第七章 「悠久なる狩人たちの挽歌」 その弐
「お帰り、テンちゃん。突然消えたからビックリしちゃった。ホンとに心配した
んだよ」
天魔の側へとやってきた愛は、満面の笑顔を浮かべ、弾んだ口調で言った。だ
が天魔は、しかめっ面で愛を見る。
「疲れてる時に、そんな気色悪いものを見せるなよ」
「もお、酷いよ。心配して損した」
愛は威嚇するフグのように頬を膨らませ拗ねた。
「だから天魔の顔でほっぺたを膨らませるでない」
沙経はそう言いながら天魔の体を使っている愛の頬を、両の手の平で挟んだ。
すると口から空気が勢い良く抜けて、大きくブブゥーと音がした。
「がははははっ‼ 愛の奴、オナラをしおったぞ」
沙経は調子に乗って馬鹿笑いした。しかしそれが愛をキレさせる。
「オナラじゃないもん、空気だもん‼」
愛は熟れたトマトのように顔を真っ赤にさせながら、沙経の顔面にマジパンチ
を入れた。だが天魔の体だけにパワーがあり、沙経はものの見事に吹き飛ぶ。
「こらぁ‼ 愛っ‼ 武神として崇められるこの私の顔を殴るとは、どういうつも
りじゃ‼」
沙経はすぐさま立ち上がり、怒り露にわめいた。
「ふんっ、沙経ちゃんが悪いんだからね」
「天魔も兄として、いつものように厳しく言ってやれ」
「沙経、お前が悪い」
「なぬぅ、こんな時にアメと鞭のアメはいらんぞ。確かにたまには甘くと言った
が、今は鞭でいいんだ鞭で」
「沙経さん、レディーにむかって今のはなしですよ」
「そうねぇ、今のはちょっとお下品だわ」
「なにぃ⁉ 貴様までもが私の敵か」
自業自得だが、薫にすら見捨てられる憐れな沙経であった。
「謝りなさいよ」
「謝っとけよ」
「謝っておきましょう」
「謝っちゃえば」
愛、天魔、優樹、薫がその場の流れで少し悪乗りして順に言った。
「貴様らぁぁぁ…………ごめんなさい」
全員に責められ、結局は観念して謝る沙経であった。本来は威厳ある大妖怪な
のだが、この時ばかりは小さく見えた。
「くそっ、バカにしおって。いいか二人とも、私をもっと寵愛せんと、今度から
出てきてやらんぞ」
沙経は悪戯をして親に怒られた子供のように拗ねていた。
「ちゃんと愛してるよ、沙経ちゃん」
「だ・か・ら、天魔の顔で言われても嬉しくないわい。ふんっ、まあ今日はこれ
で許しておいてやろう」
優樹と薫は、そんなお茶目な沙経を見て、妖怪とはいえ愛すべき人柄であると
強く思っていた。
しかし沙経のようにここまで人間と親密に付き合う妖怪は本当に少ない。中に
は人間を主人とし、長きにわたり行動をともにする妖怪もいるが、そういった者
たちでさえ、ある程度は人間と距離を置いているのが普通であった。本来は沙経
とて、人間にとっては恐ろしく、ある意味、神のように近寄りがたい大きな存在
である。それが友達みたいに話したり、じゃれ合ったりできるのは、やはり天魔
と愛が生まれつきに持つ、人を引き付けてやまない不思議な力の影響が、大きく
関係しているのは間違いなかった。
「それよりこれ、返すぜ」
天魔は礼儀として、沙経に刃が向かぬように村雨を渡した。
「どうであった?」
村雨を受け取った沙経は、そっと鞘に収め腰に戻す。
「使って初めて村雨の凄さと怖さが分かったよ。でも……トンでもない異能力だ
な。すぐには信じられなかった……いや、今もあれが現実だったのかは分からな
い……」
「お前が経験したことは、意志の力が織り成す、奇跡の一つと言えるかもしれん
な。それで、どこに飛ばされたんだ」
「……ちょっと過去までな」
「何か面白い事はあったか」
「いや、何もなかったよ……何もな」
天魔は過去での出来事は語らなかった。そして一瞬であったが、寂しくもの悲
しい表情を見せる。その顔を見た沙経は、それ以上は何も聞かなかった。
ただ何かしら引きずっていた思いに、過去で決着をつけてきたという事を、天
魔の顔を見て沙経だけは理解している。
