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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅱ
9/19

ルエダ・デラ・ラソ列侯国――港町アルマセン

 アルマセンは、円柱状の建物が並ぶ港町だった。


 都市と呼ぶには小さいが、大きな村を三つか四つ合わせたくらいの規模はある。


 おまけに今は列侯国中から人が集まっているせいか賑やかで、雑然としている印象さえあった。

 港にはたくさんの船が並んでいる。そのほとんどがセンチピード船と呼ばれる船だった。船の左右から伸びた何本もの櫂を漕ぐことによって進む船だ。その姿が百足に似て見えることから、百足センチピード船という呼び名がついている。


 列侯国ではこの船が未だに主流で、かなりの数が今も建造されていた。そのうちの大半はここ、アルマセンで建造される。

 アルマセンは元々造船業の盛んな町で、海沿いに大小の船渠がずらりと並ぶ様は壮観でもあった。船渠街には近くの川から水路が引かれ、大量の木材を積んだ船が忙しなく行き来している。


「すごい人ですね。これで町を囲む城壁があれば、ちょっとした都市になりますよ。難民が集まっているとは聞いていましたが、まさかこれほどとは……」

「うん。わーが前に来たときの三倍は人がおるき。……ずいぶん汚い町になったの」


 と、ときにロクサーナが道端を見やって顔を顰めたのも無理はなかった。アルマセンの町並みは人と汚物とにまみれ、どこへ行っても異臭がしている。


 その原因が国のあちこちから流れ込んできた難民であることは一目瞭然だった。未だ労役に就くことができずあぶれた人々が路上に溢れ、そこで着の身着の儘の生活をしている。


 彼らは宿に泊まる金もなければ新しい服を買う金も、公共浴場へ行く金もないのだろう。

 路上で横たわる人々は皆疲れ切った顔をして、元からの町の住人と思しい者たちがそれに迷惑そうな視線を投げかけている。


「地元の人々は、彼らのために宿や教会を開いたりしないんでしょうか。これだけの数の人が困っているんだから、せめて雨風を凌げる場所くらい提供してあげればいいのに……」

「そういうところは、多少なりとも金を持っとる人間で既に埋まっとるんじゃろ。仮にすべての宿や教会を開いても、この人数をすべて収用できるとは思えんしの」

「なら、町の人たちがしばらくの間、家を間借りさせてあげるとか。その分家事や商売の手伝いをタダでしてもらえばいいじゃないですか」

「トビー。そもじはほんに修道士の鑑のような男子でおじゃるの」

「い、いやぁ、そんな、私は神に仕える者として当然のことを言ったまでで……」

「今のは〝アホみたいな世間知らず〟と言ったのでおじゃる」


 さらりと涼しい顔で痛言を飛ばされ、トビアスは思わず胸を押さえた。ぐさりと音を立てて心臓に刺さったロクサーナの言葉が痛い。


「列侯国はの、昔から国の中での争いが絶えんのでおじゃる。ゆえに民も他領の人間は信用できんと言って、よく諍いを起こすんじゃ。じゃから同郷の者同士の結びつきは強いけんじょ、余所の領民にはあまり心を許さん」

「で、でも、同じ列侯国という国の民でしょう? 群立諸国連合だって、普段はあまり接点のない国の人間でも、困ったときには助け合いますよ?」

「それは諸国連合が元々〝困ったとき〟のためにできた連合だからでおじゃろ。列侯国は前身の王国が崩壊したあと、次の王が決まらず分裂してできた国でおじゃる。諸国連合とはそもそも成り立ちが違うき」

「だ、だけど、目の前でこんなにたくさんの人が困ってるのに放っておくなんて……」

「……。トビー、そもじはやっぱり修道士でおじゃるの」

「う……そ、そりゃあこの町に暮らす人たちだって、お金も食糧も足りなくて大変なんだろうってことは分かりますよ。でも……」

「拗ねるでにゃー。今のは褒めたんじゃ」


 やはり涼しい顔で言われ、トビアスはしばしぽかんとしたのち、不意に頬が熱を持つのを感じた。

 が、それをロクサーナに知られたらまたからかわれるような気がして、とっさにあらぬ方向を向きながら言う。


「ど、どうせ褒めるならもっと分かりやすく褒めて下さいよ。ロクサーナの褒め言葉はいつも分かりにくいんですから」

「そうきゃえ?」

「そうですよ!」


 何となくムキになって答え、トビアスは恥ずかし紛れに港の方へと視線を投げた。そこでは航海から戻ったらしい船の周りに人が集まり、荷揚げ作業に追われている。


 潮の匂いが香る港には、人々のかけ声と海鳥の歌が満ちていた。更に港と町の境目に当たる一帯には露店が並び、恐らく荷揚げされて間もないのであろう商品が山積みにされている。


