第四章 「エクスチェンジ」 その参
因みに印とは、両手の指を組み合わせ、様々な形を成したものである。主に使
われている印は五十種類程だが、実際は三百種類あると言われていた。謎とされ
ている印は多く、霊界から力と人間性を認められたごく一部の者にだけ伝えられ
る。それらの印を使えば、神々の力をその身に宿し、超人的な強さを得ることが
できると伝えられていた。
「ナウマク・サマンダボダナン・ベイシラマンダヤ・ソワカ‼ 口寄せっ、鞍馬
天狗‼」
素早く準備を終わらせた愛は、今から召喚する者専用の印を結んだまま、真言
と称される呪文を唱えた。その瞬間、煙の中から大妖怪、鞍馬天狗が現れる。
その者は、白と黒、それに鮮やかな瑠璃色で構成された山伏姿であり、その上
には桜や菊、牡丹に椿といった様々な花柄の入った艶やかな着物を一枚羽織って
いた。身長は190ぐらいはあり、腰には日本刀を携えている。しかし妖怪とい
っても見た目は人間の男性と何ら変わらない。深い青色の長い髪は腰まであり、
後ろで束ねている。瞳も青く肌は色白、顔は人間で言うところの美形で、表情は
とても穏やかだ。だが表情とは違い、力を高めていない普通の状態であっても、
威厳ある存在感は途轍もなく、その場にいるだけで凄まじいプレッシャーを放っ
ている。
「ふんっ、この私を呼び寄せるからには余程の相手かと思えば、たかが狐ではな
いか」
鞍馬天狗は妖狐を見て鼻で笑い飛ばす。大妖怪である鞍馬天狗にしてみれば、
妖狐などザコ以外の何物でもなかった。
今は人の姿だが、鞍馬天狗が戦闘態勢に入れば、その穏やかな顔は憤怒へと一
変し、背中には天使の如く猛禽類の一対の翼が現れ、天狗本来の姿へ変身する。
変身後の鞍馬天狗の神通力は、神々の住まう山である、須弥山にいる天たちに匹
敵すると語られていた。古くからの伝承では、鞍馬天狗は毘沙門天の夜の姿だと
も言われている。
「沙経ちゃん、妖狐の動きを止めて」
愛は鞍馬天狗のことを沙経という名前で呼んだ。
「……愛よ、天魔の体でお前に呼ばれると、相変わらず気色悪いな」
沙経は愛を見て苦笑いしながら言った。
「沙経ちゃん‼ そのことは言わないでよ。恥ずかしいんだから」
愛は天魔の体のまま、恥ずかしそうにモジモジした。
「だからそれが気色悪いって」
沙経が言った瞬間、愛は沙経の脇腹にパンチを入れた。沙経は「ぐえっ」とい
う苦痛の声を漏らし前のめりになる。
「愛、天魔の体だということを忘れるな。今のは本気で痛いぞ」
沙経は声を震わせながら苦しそうに発した。
「それよりも早くやってよ。またテンちゃんに怒られるから」
「仕方がない奴だ。動きを止めるだけでよいのだな。しかし天魔の奴、わざわざ
魂を入れ替えているのに、随分と手加減して戦っているな。あれでは倒せるもの
も倒せんぞ」
沙経は羽団扇を取り出し、立ちこめる煙り目掛けて軽く振り下ろす。
神通力を帯びた羽団扇から繰り出された風は、強烈な突風と化し、辺りを覆っ
た煙を一瞬で吹き飛ばした。
妖狐は沙経の存在を確認しても臆する事無く、辺りを覆いつくす燃え盛る業火
を吐き出す。天魔は素早く後退し、沙経の側へと移動する。余裕の表情で迫りく
る炎を見詰める沙経は羽団扇を高くかざし、斜め下に軽く扇いだ。
羽団扇より巻き起こされた風は竜巻を作り出し、迫りくる炎を全て巻き込んで
ゆき、いとも簡単に蹴散らす。更に沙経がひと扇ぎすると、眼前の竜巻は巨大化
し、凄まじい勢いで妖狐を巻き込む。
神通力を帯びた竜巻の中心部に捕らえられた妖狐は、吹き飛ばされぬように巨
大な爪を地面にめり込ませ踏ん張っている。
しかしパワーアップした妖狐の動きを容易く止めてしまうとは、流石に大妖怪
と称される鞍馬天狗であった。余程の実力差がなければ、こうも簡単に敵の動き
は止められない。
沙経はすんなりと愛の願いを聞き入れたが、その性格は気まぐれであり、本来
は命令に従わないことが多い。それは天魔と愛の力をまだ完全には認めてないか
らだ。二人の現在のハンターレベルでは、鞍馬天狗を口寄せすることは普通でき
ない。だがエクスチェンジという奥義を修得したことで、特例として召喚に応じ
ていた。とはいえ、妖怪の中でも最上級の鞍馬天狗と口寄せの契約を交わすだけ