「俺が消えてから、こっちではどれくらい時間が経ってたんだ?」
「過去や未来と言っても同じ世界だからな、向こうに一時間いれば、こちらでも
同じだけの時間が過ぎる。まあそういう事だ」
「どの時代でも同じだけの時間が流れる……なら過去の出来事に大きく干渉し、
歴史を変えてしまった後、現在に帰ってきたらどうなるんだ?」
「例えその時に歴史が変わろうとも、結局はうまく軌道修正され、事なきを得る
はずだ。過ぎ去りし確定された時間を変えることなど、一人の人間が容易くでき
るものではない。まあ多少は細かく歪んでしまうだろうがな。だが当然、変わる
場合もあるだろう。しかしその変わった世界が、今いる自分たちの世界と繋がる
かは、また別の話と思うぞ。歴史が修正されぬ程の干渉をしたなら、過去はその
場所から枝分かれし、新しい世界が生まれ出る可能性がある」
「……ヘタに干渉するなということか」
「そうだな。まあ正直、神か仏でもないかぎり、詳しいことは分からん」
天魔と沙経が難しい話をしていたその時、薫が愛に話しかける。
「そろそろ自分の体に戻りなさいよ」
薫は愛に詰め寄り刺々しく言ったが、エクスチェンジは魂と体に負担がかかる
ため、できるだけ早く術を解除したほうがよく、誰よりも二人の体を心配しての
ことだった。
天魔と愛はチェンジした時と同じように向かい合い、寸分の狂いなく同時に十
八種類の印を素早く結ぶ。すると天魔の体からは愛の、愛の体からは天魔の姿を
した、半透明の魂が現れ重なり合い、眩い光を放ち二つに弾けると、それぞれの
体へと戻った。
「私も天魔君と魂を入れ替えてみたいわぁ」
薫はクネクネしながらまたよからぬ妄想に耽っている。
自分の体に戻った天魔は、気を抜けば膝をついてしまいそうなほど疲労してい
た。だがその事を微塵も感じさせず、涼しい顔をしている。そしてまずは、愛が
秘沖との戦いの時に放り投げた銃を捜す。銃は爆風でかなり遠くに飛ばされてい
たが、霊界で作られた特殊な物だけに壊れてはいなかった。
銃についた汚れを払いホルスターに収めた天魔は、愛の側に移動すると、ゴチ
ンという音が出るほど強く、愛の頭を殴った。
愛は頭を抱えてその場に蹲り痛がる。
「優樹さん、今更ですが、奴らを追わなくてもよかったんですか? 後に残すと
厄介かもしれませんよ」
「深追いは無用です。組織と戦うことは、我々の仕事じゃありませんから。後は
霊界が対処するはずです。だから今は少し泳がせておきましょう。敵対する意志
はなく、ここの生徒が襲われる事もないでしょうし」
「そうよねぇ、何でもかんでもこっちで処理することないわよ」
薫は天魔に寄り添うように密着して言った。
「わっ、分かりました。それよりその組織というのは、やはり霊界のブラックリ
ストに入っている、元ハンター達の集まりの事ですね」
「えぇ、そうです。今まで表立った行動をしていなかった幾つかの組織が、最近
になって急に動き始めたと、学園にも情報が入ってきています。今はまだ何が目
的で、どこの組織が動いているのか分かりませんが」
「霊界が俺たちを学園に派遣したのは、組織の動きが関係しているんですか?」
「それは私にも分かりません。すべては上の人が決めたことですから」
優樹は穏やかに微笑み言ったが、天魔にはその笑みと台詞が白々しく思えてな
らなかった。笑顔の裏側に潜む狡猾な顔こそが、本当の優樹の顔であると、天魔
は既に確信している。
「しかしなんだ、あの様子だと傷が癒えぬ間に、また来るんじゃないか。あれは
根に持つタイプだぞ」
沙経は勝手に話を変え、面白がり他人事のように言う。
「まだ戦うというのなら、次は俺が仕留める。奴もどうせ討伐しなければならな
い、ブラックリストの逆賊だろうからな」
「あれだけボコボコにやられて、またすぐに来るとは思えないわね。もしも来た
ら、ただの大バカ者か超ドMの変態よ。ある意味では凄いと思うけども」
