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あなたのために死ねますか?

作者: yu

 真っ暗闇に、俺の体は落とされた。けれど、不思議と恐ろしさは感じなかった。なるべくしてこうなったのだと、心の中でつぶやく。別に悪い気分じゃなかった。なんとなく、水中に浮かんでいるような感覚。そんなことはありえないと、自分でもわかっていた。俺は周囲を確認する目も、この水のような空気を感じる体も、何かを考える脳も、失ったはずなんだ。なら、俺は何を使って、こんな思考をしているのだろう。

 少しだけ考えて、もしかしたらの話だけど、人間が「魂」というものを本当に持っているとしたならば、俺はそれそのものなんじゃないかと思った。むき出しの魂が、形を持つこともせず、ぽつんと真っ黒い空間に一つ。そんな俺。ここからどこに向かうのだろう。

時田修トキタ シュウさん」

 病院の待合室に向けたみたいな声が、俺の名前を呼ぶ。俺の体――魂が、闇の中を動きだして、それから突然止まった。

「あなたは地獄行きです」

 真っ暗闇が俺に、向かう先を告げた。それからまた、魂は無意識に動く。いや、動いているんじゃなくて、動かされているのかもしれない。ベルトコンベアに乗せられて、地獄へと出荷されていく、俺の魂。別にいいや、と思った。俺一人で天国に行ったって、何も楽しくない。

 不意に、俺の魂は動きを止めた。もう地獄についたのかと目を凝らしても、見えるのは相変わらずの真っ暗闇だけ。と、闇の中を忍ぶように、小さな声がした。

「時田さん、それでいいんですか」

 少し高い声だった。声の主の姿は見えない。心の中で、何が、と問う。あるいはそれは、魂のみの存在である俺からしたら、普通の発言と同じだったのかもしれない。声の主は答えた。

「あなたが死んだ理由、知ってますよ。あの死に方なら、どう考えても天国行きでしょう」

 そんなのは知らない、と俺は答えた。きっと日ごろの行いが悪かったんだよ、と冗談交じりにつぶやく。

「日ごろの行いについては否定はしませんけど、あなたは自殺扱いになってるんですよ。これっておかしいでしょう」

 どうだろうね、と俺は返す。あるいは俺の死の間際の行動が、俺の自己満足だとしたら、それは自殺になるんじゃないかな。

「そんな風に思っているんですか? それとも、自分のしたことに、罪の意識でもあるんですか?」

 わからない、と俺は答えた。でも罪の意識は、ある、かもしれない。

「なら、その罪の意識を消してきてください」

 どうやって?

「こうやって、です」

 声が途切れて、視界がふっと白に染まった。その白にだんだんと、滲んだ色彩が付け加えられて、やがてそれが明確な輪郭線を持った。空の青。立ち並ぶ家々。足元の黒と白は、アスファルトと白線。次に、黄色と赤。立ち入り禁止のテープと、アスファルトにぶちまけられた、血液の色。昨日まで俺が立っていた場所だと、すぐにわかった。今何時だろうか、なんて左手を見たら、そこでは半透明に透ける腕時計の針が、七時四十二分を指していた。

「あなたが死んでから、半日が経ちました。その時計の時刻は正確です」

 それで、俺は何をすればいいんだ? と心の中で尋ねても、声は返ってこなかった。この半透明の体、つまり、俺の魂の器が与えられているから、思っていることは外に出ていかないのかなと、口を動かして声を出す。

「よくわからないんだけど、どうすればいいか教えてくれない?」

「あなたをその姿でいさせられるのは、半日が限度です。それまでに、あなたの罪の意識を消してほしいんです。あなたが天国に行けるように」

 何者かは知らないけど、ずいぶんと良心的だな、なんて思った。どちらにせよ、罪の意識を消すだとかいうことをする気はない。俺には多分、地獄が似合ってる。でも、半日くれるなら、やりたいことはあった。

