第四章 「エクスチェンジ」 その壱
妖狐と戦った日から何事もなく三日が過ぎていた。この間、弱い悪霊たちは昼
夜を問わず襲ってきていたが、妖怪などは現れておらず、天魔と愛の出番はなか
った。
その数日間、二人は他の生徒たちと同じように授業を受け、学園生活をともに
過ごす。まだ僅かな時間であったが、それでも穏やかな日々は二人の心を随分と
癒し、自然と柔らかい笑顔を見せるようになっていた。それは微妙な変化だが、
周りにいる者たち全員が強く感じている。
普段クールな天魔が偶に見せる笑顔は、不器用な感じで少し堅くもあるが、迷
える者たちを引き寄せ導くような、そんな暖かさと力強さがある。更にその立ち
居振る舞いには、世が世なら、一国の王者たる風格すら垣間見えた。
恥ずかしがり屋で人見知りする愛の笑顔には、怒りや悲しみといった強い感情
さえも取り除き、周囲を穏やかにする力がある。そして他人の痛みを自分の事の
ように受け止める、慈愛の力が宿った優しい心を持っており、天魔とは違った感
じの指導者たる雰囲気さえも兼ね備えていた。
とにかくこの兄妹には、種類は違うが人を強く引き付ける、生まれ持ってのカ
リスマ性がある。意識していない本人たちにしてみれば、その笑顔一つで、傀儡
の術でも使ったように、人を自在に動かす事ができるなど、今はまだ考えもつか
ないだろう。だがこのカリスマ性を悪用しようとする者たちが、これから先、後
を絶たないはずだ。故に、精神的にまだ未熟な二人に対する霊界の監視は、その
期待の大きさの分だけ強まってもいく。
そして今日も妖怪などは現れず、いつも通り平穏に、全ての授業を終えた。
放課後のマン研の部室には、薫と愛、それに優樹もいる。優樹は軽音楽部の部
長だが、薫に連れられマン研に居ることの方が多い。無論、天魔も薫に連行され
捕虜のようにマン研の部室に囚われている。
部室の中央には長テーブルが二つくっつけて置いてあり、部員はパイプ椅子に
座っている。後は本棚やロッカーがあるだけで、貧乏部丸出しでさっぱりしてい
た。
因みに優樹は生徒たちとの約束通りに、三年女子の制服を着ており、髪型もツ
インテールにしている。しかし男だというのにまったく違和感がないことに、天
魔は怖さを感じていた。
優樹は手足に毛がなくつるつるで、体つきまで女性のようであった。特にお尻
から太もも辺りのむっちり感は完全に女といえる。胸にはパットを入れているの
か、ちゃんと膨らみもあり、Fカップぐらいの巨乳になっていた。
そんなアイドル張りに可愛い優樹を見て、偶にドキっとしてしまう自分にも、
天魔は怖さと情けなさを感じている。だが優樹の女装は何かしらの術を使ったよ
うに完璧であり、全校生徒が萌えているのだから、天魔が特別に変態紳士の素質
があるわけではないだろう。
「そういえば確認するの忘れてたけど、制服だけじゃなく、ちゃんと下着も女物
でしょうね。優樹といえども中途半端なコスプレは、私が許さなくってよ」
徐に口を開き薫が言った。
「勿論ですとも。ちゃんと女子の下着ですよ」
「本当に? じゃあ天魔君、ちょっとスカートめくって確かめてみて」
予期せぬ薫の指令に、天魔と愛は飲んでいたお茶をブハっと同時に吐き出す。
「おっ、おお、俺がですか?」
「そうよ。男同士なんだから問題ないでしょ。優樹も別にいいわよね」
「えぇ、よろしくってよ」
優樹は悪ノリして女言葉を使い、ずいっと天魔の傍による。
「さぁ、どうぞ。でも、初めてなので優しくしてくださいね」
優樹は後ろで手を組んでモジモジと恥ずかしがる演技をしてみせる。それがあ
まりにも可愛かったため、天魔は赤面してどぎまぎした。
「ふふふ、冗談ですよ。そうですよね、薫さん」
「まあ、今日はそういうことにしておこうかしら。でも慌てふためく天魔君も可
愛いわぁ」
薫はクネクネしながら恒例の変態妄想を始めていた。
「皆さん、ご機嫌いかが?」
そう言って部室のドアを開けたのは、マン研の顧問で理事長の美雪だった。今
日の美雪は三年生の制服を着ており、その艶かしい体からは、熟れた果実のよう
な甘い匂いが放出されていた。
美雪は透かさず天魔の横に座り、必要以上に密着する。勿論反対側には薫が陣
取り密着する。そのなんとも面白い光景を見て、優樹は心底楽しんでいる。被害
者と言うべき天魔は、なんとか逃れるすべはないものかと、真剣に考えている。