「いやいや、分からんぞ。奴は随分と宗家の人間にこだわっていたしな。天魔は
何か心当たりはないのか?」
「さあ、直接恨みを買うのは今日が初めてだろ。ただ俺の推測だが、あの男は天
野家の分家に関係する人間だと思う」
宗家には、それぞれ影となる分家が存在していた。宗家の血筋の者は強い力を
生まれつきに持っているが、その全員が必ずしも、飛びぬけた強さの戦士になれ
るわけではなく、少しでも力の弱い者や条件を満たしていない場合は、宗家の人
間として認められない。そういった者達がいつしか分家と呼ばれるようになって
いた。因みに天野家の場合は、金色のオーラを発することができない者は、どれ
だけ強くとも、例外なく分家となる定めだ。
「でも、一応は血縁関係にある分家が、なぜ宗家に恨みを?」
そう言ったのは薫だ。
「分家は影であるが故に、表に出ることは許されず、命懸けでただ宗家を守るた
めだけに存在しています。子供の時の事ですが、何度か助けられたこともありま
す。そして宗家を守るために、多くの者達が命を落としています」
天魔は過去で出会った分家の男の事を思い出しながら語った。
「それで恨んでるんだったら、逆恨みもいいところね。宗家の人間だって命懸け
で戦っているんだから」
薫は不服そうに言った。
「まあ宗家と分家の長い歴史の中で、何があったのかは、俺には分かりませんけ
ど」
天魔の表情はいつも通りクールなもので、口調は素っ気なかった。
「彼も若かりし頃は、正義を重んじる戦士だったはずです……きっと」
優樹は感慨深げに知人の事を語るように発した。
「霊界と敵対する他の者たち同様に、何が狂気へと走らせたのか。まあ霊界のや
り方は問答無用で極端だからな、人間にとっては辛く報いられず、それぞれにや
むにやまれぬ事情があるのだろう」
霊界に反旗を翻した者達を弁護するわけではなかったが、沙経はその存在を否
定することもしなかった。それは光があるからこそ闇が、闇があるからこそ光が
その存在意義を成り立たせているように、相反するものがあることは、自然の摂
理といっても過言ではないからだ。だが対立するものの全てにいえるだろうが、
どちらが正義でどちらが悪かは、それぞれの主張や行動を見聞した第三者の感じ
方によって大きく異なるだろう。
「それより愛、お前の願い通り妖狐は殺さなかったが、これからどうするんだ」
極度に疲れていることもあり、天魔は本当に面倒臭そうに言った。
「ねぇ、沙経ちゃん、何かいい方法はないのかなぁ」
愛は大きな瞳に涙を潤ませながら、縋るように沙経を見上げる。しかし瞳が潤
んでいたのは先程天魔に頭を殴られたのが、まだ痛かったからである。
「まあ、人間ごときが掛けた術ならば、私の神通力でどうとでもなるがな」
「本当⁉ 流石沙経ちゃん、頼りになるぅ、大好き」
愛は、欲しかった物を誕生日にプレゼントされた子供のように喜び、無邪気に
沙経の腕に抱きつく。
「ふっ、まあな、天才だからな。だが断る‼ 私は何もやってやらないぞ‼」
沙経はそっぽを向き、不貞腐れた態度をとる。
「えっ、沙経ちゃんなに怒ってるの? なんでそんな意地悪言うのよ」
「だって、お前さっき私の顔を殴っただろ。それに、当たらなかったとはいえ撃
たれたしな。しかも顔面目掛けて撃つとは、ホンとトンでもない悪い子だ。まっ
たくもって許せん」
沙経は先程までの事を全て根に持っており、子供のように拗ねている。しかし
大妖怪と称されるわりに、なんとも器の小さい奴だと、その場にいた全員が思っ
ていた。
「そんな事したかな……記憶にありませんけども……」
愛は白々しくとぼけたが、その表情は明らかに焦っている。
「なんだとぉ、記憶にないだと‼ ますます許せん。いつからお前はそんな嘘を
つく子になってしまったんだ。あぁ情けない情けない。世知辛い世の中のせいか
のぉ」
「愛、とりあえず詫びてやれ」
天魔はもうどうでもよくなっており、気怠く言った。
