第六章 「金色明王」 その壱
「天魔よ、まだまだ上がいるな。あの眼鏡の奴は一見弱々しいが、魂を入れ替え
ている今のお前達でも、一対一なら勝てないかもしれん」
「やってみなけりゃわからないさ。それに俺たちはもっと強くなる。戦いながら
でもな。まあとにかく、面白い土産をくれたもんだ」
天魔も謎の男の秘められし強さは肌で感じ取っており、負け惜しみ気味に言い
返す。
「やはり鬼熊とは、何か因縁めいたものがあるようだな」
「ガキの頃にちょっとボコボコにやられただけさ。だから因縁って程のものじゃ
ない。あいつは憶えてもいないだろうからな」
「ふむ、そういうことか。確かに勝者は敗者の事など憶えていないものだ。とい
う事は、愛も鬼熊を知っているのか?」
沙経は徐に愛に話を振る。
「えっ、私……うーん、知ってるような知らないような……あの時のかな」
愛は難しい顔で考え込むが、本当は鬼熊のことはまったく記憶になかった。だ
が天魔の雰囲気から、一応はそれらしく知っているふりをして合わせた。
その場に残された鬼熊の足元には、五芒星の魔法陣が作られており、その五つ
の点の部分には三メートルに達する巨大な杭が打たれ、夥しい数の護符が取り付
けられた、白く太いしめ縄のような物が、上段、中段、下段と、三重に鬼熊を取
り囲むように張り巡らされている。これは鬼熊を一時的に動けないようにするた
めに作られた結界である。そして契約を交わしていない者を強制的に口寄せする
時に使われる手法でもあった。
「鬼熊よ、人間ごときに捕まるとは、なんとも情けないのぉ。しかも随分と深手
を負っているではないか」
沙経は鬼熊と顔見知りのようで、少し近付き嫌味な笑みを浮かべた。
「鞍馬天狗の沙経……まさかこんなところで顔を合わせるとは。何ともむなくそ悪
いことだ」
鬼熊は威厳ある重々しい声で唸るように発する。
「久しぶりに会ったというのにつれない奴だ。それよりも、さっさとそこから出
たらどうだ。それとも助けてほしいのか」
「ほざくなっ‼ 言われるまでもないわっ‼」
鬼熊は、地響きがするほど激しく吠えるように言い放つと、愛や秘沖が発して
いたオーラよりも強大な、赤黒い薔薇の如き色をした妖気を全身から解き放つ。
この時、その場所が霊界の作った特殊な空間ということもあったが、鬼熊の発し
た強大な妖気の影響で、周りの空間はいびつに歪んでいた。
そして放たれた妖気は、鬼熊を取り囲んでいた五本の巨大な杭を、まるでマッ
チ棒を指で弾いたぐらい勢いよく、それぞれ各方向に、夜空に大輪を咲かせる打
ち上げ花火の如く散らせ吹き飛ばした。
その中の一本は天魔たちのすぐ横を掠めていき、地面をえぐり何度かバウンド
した後、巨大な生物の屍のように無残に横たわった。校舎の方には三本飛ばされ
壁を紙でも破るようにいとも簡単に破壊して突き刺さっている。残り一本はスク
リューと化し、稲でも薙ぎ倒すかの如く、桜を次々に巻き込みへし折ると、夥し
い数の花を雪のように降らせた。護符が貼られたしめ縄の方は杭から切断され、
散り散りに地面に叩き付けられる。更に結界である足元で輝く魔法陣は、硝子が
粉々に砕けるように消滅した。
妖気の余波は強烈な突風と化し、少し距離を取っていた天魔たちに襲い掛かっ
た。重心を落とし踏ん張ってもなお、沙経以外は全員、引きずられるように後方
へと押し込まれた。普通の人間だったなら、簡単に吹き飛ばされ地面を転がって
いただろう。
「なんてバカデカい妖気なのよ。おしっこちびりそうになったじゃない」
「薫さん、少しお下品ですよ」
優樹と薫はこの緊迫した状況でもまったく動じず、いつも通りだった。
「あら、私としたことが、御免あそばせ」
天魔は優樹と薫の方をチラっと見て、相変わらずどこからどこまでが本気なの
か分からない人たちだ、と思い呆れていた。
「おいおい鬼熊よ、結界を破壊したはいいが、本気で弱っているではないか。そ
れ程にあの男が強かったのか、お前が情けないのか、さてどっちなのかな」
沙経は仮にも大妖怪である鬼熊を、わざと小馬鹿にしていやらしい笑みを浮か
べ皮肉ると、満身創痍の秘沖を見た時と同じように楽しそうにしている。
「…………」
