一章 愛情の形 前編
利知未シリーズ、大学編のスタートです。 1990年代中頃に差し掛かる時期が、時代背景となっております。(作品中、現実的な地名なども出てまいります、フィクションです。 実際の団体、地域などと一切、関係ございません)
この作品は、未成年のヤンチャ行動、飲酒運転などを推奨するものではありません。
利知未は高校生活の最後に、下宿の双子の幼馴染・由香子という少女と関わった。 それは、中学時代、FOXのセガワとしての自分に本気で惚れ込んで、そのまま悲しい生涯を終えてしまった、由美との関わりを思い起こさせる経験だった。
その由香子との出来事が切っ掛けとなり、下宿の妹分の一部は、宏治や倉真達とも知り合う事となった。
利知未のヤンチャ仲間に下宿の仲間も加わり、友情が芽生え、益々、利知未の周囲は賑やかになってきた。
そんな中で春休みが終わり、利知未の大学生活が始まる。
( ※ 今週から三週間、二部で一章・同日更新が続きます。後半の前書きは省きます) ごゆっくり、お楽しみください。
プロローグ
あの頃は……。
まだ、彼への愛情は、芽生え始める前。 それよりも前に、愛したヒトが、二人……。
休日。 懐かしい下宿へ、安定期になった大きなお腹を支えながら、利知未は里沙と朝美、冴吏を尋ねる。
「久し振りね、予定日は、いつ?」
一足先に、母親と成った里沙が、利知未に紅茶を出しながら尋ねる。
「六月の、二十四日。 あと、三ヶ月弱かな」
「あら、利知未の誕生日の、次の日なのね。 そっくりな子が産まれてきそう」
昔と変わらない優しい笑顔で、里沙が言った。
「今日は、仕事の為に来ていたんだよね。 朝美も仕事か。 冴吏は?」
「そうね、呼んできましょう。 部屋で原稿、書いてる筈だから」
里沙はリビングを出て行く。 二階の冴吏の部屋へ向かって、階段を上がっていく。
それから暫らくして、懐かしい顔が三人、リビングに揃った。
里沙の下宿は、まだ残っている。 それは、ここから巣立って行った、かつての店子達にとって、何よりのことだ。
里沙の結婚を機に、大家手伝いを始めた朝美は、まだここから仕事へ通っている。
しかし、里沙の出産に伴い、別に通い仕事を持っている朝美だけでは、手が回りきらなくなった。
そこで、作家として仕事を始めた冴吏が、下宿へ戻ってきた。
冴吏も、一度はここから巣立っている。
この場所は、あの頃の店子達にとって、大切な第二の故郷。
里沙は、彼女たちの良き相談役、兼 保護者代わりだった。
大切な所だから、守って行きたい。
その思いは、あの頃の義姉妹・利知未達の、共通の願い……。
久し振りに顔を合わせた三人は、里沙の美味しい紅茶を飲みながら、あの頃の、長い、長い、思い出話を始めてしまった……。
……利知未が高校を卒業した、九年前。 あの春からの、物語……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一章 愛情の形 前編 (1 〜 6)
一
四月三日・月曜日。 利知未の大学生生活が始まった。
大学は、透子の自宅と下宿との、ほぼ中間に位置する立地だ。 利知未は高校時代と同じ様に、バイクで通う事にした。
カリキュラムは、一、二年は一般教養が主になる。 三、四年で専門に分かれ、五、六年はインターンとして、実践的に技術を体得して行く事になる。
高校時代と違いレポート提出が増える。 利知未は、パソコンを早い内に手に入れる事にした。 アダムでのバイト料を、今度はその為に貯め始める。 勿論、バイクの車検代や燃料費、自賠責保険代も稼ぐ。
大学生になったからと言って、遊びにかける金を増やせる訳も無い。
それでもバイトに入る時間は増やした。 時給も上がった。 平日の夜入る事にして、月一日は日曜も休みを貰う事にした。 それで十万は稼げる。 学費は基本的に親から出る。
将来の為、少しずつの貯金も始める事にした。 諸雑費を引き、バイク関係の貯金とは別に、月・二万円ずつ始める事にする。 小遣いは三万前後だ。 バッカスの常連は止められない。 他で飲んだら、金が掛かる。
……止める気も、元々、無かったのは確かだ。
入学後、透子に連れられ、良く判らないサークルに顔を出した。
「…で、結局、何のサークルなんだ?」
「ナンかね、アタシにも良く判らないんだけど。 女のコは格安で、あっちこっち旅行したり、出来るみたい」
「なんだ? そりゃ」
「さぁ……?」
「判らないで、入ろうと思ったのか?」
「面白そうだから。 アンタは、興味無いの?」
「あたしは、金かけてどっか遊びに行くくらいなら、ツーリング行ってる方がイイな」
「そー? ま、無理にとは言わないけど」
入学式の翌日には連れて行かれ、そのまま流れで、その夜の飲み会に参加させられてしまった。今は、その帰りだ。 早めに抜け出る為には、やや骨が折れた。 大学最寄りから二駅離れた場所から、置いてきたバイクを取りに態々、電車に乗って戻る所だ。
「で、利知未、もう酒は抜けてるみたい?」
「あの程度じゃ、酔っ払いはしネーよ。」
「凄い肝臓だな。 丁度イイや、バイクで送って行ってよ?」
「…飲酒運転には、なるぞ?」
「ダイジョブ、ダイジョブ」
少しだけアルコールで赤くなった顔で、相変わらずの呑気な笑顔だ。
「…ま、構わネーよ。 まだ、十時過ぎだ」
バイトは今週一杯、休む事にしていた。 講義により、まだ何曜日が早くて何曜日が遅くなるか、判らなかった。 一週間は、その様子見だ。
それによって週四日、夜からのバイトを入れる。 日曜は、基本的には今まで通りだ。 また何か不都合があれば、その都度マスターと相談だ。
大学まで戻り、バイクで透子の家を回ってから下宿へ戻る。
玄関を入ったのは、0時過ぎだった。
入学後、一週間を過ぎ、利知未はアダムでのバイトを再開した。 月・水・金・土の、十九時〜二十三時、日曜は十一時〜十八時で入る事にする。
その週の金曜、由香子から双子宛にエア・メールが届いた。
里真が中心になり、十六日の日曜、宏治達にも緊急召集をかけた。
始めての由香子からのエア・メールだ。 報告会をしたいらしい。
当日はアダムへ十五時半集合にし、利知未も里真に言われ、十七時に上がる事になった。 折角、皆が集まるのだから、何処かでゆっくりと話しでもしたい、と言う里真の意見である。 双子も勿論、賛成だ。
すっかり仲良くなった宏治達と遊ぶ計画は、どんな事でも大賛成だ。 学校の友人と遊ぶのとは、また違う楽しさがあった。 行動範囲が広い。 やる事もハチャメチャな感じだ。
利知未からは、バイクの後へ乗せて貰う事は禁止されている。 自分はヤるのにズルイと、樹絵は思う。
その事で話をした時、利知未からは、「どうしてもどっか行きたいなら、時間があればあたしが車を出す」 と言われた。 車、と言ってもレンタカーだ。 それに、本当にそうして貰えるとも思えなかった。
ただ、バイクのタンデム禁止を言い渡された時、駄々を捏ねる樹絵を宥め様として言った言葉だと、双子も里真も理解している。
由香子との出来事を通し、利知未に対する認識が、少し変化してもいた。 本当は、優しくて面倒見が良いタイプなのではないかと、樹絵だけでなく、秋絵や里真も感じ始めている。
店子の中で逸早く、利知未のその性質を見抜いていた美加は、益々、利知未に懐いている。 最近、良く利知未にくっついている。
十六日にアダムへ集合した仲間は、そのまま食事をしにファミレスへ向かった。 その席で、宏治達は由香子の住所を聞いた。
「絵葉書でもなんでも良いから、タマには連絡してあげて。」
そう言った里真の言葉に、素直に従ったのは和泉だけだった。
他の連中は、準一も言っていたが、筆不精なのだ。
「…ってもさ、オレ達が何書いてあげればイイのか、全然判らないよ」
「言えるな。 女のコと違って、普段アンマ手紙とか書かないモンな」
準一が言えば、宏治も肯定する。 更に倉真が言う。
「イーじゃネーか。 また、こっちへ来た時に、一緒に騒げば」
「だよね」
三人の言葉に、里真が少しムッとする。
「冷たぁい! 宏治君まで、そんなコト言うの? もっと優しい人かと思ってた! 見当違いだったのね」
里真に言われ、宏治がやや怯む。
「始めての外国で、しかも生活をして行かなきゃならないのよ? 言葉だって、上手く通じないかもしれないし……。 きっと、由香子ちゃん寂しがってると思うんだけどな……」
今度は気の毒そうな顔になる。 そう言う顔をされるのは弱いが、だからと言って、本当に何を書けば言いのかは判らない。
「クリスマスカードでも何でも良いから、とにかくお願いね」
「善処しまーす」
里真の言葉に、準一がいつも通りの調子で答えた。
「何、政治家見たいな事、言ってるのよ?」
「そーだぞ。 …善処、ってどう言う事だ?」
「適切に取りはかること、上手く始末する事。 …と、国語辞典には書いてあるな」
利知未が、樹絵の言葉に答えてやった。
「適切に取りはかる、とか、上手く始末する、って、アンマ良い意味に聞こえネーモンだな」
倉真が言った。 樹絵は、その言葉のニュアンスに反応した。
「本当だな。 …ってコトは、ジュンもそう言う感じで使ったって事か?」
ムカッとして、準一を睨む。
「あ、また、そんな顔して! 可愛い顔が、ブスになっちゃうよ?」
準一は、やはりマトモに取り合わなかった。 樹絵が膨れっ面になる。 その顔を見て呑気に笑う。 相変わらず考え無しに、睨めっこなんか始めて見る。 ……全員、吹き出してしまった。
帰り道に、宏治から誘いがあった。
「ゴールデンウイーク、どっか空けといてくれって、兄貴から伝言。」
「宏一さんが? 珍しいな」
倉真の言葉に、兄・宏一が、どうやら一人ダチを紹介したいようだ、と答えた。 皆、特に用事を入れている訳ではなかった。
利知未はバイトがあるだけだ。 木曜の定休日か、日曜日も月に一日ならば何とかなりそうだと話しをした。 バイク仲間全員の意見を統一し、五月七日、日曜日に出掛ける事になった。
「倉真、また彼女置いてくンの? 喧嘩の蹴り、着いたの?」
準一に言われ、倉真が答える。
「とっくだよ。 お前、何時の話しシてンだよ?」
「つい、二週間ほど前の話し。」
利知未が聞いていた件の喧嘩だ。 そちらの会話に気を向ける。
「二週間も前の話しだろ?」
「ま、本人がソー言うンなら、二週間も前の話しだけどさ」
準一は、そう言って肯定した。 倉真がバイクに跨る。
エンジンを始動し、ギアチェンジをして皆に声をかける。
「ンじゃ、またな」
「今日は、ちゃんと帰るんだな」
「仲直りしたばっかッスから。 …アイツ、一度怒り出すと長いからな」
少し冷や汗を流しながら、バイクをスタートさせた。
軽く手を上げ仲間へ合図を寄越す倉真を、利知未はホッとした気持ちで見送った。
翌週の日曜日。マスターの愛娘・佳奈美が、十四時半頃にアダムへ現れた。
「利知未! 見て、見て! セーラー服! 似合う?」
「似合うじゃン? 一応、お姉さんに見える」
利知未の変わりに、妹尾が答えた。
「満には聞―て無い。 …でも、イイでしょ?」
「可愛いよ、あたしの中学時代とは偉い違いだ。」
懐かしい城西中学の制服姿だ。 思い出して、頬もほころぶ。
「へへー、でしょう?」 クルリと、一回転して見せる。
「入学してからずっと、利知未に見せに行くんだって、言い続けだ。」
マスターが笑顔を見せる。 佳奈美のセーラー服姿を、少し目を細める様にして眺めた。
「今の佳奈美と同い年の時、マスターに会ったんだよ」
利知未の言葉に、佳奈美が少し目を丸くする。
「ソーなの? ね、お父さん、利知未、可愛かった?」
父に尋ねた。 マスターは少し思い出す。
「佳奈美の方が可愛いぞ。 コイツは、女に見えなかった」
「ソーなの? 何処であったの?」