「そうだ、謝れ謝れ。誠心誠意謝れ。そしてこの私を崇めよ」
「もう、分かりました。さっきは撃ったり殴ったりしてごめんね、沙経ちゃん。
何でもいうこときくから許して」
愛は手を合わせ拝みながら言う。
「ほほう、本当に何でも願いをきいてくれるのか。それだったら助けてやろう」
何かいやらしい事を企んでいるように、沙経は含み笑う。
「うん。何でも言って」
「それならば、絶世の美女を紹介しろ。背は高く長い黒髪で巨乳なら最高だ。分
かったか」
「えぇ、そんなの無理だよ。やっぱり天狗ってみんなスケベだ。最低だよ」
「あぁスケベだ、スケベだとも。だがスケベで何が悪い。しかもそこいらのスケ
ベ小僧と一緒にするなよ。私はスケベの中のスケベ、スケベを極めたスケベだ」
「もううるせぇよ。このスケベ大魔神が。愛、なんとかしてやれ」
「無理だよぉ」
「別に嫌ならいいけどな。ただ願いはきいてやらないぞ」
沙経は目を細めた嫌味な顔をしている。
天魔と優樹と薫は、沙経の出した条件にはまる人物に心当たりがあった。三人
の頭に浮かんでいたのは、理事長の美雪だった。
三人は目が合い、同じことを考えていると分かると、目線を外し知らんぷりを
した。
「うぅぅん、もう‼ このへそ曲がり‼ 助けてくれなきゃまたキレるからね‼」
愛は困ったあげく強気にでて、本気だと言わんばかりに沙経を睨みつける。
「うっ、それは困る。愛、卑怯だぞ」
「キレる‼」
完全に開き直った愛は、更に「キレる」を連呼し、追い込みをかける。
「くっそ、きったねぇなぁ……仕方がない奴だ、助けてやろう」
結局は愛の脅しに簡単に負ける沙経であった。しかしこうなることは天魔には
分かっており、呆れた顔をしている。
「やったね。だから沙経ちゃん大好き」
愛は満面の笑みを見せて抱きついた。
(恐ろしい子……小悪魔の素質ありね。油断ならないわ。てかぶっ潰す)
様子を見ていた薫は胸の内で語っていた。
沙経はさっそく、沈黙する妖狐の前に立つと右手をかざし、オーラに似た白色
光の神通力を放出する。神通力に包み込まれた妖狐の体からは、目に見えるほど
の強い電気のようなものがバチバチと弾けていた。更に沙経は数種類の印を結び
真言を唱える。
「オン・アロリキヤ・ソワカ」
すると神通力は瞬時に鎖へと具現化し、妖狐を捕獲するように全身に巻き付き
現れる。
沙経は次に九字の印と呼ばれる九種類の印を「臨兵闘者皆陣烈在前」と唱えな
がら素早く結ぶ。この九字の印と同時に真言を唱える術を破邪の法といった。
そして印を結び終えると人差し指と中指だけを立て、刀の形を表した印である
刀印を片手で作り、最後に「解っ‼」と言い放ちながら妖狐を斬るように刀印を
振り下ろす。その瞬間、神通力が具現化した鎖は断ち切れ、そのまま消滅した。
「これで傀儡の術は解けたはずだ。まったく、雑用ばかりさせおって」
「ありがとう、沙経ちゃん」
愛はまた満面の笑みを沙経へと向けた。
沙経は愛の笑顔を見て、胸の内で「まあよいか」と思い納得していた。
沙経はいとも簡単に秘沖の傀儡の術を解除して見せたが、これは天才と称され
る者がどれほど努力しても、人間の短い寿命では修得できない術である。だが仮
に何百年と生きられたとしても、まずは神通力を修得しなければならない。それ
こそが何よりも困難な事であり、やはり人間には無理な術と言わざる終えない。
「よかったね。もう苦しまなくていいよ」
愛はそう言いながら妖狐の頭を優しく何度も撫でた。
「沙経、破邪の法の前に神通力を具現化した術はいったいなんだ」
天魔は妖狐の事など興味なく、沙経の術が気になっていた。
「あれは防御系や呪縛など、他者の様々な術を無効化する秘術だ。神通力により
相手の術を鎖へと具現化させ断ち切る。まあ人間には無理な術だ。とはいえ、お
前なら、この私をちゃんと崇め、あと三百年ほど修行を積んで神通力をものにで
