第六章 「金色明王」 その弐
天魔は腰を落とし踏ん張ると、迫りくる爪を村雨で真っ向から受け止める。そ
の瞬間、甲高い金属音が轟き、強烈な衝撃によって天魔の足元の地面が、固まり
きっていないコンクリートを巨大なハンマーで叩いたように陥没した。
「十年前はやられたが、今度は閻魔に会わせてやるぜ」
天魔は鬼熊の強力な一撃を楽に躱すことができたが、自らの強さを示すため、
ここは敢えて華奢な愛の体でいとも簡単に受け止めて見せた。
だが天魔のその行動は余裕があっての事ではなく、戦闘を有利に進めるための
駆け引きである。兵たちはごく自然に意識せず、こういった事を戦闘の中で頻繁
に繰り返し、相手にプレッシャーという目には見えないダメージを与えるのだ。
そして実力差があればあるほど、このプレッシャーというものは、動揺を誘い冷
静さと戦意を削り失わせる。
天魔は受け止めた巨大な爪を、村雨の刀身を滑らせるように往なして弾き、軽
やかにバックステップして間合いを取る。だが瞬きする間もなく、その場に残像
を残すほど早く動き鬼熊の背後へと回り込むと、透かさず刀を振り下ろす。
しかし鬼熊は難なく天魔の高速移動を見極め、身を反転させると同時に天魔の
攻撃など気にもせず、釘をハンマーで打つかの如く、巨大な手を乱暴に叩き付け
繰り出す。その攻撃は見事に天魔の脳天に直撃したように見えたが、鬼熊に手応
えはなく、振り下ろされた手は空を切っていた。
天魔は先程と同じように、人間の身体能力を超越した高速移動で、フェイクと
なる残像を作り出していた。次の瞬間、天魔はまた鬼熊の背後を簡単にとり、村
雨を振り下ろす。間合いとタイミングは完璧であり、直撃は必至、躱すことなど
不可能と思われた。
村雨が鬼熊の肉体を切り裂こうとしたとき、金属音に似た甲高い音が空に突き
抜ける。それは鬼熊の体毛が、村雨とぶつかった音だった。まさにヤマアラシが
敵を威嚇するかの如く毛が逆立ち、見事に刃を受け止め防いでいる。しかし妖刀
を簡単に受け止めるとは、妖気を纏った鬼熊の体毛は、鉄よりも遥かに硬質とい
える。
「そんな子供騙しが通じるものか、たわけめ」
鬼熊は振り返らずに首だけ少し後方にひねり、余裕ある口調で言った。更に最
後の言葉と同時に、鬼熊は反撃に転じる。
背部の逆立った何本もの毛が如意棒のように自在に伸び、槍を突き出すかの如
く天魔に襲い掛かる。だが天魔は、軽やかに日舞でも舞い踊る感じに後方へとス
テップしながら、最小限の体捌きだけで回避した。
「流石にやるな。弱っているとはいえ、簡単には勝たせてもらえないか」
「虫けらの分際で、我に勝つ気でいるとはな」
鬼熊はその巨体を振り向かせ、重々しく発した。
「ちょっと早いが終わらせるぜ。時間がないんでな」
天魔の全身より放出されていた金色のオーラが、爆発的といっていいほど強大
に膨れ上がる。その光景は、ビッグウェーブを眼前で見上げたぐらいに圧倒的な
凄まじさだった。
暴走状態と紙一重のように、とどまる事を知らぬオーラは天魔の勇ましい雄叫
びと共に尚も高まっていく。
この時、天魔の周りの空間が、歪にねじ曲がり始めていた。鬼熊が結界を破壊
するために妖気を高めた時、同じように空間が歪んでいたが、霊界が作ったこの
特殊な世界がまだ不完全な存在だからこそ、頻繁に起こる現象であった。
そして愛の体を使っている天魔に変化が起こる。漆黒の長い髪と瑠璃色の瞳が
一瞬で黄金色に染まったのだ。それは本当に眩いほどに美しい色で、スポットラ
イトで照らした金塊の如く輝きを放っている。肌色であるはずの皮膚も少し金色
