八章 告 白
利知未の結婚までの話し、大学編の8章です。 90年代中頃頃が時代背景となっております。(作品中、現実的な地名なども出てまいりますが、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、関係ございません)この作品は、未成年のヤンチャ行動、飲酒運転などを推奨するものではありません。
利知未はバイクの維持費を稼ぐため、宏治の母・美由紀のスナック、バッカスを週一回で手伝い始めた。
倉真はその利知未を、毎週下宿まで送ってくれるようになっていた。 そんな中、少しずつ二人の気持ちは近付いていく。
利知未の22歳のバースデーは、倉真と二人、初めてデートらしい雰囲気の中で祝った。
その日を切っ掛けとして、また二人の雰囲気は変わってきた。 そして、利知未の大学4年の夏休みが終わり、二学期が始まる。
八章 告 白
一
利知未が大学四年の夏休みが終わり、新学期が始まった。
学食で、久し振りに透子と会った利知未は、準一の事を聞いてみた。
「弟君? 頑張ってるな」
「お前、どうせ本気で相手にするつもりなんて、ネーんだろ」
「本気で遊んでるけど?」
「それは意味が違うだろーが」
「面白いよ」
「…ったく。 ジュンも面倒な相手に、闘志を燃やしちまったもんだ」
「闘志を燃やしてるんだ。 ンじゃ、益々、遊び涯がありそう」
ヘラリと、相変わらずの笑い方をしている。
「今に中古車買って、迎えに来ると思うから。 楽しみにしてて」
「お前が嗾けたのか。 どーりで、ムキになって金、稼いでると思った」
「イイ女の力は、偉大なのよ」
「自分で言うか? そーゆーコト」
「自画自賛は、アタシのチャームポイント」
箸を持っていない左手の人差し指を、首を傾げた頬っぺたに当て、肘を張る。 ニコリと笑って見せた。
「似合わネー」
「なにが?」
「そのポーズ」
「チョイ、ブリ過ぎたか」
手を下ろして、定食を再び突き始めた。
「久し振りに、利知未の手料理が食いたいところだな」
「また弁当、作ってくるか?」
「タマにはいいな。 じゃ、明日」
「お前も作ってくるんだろうな?」
「利知未の手料理が食べたいんだから、二人分、ヨロシク」
「…勝手なヤツだ。 ま、良いけどな。 毎朝、美加の弁当は作ってンだ。 ついでに、タマには作ってくるか」
そう言って、右手を差し出した。 透子は箸を置いて握手をする。
その手をペシっと音を立て、軽く叩いて払い、利知未が言う。
「誰が、握手しろと言った? 弁当の材料費、出せよな」
「けち臭いな」
文句を言いながらも、透子は財布を取り出す。 千円札を一枚出して、利知未へ渡した。
「千円も出すんだから、豪華なお弁当、作ってね」
「幕の内弁当クラスは、作れるよ」
「さっすが、利知未! 明日が楽しみだ」
九月二週目の、月曜日だった。
利知未は前日も、倉真と二人でツーリングへ出掛けていた。
一昨年の秋、改めて倉真の事を意識する切掛けの事件があった、自然公園へ行ってきた。
あの頃と違っていたのは、倉真の言葉使いと、益々、倉真の前で可愛らしい様子を見せ始めた、利知未の態度。
そして、一日中繋いでいた、二人の手だ。
仲間の目がなければ、最近は何時も、手を繋いで歩いていた。
倉真はこの夏を過ぎて、更に頼りがいがある逞しい男へと、成長して来ていた。 二年前のあの時より、少しは落ち着きも出てきた様子だ。
池の畔を歩き、何艘か出ている手漕ぎや、スワンボートを眺めていた。 あの時、帽子を飛ばされた少女の家族と会った辺りへ着き、利知未が言う。
「もう、二年も経つんだな」
「前、ココへ来た時か? ……早いもんだな」
「この辺りで、倉真が帽子を取り損ねたんだ」
「だな」
「で、池の真ん中まで、飛んでった」
繋いでいた手を引っ張って、利知未が池へと近寄っていく。
手を離し、低い策に両手を突いて体重をかける様にして、池を眺めた。
「倉真、ボートの漕ぎ方、覚えてるか?」
「あン時、一回乗った切りだからな。 怪しいかも知れネー」
「……乗って、見ないか?」
「今からか?」
頷く利知未を見て、倉真が言う。
「そーだな、乗ってみるか」
「じゃ、行こう!」
再び、倉真の手を引っ張って、ボート乗り場へ向かった。
ボート乗り場の係員が、中高年の優しげな小父さんから、若い男性へと代わっていた。 ボートの漕ぎ方を、再度、説明してもらってから乗り込んだ。
倉真がオールを握り、二、三度漕いで見て、感触を思い出した。
「お、何とかなりそうだな」
運動神経が良いお陰か、五分も漕いで見たら、すっかり感覚を取り戻した。
「流石。 勉強は苦手でも、身体動かす事は得意だな」
利知未が、少しだけ憎まれ口をきく。
「それは、褒められてンのか?」
「褒めてるよ」
利知未が悪戯坊主の様な笑顔を見せる。 倉真には、それも可愛いと感じられる。
狭いボートの上は、何と無く気持ちが高まる。
風が吹き、利知未の頬を撫でて、抜けていく。
「…気持ち、イイな」
軽く目を閉じて、風の感触を楽しんだ。
「ボート漕ぐの、結構、重労働だな。 汗、出てきたよ」
「そんなに大変か?」
「やってみるか?」
「面白そうだな」
倉真と場所を入れ替わった。
漕いでいる様子を見ていた利知未は、元々の物覚えの良さで、直ぐに慣れてしまう。
直ぐに方向転換まで、難なくこなしてしまった。 はしゃいだ子供の様な笑い声を上げる。
「すごい! ちゃんと思った方へ動いてるよ? 面白い!」
「俺より上手いんじゃないか?」
「けど、やっぱ疲れるな。 あたしも汗かいてきた」
「代わるか?」
「そーしよう」
再び入れ違い、ボートが揺れて、転びかけてしまう。 倉真が確りと利知未を支えてくれた。 その力強さに、心臓が大きく跳ね上がる。
利知未は赤くなってしまう。 その顔を少し覗き込む様にして、倉真が言う。
「大丈夫か?」
「…うん、大丈夫」
揺れが収まってから、腰を下ろし直した。
また倉真を意識し直して、利知未の全体から益々、女らしい雰囲気が滲み始めた。
その雰囲気に、倉真の気持ちのブレーキが、飛んでしまいそうだ。
『……やばいな。 何か、益々、我慢すンのがキツクなって来た』
思って、自然と二人の言葉が、少なくなってしまう。
無言でボートを漕ぐ姿に、利知未は少しだけ、不安を感じてしまった。
『……やっぱり、女としてのあたしは、倉真にとっては、重荷なだけなのかな?』
不安そうな利知未の表情に気付いて、倉真が声を出す。
「また、落ちる所だったな」
倉真の声に顔を上げる。 目が合うと、倉真が優しい笑顔を見せた。
「……だね」
利知未の語尻が、優しくなる。 女らしい微笑を返した。
『……もし、そうなら』
自分の誕生日に、倉真が取ってくれた態度まで、全くの嘘になってしまう。 そう思い直す。
恋人同士の振りをしただけだったけれど、あの時、本当に幸せな気持ちになれた。
無意識に、今日も身に着けていた真珠のネックレスに触れた。 その手の動きに、倉真が気付く。
「それ、着けてくれてンだな、良かったよ。 気に入らなかったら、どうしようかと思ってたんだ」
「……何時も、着けてるよ」 『倉真に、会えない日も』
「俺も、何時も持ってるぜ?」
首を傾げた利知未に、ポケットからジッポーライターを取り出して見せた。
「倉真の、誕生日の時のか」
「ああ。 気に入ってるよ」
「上げて良かった」
会話が戻って、利知未が可愛い笑顔を見せてくれた。
『……こっちが、本来の利知未なのかもしれない』
二人きりの時、利知未は随分と可愛い女の様子を見せてくれる。
それを実感するたびに、自分の想いが報われている事を知る。
『けど、早く利知未に……』
告白出来るように、成りたいと思う。
……抱きしめたい、と思う。
一日明けて、今日は倉真もバイトだ。
昨日のツーリングを思い出して、真面目な顔になる。
『利知未が涙を見せてくれる様になるまで、後、どれ程の時間を掛ければ良いんだ?』
気持ちは、直ぐにでも想いを伝えて、今の関係を超えたいと言っている。
『……俺も、らしくネーこと してんな』
自分がこれほど長い間、彼女の気持ちが解れるのを待てる男だとは、思わなかった。
『利知未の事を好きだと気付いてから、………もう、二年以上だ』
綾子の時は、気持ちより先に、身体の関係を求めてしまった。
そうなってから、改めて、綾子を好きになり始めた。
『けど、利知未は駄目だ。 ……今、アイツを抱いたら、襲うのも同然だ』
綾子は、彼女の方から告白してきてくれた。
それがあって、何とか罪の意識も軽くて済んだような気がする。
『……精力、抜いてきた方がイイかも知れネーな』
すっかりご無沙汰だった玄人の店へ、夜、久し振りに出掛けてしまった。
新学期が始まり、樹絵を好きだと言ってくれる同級生が現れた。
「佐藤、何か夏休み明けてから、可愛くなったよな」
同じ学部で、友達関係に有ったヤツだった。
「そーか? サンキュ」
‘ダチ'と言う意識のほうが強い相手だったので、樹絵は気楽に答えた。
「先輩と、まだ付き合ってんのか?」
「…別れた。 もう結構、前だよ」
「そーだったのか? ンじゃ、先輩と何か有って変わったって訳じゃ、無かったのか」
「何だよ? それ」
「よく言うだろ? 女は恋愛で変わるって」
「男も、恋愛で変わるんじゃないのか?」
「女より変わらないんじゃないか?」
「そー言うもんかな?」
「……試さない?」
「何を?」
「男も恋愛で変わるのかどうか」
「誰か観察でもするか?」
「オレと、付き合ってみないか?」
軽い調子の告白を受けて、樹絵が目を丸くする。
「…それって、マジ告白?」
「マジ告白の、つもりなんだけどな」
「……中島のコト、ダチ以上に思えないと思う」
準一が好きなのは、変わらない。
「それでもイイよ。 その内、好きになってくれる事も有るかも知れないだろ?」
「本気で言ってるのか?」
「本気」
少し考えて、樹絵が小さく頷いた。
『ダチでイイって言うなら、断るのも何か可哀想だよな』
「イイよ。 どうせ時間余ってるし。 遊びに行くダチが欲しかったから」
「マジ? 付き合ってくれんのか?!」
「その代わり、本当に好きになれるか判らないよ?」
「いいよ、好きになってもらうから」
やった! と、小さくガッツポーズを見せる。
少し軽い感じが、準一に近いと思った。
……もしかして、中島なら、好きになれるかも知れない。 そう感じる。
樹絵と新しく付き合い始めた相手は、中島 亨と言う。 同い年で、樹絵にとっては気楽なヤツだった。
『先輩が相手だった時より、あたしも素直で居られるかも知れない』
それから先は、また、その時が来て見ないと判らないと思った。
冴吏の新作が掲載された雑誌が、送られて来た。
「今回も何とか無事、仕事を上げたな」
自己満足に一瞬だけ浸る。
『けど、大事なのは読者の反応だから。 気は抜けない』
改めて気分を引き締め直した。
冴吏の元には最近、ファンレターが送られてくる様になった。 今まで貰ってきた手紙を改めて呼んでみて、秋絵の大学・映画サークルのカメラマンが以前、送ってくれていた事を知る。
「これ、始めに掲載された後の手紙だよね?」
呟いて読み返してみた。
主人公の二人の気持ちが良く解るいい作品だと、賞賛の言葉が書かれていた。
「この時からの、ファンが居てくれてるんだ。 ……もっと頑張らないとな」
今回、作品の評判がよければ、中編連載の話が来る予定だ。 担当編集者が、原稿を渡した時に伝えてくれていた。
同時にあと二作、短編が増えれば、本にすることも出来るかもしれないと、嬉しそうに言っていた。
冴吏の作品、評判は中々、宜しかった。
夏休み中の就職活動で、里真は内定を貰って来た。
「旅行代理店か。 仕切り屋の里真には、丁度イイかも知れないな」
宏治は報告を聞いて、おめでとうと言った。
『宏治は、私が埼玉の実家へ戻っても、平気なの……?』 聞きたいと思う。
けれど、それを言ったら喧嘩になってしまいそうだ。
宏治は優しくて、里真と大きな喧嘩になった事は、今まで無かった。
デートの行き先も、何時も比較的すんなりと決まる。 意見が分かれてしまうと、宏治が里真の意思を尊重してくれる。
『就職についても、同じなのかな……?』 不満はある。
里真としては、何時でも会いたい時に会える今の距離関係が、丁度良いと思っている。
『それで無いと、宏治が離れてしまいそう……』
二年間付き合って来て、宏治が自分の環境について、何と無く引け目を感じているらしい雰囲気は見て取れている。
真面目で優しい、母親思いの宏治の性格を考えると、その思いも解るとは思う。 そこが、里真が宏治を好きな所でもあるし、尊敬出来るとも感じてきた。 ……けれど。
物思いに沈み込む里真に、宏治が、気遣わしげな視線を向けた。
「どうかしたのか?」
「…何でもないよ。 それより内定を貰えたお祝い、してくれる?」
「就職難の時代だモンな。 祝う価値は十分ある。 どこか行きたい所はあるのか?」
「……泊りがけで、遊びに行かない?」
「日曜から月曜なら、平気だけどな。 里真は短大があるだろ?」
「ちょっと先の話になっちゃうけど、十一月の二日、三日が連休だよ?」
「そんな先でイイのか?」
「紅葉の時期だし。 何処かの温泉へ泊りがけで紅葉狩りも、イイなって」
「温泉ね。 シブイな」
「今、若い女の子に人気有るんだよ。 知らなかった?」
「そうなのか?」
「混浴が有る温泉とか、イイな」
「じゃ、探しておこう」
「うん、ヨロシクね」
それでも不満を抑えて、笑顔を見せる。
『宏治に言っても、まだ半年も先の事だって、言われちゃうよね? きっと』
夏休みに話していたコトを、思い出した。
週中。 勉強を終えた利知未が、朝美と晩酌を始める。
「明日は休みだ! 思いっ切り、飲むぞ!」
「そんな遅くまでは、付き合えないぞ」
「利知未は明日、学校だもんね」
「そー言う事だ」
飲み始めた時、樹絵がリビングへ現れた。
「タマには一緒に飲もうよ?」
スナック菓子を、摘みの変わりに持って来た。
「お前、まだ、未成年だろーが」
「利知未に言われるコトじゃ無いよ」
「そのとーり! 樹絵、タマには付き合いな」
「流石、朝美は話が解るな」
「……反面教師にしろ、とは、言わせてもらえないか」