「わかった」

 短くそれだけ返す。向こうから返事は返ってこなかった。見張られているのかは知らないけれど、あの黒の中に連れ戻されたらそれもそれでいいか。そんなことを考えながら、俺は立ち入り禁止のテープをすり抜け、停まっているパトカーの横を抜けて、最寄りの駅へと歩き出した。


 幽霊、と表現するのが、きっと正しいんだろう。その気になれば壁もすり抜けられるし、電車に無料で乗ることだってできる。ただ、少し良心がとがめたのと、半日というそこそこ長い時間が与えられていたのもあって、俺は線路沿いに、普段電車の窓越しに見ていた風景を眺めながら、ゆっくりと歩いていた。少し視点が変わると、風景の感じ方はかなり違った。いや、変わったのは視点じゃないのかもしれない。こみあげてくる、懐かしさにも似た切なさに、俺はゆるゆると頭を振った。こんな感情を抱くために、幽霊をやってるわけじゃない。

 しばらくそうやって歩いて、途中で線路に別れを告げた。疲れのない身体なら、ここから歩いたほうが、目的地まで近そうだったからだ。風景がだんだんと、線路沿いよりももっと見慣れたものに変わっていく。通りがかった人の顔に、どこか見覚えがあって、一瞬どきりとした。昔よく遊びに行っていた公園の近所に住んでいる、気のいいおばさん。おばさんは俺に気付くことなく、買い物袋を重そうにぶら下げながらすれ違う。思わず、どこか自嘲気味な笑みが漏れた。

 そのまま歩いていくと、目的地が見えた。少し古ぼけたアパート。その一番左の部屋に、鍵どころかドアさえもあけずに入る。家の中はしんとしていた。それもそうだろう。ここの住人は今頃、一番上の高校生の兄が死んで、あちこち駆け回っているところだろうから。ため息が漏れたのは、きっと俺の錯覚だろう。幽霊は呼吸なんてしないだろうから。部屋の一つに入って、机の上に雑多にばらまかれた鉛筆の一本に手を伸ばす。確かな感覚と一緒に、俺の半透明の手はそれをつかんだ。さらに机の端に放り出されていたメモ帳を一枚引きちぎる。引き出しの中身は見たくなかったから、こういうときばかりは、面倒臭がりな俺の性格に感謝だなと笑う。もっとも、二度とそれに感謝することなんてないだろうけど。俺は少し鉛筆を手でもてあそんでから、メモ帳に、いつか言おうと思っていたことを書き始めた。


 一通り書きたいことを書き終えて時計を見ると、もう時刻は十一時近くなっていた。随分と時間を使っちゃったな、と思う。どっちにしたって、もう行く場所も限られてるか。立ち上がって伸びをする。体が凝っているわけでもないのに、なんとなく行った動作が、なぜだか寂しい。凝るような体も、もうないことに気づいたからか。あのまま地獄に流れていけば、こんな寂しさもなかったのかな。そう考えると、もう、こんなことをしている意味もないように思えてきた。結局死ぬんだ。それじゃあ、誰かに何かを伝えたって同じじゃないか? 湧き上がってくる別な自分を引きずったまま、数枚のメモ帳が散らばらないように、机の上に置かれた古ぼけたデジカメを重石代わりにした。ああ、こいつだってそうだ。俺に寂しさしか与えてくれないもの。もう二度と、誰もそのシャッターを切ることはないもの。デジカメから手を放して、俺はそれに背を向けた。時間はまだあるんだ。伝えたいこともあるだろう? せっかく与えてもらった時間を、寂しがって終えることなんてないんだ――そんな風に、自分に言い聞かせながら。

 家の外に出ると、空は憎らしいほど綺麗に晴れていた。


 次の目的地は遠かった。今まで一度もそこに歩いて行ったことなんてなかったから、迷わないように、俺は線路沿いに景色を眺めながら歩いていた。知り合いに会うことはなかったけど、通行人とは何度かすれ違った。当たり前だけど、俺に気付く様子はなかった。いっそのこと鉛筆でも持ち歩いて、怪奇現象でも起こせばよかったかもな、なんて笑う。ターミナル駅に近づいたからか、人が多くなってきた。だけど、俺はひとりだった。