がかっており、全身からはオーラだけでなく、まさに本物の金粉が止めどなく放
たれているように見えた。その金色の粒子は、仏の光背から発せられる後光に見
えるほどに神秘的である。更に今は夜中であり暗いため、より輝きが美しく感じ
られた。
天魔の突然の変化を対峙している鬼熊は、ただ見ているだけだった。ほんの数
秒足らずの出来事ということもあったが、放出されるオーラが神々しく、あまり
にも異質で圧倒的だったため、傷つき弱っている状態では、大妖怪と称される鬼
熊でも容易には近付けなかった。実際に鬼熊が放っている強大な妖気よりも、天
魔のオーラは数段上に感じられた。
「あれが金色明王だ。あの状態になれば、五感が極限まで研ぎ澄まされ、飛躍的
に身体能力やオーラ、更に治癒能力も高まる。因みにこの呼び方は、私が千年ほ
ど前に名付けた。なかなか粋であろう」
沙経は楽しそうに語り、最後は自慢げに言った。
「美しい……なんという神々しさ……確か811年の平安京で、弘法大師空海が
嵯峨天皇の前で、印を結び真言を唱え、その体を黄金に輝かせたという伝説があ
りますが、まさかそれに似た光景を、この目で見ることができるとは」
優樹は魅入られたように天魔を凝視している。
「お前はまだ若いのに、実に博識な奴だな。しかし空海とは懐かしい名だ」
沙経は優樹のうんちくに感心して、何度か頷いていた。
「まるで本物の金粉のような輝きね」
愛の体であったが、金色明王が作り出す光景に、薫も素直に美しいと感じてお
り、流石に嫌味な台詞は出てこなかった。
この奇跡と称しても過言ではない光景の前では、どんなに美しい自然現象も色
褪せてしまう。それこそ、氷の結晶が太陽光で輝いて見える細氷現象のダイヤモ
ンドダストや、北極や南極地方の夜空に現れる、大気の発光現象のオーロラでさ
え太刀打ちできない。
「体から噴き出しているように見えるあれは、本物の金粉だ。オーラの一部が瞬
時に物質変換され、本物の金へと変化している」
沙経は驚くべきことをさらっと言った。
「物質変換……霊界のアイテムや神器などを使わずして、そんなことが人間の力だ
けで可能なのですか? しかも印も真言も使っていない。信じがたいですね。い
ったいどういう原理なんですか?」
優樹は驚きと困惑を隠すことなく表情にだし、沙経に尋ねた。
「うむ、難しい事はまったく分からぬ」
沙経は先程まで、何でも知っていると言わんばかりに説明していたが、恥ずか
しげもなく即答した。
「なんだ、その残念な奴でも見るような目は。私にも分からぬ事の一つや二つは
あるぞ。えぇい、その目をやめい。なんだか惨めになるではないか」
優樹は少し残念そうな顔をしていただけだが、沙経には非難する顔に見えてい
た。
「宗家の中でも天野家が特別視される本当の理由が分かった気がします」
優樹は沙経の態度を見て、仕方がなく物質変換のことを深くは追究せず話題を
変えた。
「だが天野家の人間でも、あの領域に達することができる者は、数百年に一人い
るかどうかだ。故に特別なのは天野家というより、天魔と愛なのだ。だからお前
たちは運がいい。あれは滅多に拝めるものではないからな」
この時まだ、天魔と鬼熊は対峙したままであった。
鬼熊の方は、まさに蛇に睨まれた蛙のように、動くに動けない様子だが、天魔
の方は余裕ある感じで斜に構えている。そして強大な妖気を放つ村雨を、難なく
片手で扱えるまでになっていた。
しかし天魔の表情は、眉間に皺を寄せた険しいもので、怒りに満ちている。そ