沙経を睨む鬼熊は、何か言い返そうとしたのか、徐に口を大きく開いた。
「沙経、くるぞっ‼」
鬼熊の殺気と瞬時に高められた妖気に気付いた天魔が言い放つ。
鬼熊は体内で一点に集中させた妖気を、沙経目掛けて口からビーム光線のよう
に吐き出した。
これといった戦闘開始の合図もなく突如繰り出された攻撃は、瞬きする間に沙
経の眼前に迫る。だが沙経は回避する様子を見せず、少し白けた感じの余裕ある
表情で、斜に構えて左の手の平を光線へと突き出した。
光線と左手が激突すると、眼前でカメラのフラッシュを直視したように凄まじ
い閃光がほとばしり、沙経を巻き込み大爆発した。
「やれやれ、この程度の攻撃が、私に効くとでも思っておるのか」
爆煙の中から沙経が気怠い口調で言う。
沙経は難なく攻撃を受け止め、まったくの無傷であった。当然、鬼熊もその攻
撃で倒そうとは思っておらず、挨拶代わりの威嚇にすぎない。
程無くして爆煙は納まったが、沙経の手の平からはまだ少し煙がたっており、
沙経はロウソクの火を消すように軽く息で吹き飛ばした。
その時、天魔が沙経と鬼熊の間に割って入ろうと動き出す。
「待て天魔。戦ってはならん。後は私に任せておけ」
「なぜ止める。俺が負けるとでも思うのか」
「そうではない、もう時間切れだ。そろそろ術を解除しろ」
「まだ問題ない」
「天魔よ、ザコを相手にするのではないぞ。傷つき弱っているとはいえ、仮にも
大妖怪と称される者を舐めるな。今のお前の強さでも、簡単に勝てる相手ではな
い。それに全力に近い状態で戦えば、その長さの分だけ愛の体もお前の魂も傷つ
いてしまう」
沙経は天魔と会話しながらも、鬼熊がいつ仕掛けてきても対応できるように、
隙は見せていない。その油断ならぬ凛然とした態勢に気付いている鬼熊は、ダメ
ージを負っていることもあり、安易には動けなかった。当然この時、天魔もまっ
たく隙を見せておらず、いつでも戦える態勢にある。
「悪いが、ここは引けないな。俺がやらなきゃいけないんだ」
愛の体ではあったが天魔の瞳には、何かしらの強い決意と、燃え盛る炎の如き
闘志が満ち溢れていた。そしてその瞳が持つ眼力は、大妖怪の鞍馬天狗の心をも
躍らせた。
「ふふっ、そうか……ならばこれを使え」
沙経は自らが所有する最強の妖刀、村雨を天魔に投げ渡した。
天魔は村雨を手にした瞬間、自分が恐怖を感じていると分かる程、底知れぬ強
大な妖気を感じ、同時にブラックホールに飲み込まれるような感覚にも陥った。
「こいつ……確かに人間が扱うには、過ぎた代物かもな……愛、悪いがこの体、無傷
で返せないかもしれない」
天魔は村雨より伝わってくる、無限に尽きることのないような妖気の大きさに
気圧されていた。そして村雨を使うにあたり、決して弱気になっているわけでは
なかったが、体の持ち主である愛に、そう言わざるおえなかった。それ程に村雨
の力は想像を絶していた。
「大丈夫だよ、テンちゃんなら。私は何も心配してないから、思いっきり戦って
いいよ」
愛は一点の曇りもない満面の笑顔を見せ言った。
「その笑顔はやめろ。更に内股もやめろ。気分悪い」
天魔はチラっとだけ愛の方を見て発した。
「うむ、激しく同意するぞ。まことに気色悪い」
「二人とも酷いよ。私がどれだけ恥ずかしくて嫌なのか、全然わかってない」
天魔の体でなかったならば、愛の見せた笑顔は春の木漏れ日の如く、優しく
温かい、癒されるものだった。しかし、何も知らない者が見たのなら、天魔の顔
であってもその笑顔は、同じような印象と効果があっただろう。
「それより沙経、いいのか、本当に使っても」
「戦うというのなら仕方がない。だが覚えておけ、村雨は時として、使い手の生
命力や敵の力をも食らい尽くし、思いもよらぬ特殊な能力を発動させる場合があ
る。その結果、死ぬこともあるだろう。そうなる前に勝負を終わらせるのだ」
「あぁ、分かってる。長引かす気はねぇよ」
天魔が村雨を鞘から抜き放つと、村雨からドクンという鼓動のような感覚が天
魔の全身に伝わった。それは村雨が、天魔を自らの使い手として認めた証といえ
る。もしも拒絶されれば、刀身を鞘から抜き放つ事さえできないだろう。そして