天魔は正面に居る優樹を見て「なんとかなりませんか、この状況」といった感
じのことを声には出さずアイコンタクトで伝えた。優樹は言葉を交わしたように
天魔の意思を理解すると、口元にいやらしい笑みを浮かべた。それは脱出不可能
を意味する優樹なりの答えだった。
(この人、さっきから絶対楽しんでるよ。何故だかこの状況が全て計算されてい
るように思える。これは被害妄想なのか……いや、俺はこの人には騙されんぞ)
天魔は左右と正面、三方向からのプレッシャーに弄ばれながら、胸の内で何や
ら葛藤していた。とにかく優樹の手の平の中で踊らされている感は、日に日に強
まっていく。
「ねぇえ、天魔君、これ見てこれ」
美雪は色っぽい声で甘えるように発し、自分のコスプレ姿ばかりを撮った分厚
いアルバムをロッカーから出して見せた。
コスプレ写真はどれも肌の露出度が高く、見ようによっては卑猥なだけの際ど
い衣装ばかりである。
「どのコスプレが好き? 天魔君には特別に、二人きりで本物を見せてあげるか
らね。その後はもっと凄いものも見せてあげちゃう」
美雪は天魔の頬にしなやかに手をやると、自分の方を向かせ言った。天魔は思
わず顔を赤らめ下を向く。だが目線の先には、意図的に大きく開けられた胸元よ
り、はち切れんばかりの巨乳が待ち構えていた。
天魔は美雪の巨乳に圧倒され、恥ずかしそうに素早く目線を外したが、思わず
一度だけチラ見をしてしまった。
天魔の視線に気付いていた愛は、険しい顔で頬を膨らませ拗ねている。それか
ら自分と美雪の胸を二回ほど見比べた後、すぐに惨めな気持ちになっていた。
「この変態理事長‼ そんな下品なエロ写真、天魔君に見せないでよ。目が腐る
じゃないの。って言うかそれ、もうエロ本でしょ‼ でっかい乳輪見えてるじゃ
ないの」
薫は鼻息荒く言い放つと、美雪のアルバムの上に、更に分厚い自分のコスプレ
アルバムを負けじと置いた。
薫のアルバムを見た瞬間、天魔の顔は引き攣る。とてもじゃないが凝視できる
代物ではなかった。ある意味では罰ゲームである。
「私の方が全然イケてるでしょ、天魔君」
薫は鈍器レベルの異常に太いアルバムを、ページごとに丹念に見せていく。
(いったい俺が何をしたと……何故これほどの拷問を……)
天魔は苦笑いを見せながらも耐えていた。と言うより脱出不可能なため、耐え
るしかなかった。これも精神を鍛える修行と思えば、などと無理矢理に思う憐れ
な天魔である。そして戦いの時ですら滅多に見せない冷汗をかいていた。
その後も相変わらず、美雪と薫の子供レベルの口喧嘩は続き、まったく部活ら
しい活動をせぬまま、騒がしくもまったりと放課後は終わる。
やっと解放された天魔は、安堵の溜め息を吐く。
「慣れですよ慣れ。でもほんと早く慣れないと、これからがもっと大変ですよ。
この学園はイベントが異常に多いですからね」
優樹は部室から出たところで、天魔にだけ聞こえるように囁き、去り際に、意
味ありげな含み笑いを残していった。
(慣れる? 慣れるものではないような気がするが……)
天魔は胸の内で思い、美雪とまだ言い争っている薫の方をチラっと見た。その
瞬間、薫は動物並みの直感で視線に気付き、すぐさま振り向くと、気色悪いウイ
ンクを飛ばす。それを回避できず直撃を食らった天魔は、ガクっと膝にきて倒れ
そうになる。
愛は普段見れない天魔の情けない姿が面白くて、我慢できずにクスっと笑い、
楽しそうにしていた。
二人はそんなのんびりとした平穏な日々を過ごしていたが、それは束の間の休
息でしかなく、二人が背負う宿命は、容赦なく修羅道へと導くはずだ。
その夜、ついに穏やかだった日常に終止符が打たれる。例の妖狐が学園へと襲
来し、既に結界の中で天魔たちが来るのを待ち構えていた。
深夜に職員から報告を受けた優樹は、霊界から派遣されているハンター達には
任せず、いつもの四人で結界内へと向かう。因みに四人とも、夜中だが制服姿で
集まっていた。
結界内は現実世界と同じ時間の流れであり、闇が支配する空には満月と夥しい
数の星たちが煌めいている。そしてランダムに送られた場所は、この間と同じ噴
水のある広い中庭だった。その周辺は、鳥肌が立つほどの凄まじい妖気で充満し
ている。
四人の気配を逸早く感じ取った妖狐は、狂暴な唸り声を発し、月を背に姿を現
す。
「……数日前とは別の妖怪と思えるほどに、妖気が上がっている」
