序章
「もう悪霊は残ってないみたいだな」
獲物を狩る野生の猛獣の如き鋭い目付きで周りを
見渡し言ったのは、まだ幼い男の子だった。
「うん。でも何か嫌な感じがする。何だろう、この
感覚……」
返事をしたのは、内気でおとなしい感じに見える
同じ年頃の女の子だ。大きな瞳が特徴的で、子犬の
ように可愛い顔をしていた。
二人は青と黒を基調とした山伏のような服装であ
り、容姿に似つかわしくない脇差よりも短い日本刀
を持っている。しかし小刀といえる長さですら、持
て余している感じだ。更に全身からオーラと称する
ことができる金色の光を放出している。
二人がいる場所は廃墟となった病院跡である。建
物内は薄暗く湿気ており、周囲を覆う濃い霧が浸食
し、視界を悪くしていく。そして少女が敏感に感じ
取ったように何か良からぬ事が起きそうな暗雲が漂
っている。
この時、完全に気配を絶って身を隠し、少し離れ
た場所から二人の様子を窺っている者がいた。
「力の弱い悪霊が相手とはいえ、五歳にして戦える
とは、さすが宗家の血を引く子供たちですね。どこ
まで強くなるのか末恐ろしい」
視界不良のためはっきりと姿は確認できないが、
流暢な日本語で言ったのは長身の白人女性だった。
腰の辺りまである長い金髪は、薄暗く霧が立ち籠め
る中でも浮かび上がるように美しく、白いロングコ
ートを纏っているのが分かる。
「お前の子供とて、さほど歳は変わらないのに、随
分と強いではないか」
穏やかな口調で返したのは、その女性よりも長身
で、がっちりした体型の男性である。声の感じは五
十前後の年長者であり、黒髪の短髪で能面の如き白
い狐面をかぶり、上下ともに黒ずくめの格好であっ
た。
気配の絶ち方と立ち居振る舞いだけで、二人が只
者でないということと、雰囲気から、悪霊と戦う謎
の子供たちの敵ではないことが分かる。
「私の子供はまだ、あの二人のように命懸けの実戦
など経験していませんよ。本当に宗家の人間とは、
苛酷で悲しい宿命を背負っているんですね。一人の
人間として、そして子を持つ親としても、胸が痛く
なります」
「そうか、監視者でもあの子たちの宿命の重さを理
解できているんだな。それなのに、近くにいて分か
ってやれない者がいるとはな。情けない話だ」
「……それは分家の事ですね」
「残念だがそういうことだ。我らは影に生きる定め
であり、代々その宿命を受け入れてきた。それは宗
家が分家などより苛酷な宿命を背負っているからこ
そだ。それを理解せず、自らに課せられた使命から
逃げ出す者が多くいる……すぐ近くにもな」
面の男は哀愁を帯びた口調でしみじみと言った。
それは予告なくやってきた。子供たちがいる三階
のフロアだけでなく、建物全体が一瞬で凄まじい妖
気に包み込まれる。すると上の階から轟音が鳴り響
き、ほぼ同時に地震が起きたように激しく揺れた。
そして三階の天井が崩れ落ち、大きな穴が開いて上
の階と繋がり、瓦礫と何か大きな塊が、子供たちの
前へと落下する。
「我が眠りを妨げる愚か者はお前たちか」
全身から妖気をほとばしらせ重々しく発したのは
ボックス系の自動車ほどもある巨大な熊の妖怪、鬼
熊だった。
漆黒の巨躯と真紅の光を帯びし狂気に満ちた瞳は
見るものに途轍もないプレッシャーを与え、遺憾無
くその存在感を示している。普通の人間がこの場に
居れば、金縛り状態に陥るか、気が触れてしまうだ
ろう。
「わらしとて容赦はせんぞ。我が根城に足を踏み入
れし不運を呪うがいい」
強弓から放たれた矢の如く、巨体からは信じられ
ぬスピードで、鬼熊は子供たち目掛け突進する。
意表を突かれた二人は回避が遅れたが、鬼熊の巨
躯は通路全体を埋め尽くしており、もとより逃げ場
などはなかった。
まさに交通事故状態で体当たりを食らった二人は
壁に叩き付けたスーパーボールが勢いよく跳ねるよ
うに吹き飛び、何度も激しくバウンドして床に叩き
付けられた。そのダメージは大きく、すぐには動け
ないほどである。だが男の子の方は意識朦朧としな
がらも、厳しい修行により幼き精神にすり込まれた
