第七章 「悠久なる狩人たちの挽歌」 その壱
空間の歪みの中へと消えた天魔は次の瞬間、何処とも知れぬ大きな建物の屋上
にいた。
(どこだここは……とりあえず結界の中から出てしまったようだな)
天魔は怪訝な表情で辺りを見渡す。
すぐ裏には山が広がり、周りには高いビルやマンションは見えない。恐らくか
なり田舎と推測される。時間的には黄昏時で、夕日が空をオレンジ色に美しく染
めていた。だが天魔のいる場所は、建物全体が異常なまでの濃い霧に包まれてお
り、数メートル先の視界すらおぼつかない。
「気配を絶つぞ、村雨」
天魔は険しい表情で言った。それは妖怪と思しき強大な妖気を感じたからだ。
村雨は天魔の命令に従い、妖気を静め完全に沈黙した。天魔は妖気の持ち主が
何者であり、今の自分がどういう状況にあるのか見極めるために、学校の校舎ほ
どもある大きな建物の内部へと潜入する。
建物内の様子は薄暗く、更に視界は悪くなる。しかし、どうやらここは廃墟と
なった病院跡のようだった。
天魔は完璧に気配を絶ち、闇と霧に紛れながら建物内を下へと移動していく。
その途中で何者かの気配を感じ取る。それが先程感じた妖怪のものとは違う、人
間の気配だということは、天魔にはすぐに分かった。だが敵か味方か分からない
ため、自分の気配は絶ちつつ相手の視界に入らぬように様子を窺う。
その場に慌てた様子で走りやってきたのは、長い金髪をなびかせた、白いロン
グコートを着た長身の白人女性であった。そして気絶していると思しき五歳ぐら
いの子供を二人、軽々と抱えていた。
(なっ……どういうことだ……あれはガキの頃の俺と愛じゃないか……)
天魔はその光景に驚愕する。霧で視界が悪いためはっきりとは見えないが、謎
の白人女性が抱えているのは紛れもなく天魔と愛だった。
二人を抱えた謎の女性は天魔に気付く事無く、そのまま通り過ぎていく。
(そういえばこの建物、見覚えがある。まさか……過去に飛ばされたというのか)
天魔はすぐには信じられなかったが、真相を究明するために、まずは妖気の持
ち主を確認しにいく。
(もしもここが本当に過去なら、子供の俺たちの状況とこの場所からして、妖気
の持ち主は鬼熊か)
得られた情報と妖気の感じから推測し、導きだされる答えは一つしかなく、天
魔はある場所へと辿り着く。
そこは強大な妖気を発する妖怪がいる場所より、一つ上のフロアだった。だが
床の一部が大きく崩れ落ちており、下の階の様子が見渡せる。この大きな穴は、
天魔の記憶では鬼熊が下に降りるときに破壊したものだった。
天魔が下の様子を覗き見ると、予想通りそこには十年前の鬼熊がいた。更にそ
の眼前には過去の天魔たちを逃がすために命懸けで大妖怪に立ち向かう、謎の男
の姿もあった。
その男の年の頃は五十代ほどで、黒髪の短髪で上下ともに黒ずくめの服装であ
る。長身で鍛え上げられた体格をしており、顔付きは厳格そうで、その瞳には断
固たる決意が感じられた。しかし既に致命傷と思しき傷を、胸元から右腕にかけ
て負っている。
天魔はこの光景を見て、夢や幻覚ではなく、自分が過去にいるということを確
信した。
(さてどうする……このまま放っておけば、あの人は確実に殺される。だが、ここ
でこの時代に存在するはずのない俺が、手を出してもいいのか……)
十年先の未来から来た自分が過去の事に干渉すれば、歴史が変わってしまうか
もしれない、と天魔は考えた。そのことで、動くかどうか迷いが生じる。
更に金色明王を発動させた後だけに、かなりオーラと体力を消費しており、と
てもじゃないが万全の鬼熊と戦える状態ではなかった。ここで戦いを挑むのは、
勇気ではなく無謀であり、ただの自殺行為である。故に逃げることが得策であっ
た。しかし、過去の自分を助けてくれた命の恩人を見捨てることなど、天魔にで
きるはずがなかった。
その時、鬼熊が眼前の男に止めの一撃を繰り出そうとする。
天魔は鬼熊が攻撃を繰り出す瞬間に僅かな隙を見つけると、後のことなど考え
ず、既に体が動いていた。天魔は瞬時にオーラを高め、鬼熊の頭上から斬りかか
る。この時、天魔が戦闘モードに入ったため、沈黙していた村雨も一気に妖気を
解き放つ。
鬼熊は完全に不意を突かれ防御できなかったが、致命傷となる直撃だけは回避
した。だが村雨の刃に額を切り裂かれる。
鬼熊の額から血しぶきが噴き出した瞬間、自分で起こしたその光景を見た天魔