妖狐の異常なまでのレベルアップは誰の目にも明らかで、優樹は激増した妖気
に気圧されるように険しい表情を見せる。
「また多くの犠牲者がでたようね。恐らくハンタークラスの強い霊力を持った者
の魂を食らったのね」
薫は珍しく真面目な顔で言ったが、すぐに「こわーい」と甘えた声を出し、ク
ネクネしながら天魔に寄り添った。
(ほんとこの人は緊張感ないな。どこまでが本気なんだか……)
天魔は表向きクールな表情を崩さず、胸の内で呆れた。
「愛ちゃん、今も妖狐の慟哭とやらは感じますか?」
優樹が尋ねる。
「……いえ、感じられません。いま伝わってくるのは、とても激しい怒りと憎しみ
が集まり固まった、邪悪な意志だけです」
愛は悲哀じみた目で妖狐を見詰め、弱々しく答えた。既に妖狐の心は完全に狂
気に支配されている。
「それならもう情けをかけるなよ。お前が本気で戦えば、手ごわい相手じゃない
んだ。それに犠牲者が出たのは誰のせいか分かっているな。倒せる時に倒さない
からこうなる」
天魔は愛にとっては酷な事を言った。しかしその言葉は道理にかなったことで
あり、同じ悲劇を繰り返さないためにも、敢えて誰かが言わねばならなかった。
愛は自分の甘さが招いた不幸をちゃんと理解しており、涙を潤ませながらも天
魔の言葉に頷いて答えた。だがそれでも愛は完全に吹っ切れていない。前回の戦
いの時に伝わってきた、深い悲しみこそが妖狐の本当の心だと思っている。
妖狐は既に戦闘態勢にはいっており、牙を剥き出しヤマアラシの如く毛を逆立
て、更に妖気を高めていく。
「皆さん、恐らく面の男もどこかに居るはずです。そちらも警戒しておいてくだ
さい」
「分かりました。今度は奴も逃がしません」
天魔が言ったその時、妖狐が先制して襲い掛かってくる。
四人はそれぞれに躱すと一旦距離を取った。
「今日は私も戦っちゃうわよ」
薫は黄昏時の空のように鮮やかなオレンジのオーラを全身から放出すると、稲
妻が地を駆けるかの如く、その大きな体からは信じられぬほど素早く動き、一気
に間合いを詰める。そして両手にオーラを集中させると透かさず拳を繰り出す。
他に気を取られていた妖狐は意表を突かれ、回避できず横顔に直撃を食らうと
物の見事に吹き飛んだ。だがパワーアップしている妖狐は数メートル程のところ
で踏み止まる。
しかし薫の攻撃は、拳にオーラを纏わせていたとはいえ、ただのパンチであっ
た。それにもかかわらず、凄まじい威力であった。パワーアップ前の妖狐なら、
可なり大きなダメージを負っていただろう。
「随分とお強いですね……薫さん」
天魔は唖然としながら思わず呟く。普段からハードな鍛錬を行っている天魔か
ら見ても、術を使わず格闘だけで、これ程のパワーが出せるのは驚きであった。
因みに、天魔と愛は優樹と薫のことを名前で呼ぶようになっていた。だが薫の
場合はほとんど強制的に呼ばせている。
妖狐にダメージはなく、すぐに体勢を立て直すと、狙いも定めず燃え盛る炎を
何度も吐き出す。
凄まじい炎は周りに立ち並んでいた桜にも襲い掛かり、花や枝を一瞬で灰へと
変え、キャンプファイヤー状態にした。
四人は炎を難なく掻い潜り、今の間合いを保つ。この時、愛も一見はやる気を
見せており、攻撃を繰り出せる態勢にあった。
天魔は巻物を二つ取り出しオーラを纏わせると、透かさず妖狐へ投げ広げる。
優樹と薫は逸早く天魔の狙いに気付くと、妖狐の気を引いて隙を作るために、
ほぼ同時に間合いを詰める。二人はその場の状況に応じて瞬時に自分がやるべき
事を理解し実行したが、それは簡単なことではない。やはりこの二人が、戦い慣
れた兵であるのは間違いなかった。
放たれた巻物は天魔の念に反応すると際限なく伸びていき、獲物を狩る大蛇の
如く飛び掛かった。そして優樹と薫の機転のお陰で生じた隙を突いて、造作なく
妖狐の全身に巻き付き捕獲する。更に強力な電気を発生させ、妖狐の動きを完全
に止めた。
だが妖狐は強烈な雄叫びを上げながら、レベルアップした凄まじい妖気を放出
し、全身に巻き付いている巻物を、ゆるんだ包帯でも剥ぎ取るように容易く弾き
飛ばす。
天魔は少し険しい顔を見せたが動じる事なく、一旦巻物を手の中に巻き戻す。
しかし数日前には動きを数秒は止めていた術が通用しないとは、妖狐の新たなる
力は、天魔たちの予想を遥かに上回っていた。