利知未が呟いた。 樹絵がニマリと笑う。
「秋絵は、確りしてるからな。 そうしてるみたいだよ?」
「どの辺りが?」
樹絵に水割りを作ってあげながら、朝美が聞く。
「秋絵ってさ、北海道に居た頃、あたしとアンマ変わらなかったんだ」
「言葉使いとか?」
「うん。 服装も、やることも。 いっつも、お前らは行動まで双子だなって、周りの大人が呆れてたよ」
朝美からグラスを貰い、飲みながら話す。
「で、ココへ来て、利知未の様になってはいけないと思い直したワケだ。 アンタ一応、役に立ってンじゃない」
「一応って、どう言う言い草だ」
「けど、あたしは逆に、利知未みたいになりたいって思った」
「凶暴で、捻くれ物で、性別不詳の女に成りたいって、思っちゃったわけ?」
「言ってくれンな。 朝美だってアンマ人のこと、言えないじゃないか」
「あたしは模範的な店子だったよ? 樹絵達が入居する前に、出ちゃったけどね」
「実態を知らないヤツには、何とでも言えるよな」
「言ってくれるじゃない。 樹絵、利知未の昔話・第●弾、話してあげよう」
「またか、イー加減にしてくれ」
その夜、仲の良い二人と、樹絵も笑顔で晩酌をした。
二
樹絵も参加した晩酌の席で、利知未は樹絵から、新しい彼が出来た報告を受けた。 その話を、金曜のバッカスで倉真に伝える。
「ジュンのこと、マジ、諦めたってことか?」
「違うんじゃないか? 友達からでイイって言われて、付き合う事にしてみたって、言ってたよ」
「そーなのか。 ま、俺たちが口出す事でも、ネーよな」
「そうなんだけどな。 倉真は樹絵のこと、気に掛けてくれてただろ? 一応、報告だけはしておこうと思ったんだ」
「分かった。 確かに、気にはなってたよ。 いつかの相手とは、別れたって言ってたからな」
電話で、報告を受けていた。 利知未が少し驚く。
「樹絵から、聞いてたのか?」
「ああ。 タマに、電話してるからな」
『何でだろう? 焼きもち、焼いてる……?』 少し、ちくりと来た。
それでも、樹絵の気持ちも解っている事だ。 直ぐに気分を変える。
「何時か、二人のデート中に偶然、会っただろ? それで、報告受けたんだよ」
倉真は、自分が口を滑らせたと思った。 一応、付け足してみた。
「そうだったな」
気分を変えた利知未が、平常通りの態度へ戻る。 やや、男っぽい。
微妙な変化を、倉真は見逃さない。 最近、仲間が一緒に居る時でも、少しは自分の前で女らしい雰囲気を、見せてくれる様になって来ていた。
『……誤解、されたらキツイよな』
そう思う。 チラリと、利知未は意外と、焼餅焼きなのではないか? と感じる。
『けど、それなら返って、チョイ嬉しいか?』
口元が緩んでしまう。 タバコを吸って、誤魔化した。
九月最終週。 準一が中古車で、大学前へと乗り付ける。
透子の姿を見つけて、軽くクラクションを鳴らしてみた。
「なんだ、弟じゃないか」
「見てよ、これ」
「何を?」
とぼけた透子へ、準一が言う。
「約束通り、でっかい買い物して来た」
「軽じゃないか」
「けど、高かった。 4WDの、ジープタイプ」
「ま、一応、許してやるか。 で、何処へ連れて行ってくれるわけ?」
「何処でも。 始めに乗せる約束だから、送るだけでもと思った」
「謙虚なヤツだな」
「飯、奢りたくても、こいつに使っちゃって、残ってないんだ」
「仕方ないな。 ご飯は今度、また稼いでおいで。 折角だから今日の所は、家まで送って行き給え」
「ラジャー!」
助手席のドアを開けて、透子が乗り込むのを待つ。
利知未のバイクが、駐輪所から出てきた。
「あ、利知未さんだ!」
もう一度、クラクションを鳴らしてみる。
正門で一端停止し、左右を確認していた利知未が気付いて、顔を向ける。
ヘルメットの風除けを上げて、声を掛けた。
「ジュンじゃネーか? 車、買ったのか?」
「格好イイっしょ?」
「よ、利知未。 相変わらず、バイクへ跨る姿が格好イイじゃん」
透子が、助手席から覗き込んだ。
目の前に透子の顔を見て、準一が悪戯を思い付く。 透子の耳に、息を吹きかけてみた。
一瞬、色っぽい声を出した透子が、準一の頭を叩いた。
「弟、変な悪戯すると、降りるぞ?」
「弟って、止めてくれるんだよね?」
「ジュンちゃん、オネー様に逆らうと、悲しい目に遭うよ?」
「ジュン、ちゃん?! ……ま、イーか」
二人の様子を、利知未は呆れて眺めてしまった。
『すっかり、遊ばれてんな……』
いい加減、諦めればいいのにと、流石に思った。
十月に入り、朝美の店で恒例となった、秋冬物のチラシが刷り上る。
「今回は、美加もやったのか」
「可愛く撮れているでしょ? 素材がイイって、カメラマンが絶賛してた」
「美加、アイドルにでもなるか?」
「アイドルって、もっと若い子が成るんじゃないの?」
「十七歳は、立派にアイドル年齢だと思うけどな」
チラシを眺めて、利知未が言った。
「樹絵みたいなヤツも居るな」
「ちょっとキツ目の顔してる子でしょ? 美加の友達だよ」
「美人タイプと、言えない事も無いか」
「将来、化粧覚えたら、綺麗になりそうな顔してるよね」
「メイク講座も、してやりゃイーじゃネーか?」
「自分でも上手いと思うよ」
「スッピンと全然、顔が違うモンな。 朝の十分で化けてるとは、とても思えネーよ」
「また、憎まれ口きいてくれるよね、アンタは」
「これが無いと寂しいだろ?」
「そー言う事に、して置いてあげよう」
土曜日の夕食時だ。
今日も里沙が用意してくれた料理を温め直して、テーブルを囲んでいる。 里真と冴吏、双子は、まだ大学から戻らない。
「何処で遊んでんだか」
「皆、忙しそうだよね。 アンタは忙しくないの?」
「勉強が忙しい」
「来年、インターンか。 確り覚えて、死人を出さないようにね」
「朝美の憎まれ口もキツイよな」
「それでなきゃ、アンタと話なんか出来ないでしょ」
「…ごもっとも」
玲子が居た頃を思い出す。 今は朝美が、喧嘩紛いの会話を楽しむ。
『玲子が出てから、もう直ぐ二年か』
玲子は、無事に大学生活を送っているのかな? と、少しだけ思った。
樹絵は大学の後、中島と遊びに行っていた。
「あ!また、負けた!」
「へへ、九連勝!」
「亨、このゲーム持ってんのか?」
「全種類、持ってるぜ?」
「何だよ、何時も特訓してるんじゃないか! 勝てるワケ無いよな」
「貸そうか?」
「本体、持ってない」
「マジ?」
「下宿だし、テレビがあるのも二部屋だけだよ」
「そーなんだ。 明日、家に来いよ。 雪辱戦、受けてやるぜ?」
「言ったな。 じゃ、特訓時間、寄越せよな?」
「敵に塩を送ってやる」
「何時ごろから、行けばいいんだ?」
「午前からでも平気だよ」
「じゃ、九時過ぎに、駅前まで迎えに来てくれよ」
「OK。 親父の車、借りてくか」
「免許、持ってるのか?」
「高校卒業して、直ぐ取った。 あと一ヶ月で、初心者マークが取れる」
「じゃ、今度、釣り行かないか?」
「樹絵ちゃん、釣りやるのか?」
「得意だよ」
「イイよ。 オレも好きだし」
「やり! ンじゃ、今日は帰るか」
「やっぱ、樹絵ちゃんに告白して良かったな」
「なんで?」
「趣味が合う女の子って、中々、居ないからな」
「そーか?」
「釣り好きな子だって、大学生になってゲームに熱中してくれる子だって、少なくないか?」
「そーかな?」
「行こう」
中島は、順調に樹絵と仲良くなれている様子を、嬉しく思った。
翌日、日曜日。 利知未は今日も、倉真と出掛ける。
「今日は買い物コース、付き合って欲しいんだ」
「いいぜ。 どの辺り、行くんだ?」
「透子から、今回はピアスをねだられた」
「透子さんって、利知未の大学のダチだよな?」
「高いものは無理だし、安いところ探してみようかと思ったんだ」
「宝石関係は、俺もアンマ知らネーけど……、利知未のプレゼント、買った所にでも行くか?」
「教えてくれよ?」
「分かった」
二人で、桜木町へ向かった。
店の前に着き、バイクを降りる。
「前、集配荷物を持ってった所だ。 小さい店だけど、繁盛してるみたいだな」
「信用が有る店、って、事かな?」
「値段も、ピンきりであったと思うぜ」
「取り敢えず、探すか」
店内へ入り、ピアスの棚を眺める。 店員が寄って来て声を掛ける。
「いらっしゃいませ。 館川さん、お久し振りですね」
印象が強かったこともあるが、この店の店員は、一度、買い物をしてくれた客の顔を覚えている。
「どーも」
「今日も、彼女へのプレゼントを探しにいらして下さったんですか? お綺麗な方ですね」
利知未を見て店員が言う。
「今日は、彼女の友人のプレゼント探しっす」
少し照れたが、彼女という言葉を否定しない倉真に、嬉しいと感じた。
「どのような物を、お探しですか?」
花の様に綺麗な店員だった。 物腰も柔らかく、女同士でも見惚れてしまう感じだ。
利知未は少しだけ、落ち込んだ気分になる。
『この人が、倉真にネックレス、勧めてくれたのかな……?』
「ピアスを、リクエストされたんです。 だけど、あたしはピアス空けてないから。 どんなのが、人気有るんですか?」
気持ちを抑えて、相談をしてみた。
「そうですね。 こちらのデザイン等、皆さん、可愛いと仰いますね」
小さな、蝶を模ったデザインを見せてくれた。
「そんな、高いのは無理だな……」
「ご予算は、おいくらですか?」
「一万位で、有りますか?」
「それでしたら、こちらの商品が、お勧めですね」
小さなケースを、持って来てくれた。
七千円から、一万二、三千円程の物が並んでいた。
「指輪や、ブローチを作る時に出る、宝石の欠片を使ってデザインされている物ですので。 石の価値は、殆ど含まれていないんですよ。 ですから手頃なお値段で、可愛らしいデザインの物を色々、ご用意させて頂けております」
勧め方も上手かった。 高い物も並んでいる店内で、安価な物も用意出来ている裏事情を話して、信用を失わない様にしている。
言葉につられて、一万三千円の品を選んでしまった。
安い買い物をする客だからと言って、ぞんざいな態度になることもなく、最後まで親切、丁寧に対応してくれた。
「ああ言う店って、そう言うものなのかな?」
昼食を取りに入った店で、先ほどの店員の態度について、話をしていた。
「なにが?」
「丁寧で、言葉も綺麗で、態度も柔らかくて」
「さぁ? 俺も、アンマ縁が無かった所だからな。 けど、ああだから、あの店、繁盛してるんじゃないのか?」
「そうかもな。 信用第一の商売だからな」
あの店なら、これから宝石を買う様な事が有った時、また行ってみても良いと思う。
けれど つい、余計な言葉も出て来てしまった。
「……綺麗な店員だったよな。 倉真、このネックレス買った時、鼻の下伸びてたんじゃないか?」
「…気になるのか?」
怒る所か、少し嬉しくなる。 利知未の言葉と態度は、焼餅にも見える。
「……別に、そんな事、ネーけど」
自分が言ってしまった言葉を、恥ずかしいと思った。
照れ隠しに態度と言葉が、昔通りに戻ってしまう。
「利知未も綺麗な方だって、言われてたじゃネーか?」
「あんなの、ただのお世辞だよ。 客を褒めるのは当たり前じゃないか」
「そーか? …十分、……」
綺麗だと思うぞ? と、言葉にするのは照れ臭い。
「何だよ」
「何でもネー」
今度は倉真が照れ隠しに、タバコへ火を着けた。
同日、樹絵は中島の家へ遊びに行った。
日曜日だ。 両親と祖母が寛いでいる。 廊下を抜け亨の部屋へ行く前に、家族と顔を合わせてしまった。
「いらっしゃい」
祖母から声を掛けられ、頭を下げて、挨拶を返した。
亨の部屋へ入り、樹絵が言う。
「亨ンとこ、兄弟は居ないのか?」
「兄貴と姉貴が居るよ。 二人とも、今日は出掛けてるみたいだ」
「そーか」
「樹絵ちゃんは、兄弟は双子の秋絵ちゃんだけか?」
「北海道に、兄貴と姉貴と、弟が三人居る」
「すっげー、大家族だな」
亨が目を丸くした。
「オレんトコ、三人でも結構、騒がしいぜ? そんなに兄弟居たら、賑やかなんだろうな」
「すっげー、煩いくらいだよ。 下宿も、今は七人で住んでるから、賑やかで嬉しい」
「さてと、ゲームやるか?」
「うん。 始めのヤツから、やらせてよ?」
「イイよ。 チョイ、待って」
ゲーム機本体をテレビに繋げて、準備をする。
「ンじゃ、樹絵ちゃんの特訓時間、午前中だけ上げよう」
「イイのか? まだ二時間以上あるよ?」
「あんま弱いと、直ぐ蹴り付いちまって、ツマラネーじゃん」
「言ってくれるよな。 亨は、何してんだ?」
「来週、天気良かったら、釣り行かないか?」
「来週? イイよ」
「ンじゃ、釣り道具の手入れでもしてるよ。 洗車も、言いつけられてんだ」
「じゃ、勝手にやってて、いいのか?」
「構わないよ。 ジュース、持って来とくから、気が済むまで特訓してろよ」
「サンキュ!」
随分、気楽に付き合せて貰っていると思う。 亨のことを、最近どうやら好きになって来た様な気がしている。
『……ジュンの事も、まだ気になってるんだよな』
やや、複雑だ。 自分は、意外と気の多い女だったのかな? と、悩みもある。
『けど、どうせジュンは、まだ透子さん狙っているんだろうし……。 このまま、もう少し亨のこと好きになれたら、イイのかも知れない……』
気が楽になって来た。 そうなったら中島の好意にも、素直に答えて上げられると思う。
『亨には、感謝しないとな』
準一のことを思って、イライラと過ごしていた時間が、中島と遊んでいる、楽しい時間へと変わっている。
一度部屋を出た中島が、ジュースとグラスを置き、再び部屋を出て行った。
廊下を通り掛り、祖母に声を掛けられた。
「可愛い子だね」
一言だけだが、意味が含まれている。
「だろ? 今、アタック中なんだよ。 祖母ちゃん、応援頼む」
「遊びに行くお金が、必要かい?」
「カンパ、ヨロシク!」
「あー、肩が凝ったねぇ。 ……財布、何処へ置いたかねぇ?」
言いたい事は、直ぐに分かる。
「分かった。 洗車終わったら、肩叩くよ」
「ああ、思い出した。 確か、ココへ財布しまったんだった」
祖母がすっとぼけた声を出す。 亨と祖母は、仲が良かった。
苦笑いをして、庭へ出る。
秋絵は、今日もデートだ。
「今度の旅行先、決めたよ。 来週の土曜、講義サボって金・土・日で行こう」
