダーして、何時もの珈琲を先に出して貰う。 一口飲んで、満足な笑顔を見せた。

「これも、確り覚えたんだな」

「結構、人気が有りますよ。 よく出ます」

「そうか」

嬉しく感じて、表情が柔らかくなる。

 マスターが厨房から出て来た。

「おお、久し振りだな」

嬉しそうな笑顔を、利知未へ向けた。


 四月に一人暮らしが始まった、その前日。 引越しをした当日以来の訪れだった。 四ヶ月以上振りだ。

「佳奈美、勉強、頑張ってるか?」

「久し振りに来て、元生徒の心配か。 良い家庭教師だったな」

「渉も小学校へ上がっただろ? どんな感じだ?」

「佳奈美が、渉の勉強を見てやっているぞ。 お陰で我が家の子供達は、成績が優秀だ。 渉は体育も得意らしいな。 将来は一流アスリートに成れるかも知らん」

「相変わらず、親バカ爆発だな」

「悪いことじゃ有るまい」

「そりゃ、そーだけどな」

笑ってしまう。 別所は、マスターに利知未の話し相手を譲り、仕事をする。

「アイツとは、どうだ?」

「…ちゃんと、付き合い始めた」

「そうか。 ……随分、長く掛かったモンだったな」

「その前が、余りにも重過ぎたんだ」

「それを言うか?」

二人にだけ解る目配せをして、マスターが参った顔を見せる。

「冗談だ。 倉真は、相変わらず夕飯常連だろ?」

「中々、お前に会えないと言っていたな」

「何だよ? 倉真からも、色々と聞いてるんじゃないか」

剥れた利知未をみて、マスターが笑った。

「お前の口からも、報告を聞きたかったんだ」

「何だよ、それ」

「今度、二人で顔を出せ。 ナイトメニューの時間頃にでもな」

「…そーだな。 その内、時間があったら」

「近藤は、今年から社員になったぞ」

「そうか。 おめでとう、だな。 目標金額、貯まったってコトだ」

「そう言うことらしいな。 長嶋は、今日は休みだが、お前が来たことだけは教えておいてやるか」

「宜しく言っておいてくれよ?」

「Bランチ、お待たせ致しました」

二人で話に盛り上がるマスターに変って、別所がランチを出してくれた。


 ランチを片付けながら、一時間はマスターと話をした。 後半は店が混み始めてしまい、利知未は席を立つ。

「また来いよ」

「ああ。 …今度は、倉真と一緒に来るよ。 ご馳走様」


 伝票を持ってレジへ向かった。 オリジナル・モカ・ブレンドの文字は、マスターの字で、ノラ・H・M 三八〇と、書き直されていた。



 十二時半頃、下宿へ到着した。

 ドアチャイムを鳴らして、暫く待ってみた。 足音がしてドアチェーンをかけたまま、少しだけ開けた玄関扉の隙間から、美加が顔を覗かせた。

「りっちゃん!! 遊びに来てくれたの?! 待ってて、直ぐ開けるね!」

嬉しそうに言って、直ぐに鍵を開けてくれた。


「受験勉強、確りやってるか?」

 玄関を入りながら、ニコニコしている美加へ聞いた。

「やってるよ。 けど、数学はやっぱり、大変」

スリッパを出してくれる。

 この前来た時は、朝美だけが留守番をしていた。 来客用のスリッパを出されるのは、三回目とは言え、何と無く妙な感じだ。

「今、皆お昼なの。 ダイニングの方へ行く?」

「そうだな。 全員、揃っているのか?」

「樹絵ちゃんと秋絵ちゃんは、今日も居ないよ。 朝美さんも仕事だから」

「そうか。 じゃ、里沙と冴吏が居るんだな」

「うん。 やっぱり、りっちゃんと里真ちゃんが居なくなってから、少し、寂しいよ」


 ダイニングへ入り、久し振りに冴吏と里沙に会う。

「いらっしゃい。 お昼は?」

「アダムで食って来た。 冴吏、連載、頑張ってるのか?」

「お陰さまで、中々いい評価を戴いてます」

小さく首を竦めて見せ、冴吏が言う。

「最近、ファンレターが増えちゃって。 大判の茶封筒で毎月、出版社から送られてくるのよ。 冴吏のレターボックス、小さくなっちゃったわ」

「イイ事じゃネーか」

「お昼、直ぐ済むから。 少しだけ、待ってて貰えるかしら?」

「ンじゃ、久し振りに珈琲でも淹れてやるか」