 気分が悪くなるほど騒がしい喧騒をさっさと抜けて、多少静かな線路沿いの道を歩く。時折、俺の脇を走り抜けていく電車のガタゴトという音が鼓膜を破らんとばかりに揺さぶる。ああ、破れることはありえないか。でも気分は悪くなるもんなんだな。過ぎていく電車の騒音と付き合いながら、俺は線路沿いを歩き続ける。そうしながら、取りとめもないことを考えた。小学校の頃の思い出とか、中学校の頃の友達とか、昔のこと。すごく懐かしい。高校の授業のこと。もうあの面倒な授業を受けなくてもいいのか。ああ、でも楽しい授業もあったような気がするな。同好会のこと。みんな、俺がいなくなってもちゃんとやってくれるかな。それと……

 ああ、ダメだ。それ以上は考えるな。俺が今歩いているのは、俺らが立ち上げた同好会のためで、一緒に頑張ってきた親友のためで、あの雑多で、だけど思い出の詰まった部屋を最後にもう一度、この目に、魂に焼き付けてさよならするためだ。それ以外の目的なんて、ない。だから、考えるな。

 向かいから電車が走ってきて、そのまま音だけを残して、俺の視界から消えた。すぐそこに見える駅に、よく見覚えがある。もうここまで来ちゃったか。少し歩いて、いつもの道へと入る。時計を見て時間を確認すると、三時半を少し過ぎたくらいだった。高校の授業はそろそろ最後の時間か。遠くに見えた校舎の屋根が、だんだん近づいてくるのに、思わず湧き上がってきた感情を噛み殺すように、俺は口を堅く閉じた。


 授業中の静まり返った校舎の中を歩いて、俺はようやく目的地にたどり着いた。部室棟のドアをすり抜けて、階段をゆっくりと上がっていく。三階の一番奥の部屋の、ボロくさい扉にかかった「星空同好会」という比較的新しい看板が、いつもは大して目立たないくせに、なぜだか今日はやけ目立っていて、そのカラフルな丸文字に、俺はしばらく目を止めたまま動けないでいた。おぼろげな思い出を抱いたまま、俺は頭を振って、扉をすり抜ける。いつも通りの部室。大概俺が一番乗りだっただから、この光景にも見慣れたものだ。ああ、でも、今日で見納めか。散らかった机の上。棚の中に大切にしまわれている箱。俺はロッカーを開けて、備品のペンと、印刷室から持ってきた裏紙を取り出して、それを置くスペースを開けるために、ノートやプリントの散らばっている机の上を少し片づけた。椅子に座って、少し視線を上げると、誰かが持ち込んできたコルクボードがあった。そこに飾られた、何枚もの写真。脳裏に、駆け抜けるように思い出がよみがえってくる。会を立ち上げるために、仲間を集めたこと。顧問の先生を探して駆け回ったこと。予算のやりくり。初めて部で買った望遠鏡。みんなで見た、満天の星空。そして、笑顔。息を吸い込む喉が、震えているような気がした。気のせいだ。俺は静かに呼吸をしながら、視線だけを動かして、一枚一枚の写真を、順番に見ていた。

 一通り写真を見終わって、少し時間が経ちすぎていたことに気付く。今日は活動はないはずだから、誰も部室には来ないだろうけど、あまり長居したってしょうがない、なんて思いながら、俺はボールペンをノックした。けれど、なかなか言葉が浮かんでこない。どうしても、みんなのための言葉が、誰か特定の人のための言葉にすり替わってしまいそうで、嫌になる。みんなに伝えることは何だ? こんな大切な時に死んじゃってごめん? いや、待て、それ以前に、部員全員がこんな怪文書、信じてくれるのか?

