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目を覚ますと、そこはまぎれもなく、僕の部屋だった。ベッドに適度に沈んだ体は、心地よいとまではいかないが、どこか優しい気だるさに浸されている。
……それにしても、やけに眩しい。ふとベッドの右にある窓の方へと顔を向けると、カーテンは見事に開けられていた。差し込む光は強いが、時計の針だけが、今はまだ朝なんだと教えてくれる。
「おはよう。今日もすっごくいい天気だよ!」
寝起きの余韻と遊ぶ間もなく、窓とは逆――この部屋の入り口の方から、もうひとつの日差しかと思えるような元気な声が飛んできた。
首が忙しいが、声を掛けられては仕方がない。どうせそのままでもただ眩しいだけなので、逆方向へと顔を向けてみた。
「えっと……」
思わず声が漏れた。
薄茶色の髪。丸々とした目。少し薄くて、桜色をした唇。
――僕は、この人を知っている。
「ねぇ真、昨日のことは何か思い出せる?」
そう僕に尋ねながら、彼女は微笑んだ。およそ微かな邪悪すら感じさせない、まっさらな笑みだ。
「昨日……? えっと、昨日は……」
視線を天井へ移し、記憶とにらめっこを始める。
しかし、色々な情景は浮かんでくるが、どれが昨日なのか検討がつかない。
「ちなみに、今日は六月二日だよ」
考え込んでいる僕を見かねてか、彼女が助け舟を出してくれた。そうか、今日が二日なら昨日は一日。えっと、えっと……。
「……たしか、リビングでご飯を食べた! 炊飯器のスイッチを入れるのを忘れてたから、パスタだったって言ってたよね!」
「もう、なんでそういう残念なところを覚えちゃってるかなぁ」
間違いない。記憶の中で一緒にご飯を食べたのは彼女だ。今は口を尖らせて不満を露にしているけれど、間違いなく、この女性だった。
でも、誰なんだ?
「ふふふ……。わけわかんなーいって顔してるね」
一転して悪戯っぽい笑みへと表情を変えた彼女に、僕は返事もせずに頷いて見せた。
だって仕方がないじゃないか。知ってるのに知らない。覚えてるのに覚えてない。考えれば考えるほど、頭が掻き回されていくようだ。
「……あのね、落ち着いてよく聞いて欲しいの」
スッと僕に近付いてきたかと思えば、彼女はベッドの端の方に腰を下ろした。
そして、柔らかい表情に数滴の影を垂らして言った。
「あなたは、一日に五分しか記憶を紡げないの」
不思議と、納得してしまう。ああ、だからそうなのか、と。
それと同時に、僕の中に沸いたひとつの感情。
――僕は、この人の事が好きだった気がする。
この日の記憶は、この短い会話だけだった。
「最近、ちょっとずつだけど変わってきたよね」
食卓に肘を置き、既に食器を空にした彼女が嬉しそうに話す。
「そうなの? 僕は自分がどんな人間なのかはっきりしないからわからないや」
彼女の知ってる僕は僕自身のはずなのに、僕はそれを知らない。乗っ取られているわけでもなくて、眠っているわけでもなくて、ただ知らない。
「記憶に関すること、その……こないだの話は覚えてるんだよね」
「うん。次の日に話したりしなかった?」
「起きてすぐに話してくれたよ。『昨日のことは本当みたいだね』って」
「そっか。ちゃんと報告出来たならよかった」
共通の友人の話をしているような、妙な違和感のある会話。彼女の表情も心なしか曇って見える。
そのまま、少し温い沈黙が訪れた。
「私、食器片付けてくるね!」
気を利かせてか、彼女が席を立つ。
部屋に一人になった僕は、何をするでもなく、ただボーっとしている。
一体いつから、そしていつまで、僕はこんな状態なんだろう。完全に消えてしまうのではなくて、ほんの一つまみだけ残されていく記憶。『今までの僕』も、似たようなことを考えてきたんだろうか。それとも、覚えていないだけで毎日そうなのか。
そこまで思考が辿り着いた時、僕はひとつ思いついた。
もし、今日の出来事を思い出して記憶の整理をしたらどうなるのか。そして、それが明日へ引き継がれたらどうなるのか。もしかすると、曖昧ながらもこれまで以上の記憶を持ち越せるかもしれない。