「多めに、よろしく」

冴吏に言われて、頷いてキッチンへ立った。


 三人が昼食を終えてから、リビングで珈琲を飲みながら、話をする。

「店子では、冴吏が一番の古株になったな」

「だね。 私も来年で大学四年だし。 二年後には、どうなってるのかな」

「寂しい事、言わないで。 まだ美加も、樹絵と秋絵も居るし。 朝美は、また店子を募集したらどうかって言っているわよ?」

「里沙が大変になるんじゃないか?」

「そうね。 だけど、それも良いかなって、最近は思うわよ」

 愛しげにリビング全体を見渡して、里沙が言った。

「子供が出来て、ある程度大きくなったら、この一階部分を家族の生活空間に改装して、二階の六部屋を下宿にしてしまうのも、良いかも知れないわね」

「旦那が頷けば、だろ?」

「それまでは、もう少し朝美に頑張ってもらおうかしら?」

「何年先の話だ」

「五年から、十年計画ってところ?」

「朝美、トンでもないオールドミスになっちまうぞ」

「本人が良ければ、それも良いかもね」

「冴吏も他人事だな」

「私が朝美の後を継いでも、良いけど?」

「あら、嬉しい申し出ね。 それなら、それも考えてみようかしら?」

「どこまで、本気なんだか」

「かなり本気よ」

里沙が小さく微笑んだ。

「わたしは、ここがずっと残ってくれるなら、それが嬉しい」

美加も、ニコリと笑顔を見せる。

「…そうだな。 あたしも、この場所は出来るだけ長く、残しておいて欲しい感じもするな」

利知未も懐かしげな表情になり、肯定した。

「皆で嬉しい事を言ってくれるわね。 …本気で、考えちゃおうかしら?」

「イイんじゃネーか?」

珈琲を飲み終わり、美加に頼まれて、久し振りに勉強を見てやる事にした。


 美加の部屋へ移動して、家庭教師を始める。

「樹絵よりは、よっぽど出来のイイ教え子みたいだな」

三十分も見てやって、美加が確りと学業に着いて行っている事を知った。

「冴吏ちゃんも、タマには教えてくれてるし、お友達にも数学できる子がいるから」

「大学、どうするんだ?」

「ココから通い易い所を受けるの。 お友達と同じ大学目指そうかって、話しをしてるよ」

「そうか。 ま、良いんじゃないか? 先の事は、大学で探すのもアリだろ」

「うん。 まだ、解らないけど、保母さんになるのも良いかなって」

「ピアノは弾けるのか?」

「小さい頃、少しだけ習っていたから。 バイエルは平気」

「夢があるなら、頑張るしかネーな」

「うん」

笑顔で頷いて、勉強に集中し直した。

 夕方まで勉強を見てやった。 夕食で、久し振りに里沙の手料理を食べた。


 七時過ぎには下宿を後にする。 その時間ではまだ、双子は帰宅しない。 折角だったので、バッカスへ寄ってみる事にした。



 バッカスの前でバイクを止め、店に入った。

「いらっしゃいませ。 また、二ヶ月振り位ですね」

「そうだな。 こっちまで来る事、余りないから」

宏治は直ぐに、お絞りとコースター、ロックグラスを出す。

「今日はバイクだからな。 アンマ、深酒できないよ」

「下宿にでも、寄って来たんですか?」

「久し振りにね。 ……里真とは、まだ続いてるのか?」

「一応。 前より、会う時間は減りましたが」

「そうか、良かったよ」

宏治がロックを作って出す。 利知未はタバコを取り出した。

「せめて一ヶ月に一度くらい、顔出してくれないと寂しいわね」

まだ、常連組みが来る前だった。 カウンターから、美由紀が言う。

「そうしたい所だけど、中々」

「倉真は、よく来るようになったわよ」

「そうですか」

「上手く行っているの?」

「余り会えないけど、一応」

「そう。 宏治、連絡してあげたら?」

「利知未さん、バイクなんですよね?」

「ああ」

「じゃ、帰る時に気付くんじゃないか」

「そうかしら?」

「恐らく」

宏治が、自信有り気に笑った。


 八時を回って、倉真が顔を出した。

「やっぱり、来てたのか」