今度は利知未に聞く。 あっちを見たり、コッチを見たり忙しい事だ。
「河原。 始めに声を掛けられた時は、ヘンな大人だと思ったンだ」
「佳奈美の前で、オカシナ事を言うな。 俺のイメージが崩れるだろ」
「崩れるほど、格好つけて生活してンのかよ?」
「お父さん、家では格好良くは無いよ? でも、優しいから好き」
ニコリ、と笑顔を作る佳奈美に、マスターは愛しい微笑を向けた。
「思いっ切り、デレッとした顔してンな」
妹尾が、利知未の耳元で囁いた。 利知未は軽く、吹き出してしまった。
『本当だな』 そう思う。 そして、そんなマスターの様子を見ていると、心がふんわりとした優しさに包まれる。
『この人が、自分を救ってくれた』 改めてそう思い、胸が少し熱くなる。
……その想いが、違う形に変化し始めている事に、利知未はまだ気付かない。
気付くまでには、もう一騒動、事件を越える事になる。
更に翌々週、五月に入って始めの日曜日。
宏一の誘いで集まったメンバーは、利知未、宏治、倉真、準一に克己。 そしてもう一人、佐久間 哲。 宏一よりも一つ年上の、二十六歳・道楽息子。
生活費の面倒は、大きな会社の代表取締り職に着く、哲の父親の稼ぎから出ている。 自分は、グラフィック・デザイナーと言う、名前だけ聞いたら格好良さそうな職に着いており、普段は自宅でゲームのデザインなど手がけているらしい。 高そうなマンションに、一人暮しだ。
宏一とは、仕事を通して知り合った。
宏一は、ヤンチャ時代の先輩が立ち上げた、ゲームの企画開発を手がける会社に勤務している。
雑用でも何でも言いから手伝えと誘われ、そこでコンピューターの事も勉強した。 仕事が忙しいと、職場に泊り込むこともある。
在宅でデザインを手がけている哲とは、その先輩繋がりで知り合う事となった。 小さな会社だから、知り合いヅテでコストを下げる。 始めて顔を合わせたのは、その企画会議の席だった。
企画会議と言いながら、実際は飲みながらの相談だ。
そこで哲とも仲良くなった。 歳も一つしか違わない。
今日、大人数で出掛けようと宏一が提案した理由は、ツーリング先の休憩場所で聞いた。 タバコを吸い、缶珈琲を飲みながら言った。
「コイツよ、彼女に振られたばっかなんだ。 スゲー落ち込んでて、見かねて今回、気晴らしに連れ出すコトにした」
「ここで言う事か?」
「何処で言っても同じだろ? どうせなら大人数にしてくれって言ったのは、哲だろ」
「俺は、女をメンバーに入れてくれと言ったんだ」
「いるじゃネーか? ここに」 と、利知未を指す。
タバコを指に挟み、缶珈琲に口を付けている利知未を、哲が見る。 暫く、観察して見る。
「……顔は、綺麗な顔をしているな」
「顔は、っての、ドーユー意味だよ?」
利知未が少しだけ、ムッとした顔をして見せた。 心底、ムッと来たわけではない。 タバコを咥え直し、飲み切った空き缶を灰皿代りにし始める。
「誉め言葉なんだがな。 俺の審美眼は厳しいんだ」
「特に、女を見る目はな」
宏一が再び口を出した。 続けて言う。
「大体、今回、振られたのだって、お前の浮気グセが原因だろーが」
「痛い事を言うな。 コレでも反省してるんだ」
「コイツに色目使う様じゃ、本当に反省してる様にも見えネーよな」
近くで話しを聞いていた克己が言った。
「ソーかも知れネーな」
宏一が肯定して、笑い出す。 利知未は一応、怒ってみる事にした。
「ほっとけ。 …ソーだ、言っておこうと思った事が、あったんだ」
「ナンすか?」
「お前等、イイ加減、苗字にさん付けで呼ぶの、止めてくれないか?」
「いきなり、ドーしたの? 瀬川さん」
準一が聞く。 宏治も少し目を丸くしている。
「……由香子の件もあったしな。 なるべく、性別の誤解を受ける事を、コレからは避け様と思ったンだ。 初対面のヤツが間違えたって、ダチが女名前で呼んでりゃ、少しは避けられるだろ?」
「ソー言うコトですか」 宏治が納得する。
「俺達、瀬川さんが、FOXのセガワん時が初対面だからな。 全く、気にしたコト無かったぜ」
「言われて見れば、ソーだ。 じゃ、利知未さんもジュンって呼んでよ?」
「なんだ? それ。 準一はそのままでもアンマ関係無いと思うけどな」
「イージャン? 気楽な感じで。 和尚は、和尚になったんだし」
ヘラヘラと笑いながら言った。
「そーいや、いつから、そう呼ぶようになったんだ?」
利知未が、どうでも良いコトを考え出す。 哲はタバコを取り出した。
哲はタバコを吸いながら、改めて利知未を観察し始める。 値踏みする様な感じが、しないでもない。 克己はその哲の視線に気付いた。
『……ナンか、気に入らネー目で見てンな』 口をへの字に曲げる。 残りは、宏一も一緒になって、クダラナイ問答に参加していた。
「あの時じゃネーのか? 和尚が、秋に暴れたって言ってた時」
「夜、宏一さんも一緒になって宴会したな、ソーいや。」
倉真もその時の事を思い出し、ついでにいらない事まで思い出す。
「あれから、宴会してたの!? ズルイじゃんか」
宏治が、膨れっ面になった準一を見て笑った。 全員で準一を構い始めた。
「ンな事言ったって、お前、あの後、和尚の面倒見てたンだろ?」
「受験生だった筈だしな。」
「高校受験なんか、ドーでも良かったんだけど」
「結局、辞めちまったしな」
「周りに、良くない手本が大過ぎだったんだろ?」
利知未が突っ込む。
未成年メンバーの中で、マトモに高校を出たのは利知未だけだ。 宏一も高校は出ているし、哲は大学までキチンと卒業している。 克己は、倉真達と同じ高校中退だ。
「痛いコト言うよな、アンタも」
克己が気を取り直して、仲間の会話に参加した。
「そういや、宏治。 調理師免許は貰ったんだよな?」
「まぁ、一応、ちゃんと専修学校は卒業したから」
「お袋が大喜びだぜ。 宏治の卒業式の日、滅多に作らネーご馳走作ってよ。 オレが就職した時だって、無かった事だぜ?」
「その歳で、弟に焼き餅かよ? 見っともネー!」
利知未が笑い出す。 宏一が言い返す。
「焼き餅って訳じゃネーよ。 それ位、お袋にとっては宏治が可愛いってコトを言いたいだけだ」
「やっぱ、焼き餅?」
準一がヘラリと言う。 宏一がその準一の頭をとっ捕まえて、ウリウリする。
「テメーは、違うっつってんだろ?」
「イテテテテ、宏治、暴力兄貴を止めてよ?!」
「悪い。 喧嘩じゃ、兄貴には勝てネーよ」 笑っている。
「ンじゃ倉真! 瀬川さん!」
「瀬川さん? 誰の事だ?」
「ジュン、男なら自力で脱出しろ!!」
倉真も面白がって、発破を掛けた。
その日は神奈川へ到着後、珍しく全員でバー・タイムのアダムへ行き、酒を飲んだ。
二
克己と倉真は、他のメンバーよりも一足先に帰る事にした。 克己は席を立つまで、宏治に話しを聞いていた。
「仕事先の親父がよ、オレが働き始めて二年になるだろ? 調理師免許取って来いって言い出したんだ」
「克己の働いてるの、定食屋だよな? 調理、してるのか?」
「やってるぜ。 入った頃から仕込まれた」
「それなら、試験受ければ良い筈だけどな……」
「その、試験っての、どんな事やるンだ?」
「衛生法規、公衆衛生学、食品衛生学、調理理論、食文化概論、栄養学、食品学の、七つだな」
「難しソーなコトやんだな……。 で、内容ってどんなだ?」
「食品添加物の事や、食中毒の原因になる細菌の事。 食に関する法規的な勉強、カロリーなんかの計算方もやったな。 後、食材の特徴って言えば言いのかな? そんなコトだよ。 食文化の勉強もだ。 本屋にテキスト色々有るから、今から勉強して、来年辺り挑戦すればどうだ?」
「……ベンキョウなぁ」 イヤそうな顔をする。 宏治は少し笑って言った。
「おれが解るトコは、手伝ってヤるよ。 持ってて損になるモンじゃないし、やってみろよ?」
「そーだな、考えてみるわ。 …オレは、そろそろ抜けるかな。 倉真、お前はどうすんだ? 綾子が痺れ切らして待ってんじゃネーのか」
時計を見て、倉真も席を立った。
「…だな。 また怒り出したら面倒だ。」
「尻に敷かれてるじゃネーか」
宏一がからかう。 倉真が言い返す。
「宏一さんこそ、早く嫁さん見付けて美由紀さんに楽させてやれよ」
「てめ! 年配者に向かって、何、生意気な事言ってンだ?」
「年配者だから、言われちまうんだろ?」
利知未がツッコンだ。 思い出して、宏一が言う。
「そーイヤ、前、お袋が勝手に盛り上がってたな。」
「ナンに?」
「お前を嫁に貰えって、酒飲んで酔っ払って言ってたンだ」
利知未の目が丸くなる。 …美由紀さん、何、考えてるんだか。 と、寄り目になってしまう。
「なんだよ? そりゃ。 あたしにも選ぶ権利、有ると思うぞ?」
「そりゃ、コッチの台詞だ。 宏治も義姉さんなんて、呼びたかネーだろ」
「面白そうだな。 利知未さんが、エプロンして兄貴の帰りを待ってる所とか、想像しただけで楽しいよ」
宏治のふざけた言葉に、準一も悪乗りする。
「それって、深夜番組の裸にエプロンとか!? 面白ソーだ! したらオレ、宏治の所に泊まりに行くよ!」
「お前は、想像が飛躍し過ぎだっツーの。」
足を止めていた倉真に、頭を小突かれた。
「イテ! けどさ、倉真だって、見て見たいと思わない?」
倉真は、自分がいつか利知未の色気ある姿を想像した事を、思い出してしまう。 しかも、このアダムでだ。 もう一度、準一を小突く。
「ウルセー! 女の裸は、彼女のを見てればイインだ。 ドーテーヤローと一緒にするな」
「それは、違うんじゃないか? イイものは、何体見たってイイ。」
哲の言葉に、克己が昼間に感じた妙なムカつきを思い出す。
「アンタ、それで前の女に振られたんだろ? イイ加減にしといた方が、イーんじゃネーか?」
「厳しいな。 …お前の弟の友人は、硬派ばっかり見たいだな」
「っツーか、まだ初心なだけだ。 未来有る青少年を、アンマ苛めてくれんなよ? 一応、可愛い弟達だからな」
「へー、一応、兄弟愛っての、あンだな」
利知未がからかい半分、感心して言う。
「馬鹿にスンな。長男だぜ? オレは。」
「感謝してるよ、兄貴のお蔭で専修学校行けたんだからな」
「ほら見ろ、弟は判ってくれてる。」
「美しき兄弟愛って言う所か。 やや、羨ましい点でもあるな」
「哲は、兄弟いネーのか?」
「ああ、いない。」 利知未の質問に、哲が短く答えた。
「そりゃ、寂しいかもしれネーな」
優の事を思い出す。 …今は亡き、裕一も…。 大伯母の元、兄妹三人が仲良く一緒に暮らした五年間は、今の利知未にとっては楽しい思い出だ。
「同情してくれてるのか? …意外と、女らしい所も有るんだな」
哲の言葉が、店を出る前の克己の耳にも入った。 やはり何となく嫌な感じがした。 自分の不可解な気持ちの動きに、首を傾げる。
「おい、出るぜ?」
準一を構い終わった倉真が、克己に声を掛けた。
「ああ。 判った。」
仲間にもう一言、挨拶を交わし、二人はアダムを出て行った。
倉真達が、店を出て二時間。 アダムの閉店時間が迫る。
利知未達のテーブル席へ、瀬尾がラストオーダーを取りに来た。
「とりあえず、もうイイよな?」
「そうだな。 中々、イイ店だ。 今度また来店しよう」
「女とか? 次の女は、大事にしろよな。」
利知未に言われ、哲は軽く笑みを見せた。
「ンじゃ、飲み切って出るか」
「ソーだな」
数分後、店の外で挨拶を交わす。 手塚兄弟が、バイクを並べて走り去る。 準一も、一人夜の街へ消えた。 利知未はバイクに跨り、エンジンを始動した。
「悪いな、この辺り、不案内なんだ。 解る所まで先導して貰えないか?」
「宏一がいるうちに言えば良かったじゃネーか? …ま、構わないぜ。」
「恩に着る」
「家、何処だよ?」
「川崎だ」
「ソーか。 …じゃ、国道15号まで出てヤるよ」