 ちょっと、無理があるな。大きく息を吐く。そもそも家族にも同じように手紙を書いたけど、信じてくれるかなんてわからないじゃないか。それじゃあやっぱり、俺が幽霊になってからやったことなんて、ただの無駄だった、ってことか。でもまあ、せっかくここまで来たんだ。一人の親友を、脳裏に思い浮かべる。一緒にこの同好会を立ち上げたメンバーの一人。あいつには手紙を書こう。信じてくれなくたっていいや、と思った。これはもともと、俺の自己満足だから。


 ――不意に、ガチャリ、という音がした。手紙を書き途中でいったん止めて、ペンを机の上に放り出す。今のは鍵が開く音だ。今日は活動はないはずなのに、どうして人が来る? 驚きに跳ね上がる心臓をどうにか落ち着かせながら、俺は静かに席を立った。ドアが開く。そこにいたのは、今まさに俺が思い描いていた人物だった。あいつは後ろ手にドアを乱暴に閉めて、俺のさっきまで座っていた椅子に近い、あいつのいつも座っている位置に、崩れ落ちるように座った。その表情を見て、確信する。こいつは、俺が死んだことを知っている。スマートフォン覗き込むその顔が、悲痛に歪んでいた。

「なんでだよ、時田……っ!」

 こいつは、俺が死んだことを悲しんでくれている、と思った。その表情に、俺も思わず唇を噛む。

「……北沢きたざわ

 思わず漏れたあいつの名前。それに、はっとしたようにあいつが顔を上げた。俺も思わず目を見開く。もしかして、俺の声が聞こえたのか? 北沢はしばらく、あたりを見回して、首を横に振った。そんなこと有り得ない、っていうことだろう。死んだはずの人間の声が聞こえる、なんて有り得ない。そう、有り得ないことなんだ。

「おい、北沢!」

 けど、俺は、もしも信じてくれるなら、少しでいい、こいつに言いたいことがあった。弾かれたように顔を上げた北沢が、俺のいる場所を見て、書きかけの手紙で目を止めた。

「嘘、だろ?」

 言いながら立ち上がった北沢が、俺の書きかけの手紙を手に取る。

「本当だよ」 

 あいつが、俺のいる方向を見る。焦点は合っていない。俺の姿は見えていないんだろう。別に、それでよかった。声が届くなら、言いたいことだけ言っていなくなろう。

「そいつ、書きかけなんだけどさ。今後やってほしいこととか、どうすりゃこの先、この会がもっと楽しいもんになっていくかってのは、思いつく限り書いておいたから、お前が読んでおいてくれよ」

「……どういうことかってのは、この際聞かない」

「助かる。俺も実は何が起きてるのかわからん」

 俺の背後の壁あたりを見ながら、北沢が小さく頷く。

「お前に言いたいことがあって……ちょうどよく会えたことだし、最後に言わせてもらうよ」

 一呼吸、俺は息を吸った。

「これまで、いろんな迷惑をかけてごめん。頼りない会長だったと思うけどさ。どうにか、この先も頑張ってほしい……いろいろ任せることになっちゃって、ほんとにごめん」

「ごめん、ってさ。それ、俺よりも先に、言わなきゃいけない相手がいるんじゃないのか?」

 北沢の返答に、俺は思わずあいつの顔をまじまじと見た。焦点のあっていない、けれどまっすぐな、真剣な視線。俺は少し長い沈黙を置いて、返した。

「いないよ」

「嘘吐けよ」

 即座に返された北沢の言葉に、俺は何も返せないで、顔を伏せた。

「俺が今日ここに来たのはさ、時田、お前の私物を回収してほしいって言われたからだ。事情は、森野もりのに聞いた。車に撥ねられたんだってな――あいつをかばって」

 そう。間違ってない。昨日、少し帰りが遅れたから、俺はゆう――森野優を、家まで送っていくことにしたんだ。鮮明に覚えている。赤信号の中突っ込んできた、自動車のヘッドライトの眩しさも、その中に浮かび上がる、優の怯えた表情も。

