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02

 高度数千メートルをゆっくり飛び続ける、飛行要塞アークエンジェル。

 いくつもの砲台、対空機銃、対地砲台、砲座、管制塔に、一般兵たちが各地上軍に対し忙しそうに指示を出している。

 アークエンジェルの軍事区画とは一線を画した、ここは上流階級者専用の区画。そこにあるダンスホール。

赤い絨毯の上、所々茶色く変色した超高級ダンスホールの中をグラスワインをトレーに乗せたボーイたちが忙しく歩き回っていた。

 ホールにはすでに幾人ものVIPが入り乱れてダンスを踊り、あるいは酒を飲んで貴婦人を口説き、もしくは、次々やってくる新しいVIPの到着を迎えるために軍楽隊が何重ものトランペットを鳴らしている。

 酒をの飲んで酔いつぶれる高級将校もいた。あるいは、一人の貴婦人をめぐって決闘の申し込みをしている数人の男組もいた。

 ホール側面にはいくつものVIP専用ドアがあった。その中でも特に、操縦室側にある防音ドアだけは異様な雰囲気に包まれている。

特別な意味がある多くの無意味なドアの中で、たった一つだけ意味のある、防音と防弾、特別警護のある一つの扉。

尾を食い絡ませたガラガラヘビを表す金と赤の紋様。ノジックの象徴。それらを守る四人の上級親衛隊員たち。

 ドアの向こうには控え室があった。そこでは今まさに、この空飛ぶ空中要塞アークエンジェルとダンスホール、ダンスホールの中で踊り狂う貴婦人や高級官僚、将校たちを一括して手の内に握るをN.O.G.I.ノジック企業連合国家最高権力者、兼大統領、兼任マーチン社社長が、お気に入りの虎の皮の椅子に座ってチェスゲームを楽しんでいた。

控え室に入れるのは身内と、彼らを世話する使用人だけ。

「それで。……ではなぜ、クリスチーナはワシの元にこないのか?」

 マーチン社長はお気に入りのチェスの盤の上で、白の駒を一つ取り前に進ませた。

 盤の下ではチェス台を置くための机が、膨らんだ頬をぷるぷるふるわせながら苦しそうに息をしている。

 社長第一太子、エブだった。

「気に入らん。あの小娘め、どんなにワシの手から逃げようとしても無駄なのが輪なら無いと見える、このワシの手を患わせる気か。おのれあの小娘め……」

 白の駒が、黒の駒を一つ取る。

 黒の駒を動かす人間は、どこにもいなかった。代わりにマーチン大統領が自身の手で黒の駒を動かした。

「お、恐れながら父上……」

 机がしゃべった。……いや。チェス台の役を四つん這いでこなしている、マーチンの第一太子エブが、額に汗をかきながら震えつつ、しゃべった。

「クリスチーナはまだ若いのです。マーチン家の末妹とは言え、教育の行き届いた初代、二代の母上様とは違う、庶民出の三代から生まれました下賤の者ゆえ、その……上流階級の教育がまだ行き届き……」

「ええい、机がいちいちしゃべるな!」

「ヒィッ!」

 マーチンの黒光りする靴が、エブの顔を蹴り飛ばす。

 エブは悲鳴を上げ、蹴られた顔を痛そうにして手で抑えた。

「女も男も、要は皆ワシの駒なのだ。あの小娘が粋がったって、所詮下賤の者の出。知っとるわそれくらい」

「で、ではなぜ……」

「いちいちしゃべるな、机! アイツの母親を、スラムから拾ってやったのはワシだ、アイツが物心つく頃から育ててやったのもワシだ。お前に言われるまでもないわッ!」

「お、恐れ多いことを言いました……」

「フン!」

 背中のチェス台は小さく揺れた、だが駒は一つも落ちてはいない。

 エブが、蹴られた頬を抑えながら嘆息のため息をついた。

「それで、ブダ。お前が放った密偵の方はどうなった?」

「はは、ハイ……」

 尊大な大統領マーチンの尻の下で、今度は第二太子のブダが苦しそうに声を上げる。

 ブダは苦しそうに床の上で息を吐き出した。

「そっその……私の放った密偵は三人が三人とも、そのっ……海兵隊の報告に寄りますと、全員、空で戦死しておりまして……」

「奴の動向を掴めないままか? 全員?」

 マーチンの動かした駒が、駒を取り、取られて、盤の上では駒たちが静かに局面を導き出していた。

 老齢マーチン大統領はフム、と小さく唸ると、今度は白と黒の駒もろとも、全部を払って盤に並ぶ駒たちを放り出す。

 駒がいくつかエブの巨体に当たって砕ける。

「バカモノ! 貴様は無能か! 無能なただの、椅子しかできないブタだ! エエイ揃いも揃って役立たずめ!!」

「ひいいっ!!」

 重いマーチン大統領が椅子役ブダの上で一跳ねすると、衝撃で椅子のブダと台座のエブが悲鳴を上げた。

「貴様はどうだ……リガ?」

 今度はワイングラスを持って脇に立つ、ボーイ役をしていた第三太子がビクッと体を震わせた。

 白と紺を基調とした空軍の礼服をビシッと着込み、細い全身をガタガタとふるわせている。

リガは恐怖のあまり、ワイングラスとワインの瓶をトレーの上で小さく響かせた。

 マーチンが奪うようにしてワインの瓶をひったくると、木の棒のように痩せ細ったリガ中将は更に大きく震えた。

「わわわ私の方は、その、先ほどうまく、海兵共の中にスパイが入れたという報告を部下から聞いておりましてそのハイ……」

「フン! 報告はそれだけか?」

「いいいいいいエ、その、どうも義妹クリスチーナは、何かを探して部隊を率いているという情報も……」

「ええい、貴様も多分に漏れず役立たずなようだな! 奴はワシの首を狙っている、貴様らのその程度の情報では、何も当てにはならんわ! 執事を呼べ! いや……いい、ワシが呼ぶ。オイ!! 執事!!」

 マーチンがドアに向かって大きく叫ぶと、まもなくしてドアが開き新しい礼服の人間が室内に入ってくる。

深い緑色の礼服を着た、第四太子のニックだった。そのすぐ後ろにはナプキンを持ったマーチン大統領付の老執事が小走りに部屋に入ってくる。

 台座役のエブと椅子のブダ、リガたちが同時にほっと一息ついた。

「遅くなりました父上! 聞いてください、朗報です! 我がノジック軍は、ついにドイタミナの主力を破り、王都まで通じる第二関所シャロンを抑えることに成功しました!!」

 陸軍の第一種礼服を着たニックが、他の三太子とは違うさわやかな笑みを浮かべてマーチンに地上の戦果を報告した。

 ニックは全身に健康的な筋肉を持つ、不健康気味な他の兄弟たちの中ではかなり異色だった。

 笑みを含んだ瞳。演技とも思えてしまうほどさわやかな顔立ち。嫌味なほど整った目鼻。嫌味なほど輝く彼の笑顔は、生まれた時からずっと彼から離れたことはない。

 兄弟の中でも一番世渡りのうまい、彼はマーチン大統領の第四太子だった。

 マーチン大統領はワインを飲みながらフンと鼻を鳴らし、次いで手元に置いてあった拳銃を持ってカチリと撃鉄を引いた。

銃口を、ドアの前に立つニック側に静かに向ける。

「遅いわ、ノロマが」

 バン! 銃口が、光と共に煙を噴いた。

「ち……父上!?」

 唖然とするニックの横で、銃が火を噴いてから誰かがバタリと倒れる。

 老執事だった。

 煙を吐いて静かになる金の拳銃を片手に、マーチン大統領は不敵に笑った。

「ワシが呼んでから、来るまでに〇.五秒もかかった。衛兵、こいつを処分して新しい部屋を用意しろ」

 言われてドア前に構えていた兵士たちが、急いで執事の死体を運んでいく。

 親衛隊たちは恐怖の顔を見せていた。

「それで、地上がなんだって? 我が愛する第四太子よ」

「はっ、はい父上。地上での戦闘は我がノジック軍の大勝利です。ドイタミナの兵士たちは、我が先鋭ノジックに立ち向かえるだけの戦力を有しておりません。それに我々の奇襲作戦もうまく功を奏しているようで……」

「フン、当たり前だ。ドイタミナの奴らはワシの軍隊に抵抗する気なぞ、最初からないのは分かっている」

「……は?」

 自信満々に戦果を報告していた、綺麗に顔を整えていたニックの顔が突然強ばる。

 マーチンはワインの瓶に入っていた残りの酒を一気にラッパ飲みすると、フウと一息ついて瓶をニック少将の胸に突き刺した。

「ドイタミナの軍は、最初から抵抗なぞする気はない。しないことになっているのだ。戦争なぞ、国を無駄に疲弊させるだけで良い事なんぞ何も無い。重要なのはこのドイタミナ王を屈服させ、国土をすべてワシの下につかせることだ」

 マーチン大統領はギラギラと光る目を、脂ぎった頬と額と鼻口顎顔の中で光らせた。

 その目は、明らかに狂っていた。普通の人間の目ではなかった。

 老ノジック大統領の足下で、哀れな第一太子エブがバラバラになったチェスの駒と盤を必死に元通りに集め直そうとしていた。

 ゴクリと、固まった笑顔のニックが喉を鳴らす。

「この広大なドイタミナの領地は、民と一緒にほぼ無傷で手に入れる必要がある。だがこの領地を手に入れるためには、今は戦争しかない。国を必要以上に傷付けず、かつ戦争で国を乗っ取るにはこれくらいの腹芸もできないといかん」

「その後の経済的支配を見てですか?」

「それもある」

 コツ、コツと、マーチンはブーツのかかとを鳴らして部屋を歩いた。

「内通者ですか? ドイタミナの、かなり上の誰かが父上に内通していると?」

「お前に言うことは無いな。だが気をつけろよ?」

 そう言うと、マーチン大統領はフンと鼻を鳴らしてニックに背を向けた。

「それ以上ワシの懐に入ってみろ。執事の次に、ワシの拳銃に撃たれるのは次はお前になる。その覚悟はお前にはあるか? 我が愛する第四太子、ニックよ」

 不敵な笑みを浮かべて、背の低いマーチン社社長兼任ノジック大統領は、ニックにずいっと顔を近づける。

 その後ろでは、マーチンの第一太子エブが。最後の駒を盤上に戻してそっと自分の背中に乗せていた。

 その顔には、屈辱と、涙が浮かんでいた。

「お前たちはワシの駒なのだ。お前たちは、ワシの言うとおりに動けばよい」

「で、では私たちの奇襲作戦と戦果の意味は……」

「お前は頑張っているだろうな。よく頑張っている。兵役年金くらいは出してやろう。他の太子たちも同じだ」

 そう言ってマーチン大統領は、振り向いて盤上の駒をふたたび前に進める。

「フン! 他愛もない、戦争ゲームよ。兵士も駒も、我が盤を彩るには死んでも死に足りんわ。それでワシの財布と、国の経済が廻るならな」

 椅子役のブダが、マーチン大統領の重い体重を受けとめギュウと悲鳴を上げる。

「チェックだ!」

 盤上では黒のクイーンが、いくつもの白のポーンにダブルチェックをかけられ孤軍奮闘を強いられていた。

「マーチン様、お薬の時間です」

 マーチン大統領に撃たれた執事にそっくりな新しい次の執事が、盆と水、いくつかの錠剤を盆に載せておずおずとマーチン大統領の椅子までやってくる。

 マーチンは執事の顔を見るとフンッ! と大きく鼻を鳴らして、勢いよく椅子から立ち上がると水と薬をひとまとめに掴み上げ、そのまま一気に飲み込んだ。

「ゲェップ」

 壮大なゲップと共に、白い煙がマーチンの口から大きく吐き出される。

「……気分が悪い。今日の懇親会はこれでお開きだ。貴様らも、次の時はニックのような土産話を一つ以上持ってくるんだな」

 マーチン大統領はそう言うと、未だ執事の血が乾かない絨毯の上をズンズンと歩いてドアの向こうに出て行ってしまった。

 すぐに老執事も、小走りでマーチンの後に着いて行く。

 部屋に残されたのはチェス台のエブと椅子のブダ、痩せたワイン置きのリガに着飾った陸軍将校のニックだけだった。

「え、えええい忌々しい! あのチビのクソ老人め!!」

 エブがチェス盤を手に持ち、立ち上がりざまに勢いよくチェス盤を床に向かって投げ飛ばした。

「あ、兄君大丈夫、あっ、あたたたたた……」

 ブダも四つん這いの姿勢から、今度は腰を押さえて勢いよく床の上に崩れ落ちる。

 リガは盆とワイングラスを持ったまま、直立不動のまま動かなかった。

「り、リガ、お前は平気だったのか」

「あああ足が……」

「なに?」

「足が、動かない……だっだれか助けてっ」

 情けない声を出して、リガが足下のブダに声を掛ける。

 エブが床に転がったままリガの膝の裏を叩くと、リガはそのままドウと大きな音を立てて床の上に崩れた。

 丸い双子のエブとブダ、ガリガリにやせ細った紳士リガ。彼らはマーチン大統領と今は亡き第一社妃の息子たちだった。

「いやはや兄上、いったいこれはどういう事なのですか?」

 陸軍の軍服を着る嫌味なほど好青年な顔のニックが、肉の塊が二つ転がっているようなエブとブダ、木の枝のようなリガに呆れたように問いかける。

「見ての通りだ」

「酷い目に遭ったものだ」

「…………」

エブとブダは転がりながらニックに答え、リガは恐怖と棒立ちから解放された快感からか、何も言えないまま床の上に足をさすって伸ばしていた。

ニックはため息をついて腰に手を当てる。

帯からは兵士鼓舞用のムチがのぞく。足下には磨かれた軍靴。

クルクルと整えられた形のいい金髪に、まるでクリーニングから出されたばかりのパリパリの陸軍制服。

胸には、いくつもの功労バッヂと記章が飾られていた。

「ごほっごほっ」

「いやー死ぬほど重かった」

 力みすぎて咳き込むエブに、床に転がって自身の父の重さを身を以て理解したブダ。

二人が双子の息でそれぞれの息を整えている内にふと、リガの方が急いで床から立ち上がりシャキッと背筋を伸ばした。

「う、うん。それで、第四太子ニック。地上での戦果が何だって?」

「あ、はい兄上。地上での戦果は上々です。先ほど父上にも申しましたが、ドイタミナ地上軍の戦意は総じて低く、街道沿いの関所は早ければ来週中にも、すべてノジックが手中に収めることになりそうです」