「単位、平気な講義だった?」
「計算済みだよ。 インターネットで宿も取った」
「流石、頼りがいがある」
「予定は、平気だよね?」
「大丈夫。 そっか、金曜日は体育の日だ」
「今回は観光抜きで、のんびり行きたいって言っていたから。 一泊二日より、のんびり出来るかと思ったんだよ」
「イイ判断だね。 じゃ、今日は買い物して行こう」
「旅行の準備か」
「そう。 わたしも、夏休みアルバイトしてたんだ。 お金はある」
「じゃぁ、映画が終わったら、買い物へ回ろう」
大学の映画サークルへ、籍を置く二人だ。 デートは何時も映画だ。
B級シネマから話題の作品まで、かなりの数を見て来た。
徳雄はサークルが管理しているホームページへ、シネマ解説をアップしている。 中々、厳しいと評判だ。 その分、外れもないと言う事で、それなりのアクセス数を取る。
作品を見る厳しい目も、冷静な彼だからこそではある。 その辺りの審査眼も、冴吏を思い出させる所だ。
今日も、午前と午後で二本の映画を梯子して、昼食中は、見て来た映画の感想などを二人で話し合って、メモに取る。
午後になり、もう一本を見終わってから、買い物の前に喫茶時間を作る。
そこでも、映画の感想を話し合う。
『何か、得意なものが有るって事は、いい事だよね』
秋絵は懐深く、彼のそんな部分を尊重してあげていた。
恋人同士というよりは、良いパートナーと言う方が、合っている二人かもしれない。
三
十月三週目の火曜日。 久世家にて、佳奈美の家庭教師をする。
進学クラスを選んだ佳奈美は、中々、良い成績を収めていた。
「利知未が見てくれてるんだもん、当然だよね」
「煽てたって、手は抜かないぞ?」
「解ってます。 けど、来年からどうしよう?」
「そうだな。 あたしもインターンの生活が始まったら、家庭教師を続けるのは大変になるかもしれないな」
生活が不規則になりそうだ。
最近、先輩達の様子を見ながら、下宿を出た方が良いのではないかと、考え始めていた。 その場合の生活費は、嫌々ながら母親に頼るしかない。
『仕送り、八万は上げて貰わないと、無理だろうな……』
それでも足りない分は、やはりバイトを探すしか無いだろう。
『派遣のバイトを主にやるのが、丁度イイのか……?』
そうすれば、時間は融通が利く。 バッカスの手伝いも、三月までの事だ。
『……また、倉真と会える日が、減っちゃうな』 無意識に、ネックレスを弄る。
「利知未、どうしたの?」
「どうかしてたか?」
「何か、ボーっとしてたでしょ。 疲れた? そろそろ、ご飯の時間だよ」
「だな」
答えた時、智子の声が掛かる。
「やった! ご飯だ、ご飯! 利知未が居る日は夕飯、少し豪華なんだよね」
「そうなのか?」
「うん。 だから、何時も木曜日と利知未が来る火曜日は、楽しみだよ」
「それで、勉強にも身が入る訳だ」
「栄養補給しないと」
話しながら、階下へ向かう。
渉は、箸の使い方を覚えている最中だ。
「最近、必ず煮豆があるんだよね」
「箸の訓練中だからか?」
「キチンとした持ち方さえ覚えれば、煮豆だって摘めるでしょう?」
「チョイ、スパルタじゃネーか?」
「けど、効果はあるわよ?」
渉の食事補助をしながら、智子は忙しなく夕食を済ませる。
「やっぱ、子育てって大変そうだな」
「りちみ! みて!」
渉が、豆を摘んだ箸を上げて、ニヘーと笑った。
「お、結構、上手いじゃないか? こっちは、摘めるか?」
面白半分に、自分の惣菜を与えてみた。
渉は四苦八苦して、最後には箸をぶすっと、惣菜に刺してしまう。
「やっぱ、これは難しかったか」
利知未が渉へ与えたのは、八宝菜の鶉の卵だった。
「利知未も、中々、スパルタねぇ」
智子が、呆れて利知未を見る。
「面白そうだったから」
視線を上へと逸らして、利知未がとぼける。
「今度は豆腐でも、試してみるか……?」
小さく、呟いてみた。
渉を見ていて、久し振りに姪っ子・甥っ子の様子でも見に行ってやろうかと思った。 真澄も、つい最近、五歳の誕生日を迎えたばかりの筈だ。
『透子と、同じ誕生日だモンな。 …あのヤンチャさで、透子と誕生日が一緒で、いったい将来、どんなンになるやら……』
自分が幼かった頃の事は脇に除けて、真澄の将来を心配してみたりした。
甥っ子・裕一も、そろそろ四ヶ月だ。 大変な頃だろうと思い、連絡を入れてから邪魔をする事にした。
「丁度良かった! 引越しするから、どうせなら、再来週にして手伝ってくれないかしら?」
「引越し先、見つかったんだ」
「一昨日、契約を済ませて来た所なの。 裕一もいるし、優は仕事で居ないし、早く連絡しようと思って、し損ねてた所」
「そーか、分かった。 ンじゃ、二十六日にするよ」
「男手があった方がいいし、良かったら、倉真君も連れて来てよ?」
「倉真を? 一応、聞いて見るよ」
「お願いね」
後ろで、裕一が泣き出す。
「ごめんね、オムツかな。 じゃ、時間はまた連絡するわ」
「ああ、お休み」
慌しく電話が切れた。 直ぐに、倉真へ連絡を入れた。
どうせ一度は顔を合わせている。 優との相性も悪くないらしい。 気楽な気持ちで頼んで見た。 倉真は直ぐに、OKしてくれた。
二十六日、日曜日は、明日香の両親まで手伝いに来てくれた。
引越しを二回も経験している倉真は、思った以上に頼りになった。 手際よく、壊れ物の梱包から、荷物の運び出しまで片付けて行く。
お陰で明日香は大助かりだ。 裕一は、明日香の母親が引き受ける。 真澄も五歳だ、少しは手伝いをしてくれる。 猫の手よりは、役に立った。
「流石に、子供の荷物が多いな」
倉真の呟きに、利知未が答える。
「玩具は皆、明日香さんのご両親が、買ってくれたみたいだよ」
利知未は、明日香の両親も居る。 何時もよりも言葉が丁寧だ。
「孫は子供よりも可愛いって、言うよな」
「この家族見てると、良く解るよ」
「玩具の数、見りゃ、一目瞭然だな」
倉真の働きと、息の合った利知未の行動で、予定より早くに片付いた。 二人の行動を明日香も見ている。 以前、来た時より更に仲良くなっている様子に、小さく微笑む。
「どうした?」
夫婦で力を合わせ、作業をしていた優が、明日香の笑顔を見て聞いた。
「利知未達、いい雰囲気だなって思ったの」
言われて、チラリと二人の様子を目に入れる。
「そうだな。 …良いんじゃないか? 釣り合い、取れてるよ」
「利知未も、姉さん女房になるのかしら?」
「……かもな」
一作業終えた明日香の父親が、二人が片付けている所へ顔を出した。
新居へ移って、今度は開梱作業が残る。 朝早くから始めていた。 昼過ぎに到着して、昼食を済ませた。
利知未と倉真は住所を聞いて、バイクで先行していた。
「利知未さんって、オートバイに乗る子なのね」
明日香の母親が、少し驚いて娘に言った。
明日香の両親の前では、思い切り猫を被っていたのだから、当然の感想かもしれない。 利知未の印象は、医科大学へ通う秀才で、家事もこなせて礼儀正しい、今時の若者にしては珍しい確り者、という所だ。
『まぁ、驚いても無理ないか』
「活発なお嬢さんよ。 彼女は」
利知未の本性を隠して、両親には、そう答えておいた。
夜、八時頃には、何とか今夜の寝床を確保できた。
「後は、少しずつ片付けて行くわ。 利知未、倉真君も、今日はありがとう。 本当に助かっちゃった」
裕一も寝かし付けた、夜、九時ごろ。 そろそろ帰ろうと、話していた。
「明日香さんのご両親は、今夜は泊まるんだ」
「部屋も増えたし。 お母さんが、もう二、三日泊まって、片付けを手伝ってくれるって」
「助かるな」
「本当。 まだ、裕一も手が掛かるし。 ちょっと、引越し急ぎ過ぎちゃったかしら?」
「大変な事、先に終わらせた方が、後が楽だよ」
「それもそーね。 じゃ、気を付けて帰ってね? 荷物が片付いて、落ち着けるようになったら、また遊びに来て」
「そうする」
「邪魔しました」
立ち上がる二人を、明日香の母親も見送る。 父親は、一番風呂を貰っているところだ。
チラリと、眠っている裕一を覗いてから玄関へ向かった。
ヘルメットを被ろうとして、利知未の表情が目に入る。 何かを思う利知未に、倉真が問い掛ける。
「どーした?」
「……さっき裕一を見てて、裕兄にも、あんな頃があったんだよなって。 あたしが生まれた時、裕兄はもう八歳だったから。 ずっと兄貴は兄貴のままだったし、あたしよりも小さい頃があった筈なんだよな、……何て、思った」
寂しげな表情を押し込めて、微笑を見せた。
「裕兄の歳に、追いついちゃったよ……」
それは、寂しい事だ。
微笑が、崩れかけてしまった。 それでも、まだ涙は見せない。
「お前は、生きてるんだ。 当たり前だよ……」
ほかに言葉が思いつかなくて、倉真が言う。
「……俺は、利知未が生きていてくれて、良かったと思うよ」
「サンキュ。 ……そろそろ行こう。 遅くなっちまう」
涙が出ないように、自分をコントロールする。 バイクのエンジンを始動し、公道へ出た。
バッカスの前で、二人は別れた。
「また、次の金曜に」
「ああ。 ……来週は、何処行く?」
「そうだな。 金曜までに、考えとくよ」
「んじゃ、俺もなんか見て探しとくかな。 気を付けろよ?」
「あと、五分で着くよ。 ……着いたら、連絡入れようか?」
「そーだな。 今日は、そうしてくれた方が、安心な気がする」
「分かった。 じゃ、後で、電話でな」
「おお」
利知未のバイクが、走り出した。
倉真は利知未のバイクが、角を曲がってしまうまで見送った。 それから一分程で、自分の部屋へ到着する。
優の新居を出る時の、利知未の寂しげな様子が気になっていた。
利知未は帰宅して、先ずは倉真へ連絡を入れる。
「無事、着いたか?」
「心配、し過ぎだよ」
「とは、思ったんだけどな。 ……裕一さんの事、思い出して、悲しくなってんじゃ無いかと思ったんだよ。 チョイ、心配になった」
「……サンキュ。 その内、墓参りにでも行ってくるよ」
「そうだな。 んじゃ、お休み」
「お休み」
電話を切って、お互いにホッとする。 倉真は、利知未の無事を確認して。
利知未は、涙が出そうになった時、倉真の優しさに、触れられた事に……。
十一月二日、三日の連休、里真と宏治は泊まりがけで出掛ける。
利知未は、一日を派遣バイト、一日を倉真とのツーリングへ出掛ける。
倉真も今の所は、日曜・祝日休みだ。 月曜に、二人で出かける事にした。
丁度、紅葉の季節だ。 思い出の城峯公園へと、バイクを走らせた。
あの時と同じ様に、展望から景色を眺めながら、今回は弁当持参だ。
「真澄ちゃん、何か、利知未に似てきたな」
弁当を突きながら、倉真が先週の事を思い出す。
「あたしに、って言うよりは、親父に似てんだろうな」
「優さんと利知未も、似てるよな、顔も体形も」
「昔から、よく言われてた。 年子だったら、双子に見えるかもしれないって」
「そーかもな。 四歳違えば、結構違うからな」
自分の妹、一美を思い出した。
『一美も、今年で十七だ』
自分が、家を出た歳と同じだ。 もう三年半、経った。
「お前、毎週あたしと出掛けてて、洗濯とか掃除は、どうしてるんだ?」
何気なく利知未が言い出す。
「最近は土曜も休めてるからな。 掃除は、土曜にやってンぜ? 前、来た時も、それほど散らかっちゃ無かっただろ?」
「…だな。 感心したよ」
倉真の部屋を思い出した。 荷物もそれ程、多くは無かったと思う。
先週、引越しの手伝いをした子持ちの家庭に比べれば、1/10位だ。
「洗濯は毎晩、風呂入ってる時に回しちまって、朝、干してく」
「豆だな」
「一人だし、ンな多くネーからな。 天気が悪い日が続くと、大変だぜ?」
「だろーな。 ……確り、主夫してンだ」
自分よりも余程、確りしていると思う。
来年、一人暮らしを始め様かと考え始めた利知未は、その生活がどんな物になるのか? 倉真の話を聞きながら考えた。
「……月、いくら稼いだら、一人暮らし出来るんだろうな」
呟いた言葉に、倉真が聞き返す。
「下宿、出るのか?」
「来年、インターンに入ったら、生活が不規則になるだろうからな。 あの下宿が成り立ってるのは、生活時間に狂いの無い、学生が店子だからだ」
「……言われて見りゃ、そーか」
利知未が一人暮らしをするなら、関係をもう少し進展させて置きたいと思う。 やはり、倉真もそろそろ、我慢の限界を感じている。
「話し、変わるけど。 来週はまた、学祭だからツーリングは無理そーだ」
「そーか、もう、そんな時期なんだな」
「冬桜、今年も綺麗だよな」
「そうだな。 利知未の弁当も、相変わらず美味いな」
「チョイ、寄っちゃったけどね」
弁当箱の隅へ偏っている、惣菜を眺めて笑う。
「しゃーねーだろ? バイクじゃ」
「だよな」
軽く吹き出して、利知未が話を戻す。
「今年も大学祭、遊びに来るか?」
「そーだな、どーせ、暇だ」
「じゃ、案内してやるよ。 来年は、参加出来ないだろうからな」
『時間は、あっという間だな……』
二人の思考が、同じ所を巡る。
「……早いな。 利知未と会ってから、もう七年以上か」
「始めは、FOXのセガワだったけどな」
「もうチョイ、早くに利知未の正体、知って居たかったと思うぜ」
「そうしたら、どうなってたと思う?」
「……悩んでいた時間が、少なくて済んだんじゃネーかと、思うよ」
裏の思いは、利知未には、解らない。
「……悪かったよ。 あの頃は、必死だったんだ」
「今更、言う事じゃ無かったよな、ワリー」
二人の会話が途切れ、景色を眺めながら弁当を突く。
「……今月は、もう一回、日・月の連休があるだろ?」
「ああ、二十三・二十四日だな」
「次の約束は、二十三日でイイか?」
「構わないぜ? 二十四日、用事でもあるのか?」
「裕兄の月命日だ。 先週、言っただろう? 墓参り、行きたいと思ったんだ」
「……そーか。 ゆっくり、話して来いよ」
「ああ。そーする」
弁当を食い終わり、一服してから立ち上がる。
「散策、してこうか?」
「そーするか」
二人、手を繋いで歩き出す。 空の弁当箱の入ったザックは、倉真が担いだ。
双子が通う大学は、この連休が大学祭だ。 秋絵が籍を置く映画サークルの、上映会が行われた。
「評判は、イイみたいだね」
初日の上映分、アンケート用紙を眺めて、秋絵が言う。