えっと、たしか今朝は――。
ふと思ったことがある。
僕は、彼女に何かをしてあげられているのだろうか。
短い記憶の数々を思い返してみても、ただただ彼女の善意の上で成り立つ僕の存在。つまりは、優しさに胡坐をかいているだけ。そんなの、不公平じゃないだろうか。
それに、あの時の感情には薄々だけど確信が持ててきている。
「本当に……好きなんだろうな……」
「なになに? どうしたの、真?」
僕の呟きに、彼女が咄嗟に反応を示した。
そうだ。今はソファに座って一緒に映画を見ていたんだった。すぐ隣にいる以上、聞こえてしまって当然。
「いや、この映画の話だよ」
「そっかそっか。んー……、おすすめって言われたから見てみたけど、あんまり好みじゃなかったなぁ」
そう言って視線を戻した彼女につられて画面を見ると、そこにはたった今批判を受けた作品を生み出した人の名前で溢れていた。いつの間にか、終わってしまっていたみたいだ。
良いタイミングなのかもしれない。
「あのさ……」
「ん?」
再びこちらに顔を向けた彼女に、僕は思い切って切り出してみることにした。
「僕は、ここにいない方がいいんじゃないかって思うんだ。覚えてる限りでも迷惑ばかりかけているし、何よりいつまでこんな状態が続くのかわからないし」
「ねぇ真、それ……本気で言ってるの?」
「僕がここにいるせいで辛い思いをさせてるんじゃないかって――」
「そんなことない!!」
彼女の突然の大声に、僕の体はビクッと大きく跳ねた。
「私は幸せだよ。幸せなんて言ったら真が怒っちゃうかもしれないけど、一緒にいられるだけでも嬉しいのは本当なの。記憶がどうとか思い出がどうとかじゃなくて……」
僕の目から視線を逸らす事なく、彼女は必死に訴える。いつも輝いていた瞳は涙に濡れ、頬には大粒の雫がとめどなく落ちていた。
「だから、だから……!」
呼吸はすっかり荒く、体を上下させていた彼女は、微かに震える唇をグッと一度噛み、
「嘘でも……そんなこと言わないで」
最後に、弱々しく言葉をこぼした。
あの日から、僕の記憶にはひとつの共通点が生まれた。それは、『彼女のことが好き』という感情だ。
早朝でも、食事中でも、ただボーっとしている時でも。それだけは何故か一貫している。もしかして、起きている間はずっとその事ばかり考えているのかもしれない。
でも、どうしてだろう。それがとてつもなく……嬉しい。
自分の口角が上がるのを感じた瞬間、ドアがカチャリとゆっくり開いた。
「真ー、起きてる?」
「うん。良い朝だね」
いつもと変わらない笑顔を届けてくれる彼女を見て、心が弾んだ。……やっぱり伝えたい。
ただ、その為には必要なことがある。
「君の名前を教えてもらえないかな」
「うわっ! 真からそう言ってくれるのは初めてだよ!」
驚く彼女だったが、喜びを隠し切れないという表情をしている。
「一応毎朝言ってたけど……」
何故か少し恥ずかしそうに前髪をいじりながら、
「はじめまして。美奈です」
律儀に頭を下げながら言ってくれた。言い終わって尚少し照れている彼女が愛しくてたまらない。
そして、僕の記憶になかった、恋焦がれた女性の名前を聞くことができた。これで、やっと言える。
「はじめまして。美奈さん、僕はあなたが好きです。たとえこの瞬間を忘れてしまったとしても、何度でも言います。僕は君が好きだ」
恥ずかしさはなかった。ただ素直な気持ちを包み隠さず伝えた、それだけだ。
一方、ポカンと口を開けて僕を見つめ続けていた彼女だったが、次第に目尻が光り始める。
「本当……? 私のこと……」
「今までのこと、ほとんど覚えてないし、たくさん忘れるのはわかってる。それでも、君のことが好きだよ」
「まごど……ぐすっ……。もう二度と……言ってもらえないと思ってた……私も、私も大好き!!」
ぐしゃぐしゃに顔を濡らした彼女は、なりふり構わず僕の元へと飛び込んできた。
過去の事を思い出す日がやってくるかもしれない。でも、そんなの問題じゃないんだ。
僕の愛する人は、ずっと彼女だけなんだから。
オリジナルの曲から生まれた、別視点のストーリーです。
あえて補完はしません。