「ううむ。なかなかの快進撃だな」

 ニックのさわやかな笑顔に、エブとブダとリガはそれぞれ唸る。

「いいえ、これも全ては第五太子の働きのおかげです。もっとも奴は、ただの私の使い走り役なのですが」

「第五? ……マンか」

 髪をかき上げ、ニックが自慢げに金髪を輝かせるのをリガはあからさまに嫌な顔をして見る。

 双子のエブとブダも、同じように床の上から憎々そうに見上げた。

 二人とガリガリのリガがマーチン大統領に、肩や机と椅子、上着とワイン持ちにさせられていた理由は、そもそもこの三人が役立たずだったからだった。

 エブとブダは地上戦ではあまり目立つような戦果を上げられず、あるいはリガは、軍の警察部門である警務隊を指揮管理しているものの、戦場に出てうろちょろしているクリスチーナの所在を確認するのもままならない。

 地上戦ではその戦意もままらないドイタミナ軍にエブとブダの軍は、しかも装備で上回っているはずなのにドイタミナに対して敗走を続けている。

 その点第二社妃太子ニックと、第三社妃太子マン、その娘クリスチーナはかろうじて善戦。本来なら役立たずのエブとブダ、リガは、マーチン大統領によって処刑されていてもおかしくない立場なのだ。

 だがリガは未だ警務隊を指揮しクリスチーナを追い続けているし、あるいはエブもブダも、机と椅子にはなっているがそ令嬢の何か、処刑される事はなぜか許されていた。

 それもそのはず。第一社妃の子エブとブダはその生まれと存在だけでも特殊なもの、戦果をあげなければ即死刑の第二社妃、あるいは第三社妃の子とでは、その扱いも存在意義も何もかもが違っていた。

「だがお前は、なぜいつもそううまく立ち回ることができるのか」

「うーん。それですがね兄上」

 怨みがちな目でエブが唸る。ニックはそんな床上の兄を見下ろしながら、さも本心で分からないというふうにして首を振った。

「逆にお聞きしたいです。兄上たちは、どうしてそう戦場でも、あるいはこのアークエンジェルでもうまく立ち回ることができないのですか?」

「なにィ?」

 ニックの、あからさまに残念そうな顔に、床の上のエブとブダがピクッと体を震わせる。

 リガも一瞬その棒のような体を反応させたが、こちらは紳士らしく、表にはその動きを見せようとしない。

 だがエブとブダは違った。

 おもむろに床から立ち上がるとまるで怒ったビヤ樽のように体中の脂肪や肉を揺らして、美しい肉体美をもつニックの体にくってかかる。

「貴様! それが第一社妃エブ様とブダ様に言う言葉か!?」

「そうだ! 貴様、ここで地べたに這いつくばって謝罪しろ! 貴様は自身の兄を何だと思っているのか!」

「ああ兄上、そう怒らないでください。せっかくの美しい制服が唾で台無しになってしまう」

「なにィィィィィーッ!!!???」

 エブがニックの襟首を掴み上げ、ブダがその後ろからニックの顔を睨む。

「兄上だって、ただだまってずっとアークエンジェルに乗ってらっしゃった訳じゃないでしょう?」

「きっキサマ……」

「だったら簡単です。社主に気に入られようが気に入られまいが、太子としてそれ相応の働きをすればいいのです。けちくさい兵役年金なんて言わず、もう少し大きな目を見て、それからよく働けばいいのです」

「きっ、キサマキサマキサマキサマーッ!!!」

 涼しそうに困った顔をするニックに、エブとブダは激しく怒り狂う。

 そのうち拳を振り上げそうになっているエブの手を、今度は後ろからそっとリガの手が握った。

「オホン! マーチン社率いる社主の子、紳士たるもの、このような場で互いに無粋な争いをするのは、あまりよろしくありませんぞ。兄上も兄上、お前もお前だぞ、ニック!」

「フン!」

 一度振り上げた拳を掴まれて、エブは悔しそうにその腕を振り払って拳を下げた。

「これはこれは、リガ兄上。お久しゅうございます」

 ニックはあからさまに余裕の顔をして、落ち着いた仕草でポンポンと制服を払い、それからニックはおどろおどろしく礼をした。

 第二社妃……マーチンが二番目にめとった母の子ニックが、一番目にとった母の子のエブやブダ、リガよりもマーチン大統領のお気に入りになりつつある。

 あるいは、この生まれながらにして完璧な美男子、嫌味な天才肌のニックが、エブもブダも、リガも、三人はとても気に入らなかった。

 三人はニックのあまりにもさわやかで、嫌味な笑顔に、しばらく苦い顔を隠さなかった。

「ニック! 貴様の最近目に張るような功績はアークエンジェルでも聞いている。だがそれを傘にして、よもや父上に取り入ろうなどと考えているのではあるまいな?」

「ああ兄上、まさか兄上までそのようなことをご心配なので?」

「し、心配などしておらん。紳士たるもの、地上の戦果と同時に、まず部下の心情もよく把握するのも常なのだ」

「相変わらず紳士ぶってますね、リガ兄上も」

「……」

 紳士『ぶって』の言葉に、さすがのリガも眉間に血管を浮かばせる。

 だが当の本人、ニックの方はまったく悪気のなさそうな笑顔でリガを振り向き指を振った。

「安心してください兄上。私、第二社妃の太子如きが、第一社妃太子様の領分を超えてまでマーチン父上の権力に取り入ろうなどと、そのようなそら恐ろしい無粋な考えは起こしませんから」

「フ、フン。そうだと嬉しいな」

「軍の虎の子、兄上の持つ警務隊だって伊達に警務官なんてやっていないはず。私の部下にも何人か兄上のスパイが入っているのは、それも承知です」

「ふむ。お前の情報は、すべて私に筒抜けだ」

「ところで愛する我が妹クリスチーナは、今はどこに向かって飛んでいるのですか?」

「貴様に、教えることは何も無いっ!!」

「戦場を駆け回っている武の女神クリス、ああ我が愛しき戦乙女よ、今いずこの地へ向かっているのだろう。よもや北の大地、辺境の地にてこの世の至宝を見つけ、我がマーチン父上に対し反乱を起こすなどと……」

「……なに?」

 ニックは何か訳知り顔で、何かの舞踏のステップを踏みながらさっとリガの持つワインの瓶を手に取った。

 そのままクルッと回転し、ワインボトルを一気に飲み干す。

 口元から、赤いワインの筋がツウと伸びた。

「ふふふ……兄上、そう心配なされますな。かわいい我が妹も私と同じ、まさかそんな恐れ多い事は考えますまい。ですが用心は大切です」

 不敵な、不気味な笑みと共にニックはツと人差し指を立てる。

 リガ、エブ、ブダは揃ってこの、軽快で、若い老獪な陸軍紳士を見て、ふと何かの不安を覚えた。

「妹の部隊に密偵を潜り込ませました。彼には、私からもよく言い聞かせてます。もし彼が何か情報を掴みましたら、その時は私も、兄上と一緒に妹を少しこらしめてやることにしましょう」

 ブーツのかかとをコツコツと鳴らしながら、ニックはワイングラスをもてあそびながら赤い絨毯の上を歩く。

 美しく、エレガントに、それでいて隙のない姿。

 その姿は、まさしく老獪な若策士の歩く姿そのものだ。

「お前は……いったい何をどこまで知っているんだ? 何を狙っている!?」

「私が? 何かを狙っている? ご冗談を兄上」

 空になったワインボトルを、瓶ごと床に放ってガラスを割る。

 瓶に残った数滴の赤ワインが、床に生々しく残る元執事の血と混ざって毒々しい赤色に変わった。

「私は無能な、一介のただの第二社妃太子にございます、兄上。いつまでもお三方を、お慕い申し上げますよ」

「ううう、嘘だ!!」

 エブが指を立てて叫んだ。

 権力者の子としての、何かの本能だろうか。ニックは明らかに、クリスチーナや他の兄弟を含む一族の権力を、その手で一気にかすめ取る勢いだった。

 無能な三太子の椅子も、その配下にある軍も、国の座も含めて。

 ニックはふと指先で、口元に残った赤ワインの滴をぬぐい取りながらペロリと指先を舐めた。

「嘘ではありませんよ。我が親愛なる、兄上三太子閣下」

 飛行哨戒艇を支える二つのエンジンの悲鳴が、唸るようにしてクリスチーナ中将の専用小部屋の中に響く。

 小窓に覗くのは、哨戒艇が飛び続ける緑色のドイタミナの深い森。

 艇は北に向けて航行を続けていた。そろそろ兵たちに、暇な人間が出てくるだろう。

 クリスチーナは窓辺に備え付けられた折りたたみ式の椅子にじっと座りながら、同じく床に固定された机に肘をつき、細くて長い、白い自分の指先を眺めていた。

 指には指輪がはめられていた。

大きくて綺麗な、古風な、エメラルド色の指輪だ。クリスチーナの母親がつい最近、クリスチーナの戦陣祝いのプレゼントとして彼女に送ったものだった。

「……」

だが今は、そのクリスチーナの母親はもういない。

彼女が軍服を着て戦地の空に旅立つとき、それから入れ違いのようにして独房の中で彼女は一人死んだ。

死因は毒だった。しかも独房は、父マーチンが作った社屋の地下深くにある、小さな箱のような部屋だった。

なぜ地下牢での自殺なのか。なぜ自ら毒を飲んだのか。よりにもよって、なぜ父は、死んだ母をわざわざ自らのいる建物の下に押し込めていたのか。

手紙はクリスチーナに届く前に憲兵隊により幾度も検閲を受けて、その上で手紙と箱は焼却処分、指輪だけがまるで何かの事故証拠品のようにして透明なビニール袋に詰められ、先ほどアークエンジェルの補給物資と共にクリスチーナに届けられたのだった。

彼女は……クリスチーナ中将は、この時初めて母の死を知らされた。しかも補給隊員に、あくまでも部隊内にある一つの噂として、だ。

補給隊員もさすがに哀れそうな顔をしてクリスチーナに事の次第を伝えわびたらしいが、だがクリスチーナはその時は、ただ黙って、補給隊員にねぎらいの言葉をかけすぐに機内に戻ったのだった。

 思う事はたくさんある。

 クリスチーナは指輪を眺めながら、静かに機内に響くエンジンの悲鳴に耳を傾け続ける。

 コン、コン。

 いつしか時間が過ぎて、誰かがドアをノックしてクリスチーナははっとした。

「入れ」

 クリスチーナは慌てて指輪を机の引き出しの中に隠し、次いでノックの主をあからさまに眉をしかめて出迎える。

 ドアを開けたのは、ナカジマ参謀だった。

「何か、野暮でしたかな」

 白い肩章とホルスターが目立つ。

 嫌らしいにやけヅラをして、無精ひげを蓄えたあごと顔が、ドアと言うよりもハッチに近いものを開けてややかがんで部屋に入ってきた。

「何か用か、ナカジマ参謀。いや、ナカジマ警務官?」

「いやなに、閣下がお寂しかろうと……」

「嫌味な奴だ」

「……失礼しました。本船の向かう先なんですが、一度地上にいるマン大佐率いる第五軍と合流して、そこでもう一度補給を受けてからそのまま最終目標地点まで飛ぶことになっております」