「まぁ、過去の作品から見ても、脚本は上位だな」
川崎は、自分たちの映画でさえ、甘くは見ない。
「正己が、イマイチ演技の面では、甘い感じがするよ」
「厳しいな」
バーテンダー役をやっていた、三年の先輩が言う。
「外見は、良いんだ。 その部分でのファンには、好評みたいだけど……。 これ、他の大学で、演劇部の役者してる人のアンケート。 厳しい事、書かれてる」
「舞台と映像は、また違うんだけどな」
正己役の藤澤が、渋い顔をする。
「けど、痛い所、突っ込まれてる」
「結局、脚本だけは、賞を貰えたんだよね」
「プロの目は、誤魔化せない」
「カメラワークは、いい所まで評価されてますよ?」
川崎が、冴吏ファンの二年・カメラマンへ声を掛ける。
「それは、この前の作品コンクール評価でも、そこそこ良い事、言って貰っていたからな」
カメラマンは、それでも謙虚だ。
「けど、作品の良さ引き出し切るのは、やっぱり大変だ」
「……次は、なに撮るかな」
「また、考えて、話し合いだね」
「くそ! 来年こそ作品コンクールで、大賞狙うぞ」
来年度の代表が言った。
「また、仲田さんに脚本、頼めないかな?」
「聞いては、見ます」
「頼む」
「今日、午後の上映に、冴吏が来るって」
秋絵が、川崎に言う。
「そうか。 アンケート、書いて貰おう」
「書いてくれるよ、頼まなくても」
「作品に掛ける姿勢は、流石にプロだよ」
以前、プレミアム上映を見に来てくれた時の、冴吏の事を思い出した。
「そりゃ、プロだもん」
「仲田さんは、きっと将来、良い作家に成るんじゃないかな?」
厳しい川崎が、褒めた。 秋絵は、同居人として嬉しく思った。
里真と宏治は、この旅行で、先の事を話し合っていた。
里真の気持ちを始めて聞いて、宏治は、やはり複雑な気持ちになった。
……それでも、改めて引き止める事は、やはり出来なかった。
四
十一月九日。 今年も準一が、倉真と和泉を引き連れて学祭へ遊びに来た。 勿論、透子に絡む。 離れた所から、大きく手を振っている。
「トー子オネー様!」
「また、来たな」
「お前、いい加減ハッキリ断ってやりゃ、イーだろーが」
「面白い玩具だから、飽きるまで遊んで上げないと」
「何時になったら、飽きるンだか」
「今年度一杯は、持つんじゃないか?」
「そーかよ」
倉真の姿が見えると、無意識に利知未の雰囲気が、微妙に優しくなる。
「アンタの新しい男、あの子だって?」
「……新しい男って、」
「プレゼントは、活用してるか?」
横目でチラリと利知未を見て、ニヤリと笑う。
「…そー言うつもりで、寄越したのか」
「当然。 また、アンタがこの辺に痕つけて来るの、楽しみにしてんだから」
利知未の胸元を、一指し指で突く。
「あ、女同士で、なにエッチなこと、やってんだ?!」
「ジュンちゃん。 アタシと利知未の仲を、邪魔しないでね?」
「…って、やっぱ利知未さんは、そー言う気があったんだ!?」
悪乗りをする準一の頭を、近くに居た倉真が小突く。
「バカ言ってンな!」
「釣り目Gay! 利知未とは、どうなってンだ?」
「釣り目Gayって、また、トンでもない仇名つけられたもんだな」
「スキンヘッドは、それがトレードマーク。 ジュンちゃんは、弟君から一応、格上げ」
「利知未とは、イイ付き合い、させて貰ってますよ」
「おお! 進展してるじゃないか!? プレゼントの効果、有りか?」
「プレゼント?」
「アタシが、今年の誕生日に上げた、セクシィ・ランジェ…、」
モガモガ、と、言葉が消える。 利知未の手が、透子の口を塞いでいる。
「どーでもイイだろ? 学内、案内するよ」
話を変え、利知未が倉真達を促して、場所を変えた。
「人体の不思議館?」
「医科大学ならでは、って感じだな」
「人体模型が、手招きしてんジャン!? オモシレー!」
「……授業を、思い出すよな」
「アンタ、初めて開いた時、珍しくご飯食べられなかったよね」
「やっぱ、無理だろ?」
「そう? お財布君の学部仲間の女は、後で平気で焼肉、食いに行ったって」
「…チョイ、その神経は、真似出来ネーな」
倉真はいつかの映画と、伊豆でイソギンチャクの食事風景を目にした時の、利知未の顔を思い出す。 少し、ニヤてしまう。 和泉が突っ込んだ。
「お前も、こう言うの見てニヤけるとは、変わってるな」
「アン? チゲーよ、面白いことを思い出しただけだ」
「人体模型を見て、どんな面白いことを思い出すんだ?」
「…言えネーな」
利知未の可愛らしい所は、内緒にして置きたいと思う。
『俺だけの楽しみって、事だよな』 益々、頬が緩んでしまった。
「気味悪いヤツだな」
「何とでも言ってくれ」
先に進む利知未へ、準一が人体模型の手を使って、肩を叩く。
「ん?何…!?」
小さく、『キャッ』と、ありえない声が上がる。
「利知未さんが、キャ、とか言った! すげー、珍し過ぎる!!」
赤くなる利知未より早く、倉真の手が出た。
「イッテ! 何で、倉真が殴るんだ?」
「当たり前だ。 クダラネー事、やってんな」
「デカした! イイ子、イイ子」
透子がジュンの頭を、かいぐりながら言った。
「平気か?」
「……平気だ」
倉真が利知未の隣へ行き、心配そうな顔をする。 その二人の様子を、和泉が感心して眺める。
『上手く、行ってるんじゃないか』
由香子に、会いたくなった。
樹絵は、中島との関係が徐々に、進んでいる。 準一が、利知未の大学祭へ遊びに行っていた、その日。 二人で釣りへ出掛けた。
「樹絵ちゃん、マジ、得意なんだよな。 今ンとこ、連敗中だよ」
「恐れ入ったか?! けど、神奈川は面倒臭いよな、ただ、釣りするのに海釣り公園とか行って、入場料払わないとならないって、北海道じゃ考えられない事だよ」
「だから態々、こっちまで車、飛ばして来てんじゃないか」
「亨が車の免許持ってて、良かったよ」
神奈川県の隣、静岡県は伊豆半島。 その辺りの防波堤へ腰掛け、本日の成果を比べ合っていた。
「今回は、数はオレの勝ちだな」
「デカさじゃ、あたしの勝ちだよ」
「ンじゃ、今日も家へ行って、母さんに何か作ってもらうか」
「亨のお母さん、魚を捌けるんだよな」
「実家が、魚屋だからね。 小さい頃から仕込まれたって、言っていたよ」
「亨の釣り好きは、お母さん側の祖父ちゃん譲りって、事だな」
「そーだな。 始めに、オレと兄貴に釣り教えてくれたの、祖父ちゃんだ」
「じゃ、今日も粗汁飲めるじゃん! やった!」
「樹絵ちゃんが、そー言うの好きで、母さんも喜んでるよ」
「さて、片付けて帰ろう」
「今から出れば、四時前には着く」
仲良く、釣り道具を片付けて、初心者マークが取れたばかりの中島が運転する車に乗り、伊豆を後にした。
樹絵は、元々の溌剌とした、余り遠慮深くない性格で、すっかり中島家の家族とも、打ち解けてしまっていた。
今の所、次男の彼女というよりは、女友達の扱いではある。 母親とも仲良くなってしまった。
樹絵たちが釣って来た魚を料理して、全員で食卓を囲む。
「亨が樹絵ちゃんと釣りへ行った日は、夕食の材料費が掛からなくて助かるわね」
「釣りたての魚は、美味いな」
母親が言えば、父親もビールを飲みながら、新鮮な刺身に舌鼓を打つ。
「兄貴たちは?」
「まだ、帰ってないよ。 折角の新しい魚が、勿体無いねぇ」
祖母も、魚は好きだ。 美味しそうに食べている。
「お婆ちゃん、この日は何時も以上に、ご飯を食べられるのよ」
嫁・姑関係も、良い家庭らしかった。 嬉しそうに、母親が言う。
「おばさんの作る粗汁、本当に美味しいです」
何時も通りの言葉には、流石にならない。 一応、樹絵も気を付けている。
「お代わり、注ごうか?」
「お願いします」
遠慮なく椀を出す。 亨との関係よりも、その家族との関係の方が、発展してしまった。
夕食後、亨の部屋へ上がりこんで、ゲームを始める。
「樹絵ちゃん、ゲームも上達したよな」
「こうショッチュウ、上がりこんでやらせて貰えれば、覚えるって」
「賭け、しようよ?」
「賭け?」
「オレが三連勝したら、改めて、付き合ってよ」
「付き合うって、今だって、付き合ってるんじゃないのか?」
「そろそろ、オレの事も、好きになって来てくれたかなと思って」
「………だったら、賭けなんかしなくても、イイよ」
「それは、OKって事で、イイのかな?」
無言で、小さく頷いた。
「マジで?!」
「……嘘言って、どうするんだよ?」
「やった!」
照れている樹絵に、勢いでキスをした。
びっくりした。 けれど、先輩とのキスに比べて、素直に受け入れられている自分の気持ちを、樹絵は理解した。
『……ジュンより、今は、亨がいい』
それよりも、もう一歩進みたい思いを、中島は取り敢えず収めた。
『皆、下に居るからな……。 変な事、出来ねーや』
キスだけで我慢して、唇を離す。
「……ちょっと、生臭かったな」
「ご飯、お刺身だったからね」
二人、言葉を交わして、小さく笑う。
二時間ほどゲームをして、九時前には中島が、車で送ってくれた。
「じゃ、明日、大学でな」
「うん。 サンキュ」
軽く手を振って、中島の車を見送った。
利知未は翌週、倉真と箱根を走り、月曜・二十四日に、裕一の墓参りへ出掛けた。 献花と線香を持ち、久し振りに裕一の墓前を訪れる。
今回は、裕一が好きだった、酢豚を作って来た。 静かにゆっくりと、話をしたいと思っていた。
花を手向け、線香へ火を着け、弁当箱の蓋を開けて、手を合わせた。
『久し振り。 大学四年になったよ。 ……今は、裕兄と同じ医大生だ。 流石に、勉強が大変になって来た』
……裕兄の使っていた医学書見てると、本当に大変だったんだなって、改めて思う。 けど、裕兄はどんな大変な時でも、あたしや優兄を、ずっと見守っていてくれた……。
「裕兄が亡くなったのと、同い年になっちゃったけど、全然、兄貴には叶わない……」
呟いて、段々と瞼が、熱くなる。
『優兄も、言ってたっけ。 兄貴の歳を二歳も越えて、真澄が三歳になって漸く、兄貴に本の少しだけ、近づけた気がするって……』
もう、二年前の言葉だ。
後二年後、自分は、少しは裕一に近づけているのだろうか……? あの、優しさも、逞しさも、頼り概も。
『あたしは、女だから……。 裕兄を目指したって、無理かもしれないけど……』
それでも、と思う。
裕一が自分たちに掛け続けてくれた、深い愛情。 あれだけは、見習おう。 目指してみよう。
『優しさって、本当に強い心が無いと、持ち続けるのは大変だけど……』
自分は、あの頃よりは、少しは成長出来ているのだろうか……?
墓石に問い掛けても、答えは返ってこない。 悲しさが込み上げて来る。
「裕兄、ごめん……。 やっぱ、強くは、成り切れないかも知れない……」
……小さく言って、声を上げて、涙を流す。
それから、二時間は墓前に膝を付いていた。 漸く涙が枯れ始め、啜り上げる。
『やっぱ、ココへ来ると、駄目だ……。 小学生の頃に、戻っちゃうよ』
裕一も一緒に、優と三人で、大叔母の家で生活していた五年間。 あの頃に、心が逆戻りしてしまう。
中学へ入り、里沙の下宿へ入居してから先は、年に三回ほどしか裕一に会えなかった。
「……今度は、連れて来たいヤツが出来たよ。 ……多分、強く成り切れない、あたしの心を。 ………確りと、受け止めてくれそうなヤツ」
倉真のことを思う。
ネックレスに、軽く触れてみた。 気持ちが、柔らかくなっていく。
「……けど、本当は、まだ不安なんだ」 『応援、してくれよ? 裕兄』
心の中で呟く。 裕一が優しく、頷いてくれた気がした。
『お前が女らしくなってくれるんなら、俺は大歓迎だけどな』 空耳だと思う。
それでも裕一が、生前に聞かせてくれていた優しい声が、風の音と一緒に利知未の心へ、語りかけてくれた気がした。
ゆっくりと弁当箱へ蓋をして、帰宅の準備を始める。
「酢豚、美味かったか……?」 小さな声で問い掛けた。
利知未が、裕一の墓参りへ出掛けた日。
倉真は、朝から部屋の片づけを始めた。 時間を持て余していた。
『ココんとこ、毎週、利知未と出掛けてたからな……』
今日は月曜だが、祝日だ。 一通りの部屋の片付けを終え、適当に昼飯を食い、ビデオでも借りてこようと部屋を出た。
『……待てよ。 久し振りに、克己の所にでも顔出してくるか?』
思い立ったら、直ぐに行動へ移す。 真っ直ぐ克己の元へと向かう。
いきなりやって来た倉真を、克己は相変わらず人のイイ笑顔で迎えてくれた。 響子も八ヶ月になる長男・学の面倒を見ながら、茶を出してくれる。
「もっと、ちょこちょこ顔を出して上げてくれますか? 館川さんが来ると、夫も喜びますから」
響子が克己を指す夫と言う言葉が、似合うと思った。
似合う様になったと言えるかも知れない。
「克己も頭、地味になったんだな」
「学が生まれたからな。 近所の目もある。 まともな親父じゃネーと、ガキが可哀想だろ」
「本当に、今の館川さんと同じ様な頭の形になったでしょう?」
響子は子供を抱え、幸せそうな笑顔を見せた。
「今日は、利知未さんは ご一緒じゃ無いんですね」
「そうだ、お前ら どうなってるんだ?」
「どうって言われてもな」
気持ちの上では相思相愛なんだろうと、克己が言っていた言葉を響子も覚えていた。夫から、二人の微妙な関係は少しだけ聞いた。
「私は、てっきりお二人は恋人同士だって思ったんですよ。 お祝いに来てくれた時」
言われて、倉真が照れ臭い顔をする。
「……早いとこ、周りの期待に応えネーと駄目みたいだ」
情けない表情で呟いた。
準一は最近、仕事を頑張っている。
『トー子さん、金がないと、どーにもならない人みたいだしな』
ついでに、バイクだけではなく、車の維持費まで、稼がなければならない。
基本的に、夜勤のバイトを主に入れる事にした。 週五日やれば、月で二十万は稼げる計算だ。 この際なので、貯金をいくらか、しておこうと思っていた。
『また、金掛かる条件出された時、焦らないで済むよな。 ソーしとけば』
透子のお陰で、少しは先の事を計算出来るように、なったようだ。
自分にとっても、丁度良い相手なのでは無いかと、最近、何と無く透子の事を見直した。
来年の三月ごろまで、この生活を続けて、月、十万円ずつ貯めて行けば、五十万円は貯まる筈だ。 頑張って稼いだ金で、中古車を買ってしまった分は、確りと取り戻す事が出来る。
