命を賭して
「サキュバス……って……」
「精吸鬼とも、淫魔とも呼ばれる、外来の魔物。呼び名の通り、異性を誑かして精気を吸い取るんが十八番の外道や!」
「あら、良くご存知ね?」
真弓の頭上で美鈴を睨む棗に、彼女はうっすら微笑んだ。
「おお、これでも組織の養成所じゃ常に成績トップやったし、今もわいに頭脳でかなう奴は他に居らんで」
「――でも、この状況でいくら知識があっても、大して役には立たないんじゃないかしら?」
その微笑みを、あっという間に馬鹿にしたような嘲笑に変え、美鈴は地面を蹴った。
人ではありえない猛スピードで真弓に迫り、ピンヒールでその腹部をえぐる。
暴れ牛に全力で突っ込まれたような衝撃に、真弓は抵抗する術もなく後ろへ吹っ飛び、母屋の壁に叩きつけられた。
――痛い、などという生ぬるい感覚ではない。
トラックに撥ねられたくらいの衝撃を背に受け、真弓は堪らず胃の中身を吐いた。
ピンヒールで抉られた内蔵が潰れ、骨も数本折れたのではないだろうかという、これまで経験した事のないおぞましい感覚が全身を駆け巡る。
「嬢ちゃん!」
棗が叫ぶが、とてもではないが声など出せない。――動けない。
衝撃に眼鏡もどこかへ飛んでいってしまったようで、はっきりしない視界にゆっくり近づいてくる影が映る。
(……このままじゃ、殺される)
しかし、台所の裏口はすぐそこだ。
中では表で屋台をやっている男たちの奥様方が酒の肴など差し入れを忙しく準備しているはずで、表でこれだけ騒げば誰か気づくはず。
だが、そう言えば、先程からやけに静かすぎる。表の喧騒すら聞こえない。
この建物のすぐ裏に本部テントがあり、屋台が並ぶ通りもすぐ目と鼻の先だというのに……?
「助けを期待しても無駄よ。……組織の狩人まで出張ってきたこの状況で、私がそんなヘマをすると思う?」
さく、さく、さく。ざく。鋭い靴底が地面を踏みにじる音が、どんどん近づいて来る。
「この周囲だけ、結界を張ったわ。ここは、現実空間から少し次元のずれた異空間。ここには、私とあなたたちしか居ない。どんなに叫んだところで助けは来ない。……最も、そんな様子じゃ叫ぶに叫べないでしょうけど」
(でも……だからどうだって言うの?)
息をするだけで苦しい世界に、これ以上生きている意味があるのだろうか?
ずっと、和や親衛隊の女の子達、そしてこの美鈴に日常的に与えられ続けてきた精神的抑圧と、唯一の肉親である父にすら顧みられない空虚感に、これまで漫然と耐えてきたけれど。
……もう、限界だった。
(ああ、でも……)
ようやく判明した黒幕を、ここで逃してしまってはきっと、彼は困るだろう。
ほんの一時だけでも、この息苦しいだけの世界の外を見せてくれた。
固く閉ざしていたはずの心の壁を破り、差し伸べてくれた手で真弓の手を引き、一瞬でも殻の外へ連れ出してくれた。
(……そう、彼のためなら――)
ひとつ、賭けをしてみようか。
……最期に一つくらい、彼の為になる事をするのも、悪くない。
真弓は懐を探り、その一粒を口に放り込んだ。