れは金色明王の状態になれば、天魔の意思とは関係なく、その性質が猛悪に変わ
るからだ。
「それより見てみろ、あの今にも噛み付きそうな怖い顔を。愛の可愛い顔が台無
しだ。だが明王と名付けたのは、顔が怖いからではないぞ。代々あれを発動させ
た者たちは皆、勇猛と残酷さを併せ持つ鬼神へと変貌するからだ。特に無慈悲で
惨たらしい性質が突出し、それが獰猛かつ狂暴に変わり、時に敵味方関係なく襲
い掛かる場合がある。とにかく触らぬ神に祟りなし、近付かぬことだ」
沙経が語った通り、金色明王を発動させた今の天魔は、味方にとっても危険な
存在である。故に天魔は、暴走した自分を制する力を持つ、沙経が側にいる時に
しか、金色明王は使わなかった。
因みに金色明王は術や技というよりも、ただの状態変化といったほうがいいだ
ろう。故に発動するのに時間はかからず、戦闘中でも複雑な印を幾つも結んだり
エクスチェンジのように防御壁を作る必要がない。だがまだまだ未熟なため活動
限界は短く、その後、極端にオーラを消費してしまう。更に、人間の体は60兆
個の細胞の集合体であり、220種類程の細胞組織で構成されているが、無理を
して限界まで使えば、細胞たちは一瞬で崩壊し、そのまま死に至る。それだけの
数の細胞が全て破壊されれば、燃え尽きた灰が風に吹かれ散りゆくように、人間
の体はその形を留める事無く消滅するだろう。強力ゆえに諸刃の剣でもあった。
「どうした、攻撃してこないのかよ。お前をグチャグチャのひき肉にしてやりた
い衝動を抑えて、ハンデがわりにわざわざ待ってやってるのによぉ‼」
天魔の語り始めは普通の口調だったが、徐々に荒々しくなり、最後は怒鳴るよ
うに発していた。そしてその黄金色の瞳には、鬼熊と同様に狂気が満ちている。
鬼熊は何も言い返さず、冷静に天魔の様子を窺い、解放された未知なる力の度
合いを計っていた。
「ここまで人間どもに好き勝手やられるとはな……どうやら命を懸けなくてはなら
んようだ」
鬼熊は弱気にとれる台詞を発したが、決してそうではない。次の一撃に己の全
妖力を注ぎ、勝負を終わらせる気だ。更に天魔の力に対抗するために、妖力とは
違う、生きるための力である生命力をも使うつもりだった。
この生命力を使えば、絶大な力が得られる代わりに魂が削られる。それは寿命
が縮むという事であり、配分を間違えれば、即座に死ぬことになる。人間の場合
は元から寿命が短いため、生命力を戦闘で使えば、大抵は死に至ることが多い。
しかし弱っているとはいえ、大妖怪と称される者が、そこまでしなくてはなら
ぬ程に、今の天魔の力は強大だということだった。
鬼熊は残る妖力の全てを体内に集中させ、同時に生命力を燃やす。この時、蛍
が発するチカチカと点滅する光のように、鬼熊の巨体が発光していた。これは生
命力を使った時に起こる現象である。
「全力のお前と戦えないのは残念だが、俺は情けはかけないぜ」
鬼熊の一撃勝負の狙いに気付いた天魔は、当然のように真っ向勝負を選ぶ。
本来の天魔なら、わざわざリスクを背負うことはしないだろう。冷静に戦況を
分析し、勝てる確率が高い方法を選択するはずだ。だが金色明王状態の天魔はよ
り好戦的であり、心から戦闘を楽しんでいる。故に、売られた喧嘩から逃げる選
択肢はなかった。そのことを鬼熊は直感的に分かっていた。直接対峙しているか
らこその意思の疎通だろう。
天魔は護符を使用せずに念じるだけで六芒星の魔法陣を頭上に作り出すと、透
かさず口寄せの術を発動させる。魔法陣が弾け煙の中からは、美しい金色の羽織