『和尚も、由香子ちゃんのタメに色々、頑張ってるんだモンな。 女のために頑張るって言うなら、オレも、何とかなるかもしれない』
準一も二十歳になり、どうやら少しずつ、成長し始めたらしい。
冴吏の元には、吉報が届く。
「この前の短編、評判良かったよ。 今年度一杯、もう少し短編書いて貰って、来年度、四月号から、中篇の連載の話が決まりそうだ」
「本当ですか? ありがとうございます」
電話で、担当編集者と話をする。
「次回の構成、考えなきゃならないから。 プロットを来週までに考えてきて。 金曜日に渡してもらいたい」
「解りました。 考えて行きます」
作家、仲田冴吏が、本格的に動き出す。
朝美と利知未は、相変わらずだ。 毎晩、リビングで晩酌をする。
「今日は、冴吏が参加か?」
「嬉しい報告があるから、偶にはイイかと思ったんだけど」
「仕事?」
朝美の質問に、冴吏が頷く。
「もう少し頑張れば、中篇連載が始められそう」
「そりゃ、良かったな! おめでとう」
利知未も、珍しく素直に祝いの気持ちを表した。
「じゃ、乾杯と行きますか?」
「ソーだな」
そこへ、樹絵が現れる。
「何だよ? 随分、賑やかじゃないか」
「今、帰ったのか? 遅かったな」
「まだ、十一時前ジャン。 あたしも、一緒に飲もうかな」
「そーしな! 冴吏の前途を祝して、乾杯する所だから。 早くグラス持ってきな!」
「なんだか解らないけど、分かった。 ちょっと待ってよ」
樹絵は、帰宅したそのままの格好で、キッチンへと向かう。
直ぐにグラスを持って、リビングへ取って返す。
「ンじゃ、冴吏の連載決定を祝って、乾杯!」
「ソーなのか? おめでとう! 乾杯!」
四人で、グラスを合わせた。
「決定って言うには、まだ少し早い気もするけど……。 ま、イイか」
冴吏も笑顔で、酒に口を付けた。
月曜の夜だ。 利知未は今日、裕一の墓前で改めて、決心して来た事を目指して、前進して行こうと思う。
『優しさって、本当に強い心が無いと、持ち続けるのは大変だけど……』
それでも、強く優しく在りたいと、今、感じていた。
五
直ぐに、十二月がやって来る。 利知未は、二学期の提出物に追われていた。
それでも、金曜のバッカスでの手伝いは、勿論、続ける。
最近、倉真が必ず飯を食いに来る事を想定して、金曜日の冷蔵庫の中には、それなりの食材が、用意されるようになっていた。
大体、宏治が適当な物を買い込んで置いてくれる。 中学時代から、二人の親友関係は変わらない。
「今日は、生姜焼き定食でも、作れそうだな」
冷蔵庫の中を検分して、利知未が言った。
「飯は、コンビニの炊き立てご飯ですけど、買って置きましたよ」
「流石、気が利くな」
倉真も、宏治の用意周到さには、感謝だ。
「キッチリ、代金は貰ってるからな。 サービスの内だ」
「宏治は中々、商売上手だな。 美由紀ちゃんも、頼もしい跡取りが出来たな」
「まだまだ、甘い、甘い。 これからも頑張って貰わないと」
「店、改装すればイイじゃないか? 最近、客も増えて来たし」
「その内に、考えようとは思うけど、今の所は予定に無いわね」
「良いんじゃないか? お袋がココまで守って来た店だし、おれも、この店は好きだから。 今のままで、十分だと思うよ」
「その分お金貯め込んで、将来は、左団扇で生活したい所ね」
「イイ夢だ」
宏治も、美由紀の言葉に笑みを見せる。
「早いとこ、孫の顔も拝んでみたいけど」
「……それは、気が早過ぎないか?」
母親の言葉に、突っ込んでしまう。
「アンタは、まだ二十一だけど。 宏一はもう、二十八にもなるのよ? 一人位、紹介したいお嬢さんが居るって、連れて来ていても可笑しくないわよね」
「兄貴に期待するのは、無理じゃないか?」
「だから、宏治でもイイから、早く親孝行して頂戴よ」
「宏一に見合いでも、探して見るか」
「熊さん、探してくれるの? そうね、宏一にも、聞いてみようかしら……?」
そのまま常連組みは、自分の知り合いに、丁度イイ年頃のお嬢さんが居る等と、情報交換を始めてしまった。
「……兄貴、気の毒に」
宏治の呟きに、倉真が笑う。
利知未が、特製・生姜焼き定食を完成させ、倉真の前へ並べた。
「お待ちどう様」
「サンキュ。 美味そうだ」
直ぐに、がっつき始める。
利知未は倉真の食いっぷりを眺めて、女らしい優しげな微笑を見せた。
「材料、少し余ったな。 裏メニューで、豚肉の野菜巻きでも作るか?」
「残しても仕方ないし、そうしますか?」
「準備だけ、して置くよ」
宏治が頷いて小さな黒板に、本日のお勧めメニューを書き足した。
倉真の夕食食材の残り物は、何時も利知未の機転で裏メニューになる。 調理も利知未が居る間の注文は、自分でする。
十二時までに捌けない分は、宏治が引き継いで閉店まで出す。
今の所、翌日にまで残ってしまう事は無かった。 利知未の料理はココでも中々、評判が良い。 大体、利知未が居る時間内で捌ける。
勿論、それも売り上げに繋がる。 倉真に利知未を取られていないのなら、宏一を嗾けてしまいたい所だと、美由紀は内心、思っている。
『利知未が娘になって、ずっとこの店を手伝ってくれたら、本当に助かるんだけど……』
今夜も心の中で、独りごちていた。
今学期分のレポートも提出し終わり、漸く一息付いた。
利知未は思い立って、バータイムのアダムへ顔を出す。
「久し振りだな。 この時間に来るとは珍しい」
マスターは利知未を迎えて、嬉しそうな笑顔を見せる。
「マスターのカクテル、飲みたくなった」
「嬉しい事を言ってくれるな」
「何か、お勧めはあるか?」
「そうだな……。 今のお前の雰囲気でも、表してみるか」
「楽しみだな。 どんな風に見えてるんだろ」
倉真との事を考え、悩みがちな利知未の雰囲気は、以前とは違う感じだ。
『随分と女っぽい顔付きに、成って来たもんだ』
シェーカーを振り、一杯のカクテルを作る。
「お待たせ致しました。 シャディ・レディです。 テキーラベースのカクテルだ」
出されたカクテルを見て、利知未はバイト中に覚えた、メニューに書かれていた注釈を思い出した。
グラスに映り込んでいる、今の自分の表情を見つめて呟く。
「……そんな、イイ女には、成れては居ないと思うけどな」
「十分、陰のある女に見えるぞ?」
「妖しい美しさってのは、程遠いよ」
それでもグラスを軽く上げて、乾杯のポーズを取る。 一口、口を付ける。
「アイツとは、まだ相変わらずか?」
「相変わらず、と言うか……。 まだ、自信が無いんだよな」
「何の自信だ?」
「……アイツに、女として見て貰える自信」
「その点は、取り越し苦労だと思うがな」
マスターの呟きに、軽く目を上げる。
ゆっくりと一杯を飲みながら、話をした。
「お前らしくないな。 勉強は、変わらず大変か?」
「楽になるワケは、無いよな。 ……来年から、インターンとして現場に携わって行くんだ。 知識が必要になる。 現場に出る寸前の、追い込みみたいだ」
「アイツとの関係が落ち着いた方が、勉強にも、身が入るようになるんじゃないか?」
「……それも、一理あるとは、思うけど」
「自信がない、か」
無言で頷いた。 グラスが空になり、マスターが聞く。
「次は、お前たちの関係でも、飲み干すか?」
「関係を、飲み干す?」
「任せておけ」
再び、シェーカーを振る。
「プラトニック・ラブ。 これは最近、覚えて来た」
「覚えて来た?」
「バーテンも勉強だ。 自分でもオリジナルを考えるが、巧みの技を盗むのも、大事な修行だ」
「勉強熱心だな。 ……けど、コレを飲み干すみたいに、簡単には行きそうも無いな」
「だが、まだ裏メニューだ。 人には言うなよ?」
「……詐欺紛いだな」
「お前だから、出したんだ」
そう言って、マスターがニヤリと笑う。
「……サンキュ。 ンじゃ、飲み干してみるか」
次にマスターが出したカクテルは、『ハンター』だった。
ステアで作るカクテルで、利知未もバイトをしていた頃に作り、客へ出した事があった。
今日はマスターが、心の注釈をつける。
「狩って来たらどうだ?」
「狩る?」
「お前の、得意技だろう」
「……それは、どう言う意味だよ?」
赤くなって、マスターを軽く睨んだ。
「良い武器だと、思うがな」
裏の意味に剥れて、一気に飲み干す。
「その意気だ」
利知未の飲みっぷりを見て、マスターは、満足そうな笑みを見せた。
冬休みに入り、金曜のバッカスからの帰り道。 何時もの様に、二人、手を繋いで歩いていた。
「今年は、初日の出ツーリングでも、行って見るか?」
倉真が、ふと思いつく。
「初日の出ツーリングって、……何か、暴走族みたいだな」
利知未が、呆れた様な表情になる。
「克己に昔、それでバイク、借して貰えなかった事があったな」
「克己のバイクを借りていた頃って言うと、倉真が中学の頃か?」
「そーだな。 高校受験の年に、部屋に軟禁されていた時期があった」
「……丁度、あたしの正体がバレた後くらいか」
「そンくらいだな」
今、こうしている光景など、考えも及ばなかった頃だ。 微かに笑えてくる。
「そーだね。 行って見ようか」
敬太と、付き合っていた頃でもあった。
恋人と二人きりだった時の、自分自身が、フラッシュバックしてくる。
利知未の雰囲気が女らしくなり、喋りも少し変わってしまう。
「……猫みたいだな」
「なにが?」
「気分で色々、態度が変わる」
「それは、どう取ればいいんだ?」
「どうって?」
「倉真は、猫のそう言うところは、好きなのか、嫌いなのか?」
「らしくて、良いんじゃないか?」
「猫らしいって、こと? って事は、これが、あたしらしいって思うと言うのと、イコールなのか?」
「何か、ごちゃごちゃした質問だな」
「……自分でも、そう思う」
少し照れた利知未が、可愛く見えた。
『ヤベーな、このままじゃ……』
理性の働きが、薄くなって行く様な、妙な気分になる。
『……遠回し過ぎたかな?』
聞きたい事を素直に問うのなら「倉真は、あたしのそう言う所は、好きなの?」と、問えば済む。
『けど、それはやっぱり、恥ずかしいよな……』
益々、照れ臭くなって来た。
倉真の視線を感じて、目を上げる。
「……何か、変?」
「変って言うか…。……可愛く見えた」
「酒の所為、って事で」
「そんな、酔っ払ってるつもりも、ネーけどな」
「……酔ってると思う。 倉真、普段はそう言う事、中々、言わないよ」
「お前も、酒飲んでたか?」
「……結構、意地の悪い言い方をするよな」
照れ臭いのと混ぜコゼになって、軽く膨れてしまう。
その利知未を見て、倉真が小さく吹き出す。
『これは、もう、……恋人と呼んでは、いけないのだろうか?』
勝手に、利知未の手を自分の腕へ絡ませて見た。
利知未は、少し驚いた後で、素直に倉真の行動に従った。
軽く腕を組む様にして、ほんの五分ほど無言で歩いた。 直ぐに下宿の前へ到着してしまう。
「残念だな」
「……もう少し、歩く?」
「夜中の散歩でも、するか」
「明日、仕事は?」
「明日は、休みだ」
「そっか。 ……じゃ、アダムの前を通って、河原辺りまで行って見る?」
「ソーするか」
頷いて、もう少し確りと腕を絡めた。 仲良く歩き出す。
河原に着くまで、小声で今までの思い出を、語り合って来た。
「ここ、何時か、倉真に話したよな。 マスターと、初めて会った場所」
「野良猫のホットミルク、か?」
「そう。 ……あの出会いが無かったら、今の時間も在り得なかった」
枯れ草の上へ、腰を下ろした。
月明かりに浮かぶ水面を眺めながら、倉真がタバコに火を着ける。
「携帯灰皿、持ってるか?」
周りを見回して、空き缶を拾った。
「こいつで、勘弁」
「仕方ないな。 ちゃんと持ち帰って、洗って捨てないと」
里沙が結婚してあの家を出てから、店子たちは交代で朝のゴミ捨てをしている。 勿論、キチンと分別している。
「……確り者だよ」
「倉真だって、自分でゴミ捨て、してるんじゃないのか?」
「ま、そーだけどな」
利知未も隣に腰掛ける。
いつか海の公園で、夜中、隣に座った距離よりも、その距離は近い。 倉真が、利知未の肩を引き寄せる。
「……寒いよな。 流石に、十二月の河原は」
素直に、身を寄せてしまう。 少し照れ臭い。
「……出会っていたと、思うけどな。 俺達は」
「なにが?」
「例え、お前がココで、アダムのマスターに知り合っていなくても……」
「……どうして、そう思う?」
「縁が、あるんじゃないのか? 俺たちの間には。」
そうあって欲しいと、倉真は思う。 利知未も、同じ思いだった。
「……そー、だね。 ……きっと、出会っていたよ、あたしたちは」
「関係は、違っていたかも知れないけどな……」
……もしかしたら、初めから。 恋人同士となる相手として、出会えていたかも知れない……。
「……そーだね。 もしそうなら、どうなって居たんだろう?」
小さく頷く利知未の顔を、横から少しだけ覗き込む。
倉真が、タバコを口から外した。 自然と、唇を求め合う。 ……けれど。
利知未はふいと、横を向く。 逸らされて、倉真は小さく首を竦めた。
「……帰ろう」
「……そうだな。 悪かった」
倉真の言葉に、小さく首を横へ振って答える。
立ち上がり、手を繋いで歩き出した。
『……今、雰囲気に流されたら……』
倉真の本当の気持ちが、解らなくなってしまいそうだ。
『……やっぱ、まだ、駄目だな』
利知未の心は、完全に解れては、いないみたいだ。
無言で、下宿の前まで歩く。
それでも、繋いだ手は離さない。
『この手を、離してはいけない』
倉真は、そう思って力を込める。
『この手は、離したくない……』
利知未は、そう感じて、倉真の力に軽く反応する。
最後に、利知未は挨拶代わりに、倉真の頬へキスをした。
「お休み」
「……お休み」
くるりと背を向けて、利知未が玄関のステップへ消えた。
クリスマス。 恋人同士は、それぞれのパートナーと約束をして、出掛けて行く。
今年のイブは、火曜日だ。
利知未はイブの夜、佳奈美に誘われて、久世家のパーティーへ参加する。
「お父さん、毎年この日は忙しいから」
アダムのクリスマスは、従業員一同にとっては、まるで戦争の様だった。
「だから毎年、お父さん抜きで過ごすのよ」