少し考え、国道1号を行くよりも早いだろうと結論を出した。
「頼む」
そして、二台のバイクが走り出す。
15号へ出る交差点付近で、哲が言った。
「飲み足りない感じがするな」
バイクを一端止め、街燈の明かりに照らして、利知未が地図を見せながら、今の場所を説明している。
「アンマ、量飲んでなかったな、そーイヤ」
「バイクだからな。 …少し、付き合わないか?」
「何処で飲むんだよ?」
「良いブランデーがあるんだ。 ここからは俺が先導するよ」
「朝までは付き合えネーぜ?」
「そんな時間迄、飲めると思うのか?」
利知未は、何処かの店に行くと思っている。 閉店時間が二時だとしても、精々、後一時間くらいの事だろうと考えた。
「奢りなら、付き合ってヤるよ」
兄弟の事を話していた時の、少し寂しそうな哲の顔を思い出していた。
あの後、飲みながら哲は、自分の家庭の事情を話した。
『コイツも、両親との縁は薄かったんだな』 そう、同情心とも、連帯感とも言えない感情が、哲に対して浮かんでいた。
哲に先導され、バイクを再びスタートさせる。
哲は高級マンションの前で、バイクを止めた。
「……って、店じゃないのか?」
「一言も、そうは言っていなかったと思うが? 自宅に良い酒があるのに、態々、外で飲むことも無いだろう」
「呆れたヤツだな」
利知未はヘルメットを脱いで、バイクに跨ったまま、ハンドルに肘をついた。
普通の感覚なら、女が深夜0時を回る頃、一人暮らしの男の部屋へ上がり込むのもどうかと言う所だ。
だが、利知未は自分がそう言った対象には成り得ない、と思っている。 イザとなれば、投げ飛ばす事も可能だ。 何より、女として見られる事が今まで余りにも少な過ぎた。 ここまで来てしまったと言う事もある。
更に、少し哲に対して、同情心も浮かんでいる。
素直に、部屋へ上がり込んでしまった。
エレベーターで、八階建のマンションの、七階まで上がった。
『あたしは、どうして、お坊ちゃんと縁があるかな?』
心の中でそう思う。 ……初めての恋人、敬太も。 かなり裕福な家の息子だった。
その敬太を想う時の苦しさは、今はもう無くなっている。
苦しさよりも、楽しかった事を思い出す事が多くなっていた。 FOXの事も、今では霞がかかるような事も無い。 気持ちが、そう言う意味では楽になっていた。
部屋に入り、目を丸くする。外観から想像はしていたが、広い。
「一人で、3LDK何て、贅沢過ぎないか?」
「そうでもない。 一部屋は仕事部屋だ。 一部屋が寝室で、もう一部屋は趣味の部屋になっている」
「趣味?」
哲は説明をしながら、キッチンで氷を用意した。 アイスペールを手に、部屋の奥へ向かう。
「油絵を、タマに描く。 音楽を聴きながらのんびりと筆を取るんだ」
「あたしには、良く解らないな」
「そうだろうな。 利知未はバイクだけか?」
「前は、ロックやってたケドな。 もう、二年も前だ」
「そう言えば、休憩している時になんか言っていたな」
広いリビングへ入る。 十帖は有りそうだ。 哲に指し示され、ソファへかけた。 灰皿を見つける。
「……FOXのセガワ。 FOXってバンドで、歌ってた。」
「あの少年達とは、そこで知り合ったのか」
ロックグラスとブランデーを用意した。
「ああ。 どうしようもない、弟分達だ。」
「…それも、少し羨ましいな。 ロックで良いか?」
「良いよ。 哲には、そう言うヤツ居ないのかよ?」
「居るように見えるか?」
ロックを利知未に手渡す。 自分もソファにかける。
「見えネーな。 …人を信頼する事を、し無さそうに見える。」
「信頼に値するヤツが、この世に居ると思うか?」
「…居ると思うぜ? 宏一の事は、信頼していないのか?」
「信頼はしない。 …だが、信用は出来る男だ。」
「詰まらネー事、言ってるな。」
「それが一番、丁度良いんだ。 …信頼しているヤツに裏切られたら腹も立つが、信用しているヤツなら、信用を失うだけで済む」
「……重症患者だな」
「そうだな、重症なんだろう。 利知未から見れば」
そう言い捨て、自分のロックを軽く煽る。
「タバコ、吸って構わないか?」
「灰皿は目の前だ」
言われて、利知未は小さく溜息を付く。
『……かなり、前の女に惚れていたのかもしれないな』
そう、理解する。 少し、自暴自棄な感じが見受けられた。
一口、ロックに口を付け、利知未が呟いた。
「確かに、良い酒だな」
どうせなら、もう少し良い気分で飲めれば、もっと良く味わえるかもしれない。
「今夜、飲み切ろう。 どうせ一人で飲んでも、美味くは無い」
哲は自分のグラスを空にして、瓶を手に取る。
「折角、飲み仲間が居るんだ。 手酌って事も無いだろ?」
哲の持った瓶に手を伸ばし、杓をする。
「……そうだな。 ありがとう」
呟く哲に軽い笑顔を見せ、自分のロックを飲み干した。
……深夜、二時を回る頃……。
空になった瓶が、テーブルの上へ転がっている。
利知未の、微かな吐息が漏れていた。 ……哲は、利知未をソファの上へ寝かせる。
「……せめて、明かり……」
「……恥かしいのか?」
酒の所為で色っぽくなった、利知未の瞳が微かに動く。 哲は黙って、間接照明へ切り替えた。
その夜、利知未は。 約二年ぶりに異性と抱き合った。
敬太の時は、身体の悦び以上に、心が感じた。 ……けれど、今夜は。
………身体だけが、素直に反応した。
利知未の中で敬太への想いが浄化し、哲に対して、敬太との最後の夜に気付いた母性が……。
……強く、反応を示した。
『コレは……、愛情とは、別物……』
抱かれながら、そう感じていた。
哲の感じている寂しさは、自分も感じた事の有る寂しさだ。
今、哲は、……女の体温を、欲っしている。 誰の温もりが欲しいのか? その相手は、自分でない事も判っている。
それでも利知未は、拒否はしなかった。
身体の反応に、素直に声が上がる。 心は、別の事を思う。
『…ヘンな、感じだ…。 酒に、酔った所為なのか……?』
漏れ出す息の狭間、小さな呟きが漏れた。
「……寂しいのか?」 背中に回していた腕を、首筋に回し、唇を重ねる。
身体を併せたまま、哲の動きが止まった。
「……お前が、寂しそうな顔をしないでくれ……」 やがて唇を離して、哲が呟く。
「……今は、……あたしがいるから……」
翌朝。 利知未は、哲の部屋で目を覚ました。
倉真と別れ、一人その先へとバイクを走らせながら、克己は思う。
『やっぱ、あの哲ってヤツ、ナンか気に食わネーな』
休憩場所で利知未を、値踏みする様に観察していた目を思い出す。
『利知未に関して、心配するのも余計な世話かもしれネーが……』 納得は出来ない。
克己は、利知未の事を仲間として大事に思う。
あのメンバーの中で、唯一の女だ。 性別を感じさせない雰囲気を持った女と、始めて会った気がする。
克己にとって、特殊な意味で特別な存在だ。
『それでも、アイツは女だ。……綾子とは違うが。 庇護するのは、オレ等の役目だ』
オレ等、では無いのかもしれない。 宏一を除き、後は皆、利知未の弟分だ。 唯一、年上の自分が兄貴分となる。
『しかし、他人がくちばし突っ込み難い、問題でもあるよな』
綾子と倉真を思い出す。 そして、自分の性を感じる。
『何ツーか……、そう言う事に、巻き込まれ易いタチなのかもしれネーな』
別に、恋愛話が好きなタチではない、とは思う。
何故か、敏感に捉えやすいだけだ。 ……特技と言えるかもしれない。
倉真は、十時前にはアパートへ戻った。 綾子はやはり、少し膨れていた。
「……こんな遅くまで、行く物なの? ツーリングって」
夕食を用意して待っていた。 まだ、自分も食べてはいない。
「悪かった、つい、瀬川…、じゃダメなのか。 利知未さんのバイト先で、軽く飲んじまったんだ」
綾子は、飲酒運転より、始めて聞く女の名前に反応する。
「……利知未さんって? もしかして、いつか倉真に電話して来た人?」
「電話? タマに、ツーリングの誘い電話は来るぜ。」
「いつか、昨日は会いにきてくれるって言ってたって、電話してきたヒトの所じゃないの?」
倉真には、直ぐにピンと来ない。 綾子は今年二月の事を言っている。
「ンだ? そりゃ。 お前も会った事、ある人だぜ」
「……倉真のガールフレンドになんて、会った覚えは無いけど?」
まだ、剥れている。 益々、怒り出した様にも見える。
「いいや、会ってる。 あン時は、お前も一杯、一杯でアンマ覚えてネーかもしれネーな」
アダムでの事を思い出す。 綾子が日曜の午後、一人で倉真に会いに来た、あの日の事だ。
「アダム、覚えてるだろ?」
「アダム? いつかの、喫茶店?」
「それだよ。 あの時、お前をカウンターへ誘ってた店員、覚えてないか?」
「……アレは。 あの人は、男の人でしょ? 女の人なんて……、」
微かに、あの日の事を思い出す。
あの時は確かに、自分の事に一杯で、ほかの事の記憶は余り無い。 けれど、カウンターへ誘ってくれた店員の顔は印象に深かった。 ……綺麗な顔をした、男の人。
倉真は、綾子が利知未を男と思っていたらしいことに、始めて気付く。
「あのヒトの事だ。 女だよ。 瀬川利知未って言う、俺達より一つ歳上の、性別・女。 アダムは、あの人のバイト先だ」
言い切る。 綾子は中々、信じてくれなかった。
「…判った。 今度の日曜、お前をもう一度あそこへ連れて行く。 そこで本人に確認しろ」
倉真の言葉に、不承不承ではあるが頷いた。
その後、綾子の用意した夕飯を平らげ、綾子の機嫌を取り、いくらか怒りを納めた綾子を、抱いてから寝た。
三
利知未は翌朝、七時過ぎに目を覚ました。
『……ン? …ここは』 寝ぼけた頭が混乱する。
ベッドの寝心地も違う。 目に入る天井の色や、照明も違う。
はっきりと目を覚まし、隣にある体温を感じる。 うつ伏せに、良く眠っている男。 ……ロングヘアの、優男。
『……そうか、昨夜は』 記憶が戻る。 ……初対面の男、哲の部屋へ泊まってしまった。
時計を探す。 視線を巡らせ、改めて哲に目が止まる。 二人揃って、何も身に纏ってはいない。
『…ヤバイな』 昨夜、何をしたかは覚えている。
愛情を感じている相手と関係した、と言うのとは違う。
……寂しそうな男に、同情心が芽生えただけ……。
良く眠っている哲をそのままに、利知未はベッドを抜け出た。
素っ裸のまま、静かに扉を開いて、隣のリビングへ出る。
ソファの傍に、脱ぎ捨てられた服を見付け、手を伸ばした。
部屋を見渡し、42インチの、テレビの上にあった時計を見た。
「七時、十分……」
ここから、大学までどれくらいかかるだろう? 今日の講義は九時からだ。
暫く考え、遅刻を覚悟で動き出す。 キッチンへ行き、冷蔵庫を空けて見た。 自分も朝食を取りたい所だが、何よりも、今まで自分の周りにいた少年たちと比べても、細い身体、白い肌を持った寂しげな青年に、何かマトモなものを食わせてやった方が、イイかも知れない。 そう思う。
「殆ど、ナンにもネーな……」
もう一度、考える。 母親にでも、なった様な気がする。
コンビニが近くにあった事を思い出し、静かに玄関を出て行った。
隣の温もりを求め、哲は目を瞑ったままで、手を伸ばす。
……何も、誰も居ない事を知る。
「……利知未?」 ……帰ったのか。 そう思う。
寂しさが襲ってくる。 サイドテーブルの上にあるタバコに、手を伸ばした。
一本灰にしてから起き出し、リビングへ出る。 時間は、八時前。
朝日の射し込むリビングのソファにかけ、利知未が新聞を広げていた。 珈琲の香ばしい香りが、リビングへ広がっている。
「遅い、お目覚めだな」
「…帰ったんじゃ、無かったのか…?」
「…一応、挨拶が必要かと思ったンだ。 勝手にキッチン借りた。 悪い」
「それは構わないが。 何も無かっただろう?」
「コンビニ行ってきた。 飯、食うだろ?」