「なにか不服か? 新米参謀?」

「いえ、補給ついでにその、兵たちにはまた十二時間ほど休みを出してもいいんじゃないかと思ったんですがね」

「休み? 何か用事があるのか」

 そう言うとクリスチーナは、じろりとナカジマ参謀の顔を見た。

 クリスチーナは、いつもの顔をした。

「用事というか、俺があるんじゃなくって、たぶんその……」

「もったいぶるな」

「ええと……ではその、閣下は、マン大佐には何も用はないので?」

 ガタガタと、気流の乱れだろうか、哨戒艇が全体的に大きく揺れはじめる。

 机の上にある電光スタンドがギシギシとそのスプリングをきしませた。

「私が?」

「はっ。勝手ながらその、閣下の母上の噂を海兵共に聞きまして。誠に残念な事だとは思いますが」

「それか。私の事はいい、海兵の作戦には予定外はない。作戦は続行だ」

「ですがマン大佐の方はおそらく……」

 そこまで言うと、今度はナカジマ参謀の方が何かまずい事を言ったかのように顔をしかめる。

 クリスチーナはしばらくナカジマ参謀の顔を見ていたが、そのうちふっとその視線を逸らし窓の外の景色を見た。

 クリスチーナの顔が、顎に力を入れているのか、少しだけ歪んだ。

 相変わらず窓の外には、ドイタミナの深い緑の大地しか見えなかった。

「弟か。奴がどうした」

「はっ。ええと、恐れながらマン大佐は、閣下の弟君にあらせられる方です。しかも第三社妃のお子様という意味でも、閣下とは直接血を分ける最後の姉弟ではありませんか」

「よく知っているな」

「そりゃまあーこれでも警務隊出身ですか……いっ、いえ自分はそれほどでも」

「フン」

 クリスチーナ中将は小さく笑うと、そっとつぶやくようにナカジマ参謀に問いかける。

「……やはり。よく分からん」

「は?」

「貴様が分からんのだ。お前がここに来るまでな、ずっと考えていた。お前がなぜ、海兵なんていう汚れ役専門の小部隊を率いるこの私に付いてこようと思ったのかの、その理由が分からん」

「で、ですから私は閣下のファン……い、いえ国のことより御身のこと、あるいはご自身の財産のことしか考えていない社主よりも、第一に軍や兵の事を常に考えてらっしゃる閣下の心意気に惚れたのです」

「それが嘘くさいというのだよ」

「まだ信じていただけませんか」

「あるいはな」

 そこまで言いかけて今度は、クリスチーナはふと部屋の中にあるなにかを探し始めた。

 盗聴器だった。この船は盗聴されている。それは先に、この目の前にいるナカジマ参謀が体で示してくれたことだ。

「盗聴がご心配ですか?」

「……」

「ご心配なく。勝手ながら先ほど数名の兵を借りて船中を捜索したのですが、盗聴器の類は、通信機のあの一個以外はどこにも見つかりませんでした」

「……お前は、まるで人の心を読んだようなことを言う奴だ。それに兄上の駒にしては、どうも気が利きすぎる奴だな」

「それは買いかぶりです。閣下、自分は一介の物言わぬ駒、ただの参謀です。先を読むのは、参謀の職務の一つと認識しております」

 クリスチーナの睨むような目に、ナカジマ参謀は得意げにひげを軽く揺らして上を向く。

「私は閣下に命を捧げております。私の心に裏表はありません」

「味方を騙し敵も騙して、任務を遂行するのも参謀の役目だな。さらに気に食わない。いや、兄上はお前のその性質を見てなお、この海兵にお前を寄越したと思うとぞっとする」

 ナカジマ参謀は黙った。

「話を戻そう。お前はなぜ、私についてくるのだ?」

「ですから……」

「同じ話を繰り返すつもりはない。ただ私は、お前と、お前の後ろにいるであろう兄達の考えを知りたいのだ。奴らは己の権力抗争のために肉親すら殺せるす奴らだ」

「母上様のことですか?」

「それもある。だがこれが社の方針でもあるのだ。私はその方針そのものは憎まないが、だが権力抗争自体が好きではない。自らその抗争、競争から離脱した。故に今私の手元にあるのは、この海兵隊と三隻の哨戒艇しかないのだ」

「それでも充分すぎるほどの力ですな」

「言え。兄上は私の何を気にしておられるのだ?」

「……」

「お前は頭が良い。それに勘もある。弟は男だが、兄達とは母が違う。血筋的には私も、あるいは弟も、もうすぐ兄達の粛清の対象になるだろう。だが確かに……」

 そう言うとクリスチーナは、ふと改めて自分の小隊長室を見回した。

 機に備え付けられた簡易ベッド。備え付けのタンス。書類の入った金庫。それくらいしか室内には何も無い。

 同性同世代の住む、貴族たちの部屋とは明らかに違う。

「弟には、私はできれば私より長く生き残ってもらいたいとは考えることもある。例え私が粛清されようともな、あるいは弟に……社を、引き継いでもらいたいとは、考えたことがない訳ではない。だがこれは夢物語だ。兄上たち、あるいは父上が、ご存命のままならば」

「そこを、おそらく兄上も、父君も心配されておられるのでしょう。閣下は実際に行動されている。そうでしょう?」

「はは、私が兄を差し置いて権力を掌握するなど。それはお前の妄想だと、お前も自分で言っているな」

「他の兵達だってそう思っていますよ」

「なに?」

 そこまで言ってから、クリスチーナはゆっくり後ろを振り向いた。

 そこにはいつもの、嫌らしい、疑い深そうで、扱いが難しそうな、斜に構えたような参謀がクリスチーナを覗いていた。

「海兵たちは、閣下が立ち上がるのを待っています。あるいは他の兵たちもそうだ。兵たちは、心から閣下に着いていっているのでは?」

「……フン。お前の目は苦手だ。まるで父上のような目だ」

「光栄です」

「事実とは違う、何かの妄想を見て勘違いして、疑心に駆られて人を殺す。疑い深く、臆病な、蛇のような目だというのだ。言っておくが参謀、お前が私の側に付くのがどれほど貧乏くじで愚かかは、機内を歩いて回ったお前なら分かるはずだ。そうだろう?」

 クリスチーナは机に片手を当てると、揺れる機内にあわせてその身を椅子から立てる。

「その上で、もう一度問う。私は立ち上がる気は無い。それでもお前はこちら側に来るというのか? なぜお前は、私についてくる?」

 折りたたみの椅子が、ギシリと音を立てて壁に叩きつけられた。

 ナカジマ参謀は、額に汗をかきながらクリスチーナ中将の顔を正面から見ている。

 クリスチーナとナカジマは、黙って数秒間ほどにらみ合った。

「私は一介の駒です。ですが私は、駒なりに、閣下に心を打たれたんですよ。これは本心です」

「繰り返しだな」

「閣下がいつか立ち上がると思って、着いてきているのです。言ったでしょう、私は他の兵たちと同じなんですよ」

「……」

 静かな室内に、一定の振動と共に両翼のエンジン音が壁伝いに響く。

 コツ、コツとドアハッチがノックされ、その向こうから海兵の一人が「参謀」と声をかけてきた。

「参謀、いらっしゃいますか?」

「なんだ」

「先行する一号艇から入電です。我地上に新たな動きを発見とあり、操縦士が参謀の指示を待っております」

「後にしろ、今は忙しい。いや……」

 そこまで言いかけて、ナカジマ参謀はいったん言葉を置いた。

 すぐにドアハッチ側に顔を振り向かせ、指を立てて指示を出す。

 海兵の方は、帽子を目深に被り頬にバンドエイドを貼る、艦内によくいそうなただの地味目な隊員だった。

「少し待て。ハッチを閉めろ、すぐに行く」

「はっ」

 ガチリとドアハッチが閉められ、室内はふたたびエンジン音の静かなうなり声だけが響くようになった。

 参謀が、コホンと小さく咳をした。

「閣下」

「……」

「正直言うと、オレもヒラ出の兵士たちも、生きてたって死んだって、生まれる前からこの先未来にゃ希望なんてないんです。偉い上官についてったって、どっかでのたれ死ぬか、一生足りない年金生活で最後は穴ぐらに放り込まれるくらいしかない。そんな人生はまっぴらだ。だけど閣下はどうも違う。なにかこう、全力でなにか抗えない運命に逆らってらっしゃる。そこがオレ達には魅力的なんだ」

「……」

「命には替えられないかもしれないが、だがなにもしないで愚痴ってるよりは何十倍もマシだ。兵たちはそんなトコだから、たぶん閣下についていってるんじゃないでしょうかね?」

「お前もそうだと言うのか?」

「他の奴らは認めてくれませんがね。でなければオレはここにいませんよ」

「部隊の情報が、外部に漏れている」

「……お気づきでしたか」

「お前があそこまでペラペラしゃべられるんだ、他の部隊にいる者、特に警務隊にいる連中には筒抜けだろう。それを私は気にしているのだ」

「なるほど」

「隊の中にいる、裏切り者を捜せ。それを見つけられたら、私はお前を信用することにしよう」

「!? で、では少なくともここら辺ではオレは信じてもらえ……」

「勘違いするな。私はお前を、内偵として我が隊に受け入れただけだ。今はまだ、私はお前を信用することはできない。だが、私の耳はお前の話を充分聞いた。その上で、今の私はさらに、お前という人間……いや、駒を嫌いになったな」

 そう言うとクリスチーナは大きく息を吐く。

 どっと疲れたようにして折りたたみ式の椅子に座り、机の棚から一丁の拳銃を取り出した。

「希望、信頼、明日なんて所詮人間の脳が作った幻影だ。いや悪かったな、この銃はお前に返す。兵の所に戻れ。休暇の話は聞かなかったことにしよう。弟には、私は会わない」

「え。あ、はい。でも閣下、閣下は今後本当に……」

「出て行けと言っている」

 ゴトリと、重い憲兵仕様の拳銃が机の上に置かれる。

 ナカジマ参謀は、黙ってゆっくりと机の上の拳銃を受け取ると、少しためらいがちになにかを言いかけて、そのままなにも言わず部屋から出て行った。

 誰もいなくなった部屋の中で、クリスチーナはフウーっと大きくため息をついて再び下を向いた。

 机の棚を開けて、拳銃の横にしまっていた指輪を取り出す。

掌を上げて、なにも付いていない指に指輪をはめて……そっと、誰もいない虚空に向かってつぶやいた。

「私は、兵たちという駒を利用しているだけなのだろうか……」

 キラリと、エメラルドの指輪が窓辺の光を受けて輝いた。

 クリスチーナの顔は、相変わらず暗いまま。

 確かにクリスチーナは、兵たちにアーティファクトの存在を話はした。

 だがその利用法を、クリスチーナは誰にもしゃべってはいない。

 権力抗争なのか。あるいは、兄を差し置いて本当にノジックという国を乗っ取るつもりなのだ。それともこの思いは……ただのやっかみか、一方的な復讐なのか。

 兵たちは駒なのだろうか。

「復讐、か」

 クリスチーナはつぶやくように言葉を口に出す。

兵に嘘をついているわけではない。だが兵たちは自分と同じ、未来に希望を持てていない人間なのだ。

 女であれ、平民であれ、自分たちには未来はない。だがその絶対的な壁を打ち破るためと称して、自分は兵たちを使い権力抗争に利用しようとしている。

「この貴女が、人生で一度だけ愛したあの男を、あの男の息子を、殺すのが」

 兵たちはそれに付き合うという。兵たちは、そんなクリスチーナに着いて行くと言っている。

 だが兵たちは兵たちだ。自分を慕う者どもの命を弄んで、いち権力抗争に使うことが、これが彼らの望む希望と未来だというのか?

 あるいはもう、私は彼らの命を使いかけている。そうなのか?