「六年前からは渉が増えたから、賑やかになったけど。 それまでは、二人きりでケーキ食べてたよね」
「そうだったわね」
四人でケーキを囲み、智子と利知未には、軽く酒が入る。
「渉も六歳だから。 漸く、少しくらいは飲めるようになったわね」
「佳奈美も高校生だからな。 面倒、見てくれるんだろ?」
「渉、我侭だから大変だよ」
お姉さんらしくなった佳奈美が、イッチョ前に首を竦めた。
十時前には、久世家を辞去した。
里真は、宏治の働くバッカスへ、初めて顔を出す。
「仕事、忙しいだろうから。 プレゼントだけ、渡したかったし」
「サンキュ。 ……店、終わるまで待ってて貰えるか?」
「分かった。 のんびり、飲んでるね」
「ああ」
クリスマスカラーに彩られた店内で、宏治は忙しく立ち働く。
里真は、その宏治を眺めながら、ゆっくりとワインを飲んでいた。
アダムは、今年も忙しい。 有力な働き手だった、利知未と妹尾が抜けた穴は、やはり大きい。
「仕方ないな、気張るか」
「そうですね」
カウンターで近藤と二人、気分はねじり鉢巻だ。
皐月は、アダムの社員・松尾が恋人だ。 デートは仕事の後に回して、きりきりと立ち働いた。 別所もイブと当日の二日間は、労働基準法ギリギリの、二十二時まで頑張ってくれた。
今年も、アダムの店内には、カップルが溢れている。
樹絵と中島は、この夜、初めて結ばれる。
二人とも、初めて同士だ。 これからまた改めて、新しい関係が始まる。
透子に振られた準一は、今日もバイトに精を出す。
『やっぱ、イベントはお財布連中が優先かぁ』
「仕方ない、稼ぐか」
これから街が賑やかになる、十九時過ぎ。 本日の現場へと向け、バイクを走らせる。
夜・十時半に帰宅した利知未は、朝美と冴吏、美加の四人で、夜中までパーティーをする。
「アンタ、折角のイブに、約束は無いの?」
「それ言ったら、朝美だって同じだろうが」
「そりゃ、そーだ」
「私も、美加も同じ事よ。 イイじゃない、タマには」
「わたし、明日のお昼には、実家へ帰るから」
「分かってるよ、駅まで送る」
「ありがと、りっちゃん!」
女同士で、クリスマスイブの夜を過ごす。 それなりに、楽しかった。
六
利知未は、あの夜から三週間、日曜にバイトをしていた。
倉真とは、金曜のバッカスと、その帰り道のみ、一緒だった。
この三週間、利知未は少しだけ、倉真と離れてみていた。
思いは、変わらない。 ただ、自分の気持ちを、整理したかった。
『倉真と、雰囲気に流されてそうなるのは、やっぱり、嫌だな……』
敬太との始めての夜の様に、お互いが心から求め合った結果で、あって欲しいと思った。
大晦日の、夜九時前。 倉真から、利知未の自室へ電話が入る。
「折角だ、二年参りして、それから初日の出を拝みに行かないか?」
そう誘われた。 少し、考えてしまう。
「……それなら、一度、戻って、仮眠取らないと辛そうだな」
「それでも、イイぜ」
少しでも、利知未と居たいと思う。
「倉真、その後、寝坊しないで起きられるか?」
「お互い様だ。 ンじゃ、迎えに行くよ」
「待ってる」
約束をして、受話器を置く。
それから入浴を済ませて、支度をする。 この夜、下宿に居るのは朝美と冴吏だけだった。
冴吏には新年早々、仕事が待っている。 その合間に秋絵に頼まれた、アクションありの、ラブストーリー脚本を考える。
風呂上りの利知未を、朝美が捕まえる。
「今夜のご予定は?」
「二年参り」
「それだけ?」
「その後、仮眠とってから、また出る」
「いっその事、夜通し一緒に過ごしちゃえばイイのに」
「……それは、出来ないよ」
「さっさと、進んじゃいな」
「…人事だと思って」
「バッチリ人事よ。 それまで軽く、付き合いな」
グラスを掲げて見せた。
利知未は一度、自室へ戻り、髪を乾かしてから、グラスを持ってリビングへ入る。
「んじゃ、今年も一年、お世話になりました。 来年も、ヨロシク」
「三ヶ月だけだな。 朝美の手伝い、出来るのも」
「やっぱり、ココを出るの?」
「無理だろ。 時間が、滅茶苦茶になる」
「そっか。 じゃ、大学生トリオに手伝わせて、何とかするしかないな」
「……悪いな。 けど、残った方が迷惑掛かるよ、きっと」
「仕方ない。 利知未の将来、邪魔する訳にはいかないでしょ?」
「サンキュ」
「ンじゃ、前途を祝して」
「ああ。 乾杯」
倉真が迎えに来るまでの、約一時間半。 朝美と晩酌をしながら、テレビを眺める。
「引越し代は、何とかなりそうなの?」
「そのために、この冬休みはバイトばっかりしてるだろ?」
「成る程ね、デートの時間も惜しんで、金を稼いでいた訳だ」
「……デートって、言えるのかな?」
「言えると思うけど」
時間を見て、グラスを片付けに立つ。
「気を付けてね」
朝美に言われて頷いて、改めて外出準備をしに、自室へ引っ込んだ。
それから五分ほどした、十一時半前。 玄関のチャイムが、控えめに鳴った。
「お待たせ」
「酒、飲んだのか?」
「少しね。 朝美に、付き合った」
「ンじゃ、呑気に歩いて行くか」
肘を軽く曲げて、利知未を促した。 素直に、腕を組む。
冷たい風が吹いて、小さく首を竦めた。
「直ぐに酔いが、覚めそうだな」
「風邪、引くなよ?」
「平気だよ。 結構、丈夫だから」
「…だな」
利知未が寝込んだ、と言う話は、今まで一度しか聞いたことが無い。
「由香子ちゃんが、始めて来た時。 それくらいか?」
「寝込んだのは、それくらいだな」
「俺も、あの時くらいだけどな」
「……池に、落ちちゃった時か」
「あの風邪は、大した事なかったんだ。 その後だよ、仕事先で、ヒデー風邪を移された」
「……そんなことも、あったな」
あの時、倉真に彼女が出来たのではないかと、ヤキモキしてしまった瞬間を、思い出してしまう。
「あれで、利知未の特技、知ったからな。 イイ風邪だった」
「風邪に感謝するっての、アリ?」
「アリだろ?」
小さく笑ってしまう。 仄々とした気分になり、到着した神社の、二年参りの列に並んだ。
人混みに押され、倉真にピタリとくっ付いてしまう。 その瞬間、彼の暖かさを感じる。
『……まだ、酒が残ってるのかも知れない』
ドキリとして、それでも、寄り添ってしまう。
……年末の忘年会。 マスターのコートに包まって歩いた、あの気分が、蘇る……。
利知未の体温を、倉真も感じる。
『マジ、こうなってくると、キツイな……』
十二月の初旬、キスをしそうになり、交わされた瞬間を思い出す。
『まだ、利知未の気持ちは、解れてはいなかった……』
まだ、彼女の涙を受け止められる様には、なってはいない。
漸く、除夜の鐘が鳴り始める。 くっ付いたまま、軽く顔を上げ、倉真の顔を覗き込む形になる。
「年が、明けたよ。 おめでとう」
「おめでとう」
小声で、新年の挨拶を交わした。 人混みが、進み始める。
二年参りを済ませて、振る舞いを貰った。
「この神社の振る舞いは、お屠蘇とトン汁なんだな」
「神社によって、違うのか?」
「……昔、裕兄の住んでたアパートの近くは、お屠蘇とお汁粉だった」
「どっち飲んでたんだ?」
「裕兄のお屠蘇、奪って、お汁粉と交換した」
あの頃を思い出して、悪戯坊主のような笑顔を見せる。
「お前らしいな」
「今、行っても流石に、この年でお汁粉を渡される事も、無いだろうね」
「だろうな」
屠蘇を飲み干し、帰途へ付いた。
一度、下宿の前まで向かう。 その間も、腕を組んで歩く。
初詣の列で人混みに押され、ピタリと寄り添った瞬間、お互いが意識してしまった感覚は、中々、消えなかった。
下宿までの道、ホテル街と呼ばれる一角の近くを、通り過ぎる瞬間。
利知未は、もう三年も前の、マスターとの夜を思い出してしまった。
『……何で、今、思い出しちゃうんだろう……?』
隣の倉真の顔を、チラリと見てしまう。
「どうした?」
「……何でもない」
冷たい風が、吹き過ぎる。
「…寒」
反射的に、絡めていた腕に力が篭る。
利知未に、益々ピタリとくっ付かれて、一瞬、倉真も焦る。
『ヤバイ、気ぃ、張り直さネーと』
利知未の胸の感触を、腕にハッキリと感じる。
理性が、飛んでしまいそうだ。
『……っつーか、何か、何時もよりも、……色っぽい感じだ』
利知未の頭は、倉真の肩へ、軽く凭れている。
敢えて、倉真を引っ張るようにして、ホテル街へと曲がる道を無視して、真っ直ぐに歩く。
『……雰囲気と、勢いでそうなるのは……、…イヤだ』
マスターの時とも、哲の時とも、勿論、違う。
利知未も、気を引き締め直した。
『……けど。 ……倉真の腕、暖かい』
『……こうしてると、暖けーな』
抱きしめたい衝動に駆られる。
絡めていた腕を外して、肩に手を回した。 そのまま利知未の頭を、優しく抱え込む。
倉真の肩へ、完全に頭を凭せ掛け、腕を倉真の腰へと回す。
二人は、寄り添う様にして、歩き出した。
下宿前まで、そうして歩いて、一端、倉真と別れる。
「四時半頃、バッカスの前でイイよな」
「そーだね。 ……倉真、起きれるか?」
寄り添っていた身体を離して、向かい合う。
「大丈夫だろ。 もし遅刻してたら、俺の部屋まで起こしに来てくれよ?」
「起きてこれなかったらね。 あたしも、寝坊しないように気を付けよう」
「じゃーな、また、後で」
利知未が頷くのを見て、踵を返す。
倉真が角を曲がるまで見送り、小さな欠伸をしながら、利知未は玄関のステップを上がった。
真っ直ぐに自室へ向かい、面倒だったので、下着姿でベッドへ潜り込んだ。 どうせ、三時間も寝て起きるのだから、そのまま、服を着れば済む。
目覚まし時計へ手を伸ばし、四時に合わせ直した。
『……お屠蘇と、朝美と飲んだ酒の所為かな? 物凄く、眠い……』
思っている内に、寝息を立て始める。
倉真は、直ぐには眠れない。
『……シャワーでも、浴びるか?』 取り敢えず、気分を変えてから、布団へ入る。
妖しげな夢を、見てしまった。
二人とも、無事に寝坊せず、待ち合わせ時間に間に合った。
「起きれたんだ」
「利知未もな」
顔を合わせて、先ずはそう言葉を交わした。
「久し振りな気がするな。 三週間、ツーリングへ行かなかっただけなのに」
「取り敢えず、海の公園を目指そうか?」
「江ノ島辺りは、暴走族の目的地だろうからな」
「だと思う。 じゃ、行こう」
二人のバイクが、走り出す。
目的地まで、一時間半から、二時間。 休憩は取らずに走らせた。
六時半前には、何時か夜中のタンデム・ツーリングで来た、海の公園へ到着した。
日の出は七時過ぎだ。 既に同じ目的の人達が、焚き火の前へ集まっている。 そこでも、自治体の振舞うトン汁で、身体を温める。
二人分の、熱々のトン汁を持って、倉真が人垣を抜け出る。 焚き火の近くへ腰を下ろしていた、利知未の元に向かった。
倉真からトン汁を受け取り、二人で寄り添って腰掛けた。
「やっぱ、ココでもトン汁なんだな」
「こっちは何処も、そうなのかも知れネーな」
話をしながら、日の出を待った。
やがて昇って来た初日に、二人、同じ事を祈る。
『倉真と……』
『利知未と……』
……来年も、こうして一緒に居られる様に。 出来れば、二人の関係が、もう少し落ち着いていますように……。
『彼が……、』
『彼女が……、』
……最後の恋人で、ありますように。 その先の未来は、同じ物を、見つめていられます様に……。
「なに、祈ってたんだ?」
「……言ったら効き目無くなりそうだから、言わない」
「それは困るな」
「倉真は、何を祈ってた?」
「俺も、効き目が無くなったらイヤだからな」
「ンじゃ、二人とも秘密だ」
「そーだな。 ……何時か叶ったら、教えてやるよ」
「あたしも。 何時か叶ったら、教えてあげるよ」
明るくなった海岸を後にして、駐車場へ向かった。
砂浜に、寄り添って歩く二人の影が、長く落ちていた。
今年も、一月三日はバッカスを解放して、新年会をした。
来年は、どうなるか分からない。 今年は何時ものメンバーに、朝美と透子まで加わる。 勿論、克己も顔を出した。
美加は実家だ。 冴吏は当然、今日も原稿用紙に向かっている。
総勢十一名、店内は賑やかだ。
「初めましてが、三人居るのか?」
「そうなるのか? 克己と、透子と、準一が初対面か」
「倉真君は、元旦の朝、お雑煮を食べて帰ったでしょ」
あの日は、何と無く離れがたくて、倉真が利知未を送って来た。
一度、倉真がアパートへバイクを置いて、利知未のバイクを倉真が運転して、タンデムシートへ利知未を乗せた。 当然、帰りはヘルメットを抱えて徒歩だ。
それでも、少しでも長く居たいと思った。 その時、リビングへ上がって貰い、前日から用意の雑煮と煮しめを出した。 勿論、利知未の手作りだった。
「何時の間に、そこまで進んでたんだ?!」
準一が、突っ込む。
「君が、準一君だ。 利知未の話通りだな。 そっくりなのが、透子ちゃんって事か」
「お姉さま。 アタシが、そっくりなのではなく、ジュンちゃんが、そっくりなんです」
「お姉さま、と来たか」
透子が突っ込み、利知未がぼやく。
「ちなみに、アタシはバーテンBoyと彼女、たれ目のお兄さんと双子ちゃんと、お姉さまが初対面だな」
「宏治に里真、克己に、樹絵、秋絵、朝美」
透子が、独特の呼び方をした七人を、利知未が片っ端から、名前を上げる。
「覚えた。 けど、面倒だから、そのままでイイか」
「克己の初対面は、透子と朝美か」
「そうだな。 これで一応、紹介は終わりか」
全員で、宴会準備をした。 里真は今年も、カメラを持って来た。
朝美と透子は、直ぐに仲良くなる。 少し、乗りが近い。 二人で、利知未と倉真の話で盛り上がってしまった。 準一も混ざる。
それぞれ別に彼氏がいる双子は、同じく恋人と離れている和泉と酒を飲む。 三人で、由香子の話に盛り上がる。
里真と宏治、利知未と倉真は、克己と五人で、新藤ジュニアの話をする。 それでも途中で、あっちこっちに話が飛んで、例年以上に賑やかだった。
夕方から始まった宴会は、夜中の十二時過ぎまで、終わらなかった。
一応の解散後、里真は、宏治と店に残った。 今は、少しでも一緒に居られる時間が、大切だ。
透子は、下宿の客間を借りる。 だからと言って、素直に眠る訳が無い。
下宿へ戻ってから、今度は冴吏まで引っ張り出して、朝美と利知未、冴吏と双子と透子で、宴会を続ける。