でも、ハンターの世界では奇跡に等しい凄い事だった。
そして逃げ場のない状態で妖狐の動きが止まった瞬間、天魔は容赦なく御雷の
引金に力を入れる。放たれた金色の光線は妖狐に直撃すると大爆発する。この時
妖狐が光線を躱せないタイミングで、攻撃の邪魔にならないように、沙経は竜巻
を消滅させていた。
「これで終わりだな」
天魔は爆発を見詰めクールに発したが、愛の可愛い顔と声では様になっていな
い。
戦闘終了を確信している天魔は、口寄せの念を解除する。役目を終えた御雷は
煙に包まれ姿を消す。それに合わせるように、愛は天魔に装備させていた巻物を
回収した。
爆煙が晴れるとそこには、大ダメージを負って完全に沈黙している妖狐の姿が
あった。だが死んではいない。天魔は愛との約束を守り、ちゃんと手加減してい
た。もしも天魔が本気で攻撃していたなら、炎天下に放置された氷像が跡形もな
く溶けて消滅するように、妖狐は肉片一つ残さず確実に死んでいただろう。
「三本尾の狐が相手では、勝っても何の自慢にもならんぞ。だがお前たちのハン
ターレベルとやらを上げるには、ちょうどいい相手というところだな」
沙経は腕組みをして顎の辺りを触りながら偉そうに言う。
「別にそういうつもりで戦ってたんじゃないもん」
愛は不服そうに拗ねるが、天魔の体と声では気色が悪いだけだった。
「しかし愛よ、お前の体が着ている服は、なかなか色っぽいな。天魔が動くたび
にパンツがチラチラと見えていたぞ」
沙経が言った瞬間、愛は沙経の尻に蹴りを入れた。
「このエロ妖怪‼ 天狗ってみんないやらしいんだから。もう最低だよ」
「相変わらず冗談が通じない奴だな。私がお前のようなガキのパンツを見て欲情
するか」
沙経は本気で痛がりながらお尻をさすって、拗ねるように発した。
「まったく、この私に蹴りを入れるとは、神をも恐れぬ所業だぞ。世界中探して
も、そんな無茶をするのはお前ぐらいだ。それにだ、次に呼び出すときは、もっ
と強く骨のある奴が相手の時にしろ。私も最近は退屈しているのでな、直々に戦
ってやらんこともないぞ」
沙経はクドクドと愚痴っていたが、愛と天魔は既に妖狐の側へ移動してその場
には居なかった。沙経は一人置き去りにされ、独り言を発していたことになる。
「ほったらかしかっ‼ ねぇなに、なんなのこの放置プレイは。私をわざわざ呼
び出しておいてなんて奴なんだ。ねぇSなの、愛ちゃんはドSなの?」
沙経は怒っていたが、明らかに恥ずかしそうである。
その恥ずかしい様子を全て見ており、笑いを我慢している者が二人いた。それ
は結界によって動けないでいる優樹と薫だった。二人に気付いた沙経は、瞬間移
動張りに素早く、優樹たちの後方へと回り込む。
「お前らぁぁぁ、なーに笑ってる」
沙経は険しい顔で脅す感じにゆっくりと発する。
「いやん、何も見てませんわ。それにしてもイイ男ね」
薫はバレバレの白を切り、天魔を悩ませている必殺のウインクを飛ばす。
「うおっ⁉」
弾丸の如く勢いよく放たれた薫のウインクを、沙経は直撃寸前で身をよじり躱
した。
「いきなりなんちゅう恐ろしい攻撃をしおるか‼」
「あら失礼ね、私の愛がこもったウインクを避けるなんて。こんなに惚れさせと
いてどういうつもり。あっ、分かったわ、この穢れを知らないナイスバディな体
を弄ぶつもりね」
薫は沙経を見詰めながら、いつもよりも更に妄想を暴走させクネクネした。
「ええぇーい、この大男、何を訳の分からぬことを言っておる‼ 誤解されるよ
うなことを言うでない。私は断じてそっち系ではないぞ」
「いいのよ、そんなに照れなくても。二人の事は内緒にしてあげるから」
「ぬおおおおおおっ‼ なんなんだこいつは⁉」
沙経は頭を抱えて悶える。
(ある意味、薫さんの妄想から放たれる言葉は、一つの術と言ってもいいのかも
しれませんね。効果がある人には、まさに呪いの呪文ですから)
優樹は心底から楽しんで微笑み、そんなことを考えていた。
「この私をここまで追い込むとは……。ふんっ、まあいい。どうやら仲間のようだ
し、ついでだ、動けるようにしてやる」
沙経は薫の精神攻撃からなんとか立ち直ると、羽団扇を振るい、神通力を帯び