抜刀と同時に、刀身から凄まじい妖気が爆発するように噴き出す。その妖気は闇
そのものといえる程まがまがしく、まるで漆黒の炎のようだった。
天魔は鞘を沙経へと投げ渡し、暴れ狂う闘牛の角を持って押さえ付けるように
両手で力一杯に村雨を持ち構えた。しかしそれでもまだ、村雨を持て余している
感じだ。
「鬼熊よ、聞いての通りだ。相手はこの天魔がする。もしもこの者を倒せたら、
どこえなりとも行くがいい」
沙経たちはその場に天魔と鬼熊だけを残し、妖狐の倒れている所まで退く。
「お前たち、死にたくなかったら、私の側から離れぬことだ。ヘタしたら鬼熊に
ではなく、天魔に殺られるぞ」
沙経は腕を組んで仁王立ち、鬼熊と対峙する天魔の背を見詰めながら真面目に
言った。
「もしかしてテンちゃん、アレをやるつもりなの?」
愛は沙経の言葉で何かに気付き、少し困惑した表情を浮かべる。
「天魔のあの目、恐らく金色明王で決着をつけるつもりだ。本来なら簡単に倒せ
る相手ではないが、あそこまで深手を負った状態の今なら、金色明王を使えば、
互角に戦えるかもしれない。まあ体と魂に負担はかかるが、まずは勝って生き残
ることだな」
「金色明王……確か天野家の人間の中でも、ごく稀にしか使える者が現れないとい
う伝説の秘奥義、と聞いたことがあります」
優樹が徐に口を開き言った。
「ほう、よく知っておるのぉ。だが今はまだ未熟なため、魂を入れ替えている状
態でしか使えないがな。しかも完全ではない」
「ねぇ沙経様、それってどんな術なの?」
薫はいつの間にか沙経の傍らに移動しており、蛇が巻き付くようにがっしりと
腕をからめ密着した。
「ぬおっ⁉ くっつくでない‼」
「なにさ、今さっき側を離れるなって言ったじゃない」
「貴様だけは例外だ‼」
「男が一度口にしたことを覆すなんて、女々しいわよ」
「誰もくっつけとは言っておらんぞ。えぇい、放せというのが分からんのか」
「もう、仕方がないわね。照れ屋さんなんだから」
薫は捕まえた獲物をハイエナに横取りされて名残惜しそうに去っていくチータ
ーの如く、渋々にだが手を放した。しかし離れぎわに強烈なウインクを飛ばす。
沙経は弾丸のようなウインクの直撃をまともに食らい、寒気を感じるとともに
物凄く気持ち悪くなった。
(なんという恐ろしい技だ。この私が避けられんとは……当分の間、口寄せは拒絶
することにしよう)
沙経は胸の内で真剣に考えていた。しかし大妖怪をも畏縮させてしまう薫の存
在感は、宗家の力並みに底が知れない。
「話がそれてしまったが、まあ見ておれ。話はその後だ」
そう言った後の沙経の顔には、悪戯っ子が悪さを企んでいる時に見せる意味あ
りげな笑顔が浮かんでいた。
五メートル程の距離で対峙した天魔と鬼熊は、その場からまだ一歩も動かず、
互いに全身から発する強大なオーラと妖気を激突させ、仕掛けるタイミングを計
り牽制しあっている。だが鬼熊の方は、既に負っているダメージが大きいうえに
天魔の強さが本物であることに気付いていたため、不用意に動くことができなか
った。しかしこの時、何故か鬼熊は怪訝そうに、愛の体を使っている天魔の顔を
凝視していた。
「……お前はあの時の……どうりで額の傷が疼くわけだ」
鬼熊は既に全身傷だらけであったが、その額には古傷と思しき大きな刀傷があ
った。だが古傷といっても完治はしておらず、かさぶたができる前の傷のように
血がにじんだ感じだった。
「なに訳の分からないこと言ってやがる。さっさとかかってこいよ」
「この傷の恨み、いま何倍にもして晴らしてくれる‼」
先に仕掛けたのは鬼熊だった。意を決して、という感じではなく、怒りで理性
を失ったように、感情剥き出しの状態である。
鬼熊は、巨大な軍艦の主砲から発射された砲弾の如く一直線に突撃すると、瞬
間移動したと見えるほど早く間合いを詰めた。
天魔は眼前まで迫られても、その大きさと、妖狐とは比べものにならぬ圧倒的
な威圧感に臆する事無く、逃げる様子も見せず微動だにしない。
鬼熊はその巨体からは想像もつかぬ程の俊敏さで立ち上がり、ほぼ同時に、鉄
でも簡単に切り裂いてしまうだろう、麦を刈る大鎌の如き巨大な爪を繰り出す。