「お前はあいつに、何か言いに行ったか? 手紙を残しに行ったか?」

 俺は、何も言えないでいた。だって、それは、俺が必死で触れないようにしていたものだったから。

「何か言えよ、時田。まだ、そこにいるんだろ?」

「……できないよ」

 漏れ出た声から、堰を切ったように言葉があふれてきた。顔を伏せたまま、俺は言葉をつづける。

「できるわけないだろ、そんなの……お前は知らないだろ、突き飛ばされた時の、優の表情を。どうして、なんでって顔をさ。俺は優を助けたい、って思った。だけどそれは同時に、優に『誰かの命を犠牲に、生き延びてしまった』なんて、とんでもない罪の意識を植え付ける行動だったんだって、気付いたときの、俺の気持ちがわかるかよ……?」

 そう。そうだ。俺は優を助けたから、優に一生消えない罪を背負わせたんだ。何をどうやったって消えない、心の傷を背負わせたんだ。

「俺は、罪人なんだ。あいつに合わせる顔なんて、ないんだよ……」

「時田。言いたいことは、それだけか?」

 低い、静かな声音に、俺は思わず顔を上げた。北沢は、怒っているように見えた。

「もしもお前の姿が見えるなら、今すぐ殴りつけてやりたいよ」

「北沢……?」

 行き場のない怒りをぶつけるように、北沢は手紙を机の上に叩き付けた。

「お前は、お前の考えを森野に押し付けるつもりか? お互いの本当の心を、最後に伝えられるチャンスがあるのに、それをふいにする気でいるのか?」

 俺の、考えを押し付ける?

「諦めてるんじゃないだろうな、時田。俺はどうあがいても罪人で、森野の罪の意識はどうやったって消えない、って」

「それは……」

 口ごもった俺に、北沢は言葉を重ねた。

「お前に罪があるかどうか決めるのはお前じゃない、森野だ。そんで、森野の背中を押せるやつがいるとしたら、お前しかいないんだよ! やる前から諦めてたら始まらないって、何回も何回も俺らを励ましてきたお前はどこに行ったんだ! お前は! そんな簡単に諦めるようなやつじゃないだろ!」

 語気を荒らげていた北沢が、どこか悲しそうに、大きく息を吐いた。

「奇跡が起きてんだからさ……あとは、お前次第なんじゃないのか……?」

 北沢の言葉が、だんだんと胸にしみわたっていく、そんな気がした。そう。俺は罪人だと、俺は思った。俺の自己満足をあいつに押し付けて、勝手にそう思ってた。そうやって、逃げていたんだ。寂しさとか悲しさとかに浸って、もう諦めたかったんだ。

 でも、本当にそれでいいのか?

「……怖かったんだ」

 小さく漏らした声に、北沢は何も言わずに待っていてくれた。だから、俺は続ける。

「俺、死んだだろ? そしたら自殺扱いの地獄行きだったんだよ。それはおかしいって、見かねた死神様か何かが、俺をこんな風に幽霊にしてくれた。でも、俺は、地獄行きでいいと思ってた。自己満足なんだから、あいつに罪の意識を与えてしまったんだから、罪を背負うべきだ、って。だから、優とは会わないって決めた」

 でも、それは嘘だったんだ、と俺は続けた。

「怖かったんだよ、あいつに拒絶されるのが。逃げることのできない、本当の罪人になるのが怖かった。それだったら、自分で自分は罪人だって思いこんで、あいつが本当は、どっかで許してくれるかもしれないって、信じてたかったんだ」