そう言って、新聞から目を放して哲を見た。 驚いた顔をしている。
利知未は哲に笑顔を向け、ソファから立ち、ダイニングへ向かった。
「久し振りだな、朝からマトモな飯がテーブルに並んでいるのは」
「タマには、イイだろ? 飯も、一人で食うんじゃ不味くなる。 タダでさえ料理ナンかしない寂しい独り者は、益々、栄養失調になる」
「そうかもしれないな」
哲を椅子に座らせ、トーストとベーコンエッグ、サラダとカップスープの朝食を、二人で向かい合って済ませた。
食後、珈琲を飲みながら、哲が言った。
「少し、意外だったな」
「何がだよ? 飯の準備か?」
「違う。 早熟だったんだな」
目を上げ、利知未をじっと見つめた。 見つめられ、恥かしくなる。
「ナンだよ、それ。 始めてじゃなかったって事かよ? 期待に沿えなくて、悪かったな」
恥かしい気持ちを、挑戦的な言葉で誤魔化す。 哲は動じない。 利知未を見つめたまま、微かに笑顔を作る。
「いや。 期待以上だ。 良い女じゃないか」
「哲の基準は、何なんだよ? ドーユーのが、良い女って言うんだ?」
良い女、などと、始めて言われた。 利知未は、また捻くれる。
「自分で気付いていないのか? …勿体無いな」
「いつでもセックスが出来る女ってのが、基準じゃネーだろーな」
再び、挑戦的に言う。 哲は、利知未の反応が楽しくなってきた。
「見ていて欲情を感じる女は、良い女だ」
「……何か、意味、違わなくネー?」
「違わないさ」
微かに赤くなっている表情に、可愛らしさを感じた。
利知未は結局、講義を一つサボってしまった。 その日、二つ目の講義の前、透子が利知未を見付けた。
「サボり利知未の復活? もしかして、男?」
ニマ、と笑う。 利知未は一瞬怯む。
「…遅刻すると、男なのか? …チョイ、違うよ」
その利知未の反応を見て、透子がニマーっと笑った。
「チョイ、って事は、大半そうって事だ。 ソーか、やっと前の男、吹っ切ったか! イイ事だ」
「勝手に言ってろ」
否定も肯定もしなかった。 敬太の事が吹っ切れた点だけは、正解だ。
その一週間は、何事も無く過ぎた。
利知未は下宿と大学、アダムとバッカスへの行き来で、日々を過ごす。
バッカスでは相変わらず、準一や和泉と顔を合わせる。
倉真は平日、綾子の相手で忙しい。
綾子は、始めて倉真から聞いた、女の名前に関する疑惑を持ち続けている。
コンビニでのバイト中も、レジを打ったり商品を入れ替えたりしながら、ふと気がつくと手が止まっている。
今週に入って何度目かの、店長からの注意を受けてしまう。
帰宅してからも、同じ様な事が起こる。 料理中、食事の途中、入浴中など、様々なタイミングで、ストップしている。 こう言う時の、綾子のご機嫌を取るのは至難のワザだ。
呑気に酒を飲みになど、行っている場合では無い。
十四日、日曜日。 倉真は、約束通り綾子を連れ、アダムへ向かった。
店が暇な時間は昔と変わらない。 ランチタイム終了後の十四時過ぎから、アフターメニューを出して約三十分後、十七時過ぎ頃までだ。
最近はその時間帯も、それなりに客が入っている。 オープン十周年を超え、売上は順調に伸びていた。 今日も、客席は三、四割ほど埋まっている。
この時間は常連が多い。 ホールは一人で回転中だ。 カウンター席は、利知未が一人で回す。
隅の席で、瀬尾が別のバイトと二人、賄いを食っていた。 いつもこの時間は、利知未と交代で食事を取っている。
案内に出た店員に断り、倉真は綾子とカウンターへ向かって行った。 利知未が倉真に声を掛けた。 綾子にも笑顔で対応する。
「いらっしゃいませ。 珍しいじゃないか、彼女同伴か?」
確かに、あの時の店員だと、綾子は確認している。
「こいつの誤解、解きに来たンす。」
自然にカウンターチェアへ掛けた。 タバコを取り出しながら、立ったままの綾子を促す。 促され隣席へ、おずおずと腰掛けた。
「いらっしゃいませ。 メニューを、どうぞご覧下さい」
メニューを綾子へ差し出し、二人へお冷とお絞りを出す。
綾子がメニューを見ながら、チラリと利知未を見る。
「…誤解、ね。 何を誤解させたんだ?」
綾子のオーダーが決まるのを待ちながら、利知未が倉真へ質問した。
「誤解されてンのは、利知未さんっす。」
「あたしが、ナンの誤解を受ける事がある?」
メニューから完全に目を上げて、綾子が利知未を凝視した。
その綾子の表情を一度見て、視線を利知未に戻し、倉真が言った。
「毎度、お馴染みの事っすよ。 …いつもの、頼ンます」
タバコを出して、火を着ける。
倉真の注文の仕方には、一つのパターンがある。 『いつもの』 は、オリジナルブレンド。
『例のヤツ』 は、オリジナル・モカ・ブレンド。 ……またの名を『野良猫のホットミルク』
倉真の中で大問題が発生した時は、その味が恋しくなる。
倉真にとっても、『特別な意味を持つ味』 となった。
利知未は「いつもの」とオーダーされると、少しホッとする。 今は、どうやら平和そうだ、そう思うからだ。
手のかかる弟分を持つ姉貴分は、色々と苦労も多いのだ。
綾子が、利知未をじっと見つめる。 観察する。 ……やはり、綺麗な顔をしている。 そう思う。 男か、女か? と、問われれば、その声質、仕草、言葉使いを統合して、男に見えてしまう。
利知未は、バイト中はどうしてもそうなる。 FOX時代の条件反射が、すっかり身に着いてしまった。 制服の問題だと、自分で解釈している。
「つまり、性別の誤解か。 ……本当に、それだけなのか?」
少し、鎌をかけて見た。 倉真は一瞬だけ、たじろぐ。
「そこから発生する、有らぬ疑いも少し」
「有らぬ疑い、ね」
言ってから笑顔を見せて、綾子にオーダーを確認した。
二人のオーダーを出して暫くすると、瀬尾が休憩を終る。
「瀬川、交代」
「ああ、悪い。 …二人共、ちょっと席、移動しないか?」
休憩時間なら、綾子にもフランクに対応出来る。 三人で、カウンター近くの四人席に移動した。
今日の賄いは、残り物の食材を使ったピラフだった。 サラダもつく。 飲み物は各自、ソフトドリンクメニューから、好きな物を持って行く。
テーブル席に移動し、ネクタイを緩めてベストを脱いだ。 胸のラインが、ベストを脱ぐ事で、いくらかはハッキリする。
綾子はそれを確認して始めて、納得できた感じだ。
「……コレで、一つは解決したみてーだな」
賄いを食いながら、綾子ともフランクに話し出す。
「けど、コッチが解決したら、もう一つ、余分な想像が出て来たんじゃネーか?」
綾子が、恥かしげに視線を外す。 倉真は少し面倒臭そうな顔をする。
「お前、俺が瀬川さんとドーユー関係なのか、疑ってンのか?」
「……だって。 女のヒトなら、女の人で綺麗だし……」
利知未は少し笑ってしまう。 一応、誉められた事になる。
「あたしが、そう言う女に見えるか?」
綾子は慌てて首を振る。 倉真をチラリと見る。
「貴女が、そう思っていなくても、……倉真は、どう思っているのか判らないから…。 ごめんなさい。 やっぱり、少し不安です……」
その綾子を少し観察してから、利知未は倉真に呟く。
「惚れられてるじゃネーか?」
綾子が益々、恥かしげに俯いてしまった。 利知未が賄いを平らげ、タバコに手を伸ばす。 倉真は視線を外していた。 やがて、呟く。
「……その点は、感謝してる」
「態度で示してやれよ」
視線を外したままの倉真に、利知未が言った。 一本吸い終わり、珈琲を飲み干して時計を見る。
「そろそろ、休憩終りだな。 ……ごゆっくり」
ネクタイを直し、ベストを引っ掛ける。 食器を持って、席を立った。
里沙は忙しい。 朝、店子の朝食と、高校生の双子と里真、冴史の弁当を作り、起きてきた順に給仕する。 朝食を取りに来る一番手は、双子だ。
玲子と利知未は大学生になり、学食を利用する様になった。 高校時代と違って、下宿を出るのは八時過ぎだ。 それぞれ、通うのに少しは楽な位置に有る大学へ行っている。 講義が始まるのも九時からだ。
皆を送りだし、洗濯と掃除を終らせ、それからやっと、自分の仕事に取りかかる。 掃除については、今や空き部屋は元、朝美の暮らしていた角部屋だけとなった。 楽にはなっている。
今、仕事で手がけているのは、葉山修二の兄が持って来た、ハーブと手作りケーキの店、開店に際しての内装デザインである。
本来、インテリアの中でも主に、家具のデザインを多くしている里沙にとって、難しくもあり、同時にやり甲斐があり、楽しい仕事だ。
つい、昼食を取るのも忘れて、没頭してしまう。
玲子は、大学のサークルで好い人と巡り会ったらしい。
休み毎に出かけ、帰宅も偶に遅くなる。 以前より、険が取れた印象もある。 利知未に対しても、少しは当たりが柔らかい。
利知未は、その玲子の変化に、少し妙な気分になる。
『ま、平和が一番、ではあるな……』 晩酌をしながら、偶にそう思う。
ゴールデンウイーク明け、朝帰りをした利知未は、里沙から久し振りのお小言と、一つの提案を受けた。
「大学生になった貴女に、今までみたいに、煩く言っても無駄でしょう? 玲子も最近、帰宅が遅いし。 ダイニングに、連絡事項や伝言を書く為の、ホワイトボードを設置しようかと思っているの。 もし、早い内に外泊が判る事があったら、マークを決めて、描いておく事にしましょう」
自分の仕事も忙しい。 それがあれば、食事の準備の手間も省ける。
そうして五月中旬。 ダイニングに、新たに伝言板が設置された。
五月十九日、金曜のバッカスに、宏一が哲を連れて来た。
「兄貴が店に来るなんて、珍しいな」
「哲が、店を見たいそうだ」
「邪魔するよ。 成る程、落ち着いた店だな」
「今日は、煩い連中が来てネーみたいだな」
ボックス席で、いつもの常連と、偶に来るサラリーマン世代が静かに飲んでいた。 美由紀は二つのボックス席を移動して、忙しそうだ。
「カウンターで良いか?」
「その方が、良さそうだ」
「いつもは利知未や和泉が、良く飲みにくンだけどな。 準一もいると、騒がしい事この上ないらしいぜ」
「アイツ等が、良く来るのか」
「十二時過ぎれば、近くの店のお姉さん達も、良く見えますよ」
宏治が、二人にお絞りを渡す。
「新しい女でも、探しに来るか?」
「…そうだな。 それも良いかも知れないな」
言いながら、哲は別の事を考える。
利知未が来るのなら、偶に顔を出して見ようと思っていた。
克己は、ゴールデンウイーク明けから、本屋にチョクチョク出掛ける。 宏治に言われた通り、調理師免許取得の為、勉強テキストを探している。
『ナンか、結構、有るんだな。 どれがイイのか、良く判らネーぜ』
無駄に買うのも勿体無い気がする。 勉強テキストが、自室にズラリと並んでいる所は、想像もしたくない。 夢見が悪くなりそうだ。
二週間考えて、宏治の知恵を仰ぐ事にした。 仕事から帰り、時間を見て電話を入れた。
夜八時。 この時間は、宏治も店に出ている筈だ。 バッカスへ連絡を入れる。
バッカスでは、いつも通り常連が飲んでいた。 美由紀はボックス席へ出ており、電話に出たのはカウンターにいた宏治だった。
「ありがとうございます。 スナック・バッカスです」
「宏治か? オレだ。 克己」
「克己? どうしたンだ? コッチに連絡いれるの、始めてだな」
「調理師免許の事、話したよな? チョイ、聞きたい事が出来たんだ」
「取る事にしたンだな。 勉強始めたのか?」
「コレからナンだけどよ…。 テキストがよ、多すぎてどれ買ってイイか判らネーンだ。 お前、判るか?」
「そう言う事か。 …そうだな、相談には乗れると思うけど」
言い掛けて、思い付く。
「買うのも勿体無いかもしれないな。 おれの使ってたの、譲ろうか?」
「イイのかよ? もう、見る事は無いのか?」
「無いな…。 ライン引いてあってもイイなら、譲るよ」
