ピンチ
ズラリと居並ぶ有名音楽家たちの肖像から伸びる――手、手、手……
無数の半透明の腕が、真弓を捕らえようと伸びてくる。
ぱっと見は、五本の指のついた人間のものであるらしい手――……で、あるにもかかわらず。
手首から向こうの腕の部分は、骨というものの存在を忘れたように、まるで軟体動物のようにぐにゃぐにゃと柔軟にカーブを描く。
しかも時には絡まりあって塊のようになりながら迫ってくるのだ。
「イヤァァァァ、な、何コレ、何コレ? 気持ち悪ッ!」
「嬢ちゃん、ここはひとまず引くんや!」
棗の叫びに、咄嗟に出口の方へ視線を向けるが、大変残念な事に、それは無数の手を掻い潜らなければ辿り着けない場所にある。
手の動きは、どちらかと言えば鈍い。
少し反射神経と瞬発力に自信のある者なら問題なく辿り着けるだろう。
(……でも)
真弓は、懊悩する。
「……棗は、逃げて」
「は? 何言うてん、わいは嬢ちゃんの護衛やで? そら、主みたく戦う力はあらへんけど、ここで嬢ちゃんを置いて逃げられるかい」
「…………」
棗の言葉は、とても嬉しい。嬉しい……の、だが。
◆ 真実を告げる。
◆ 黙っておく。
一瞬だけ、大いに迷った上で、真弓は小さく呟いた。
「……あのね、棗。私、自転車に乗れないの」
「は?」
突然の突飛な告白に、棗が間抜けな声を上げる。
「跳び箱も跳べないし、鉄棒で逆上がりもできないし、縄跳びで二重跳びもできない。徒競走でもビリなのが当たり前だし、反復横跳びの成績は、全国ワーストクラスの常連なの」
他の誰が辿り着けても、真弓には出来ない。
――しかし。
「大丈夫や、例えそうだとしても、嬢ちゃんにはアレがあるやろ。主から渡された飴ちゃんが! ピンク色した、ハート柄のや。早う!」
恥を忍んでの告白に、棗はサッとポケットに潜り込み、その小瓶を抱えて持ち上げ、真弓を急かした。
……迷う暇は、無かった。
慌ててそれを口に含めば、この間と同じピーチ味をしっかり認識する余裕もないままに、しかし不意に自分の体が無くなったような感覚に見舞われた。
――それまで両足にかかっていた自分の体重を、感じない。
その間にも、手はどんどん迫ってくる。
まるで、獲物に襲いかかる蛇の如き動きで飛びかかってきた手を、咄嗟に跳んで避ける。
「うそ……、よ、避けられた……!?」
普段であれば、まず叶わない程俊敏に動ける。
跳んだ後の着地も、転倒の心配をする余地のない程完璧な安定感がある。
体中を、力と自信が駆け抜けていく。
(これなら、行ける!)
出口に目標を定め、襲い来る手を掻い潜り、駆け出す。
音楽室は広いが、所詮室内、駆ければほんの数歩の距離だ。
某老舗ゲームメーカーの看板キャラクターになった気分でひょいひょい敵を跳んで躱し、扉の取っ手に飛びつく。
勢いよく扉をスライドさせ、外に飛び出すと同時に、ぴしゃりと後ろ手に扉を閉じる。
幸い、あの手に扉を開けるような知能も力も無いようで、ぺたぺた力なく扉を叩く音はするものの、扉を押さえる手に抵抗力は感じない。
――と。
「あなた、こんな所で何をしているの?」