 だが不審なことに、その商品のほとんどは織物や金属といった交易品ばかりだった。食糧もまったく並んでいないわけではないが、これだけの人数を集めてアビエス連合国まで調達に行っているというわりには少ない気がする。


 再び荷揚げ作業をしている人々に目をやれば、船から下ろされている荷もやはり食糧ではないように見えた。それを運ぶ人夫は皆きびきびとして身なりも良い。

 路傍で襤褸のような衣服をまとい、物乞いをしている難民とは明らかに人種が違った。この町を訪れるのが初めてのトビアスでさえ、あれは昔からこの港で働いている人々だろうと容易に判断することができる。


「ロクサーナ」

「うん。思ったより食糧が少ないようでおじゃるの」

「荷揚げしたらすぐに主都へ運んでいるんでしょうか。それにしても少なすぎるような気がするんですが……」

「そりゃそうだ。出る船と戻る船とで港がえらく混雑するから、アビエス連合国から戻った船は隣のオネスト侯領に入港してる。積んできた荷はそこで下ろして、空の船だけがここに戻ってくるのさ。そしてまた新しい人員を補充して、連合国までの航海に出る――と、表向きにはそういうことになってるな」

「え?」


 俄然背後から聞こえた男の声に、トビアスとロクサーナは顔を見合わせた。


 が、その二人が振り返るよりも早く、肩にずしりと重みがかかる。後ろから腕を回され、そのままロクサーナの方へ引き寄せられてたたらを踏んだ。ロクサーナも同じように肩を抱かれ、腕の中へ押し込められている。


 一体誰が。


 そう思い、トビアスが緊張して振り向いた先にいたのは、


「よう、お二人さん。こんなところでまた会うとは奇遇だな」

「あ、あなたは……!」

「えーと……チャック?」

「ジャックだ」「ジャックですよ!」


 小首を傾げて別人の名を唱えたロクサーナに、トビアスは思わずジャックと声を揃えて訂正してしまった。


 ――そう、その男は二人がかつてレグンブレ村で出会った自称冒険商人のジャックだ。

 顎髭を生やした胡散臭い横顔も、本人の性格とは裏腹に品の良い出で立ちも、四ヶ月前に別れた記憶の中の彼と寸分も違わない。


「ジャック、どうしてあなたがここに……!」

「そりゃあこっちの台詞だっての。何? もしかしてお宅ら、俺に内緒であれから一緒に旅してたわけ? そりゃないでしょーよ、だったら俺も誘ってくれよバカヤロウ。冒険商人ってのはこう見えて孤独なんだぜ? 意外と寂しがり屋なんだぜ?」

「分かりましたからとりあえずその手を放してくれませんか汚らわしい」


 ついに我慢できなくなって、トビアスは左肩に乗ったジャックの手を払うと同時に本音を口にしてしまった。

 友好の印を無下にされたジャックはひどく傷つき、悲しんだ――ふりをして、ちゃっかりとロクサーナを抱き寄せている。


「おい、今の聞いたか、ロクサーナ? トビーのやつ、修道士にあるまじき暴言を吐きやがったぜ。あーあーやだね、これだから最近の修道士ってやつは」

「すみませんね。どうも私はまだ未熟なもので、生理的に受けつけない相手にまで慈悲を垂れる道は悟っていないんですよ」

「そいつは修行が足りねえな、修行が。なあ、ロクサーナ。こんなへっぽこ修道士はほっといて、これから二人でこの運命的な再会を祝おうじゃねえか。昼間でもうまい酒が飲める店を知ってるんだが、どうだ?」

