稲葉楸の正体
パァン、といい音が響き、「おおっ!」と棗が歓声を上げた。
――だが、手応えがない。
叩いた感触は確かに手に残り、確かにいい音がしていたのに。
彼女は痛くも痒くもないという表情を保ち、すました顔をしている。その頬には赤くなった痕さえ残っていない。
悔しい思いを噛み締めながらも、真弓は即座に後ろへ飛び、彼女から距離を取った。
この霧化の能力、相当に力を消費するようで、一度使っただけで200メートルを一気に全力疾走したような疲労感を感じる。
この様子ではそう何度も使えるような手ではないようだが、しかし真弓はまだ、吸血鬼がどんな能力を持っているのか、まだあまり良く知らない。
――別に、勝つ必要はないのだ。
ただ、彼が来てくれるまで逃がさなければいい。
それまで、死ななければいい。
(――来て、くれるよね……?)
真弓は心の中で強く祈りながら、再び体を霧へと変化させた。
(お願い、早く来て……!)
「……まさか、お前があいつの協力者だと?」
「そうだよ。僕は本契約を交わした、正式な『チーム鬼灯』の一員だ。……けど、今はそんな事、どうだっていいだろう。それで、どうなんだい?」
聞かされたその事実に驚く梓馬を冷たく見下ろし、楸は冷徹に成果を尋ねる。
「彼女の匂いを追えるか?」
人の姿から、体高が楸の腰程もある大きな黒い狼に変身した梓馬は、地面に鼻を押し付けるようにしながら息を吸い込む。
「……ああ。――こっちだ」
狼姿のまま、梓馬は全力で駆け出した。
本部テントから出て、駐車場へ抜け、そのまま母屋の裏口の方へと匂いを辿る。
「……ここで匂いが途切れている。間違いない、ここだ」
スン、と鼻を鳴らし、梓馬はその場所を鋭い爪で引っ掻いた。
「確かに臭うわね。あの女の匂い……。ここが入口なのは確かなようね。……楸、少し下がっていて。――無理矢理こじ開けるわ」
「頼むよ、葛葉」
「任せてちょうだい。私の可愛いまゆたんを拐かした愚か者にしっかとお仕置きしてあげなきゃだもんね!」
「……おい、雅。それは刑務や刑吏の仕事だろう。俺たち狩人が領分を超えれば即職務規定違反になるぞ?」
狼姿のまま渋い顔をする梓馬を振り返りもせず、
「頭の硬い臆病者は黙ってなさい!」
ぴしゃりと言い放ち、彼女は青い火炎をその場に放った。
「――さあ、行くわよ!」
ぐにゃりと、空間が歪む。
「真弓!」
その炎の輪の中へ、三人は躊躇う事なく飛び込んだ。