た竜巻を作り出す。竜巻は光の柱を上げている魔法陣を包み込み、その光の柱を
粒子のように細かく砕き打ち破った。
「まあステキ。これはお礼よ」
結界が消え動けるようになった薫は、沙経にキスをしようとする。
「ぐわあぁぁぁぁっ⁉ やめろっ‼ 私はそっち系ではないと言っただろう」
沙経は寸前で薫の顔を押さえ込み逃れた。
「何を照れてるの。遠慮しなくていいのよ」
薫は唇をタコのようにして、力付くでなおも顔を近付ける。
沙経は側に居た優樹に助けを求め手を伸ばしたが、優樹は微笑むだけで、すぐ
に見て見ぬ振りをする。
薫は無理矢理にだが、沙経の頬にキスする事に成功した。それにしても、鞍馬
天狗の力を押し切るとは、やはり薫のお姉パワーは恐るべしであった。
ナメクジが頬を這うかのようなヌメっとした気色悪いキスの感覚によって、沙
経は燃え尽きた灰の如く白くなって放心状態に陥る。数々の修羅場をくぐり抜け
てきた大妖怪の沙経であっても、ある意味これ程まで屈辱的で強力な攻撃は受け
たことはないだろう。しかし天魔と同じで、何故か薫には逆らいきれない沙経で
あった。
「おい女、見て見ぬ振りをする事は、見ない事よりも罪深い、という言葉をその
胸に刻み付けておけ」
沙経はグロッキー状態で優樹の肩を掴み、薫には聞かれないように重々しく発
した。
「はい、素敵な言葉ですね、肝に銘じておきます。でも私、男ですよ」
優樹は白々しい満面の笑みを浮かべ言った。
「なにぃぃぃぃぃぃっ⁉ マジか、マジでか⁉ アレとかアレ付いてんの?」
「まあ男ですから普通に。それが立派かどうかは分かりませんけど」
優樹は意味ありげな笑みを口元に浮かべて見せる。
「もしやこれが噂に聞く男の娘というやつか……うーん、女にしか思えんな。何
とも恐ろしい世になったものだ。しかし、同時に面白くもある」
マジマジと上から下まで凝視した後、沙経は優樹の頭に鼻を近付けクンクンと
匂いも嗅いで確かめると、なにやら感心していた。
「それより、この不完全な空間はなんだ。強い力がぶつかり合えば、空間そのも
のがねじまがって異変が起こりかねんぞ。何度も大惨事を起こしているくせに、
霊界も中途半端な世界を作りおって。まあ私の知ったことではないがな」
沙経はふと我に返ったように辺りを見渡しながら言った。
その頃、天魔と愛は妖狐の側にいたが、例の狐面の男も姿を現していた。
「お前は誰だ。いったい何が目的か答えろ」
天魔は睨み付けているが、愛の顔では全然迫力がなかった。
「まあ、名乗るぐらいはいいだろう。私は秘沖、そう覚えておけ。それよりも、
私の育てた妖狐を容易く倒すとは、思っていたよりやるじゃないか。しかしこう
もこいつが役に立たないとはな。いや、お前たちの術を色々と引き出し、この目
で見れたという点では、少しは役に立ったか。だがもう用済みのおもちゃだ、殺
してくれてよかったものを」
面の男は自らを秘沖と名乗った後、弱っている妖狐を容赦なく踏みつけた。
「やめてっ‼ なぜそんな酷い事ができるの。この子は戦いたくもないのに、あ
なたの命令に従ったはずでしょ」
愛は怒りで、拳をブルブルと震わせるほど強く握り締めた。
「ほう、まるでこいつの心が分かるみたいに物を言うな」
「私には分かる。この子が本当は優しくて、人間に危害を加えるような邪悪な妖
怪じゃないことは」
「それほど気に入ったのなら、いい事を教えてやろう。この妖狐に掛けた傀儡の
術は、私が死んでも解けることはなく、いつまでもハンター達を襲い続ける。ま
ったく憐れだな、糸が切れても意のままに動く操り人形とは。だが一つだけ解放
される方法があるぞ。それはこいつが死ぬことだ」
秘沖は今も妖狐を踏みつけながら、狂気に満ちた笑い声を高らかに上げた。
「命を弄ぶなんて絶対に許せない‼」
戦いを好まない温厚な愛が、あまりの怒りでキレる。
愛は全身からオーラを放出すると、胸のホルスターから銃を引き抜き、いきな
り問答無用で金色の弾丸を秘沖に撃ち込む。
「そんな子供騙しの攻撃が、通用するとでも思っているのか」
秘沖は銃口の位置と引き金を引くタイミングを見極め、弾丸を難なく躱す。
愛は攻撃を見切られていることなどお構いなしに、我を忘れ弾丸を連射する。