宏治から提案され、返って好都合だと思う。 一人で勉強をしていても、要点や重要事項を読み解く自信は、あまり無い。
「そーだな、丁度イイかもしれネー。 じゃ、頼むわ。 取りに行くぜ?」
「明日にでも仕事の後、店に来てくれよ。 持って来とくよ」
「悪いな、恩に着るぜ。 九時頃には、顔出せると思う。 よろしく頼むわ」
「ああ。 おれが判る所は、協力するよ」
電話を切って、宏治が作業に戻った。 美由紀が会話を小耳に挟んで、宏治を見る。 常連組の空いた皿を下げ、宏治に聞いた。
「誰だったの?」
「克己だよ。 明日、ここへ顔出すって」
「始めてね、店へ来るの。 いつも家で、宴会ばっかりだったものね」
美由紀は嬉しそうだ。 克己は、今年で二十一歳になる筈だ。 偶には客として店にも来て貰いたいとも思う。 数回の面会で、外見と違って、それなりに確りしている印象も有る。
「店の場所は、判っているの?」
「ツーリングの集合場所、ここの前だったからな」
「そう? それなら、イイけど。 タマにはお客として来て貰ってよ?」
美由紀の表情を見て、宏治は軽く笑ってしまう。 スナック・ママの顔だ。
「言っておくよ。 明日は、客としてくる訳じゃないから」
少し、残念そうな顔をする美由紀を見て、宏治は改めて小さく笑った。
四
利知未は、基本的にバイト後に、バッカスへ回る。 いつも一時間ほど飲んでから帰宅する。 バイトは毎週、月・水・金・土と日曜日。 日曜は、バッカスが休みだ。 顔を出すのは、残りの四日となる。
和泉や準一は、その周期を大体は把握している。 一緒に騒ぎたいと思えば、その辺りを狙ってくる。 ゆっくり飲みたい時は逆を取るか、でなければ利知未が店に来る、大体の時間を考える。
偶には利知未にだからこそ、聞いて貰いたい話しもある。
五月二十三日、火曜日。 珍しく、利知未がバイト日以外で飲みに来た。
同日、克己は約束通り、夜九時過ぎにバッカスへ顔を出す。
始めに現れたのは、利知未だった。 開店後、一時間経った夜七時過ぎ。
「何かあったの?」
入った途端、美由紀に聞かれた。 聞かれて利知未が吹き出した。
「なんだよ? タマには、静かに飲むのもイイかと思っただけだよ」
「本当? それなら、良いけど」
「美由紀さん、心配し過ぎだよ。 宏治も、ナンつー顔だよ?」
笑いながら、カウンターへ向かう。
「今日は、いつもの常連よりも、早かったみたいだな」
商店街店主組は、いつも八時前後に現れる。 店はまだ、暇を持て余しているくらいだった。
利知未がカウンター席へ着き、一杯目のロックを飲んでいる時に、偶に来るサラリーマンが二人、職場の新人を三人連れてやって来る。
美由紀は、そちらのボックス席の相手をする。
これから月一の親睦会を、この店を利用しようかと、話している。
定期的に、必ず来てくれる客が着くのは、嬉しい事だ。 スナック・ママ美由紀の、腕の見せ所である。 宏治は心得て、美由紀が仕事をし易いように、上手く立ち回る。
『今日は、美由紀さん、あのテーブルに掛かり切りになりそうだな』
利知未も心得ている。 そう言う時は、例え美由紀に相談事が有っても、その事には全く触れない事にしている。
宏治を相手に飲む事にした。 今日は、特に相談が有る訳でもない。
宏治の作業を見ながら飲むのも、楽しいと思う。 料理は好きだから、美味そうな新作を作っていると、レシピを聞いて見たりもする。
今日もそうして、二時間近く過ごした。 途中でいつもの常連組も現れ、利知未は摘みをそちらのテーブルへ運んでやったりしながら、少し邪魔をして見たりする。 すっかり、仲良しである。
九時を回って、克己が顔を出す。 常連席に混ざって、クダラナイ話しをしていた利知未が気付いて、少し驚いて声を掛けた。
「克己じゃネーか? 珍しいな」
「利知未の知り合いか? …マトモなヤツなのか?」
かなり酒の入って来た、佐々木が訝しむ。 あの頭は、マトモじゃない。
「宏治もダチだよ。 佐々木さん、外見で判断するのかよ?」
「それを言ったら、倉真も同じだな」
大野が、穏やかに口を挟む。 克己がこちらを見て、薄く笑う。
「ダチに挨拶でもしてくるかな」
そう言って、利知未がカウンターへ戻った。
「あの中に、親父でもいるかと思ったぜ」
「ンなわけ無いだろ? あたしの父親は、どっかで再婚相手とヨロシクやってるよ」
「ソーなのか? 初耳だな」
「話した事もネーからな。 …飲みに来たのか?」
「イーや、宏治に用があって来ただけだ」
「直ぐ帰るのか?」
「そのつもりだぜ?」
「付き合いワリーな、一杯くらい飲んでけよ」
利知未に言われ、宏治をチラリと見る。 宏治も頷く。
「お袋からも、タマには客で来てくれって、伝言です」
言われて克己が、ボックス席で忙しそうな美由紀を、チラリと見る。
「相変わらず、宏治のお袋は若いな」
「それ、禁句だぜ。 美由紀さんは、息子以外にはお袋とは呼ばせネー」
「そーなのか?」
「老け込むのが、イヤらしい」
美由紀は、ボックス席の相手に集中している。 こちらの会話は、聞こえていても反応しない。
克己が呆れ半分、感心半分の顔をして小さく吹き出した。
「それで、若いのか」
「それも有るんだろーな」
利知未が勝手に、水割りを作って克己に渡した。
「軽い水割り一杯くらいなら、平気だろ?」
差し出されたグラスを、克己は受取った。
「折角だ、コレだけ貰うか」
「乾杯」 克己の水割りグラスに、ロックグラスを軽く当てて、利知未が笑顔で言った。
グラスに口を付けながら、カウンターチェアへ座り直す。 克己も釣られて、グラスに口を付けて座った。
「……アダム辞めて、コッチで働きませんか?」
克己を引き止め、酒を飲ませた手際に感心し、宏治が言った。
克己は、利知未の作った水割りをゆっくりと飲んだ。
その間に、サラリーマン達のテーブルが、勘定をして席を立つ。 笑顔で送りだし、美由紀は常連席へ移動した。 店主組は喜んで摘みを追加する。 この常連は、美由紀のファン? である。
克己は、その様子も感心して眺めた。 更に、追加の摘みを用意する、宏治の手際にも感心する。
「いつから店、手伝ってンだ?」
「高校行っていた時からだから、やっと三年かな」
「毎日手伝うようになってから、一年半くらいだよな」
利知未も言う。 宏治は随分努力家だと、改めて思う。
「負けちゃいられネーな」
克己が呟いて、最後の一口を飲み切った。
財布を出す克己に、利知未が聞く。
「帰るか? 引き止めて悪かったな」
「構わネーよ、ホンの二、三十分だ」
千円札を出す。 宏治が釣りを出す。 バッカスの水割りは、一杯四百円だ。
「随分、安いんだな。 採算、取れてンのか?」
「お袋のファンが多いから」
「宏治のファンもな」
「お得意様には、違いないかな」
宏治が、何とも言えない顔をする。
近所の店のお姉さん達は、利知未も見た事があった。 中々、金離れが良い。 宏治を構いに来て、たらふく飲んで帰って行く。
利知未は初対面の時、酔っ払った彼女達に、やはり性別を誤解された。 その時は、直ぐに誤解を解いた。
また来る、と言って、克己が店を出かけた時、新しい客が来店した。
「今日は、珍しい客ばっかりだな」
鈴を鳴らして入って来た客を見て、利知未が言った。
克己が一瞬、イヤな顔をする。 ……新しい客は、哲だった。
「良いタイミングだ。 足を運んで二日目で会えるとは」
利知未に向かって、キザな笑顔を見せる。
「帰るのか?」
出入り口に向かう克己に、哲が言う。
「用事は済んだ」
「そうか」
引き止めようとする、素振りもない。 ……邪魔者が、いなくなると思う。
克己は、面白くない気分で店を出た。
『……まさか、な』
「足を運んで二日目で会えるとは」 そう言っていた言葉に、また嫌な予感がする。 ……来る時間を一時間、間違えたかもしれないと思った。
宏治は、兄・宏一の友人である哲に、それなりの態度で接する。
「いらっしゃいませ。 今日は、バイクですか?」
「いいや、車で来た。 余り、深酒は出来ないな」
「飲みに来るのに、車を使うのか?」
利知未の突っ込みに、哲はフッと笑って見せる。
「…この店が、気に入ったんだ」
「ありがとうございます。 水割りにしますか?」
「ボトルを一本、入れておいてくれ」
「銘柄は?」
「任せる。 ブランデーのお薦めはあるか?」
「そうですね…、こちらはどうですか?」
哲が、かなり遊ばせる金を持っている事は、宏一から聞いていた。 バッカスに置いてある中で、一番高い高級ブランデーを選び出して、銘柄を見せる。 一本、四万円以上の品だ。
こうゆう客が来た時に出すもので、常にストックされている訳ではない。 売れれば、一本追加する。
「それにしよう」 哲はサラリと言ってのける。
内心、ヒューと息を付く思いだ。 宏治は、その感想を表情には出さずに、笑顔で頷いた。
「利知未は、今日はバイクじゃないのか?」
「徒歩二十分位の場所だからな。 飲む気で来る時は、歩きだよ」
「まだイケそうだな、付き合ってくれ」
「ロックで行くぜ?」
「構わない。 無くなれば、新しいボトルを入れる」
「……流石だな」
一晩過ごした、高級マンションを思い出す。 金は、在る所には在る物だと、妙な感心をする。
宏治にとっては、店の売上も上がる事だ。 拒む理由は無い。
哲が水割りを二、三杯飲む間に、利知未はロックで五、六杯いった。
0時少し前までの二時間で、一瓶の半分は飲み干した。
顔がやや赤くなっても、見っとも無く良い潰れる事は無かった。 ただ少し、利知未の目に色気が滲み出す。 利知未も、止め時は心得ているつもりだ。 時計を見て、席を立つ事にした。
そろそろ、夜の店のお姉さんがやって来る頃合だ。 常連組は、少し前に帰っていた。
「随分、イキましたね。 明日、新しい瓶、仕入れておかないとな」
「これだけイイ飲みっぷりだと、奢り涯もあるものだな」
哲も、少し目を丸くしていた。 普通の女相手なら、そろそろホテルへ連れ込んでいる頃合だ。 自分は殆ど、酔ってはいない。
美由紀は、常連組のテーブルを片付けていた。 振り返って、利知未を呆れ顔で見る。
「全く、とんでもない酒豪だわ」
「売上に貢献したんだ。 敢闘賞をくれないか?」
利知未が軽口を叩く。 哲が珍しい笑い方をした。 吹き出し、軽く声を上げる。 宏治も少しびっくりするが、美由紀も驚く。 余りイメージに無かった事だ。
利知未は一人、哲に釣られて笑顔を見せる。
「……お前が相手だと、つい感情が露わになるみたいだな」
笑いを収め、いつも通りのクールな表情に戻る。
「笑う時は、思いきり笑った方が健康的だぜ?」
「違いない。 …会計を頼むよ」
二人が店を出て暫くすると、今度はホステス達が来店した。
哲は、少し離れた所へ車を止めていた。
「もう少し、付き合わないか?」
「また、哲の部屋か?」
「…お前に会う為に来たんだ。 連れて行かないと、目的が果されない」
平気そうに見えて、利知未の理性は薄くなっている。
『まぁ、イイか』 どうせ、また寂しいのだろうと思った。
「…分かった。 もう少し、付き合うよ」
利知未の目は、かなり色っぽくなっている。 哲は、最初からその気だ。
利知未を助手席に乗せ、自分のマンションへ向かった。
克己が帰宅したのは十一時頃だった。
アパートは、バッカスからバイクで片道、一時間半弱。 信号に捕まらなければ、一時間十五分から二十分と言う所だ。 少し遠い。
その約、一時間半の間。 克己は苛々と、考え事をしていた。
佐久間 哲と言う男、どうも好きになれない。 理由は、いくつか思い付く。 キザな印象、女好きの印象、男の癖にロングヘアで、プライドもかなり高そうだ。 何より、初対面の利知未に向けた、あの目。 しかも、随分と馴れ馴れしい感じだ。
ツーリングへ行った日、先に帰った後、何があったと言うのだろう?