利知未の姿を見て、声を掛けながらカウンター席へ着く。

「いらっしゃい。 本当に来たわね」

「だから、言っただろ?」

ボックス席から目を丸くして言った美由紀に、宏治が当然だろうと言わんばかりの笑みを見せる。

「バイクが止まってたからな。 連絡、寄越せよ?」

「ごめん。 昨日、急に思い立って。 下宿へ行ってみたんだ」

宏治が、倉真の分のロックグラスを用意しながら聞いた。

「お前はバイク、置いて来たんだよな?」

「近いからな」

宏治に短く答えて、倉真が利知未に聞く。

「今日は、どうするんだ?」

「バイクだし、帰るよ」

「そうか」

二人の会話を聞いて、宏治はその雰囲気から悟った。

「…乾杯でも、するか?」

宏治の言葉に反応して、三人でグラスを合わせた。


 その夜は十二時頃まで、三人で話しながら飲んだ。

 倉真は明日も仕事だ。 時計を見て店を出る。 帰り際に馴染みのホステス達と入れ違う。

「何よ? 折角、顔揃えてるのに、もう帰るの?」

「明日も仕事だからな」

「利知未は夏休みでしょ?」

「まぁ、一応」

「じゃ、付き合いなさいよ?」

既に店で、かなりの酒を飲んできていた恭子に、カウンターへ引っ張って行かれてしまった。

「倉真、明日、電話するから」

「おお、帰り、気を付けろよ」

店を出る倉真に、頷いて軽く、手を振った。


 利知未は結局、看板まで恭子達に付き合った。 最後の一時間は、薄い水割りとソフトドリンクでお茶を濁して、酔いを少し冷ましてから帰った。



 翌週、利知未は産婦人科を受診した。

 香のお勧め通り、火曜日の午前中に、仕事の合間を見つけて相談をした。 これから定期的に、避妊薬を出して貰うことになった。


 滝川医師は、中年の女性だ。 自らも二人の子育てをしながら、産婦人科医を続けている。 その点で、利知未の事情も解ってくれた。

「……病院の、他の人達に知られるのは、少しイヤだな」

利知未の呟きに、優しい笑みを見せて言う。

「瀬川さん、勉強して来たでしょう? 医師には守秘義務があります。 心配しないで。 面白半分に触れ回るような人は、この病棟には、ナースの中にもおりませんから」

「これから定期的に受診する必要は、ありますか?」

「そうね。 お薬を出す都合上、月に一度は顔を出して貰えるかしら?」

「そうします」

「けど、これは今のあなたの状態に合わせたものです。 将来、ちゃんと結婚して、お子さんが出来た時には、キチンと産んで育てて下さいね?」

「…解りました」

頷いた利知未に、滝川も笑顔で頷き返した。


 倉真とは、月末の日曜に会うことが出来そうだ。

 これから先、どうやら月に二日くらいは、土曜の夜勤バイトが無くなってくれそうな気配だった。


 利知未はここへ来て漸く、ホッと一息、付ける感じになれた。




   インターン編 一章 了  (次回は、2月8日 22時頃 更新予定です)


インターン編・一章にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。 今回の初稿完成は、2,006年 7月 10日だったようです。 びっくりです。 随分、作者の身の回りの環境なども、変わってきたように感じております。 (ただ単に、年をとっただけだったりして…) 今回は茅野の体調により、少々、早めの時間の更新となりました。 遅くなるよりは、と思ったのですが……。 風邪が流行っているようです。 皆様もお気を付けください。


 さて、次章の予告を少々。

 一人暮らしに慣れ始めた利知未は、改めて、ホームシックにかかった様な気分になってしまう。 今までの、下宿での賑やかな生活が懐かしい気持ちになり……、と、言うようなところから始まります。


また来週、予告時間までに更新できますよう、頑張ります。 宜しくお願いいたします。


(2月2日 20時頃、改行ミスと誤字の修正だけ、させて頂きました)

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