きれば、使えるようになるかもしれん。とりあえず、一日百回は拝むがよいぞ」
沙経は少し嫌味もまぜながら自慢げに言い、最後は傲慢に高笑いした。
その時、沈黙していた妖狐が目を覚ます。
「テンちゃん、見てよこの子、凄く澄んでて優しい目をしてる」
傀儡の術から解放されたことにより、妖狐の瞳からは狂気が消え去っていた。
その表情は飼い犬のように穏やかで、獰猛さは微塵もない。
「あぁ、そうだな。それでどうする、その妖狐。操られていたとはいえ、多くの
罪を犯している。このまま霊界が放置するとは思えない」
「どうしよう。この子はまだ動けないし、ここに置いておくわけにもいかないよ
ね……」
愛は困惑した表情を見せる。その顔を見た妖狐は悲しげな鳴き声を上げ、鼻先
を愛の顔にすり寄せた。
様子を見ていた沙経が仕方がなく、愛が喜び納得するだろう案を出す。
「二人ともその妖狐と口寄せの契約を交わせ。そうすれば、私が一緒に連れて行
ってやろう。私と一緒なら、霊界も手を出さんだろう。特別に傷の手当てもして
おいてやる」
「ほんとに、沙経ちゃん」
「あぁ、本当だ」
「いいのか沙経、そんなこと言って。そこまで甘やかす必要はないぞ」
「構わぬさ。お前たちのわがままには慣れているからな。それにこの妖狐、きっ
と役に立つはずだ」
沙経の口調は穏やかで優しく、まるで父親のような感じだった。
「怪しいわぁ、沙経様もしかして、美女に変身させてエッチな事しようと思って
るんじゃないの」
薫が徐に言った。
「バっ、バババババハっ、バカ者⁉ そんな事ちょっとしか思っておらぬわ‼」
「思ってんのかよ」
天魔は絶妙なタイミングでツッコミを入れた。
「沙経ちゃん最低」
愛はゴミでも見るような冷たい目をして言った。
「とりあえず、愛、俺はいいからお前だけ契約しろ」
口寄せの契約は基本的には簡単な事だが、その簡単な事でさえ、今の天魔には
骨が折れる作業だった。
「うん、分かった」
天魔が疲労していることを理解している愛は、素直に従った。
愛は集中力を高め念じることで、手の平に直接、口寄せの契約をするための六
芒星の魔法陣を作り出す。そして妖狐の額に、魔法陣が刻印された手の平をそっ
とあてた。妖狐が口寄せの契約を受け入れるならば、手の平の魔法陣は妖狐に刻
まれ、契約が成立する。
妖狐は何の抵抗もせず愛を受け入れた。魔法陣は愛の手から妖狐の額に刻まれ
ると、一瞬だけ光を強く放った後、跡形もなく消えた。
「それでは皆さん、一段落したところで、先程の賭けの結果を発表しますよ」
微笑み弾んだ口調で言ったのは優樹だ。
「おぉ、すっかり忘れていた。それで何分で決着がついたんだ?」
「九分ジャストですね」
「ぬおおおおー‼ 負けたぁ‼」
沙経は今更ながら大人げなく本気で悔しがる。
「あら、と言うことは、私の勝ちね」
薫は不気味としかいいようのない笑顔で沙経を見ると、いやらしく含み笑う。
「ぬわにぃぃぃぃ⁉」
沙経は薫が勝ったことを知ると、冷汗をボタボタと垂らした。天魔も嫌な予感
と共に背筋が寒くなる。
「因みに、私も勝ちですよ。私は九分までに賭けましたから、ジャスト九分なら
私も勝ちでいいですよね。あっ、でも私の勝ちはなかったことでいいですよ」
優樹はさらっと言い、この後に天魔と沙経に待ち受ける恐ろしい、そして面白
い展開を想像し、わざとらしく含み笑う。
「貴様、ずるはしてないだろうな」
「勿論です。この目が嘘を言っているように見えますか?」
優樹の瞳は少女漫画のヒロイン張りに幾つもの星が輝いており、純粋そのもの
だった。だが口元には、狡猾な笑みが浮かんでいる。
「見える、見えるぞ‼ 貴様の目は邪念に満ちておる。私は騙されんぞ。この勝
負は無効にすべきだ」
この場にいる誰よりも大人なはずだが、沙経はこの期に及んでまだ往生際が悪
く、まるでお菓子を買ってもらえずに駄々をこねる子供のようであった。
「た・し・か、負けた人は何でもいうことをきく約束だったわね。お二人さん」