 エンジン音はなにも答えない。

 ただいつも通り、一定のひびきだけを残して室内を彩り続ける。

「これが私の夢なのか? 権力抗争。兄弟同士の殺し合い。復讐! 兵たちの夢! 希望! 裏切り。母上。嫌になる、私は……」

 沈黙。

「私は、いったい何がしたいんだ! まるで兄たちのようだ。これからいったい、どうすればいい。母上、私は……」

「あーあいやだいやだ。女を騙すってのは、オレにはどうも性に合わねェ」

 ドアハッチを閉めてから、ナカジマ参謀は心の中の感想を小さく口に出してつぶやく。

 ハッチの前に兵はいなかった。先ほど少し待てと言っておいたあの帽子の兵は、いったいどこに消えたのだろうか。

「ふん。ここの海兵たちも、他の部隊と変わんねェな、みーんな良い子だ。このままだと船もろとも全員おっちんじまうぜ」

 物言う駒。すべてはシナリオ通り。

ナカジマ参謀は一人ほくそ笑むと、とりあえず操舵室に向かって通路を歩くことにした。

 先行している船からの報告なら、とりあえず通信士かパイロットに聞けばなにか分かるだろう。

 通りがてら窓の外を見ると、緑の森を抜けてなんだかだだっ広い平野部に船は入りかけている。

『そうだ。このままクリスちゃんなんかと一緒に感傷に浸ってる暇なんてねーぜ、割り当てられた仕事を終わらせて、ちゃっちゃと船を降りちまったほうがよっぽど長生きできらァ……』

 カツカツと通路の上を歩き、そのうち廊下沿いにある対空砲座で銃を構える兵士と、非番らしい数名の海兵が互いになにか噂話をしている所に出くわした。

 三人とも、普通の姿格好をしたただの海兵だ。

「おっす。何か異常はないか?」

「あ、はい参謀閣下。何も異常はありません」

「ふむ。地上の方も、空も何も異常はないようだな」

 銃座に座る海兵は、よくいる若い海兵隊員だった。

 あるいは後ろで嫌な顔をしている二人組も、ごく普通の海兵だ。

「ところで参謀。参謀はたしか、秘密警務隊の方なんでしょう?」

 銃座の海兵が聞いてきた。

 その顔は、見た目だけは笑顔だが、おそらく本心とは別の笑顔なのだろう。

 脇に立つ二人の海兵は、露骨に嫌な顔をしてナカジマ参謀を見ている。

「警務隊から来た、ってことは、参謀はもしかして何かを探してるんですか?」

「ふん。どうしてそう思った?」

「い、いえ別に……」

 そこまで言うと、銃座の海兵はビクッと体中をふるわせ黙り込むと、再び銃を持って地上を見始めてしまった。

 残りの二人も、いつの間にかナカジマ参謀に背を向けてそのままどこかに行ってしまう。

「……職務に励め、無駄なことを考えるんじゃないぞ。閣下と船は、お前たちの目にかかっていると思え」

 ナカジマ参謀はそう言うと銃座の兵の肩を軽く叩き、再び通路を操縦室まで歩いた。

 所々、非番らしい兵士がナカジマ参謀を見ている。

 どれもこれも、敵意に満ちた視線だった。

『くっそ、しょっぱなからいらん事をしたかな。こんな奴らから件のスパイを捜せってのかよ。骨が折れそうだ……』

 スパイとは。

 ノジックの軍内部に忍び込んだ、ドイタミナ側のスパイのことだった。

 軍の作戦行動が、敵側に漏れている。

 ナカジマ参謀が警務隊からよこされた本当の任務は、このスパイを捜し当てて逮捕する事だった。

 諜報部が突き止めた情報によると、どうもそのスパイはこの海兵隊のどこかにいるらしい。諜報部の情報だ、おそらくこの情報は間違いないのだろう。

 空飛ぶ巨大な棺桶の、どこかに、自分以外の胡散臭いスパイが、一名以上いる。

『その上、なんでオレがあんな密命まで受けちゃうかなー』

 クリスチーナの言う密命、『スパイを捜せ』とは、おそらくナカジマの探しているそれとは別の人間の事だろう。

余計な捜し物の命を受けタハァとため息をして、なお歩き続けると、狭い通路をくぐり抜けた先にナカジマはやっと操縦室に入ることができた。

「参謀、一号艇より報告が入っております。ワレ 地上ニ大規模ナ動キヲ発見セリ」

 ナカジマ参謀が操縦室に入るのを見た海兵の一人が、耳からヘッドセットを外しながら声を掛けてきた。

 先ほど、通信機を壊した時に泣きすがってきた海兵隊員だった。

 こいつがスパイか?

 あるいはこの通信兵がスパイなら、秘密無線も、作戦行動も、暗号文も全部ひっくるめてドイタミナ側に筒抜けだろうな。

 ナカジマ参謀はギロリと睨むようにして通信兵を見た。

「ん。一号艇は今どこにいる?」

「本隊よりおよそ二キロ先の空域です」

 通信兵の方も、ナカジマ参謀をにらみ返すようにして見た。

 見れば他の兵たちも、ナカジマ参謀をまるで何かの仇のように睨んでいる。

『ははっ、オレも嫌われたなー。やっぱりいきなり拳銃をクリスちゃんに向けたのは、さすがにまずかったかな』

 ナカジマは苦笑した。

 だが嫌われるのを嫌がってるんじゃ、自分も自分の仕事をはかどれない。

「二キロ先か、今だと……もう真下か。何か地上にいるか?」

「マン大佐の第五軍に合流するため、今高度を下げているところです。何かいるならその内見えてくるでしょう」

 今度は操縦士だった。

 ……相変わらず、今度はナカジマ参謀の目も見ず操縦士は言い放つ。

「見えました。あれです、あれが第五軍の駐留地で……ん?」

 そこまで言うと、操舵を繰り返す操縦士は舵を持ったまま一瞬固まった。

 副操縦士も、操縦士の異常に気づき窓の外を見だす。

 ナカジマ参謀も一緒に窓の外を覗いた。

 丸い形で陣を構える、動く黒い点の集合体とその宿営地が眼下に覗く。その一端を、何か別の動く黒い点が襲っていた。

 その数と大きさは、マン大佐率いる第五軍団のそれよりも二、三倍ほどは大きい。

 しかも一個一個の黒い点が、ノジックのそれより一回り以上それぞれ大きくも見える。

「何だ?」

 クリスチーナが通路から身をかがめ操縦室に入って、窓の外を覗かず指揮台に静かに収まった。

「敵襲です。閣下、マン大佐の五軍が、ドイタミナの大集団に襲われています!」

「敵だと? どこから沸いた敵だ?」

「はっ、大部隊です。おそらく近くにある要塞から出撃した部隊でしょう」

「参謀。私は、そんなつまらぬ事を聞いているわけではない」

 宿営地の上を、一隻の哨戒艇が地上を援護するように周回機動を繰り返している。

 だがその航路も綺麗な円を描かずに蛇行を続けており、一目見てそれが繰り返される回避機動だと分かった。

 哨戒艇は、ナカジマ参謀たちを載せる哨戒艇と輸送艇の先を飛ぶ、先行していた海兵隊一号艇だった。その後ろをいくつかの黒い大きな点が追いかけている。

「あ、あれは龍騎兵だ! 参謀! ドイタミナの龍騎兵です!」

 副操縦士が望遠鏡を覗いて叫んだ。

 機首が徐々にマン大佐の宿営地滑走路に近づいていき、次第に地上や空を駆け巡る黒い点たちの姿が徐々に明確になっていく。

 空を飛ぶ黒い点の内の一つ、竜に乗り槍を構える装甲兵がドラゴンの手綱を引き、火の玉を哨戒艇に向かって吐き着けた。

 蛇行を続ける哨戒艇の翼端に赤黒く燃える火の玉が着弾、粘り気のある炎を赤く燃やしながら徐々に哨戒艇の翼を燃やし始める。

 エンジンから白い煙が出始め、次いで黒い煙が出て、白い閃光。

哨戒艇は唸るような音を立てて地上に向かい高度を落とし、次いで分解、地上を走るノジックの兵たちのど真ん中に落ちて爆発、四散した。

龍騎兵のいくつかが、ナカジマたちの乗る哨戒艇に気付き進行方向を変える。

「閣下、本船はマン大佐と合流することができません。着陸不能です」

「本船の対地ミサイルを使って敵を蹴散らせ」

「危険です! 哨戒艇の機動力では、あの龍騎兵たちを振り切るのは不可能です!」

「やれ! 命令だ!! 地上にいるドイタミナの雑兵と龍騎兵どもを五軍宿営地より引きはがせ!!」

「……はっ! 総員第一種戦闘配備!!」

 ナカジマは叫ぶと、再び伝声管の蓋を開けて同じ言葉を叫び、急いで指揮台脇にある参謀用の椅子に座ってベルトを固定した。

「来るぞ! 閣下を守れ!」

 海兵たちが緊急用の盾を持って、クリスチーナとナカジマの座る椅子の前に立つ。

 まるでいつもの怒った顔のようなクリスチーナを横にして、ナカジマの額には尋常ではない汗を浮かべて参謀用の席に座ってベルトを締め付けた。

 澄ましたように上を向き、必死になって歯を食いしばる。

『くっそ! こんなところで死んでたまるか! オレには、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんあるんだッ!!』

 そう思いながら、ふとここでナカジマは別のことを思い出した。

『そういやオレは、このままクリスちゃんを騙してお父上の御好意を受けたとしても、それでオレは本当にお父上の言うとおりに無事に生き延びさせてもらえるのか?』

 思って考えて、ふたたびナカジマは別のの事を思い出しぶるっと震える。

『マーチンのオヤジは油断がならねェ。……身内のごたごたを、色々知っているようなオレだ。身内のごたごたは、たぶんアイツらはあんまり外にしゃべって欲しくないはずだ。となると……?』

 そういえば。

 クリスチーナの母親、世にも珍しいスラム出身の彼女が玉の輿で嫁いだ先で殺された時のその方法は……たしか毒だったはずだ。

「貴女はなんでそんな変な事を思いついたんですか」

「変なことって?」

 道をパカパカと歩く盗賊一行、マーヤに対してカークスはやや距離を取りながら話を聞く。

 マーヤは盗品の詰まった麻袋を馬の尻に乗せ、手下に周りを警戒させながら自分は鞍の上であぐらを掻いてカークスを振り返った。

「だっだから、その……」

「なになに?」

「くっ、国盗り、とか……」

 国盗り、という壮大な言葉に、なんとなく恥ずかしさを覚えカークスはうつむいてしまう。

 カークスは自分の顔がなぜかだんだん熱くなるのを覚えたが、その様子を分かったのか、マーヤは馬の上でアハハと大きく笑ってカークスをからかった。

 ここは、ドイタミナの西と東を結ぶ街道の上。

 もうすぐドイタミナ最大の関所アーシミットに着くだろう所だ。

目の前に広がる森を抜けて、広大な平原を抜けた先にある大きな城塞都市が、マーヤ達がまず目指している場所だ。

ドイタミナの王都は、アーシミットの関所を超えたその先にある。

「なーに、国盗りがなにか恥ずかしい事だった?」

「な、いやその……」

「君とこの子……さや、だっけ。さやちゃんを使ってさ、でっかいことをしようってんだよあたしたち。ねっ?」

 あぐらを掻いて馬に乗るマーヤは、すぐ隣を歩くハギーに問いかけた。

 ハギーは黙ったまま、すこし不機嫌そうな顔をしてカークスとさやを見比べる。

「ははは、気楽な夢商売じゃないか。少年くん。逆にちょっと逆に聞いてみたいね。君はこれから、じゃあこの子を連れて何をする気だったの?」

「お、オレは」

 と、そこまで言いかけてふとカークスは言いよどむ。

 言いよどんで外を向くが、だがマーヤはカークスの背を見るだけで何か笑っているだけだった。

「どうせ復讐とかなんかなんだろ?」

「な、なんでそんなこと!」

「分かるさー。あんた、たぶんあいつらに村を燃やされたクチだろう? 着の身着のままでさ、こんな所を真っ昼間から歩いている農夫の少年なんてそうそういないよ」

「……」

 事実、その通りだった。

 周りを警戒する盗賊の手下達がカークスを見て、それと一緒に巨漢のハゲ男ハギーもカークスを振り返る。

「フ、フン、盗賊なんかに同情はいらないね! そうだ、オレはアイツらに復讐してやるんだ! それがオレの人生なんだ!!」

「まあ何かやりたいことがあるのは、それは人の自由さ。……でも誰かに何か反抗したいってだけの人生は、その内迷うことになるよ。目標が曖昧だから。もっとこう、分かりやすくて迷いにくい目標を見つけた方がいいよ。まー、迷うのも一興だと思うけど」

「フン、盗賊に説教されたって説得力ないね」

「そういきり立つなよ少年。夢は大きくさ。目標を見失って迷子になるのは辛いさ。その内深みにはまって、深い深い業から取り返しのつかないひとりぼっちの旅にさ……ん?」

 と、ふとマーヤが馬の手綱を引いてその足を止める。

 マーヤたちから借りたボロ着をまとう剣の少女さやとカークス、馬上のマーヤとハギー以下盗賊たち一行は、ついにドイタミナ有数の関所『アーシミット』まであと一歩の所までやってきていた。

