真弓の現実
可愛らしい見た目とはどうにもちぐはぐな感じのする関西弁を操り、自己紹介をする“彼”。
――訳の分からない事を言う男の存在のみなら、ゲームのやりすぎを戒める反面教師にしておけば良かっただけのはずが、残念な事に、こっそり手の甲をつねってみても一向に目が覚めてくれない。
網膜に焼き付くこの画も、鼓膜を震わせるこの声も、間違いなく現実のものであると、認めない訳にはいかなくなってしまった。
◆ やっぱり逃げる。
◆ 丁重にお断りする。
◆ 現実を受け入れる。
――改めて突きつけられた三択に、真弓は頭痛を覚えて内心頭を抱えた。
「書類は明日、改めて受け取りに行く」
「ほんなら、よろしゅうな!」
そうしてあっさり去っていく彼の背を、言葉もなく見送ってしまってから、真弓はうっかり受け取ってしまった紙切れを、ため息を吐きつつ鞄に押し込み、緩い下り坂の道を、再び歩き出した。
――住み慣れた街の、歩き慣れた道。
1本向こうのバイパスに比べれば遥かに狭い、片側一車線の通りだが、このまままっすぐ南へ降れば駅前通りに出るし、北へ少し上った先には商店街もあるため、車通りはそれなりに多い。
大型の路線バスが走るには狭い道の多い土地柄、車体のコンパクトなシャトルバスが街を循環している。
駅から梅高を経由する循環バスもあるのだが、真弓は入学以来、この坂道を毎日片道40分近くかけて徒歩通学を続けていた。
その、理由は――
「あら? 真弓ちゃん、今帰り?」
ようやく通り沿いに建つ我が家が見えたと、ホッとした矢先、バス停に立っていた女性に声をかけられ、真弓はギクリと身体を強ばらせた。
「……美鈴さん」
聞き覚えのありすぎる声に、慌てて頭を下げる。
「高校生活はどう? この間の体育祭はなかなか愉快だったけれど……。そう言えば、そろそろ芸術鑑賞会の時期じゃなかったかしら? 今年は何を観に行くの?」
ごく普通に、世間話を楽しむ。そんな風に彼女は微笑み、尋ねた。
「……昨日、上野の東京文化会館に、オーケストラの演奏を聴きに行きました」
「へぇ、今年はクラシックコンサートだったのね。じゃあ、来年はバレエかしら?」
色の濃い口紅を塗りたくった唇の端を持ち上げ、美鈴は笑う。
「私、ああいうのはよく分からないんだけど、楸君って、そういうのも詳しいのよね。あのつまらない校則のせいで一緒には観られなかったけど、代わりに色々教えて貰ったのよ」
上機嫌で惚気を語る美鈴だが、真弓は次に備え、油断なく身構えた。
「――ねぇ、貴女は楸君と何か観に行った事はあるの?」
そして、案の定投げかけられた問いに、やはり来たかと歯を食いしばる。
◆ 黙秘権を行使する。
◆ 適当に虚偽申告しておく。
◆ 真実を語る。
頭の中に閃く三択、しかしこの場合、どの選択肢を選んでも大差のない結果になる事は、既に何度も同じ事を経験してきて分かっている。
「……昔一度、和と一緒に寄席に連れて行って貰いました」
ため息を堪えながら、真実を語る事を選んで答えた――ちょうどその時、道の向こうにバスの姿が見えた。
程なく、バスはウィンカーを点滅させ、バス停に滑り込んでくる。
バス停に停車したバスは、後乗りのはずが、前扉も同時に開いた。
「あれ? 真弓と……美鈴さん?」
噂をすれば影、とは言うけれど。
あまりに図ったようなタイミングでステップを降りてきたのは、たった今名前を出したばかりの幼馴染だった。