もう一つの“噂”
「――今回の報酬だ」
いくら入っているかまでは分からないが、うっすらお札に印刷された人型と、中央の透かしの部分の陰影が透けて見えた。
これを受け取ってしまったら、彼との縁は潰えてしまう。
「……でも」
視線だけを封筒に落とし、決してそれに触れようとしないまま、真弓は尋ねた。
「事件が、解決していないなら、契約を続けさせてもらえませんか? 危険なのは、昨日の一件でよく分かりましたけど、それでも、こんな中途半端なところで終わるのは……嫌、です」
「ほれ、嬢ちゃんもこう言うとるんや。確かに、学校内の調査程やないかもしれんけど、事情に通じた協力者が居るのと居らんのとでは、効率に差ぁつくで?」
「それに……」
何故だろう。まさに今、梓馬によって断ち切られようとしているか細い糸を繋ぎとめようと、真弓は必死になっていた。
「最近、街で噂になっている事があるの。――七不思議事件とは別に、ね」
「おう、真弓ちゃん、いらっしゃい!」
「……こんばんは」
金曜日の、夕方。真弓は定食屋の暖簾をくぐった。
「おや、その後ろの優男、もしかして真弓ちゃんの彼氏かい?」
最近は白いものがだいぶ目立つようになった店の主人が、厨房からひょいっと顔をのぞかせた。
「……違います。ちょっとした知り合いです。――おばさん、私、野菜炒め定食で」
「俺は、炒飯と、あと餃子を2皿」
「はいはい、炒飯一丁、餃子二丁、野菜炒めはニンニク抜きで一丁」
忙しそうに卓の間を飛び回り、一人で注文伺いと配膳、片付けまでこなしているのは店主の奥さんだ。
「あいよ!」
「――ニンニク抜き?」
「……ニンニク、苦手なの。食べると、胸焼けするから。むしろ貴方こそ……平気だとは聞いたけど、炒飯に、餃子って」
「俺は、好物なんだよ。肉体労働の後のスタミナ補充には最適だ」
「ふうん。……ところで志穂さん、今日は調子悪いの?」
梓馬には気のない返事を返して、真弓は奥さんに話しかけた。
言葉を濁し、尋ねたその声に被せるように、奥から怒鳴り声が飛んでくる。
「あんのドラ息子めが、志穂さん放って遊び歩いて、心配ばかりかけさせやがるからだ!」
「……じゃあ、慎二さんも相変わらずなんですか?」
「ふん、もうあんな奴ぁ、俺の息子じゃねえ!」
視線だけで事情を問う梓馬に、真弓は改めて経緯を説明する。
「今月の初めにね、ここの息子の慎二さんのお嫁さん、志穂さんの妊娠が分かって、それで二人で安産祈願のお守りを買いに、柏神社へお参りにいらしたの。……でも……ね……」
あの時は、幸せいっぱいだったはずの夫婦。しかしその直後から急に、それまで真面目だったはずの慎二が突然無気力になり、日がな一日遊んで歩くようになってしまったのだ。
「以前は、お父さんを手伝って、よく厨房に立っていたんだけど」
「あいよ、3番テーブル上がったぞ!」
「はいはい、お待ちどうさま。炒飯と餃子、野菜炒めね」
運ばれてきた料理をつつきながら、そっと店の奥をうかがい――
「――棗」
梓馬の餃子をつまみ食いしようとしていた彼の首根っこをつまんで放り投げた。
「うおっ、主、ひでぇ!」
梓馬に文句を言いながらも、棗は皮膜を広げてふわりと宙を舞い、店の奥の階段を上がっていった。
「ところで、真弓ちゃん。悪いんだけど、ちょいと頼まれてくれないかねぇ?」
「……はい?」
「実は、寿司屋の爺さんのトコへ出前を頼まれてるんだけどね、ほら、この通りだろ? 帰りついでにこれを置いてきてくれないかねえ?」
店主の奥さんが、拝むように両手を顔の前で合わせたのは、棗の姿が階上に消えた、そのすぐ後だった。
「お代はもう先に貰ってるから、膳だけ置いて来てくれれば、それでいいんだ。これ、駄賃代わりのサービスだから、遠慮なく食べとくれ」
クリームあんみつの皿が二人前、テーブルに置かれる。
「……分かりました、いいですよ。あんみつ、ごちそうさまです」
豚肉とキャベツ、もやし、人参、きくらげを炒め合わせたシンプルな野菜炒め。
昔から慣れ親しんだ味のそれをつまみながら、真弓は頷いた。