しかしそんな雑な攻撃を続けても、百戦錬磨の兵たる秘沖に当たるわけがない。
この時、秘沖はまだオーラを出していなかった。防御壁ともなるオーラを秘沖
が出さないのは、完全に愛を舐めているからだ。
「せっかく伝説の大妖怪を口寄せしたんだ、助けてもらったらどうだ」
秘沖は愛の攻撃を余裕で躱しながら、沙経の方をチラっと見て言った。
薫の熱いキスでグロッキー状態にあった沙経だが、なんとか復活し、優樹と薫
を引き連れ既に天魔と妖狐の近くにいた。
秘沖は大妖怪の鞍馬天狗を見ても恐れる様子はなかった。更に一対五という絶
対的不利な状況にありながら、面の下では不敵に笑みを浮かべている。それ程に
自分の強さに自信を持っていた。
「ふんっ、私はお前ごとき小物の相手をするほど暇ではないぞ。その子だけで十
分すぎる」
沙経は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「言ってくれるじゃないか、天狗さんよ。子供の頃から一度は会ってみたいと、
いや、戦ってみたいと思っていた。だが様々な最強伝説を、全て信じたわけじゃ
ないぜ。どうも胡散臭い部分が多いんでな」
秘沖は馬鹿にされても怒った様子もなく冷静である。そして沙経と喋りながら
銃撃だけでなく、接近しての格闘攻撃も子供をあやすぐらい簡単に躱し続ける。
「自覚していないようだが、お前は間違いなく小物だ。とりあえずその子を舐め
ていると死ぬぞ。この私と口寄せの契約を結んでいるのは伊達ではない」
「そこまで言われれば、その伊達ではない力を見てみたいものだ」
「ならば試してみろ。まあ、勝敗は既に決まっているがな。お前がトンでもない
失敗をした時から」
沙経は意味ありげに含み笑う。
「失敗だと……」
秘沖はさすがに頭にきていた。だがまだ冷静さを失う程ではない。
「その子を怒らせてしまったことが、お前の最大の敗因となる」
「ふんっ、なにかと思えば戯言を言いやがって。逆に後悔させてやる」
秘沖は一気に霊力を高め全身から紫色のオーラを放出する。沙経の挑発に乗せ
られ、どうやら本気で戦う気になったようだ。そして余裕を見せているだけあり
そのオーラは寒気がするほど凄まじい。
「沙経、あまり挑発するな。愛がやりにくくなる」
天魔は面倒臭そうな表情で言った。
「まあいいではないか、本気を出させた方が面白いだろ。天魔もここで一緒に見
物していろ。あの状態なら一人で十分だ。あいつはキレると本当に怖いからな。
ありゃ発狂したゴリラだぜゴリラ」
「確かに多少は手加減というものがなくなる。普段おとなしくて我慢している分
こういう時に爆発させて、全部吐き出しやがるからな。まあキレていても本気は
出さないだろうけど」
天魔は自分の体に入っている愛を見詰め苦笑いした。
「しかしあの男、いつまでも舐めていると、本当に死ぬかもしれんな。いや、た
ぶん死ぬな、あれは」
沙経は微笑みながら無責任に言う。
「そうなる前に止めるさ。愛にはまだ、人間を殺させたくはないからな」
天魔は悲哀じみたなんとも複雑な表情を一瞬だけ見せた。
「それよりどうだ、この戦いが何分で終わるか賭けよう。私は四分から五分の間
に賭けるぞ」
「あのなぁー」
天魔が呆れた声を出す。因みにこの瞬間も、愛と秘沖は戦っており、相変わら
ずキレている状態の愛が、怒りにまかせて怒涛の攻撃を仕掛けていた。
「それでは私は、八分から九分の間に賭けますよ」
軽い口調で微笑み言ったのは優樹だった。
「うーん、それじゃあ私は九分から十分の間に賭けるわ」
続いて言ったのは薫である。
「おっ、なかなか話が早い連中だな。天魔はどうする?」
「……それなら、六分から七分の間かな」
結局、天魔も賭けに乗った。
「よし、じゃあ負けた奴は勝った者の願いを何でも一つ叶える。分かったな」
沙経は本気の戦いをゲーム感覚で楽しみ、子供のようにはしゃいでいた。
「それでは私の時計で計りましょう。今からスタートでいいですね」
優樹は腕時計の機能に付いている、ストップウオッチのボタンを押す。
沙経と天魔たちがくだらない事を話している間に、愛と秘沖の戦いは激しさを
増していた。そして二人はこれから、人知の及ばぬ途轍もない攻防を繰り広げる
ことになる。