はある事に気付くと、怪訝の後に驚愕の表情を見せた。
(そうか、そういう事か。十年後の鬼熊が言っていた言葉の意味が、いま分かっ
た。あの額の傷は、過去で俺自身が負わせたものだったんだ)
強い力を持った妖刀で斬られた傷は、完全に治らないことがある。十年後の鬼
熊の額に残っていた傷が、まさにそれであった。しかし今の天魔には、悠長に考
えに浸っている暇はない。
「まだ動けるだろ、ここは一旦退け」
鬼熊との間に割って入った天魔は、振り返らずに背後の男に言った。
「金色のオーラ、天野家の人間だな」
「そんなこといいから逃げろ‼ 今は勝てる相手じゃないんだ‼」
天魔は焦りを隠せず早口で捲し立てる。
「建物の外には逃げられない。まだ子供たちが近くにいるはずだからな」
男はよろめき倒れそうになったが、強靭な精神力で持ち堪え、自らの使命を命
尽きるまで果たそうとする。
「先程感じた強い気配はお前たちだったか。我としたことが油断したわ。何者か
知らんが絶対に許さんぞ‼ この世に生まれ出たことを後悔させてやる‼」
鬼熊はそう言い放つと、凄まじい妖気を放出する。その衝撃で、鬼熊の周りの
床や壁は大きく陥没した。更に地震が起きたように建物全体が激しく揺れる。
既に廃墟であり、かなり脆くなっていた床や壁に幾筋もの亀裂が生じる。特に
鬼熊の足元は陥没しただけでなく、子供ぐらい落ちてしまいそうなほど大きくひ
び割れていた。
鬼熊の足元を見た天魔は、何か閃き狡猾な笑みを浮かべ、先に仕掛ける。
天魔は既に強烈な妖気を放っている村雨を、無造作にただ横薙ぎに振り抜く。
すると妖気の塊である三日月形の黒き閃光が刀身より放たれ、鬼熊の足元の床に
直撃して爆発した。
この程度の攻撃では、鬼熊に直撃してもダメージを与えることはできないが、
床を破壊することぐらいは容易い。そして床は、ジグソーパズルをひっくり返し
たようにバラバラと、鬼熊を巻き込み崩れ落ちた。しかし当然、床の崩壊は天魔
たちがいる場所まで達する。
「貴様、逃げる気か‼」
落ち行く鬼熊が吠えるように言い放つ。
「十年後に相手してやるよ」
天魔は男に肩を貸し、軽い身のこなしで落下する瓦礫を次から次へと踏み台に
し、下の階へ落ちる事無く踏み止まる。
この僅かな隙に天魔は気配を絶ち、男の要望通り外には出ず、透かさず屋上へ
と逃げた。
「宗家を守る立場の私が、逆に助けられてしまったな。礼を言わねばならん。だ
が、この傷ではもう助かるまい」
男は既に立つことすらままならず、その場に座り込んでいる。
この時、鬼熊が二人を捜して暴れており、建物は地震が起きたように揺れてい
た。
「礼を言わなければならないのはこっちの方だ。俺は以前、あなたに助けられた
ことがあるからな。でも逃げることもできたはずなのに、これは無茶すぎるぞ。
あんたら分家の人間が影で死んで、宗家の人間が悲しまないとでも思っているの
か。少なくとも俺は違う。自分のために誰かが犠牲になって死ぬなんて、絶対に
嫌だ」
天魔は、命を懸けて忠実に使命を果たすこの男を見ていると、一気に感情が高
ぶり、これまでずっと心の奥底にしまい込んでいた思いの丈を、思わず言葉に出
してしまった。
「……ありがとう。宗家の人間にそう言ってもらえただけで、現世での私の人生は
幸せだったといえる」
出血が酷いせいで男の顔には既に血の気がなかったが、使命を果たしたという
感じの、満足気で誇りに満ちた表情をしていた。
その顔を見た天魔は、何故か無性に悔しくなり、自分でも気づかぬうちに歯を
食いしばり悲愴な顔つきをした。
「子供たちは無事に……逃げられただろうか」
男は力ない掠れた声で、呟く程度に発する。
「あぁ、ちゃんと逃げられたようだ、心配するな。今頃は外に待機していた守り
目たちと合流しているはずだ」
「そうか……」
「あの子たちは誰にも負けないぐらい強くなる。そして必ずあなたの敵を討つ」
天魔の言葉を聞いた男は、目を閉じたままゆっくりと微笑んだ。そして力なく
倒れ込んでいくところを、天魔が受け止める。
程なくして、男は天魔の腕の中で、安らかに眠るように息を引き取った。
「俺の方は、ありがとうと言いそびれてしまった。でも、きっと霊界でハンター
として体をあたえられるでしょうから、また会えますね。あなたも俺たちと同じ
ように、魂が消滅する瞬間まで、悠久なる狩人の一人として、死んで尚、戦い続
ける運命にあるのだから……まあその時は、記憶を消去されているから、俺の事は