が姿を現す。天魔はゆっくりと落ちてくる羽織に手を通し身に纏った。それはオ
ーダーメイド品のように愛の体に合ったサイズで、丈は膝の辺りまである。
この羽織は、神の住む山、須弥山の下層に飛んでいる、金色の翼を持ち竜を食
らうという伝説の大鳥、金翅鳥の羽で織られた特別な霊法衣だった。炎や氷、雷
に風など、あらゆる属性の攻撃に対応できる。
「村雨よ、俺のオーラを好きなだけくれてやる。食らいつくせるものなら食らっ
てみろ」
天魔が言い放つと、村雨は呼応するように天魔の全身から噴き出す金色のオー
ラを、水分を一瞬の間に吸収するスポンジの如く、凄まじい勢いで際限なく刀身
の中に食らう。
天魔は村雨の柄を強く両手で持つと、下半身に力を入れ踏ん張り、頭上高くに
振りかざす。それは剣道でいうところの上段の構えであるが、その姿は凛として
いて迷いなく、白く大きな花を咲かせ、威厳・高貴・偉大を意味する一輪のカサ
ブランカのように美しくもあり、まったくもって隙がない。
そして天魔が技を繰り出そうとしているこの瞬間も、村雨は食い足りないと言
わんばかりにオーラを吸収していた。まるで全てを吸い込むブラックホールであ
り、本当に使い手の命をも奪いかねない恐ろしい妖刀である。しかしオーラを食
らう村雨に変化が起こる。今まで漆黒の炎の如き妖気を刀身から放っていたが、
それが消え去り、天魔のオーラと同じ金色の妖気に変わっていた。更に刀身は金
塊のように黄金色に染まっている。だが、まがまがしさまでは消えていない。
刹那の差であったが、先に攻撃を繰り出したのは鬼熊だった。体内に力を溜め
込んだ鬼熊の口からは仄かに炎が漏れており、次の瞬間、目一杯に口を開いた。
そして全エネルギーを集結させた最後の一撃となる、燃え盛る大火球を砲弾の如
く吐き出した。
まさに日輪と化す火の玉の破壊力は、言うまでもなく凄絶だろう。金色明王の
状態の天魔とて、直撃を食らえば一溜まりもなく、一瞬で肉片一つ残すことなく
灰燼と帰すはずだ。
だが天魔は先制されても微動だにしていなかった。この時、村雨の刀身はオー
ラと妖力が融合したエネルギーの塊である、金色の球体に完全に覆われていた。
それはもう例えようのない美しさであったが、想像を絶する質量に、ただ見てい
るだけの優樹と薫は、恐れおののき全身に鳥肌が立っていた。
勇ましい雄叫びと共に天魔が一歩踏み込み、勢いよく村雨を振り下ろすと、高
エネルギー体である金色の球体が、刀身より放たれる。しかしそれは技と呼べる
ようなものではなかった。ただ強大な力を解放し、刀を振り下ろしただけにすぎ
ない。とはいえその単純な攻撃が、人間の力とは到底思えない程に恐ろしい威力
であるのは間違いなかった。
大火球と金色の球体は激突すると、互いに一歩も退かず激しく押し合う。だが
鬼熊の放った大火球の方が耐えきれずに、先に大爆発を引き起こす。
その爆発で巨大な炎の塊と黒煙が、天魔と鬼熊もろとも辺りを包み込む。
しかし天魔の放った球体は爆発を物ともせず、勢いを失うことなく炎の中を突
き進み、容赦なく鬼熊に直撃した。その瞬間、鬼熊を中心に辺りは眩い光に包ま
れ、そこから幾筋もの閃光が走る。そして大火球の爆発直後、更に凄絶な大爆発
が起こる。
近くの校舎は、まるで特撮映画のセットのように簡単に破壊され吹き飛び、荒
れ狂う爆風と炎は、その場に存在する全ての物に襲い掛かる。この時、上空へと
舞い上がったマグマの如き炎の固まりと黒煙は、キノコ雲とそれを囲む煙の輪を
作り出していた。とにかく凄絶極まりない威力の爆発であった。