薫は天魔と沙経を交互に見ながら舌なめずりをする。どちらが美味しそうか物
色している獣のようだ。
二人は全身に鳥肌が立ち、身の毛がよだつ凄まじい寒気に襲われていた。そし
て天魔は既に諦めた様子で重い空気を漂わせ、うな垂れている。
「いやん、二人とも何をそんなに緊張しているの。まさか、エッチな事でも考え
ているんじゃないでしょうね。このスケベ」
薫のその言葉で、二人は瞬間冷凍されたマグロのように凍り付いた。
「それじゃあ二人同時に、私のほっぺにキスをしてもらおうかしら」
薫は二人の腕を掴み、強引に引き寄せる。
「よっ、よおーし、私も男だ、賭けに負けたいじょうは仕方がない。天魔、お前
も覚悟を決めろ。いくぞっ‼」
沙経の掛け声と共に、二人は薫の頬にキスをしようとする。だが体は正直に拒
絶反応を起こし、二人ともキスができない。
「やっぱムリぃぃぃぃぃ‼ 何か大切な物を失う気がするぅぅぅぅぅ‼」
沙経は悲痛な叫びを上げる。
「もう、じれったいわね」
薫は唇をタコのようにして、逆に二人の頬に濃厚なキスをお見舞いした。
先にキスをされたのは天魔であり、沙経には逃げる間があったが、怪力で腕を
掴まれてびくともしなかった。更に天魔が拷問されるその光景を見て、恐怖で動
くに動けなかった。そして結局は沙経も為す術なく、薫の毒牙にかかる。
二人は精気を吸収されたように放心状態で立ち尽くし、押せば簡単に倒れそう
である。
「そんな賭けなんかやってるからだよ。まったく、自業自得だよ」
愛はプンプンと怒りそっぽを向いた。
まだ固まっていた天魔と沙経だが、内心では、この程度で済んで良かったと少
し思っていた。
「さてと、そろそろ帰るか。今日は楽しかったぞ」
廃人状態から辛うじて立ち直った沙経は、妖狐の背の辺りに手を置いた。
「愛、近いうちにこの妖狐に、名前でも付けてやれ」
「うん。その子のことお願いね、沙経ちゃん」
「じゃあまたな」
沙経は自ら口寄せを解除すると、妖狐と共に煙に包まれその場より消えた。
「今日は色々ありましたが、沙経さんが言ったように、楽しかったですね」
「そうね、今日は本当に楽しかったわ。個人的には、ご馳走さまって感じかしら
ん」
薫は天魔にウインクを飛ばした。
天魔は躱す気力もなく直撃を食らう。先程のキスとのコンボで気持ち悪さは限
界に達していたが、なんとか手で口を押え、えずくのを我慢した。
「それでは我々も帰りましょうか」
四人は生徒会室の魔法陣から現実世界へと戻り、そのまま寮へと帰る。
天魔は寮に入る前に、徐に立ち止まり夜空を見上げ、少ししてから溜め息を吐
いた。
「先が思いやられるな……」
それは思わず出た、天魔の本音の呟きだった。まだ学園にきて数日しか経って
いないというのに、既にこれほど濃い出会いと戦いが待ち受けていたのだから、
天魔が溜め息を吐くのは仕方がないだろう。
「テンちゃん、どうしたの? 疲れてるんだから早く休まないと」
愛はそう言いながら天魔に近付く。だが容赦なく、ゴチンと頭を殴られる。
「もう子供じゃないんだ。その呼び方をするな」
「うぅぅーん、なんですぐ殴るの、酷いよ」
「何度も同じことを言わせるからだ」
「い・や・だ‼ テンちゃんはテンちゃんだもん。絶対やめないからね」
愛は意地になっており、反抗的な目で天魔を見上げる。
「強情な奴だな。……もう好きにしろ」
疲れていた天魔は相手をするのが面倒になり、簡単に折れてしまった。
「やったぁ‼ これでもう殴らないでよ」
愛は子供のように無邪気に飛び跳ねて喜んだ。
その後は極度の疲れから深い眠りについた天魔は、短い時間だが朝まで安らか
に眠った。だが沙経の方は、夢の中にまで薫が現れ、悪夢にうなされていた。
本当にこれから先、天魔と愛はこの学園でどんなふうに成長していくのだろう
か。きっとそれは、今はまだ誰にも想像し得ない、神のみぞ知る物語である。