 空の上を、見覚えのあるノジックの哨戒艇が飛んでいく。

 次いでいくつもの轟音。とどろくように森中に響きわたる、うねるような合戦のときの声。

「戦い? ……どこかで戦いが起こってる?」

 マーヤはひらりと馬から飛び降り、そのままピタリと地面に耳を着けて四つん這いの姿勢になり聞き耳をたてた。

「どこかって、どこで?」

「しっ、静かに。……だいぶ近い、この森の向こう側だろうね」

「ち、近い? ヤバいんじゃないっすかお頭。このままだと、じゃああっしらも戦に巻き込まれちまいますぜ」

 徒歩のハギーと盗賊達が慌てだし馬が小さくいななく。

 マーヤは盗賊たちの声を無視してしばらく地面に耳を着けていたが、おもむろに顔を上げて盗賊たちに指を指して指示を出した。

「おまえ、ひとっ走りこの街道の先を見ておいで。おまえは太陽のある方向に、森がなくなるまで走ってから帰ってくるんだ。ぬかるんじゃないよ」

 言われた二人の盗賊たちはそれぞれ大きくうなずいてから、一人は街道を、一人は森の中を馬の腹を蹴って駆けていく。

 残ったのはマーヤと、徒歩のハギー、カークスにさやだ。

 マーヤは立ち上がるとひらりと馬の背に乗り直し、鞍に結んだ大荷物を少し落としてふと地上のさやを振り返った。

「ふむ。おしゃべりは終わりかね。これからもしかしたら、少し走ることになるかもよ」

「……」

「そうだねぇ。……あ、そーだ。そっちのあんた、あたしの馬に乗りなよ」

「えっ?」

 突然話を振られて驚く声。

声の主は、さやだった。唐突にマーヤに乗れと言われて、さやはビクンと体を震わせている。

 マーヤはさらに手を伸ばして、この怯える剣の少女に敵意がないことを表すようにニコッと笑いかけ馬を少女さやに近寄せた。

「あんたいくら剣の鞘だって言っても、どうせ走るのはそんなに早くないんだろう?」

 言われてさやは少し変な顔をしたが、でもそれ以上は何も言わずに差し出されたマーヤの手を小さく握り返す。

そのままふわっと、マーヤは勢いよくさやの体を引き上げて馬の背に乗せた。

「これから、あたしたちは軍人達の戦う真ん中を関所まで突っ走ることになるよ」

「……」

カークスはふと、このまま少女が女盗賊に連れ去られて行ってしまうのではないかと不安になってマーヤの顔を見た。

マーヤの顔は出会った頃と同じように、まるで何を考えているのか分からない笑顔のままだ。

 カークスの中の、得体の知れない不安がだんだん大きくなってくる。

「あ、あのマーヤ……さん」

「なんだい? 急ぎの用事?」

「い、いえなんでも……」

「?」

 小柄な少女二人が馬の上で互いにバランスを取っていると、そのうち森の中から、さっき駆けて行った盗賊の一人が戻ってきて森の向こうの子細をマーヤに報告しに帰ってきた。

報告によると、どうやら森の向こうにはノジックの大軍隊が陣を構えているらしい。

 馬にさやが乗ったのを確認して、マーヤはふむと何かを考えこんだ。

「……もう一人が帰ってこない」

 道の先では、相変わらず軍隊同士の衝突の音が聞こえてくる。

「やられたか? ……となると、おそらくこの道の先にも軍隊がいる。方向からするとおそらくドイタミナ軍だ」

 東に向かって、マーヤは一人でうなずいた。

「まさか、自分たちが味方にやられるなんて」

 カークスは、心の中に沸いてくる不安を、ほんの少しだけ口から出してみる。

 ほんの少しだけ。

 だが、たぶん自分の言いたいことはそんなことじゃないと思う。

「勘違いしないことよ、ちびっ子ナイト君。戦場じゃ兵士は、殺せるか、殺せないかだけでしか相手を見てないんだから」

「じゃあもしも軍人に囲まれた時は」

「逃げなさい」

「そ、それだけ?」

 その不安を思うカークスの心がなにか顔に出たのか、マーヤは馬のいななきを抑えながらもふとマーチスの頭に手を載せてきた。

「安心しなー坊や。何を心配してるんだか知らないけど、これから何があったとしても、あたしらはあんたの味方だよ」

「!? ふ、ふん! 盗賊の味方なんて信じられるかっ!」

「信じてもらわなきゃ困るねー。そんなんじゃ、この先何があっても助けてやんないよー?」

「だっ、だったらなんでさやだけ馬に乗せて、オレは馬に乗せてくれないんですかっ」

 思いついたような罵声が、ふと今自分が思っている不安そのものだったのに、言ってからすぐに気が付いた。

 カークスはハッとして口もとを抑えたが、だがマーヤの方はそのカークスの言葉を聞き逃さない。

「……ふーん? なに、あんた馬に乗りたかったの?」

 驚いたような顔をして、今度はマーヤの顔がカークスの顔を覗いてくる。

 馬の上から、本当に、幼くて小さいカークスの顔を見下ろしている姿勢だ。

「戦場の中を馬にも乗らずに駆け抜ける、命知らずの男たち。かっこいいじゃない」

「じっ自分だけ馬に乗ってるからそんなこと言えるんだ!」

「レディ・ファーストだよ。あんたら男は、まず死んでも自分の一番愛する女を守り通す。それは盗賊でも誰でも、何の人間でも絶対に守るべき使命の一つなのさ」

「それは自分が女だからっていう詭弁じゃないか!」

「悔しかったら生き延びるんだね。この馬は二人乗りなんだ。しかもこの中で一番に生き延びなくっちゃいけないのは、この子と、こいつらを連れてるあたしだよ。アンタみたいなよそ者のガキはまず真っ先に死んでも誰も文句言わないような、ただのお荷物なんだからね」

「!? こっ、この……!」

「よせよせボーズ。生き延びたかったらマーヤ様に逆らうのはやめろっ」

 ふと横から斧が伸びてきて、カークスはマーヤとの口論を斧の刃で止められる。

「これでもお頭は充分気を利かせてるんだぞ。それに今は、オメェも言い争いをしてる時じゃねえ。生き残りたかったら、黙ってお頭の言うことを聞くんだ」

「で、でもハギーさんだって馬に乗ってないんですよ? それでいいんですか!?」

「オレは、馬に乗れねェ」

 そう言って巨漢のハギーはにやりと笑った。

 ひげ面の、剛気な顔だった。

「で、でもこのままじゃマーヤだけ馬に乗って先に行っちゃうじゃないですか! 卑怯だそんなの!」

「オメぇだって、どうせ馬に乗れねぇんだろう? だったら無理して馬に乗って、そのまま全員殺されるわけにゃいかねぇ。お頭はそこまで読んでらっしゃる。そうでしょう?」

 マーヤはハギーの声にちらりと振り返ったが、黙ったまま道の先を見ていた。

「へへっ、どうせ乗れない馬に乗ったって、すぐに落ちて馬に踏まれるだけだぜ。ヘッ!」

「ぐ、ぐぐ……」

 一理ある。盗賊にしては、どうも話がうまい。

「さっ、無駄口叩いてないで、とっとと関所まで逃げ込むよ。中に入れれば少なくとも、ノジックの兵士には襲われないだろうからね」

「オレ達は、この後どうするんですか」

 カークスは少しムッとしながら、馬に乗る小さな盗賊少女に問いかけた。

 背中には、少女の背丈よりも大きな剣が背負われている。その剣と少女の肩を抱えるようにして、さやはしっかりと馬の上に体を置いていた。

「走るんだよ。あたしたちは、先に関所に入って待ってる、悔しかったら生き延びてみな」

「む、む」

 ……。

 やっぱり、盗賊にしては妙に口がうますぎる。

 カークスは言いたくなった小言をグッと堪えて、馬の前脚を上げさせるマーヤを見た。

「行くよー! 全員駆け足!! ハイヨーっ!!」

 馬と徒歩の全員が一斉に駆けはじめる。

 走り出したすぐ先で、血まみれで道半ばに倒れている盗賊と馬の死体があった。

 カークスは死体を踏み越えて、すでに遠くなりつつあるマーヤの背中を全力で目指す。

「小僧! もっと早くっ!! ハァッ、ハァッ……走るんだ小僧!!」

「い、言われなくたって!!」

 ノタノタと斧を持ったハギーがカークスのすぐ後ろを走る。

 街道が広くなり、見える世界が森を抜けて一気に明るく大きくなった。

 そこは、煙と火と槍と銃剣と軍と軍と人間が全力でぶつかり合う、大きな合戦場だった。

 しばらくしてマーヤたちの背中がほとんど見えなくなると、カークス達はすぐに自分たちが今、戦場のどこを走っているのかすぐに分からなくなった。

走るべき道中を、剣を振るう兵士同士が乱雑にぶつかり合っている。

 他には傷ついた兵士、剣ではなく銃剣、あるいは槍を振るう兵士、翼を切り落とされ瀕死のドラゴンに血を吐いて倒れる竜騎兵、どこかでは裸のまま逃げ回るどこの人間だか分からない兵士もいて、戦場は人と兵器でごった返していた。

「クソッ! やっぱり無理だったか!!」

 ハギーが毒づきながら斧の刃を振り上げ、どこかの兵士が頭を叩き切られて絶命する。

「おいお荷物のガキ! 生きてるか!!」

「なっなんとかッ!!」

 カークスは拾い物の剣を手に構えながら、巨体のハギーを背にしてグルリと周りを見回す。

「ガキって言うな! オレはカークスだ!!」

「うるせーガキ!! 生き残ったら名前で呼んでやる! 今のお前は、ガキだ!!」

「これからどうするハゲ!!」

「っ……こ、このォ!?」

 ハギーが振り返りざまに、手に持つ巨大な斧を振り上げる。

 ザシュッ! 槍を持つ、どこかの兵士が首を飛ばされ地面に倒れた。

 大量の返り血がカークスの全身にかかり、カークスはヒッと小さく叫び声を上げた。

「人殺しもできなくて盗賊稼業やってられっか!!」

「は、ハゲ! 今のってドイタミナの兵なんじゃないのか!?」

「うるせーガタガタ抜かしてるとやつらごとお前の首たたっきるぞ!!」

 その時、二人のすぐ頭上を一機の哨戒艇が超低空飛行していった。

 ラックに下がる掘削機が重そうにきしみ音を上げ、胴体からは幾本もの火線が地上と空に降り注いでいる。

数匹のドラゴンと龍騎兵が、哨戒艇を取り囲んでいた。翼のあるエンジン部はすでに大きく火の手が入っている。

 突如、閃光と爆発音。

「お、おいあれ!!」

 ハギーが指さす先には、派手なノジックの軍旗と重装儀仗兵が防御円陣を組んでいた。

 墜落する哨戒艇はその円陣のすぐそばに墜ちたが、その衝撃で円陣を組む儀仗兵の大半が吹き飛び、その中から一人、何やら高貴そうな服を着ている男が兵たちと一緒に野原に大きく吹き飛ばされて気絶していた。

 上を見れば、銃を撃ちまくっている中型哨戒艇が、もう一隻だけ空を飛んでいる。

「ん……ちょっと待てよ。おい、ガキ!」

「うるせぇなんだよ!!」

「ちょっと耳を貸せ。もしかしたら、助かるかもしれねーぞ」

「?」

 カークスは言われてハギーの指さす先を見る。

 ノジック海兵隊の哨戒艇だ。

 低く空を飛び回りながら、必死に何かを探すように地上すれすれと中空を繰り返し飛び続けていた。

 下を見れば、ノジックの誰か偉い人間だ。

「……どうするって?」

「決まってるだろ、あいつを助けるフリして、あの空の奴に飛び込むぞ!」

「むっ、無茶だそんなの!!」

 そう言うが早いが、ハギーはそのまま高貴そうなノジックの士官の元に走り去ってしまう。

 ハギーは戸惑い躊躇したが、カークスは次から次へとぶつかり合い斬り合っていく兵士同士の戦いから半ば逃げるようにして、駆け去ったハギーの巨漢を追いかけノジックのテントまで一緒に走って行った。