確かに利知未は、初対面の相手でも、余り気を使わせない雰囲気を持ってはいる。 自分もそうだった。 特に、コッチサイドのヤツには、人気がある。
倉真の騒ぎの時、利知未が集めた人数は、二十人は超えていた。 しかも、たった一日の間にだ。
それから倉真が間に入った関係で、気付くと自分もすっかり、利知未のペースに乗せられている。
『不思議なヤツだな』 改めて、そう感じる。
知り合って二年たった今、あのメンバーとは、イイ付き合いをさせて貰っている。
いつも、その中心には利知未がいた。
克己は最近、哲の出現を受け、利知未の事を考える時間が増えていた。
『何で、ここ最近、気になり始めたかな?』
自分も、すっかり利知未のファンになってしまったようだ。
倉真達が、FOXのセガワに憧れた時のように……?
『それは、違う…』 自分は、FOXのセガワを知っている訳ではない。 初対面から、利知未は利知未だ。
それなら、瀬川利知未と言う、一人の女のファンになったという事だ。 …好き、という事とは、また違う気が自分ではしている。
『ほって置けないような気がするのは、確かだな』
そう結論付け、考えるのは保留にする事にした。
下宿では、一度戻り、再び外出した利知未が、0時を回っても戻らない事で、里沙が呆れた顔をしている。
『また、新しい相手が出来たのかしら?』 「恋人」 と言える存在を得た、利知未が取る行動。
以前の事を思い出してみる。 先ず、無断外泊が増えるのは、確実だ。 それも、いきなり朝帰りだ。
里沙が何度言っても、キチンと連絡を寄越した例は無かった。 連絡を寄越す時は大体、宏治の家への外泊時だ。 そこは、美由紀がキッチリ監督してくれている。
もう一つは、そう言う時の利知未は、それでも少しは女らしい雰囲気を、下宿でも偶に見せる。
……そんな雰囲気が、出て来る事もある。
しかし、そこに気付けるのは、殆ど里沙だけだ。
利知未は、その手の事は、店子達に気付かれないよう、徹底的に気を配る。 まだ中学生、高校生が多い下宿メンバーだ。 ヘンな影響を与えてはいけないと、一応は考えているのかもしれない、とも思う。
『……それは多分、違うわね』 けれど、里沙はそう見る。 照れ臭いのが殆どだろう。
恋人の前でだけは、衝動的なくらいにその愛情を隠さない利知未だが、それ以外の知り合いの前では、不思議な程に捻くれる。
『兎に角、…また暫く、利知未の行動に注意が必要ね』
未成年を預かる下宿の大家にとって、頭の痛い問題ではある。
利知未は、哲のマンションで、また酒を飲む。
「強いな。 どれくらい飲めるんだ?」
新しいボトルが、既に2/3だ。
「試した事はネーよ。 けど、一晩で一瓶は空くんじゃないか?」
「いくだろうな」
素直に肯定してしまう。 哲は、自分でも不思議な感じがしている。
利知未が相手だと、感情が露わになり易い。 それを、実感している。
『円に対して、コレくらい正直になる事が出来ていれば……』
もしかして、過去、愛した女の中で、一番愛しく思えた女を、失わずに済んだのかもしれない。
哲もロックで飲んでいた。 ボトルの残りが、2/3から半分になる。 更に進みながら、利知未は冷静な事を思う。
『そーイヤ、アシが無いのか』
明日は、電車を使って一度下宿へ戻り、講義のテキストを取ってから、大学へ向かう事になりそうだと思う。 現在、二時少し前。
『キツそうだ』 酔っ払ってきたのは確かだ。 ……今、手を出されれば、そのまま。
自分の意識と身体の状態を、自分では把握しているつもりだ。
『酒、入るとダメだな』 二週間前、哲と関係してしまった事を、後悔する気は無い。
『……あたしも、寂しいのかもしれない』
愛情を欲する心は、寂しさが元となる物かもしれない……。
ボトルの中身が、まだホンの少し残っている。 流石に利知未も限界を感じる。 背凭れに深く寄りかかる。 ……このまま、眠ってしまいそうだ。
「流石の利知未も、限界か?」
「……ソーみたいだ。 哲は、元気そうだな」
「殆ど、お前が飲み干した」
薄く笑った利知未の手から、哲がグラスを、そっと取り上げた。
五
お互いに、かなりの量の酒が入っている。
酒の所為で、色気を増した利知未の表情に吸い込まれるように、唇を重ねる。 そのまま、先へ進みかけた時、利知未が目を薄く開く。
「……ここじゃ、狭いよ」
「関係無いだろ? 平気だ」
「ベッドじゃ、イヤか……?」
哲の手が止まる。 その身体の下から抜け出る様にして、利知未が立ち上がりかけた。 流石に、少し足に来ている。
「転びそうだ」
哲が小さく笑い、支える。 利知未は支えられながら、寝室へ移動した。
縺れ合う様に、ベッドへ二人が倒れ込む。 支え切れないで一緒に倒れ込んでしまった哲の身体の下で、利知未がフイに吹き出す。
「……何が、可笑しい?」
「力、無さ過ぎだ」
「酔っ払いは重い物だ」
利知未が、声を上げて笑った。 哲は、プライドを傷つけられた気がする。
その表情に気付いた利知未が、笑いを収め、色気在る瞳を射付ける。
「……少しくらい、素直に感情表現するくらいが、丁度イイ……」
腕を哲の首筋に回して、軽く引き寄せて唇を重ねた。
服を脱がせ合う様にして、肌を合わせた。 哲の手が動き出す。
利知未の息声が、唇から漏れ出す。
「……お前は、酒が入ると随分変わるんだな……」
「…そう?」
微かな声と、息の狭間に利知未が問い掛ける。
「どう、違うの…?」
「いきなり、女が上がる。 何故、いつも隠す?」
艶やかに微笑して質問の答えにした。 身体の悦びに、顎を軽く反らす。
『……きっと、あたしも寂しいんだ』
自身の反応を感じながら、利知未はそれに気付く。
『哲とは…、心は繋がらないけど』 ……寂しさだけは、共有できる……。
酒の勢いに後押しされ、クタクタになるまで抱き合った。
疲れ切って、抱き合う様にして眠りについたのは、四時になる頃。
……哲との二度目の夜は、そんな夜だった……。
昨夜、結局、利知未は下宿へ戻らなかった。
毎朝の習慣で利知未の部屋を覗いた美加が、慌ててキッチンで朝食の準備をしている里沙へ報告をした。
「里沙ちゃん! りっちゃんが居ないの! もう、学校行っちゃったの?!」
偶々、朝一番で朝食に降りて来ていた、双子とかちあう。
「利知未、昨夜は戻ってないのか?」
「どうせ、何時ものメンバーで、どっかで泊まり込んで飲んでるんじゃない?」
秋絵が言う。 そう言う事にして、里沙は美加に言う。
「手塚さんのお家に泊まってくるって、連絡があったのよ」
それは今までにも何度か有った事なので、美加は納得した。
「そーなんだ。 ねぇ、里沙ちゃん。 今日、りっちゃん遅い日?」
「今日は、アルバイトの有る日だから、遅くなるわね」
美加が少し剥れた。 気を取り直して、里沙にお願いする。
「んーとね、じゃ、里沙ちゃん。 今日りっちゃんが帰って来たら、来月の二十三日は、ちゃんと帰って来てって、言っておいてくれる?」
「そうね、美加は、利知未が戻るまで、起きていられないものね。 分かったわ、言っておくから。顔洗ってらっしゃい」
「はーい。 お願いね? 里沙ちゃん!」
念を押す美加に、笑顔で頷いて見せた。
克己は昨夜、余り眠れなかった。
折角、宏治から譲り受けた教科書も、一頁も進まない内に直ぐ閉じてしまった。 勉強は、全く手に付かなかった。 考えるのは保留だ、と思った筈が、どうしても頭に浮かんでくる。
哲が昨夜、バッカスで利知未に向けていた、目…、キザな笑顔。
『あのヤロー……。 もう、手ぇ出してンじゃネーか?』
いつか、倉真に自分が言った事を、思い出す。
「利知未が相手なら、さっさとヤること、ヤッちまってんじゃネーか?」 そう言ったのだ。
それは確かに、綾子と比べての言葉だった。 けれど、今。 その一言は、思いがけずに重い。
『別のヤツが相手なら、こうは思わネーンだろうな』 その、別のヤツが…、…例えば、宏一だったとしても。
『しかし、…アイツだけは許せネェ』 自分が利知未の兄貴にでも、なった気分だ。
次に利知未と会う時には、余計な世話でも一言、言っておかなければ治まりが付きそうも無い。
殆ど眠らない状態で、克己は仕事へ向かった。
酒の量と、その後の行為で、爆睡してしまった。 外がすっかり明るくなった気配に、薄く目を明ける。
「う…ン…、…今、何時だ?」
「何だ? …そろそろ、九時だな」
哲が隣で、寝ぼけた声を返した。
「…! ヤバイ、遅刻だ!」
とんでもない大遅刻だ。 慌てて飛び起きた。
布団が弾かれ、素っ裸の哲も剥き出しになる。 哲はそれで、やっと少しずつ目を覚ます。 かなり、寝起きが悪い方だ。
寝ぼけたまま、全てが剥き出しのままの姿で、のんびりと頭を掻き、欠伸をする。 慌てて衣服を身に着けている利知未に言った。
「送るか?」
一瞬、考えるが、哲の車で下宿近くに乗り付けたら、目立ってしまう。
「イイよ、電車で一度、戻る」
「…そうか?」 また、欠伸をしている。
利知未は少し呆れ、手を止めて、その姿を眺めてしまう。 …あたし以上の寝起きの悪さだ…。思いながら、そう言う姿は、意外と可愛いかもしれない、と感じてしまう。
気を取り直して、洗面所へ向かった。
前回、泊まった日。 朝、コンビニで買ってきた歯ブラシは、そのまま残っていた。
『捨ててイイって、言わなかったか…? まぁ、イイか』
丁度良いと思い、そのまま使った。 まだ、酒が残っている感じだ。
下宿に戻ったら、例の漢方薬を飲んでから、大学へ行こうと考える。
洗面だけ終らせ、玄関へ向かった。 哲が、漸く服を着て出て来た。 靴を履き、立ち上がる利知未へ、後から声をかける。
「味気ないヤツだな。 朝の挨拶は無いのか?」
「なんだよ、それ」
聞きながら振り向いた。 哲の手が素早く伸びてきて、利知未の顎を軽く上げる。 そのまま、その唇へ自分の唇を重ねてしまう。
「ン!…ん、ん、んんン…、」
言葉にならない。 舌まで入ってくる。 哲は確り堪能して、やっと唇を離した。
「…朝は、こう言う挨拶をする物じゃないのか?」
「別に、恋人って訳じゃ無し。 義務も無いだろ?」
不意打ちを食らって、少し膨れた。 哲には、可愛い顔に見える。
「冷たい事を言うな。 昨夜、あれほど盛り上がったじゃないか」
「シタからって、恋人って訳じゃネーだろ? その性格が元で、彼女に振られたんじゃないのか? …少しは、自重しろ。 …じゃーな」
ドアに手を掛け、軽く振り向いた。
「飯は、ちゃんと食えよ」
昨夜、力が無いと言われた事を思い出す。
「ああ。 もう少し、体力をつけておくとしよう」
そうすれば思う存分、利知未を堪能出来るかもしれないと、ソッチに頭が回る。 利知未は小さく肩を上げて見せて、玄関を出て行った。
今日も講義を一つ、サボってしまった。 大学の学食で、顔を合わせた途端、透子が言った。
「レポート出てるよ?」
「マジかよ。 提出期限は?」
「月末。 前期の成績の元になると言う、うわさ。」
「…了解」
「所で、昨夜もお楽しみで? フェロモン出捲り感、一杯じゃん」
透子の視線で、漸く気付いた。 やや、胸の開いたTシャツの襟元から、赤い痕が覗いている。 内心は、ヤバイと焦る。
「…ほっとけ」 今朝は慌てていて、その事には全く気付けなかった。
「一応、隠す?」 透子がバックから、化粧ポーチを覗かせる。
「今はイイ。 後で借りる」
取り敢えず、昼飯を平らげる事にした。 朝から何も食べていない。