 でも、そう思う自分とは別の自分がいることに、ずっと、俺の脚を動かして、前に進めてきた自分がいることに、もう俺は気づいていた。

「でも、今はそれよりも、こんなどうしようもないままで死んでくほうが、ずっと怖くなってきた」

 人生の最後で、全部諦めて死にました、なんてのが、嫌だ。大好きな人に拒絶されるのが怖いから、背を向けて地獄に行きました、なんて嫌だ。

「こんなクズのまんまじゃ、どうやったって地獄行きだ。罪の意識とか、そういうのじゃない。こんな腐った性根をぶら下げたまま、天国なんて行けやしないよ」

 俺は、俺の背中を押してくれた、大切な親友の顔を見た。確かに、視線がぶつかった、気がした。

「俺は今から、優のために死ねるのかどうか、優に聞いてくる。俺の自己満足に、あいつが罪の意識を持つことなく、一緒に満足してくれるかどうか、聞いてくる」

「人生最後の大勝負だな。死ぬ気でやれよ」

「もう死んでるけどな」

 軽口を叩き合って、俺らは小さく笑う。

「ありがとな、北沢。お前のおかげで目が覚めた」

「そりゃどうも。もうこっちのことは考えんなよ、会長……じゃあな」

「いいや、またね、だな」

 自信満々に言い放って、俺は扉へと向かう。

「天国が実際にあるってわかった以上、この先会わないことはないだろ? そしたらさ、またみんなで星を見ようぜ」

「……まったく、とんだロマンチストだよ、お前は」

 呆れたような台詞の後に、北沢は口元を釣り上げた。

「またな、時田」

「おう、先に待ってる」

 言い残して、俺は扉を開け放つ。廊下を吹き抜ける風の中を、俺は走り出した。


 幽霊の体は、風よりも速かった。電車に乗ることもせず、線路の中を走り続ける。孤独感はもう感じなかった。俺にはやらなきゃいけないことがある。そのために、幽霊をやっているんだから。頭の中は、優にかける言葉で埋め尽くされていた。なんて言えば背中を押せるだろう。いろいろ考えたけど、結局、自分の思いをストレートに言うことに決めた。最初の駅――俺の死亡地点の最寄り駅に着いて、ちらりと時計を見る。六時四十五分くらい。タイムリミットまで、どうやらあと1時間と少しみたいだった。十分だ。優の家まで、一直線に走っていく。もう日はほとんど沈んでいた。

 たどり着いた一軒家の玄関をすり抜けて、脇目も振らずに二階へ、階段を駆け上る。優は自分の部屋にいるっていう、変な確信があった。閉じられたドアの前で、俺は大きく深呼吸した。ノックしようと伸ばした手を、下げる。そのまま俺は、ドアをすり抜けて部屋の中に入った。雑多な俺の部屋とは比べ物にならないくらい、綺麗に整頓された部屋で、ベッドに寄り掛かるようにして、毛布にくるまった、制服姿のままの少女の姿。膝を抱えるようにして、うなだれたその姿に、俺は声をかけた。

「優」

 ゆっくりと顔を上げた優の顔が、驚きに見開かれる。それに俺も驚いた。優には、俺の姿が見えているみたいだったから。

「……修?」

 かすれたような声に、泣きはらした瞼が、どれだけ優が悲しんでいたか、っていうことを物語っていて、その原因が自分だってこともわかっている。それでも、俺は、逃げ出すわけにはいかなかった。少しだけ目を閉じて、すぐに開く。

「……本当に、修なの?」

 尋ねる声に、俺はうなずいた。よろよろと立ち上がって、伸ばした手が、俺の体をすり抜ける。ぎゅっと握られた、その右の手の平に、俺は両手を重ねた。

「本当に意味わかんないと思うし、俺のこと許せないかもしれないけど、聞いてほしい……俺は、優のことが大好きだ」

 息を吸いなおして、俺は続ける。

「だから、優のために死んだって、俺に言わせてほしいんだ。優もそれを罪だなんて思わないでほしい。俺は優のために死んだことを、これっぽっちも後悔してないから、だからもう、泣かないでほしい」

 言葉足らずな台詞。それに優は、何も言わないで、俺の手に左手を重ねた。流れていく沈黙と、かすかな嗚咽。ともすれば、もう消えてしまいそうな、自分の体。ただ、つないだ手と手だけが、そこに俺がいて、優がいることを証明してくれる。