 そこには、確かに紫色の高貴そうな服を着た、かなり身分の高そうなノジックの将校が倒れていた。

 血を流して倒れている、高級そうな服を着た男はまさしくノジックの高級将校だった。

「ビンゴだ!!」

 鎧に描かれた紋を見ればすぐ分かる。おそらくこの男は、ノジックの中でもかなり上にいる男だ。

 カークスが将校の体を肩に担ぎ、ハギーが身近に倒れていた一本の軍旗を担ぎ上げると空を飛んでいる哨戒艇に向かって大きく旗を振って大きく振り上げる。

 すぐ近くでノジックの兵士が剣の兵士に殴り殺され、剣の一団がカークス達に向かって駆けてきた。

 すると哨戒艇が大きく翼を動かし、煙の上る草原の上を並々ならない超低高度で飛びはじめてカークス達に向かって飛び始める。

 剣を持った兵たちが、とつぜん低空飛行を始めた哨戒艇に恐れをなしてぎょっとしたような声を上げた。

 カークスは唸った。担いだ鎧の男は、想像以上に重かった。

「貸せ! オレも担ぐぞ!! 一気に飛び乗るんだ!!」

「!!」

 地上の兵士たちが一目散に逃げはじめ、振り返ると哨戒艇の搭乗口らしき所に一人の兵士が腕を広げてこちらを見ている。

 カークスとハギーは男を抱え込むと、直近を哨戒艇が飛び去る瞬間に男の体と、自分の腕と斧と剣の先を飛び込ませて一気に哨戒艇搭乗口に自分たちの体をねじ込ませた。

「!? こ、コイツ降りろ!!」

 男を搭乗口に突っ込ませると、衝撃で通路に倒れた兵士が通路で叫んだ。

「この船は殿下専用の船だ、兵は地上に降りろ!!」

 まるで足蹴にするように、名も無き海兵はハギーとカークスの顔をブーツのかかとで蹴り落とそうとする。

「降りろ! 降りるんだ貴様!!」

「ケッ、降りろと言われてもう降りられるかよ、だったらお前が降りろ!!」

「ーッ!!??」

 蹴り上げた海兵の足をハギーが掴み、海兵はそのまま声にならない声を上げて搭乗口から外に落とされていった。

 そのまま踏ん張るようにしてカークスとハギーが船内に体を潜り込ませると、今度は哨戒艇が一気に高度を上げ始めて空のどこかを飛び始める。

カークスたちは、空の上を飛んでいた。

「……!? 貴様、何者だ!!」

 何とか全身を哨戒艇の搭乗口に詰め込むと、今度は哨戒艇の奥から海兵の集団が現れて、海兵達の何人かが一斉に銃を構えてカークス達を取り囲む。

 中でも特に偉そうな、参謀の服を着た軽薄そうな一人の男も一緒に拳銃を構えてカークス達を見下ろした。

「貴様、五軍の兵ではないな。ドイタミナの人間か!」

「ま、まあ待ってくれよ旦那。話は聞くもんだ。オレ達は軍人じゃねェ」

「フン、さっき海兵を一人落としてくれた奴だな? この船は余剰人員を乗せられるだけの余裕はない。人質は無用だ、殺せ!」

「ま、まま待ってくれ! こいつを助けてやったのはオレ達だ!」

 海兵たちが一斉に銃を構え、ハギーは大粒の汗を風に乗せてタラップの外に飛ばす。

 と、ふとカークスは、廊下に倒れる高級将校が虫の息ながらも、まだ胸を上下に動かしているのに気が付いた。

 男は生きている。あるいは、もうすぐ死ぬかも知れない?

「……」

 ちらりと海兵達を見て、将校を見て、カークスはゆっくりと将校の足下に近づいた。

「!? おい、止まれ貴様!!」

「オレは、この人の傷を治せます!」

「……なに?」

 カークスはそう言うと、そっと将校の鎧の上から自分の手を載せてみた。

 カークスたちのいるこのドイタミナでは、ごく僅かだが魔法のようなものは存在していた。

 とはいえ実際にできることは、ほとんどお遊びのような傷直し程度の物だが。

例えば野遊びをしてて傷を作ったときは、子供たちはよく母親に泣いてヒールを駆けてもらう。そんなことはドイタミナでは、日常の出来事だった。

 とはいえ本格的な魔法は一部の魔法使い、王室にいるような、特殊な知識階級の人間に限られる。

古い魔法、特に、呪文を具現化させるような特殊な魔法は、使いこなせる人間はほとんどいない。

だがあの少女、剣を隊内に隠せるような、手で触って脈打っているような完璧な魔昌体が、なぜへんぴな田舎村、カークスのいた村の、あの老人の地下室にいたのだろう?

 カークスはそっと鎧に刻まれたドイタミナの軍の紋様を見て、それから鎧の下に手を這わせて、どうするかを考えてみた。

『こいつらが……オレの村を……』

 自分の村を襲ったのはこいつらだ。

「……」

 少女を追って、自分たちの村に火を着けた人間の片割れ。

 そのノジックの兵士たちが、強い疑いの目でカークスの顔を睨んでいる。

 その敵意剥き出しの顔と、銃が、カークスはとても恨めしかった。

 だがそんな銃を向ける海兵たちを見て、カークスは何か小さな疑問が心の内にわいてきた。

 自分と、自分たちの村を襲った奴らと、こいつらは同じ人間なのだろうか?

『……どの敵に、自分は復讐すればいいんだ?』

 制服に縫われた軍の紋が、今目の前で銃を向けている兵士と、村を襲った覆面の兵士たちと違うような気もする。

 こいつらは、憎いノジックの人間だ。だが何かが心に引っかかる。

助けるべきか? それとも、見殺しにするか。

『ち、ちくしょう……』

 悔しかったら生き延びてみろ。若い盗賊の娘マーヤは、あの時自分にそう言った。

 曖昧な目標は、すぐに目の前から消えてしまう。

 ……答えは、最初から決まっていた。

 カークスは小さくヒールの気を掌に込めると、僅かに上下する将校の胸の上に手を当てて、そっとその光を鎧ごと将校に押しつけた。

「……!? ……ッ!! ッ!!!!!」

 掌に光を溜めると、激しく咳き込みしはじめる将校の中にカークスは光を落とし込む。

 汗を拭きだし髪を逆立たせるカークスに何人かの海兵がその腕をどかそうとするが、咄嗟に参謀が腕を伸ばして海兵の動きを止めた。

 なおもカークスが光の玉を将校の胸に落とし込み続けていると、しばらくしてカークスは息をはき出すようにしてその場に尻餅をついた。

「だっ、ダメだ。これ以上はオレには……」

「お、おい貴様。……今、お前は殿下に何をした?」

 ざわつく海兵をそこにして、緊張の眼差しで参謀がカークスに問いかける。

 カークスは荒く呼吸を繰り返しながら「オレのっ……国に伝わる古いヒールの呪文です」と、僅かに答えた。

 それが限界だった。

「でも傷が深すぎて……」

「なにヒールだと? 助かるのか!? 殿下は助かるのか!?」

 参謀が、汗を拭き尻餅をつくカークスの首を激しく揺さぶる。

「貴様魔法使いか! この国にゃそんなのが残ってるのか!?」

「お、オレは魔法使いなんかじゃありません! でもこれくらいなら、うちの国じゃ誰でもできることなんです」

「クッソタレ! ちくしょう役にも立たねぇクソ魔法使いだ! 殿下を助けられないんじゃお前に用はない! 今すぐ撃ち殺してや……」

「参謀!」

 と、その内別の海兵が通路の奥から顔を出し、怒った参謀の耳元に何かをささやいた。

 海兵の伝言を聞いている内にみるみる表情が落ち着いていく。拳銃を持った参謀はチッと舌を鳴らした。

「今はそれどころじゃねぇ! クリスチーナ閣下にも伝えろ、マン閣下は重傷で、今すぐに手当が必要だとな。閣下を医務室にお連れしろ! 担架を持ってこい!!」

 悲壮そうに参謀が叫ぶ。その瞬間、鎧を着た将校が大きく吐血して全身をビクンビクンと波打たせた。

 赤い血を浴びて、参謀は突然赤く染められた自分の服を見て、次いで次々にはき出される赤い血に目を覆った。

「いっ!?」

「だめです、もう……この人は助からないでしょう。傷が深すぎます」

「て、てめぇ分かりもしない異人の分際で知ったような口を!!」

「でも本当なんです!」

 参謀と呼ばれる軽薄そうな男がカークスの襟元を掴んで揺らすが、カークスは彼の怒った顔に平然と、事実として将校の傷の深さを伝えた。

 数人の兵士が通路に寝そべる将校の鎧を脱がし、服を脱がす。

 赤黒く染まった、高貴な服が通路内にベチャリと放られた。

「……いや、分かった。いや答えろ。閣下は長くて、あと何分持つ? お前が本当にヒールを使えるなら答えられるな? 答えろ!」

 医療の覚えのある海兵が苦しそうに血を流す将校の服を剥がし、実際に目に見える形で腹に開いた大きな傷が見えてきた。

 参謀は、将校の傷口を見てウっと唸る。

「な、長くて……」

「よぉし、分かった。お前の全体力を使ってでも殿下の命を一秒でも永らえさせてみろ。その魔法とやらで殿下を蘇生し続けるんだ! 衛生兵、マン太子閣下をコントロールルームに運べ! 急げ!!」

 担架を担いだ海兵が数名、鎧を脱がされた血まみれの将校、マン閣下を担ぎ担架に載せる。

「お前もついてこい、閣下の傷を治し続けるんだ!!」

「ええっ!? そ、そんなの無茶だ! もう治りません!!」

「治らなかったら、お前を今すぐ空に放り出してやる! やれ!!」

「くっ……」

 色々考えた末にこの将校を助けたつもりだったが、だがここまで酷い扱いになるとは思わなかった。

 思わなかったが……だが、このまま着いて行けば、この船でも少しは長く生きて行けるかもしれない。

 ……悔しかったら生き延びてみな。盗賊の、あの小娘がカークスに言ったあの言葉だ。

「ちくしょう……」

 カークスは込み上がってくる悔しい感情をゴクリと飲み込み、いつかあの盗賊の少女に何か言ってやろうと心に決めながら傷つき担架に担がれる将校の傷をあらん限りの力でヒールした。

「よし! 閣下をコントロールルームへ、クリスチーナ閣下の所までお連れしろ、急ぐんだ!!」

 走る担架の海兵と一緒にカークスも通路を駆けるが、ふと後ろを振り向くと手持ち不沙汰のハギーがカークスと一緒になって着いてこようとしている。

「待て!」

「お、オレは何にも悪い事ぁしてねぇですぜ! このガキのツレだ!!」

「捕虜はそっちじゃないぞ! おい、誰かこの薄汚い盗人を倉庫にお連れしろ!!」

 参謀が叫び、海兵が手錠と綱を持ってハギーの腕を硬く縛り上げる。

「へ、へへっ、お手柔らかにお願いしますよ……」

 ハギーが頼りなさそうに笑っている姿を後ろに見ながら、カークスは担架の兵たちと一緒に、担架の男にヒールを唱えながら一緒に通路の奥へ駆けていった。

 狭い通路を担架と共に走っていくと、いくつか小さな小部屋を通り過ぎた先で通路が一気に横と縦に広がり、カークスは哨戒艇の中心コントロールルームにその足を踏み入れた。

 ビービーと警告音を鳴らす各種電装品。忙しそうに機器を修理している工兵、血を流し椅子に座っている海兵隊員たちに囲まれるようにして、地図の置かれた大きめの台のすぐ前に、白い制服の女将校が一人、剣の鞘を持ってイライラしながら座っている。

「クリスチーナ閣下! マン大佐をお連れしました!」

「……!」

 クリスチーナ閣下と呼ばれて、女将校が勢いよく椅子から立ち上がった。

参謀を押しのけて、通路を小走りに担架の上に寝る将校……マン大佐の元まで駆け寄ってくる。

 その時カークスは女将校にドンと横に突き飛ばされてしまったが、だが女将校……クリスチーナは、カークスの存在にはまったく気が付いていないようだった。

「……」

 黙ってクリスチーナが、担架の上の男の顔に手を伸ばす。

 指輪のはめられた白い指が、そっと、血だらけの男の頬に触れた。

 男は苦しそうにしながら目を開くと、マンと、クリスチーナは互いに静かに見つめ合う。

「生きていたか」

「なんとか。ね、姉様も、お元気そうでなに、よりです……」

 ごほごほと咳をしながら、焦点の合わない目を開いて男は苦しそうに口から血を吐き出す。

 赤い血が白いクリスチーナの顔にほんの少しかかって、脇に立つ参謀が一瞬はっとするが、だがクリスチーナは自分の顔に血がかかったのを一切気にしていない。

カークスは自分の服の裾を握りしめると、傷つきどうしようもないクリスチーナの脇を通って、担架に寝る男の口に自らの口を付けた。

 鼻を塞ぎ一気に口内の血を吸い出し、ペッと脇にはき出す。

 吸って、はく。吐いては吸う。その動作の途中でもヒールは途切れさせずに、男の胸の上で光らせたまま。

 しばらくその動作を繰り返すと、男は苦しそうにしながらも何とか呼吸を整えて、カークスにそっと微笑んだ。

「ありがとう、少年」

 ……この男は敵なのだ。

 自分の家と、村と、自分自身をここまで追い詰めたノジックの片割れ。

 その点、自分はただの捕虜。

 カークスはぐっと胸にこみ上げてきた何かの思いを飲み込むと、血に汚れた口元を拭いてそっと視線を外した。

「貴方は……たぶん、傷はもう治りません……もうすぐ死にます」

「……」

 男は、カークスの残酷な言葉に、黙ってうなずき微笑んだ。

 クリスチーナと呼ばれた女将校は、血まみれで重傷を負っている男と、カークスの顔を見比べて、そっと涙をぬぐった。

「ね、姉様。……最期、死ぬ前に……姉様に伝えたいことが、あります」

 苦しそうな顔でゼヒゼヒと息をするマン大佐に、クリスチーナはそっとその脇に座った。

 カークスはすぐに自分の場所を白い制服のクリスチーナに譲った。

 手を握り、クリスチーナはマンに向かって微笑んだ。

「なんだ?」

「母様の、死……部下に聞きました。ざ、残念でした」

「そうだな。戦争に勝ったら、二人で一緒に墓参りに行こう。そうすれば母上も、きっとよろこんでくださる」

「姉様、この戦争……戦争は、普通の戦争ではありません。姉上……戦争は、すべて仕組まれた物だったのです」

「なに?」

 居合わせた数名の兵士が互いに何かをささやきだした。

隣にいた参謀も表情をしかめ、担架のマン大佐を食い入るようにして見始める。

 だがクリスチーナは、優しそうな顔のままマン大佐を見つめた。

「どういう事だ?」

「に、兄様の部下に聞きました……昨晩、我が陣営に兄様の部下がやってきたのです」

 周りに立つ海兵隊員たちのささやき声が少しうるさくなり、参謀が「静かにしろ!」と怒った。

 数名の海兵が静かにその場から離れ、次第に担架の周りには参謀と、クリスチーナ、カークスだけしかいなくなる。

「こ、この戦争は……最初から負けない戦いだと。ど、ドイタミナは……敵は負ける気なんだと。外交ですべて開戦前から筋書きが全部決まっていたと」

「……」

「兄様の部下はそれで、わ……私の五軍から兵員をかき集め、それでも劣勢に立たされている別の兄様たちの軍団へ私の部下をた、ごほっ……大量に、連れて行ってしまったのです」