覚えていないだろうけど」
天魔は穏やかに一つ一つの言葉を、そっと大切な物でも置くように発し、死者
の霊を慰める鎮魂歌のように語りかけた。
男の体からは、美しく光り輝く魂が抜け出し、その場から消えて自動的に霊界
へと送られた。
しかし天魔は既に、悠久に等しい時間の中で、ひたすら戦い続けるという自分
たちの運命をよく理解していた。だが天魔はそのことを悲観していない。それは
誰かがやらなくてはならないからだ。そしてその過酷な使命を、他の誰かが背負
うぐらいなら、自分が痛みと苦しみを受ける方がいいと考えていた。
その瞬間、また建物全体が激しく揺れ、屋上の床の一部が砕けると同時に、そ
こから勢いよく、龍が天へと昇るかのように怒り狂う鬼熊が現れた。
「逃げ果せるとでも思ったか、愚か者め‼ 噛み殺してくれるわ‼」
天魔は男をその場にそっと寝かせ、ゆっくりと立ち上がる。その様は、華奢な
愛の体であり、更にオーラを発していないにもかかわらず、何故か猛々しく見え
た。
「わかったよ、相手してやろうじゃないか」
天魔は感情的にならず、我を忘れそうになるほどの怒りを押さえ付け、いつも
通りクールな口調で言った。それは、どんな状況であろうと戦いの中で冷静さを
失うことは、相手を有利にさせるだけであり、死に繋がるからだ。とはいえ愛の
ように暴走したほうが力を発揮できる者も稀にいた。
覚悟を決めた天魔の瞳には、灼熱の太陽のように激しく燃える闘志が漲ってい
る。しかし天魔にどれだけやる気があろうと、疲労はピークに達しており、不利
な状況などという生易しいレベルではなく、絶体絶命まで追い込まれている。
天魔はこの時、沙経がよく言っていた言葉を思い出していた。「人の意思の力
は、時に常識をも覆す事があり、その可能性は無限大である」というものだ。ち
ょうど今の天魔には気休め程度だろうが、諦めなければ何か奇跡が起きるかもし
れない、という心の支えにはなった。
天魔は絞り出すようにオーラを高め放出する。それとほぼ同時に、村雨も漆黒
の妖気を放つ。だが明らかに、天魔のオーラよりも村雨の妖気が勝っている。た
だ両手で持っているだけで精一杯であり、使い熟すどころか逆に、凄まじい妖気
でダメージを受けそうであった。
その時、村雨が突然、自らの意思で更に凄絶といえる妖気を解き放つ。すると
過去に来た時と同じように、天魔の周りの空間が歪に捩じれる。
「何をしようとも無駄だ、逃がさんぞ‼」
鬼熊は眼前で起きている不可解な現象などお構いなしに、疾風の如く一気に間
合いを詰め、巨大な爪を振り下ろす。
直撃と思われた瞬間、天魔はその場より完全に消滅し、鬼熊の攻撃は空を切っ
た。それはまさに鬼熊の目には、瞬間移動したように見えた。
「バカな……気配すらも完璧に消えた……だと……」
鬼熊は納得がいかないといった感じに、天魔が消えた場所を睨み付け、思考を
巡らす。だが状況を理解できず、ただ為す術なく立ち尽くしている。
「どこだ‼ どこへ行った‼」
鬼熊は悔しさをにじませ言った後、強烈な雄叫びを天へと発する。
しかし何の決着もつかぬうちに天魔が消えてしまったため、鬼熊にしてみれば
一撃を食らっているだけに、勝ち逃げされたようなものであり、屈辱的なことだ
った。
空間の歪みに包み込まれた天魔は、過去に飛ばされた時と同じ場所に帰ってき
ていた。
「……どうやら戻ってきたようだな」
天魔は鬼熊と戦った後の周りの凄惨な光景と、愛や沙経たちがいるのを見て、
元の時代に帰ってきたと確信する。
天魔がオーラの放出を止めると、村雨も妖気を静め通常状態に戻った。更に天
魔は羽織を脱ぐと無造作に放り投げ、口寄せの念を解除した。すると羽織は煙に
包まれその場より消えた。
「マジで危なかったぜ」
鬼熊と対峙した時、天魔は本気で死を覚悟していただけに、その安堵の程は大
きく、溜め息まじりの言葉が思わず出た。特に愛の体に傷一つ付けずに、全てを
終わらすことができたのが、天魔の中では大きかった。
(助かったのはいいが、なんていうタイミングの良さだ。この時代の俺が過去に
行って、鬼熊の額に傷をつけたのと同じように、全ては因果律というもので、あ
の瞬間に俺が鬼熊の前から消えることは、決められていたことなのか……今はそ
んな眉唾な事も信じられそうだ)
自分の方へと向かってくる愛と沙経、それに優樹と薫を見ながら、天魔はそん
なことを考えていた。