 そのまましばらくして、優はゆっくりと口を開いた。

「私、修が、私のことを恨んでるんじゃないかって、ずっと不安だった」

 吐き出す息と一緒に流れていく言葉に、俺は大きく首を振った。

「修は私のために、死んでくれたのに……ホント、馬鹿だ……」

 頬を伝っていく、大粒の涙を拭おうと手を伸ばしても、もう、時間切れが近いからか、手は何にも触れることはなかった。だけど確かに、優の体温を感じた気がしたから、俺は強く、優を抱きしめるつもりで手を回す。

「恨んでなんかないよ。だから、どうか、俺が死んだことを、負い目にしないでほしいんだ……難しいかもしれないけど、もう、俺のことなんて忘れて……」

「忘れないよ」

 きっぱりと返された、強い言葉に、俺が驚いて体を離すと、少し首を上げた優は、涙を流しながら、微笑んでいた。

「私は修のことを絶対に忘れない。負い目なんかにもしたりしない。いっぱいの思い出を抱いて、修がくれた命を、精一杯生きてく」

 ――ああ、そっか。俺の罪なんて、俺の思い込みだったんだ。優に俺の命を背負わせた、なんてのは、俺の勝手な考えだった。優は俺に恨まれてるんじゃないかって怖がってて、俺は優に恨まれてるんじゃないかって怖がって、二人して違う方向に逃げてた。でも、今こうやって、本当の気持ちを確かめることができたから。

「……ありがとう」

 俺の声は、震えていた。でも、心から、魂の奥底から、笑えたから。

「優のために死ねて、よかった」

 もう一度、ぎゅっと、強く、優を抱きしめる。確かな体温が、鼓動が、そこに優が生きているのだということを教えてくれる。俺は、もうすぐ本当に死ぬ。でも、きっとまた会える。

「天国って、本当にあるらしいから、またそこで会おう」

「……うん」

 小さくうなずいた優に、俺は体を離した。もう、湿っぽい別れはやめよう。

「なあ、優。最後に一緒に、ちょっとそこの公園まで行かない?」

「え……?」

 首を傾げた優に、俺は窓の外を指さす。

「今日は雲一つない快晴で、最高に星が綺麗だからさ」


「おかえりなさい」

 ただいま、と俺は返す。真っ暗闇の中に、もう一度声が響いた。

「最初はひやひやしましたけど、よかったです。天国行きだそうですよ、時田さん」

 そっか、そうじゃなきゃ困ってたところだよ、なんて笑うと、声は返した。

「あなたたちは不思議だ。勝手に思い込んで地獄に落ちそうだった人が、少し背中を押されただけで天国行きに変わったりするんですから」

 そんなもんだよ、と俺は返した。人間はとびきり弱くて、だからこそ強くなれる生き物なんだ。

「そうですか。確かに人間は予想もつかない。だから楽しいですよ。それじゃあ時田さん、さよなら」

 ありがとな。

 最後に発した俺の声に、もう答えは返ってこなかったけど、たぶん伝わってはいただろう。俺の魂が、ゆっくりと闇の中を泳いでいく。待ち合わせの時までは、きっと長い長い時間がかかるだろう。でも、確かに俺の胸には、たくさんの思い出が輝いているから、寂しくはない。自然と笑顔が漏れた、気がした。だんだんと空気が軽くなっていく。沈むような真っ暗闇がひらけたら、そこには、満天の星空が広がっていた。


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[一言] 主人公の順応性が高すぎて違和感を覚えます。半日現世(?)に居られることになった所までの落ち着いた感じは死んだあとの虚無感のせいだと捉えられますが、立入禁止のテープやパトカーをすり抜ける・疲れ…
[一言] まず全体的に話の流れがわかりにくい。 いきなりどこに連れて行かれたのか、どういう状況なのか、全く説明がなく、読者を置いてけぼりにしているので正直出鼻をくじかれた感が半端ない。 いきなり「自分…
2014/06/09 17:28 退会済み
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