 初めて聞く話だった。

 海兵達がマン大佐の話にざわついているのを良いことに、カークスはヒールを唱えながら血まみれの男の話をじっと聞き続けることにする。

「五軍は残った兵たちで、街道先の関所を攻略する予定でした。ですが……この有様です。敵は反撃してこない。兄上の情報では確かに、そう言うことになっておりましたが」

「兄……兄とは、諜報部のリガ第三太子のことか?」

「なのにこの私がごふっ……ごほっごほっ……」

 激しく咳をし出し、マンは全身を大きくのけぞらせて吐血する。

 耳がおかしくなっているのだろうか。

 男の胸と腹、耳から、黒い血が滲み出ていた。

「姉様っ……兄は、私は兄に騙されてっ……見殺しにされたんだ……っ!」

「言え! マン! お前を見殺しにしたのはどの兄だ!? 敵が、戦いに勝つ気がないとはどういうことだ!?」

「兄は私を殺して、次は……きっと姉様を殺す……全部、持って行って……これ、は…………罠」

 グッと、だんだんと男の体が緊張し始める。

 拳を胸の前で強く握りしめ、徐々に全身を大きくのけぞらせながら顔を大きく緊張させて……男は、がっくりと力尽きて果てる。

 計器を直しているふりをする兵たちが、マン大佐の死に行く一部始終にむせび泣いていた。

 参謀が小さく首を振り、だがその隣では、クリスチーナは先ほどと同じ穏やかな顔で、マン大佐の死に顔を見てじっとしている。

 床に腰を下ろし、まるで寝ている我が弟の寝顔にじっと見入っているような顔だ。

 静かなコントロールルームに、哨戒艇の低くうねるようなエンジン音と計器類の音が縦横に響いていた。

 カークスは小さく光らせていたヒールを止めると、傍らに座る女将校、クリスチーナを見て「死にました」と、静かに伝えた。

「もう、これ以上傷を治すのは無理です」

「……き、貴様ァ! オレ達が敵だから、マン大佐の傷を治すのに手を抜きやがったな!?」

「全力をそそぎました!」

「うるせぇ、このクソ生意気な魔法使いめ、訳の分からんことされる前に今すぐぶち殺してやる!!」

「やめろナカジマ参謀!」

 声が上がり、ナカジマ参謀と呼ばれた男がホルスターから拳銃を抜いた瞬間、カークスの横で女将校が腕を横に伸ばす。

 大きな指輪がキラリと輝き、その差し出された腕と指先の指輪に参謀はハッとした。

「こ、これは……?」

「彼は、我が弟の恩人だ。手荒な真似はするな」

「!? でっ、ですが閣下、コイツは魔法使いです! 魔法を使えるんだったらこれから何しでかすか分かったもんじゃない!!」

「魔法使いだと? この、農夫の子供が?」

 閣下と呼ばれたクリスチーナが、優しそうな顔でカークスの顔を見る。

「お前は……魔法使いなのか?」

「そんな大層な者ではありません」

「この国には魔法があるのか? いや……お前は、何者だ?」

「オレは……」

 ただの農夫です。

 ドイタミナの辺境にある小さな村で、平和な暮らしをしていたただの孤児です。

 戦争が始まったのも知らない内にノジックの人間に村を燃やされて、その燃やした奴らに復讐したいが為に村を出て剣の少女と一緒にドイタミナの王都に盗賊と一緒に向かっていた、名も無きただの村人です。

 ノジックは敵。復讐相手。いつかオレはお前達を殺してやる。そのためだけに生きている、ただの農夫の子供です。

「オレは…………ノジックの人たちの、味方、です……っ」

 カークスは、女将校の目をギロリと睨みながら答えた。

 生きて、いつかその復讐をかなえるために。

その目はおそらく、敵意に充ち満ちていたと思う。

 あるいはカークスのその時の目を見た者は、おそらくカークスの見た目の年齢も相まって、恐ろしく鋭い目と思うかもしれない。

 クリスチーナは少し驚いたような顔をして、カークスを見た。

 と同時に、ふっと何か深く何かを見るような目つきになってカークスの目をじっと見る。

「お前は、何の魔法が使えるんだ?」

「オレは……傷を、治すことができます」

「ふむ。それはこの国ではよくある魔法なのか」

「知ってる人なら、誰でも……」

「なるほど」

 そのうち海兵の一人が、搭乗口に置いてきたカークスの折れた剣を持ってきてクリスチーナに見せた。

 クリスチーナと参謀はその折れた剣を見て、そこに多少の血が付いているのを見つけて唸る。

 クリスチーナは剣を見て参謀を見上げ、参謀は静かに首を横に振った。

 二人の間で、どういう無言の会話があったのかは、それはカークスには分からない。

「少年。名前は、何という?」

「カークス、です。ブライアン・カークス」

「カークスか。本来なら我が海兵隊は極秘任務中ゆえ、捕虜も客人も乗せないというのが我が隊の方針だ」

 カークスは、じっと、この女将校の言葉に耳を傾けた。

 やはり、この船に乗っても生き延びることはできないのか。

 剣も取られ、その空の上では隠れる場所もない。

「……だがノジックは、君たちのように魔法を使える者はいない。ドイタミナにある、貴重な魔法とやらのサンプルとして、しばらく海兵は君を拘束する。代わりに命は保証しよう。悪く思うな」

「……?」

 流れが変だ。予想しなかったことがカークスの身に起こった。

 脇に立つ参謀が露骨に嫌な顔をしたが、クリスチーナはなおも続けた。

「弟の死を、ここまで永らえさせてくれた恩だ。参謀。丁重に、この少年を営倉までお連れしろ」

「……はっ。しかし、この魔法使いのガキは、これから何をしでかすか分かりません。隊の安全を計る参謀としては、捕虜は一刻も早く空中処分することを提案します」

「それは悪かろう。現地の人間が願い出てくれた味方だ。下ろすのは次の地上でいい、責任は私がとる」

「む……」

 苦虫をかみつぶしたような顔をして参謀は黙り、海兵の一人が銃を持ってカークスの近くまで寄ってくる。

「少年を営倉に入れろ」

 海兵はクリスチーナに言われると、銃を突きつけ黙ってカークスを哨戒艇の奥にある営倉、倉庫まで連行していった。

 何とか生き残れそうだ。

 カークスは、ほっとしたようにため息をついた。

 連行されるカークスの後ろでは、腰に手をあてため息をつく参謀が苦々しそうに黙って立っていた。

「……閣下。失礼とは思いますが、あの少年は早々に裏切ります。やはり早急に処分した方が部隊のためにもなると思うのです」

「そう思うか?」

「思わなかったのですか? あの目は、我が軍に味方するような者の目ではありません」

 そう言って参謀は、剣を両手に持ちながら指揮台でじっとしているクリスチーナに問い詰めた。

 席の後ろでは、鎧に包まれたマン大佐、先の戦闘で死んだ海兵達が順に綺麗に並べられてじっとしている。

 海兵達は寡黙だった。あるいはそれぞれ席に座って、各々の作業に専念している。

「閣下は人が良すぎます。あんな得体の知れない小僧を、艇内に入れて何をされるか分かったものではありません。あるいは閣下から承ったあの命令も……」

 と、ここまで言いかけてから参謀は声のトーンを落としてクリスチーナの耳に口を近づけた。

「まだ、艇内の裏切り者は見つかっていないのです。これ以上部外者を艇内に入れると、他の部隊、あるいは全軍の機密が漏れる可能性があります」

 ナカジマ参謀は自らの口の息がかかりそうな、かからないかくらいまで息を潜めながら小さくささやく。

 ナカジマは、その流れの中でそっとクリスチーナの指に視線を落とした。

 ……あれは、クリスチーナ中将の母親の指輪だ。今日の補給物資と手紙の件で、本国から空輸されてきた物だろうか。

「分かっている。だがな参謀。私は、彼に少し聞いてみたいことがあるのだ」

 じっとコクピットの窓に映る白い外の景色を見ながら、クリスチーナ中将は何か考える風にして答えた。

「聞きたい事?」

「私の弟が言った、あの最期の言葉だ。妙に引っかかる言葉だ。そのヒントを、私はあの少年から聞いてみたいのだ」

「奴が何かを知っているという保証はありません。それにもしかしたら奴は、閣下に嘘をつく可能性もあります」

「信じてもらえないかな?」

「信じるとは?」

「私は、彼を少し信じてみようと思ったのだよ」

「はあ?」

 参謀はクリスチーナの横顔を見て、ずっと同じ所を見続けるクリスチーナの視線を追って、一緒にコクピットの外の世界を見る。

 相変わらず、操縦士が操舵輪を持って上下左右にその輪を動かしている。

「ただの農奴がここまでやってきたんだ。それに、私にしてみせたあの目は、ただ者の目ではない。彼の思いがなんであれ、おそらく彼は、後できっと私の役に立つだろう。そう踏んだのだ」

「閣下は彼に、何かをさせるつもりなのですか?」

 そう言って参謀は、部下に手渡された折れた剣を手に取ってみた。

 古い、無銘の錆びた剣だ。この剣一本で、わざわざ空飛ぶ哨戒艇に乗り込んできたそのガッツさは、確かにあるのかも知れない。

「リスクは慎むべきです。私は反対します」

「ふふふ。私はね参謀、これでも荒くれ者しかいないような、海兵隊を率いる隊長なんだよ」

「奴を懐柔するというのですか?」

「できるならな。してみたいものだ。ああいう向こう見ずで、怖い者知らずの若い少年の目は、私は嫌いではない。あるいは……」

 そこまで言うと唐突に、クリスチーナはフッと不敵に笑って見せた。

「あの気丈そうな少年をうまく使うことができれば、あるいは兄上にぶつけて、その真意を引き出すことができるかも知れない。好都合なことに彼はドイタミナの人間だ。戦争孤児だろう。後ろを探られる心配もない」

「逆スパイですか。難しいですな」

「やるさ。ここまでされて、黙っているわけにはいかない。私は母に次いで、弟までも失ってしまった。これ以上失う物は何も無い」

「やはり、社主と兄太子たちに対して決起を?」

「……そのためには、下準備が必要だ。先に少年の見せたあの目を、少し解いてやる必要がある」

「なるほど」

 ナカジマ参謀はふっと遠くを見るようにしてコクピットから覗く空を見たが、そのうち機体が大きく横に傾きだして、参謀は慌てて指揮台の縁に掴まり自身の姿勢を保つ。

 すぐ隣にいた航海士が参謀に現在地を耳打ちし、次いでナカジマ参謀は指揮台の縁を掴んだままクリスチーナ中将に航海士に告げられた現在地を告げることにした。

「閣下。本船はもうすぐドイタミナ北西、灯台上空に到達します。進路はこのままで、あと数十時間で北部ニルヴァーナ遺跡に到着します。よろしいですか?」

「うむ。本隊は敵との不期遭遇戦により、一号艇と二号艇を失うというアクシデントを受けたが、海兵隊そのものの予定に変更点はない。このまま目標地点に向かって航行を続行する。各員、ここは敵の領空内だ、滞空監視に気を抜くな! 高々度であっても敵龍騎兵の奇襲に気をつけろ!」