昼食を終え、食堂近くの女子トイレで、透子からファンデーションを借りた。 襟元のマークに目隠しする。
「アンタ、白いね。 アタシのじゃ暗いな」
「イイよ、目立たなければ」
透子が、ニマ、と笑う。
「特定の場所から視線を外す為には、その付近の、別の場所を目立たせれば更に効果的。」
「…!何すんだ!?」
「じっとして。 はみ出すから」
口紅を取り出して、勝手に利知未にメイクを始める。
透子を相手に、腕を捩じ上げる訳にもいかない。 そのまま、されるがままになってしまう。
「ファンデーションは、使わないほうが良さそうだな…。 眉、チョット弄らせて」
十分後、キリッとした眉が優しげな印象に変わり、ピンク系の口紅を塗られた、女らしく、綺麗な印象の利知未が出来上がる。
「元がイイから、やりがいがあるわ」
ヘラリと、透子が満足そうに笑った。 利知未は変な顔をする。
「折角、綺麗になったんだから、そんな顔しない!」
声を上げて笑いながら、利知未の背中を押してトイレを出て行った。
講義を終え、一度下宿へ戻り、シャワーを浴びた。 顔も洗う。
アダムの制服に着替え、そのままバイトへ向かうつもりだ。 それでも、鏡に映った自分の顔が、少し違う。
『…ソーか。 眉、弄られたんだ』
それだけで随分、印象が違う気がする。 男物の制服が、何となく違う気もしてくる。 それでも、大してチグハクでは無いだろうと判断する。
『まぁ、直ぐに、元に戻るか』 気にするのを止めて、バイクでアダムへ向かった。
バイト後、「現代医療に関する法規的問題点」に、関するレポートを上げる為、玲子から六法全書を借りた。
玲子は、そちら方面の大学へ通っている。 だが、弁護士を目指している訳ではない。 将来、祖父の会社を、そちらから手助けする前提だ。
講義をサボっている分、医療関係のページを熟読して行く。
『六法全書って、何でこんなに面倒臭いんだ……?』
少し進んで、溜息を付く。 明日の朝には返す約束だ。 気になる点だけノートに写していくが、数条進むと、「前項、第○条の▲第2項の規定により…」等と、写し飛ばしていた部分を確認する必要が出てくる。
慌ててその部分を写し直す。 結局、その作業だけで半分徹夜となる。
時計を見て、三時半を過ぎた頃、流石に辛くなってベッドへ入った。
昨夜も寝不足だ。 続きはまた明日、図書室で調べてから帰宅した方が得策かもしれない。
翌朝、食事へ降りる前に、六法全書を返した。
一、二年の間は、将来医療に携わる者としての、基礎知識が中心だ。 透子と専門が別れるのは、その先となる。
もう暫く、甘えさせて貰う事になるかもしれない。
利知未の兄、優は、この四月からある食品会社の営業職へ就いた。
真澄はこの六月で、一歳七ヶ月になる。 最近、何となく、意味の有りそうな言葉を発するようになって来た。 ジィジ・バァバは大喜びだ。
今日は、五月最終の日曜日だ。
両親は、毎週日曜日には、真澄を構いたがる。 二人揃って優宅へやって来るか、明日香が実家へ連れて行く。
電車の中では苦労している。 女のコだと言うのに、かなりヤンチャだ。
『優の血かしら? でなきゃ、利知未さんに似たのかも』
今日も、ベビーカーから身を乗り出して、危うく落ちそうになる。
『……私に似ても、それ程、大人しくは無いかしら?』
自分も活発な方だ。 利知未のバイクの後に乗った時、ワクワクしてしまった。
そのうち、スクーター位は欲しいかもしれないと思う。
本当は、車があった方が便利だけど、とも思う。 それには、先ず教習所へ通わなければならない。 真澄がもう少し大きくなるまでは、お預けだ。
優の収入も、この四月からやっと安定した所だ。
この日、明日香が結婚するよりも二年早く大学を出て、一人暮らしをしていた姉が、珍しく戻っていた。 そろそろ結婚適齢期だ。 ……少し遅いかもしれない。
母が、親戚から託された見合い写真を押し付けている。
「お姉ちゃん、来てたの?」
「明日香! アンタが考え無しにさっさと結婚しちゃったから、私に皺寄せよ。 まだ結婚する気無いって、言ってるのに」
「あらあら、真澄ちゃん、元気でチュかぁ? オバちゃんが怖―い顔ちてまちゅねぇ、向こうでバァバと、ご本見ましょう?」
真澄を見た途端、母親がデレデレだ。
明日香の姉・佳織は、取り敢えず解放された。
庭弄りをしていた父親が、急いで切り上げて部屋へ上がる。 ジィジ・バァバで、須藤家アイドル・真澄の奪い合いとなる。
「あかい、リンゴ、おいしそう。」
絵本を開いて、短い文章を音読する。 真澄が、原色のイラストに反応する。
その様子を見て喜んでいると、ジィジが大きな積み木を持って、真澄の気を自分に向け様と邪魔をする。 平和な夫婦喧嘩が始まる。
真澄の気が逸れて、ママを探して泣き声をあげる。 ジィジとバァバは慌てて喧嘩を止め、真澄に取り付く。
姉妹でその様子を眺めて、両親の様子に笑ってしまった。
六月初めの土曜日、克己がバッカスへ顔を出した。
哲とここで擦れ違ってから、十日経っていた。 その間、調理師免許の勉強をしていたが、やはり手に付かなかった。
哲は、アレから何度かバッカスへ顔を出していた。 利知未が顔を出す日とは、重ならなかった。その分、ホステスと宜しくやった日も有る。
……他の女を抱いた後、何となく物足りない思いをしていた。
夜九時過ぎ。 前回と同じ時間に現れた克己を、宏治が笑顔で迎えた。 美由紀も笑顔で迎えてくれる。 今日も、常連組の相手に忙しい。
「アイツ等は、来てないみたいだな」
「昨日は十二時過ぎ迄、和尚と準一が、利知未さんと騒いでたよ」
「ズラしてきてくれると、回転に丁度良いわね」
美由紀が一端、ボックスを離れて、迎えに出てくれていた。
「この間は、ごめんなさいね、挨拶もしないで」
「客で来たワケじゃ、無かったっスから」
「今日は、飲みに来てくれたんでしょ。 水割りでイイ?」
手早く一杯作る。 宏治に出されたお絞りで、手を拭きながら頷いた。
「私より、利知未に作ってもらった方が美味しいかしら?」
美由紀が、意味ありげに笑う。 軽く怯む克己を見て、宏治が笑った。
「利知未さん、上手かったな。 克己も引き止められてたモンな」
「宏一じゃなくても、宏治でもイイから、利知未をお嫁に貰ってくれたら、売上げが上がりそうなんだけどねぇ?」
笑っている。 深い意味は無いが、少しは本音だ。
「女のコ雇うより、身内に手伝わせた方が安上がりだからな」
本気ではないと思うので、宏治も気楽に答える。
「才能、有ると思うぜ」
克己も、取り敢えず肯定した。 あのタイミングは、絶妙だった。
ボックス席に呼ばれ、美由紀はカウンターを宏治に任せた。
二時間ほど宏治と話しながら飲んでいた。 十一時半近くなり、利知未がアダムでのバイトを終え、今日もバッカスへ顔を出す。
「克己じゃネーか! 今日は、飲みに来たのか?」
店内へ入り、克己を見た途端、利知未が少し驚いた声を出す。
「給料、入ったからな」
「いらっしゃいませ。 今日もロックで良いっスか?」
「それ以外、どうやって飲むんだよ?」
「流石、酒豪」
笑顔で言って、お絞りを出す。 直ぐにロックが出てきた。
この日は、克己と看板まで飲んだ。
六
暫くは、お互いの勉強の進み具合などを、話しながら飲んでいた。
0時を回り、今日も宏治を構いに、ホステス達が来店した。 利知未は既にカウンター仲間だ。 今夜は三人でのお出ましだ。 始めて見る派手な頭をした克己を、興味ありげにチラリと見る。
「変わった頭してンだろ? 克己ってンだ。 へビィ・メタルファン」
その目に気付き、利知未が軽く紹介した。 隣に座った恭子が答える。
「倉真くんの、お友達ってことね」
「ソー言う事。 で、あたし等の宴会仲間」
ロックを飲みながら、フランクに話しをする。
「バイク仲間ですよ」 宏治が注釈を加えながら、キープボトルとアイス、ミネラルウォーターを出す。
ホステスの一人・洋子が、営業スマイルを見せて克己に聞く。
「お仕事は? 歳、いくつ?」
「飲食店見習いの、二十一歳だよ」
克己に代わり、利知未が答えた。
「じゃ、宏ちゃんとは、お仕事関係でもお仲間になるのね」
「…ま、そうなるか。 宏治の方が先輩だけどな」
克己が、漸く口を開く。 少々、驚いていた。
この客が、宏治のファンになるらしい。 自分にも興味を示しながら、宏治を構う様子を観察してしまった。
手早く三人三様の濃さの、水割りを作って出しながら、話しに参加する宏治に、ニコニコと反応している。 端に座った、千恵美が言った。
「宏ちゃん、お友達が多いのね。 倉真くんは、アンマり見なくなっちゃったけど」
「この前は、佐久間さんがいたでしょう? 何時もは利知未に、ジュン君に、和尚君。 で、今日は、克己君?」
「佐久間さんは、兄貴の友人です。 それに、どっちかって言うと、おれじゃなくて、利知未さんのグルーピーだし」
「利知未ってば、逆ハーレム状態?」
「ハーレムって言うか? どっちかッテーと、女で男を囲ってるって言うより、男同士で遊んでる感じだな」
「あたしも、ソー思う」
克己の言葉に、利知未が呆れた微笑を見せる。 自分に呆れている。
克己は普通にしながら、少しムッときている。
『あのヤロー、そんなチョクチョクここへ来ンのか』
佐久間、と聞いて、イラっとした。
「でも、佐久間さんは手、早いよ? 利知未も狙われてると思うけど?」
今日は来ていない千春と言うホステスが、前回、哲に誘われてホテルへ行ったらしい。 職場が職場だ。 その手の噂は中々、隠せない。
ホステスの一人に言われ、利知未はシラを切る。
「平気だろ。 酒はあたしの方が強いし。 …いざとなったら容赦なく、投げ飛ばしちまうよ」
「利知未って、そんなに喧嘩が強いの?」
「半端じゃないですよ」
「…だな」
宏治が答え、克己も、初対面の頃の騒ぎを思い出し、肯定する。
「勿体無いわねぇ」
「何が? 女だからか?」
「それもある。 でも、そうじゃない。 女らしい格好して、お化粧して、大人しくしてたら、ウチのお店でも雇えそうなくらい、綺麗な顔してる」
「ナンだ? そりゃ。 どんな格好したって、性格は変わらネーよ」
「そこは、男じゃないのが勿体無いのよ」
ホステスの一人・恭子は、利知未とも、何時もこんな感じだ。
宏治に特に熱心なのは、一番向こう端にいる千恵美だ。 真ん中の洋子は、両方に参加する。 一番、営業熱心でもある。
そのまま、クダラナイ話しをして、看板まで過ごした。
今夜も、ホステス達は良く飲んだ。 利知未も便乗して、何時も以上に飲んだ。 克己は帰りもバイクだ。 少しは自重していた。
途中で美由紀も一緒になり、女が五人。 お喋りは止め処も無い。
その中で、哲がホステスに手を出したのは一度ではないらしいことも判明する。 内心で、美由紀と克己は、利知未のことが心配になる。
看板時間となり、会計を済ませた後、宏治と共にホステスを送り出した美由紀が、利知未を呼び止めた。
「利知未、大丈夫だとは思うけど。 私も、佐久間さんには、注意した方がイイと思うわ。 ……貴女は、優し過ぎるから」
「あたしが、優しいか?」
「利知未は、色々な悲しみや辛さを、同じ歳頃の子達よりも余程、知っているわ。 ……そう言う子は、他人にも優しくなる物よ」
慈愛に満ちた瞳を、利知未に向けた。
「サンキュ、美由紀さん。 けど、平気だよ。」
シラを切り通して、笑顔を見せた。
「兎に角、注意するに超した事は無いわ。 …真っ直ぐ帰りなさい」
「分ってるよ。 明日も昼前からバイトだからな」