準一は、和泉を引っ張って行き、倉真の部屋へ上がりこむ。
克己は後半から酒を止め、解散よりも少し前に、妻と息子の待つ家へと帰って行った。 一人息子が、可愛くて仕方が無い様子だった。
倉真の部屋で、利知未との事を突っ込んでみた。
「人のことを突っ込んでる場合かよ? まだ、透子さん狙ってるのか?」
逆に、倉真から突っ込まれてしまう。
「中々、一筋縄じゃ行かない人だ。 飽きなくて、丁度イイよ」
「こいつ最近、貯金を始めたみたいだぞ」
和泉から、最近の準一の事を聞いた。
「珍しいな。 ジュンが目的も無く金、貯めるとは。 ……明日辺り、吹雪くんじゃないか?」
「違いないな」
「少しは、真面目に考えるようになったって事で、弟分の成長を、喜んではくれないのか」
「お前が何時、弟分になったんだよ?」
「ンじゃ、仲間の成長を、喜んではくれないのか」
「成長って言うのか? 一応」
「まぁ、少しは先の事を考えられる様には、なったって事だな」
「今年、成人式だよな。 そりゃ、そろそろマトモに成るべきだ」
「倉真だって、何時までもバイト生活じゃンか」
「……二月か三月頃には、就職先を決めるつもりだ」
倉真が、真面目な顔付きになる。
「……そうか、頑張れよ」
和泉は、倉真の雰囲気が変わってきた事に、改めて気付いた。
七
一月の、新学期が始まる前日。 準一の貯金が原因か、珍しく大雪となる。
「こりゃ、明日から当分、電車通学だな」
朝、窓を開けて、利知未が呟いた。
すっかり朝美とも仲良くなった透子は、新年・三日から、5連泊中だ。
朝美は新年会の二日後から、仕事が始まっていた。 下宿の大家代理と言う立場だ。 希望休暇を新年早々、一日だけ取っていた。 店自体は、四日から初売りだった。
仕事始めの前日も、翌日がBシフトだった事で、透子と利知未と、夜中まで飲んでいた。
「利知未の飯も、里沙さんのご飯も、美味いな」
朝から、思い立って利知未が作った、味噌汁と焼き魚で飯を食う。
「お前、明日から大学だぞ。 何時までいるんだ?」
「明日、ココから大学行こうと思ったんだが。 講義のテキスト、持って来てないんだよな」
「……っツーか、大体、着替えだって、持って来てなかっただろうが」
「だから、利知未の服を借りてるじゃない。 もう少し、色気のある服、買った方がいいな」
「……呆れるぜ」
透子は四日初売りの店で、下着だけ買って来た。 里沙は、朝美の仕事が始まった日から、以前の様に十時頃、下宿へ来て雑務をこなす。
泊まりこんでいた透子に、半分呆れながらも、面白そうな笑顔を見せた。
「流石、利知未の親友ね、とっても個性的だわ」
以前、利知未の勉強を見に来てくれた透子の事は、良く覚えている。
「個性的って言うか、遠慮が無さ過ぎると言うか、考えなしと言うか……」
「あら? 考えなしなら、利知未も同じでしょ?」
「……そーくるか」
里沙の手伝いをしながら、利知未がぼやく。
透子は仲良くなった双子と、秋絵の映画サークルの作品を、呑気にリビングで眺めていた。
「利知未! 美味しい珈琲、お代わりヨロシク!」
リビングからダイニングへ向かって、透子が利知未に声を掛けた。
その日、準一が透子に呼ばれて、スタッドレスタイヤに履き替えた愛車で迎えに来た。 透子を家まで、送るためだ。
「イイように、利用されてンな」
樹絵も、亨と上手く行っている。 以前よりも、気楽に準一と話す。
「これでも進歩したんだよ? マジ、飽きない人だ」
「お待たせ。 では、行こうか」
双子と準一が話している玄関へ、透子が出て来た。
「トー子さん、新年会から泊り込んでたのか」
透子の服装を見て、準一が目を丸くした。
「オネー様は、取れたのか?」
「譲渡してもらった」
透子を送って出た利知未に突っ込まれ、準一が少し嬉しそうな顔をする。
「貯金、三十万は貯まったって言うから、努力を買ってやった」
「ジュンが、貯金!?」
樹絵が、また驚く。
「あっても困らないことに、気付いたから」
「……それで、大雪か」
「秋絵ちゃんまで、倉真と同じ事、言うんだモンな。 ま、イーけど」
透子が、一足先に乗り込んだ、車の中から声を掛ける。
「ほら、ジュンちゃん、早く車、出して頂戴!」
「リョーカイ。 ンじゃ、またね」
準一は挨拶をして、玄関を出て行った。
一月初めの大雪が、完全に溶けきる前に、また雪が降る。
雪の無い日も何と無く、天気の悪い月だった。
利知未と倉真はこの一月、ツーリングへ出掛ける事は無かった。 代わりに月末の土曜日、午後から映画を見に行った。
利知未は月の日曜中、三日をバイトに割く。 新年会翌日の日曜以外を、全て働いていた計算だ。
「金、貯めてるんだな」
「春休みには、引っ越す予定だからな」
約十年間を過ごして来た、あの下宿を出るのは、やはり寂しいと思う。
「やっと、雪も消えたんだよな」
「けど今年は、もう少し雪が降るって、天気予報では言ってた」
「ツーリングは、もう暫くお預けだな」
「あたしは、丁度イイからバイトを入れるよ」
「そうだな。 ジュンも金、貯め始めてるって言うし、俺も本腰入れるか」
「就職、探すのか?」
「そのつもりだ」
「好きでやっていたバイトは、もう、いいのか?」
「……それ以上に、目標が出来たからな」
「整備工場、か」
「それもある」
キチンと、社会人として。 利知未に、認めてもらえる男に成るため。
「そろそろ始まるな」
時計を見て、倉真が立つ。 映画館のビル内にある、喫茶店に居た。
「今日は、四階か」
買ってあるチケットを、チラリと確認して利知未が言う。
伝票を持って、レジに向かった。 珈琲代は、倉真が二人分、払ってくれた。
「無駄遣い、しない方がイイだろ」
「サンキュ」
例え少しでも助かる。 利知未は素直に奢ってもらった。
二月も、利知未は日曜日、基本的にはバイトを入れた。
倉真とは、週に一回バッカスで会える。 取り敢えず、今はそれで丁度イイと思う。 長く一緒に居れば居るほど、雰囲気に流されてしまいそうだ。
『……こんな風に思うようになるなんて、考えられなかった……』
倉真との初対面の頃からを、思い出した。
この約二年間で、ゆっくりと二人の距離は近づいて来た。
『我ながら、信じられないくらい、時間が掛かってるな……』
漸く、倉真の気持ちも見えてきた。
そう感じられたのは、やはり去年の十二月初旬。 二人で夜の河原で寄り添っていた、あの後からだと感じる。
それでも今は、やはり勉強も忙しい。 なるべく気を逸らしながら、日々を過ごしている。
十四日・バレンタインデーに、樹絵と亨は泊りがけで遊びに行った。
クリスマスから、この約二ヶ月。 何度かは、関係を深めて来た。
「丁度、土日だったから良かったな」
昼間から仲良く、観光スポットを回る。
「って言っても、講義はサボっちゃったけどな」
「イイんじゃないか? 普段は真面目に受けてるし。 樹絵、追いつけない事、無いか?」
「一応、平気。 ……亨のが、まだ成績、良いんだよな」
「どんぐりの背比べ、って言うんだ」
「大して変わらないけどさ」
気楽に付き合える相手。 こんなんで、イイのかな? と、偶には思う。
『人を好きになるのって、辛い事や苦しい事の方が、多かったみたいに感じちゃってたんだ……』
相手が準一だったからだとは、流石に思う。 ふと、隣を歩く亨を見つめてしまう。
……顔は、準一よりも誠実そうだ。 悪くは無い、そう思う。
「何か、付いてるか?」
「…顔が付いてる」
「そりゃ、当たり前だ!」
くだらない問答に、声を上げて笑う。
『……こう言うの、やっぱりイイな』 一緒に笑いながら、樹絵はそう感じた。
一日の観光を終え、ホテルのレストランで食事をした。
「チョコ、好きだったよな?」
「勿論。 今日、貰うチョコは一番、好きだ」
「はい。 ……亨に、感謝を込めてみた」
「感謝?」
「うん。 ……あたしさ、亨に告白された時、他に気になってるヤツがいてさ。 それが、結構、トンでもないヤツで、すっごく悩んでた」
「だから、友達以上は思えないって言ってたのか」
「けど、今は亨とこうしていられて、幸せだなって思った。 亨のお陰で、凄く楽になれた。 だから、感謝してるんだ」
「待った甲斐があったな。 サンキュ」
ニコリと笑顔で、チョコレートを受け取ってくれた。
その日、二人。 何度目かの夜を共に過ごす。
樹絵はこの夜、微かな悦びを感じられる様に、初めてなれた。
翌日も観光スポットを巡って、夜八時前には、無事に帰宅した。
漸く雪が消えた。 金曜日のバッカスで、倉真と宏治と、三人で話す。
「仕事、大変だったんじゃないか?」
「雪がな、結構、面倒だったよ」
今日は、鳥モモ肉の、から揚げ定食もどきを出してくれた。
「そのまま多めに用意したから、今夜の裏メニューは、から揚げだな」
「書いときますよ」
話をしながら、本日の裏メニューを記入する。
「バイトも今月一杯だ」
「仕事、決まったのか?」
「丁度イイところが見つかった。 半年は、試用期間だけどな」
「おめでとう。 じゃ、お祝いだ」
「それなら、一杯くらいは乾杯するか」
「そうだな」
カウンター内で利知未と宏治が、水割りを用意して倉真と祝杯を挙げた。
美由紀も、常連組みと話を聞いており、ボックス席でも乾杯をする。
倉真の就職先が決まったのは、本当に偶然の事だ。
営業用バイクのタイヤが、何者かの悪戯でパンクさせられた。
集配荷物の受け渡しで、ビルの前にバイクを止めていた、ホンの五分ほどの間の事だ。 近くの整備工場を見つけて、急いで修理をして貰った。
その間に話をしていた整備工場の社長が、バイク便のバイトを好きでやっている倉真と、話が合ってしまった。
話している内に、倉真が整備工場の働き口を探している事を知って、丁度、従業員を増やそうと考えていた社長が、日を改めて面接をして見ないかと言ってくれた。
その翌日、夕方には履歴書を持って、面接をして貰った。 履歴書を見て倉真の今までを知り、これから先の夢も知る。
整備工場の社長は、倉真の事を、履歴書の内容よりはマシな男らしいと感じた。 夢や目標に対して真っ直ぐな所も、見所が有ると思った。 それで、三月からの仕事が決まった。
バッカスからの帰り道。 利知未と倉真は、今日も軽く腕を組んで歩く。
「次の日曜も、バイト入れてるのか?」
「一応」
「そうか。 折角、雪も消えたし、久し振りに走りたかったな」
「……倉真。 平日、一日だけ休めないかな……?」
「半日くらいは、どうにか出来るかもしれないけどな」
「…そっか」
「いつだ?」
「……二十四日、付き合ってもらえないかと思って……」
「大学は?」
「偶々、休講になったから。 丁度良かったんだ」
二十四日と聞いて、少しだけ気になった。
「……そーか。 ……午後からで、構わないか?」
「本当に、いいの?」
びっくりした目が、倉真を見つめる。
「今まで真面目に働いて来たんだ。 半日くらい、融通利かせてもらえるだろ」
「……ありがとう」
利知未は、裕一の命日に、墓参りへ行きたいと思っていた。
『裕兄が亡くなった歳と、同い歳の、命日』
自分も、裕一の生きて来た季節と年月を、そっくりそのまま生きて来た事になる。
『まだ、二十二歳。 ……四月からインターンの生活を控えて、漸く夢への道が近づいて来た、こんな時期に……』
裕一は、逝ってしまった。 思うだけで切ない気持ちになる。
『……また、泣いてしまいそうだけど』
その時、近くで、倉真に支えて貰えたら……。
下宿の前で、倉真と別れる。
「仕事の都合もあるだろうから。 当日に上がれたら、電話くれないか?」
「分かったよ。 じゃ、来週」
「送ってくれて、ありがとう」
倉真が、道を引き返していく。 利知未は、その後姿を見つめてしまう。
月曜、倉真は早速、翌日の半日、休みを貰う話をする。
「まぁ、半日くらいなら大丈夫だろう。 ……それにしても、本当に今月一杯で辞めるのか?」
「就職、決めて来たんで」
「そうか、仕方ないな。 うちで社員になってくれたら、助かったんだがな」
「ありがとうございます。 配達、出ます」
「今日も安全運転で」
了解しました、と答えて、今日も倉真が、営業所を出て行く。
翌、火曜日。 十二時半頃、倉真から電話が入る。
「飯食ってから、行くよ」
「ありがとう、待ってる」
短い会話で、電話を切る。
利知未は午前中に、献花と線香を用意していた。 裕一の形見の、医学書も持った。
アンダーラインだらけの、厚い本だ。
倉真が、一時前には下宿前へ到着し、バイクを止める。 エンジン音を聞いて、リビングから、利知未が玄関へ向かう。
里沙は仕事中だ。 今日が裕一の命日である事は、勿論、知っている。
倉真は、玄関を出て来た利知未の手の、医学書を見た。
「行くか」
「ああ。 先導してくよ。 ……余り、良い所じゃないと思うけど」
それでも倉真には、微かな笑顔を見せた。
一時間後、都内の墓所へと到着した。
「悪いな、こんな所で」
利知未がバイクを降り、男っぽい様子を見せる。 まだ、涙は見せない。
利知未は今、自分をコントロールしている。
黙ったまま裕一の墓前へ着き、利知未が献花と線香を手向ける。 医学書を、その墓前に開いて置いて、頭を垂れた。
顔を上げ、小声で話し出す。
「裕兄、久し振り。 この前の約束通り、今日は連れが居るんだ」
微かに笑顔を作り、軽く倉真を振り向いた。
その表情は、何時もの溌剌とした利知未とは、全く違った。
……切なげな、悲しそうな微笑。
『……初めて、見た』
再び墓石へ向き直った利知未の、華奢な背中を見つめる。
何時もの倍以上、小さく、弱々しく感じた。
「裕兄と同じだけ、生きて来ちゃったよ……。 四月から、インターンだ」
肩が、細かく震え出す。
「……裕兄。 こんな時期に……。 これから漸く、本当に、夢に向かって進み始める、……こんな、時期に……」
八年前の、あの日を思い出す。
病院の霊安室で、継ぎ接ぎだらけの裕一の遺体と対面した、あの日。
右腕の肘から下と、左足の膝から下が無くなっていた、痛々しい体。
(裕兄、寝てんのか? ……なぁ、目を覚ませよ? 春休みは、何時遊びに行けばいい?)
裕一の返事を聞きたくて、 目の前の兄の姿が信じられなくて……。
(これ、夢じゃ、ないのか……?)