 海兵達が一斉に「アイ・アイ・マム!!」と復唱し、クリスチーナは指揮台から地図を開いて哨戒艇の現在地を参謀に示させる。

「我が艦はここか」

「はっ。近くにはエブ閣下、ブダ閣下の第二第三合同軍が展開しております」

「戦線が伸びきっているな。とても戦をするための布陣とは思えない」

「エブ閣下、ブダ閣下配下の両軍は完全に疲弊しきっているとのことです。両閣下に着いている将軍たちも、あまり戦上手ではないようですな」

「まあいい。それでも、まさか海兵隊がこれから戦争から抜けて宝探しに行くなどとは、兄たちも努々思っていないだろう」

「宝、ですよね。やはりそういうアーティファクトが北方にはあるのですか?」

「そういう情報だ。アーティファクトとは、お前の妄想の通り、ただの儀式用古代神器ではない。先遣隊が、すでに先行して一部掘削に成功しているとのことだ」

「なかなか早いですな」

「ふむ……この戦線のどこかに、マンの言っていた自分たちの兵がいるのか」

「え、あ、はい。……そのようで」

「アーティファクトを無事発掘できた暁には、マンの兵も兄たちの兵も、一気に私の物にしてくれよう。お前が言うとおりなら、私は軍を掌握できるはずだ。そうしたら一気にアークエンジェル、ノジック本土を攻め落とす。落としてみせる!」

 指輪をいじる、クリスチーナの細い指がギュッと握りしめられた

「私の……母と弟を、よくもッ」

 クリスチーナの整った顔元のどこかから、気のせいかギリッ、ガチリと何かの音が聞こえた。

 ナカジマ参謀は冷静なふりをしながら、クリスチーナのその横顔をそっとのぞき見した。

「アーティファクトは、やはりそういう実用的な物なのですか」

「……ずいぶんと根掘り葉掘り確認するのだな」

「い、いえ。ただの参謀職の病気です。気になさらないでください」

 いつものクリスチーナの整った顔が、ふっとナカジマ参謀の顔を見て、それからさらに険しくなって窓から覗く空を睨む。

 参謀は額に浮かんだ汗を軽くぬぐってから、同じく空の向こうを見た。

彼女のこの気性の荒さが、いつか本国の下町で荒れていた本当の顔なのかも知れない。

 あるいはこの若さと、美しさ、怒れる思いが、一族たちに妬みを買っている一因なのだろうか。

『出るとこ出てるし、引っ込んでるところは引っ込んでるのにねえ』

 ナカジマ参謀はこっそりと、その思うところを頭の中でぼんやりと考えた。

 自分の最後の親族を殺された怨みは、クリスチーナ中将の怨みは相当の物があるだろう。

『そりゃこれだけ目立てば親族たちにも睨まれるわけだ。身内に隠れて軍を掌握し、太子たちを出し抜いて権力掌握を企てている可能性アリ。大人しくしてりゃ今頃は、どっかの綺麗どころの殿方と一緒に、アークエンジェルで歌って踊って、楽しく過ごしてたんじゃねーの?』

 そう思いながらもふと、参謀は別のことも一緒に考えて小さく首を横に振る。

『……嫌いなんだろうな。そういう、なんにもねぇ天空の城アークエンジェルの平穏が』

 生まれついての阿修羅だ。

 だからこそ、どんな困難も乗り越えるような勢いが彼女にはあるのだろう。

兵たちが彼女を好いているのは本当だった。

あるいは、彼女が決起すれば本当に軍の大半が彼女に着いて行くかも知れない。

『良い人だよ。上のあいつらの権力抗争で、むざむざこの人を殺させるのはもったいないよ』

 ナカジマ参謀は自分の帯びる秘密任務に少し後ろめたさを感じ、後ろを向いて小さくため息をついた。

 実際兄太子たちは、クリスチーナを相当警戒している。その上で、とある兄は、ナカジマにある極秘命令を下していた。

 クリスチーナを監視し、彼女が探しているであろう宝、アーティファクトの正体を探れ。

彼女は危険人物でり、国家転覆の疑いもある重要人物でもある。場合によっては……

「参謀」

「んっ? ああ、なんだ?」

 突然真正面から声を掛けられて、参謀は少しうろたえながら声を掛けてきた海兵の顔を見た。

 バンドエイドを鼻に貼った、妙に帽子を目深に被る海兵だった。

「捕虜を営倉に入れておきました。カギをお渡しいたします」

「ん、ごくろう。……お前、あのガキと同じ髪の色をしてるな?」

 参謀は何となしに、海兵の髪の色が気になってその事をふと口に出した。

 海兵はなぜか一瞬うろたえたが、だがすぐに

「自分は混血です」

「ん、そうか。いやすまなかった」

 海兵はそう言うと、少し小走り気味にして船尾の方へと駆けていった。

 海兵の髪は黒色。カークスと名乗ったあの捕虜も黒色。

 他の船員たちはクリスチーナ中将も参謀も含めて、みんな金髪か薄い褐色だった。

 ……まあいい。

 すべては、計画通りに進んでいる。

 薄く砂埃の舞っている平原。

すでに合戦の声は遠くから聞こえるようになっており、息を荒くして走り続ける馬の足を止めてマーヤが後ろを振り向くと、そこにはいるはずの盗賊の手下はすでにどこにも見あたらなかった。

待てど暮らせど誰も来ない。あるいはハギーも、あの小憎らしい小僧のカークスの姿も見えてこない。

マーヤは背中にぴったりとくっついて離れない小柄な少女の体を思い出し、少し体重を後ろに傾けて「大丈夫だよ。もう戦場は切り抜けたから」と言って少女をなだめた。

魔昌体だ。しかも、剣を納める魔昌体なのだ。普通の魔法とは格が違うはずなのに。

マーヤはフッと小さく笑うと、馬の駆け足を早足に落として、その汗の噴き出る馬の首筋をポンポンと叩いた。

「もうすぐ関所だ。あそこに入れば、もう怖いものはない」

「でっ、でもカークスさんが見あたりません」

「大丈夫。きっとどっかでうまくやってるさ。あたしのハギーも一緒なんだ」

「これから、どうやっていくつもりですか?」

「そうさねえ……とりあえず、関所に入ったら、まずアンタの身の上でも教えてもらおうか」

「私の?」

 草の茂る緑の大地に、茶色い道が続いている。

 草原の所々に大砲陣地の跡や、あるいは古い塹壕が作ってあるがそのどれを覗いて見ても中身は空っぽだ。

 おそらくドイタミナの陣営が、ずっと前にここら辺に陣地を構えていたのだろう。

 道の遠くには、巨大な白の形をした要塞都市が見える。

「そうさ。あんた、魔昌体だろ? 紋様を見て分かったよ。あんた、その体のどこかに剣を宿してる存在なんだ」

「……!?」

「はは。知ってるってだけで、特にそれ以上のことは知らないんだけどね。あんた、ただの魔昌体じゃないんだろ。なのになんでこんな所にいるのさ? あの少年と、アンタが、なんでこんな所をウロウロしているんだい?」

「なんで……そんなこと知ってるんです?」

「これでもあたしゃ盗賊さんだよ。どんな金庫でも、どんな倉庫でも……どんな、秘境の奥地にある神殿でも、だいたい一回以上は入ったことのある大悪党なんだっ!」

 マーヤは少しずつ馬の歩みを遅くしながら、手を振って大きく自慢して見せた。

 少女さやの顔はマーヤの方からは見えないが、その手はギュッとマーヤの裾を握っている。

 おそらく逃亡の意思はないだろう。もしくは……魔昌体は、誰かと一緒にいないと、単体では自立行動ができないのかも知れない。

 マーヤはゴソゴソと懐から一本のスキットルを取り出すと、蓋を開けて背中のさやに中身を勧めた。

「喉渇いてないかい?」

「私は、ぜんぜん……」

「この水はただの水じゃない、聖水さ。しかも天然のね」

 そのままグイッと、出納の中身をマーヤは飲み干す。

 こぼれた滴がマーヤの顎から数滴こぼれ落ちる。

 その滴を見ていたのか、さやが、後ろからゆっくりとスキットルに手を伸ばしてきた。

「なんだい? 飲む?」

「ほ、ほんの少しだけ」

「全部飲んでいいよ」

 そう言ってマーヤはスキットルを手渡す。

 少女は受け取ったスキットルを素早くごくごくと飲みだしたが、マーヤはその姿を、太陽に映し出された影で見て静かに笑うだけだった。

「おいしい?」

「と、とっても」

「ふふふ……久しぶりに飲んだんだねきっと。前の持ち主は、こういうのを全然飲ませてくれなかったの?」

 マーヤはそう言うと、後ろでスキットルの水を全部飲み干したらしいさやに手を伸ばし、その空になったスキットルを受け取った。

 常に常温で保存しておいたはずなのに、中身の空になったスキットルは冷たく、周りにもたくさんの水滴が付いている。

「あんた、ちゃんとした保存方法で保存されてたわけじゃなさそうだね。誰のところにいたの?」

「……」

「話によってはこれから、アンタを出すとこ出しても構わないんだけど……あのガキの家かい?」

「あの人は違います。あの人は、ただ、私を地下室から出してくれただけだから」

「ふぅん。地下室、ね」

 そう言ってマーヤは、だんだん近づいてきた関所の鉄の正門に馬を進めていく。

 腹を蹴るかかとを浮かべて、そのまま静かに手綱を引いて馬を止めた。

「地下室、地下室……村か。まあいいや。あのガキ……カークスくんだっけ。彼には悪いけど、アンタはしかるべき所に出して、その代わりアタシがやるべき事の下準備に使わせてもらうよ。悪く思わないことね」

「どこに私を出すんですか?」

「知ったこと、この国のお偉いさん方さ。あたしゃね、これでもやりたいこと、この国を乗っ取るって言う目的があってここまでやってきてるんだ」

 そこまで言うとマーヤはひらりと馬から飛び降りて、硬く閉ざされた門の前に立って大きく声をあげた。

「もしもーし!! 門兵のみなさーんっ! 旅の者でーっす開けてくださーい!!!」

 しばらくシンとした空気が門とその周辺に流れ、馬がいななくと、今度はどこかから機械のうなり声が聞こえてきた。

 空の向こうだった。見上げるほど大きな正門の真上、門の向こうに覗く巨大な見張り台の屋根の直近を、小型飛行艇が飛んでいく。

「あれ?」

 傾きかけた太陽の光を受けて、黒塗りの飛行艇がきらりと光った。

 商船だろうか。太陽の逆行でよく見えないが、そのシルエットだけではどこの国のものだかよく分からない形をしている。

 飛行艇は少しずつ高度を上げて、徐々に青い空の向こうに飛んでいって見えなくなってしまうが。

 今度は街道の後ろ側、戦場の方から、巨大なとどろきが徐々に聞こえてきた。

「ったく、次から次に変なのが出てくるね。門番はどこにいるんだい。おーいッ!!!」

 マーヤは張り裂けるほど胸を膨らませると、巨大な門に向かって大声を上げた。

 正門脇にある、物見台から一人の兵士らしい男が顔を出してマーヤを見下ろした。

「名を名乗れー!」

「マーヤだよ! マーヤ・ノキア!! こっちは連れのさやだ!!」

「合い言葉を言えー!」

「んなもん知るかーッ!! あたしゃ旅のモンだーっ!!!!」

 ガンッ! とマーヤは正門を蹴り上げる。

 マーヤの馬がブルルルルン! と鼻息を鳴らし、しばらく待っていると巨大な正門が大きなきしみをあげて、徐々にその扉に隙間を作っていった。

「ふん! いちいち遅いんだねこの国はっ。ノジックの機械文明の方がよっぽど便利そうだよまったく」


 巨大な門が左右に完全に開放されマーヤが手綱を引いてその中に入ると、関所の中は大きな市場と、商隊の憩いの場、商人町人、鐙や轡や鉄器を叩いて鍛える技師たちが、それぞれ賑やかに往来を行き交っている巨大な地方都市だった。

「はは。いつ見てもここは、でっかい町ですなあ」

 しばらく見渡すようにしてその巨大な関所の中を見ていると、そのうち正門から兵士の大軍団が関所内部に凱旋を始め……その大群は、さきほどマーヤ達が駆け抜けてきた戦場で戦っていたドイタミナの兵士たちだった。

 サーベルを構えた歩兵隊。長槍隊、きらびやかな装飾の施された重装騎士隊。

 それらに混ざって数人ほど、赤いマントをはためかせている王室付きの近衛兵の姿も散見される。

「ははあ。ついにドイタミナ軍も、王都を前についに本気を出して戦ったってところなのかな。最後の最後にドイタミナ軍は圧勝。哀れノジックの機械化軍は、王都を前にして大敗退を喫した、なわけだ」

 町を行く町人達がよろこびの声を上げ、兵たちはそれぞれサーベルや槍、弓を掲げてそれらの声に応えて進む。

 その先には城と城門だ。関所は、この地にあるアーシミット城を中心とした、王都と西を結ぶ街道真ん中に位置する巨大な中継基地だった。

 マーヤは軍の凱旋と町人達の勝利の歓声の間をすり抜けて町中に潜り込む。

 後ろを見れば馬の背に座るさやが、少し不安そうに周りを見ていた。

「フム。この子をダシにするんだったら、あるいは誰かそれなりに偉い奴にこの子を渡すしかないよね。となると、きっとこの関所のどこかにいるはずの王国の偉い奴に話を持って行かないと……」



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