「里沙さんにも、余り心配掛けたらダメよ」
「……ナンか、本当の母親みてーだな」 小さく笑ってしまう。
……実の母親とは、あれほど折り合いが悪かったと言うのに。 自分には、それ以上の存在がいる。
「そう思っているわよ。 利知未は、そう思ってくれて無いの?」
幸せ者だと思う。 素直に、言葉に表した。
「…感謝してるよ」
美由紀が、優しげに微笑む。 利知未は思う。
『あたしには、美由紀さんもいる。 仲間もいる。 ……ケド、アイツは』
哲には、これ程に信頼出来る相手は、居ないだろうと思う。
……自分から、殻に閉じこもっているのだから……。
先に店内へ戻っていた宏治に声を掛けられ、美由紀も店内へ入った。
美由紀が店へ戻ると、待っていた克己が声をかける。
「利知未、下宿まで送るか?」
「お前、酒、残ってんじゃネーか?」
「自重してたつもりナンだぜ。 酔っ払ってるか?」
平常と変わらない様子で、克己が言う。
「平気そうだな。 ンじゃ、頼むか。 チョイ、飲み過ぎたみてーだし」
利知未は克己にヘルメットを渡され、素直に被る。 下宿まで、克己はノーヘルだ。 …元・暴走族、そんなコトには、お構い無しである…。
徒歩二十分の道のりを、バイクで送られ五分で帰宅した。 バイクから降りて、ヘルメットを克己に手渡す。
「サンキュ、助かった」
「おう」
ヘルメットを手渡され、克己が少し、言い難そうに切り出した。
「……利知未、マサカとは思うが」
「なんだよ?」
「オレも、アイツは止めといた方が、イイと思うケドな」
「哲のコト、言ってるのか?」
克己は頷く様な仕草で、軽く視線を外す。 ……美由紀にも、言われたばかりだ。
「アンマ、深入りするのもドーかと思うぜ」
十日前のバッカスで、哲と克己が擦れ違った事を思い出した。
「……そんなに、仲良さそうに見えたか?」
ナンとも言えない、と、克己の表情が言っている。
利知未は、笑顔を見せた。 心配してくれているのは、良く解った。
「特に何でもネーよ、意見が合ったダケだ。 ……家庭の、事情ってヤツに」
軽く言い放つ。 克己は、完全に納得はしない。
だが、これ以上は、自分が突っ込んでイイ種類の事でもない。 利知未と自分は、恋人と言う訳でも、増してや兄弟と言う訳でもないのだ。
「…ま、利知未相手に言う事でも、ネーな」
「…心配、してくれてンのか? サンキュ」
昔、似た様な会話をしたと、思い出す。
あれは中学二年の梅雨頃。 応援団部室で、宏治のお礼参りを相談していた時だ。 その相手は、橋田だった。
『やっぱ、克己と橋田センパイ、似てンな』
初対面の時、克己に感じた印象を思い出した。
……外見の割に、気の良さそうなヤツ……。
同時に、橋田の卒業式後、祝賀会を抜け出した時の事も、思い出す。
『……結構、お前の事、好きだったぜ』
あの時の自分に、始めて明かりを灯してくれた言葉と、その思い出……。
「…克己は、あたしの事、女だと思ってくれてたンだな」
酒も入っている。 何時も以上に、素直に感想が口を付いて出て来た。
「…ンだ? そりゃ。 当たり前だろ? オレは、倉真達ミテーに、アンタのFOX時代を知ってる訳じゃネーよ」
言いながら、何となく照れ臭い感じもする。 その雰囲気に、利知未の心が少し動く。
……女として、感謝の気持ちを表す事にして見た。
ヘルメットを被ろうとする克己へ近付き、その手を止めて、耳の近くにキスをする。
酒の勢いと、からかう気持ちと、感謝の気持ちだ。
驚いて、克己はヘルメットを落としかける。 利知未が素早く、それを空で受け止めた。
「ナイス・キャッチ!」
目を上げて、克己に軽く片目を瞑って見せる。
「メット落としたら、強度が落ちるぜ?」
言いながら、再びヘルメットを手渡した。
「一応、女として、感謝の気持ちを表して見た。 感動しただろ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる。 克己は漸く、正気を取り戻す。
「…バカヤロー、からかうな!」
怒った素振りで、ヘルメットを被る。 利知未は声を出して笑った。
「じゃーな。 またその内、ツーリング行こうぜ」
「…おお。」
少し、気が抜ける。 一瞬、ドキリとしていたのは隠せない。
「気をつけて帰れよ? …ッテも、今ので、酒はすっかり抜けただろ?」
「…お蔭様でな。 …ンじゃな」
軽く手を上げ、合図を寄越して、克己のバイクが走り去る。
後姿を見送ってから、利知未は静かに、玄関へ入った。
『……アイツを、そう言う目で見たくはネーな』
利知未と別れ、バイクを走らせながら、克己が思う。
今まで通り、仲の良いバイク仲間として、これからも付き合って行きたいと思う。 …それでも。
『アーユー事、されちまったら、怪しくなってきちまった』 ……けれど、正直、嬉しいとも感じている。
『すっかり、アイツのペースだぜ』 自分の感情を、どう整理を着けるかが、これからの問題だと思った。
その同日、六月三日・土曜日の話しだ。
関根 円はその夜、夕食に誘われた。 誘ったのは会社の同僚、大伴 圭介だ。 以前から、円にアプローチを掛けていた。
今までは誘いにOKを出さなかった円が、今日は少し考え、小さく頷いてくれた。
やっと、チャンスが巡ってきたと思った。
円は、大学卒業後に、今の会社へ勤務し三年目。 今年で二十五歳になる。 この歳で新しく出来る恋人は、結婚に繋がる相手となってもおかしくはない。 大伴は、勿論それも範疇に入れて、円にアプローチを続けていた。
大伴から円への印象は、恋人としてよりも、永遠の伴侶として傍に居て貰いたい。 そんな女性だ。 家庭的で、貞淑な雰囲気の持ち主である。
円は、約二ヶ月前。 度重なる哲の浮気グセに、ついに信じる事が出来なくなってしまい、彼の部屋を飛び出して来た。
……それでも。 今でも、彼を愛していると思う。
彼の相手は、自分でないと勤まらない。 そう思い、今まで耐えてきた。
けれど、円が最後に目撃した哲の浮気相手は、自分の大学時代の親友だった。 何度か、一緒に遊びに行った事もあった。 Wデートでだ。
お互いに、別れたと言う話しは無かったのだから、完全な浮気だろう。
それは、何度喧嘩をしても、話し合っても収まらない、哲のその行動を耐え続けてきた円にとって、別れる切っ掛けとしては、これ以上無い裏切り行為だった。
『何故、よりにもよって彼女が相手なの……?』
その思いは、円の心を悲しみと怒りに、染めてしまった。
一時は、人間不信にも陥り掛けた。
やっと、外へ目を向けなければならない、と思い始めたタイミングでの、大伴からの誘いだった。
食事をしながら大伴が言った言葉に、円は気分を害した。
「関根さんの元恋人は、僕が言うのもなんだけど、酷いヤツだと思う。 恋人が居ながら、何度も別の女性と関係を持てる神経、僕には信じられないな。 僕なら、そんな苦しい思い、関根さんにさせはしない」
だから、真剣に付き合ってくれ、と言われた。
大伴の言葉は、正論だと思う。 けれど、円は。
……哲の、寂しそうな横顔に惹かれていた……。
肉親の愛情を受けきれずに育った彼が、人を本気で愛することに不器用なのは、仕方が無い。 可哀想な事だ。 そう思ってきた。
だから何度、裏切られようと、彼を信じ続ける事を止めなかった。 だからこそ、自分が哲の両親の分まで、彼を愛してあげたい、と、四年間も彼に尽くしてきたのだ。
大伴の言葉は、円に、その想いを思い出させた。
その日、自宅へ戻ってから、哲へ電話をした。 けれど、何も言う事が出来ないまま、黙って受話器を置いた。
どうしても彼が、自分の大学時代の親友と居た姿を、思い出した。
哲は、無言電話の相手は、きっと円であると感じた。
四日、日曜日。 利知未はバイト前に、バッカス前へ徒歩で向かう。
昨夜は飲み過ぎてしまい、自分で運転する事を断念し、克己のバイクで下宿まで送り届けてもらった。 自分のバイクは、バッカスの前に置き去りだ。 それを拾いに行った。
ヘルメットを被り、思い出して、小さく吹き出してしまう。
『昨夜、自分のメット被ってけば、良かったンだよな』
意外と酔っていたみたいだ。 そこには、頭が回らなかった。
『だから、あんな悪戯、しようと思ったンだな』
克己の頬へキスをした、自分の行動を思い出す。
そうでなければ、恥ずかしくて、とても出来た悪戯じゃなかっただろう。
『……橋田センパイと、被ったからかな?』 橋田の告白を思い出していた。
今の自分なら、あの時の橋田からの気持ちに、どう答えられるだろう?
素直に「ありがとう」と、橋田の顔を見て、伝えられるかも知れない。
「時間は、巻き戻らないよな」 呟いて、小さく笑みが漏れる。
バイクへ跨り、エンジンを始動し、走り出した。
利知未の心は、あの頃よりも余程、余裕が生まれている。
……その余裕分、自分の愛情に対して素直になる事が、出来る隙間も生まれている。
翠は日曜、利知未がバイトへ入る時は休みを貰う。 利知未が月一で休みを取る日は、変わりに入っている。 受験勉強に忙しかった頃も、翠が変わりに入っていた。
利知未の大学入学後、基本シフトが夜となってからは、一緒に仕事をする事は無くなっていた。
その翠が、今日は客としてアダムへ現れた。
「店で会うの、久し振りだな。」
店へ入り、カウンターへ真っ直ぐ向かって来た翠へ、利知未が嬉しそうな笑顔を向ける。
「そうね。 利知未、私が何時も飲んでるのは覚えてる?」
「当然。 アプリコットティー、蜂蜜添え」
「ヨロシクね」
「了解。 …マスター、またチョイ買出しに出てるぜ?」
「でしょうね。 利知未が居ると、あの人、甘えちゃって困るわね」
笑っている。 利知未も呆れ顔で笑う。
「式の日取りが決まったのよ。 それで、マスターと智子姉さんに仲人を頼めないか、聞きに来たンだけど。 あの夫婦は、そう言うの好きじゃないのよね。 結婚は二人でする物だ、とか言って、振られっぱなしよ」
利知未からも、頼んでもらえないか? と言った。
「言うだけ言うけど、無駄かも知れネーな」
情け無い顔をする。 閃いて、佳奈美のことを思い出す。
「ソーだ。 あたしよりも、佳奈美を味方につけた方が、良くネーか?」
「佳奈美ちゃんは、お父さんの味方よ」
翠の言葉に、利知未がニヤリとして見せた。
「最近は、あたしの味方だったりするンだぜ?」
佳奈美は日曜、偶に店へ遊びに来るようになっていた。 良く宿題を持ってくる。 利知未の暇な時間を見付けて、教えて貰っている。
「じゃぁ、やっぱり利知未に協力してもらわなきゃ」
「来週辺り、佳奈美と遊びにでも行ってみるかな」
「じゃ、私が来週は店に出るわね」
「共同戦線って、ことで」
二人で笑顔を交し合う。 アプリコットティーを出す。
そのタイミングで呑気な店主が、やっと店へ戻って来た。
「翠、来てたのか?」
「タマには、お客として来て見ましたの」
知らん顔をして、翠が言った。 少しおどけた仕草と言葉に、マスターは軽く眉を上げる。
「何か、企ててるんじゃないだろうな?」
「とんでもない。 来週、利知未が休みを貰いたいそうですよ?」
「そうか。 翠、出られるか?」
「今、その相談をしていた所です」
利知未も、シラを切ってマスターへ言った。
「分かった」
短く了解をして、マスターはカウンターへ入り、仕事に戻った。
瀬尾が休憩を終え、利知未と交代した。 休憩時間、翠の隣へ座って賄いを平らげながら、何気なく、佳奈美の予定をマスターに尋ねた。
(一章 愛情の形 7 へ続く)