闘争本能とでもいうべきものが小さき体を突き動か
し、立ち上がろうとする。
鬼熊はここぞとばかりに間合いを詰めると、止め
を刺すために容赦なく、ナイフのような巨大な爪を
振り下ろす。タイミングは完璧であり直撃必至、男
の子が躱すのは不可能であった。しかし謎の狐面の
男が寸前で男の子の襟首を掴み後ろへと投げ飛ばし
身代わりとなりその身に攻撃を受けた。
男は胸元から右腕まで深く切り裂かれ大量の血し
ぶきを上げる。だがひるむ事無く仁王立ち、蒼天の
如き色の凄まじいオーラを全身より解き放つ。
気迫とオーラに気圧されたのか、鬼熊は少し後退
し、距離を保ち様子を窺う。
「まさかこんなところに大妖怪が居るとは……。ア
リスよ、すまないが二人を連れてここから離れてく
れ」
「でも、それだけの傷を負ったうえに、あなた一人
では……」
アリスという名の白人女性は、そう言いながらも
動きに無駄なく、まずは女の子の方を軽々と脇に抱
える。
「監視者がいても足手纏いなだけだ。ここから先は
宗家の影である私の仕事。今は何よりも二人の安全
を確保し、傷の手当てをするのが最優先される」
男の傷口からはとどまる事無く血が流れ出してい
たが微動だにせず、牽制するように鬼熊を睨み付け
ている。
「あなたはまだ死んではいけない人です。それをお
忘れなく」
アリスは素早く移動し、男の子を荷物のように肩
に抱え上げた。
「俺も死ぬつもりはない。さぁ、早く行け」
覚悟を決めた男の瞳に、自らの人生を悔いること
のない強い輝きが満ちているのが、瞳を見ずともア
リスにははっきりと分かった。
まだ意識のあった男の子は朦朧としながらも、命
を懸けて妖怪に立ち向かう男の背を見ていた。その
背中は途轍もなく大きく見え力強さが感じられた。
「それでは御武運を」
二人の子供を連れ、アリスは後ろ髪を引かれる思
いで離脱する。
この時、鬼熊は悠長に二人の会話が終わるのを待
っていた訳ではなかった。眼前の相手よりも他に気
になる事があったのだ。それは、自分に匹敵する程
の邪悪な妖気と、また別の何者かの強大な力を感じ
取っていたからだ。更に怪訝なことに妖気の気配は
自身に似通っていた。だが突如現れた二つの気配は
不自然にすぐ消えていた。
鬼熊は謎の気配を気にしながらも、今は眼前の男
に止めを刺すため、じりじりと間合いを詰め襲い掛
かる。だが攻撃を繰り出すタイミングに合わせ、金
色のオーラを纏った何者かが、貫通している上のフ
ロアから、鬼熊へと飛び掛かった。
不意を突かれた鬼熊は、致命傷となる直撃は回避
したが、額を切り裂かれる。
突如現れた戦士は、年の頃は中高生ぐらいの長い
白髪の少女であり、目映い金色の羽織を纏い、手に
は漆黒の炎の如き邪悪な妖気を刀身から放出する日
本刀を持っていた。
「まだ動けるだろ、ここは一旦退け!」
謎の少女は鬼熊を睨み付けたまま振り返りもせず
男のように荒い口調で後方に向けて言った。
「先程感じた強い気配はお前たちだったか。我とし
たことが油断したわ。何者か知らぬが絶対に許さん
ぞ! この世に生れ出たことを後悔させてやる!」
鬼熊は瞬時に妖気を高め全身より放出する。放た
れた凄まじい妖気は衝撃波となり、また地震のよう
に建物全体を激しく揺らした。更に鬼熊の周りの床
や壁は大きく陥没し、幾筋もの深く長い亀裂を生じ
させる。
先に動いたのは白髪の少女の方で、まがまがしい
妖気を放っている刀を、無造作にただ横薙ぎに振り
ぬく。すると妖気の塊である三日月形の黒き閃光が
刀身より放たれ、鬼熊の足元の床に直撃し、ミサイ
ルが撃ち込まれたように爆発する。
廃墟と化し脆くなっていた床と壁は斬撃の爆発で
簡単に崩れ落ちる。だが崩壊は少女と面の男がいる
場所まで達していた。
「貴様っ! 逃げる気か!」
瓦礫と落ち行く鬼熊は吠えるように発する。
少女は男に肩を貸し、背中に翼でもあるみたいに
重力を感じさせない軽い身の熟しで、落下する瓦礫
を次々に踏み台にして、下の階へ落ちる事無く踏み
止まった。
二人はこの隙に気配を絶って、その場より離脱し
た。