(夢じゃ、ないんだ……。 利知未、兄貴、連れて帰るぞ……)
……後ろから聞こえた優の声は、振るえていた。
利知未の目から、熱いものが溢れ出した。
声を上げて、泣き始める。 泣き顔を上げて、倉真を探す。
視線が合って、倉真は、利知未の隣に跪いた。
利知未の肩を、そっと抱く。
抱き寄せられて、倉真の胸を借りて泣いた。
……悲しみが、少しずつ薄れ始める。
『……倉真。 隣に居てくれて、良かった……』
泣きじゃくる利知未を、倉真はじっと、受け止め続ける。
『……利知未にとって、裕一さんて言うのは……』
本当に、大切な存在、大きな存在だったことを、改めて思い知る。
『これ程の涙を、流してしまうくらいに……』
それ程の悲しみを、中学二年の頃からずっと、背負い続けて……。
『それでも俺たちには、何時も気丈に、強い姿ばかりを見せて』
随分、色々な事で、助けられて来た。
自分が利知未と知り合った頃には、彼女は既にこの悲しみを背負い、隠し続けていた。
……その弱さは、露ほども見せずに。
涙を漸く収めて、利知未が小声で言う。
「……ありがとう、ごめん」
「……構わない。 気が済むまで、泣けばイイ。 ……俺が、お前の涙を受け止める」
強く、抱きしめた。
利知未の心が、満たされていく……。
「……ちょっと、恥ずかしい」
「恥ずかしいか?」
「……裕兄が、見てるよ」
「…そうだな」
ゆっくりと、身体を離す。 少し見詰め合って、倉真が墓石へ身体を向ける。
手を合わせて、頭を垂れた。 利知未は、その倉真を見つめ続ける。
『裕一さん、利知未は、これから俺が一生、守る』 任せて欲しいと、祈った。
何処かで鳥の羽音がして、空中から真っ白い羽毛が、倉真の足元へ舞い落ちた。
八
線香が半分以上灰になる。 漸く、倉真も顔を上げる。 足元の鳥の羽を、その手に拾い上げた。
空を仰ぐ。 ……羽の持ち主の姿は、何処にも無い。
「裕一さん、天国で天使にでも、なってんじゃないか?」
「…それは、裕兄の落とした羽って事? ……らしくない感慨」
「だな。 ……もう、イイのか?」
黙って頷く利知未が、医学書へ手を伸ばす。
開いておいてあったページへ、倉真が持っていた羽を、挟んで閉じた。
手を繋いで、歩きながら利知未が言う。
「何時か、聞かれたけど……。 あたしが医者を目指しているのは、裕兄の夢を、引き継いだからだよ」
「……そうだったんだな」
「…今日は、変な所へ付き合わせて、悪かった」
男っぽい言葉に、戻った。 ……これ以上、倉真の前で、泣き出さないように。
バイクの元へ到着し、利知未が医学書を、バイクのサイドバックへしまう。
ヘルメットへ伸ばしかけた利知未の手を、倉真が優しく掴む。
振り向いて、首を傾げる利知未を引き寄せて、確りと抱きしめた。
「……倉真?」
「もう、イイよ。 これ以上、我慢すんな。 泣きたい時は、俺の前で泣いてくれ。 ……必ず、お前の涙を、俺が受け止めるから」
優しい言葉に、再び、瞼が熱くなった。
「俺は、お前を支えられる男に成りたい。 ……いいや、成る。」
堪え切れずに、再び、涙が溢れ出した。
『この言葉は、……あたしが、ずっと待っていた言葉なのかもしれない……』
「……あたしは、もう…、…十分、倉真に支えられているよ……」
そのまま、利知未の涙が収まるまで、抱きしめ合っていた。
今、利知未の頬をぬらす涙は、裕一への思いで流れていた、悲しい涙ではなかった。
心から、必要と思える大切な相手が、待ち続けていた言葉を聞かせてくれた、嬉しさから流れる優しい涙だ。
涙が止まる。 顔を上げて、見詰め合う。
自然と、唇を求め合う。 優しいキスを交わす。
夕暮れが近付いていた。 唇を離して、再び確りと抱きしめ、倉真が囁く。
「俺を、信じてくれるか?」
「信じる……?」
頷いて、倉真が、三年もの間、持ち続けてきた想いを伝える。
「俺が、これから、お前を一生、守って行く。 …弱さも、悲しみも、辛さも、全部。 だから、良いんだ。 俺がずっと傍に居るから、……もう、無理をするな」
「……倉真が、守ってくれるの?」
「ずっと好きだった。 だけど、言えなかった。 ……お前が俺の前で、涙を見せてくれるまで……。 利知未の本当の気持ちが、自然に出て来てくれるまで」
心が反応する。
利知未は、倉真の暖かい心に、満たされる。
「ずっと、待ってた……?」
「それしか、俺には出来なかった。 ……自信が、無かったんだ」
「……ありがとう。 ……あたしも、自信が無かったよ」
軽く、二人が離れて、顔を見つめあう。
「お前が、自信が無かった?」
「……倉真に、今までの関係以上に、想って貰える自信」
「俺は随分、遠回りしてたんだな」
「けど、だから。 ……あたしは、倉真のことを、もっと好きになった」
「……遠回りも、タマにはイイのかも知れないな」
「…そーだね」
笑顔を見せた利知未の唇を、再び奪った。 利知未も、素直に受け入れた。
墓参りの後、学年末の総復習テストが待っていた。
このテストは無事に来年度、インターンとして現場へ出る為の、実力判断テストの意味がある。 単位を落とせば、五年に上がる事も出来ない。
倉真と気持ちが繋がり、利知未の心は漸く落ち着く。 テストにも、迷い無く挑む事が出来た。
テストは無事、クリアする事が出来た。 それにより午前と午後で、大学へ行ったり、病院へ行ったりの生活が、四月から待っている事になる。
同時に教授の計らいで、夜間など、同じ病院でアルバイト待遇での手伝いが出来る事になった。
来年度、利知未は益々、忙しくなる。
三月に入り、直ぐに引越し先を探した。 下宿よりも、大学や病院に近い立地を探してみた。
無事、インターン生活に入れると言う報告を受け、疎遠だった母が、一番、可愛がっていた裕一の夢を引き継ごうと言う利知未に、援助を約束した。
『結局、裕兄に助けられてるんだな』
母親に対しては、変らず反抗心が強い。
嬉しい援助の申し出も、捻くれた感想を持って受け止めてしまう。
それでも何とか、春からの生活の目処は立った。 もう少し引越し資金を貯めながら、倉真ともツーリングへ出掛ける。
春休みに入って直ぐ、部屋は決まった。
引越しは、三月末に決めた。
里真は、三月五日に、無事短大を卒業した。
四月一日から、社会人としての生活が待っている。
春休みのある日、店子が集まって宴会をする。
「里真と利知未が退去して、後は双子と美加、冴吏が残るだけになるんだ」
「寂しくなるわね」
この日は、里沙も泊まって行く事にした。
葉山が、長年、共に暮らして来た店子たちと、ゆっくりとお別れの挨拶でもして来なと、笑顔で送り出してくれた。
「あたしは、楽になるのかな?」
「掃除しないとならない部屋が、増えるわよ」
「そーか、それはキツイな。 新しい店子でも募集する?」
「大変になるのは、朝美よ?」
「どうせ、結婚の当てもないし。 下宿の兼業大家で年取るのも、良いんじゃない?」
「気楽な事、言ってるよな。 あたしが今年で二十三って事は、朝美は今年で二十七歳になるんじゃないのか?」
「最近、三十代半ば過ぎになって、やっと結婚するカップルも多いんだし。 構わないじゃない」
「里真は、実家が埼玉だから。 来ようと思えば、何時でも遊びには来れるんじゃないの?」
「利知未の引越し先の方が、近いでしょ」
「時間が自由、利かなくなるよ。 無理だな」
「利知未ちゃん、本当に出てっちゃうの……?」
美加が、泣きそうな顔になる。
「悪いな。 弁当、作ってやれなくなるよ」
「そんなの、イイよ。 ……ね、ココから、通えないの?」
「距離的には、平気なんだろうけどな。 時間が滅茶苦茶になる。 返って、皆に迷惑を掛ける事になるよ」
「…でも」
泣き出してしまう。
美加を宥めて、利知未が優しい声を出す。
「まだ、二週間は先の話だ。 それに、遊びに来ても構わないよ、時間が合えば。 あたしも偶には、美加や朝美達の顔を見に遊びに来るよ」
何と無く、しんみりした空気を、樹絵が吹っ飛ばした。
「死に別れる訳じゃ無し。 何時でも押しかけてやろうぜ?! 倉真の邪魔しに行ってやる」
「一緒に住む訳じゃなし。 無駄だな」
「解らないじゃないか? 利知未の事だから」
ニヤニヤと、樹絵が笑う。
「何を根拠に、そー思うんだよ」
「秘密」
知らん振りをして、酒を飲む。
里真は、利知未よりも四日早く、下宿を後にする。
それまで部屋の片付けをしながら、なるべく宏治に会いに行く。
利知未のバッカスでの手伝いも、三月二十六日がラストだ。
最後の日、看板まで手伝う事にした。 閉店後に倉真も残って、美由紀と宏治、倉真と利知未で、酒を飲みながら話をした。
「また、金曜日が大変になるな」
「倉真も、また来なくなるんじゃない?」
「…なるべく顔、出しますよ」
「利知未を送る必要、無くなるんだものね。 利知未、倉真と上手く行かなくなったら、何時でも、こっちへ逃げてらっしゃい」
「どー言う意味ですか?」
「宏一の花嫁が決まらなかったら、嫁に来いって言うこと」
「…ありがとうございます」
「タマには、飲みにいらっしゃいよ?」
「忙しくなるし、難しくなりそうだけど……。 また、来ます」
「待ってるわよ」
一足先に、美由紀が帰宅した。 宏治と三人で、もう暫く飲んだ。
「お前は、里真ちゃんとどうするんだ?」
「どうするって言われてもな。 会う時間は、少なくなるけど」
「中距離恋愛って、所か」
「和泉達に比べれば、近所も同然でしょう」
「ものは考えようだな。 ……大丈夫じゃないか? お前たちなら」
「……なら、良いんですけどね」
利知未の言葉に、少し考えて答える。
「引越し、明後日だろ? 手伝いに来るのか?」
「里真が、手伝いはイイと言ってました」
「そうか」
「その代わり、次の日曜は会う約束です」
「お前も頑張れよな」
「倉真もな」
二人が上手く行き始めた事は、解っている。
けれど、まだ関係を深めては居なさそうな事も、薄々感じている。
「……そうだな。 愛想尽かされないように、頑張るか」
「あたしが愛想を尽かすって、思うのか?」
「振るより、振られる可能性が高いんじゃないか?」
「……言ってろ」
少し膨れた利知未が、可愛らしいと思った。
『……この二人は、どうなって行くのかな? これから』
仲の良い様子を眺めて、宏治はやや、当てられている気分になった。
四時頃まで、バッカスで飲んでいた。 倉真は明日、休みだ。
店を出てから、約十ヵ月続いて来た、バッカスからの最後の送迎をする。
「これから、益々、会えなくなりそうだ」
「……仕方ない。 お前の選んだ道だ。 俺も、早いとこ仕事に慣れないとな」
「上手く、行ってるのか?」
「皆、イイ人達ばかりだ。 社長も現役で、先輩が三人居る。 先輩の一人は、俺と同い年だよ」
「そうか。 ……倉真も、頑張れ」
「恋人として、応援してくれるのか?」
「当たり前。 ……送ってくれてサンキュ。 次は、引っ越してからかな?」
「そうなるな」
下宿の前で、絡めていた腕を解いて、キスを交わす。
「お休み」
「お休み」
利知未が、玄関のステップを上がっていく。
玄関扉へ利知未の姿が消えてから、倉真はゆっくりと踵を返す。
『……ゆっくり、進んで行ければイイ』
二人の関係を思う。 漸く、三年越しの想いが伝わり、お互いに想い合って来た事を知ってから、まだキスしか、交わしては居ない。
それでも、無理矢理抱く様な真似は、したくないと思う。
利知未は、引越し準備で片付け始めた部屋で、落ち着かない気分を味わう。
『……あと、五日』
十年の歳月が、思い出される。
初めて、この下宿へやって来た日。
同級生達から、約一ヵ月遅れて、城西中学へ通い始めた、あの日。
玲子とは、初対面から喧嘩腰だった。
『アイツも、大学卒業した筈だよな』 思い出す。
何時も交わしていた、喧嘩紛いの会話。 その度に、朝美が間に入って、調停役だ。
初夏。 アダム、マスターとの出会い。 裕一との思い出。
真面目に学校へ通い始めて、当時の応援団部・副団長・櫛田と出会った。 幼い、初恋。
その秋、初潮を迎えた朝。 里沙から、諭された。
櫛田が卒業して、東京に寿司職人修行へ出た彼を、駅で見送った。
中学二年。 朝美に付き合って買い物へ出掛けた、ゴールデンウイーク。
弟分の宏治が、同じ城西中学へ入学して来た年。
更に、夏。 FOXとの出会い。 ……由美との、出会い。
悲しい別れを経験した冬と、橋田からの告白。
そして、三年。 冴吏が入居した年。
『一人称が、あたしへ変った、三月。 ……丁度、今頃』
その年の、ゴールデンウイーク。 朝美の部屋へ、朝から呼ばれた、あの日。
初めての恋人、敬太と、あの頃の自分を取り巻いた、大事件の数々。
……倉真との、出会い……。 準一も初対面で、補導事件が起こった。
観覧車の中、敬太と交わした、ファーストキス。 ……思い出の、夏。
秋には、和泉との出会い。
その冬、女として、初めて異性を強く求めた、愛情。
再び、三月。 思い出深い中学からの、卒業。 受験勉強の日々。
高校へ入学して、透子との出会い。 マスターとの約束。 双子の入居。
『初めて、敬太と結ばれた夜』 それから、求め合った。 高校一年からの、一年間。
バイクの免許を取り、倉真たちと仲良くなった頃。
……FOXのセガワの、正体がばれてしまった、あの夏。
倉真との、新しい関係の始まり。 駅前でのセッション。
それから、秋。 敬太の、夢への架け橋。
……別れを予感し始めた、冬。
『倉真の事は、信じられるの……?』
現在に、気持ちが戻って来て、利知未の心へ、不安が広がる。
ベッドへと、倒れ込んだ。 仰向けになり、腕で目の上へ、目隠しをする。
『……敬太と、別れた朝。 ……倉真と、会った』
克己とも、初対面だ。
……けれど、あの朝出会ったのは、それが倉真だったから、なのかも知れない……。
『縁が、あるんじゃないのか? 俺達の間には』 十二月の、倉真の言葉を思い出す。
『縁、あったのかも知れない。 倉真とは……』 改めて、そう感じた。
それから、夢を見た。
あの夏から、倉真の事件、和泉の妹、真澄の死。 兄の結婚、出産。
アダムに妹尾が入り、高校二年は瞬く間に過ぎ、美加の入居と、直ぐに春。
和泉が、漸く落ち着きを取り戻した、高校三年の四月。
倉真が、実家を飛び出してしまった。 あの頃から宏治達との関係は、ぐんぐんと、深まっていった。 佳奈美と会ったのも、あの年だ。
綾子の出現。 倉真の、恐らく、始めの恋人。
受験勉強のため、半年間、アダムのバイトを休止した。 高校卒業間近の、二月。
由香子との出会い。
直ぐに、大学生活が始まった。 アダムのバイトを再会して、……哲。
ホンの、二、三ヶ月の、慌しい関係。
それを抜けてからの、……マスターとの関係。
彼の事を想い続けていた、約一年。 その頃から、佳奈美を挟んでマスター一家との、付き合いが始まった。
翠の結婚を機に、皐月がアダムのバイト仲間へと、加わった。
中学時代の親友、貴子との再会。 妹尾と貴子を引き合わせる事になった。
大学二年の、夏。 由香子との再会と、あの時を切っ掛けに始まった、いくつかの恋愛物語。
倉真のことを意識し始めて、マスターとの、最後の関係……。
それから、もう、二年半。
克己の結婚と、優夫婦の長男誕生。 初めて、倉真と家族を引き合わせた。
克己の所にも、長男が誕生した年。 ……倉真への想いを、抑え続けていた日々。
去年の、誕生日からの思い出。 倉真の思いを知ったのは、ほんの一ヶ月前。
嬉し涙が流れた、あの時。 初めて、倉真とキスを交わした瞬間。
鳥のさえずりで、目を覚ます。
「あのまま、眠っちゃったんだな……」
起き出して、顔を洗う。 朝食を取りに階下へ降りて、朝美と顔を合わせる。
「お早う。 昨夜は、遅かったジャン」
「お早う。 ……飯、あたしがやるよ」
「サンキュ、任せた」
二人で準備をした。 これも後、四、五日の事だ。
双子や冴吏、里真と美加も起き出して、全員で食卓を囲む。
明日、里真は下宿を出る。 里真は、六年間、この下宿で暮らした。
感慨深いものが、やはりある。 ……宏治との関係にも、不安が挿していた。
三月最終日。 水曜日に、利知未は十年間暮らしてきた、下宿を後にした。
引越し荷物は、先に移動していた。
「……ありがとう。 あたしの、大切な場所と、……時間」
バイクへ跨り振り向いて、そう呟いた。
……エンジン音が、街に響いていく……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
インストール
彼への愛情が漸く息吹き、二人の関係は、これから始まった。
あの日、利知未は。 ここから、巣立って行った……。
……里沙の下宿で、あの時から数年を経過した春。
懐かしい思い出話しは、止め処もなく続いていた。
「あら、随分と長く話し込んでしまったわ。 お夕飯、作らないと……」
時計を見た里沙が、少し慌てた声を出す。
「あたしも、手伝おうか?」
「利知未は、早く帰って、旦那のご飯を作らないとならないんじゃないの?」
冴吏が、利知未の申し出に口を出す。
「それを言うなら、里沙だって。 旦那さんが待ってるでしょ」
利知未を見て、里沙が思いついた。
「それなら、いっその事、今夜はここへ、修二さんも倉真君も、呼んでしまいましょうか?」
「材料、あるの?」
「大丈夫よ。 どうかしら? そうしたら、もっとゆっくりと話をしていられると思わない?」
「朝美も、今日はAシフトだったから、もしかして、一緒にご飯、食べられるかもね」
冴吏も思いついて、賛同する。
「そっか、じゃ、倉真に連絡、してみようかな」
「そうなさいな。 私も、連絡をするわ」
話しが決まって、三人でキッチンへ立つ。
何時もよりも大量の料理が、三人の手によって、どんどんとテーブルを埋めて行く。
やがて、料理が整った。
春休みの一日を、娘の面倒を見ていた修二が、子供を連れてチャイムを鳴らす。
その内、バイクのエンジン音が、下宿の前に停止する。
二家族が揃って、朝美の帰宅を待ちながら、久し振りに利知未が淹れた珈琲を飲み、仲良く、先の思い出話に花を咲かせていた……。
……物語も、二人の愛情が蕾となって、花開く迄のステージへと、進んで行く……。
利知未シリーズ大学編・八章 告白 了 (次回は、2月 1日 22時 更新予定です)
大学編、八章までのお付き合いを、ありがとうございます。 この回は、2006年 6月24日初稿完成だったらしく、約一週間で書き上げた部分でした。
この頃は大体、月に3本から4本を上げていた様です。
特にどこかへ投稿するつもりがあって書いていた訳ではなく、ただ、中学編から読み続けてくれていた友人二人のために、書いていた頃です。
そして、利知未が10年を暮らした下宿を出て、倉真との関係が改めて始まり、将来の目標に向けてインターン生活へ入った時からの二年間が、来週からお届けする 利知未インターン編の、全四章で続いていきます。
作者本人が医科大学を知っている訳も無く、本当に新聞などを見ながら、想像だけで作り上げた世界観での話が此処から、続きます。
その点は、お手柔らかにご覧ください。 <(__)>
そして来週からも、また予告通りの時間に、この場所で皆様にお会いできる事を、楽しみにしております。