「そもじの奢りなら行っても良いぞえ」

「もちろん、もちろん! これも縁神ハヤーのお導きだ。喜んでご馳走するぜ」

「あっ、ちょ、ちょっと待って下さいよ!」


 ちゃっかりとジャックから奢ってもらう約束を取りつけたロクサーナは、彼に肩を抱かれて歩き始めた。別れた当初はあんなにジャックを訝しんでいたくせに、と思いつつトビアスも慌ててあとを追う。


 ジャックがロクサーナを連れ込んだのは、商店が建ち並ぶ一角に大きく間口を開いた賑やかな酒場だった。酒場の一階は正面が吹き抜けになっていて、卓や椅子が通りまで溢れ出している。


 どうやら昼間でも繁盛しているらしく、席は二階までほとんど埋まっていた。見た目も逞しく豪快な男たちが集まっているところを見ると、ひょっとしたら航海から無事に戻った船乗りが殺到しているのかもしれない。


「おいトビー、いいのかよ、こんなところにほいほいついてきちまって。修道士がこの昼間から禁を破って酒を飲んでるなんてことが知れたら、教会の信用がガタ落ちだぜ?」

「ご心配なく。私はお酒は飲みませんし、この国にいるのは光神真教会の〝こ〟の字も知らない方々ばかりですから」


 席に着くなりつっけんどんに言い、トビアスは≪六枝の燭台(メノラー)≫の徽章がついた帽子を卓の上にばさりと置いた。

 ジャックが選んだのは空いていた奥の方の席で、窓からも出入り口からも遠いせいか昼間だというのに薄暗い。


「それで? お前らはあれから今までどこにいたんだ? 確かロクサーナは、別れる前にアマゾーヌ女帝国に行くとか言ってたけど」


 と、ジャックが気安い口調で話を振ってきたのは、それぞれの注文した品がすべて届いてからのことだった。


 トビアスが頼んだのはレジェムと呼ばれる甘酸っぱい果物を搾った汁だ。他の二人は同じ実から造られた蜂蜜色の酒を飲んでいる。


「うん。わーはあれからペラヒームに行っておったき。少し訪ねたい知人がおっての」

「ペラヒームって、あの有名な花の都の? まさかそこにトビーも行ったのか? 行ったって入れやしなかったろ」

「ロクサーナにも似たようなことを言われましたけど、あなたに言われると何故か数倍腹が立ちますね」


 吊り上げた口の端を歪めながら、トビアスはけろりとしているジャックを見やって言った。

 が、そこで〝ロクサーナの下僕として街に入った〟などと不本意極まりない事実を知られては困るので、適当に話題を逸らすことにする。


「そう言うジャックは、あれからずっとこの国にいたんですか? 予定していた商談は?」

「もちろん大成功よ。他にも何件か商談がまとまって、支度金がたんまり手に入った。で、一旦国に帰ろうとここまで来たわけだが、そしたら港でこそこそ喋ってる怪しい二人組を見つけたもんで」


 木製のカップを手にわざとらしく目を眇められ、トビアスはついギクリとした。自分たちの挙動はそんなに怪しかっただろうか、と思い返して体を硬くしたが、そんなトビアスとは裏腹に、ロクサーナは至って落ち着いた声音で言う。


「チャック。そう言えばそもじ、先程何やら興味深い話をしておったの」

「チャックじゃなくてジャックな。興味深いってのは、船の話か?」

「うん。ここアルマセンの港では船に人を積むばかりで、連合国からの荷は別の港で下ろされておる。そう申したきゃえ?」

「ああ。〝表向きにはそういうことになってる〟ってな」

「お、〝表向きには〟って、どういうことですか?」


 先程と同じ意味深な言葉を繰り返したジャックに、トビアスは思わず身を乗り出して尋ねた。


 するとジャックはにやりと口の端を持ち上げ、勿体つけるようにたっぷりと酒を飲んでから言う。


「――ルエダ銀貨一枚」

「え?」

「俺ぁ腐っても商人だぜ。商人にとって情報ってのは何よりも貴重な売り物だ。そいつをタダで売ってくれってのは、ちょいと虫がいいんじゃねえの?」

「あ、あなたって人は……」

「チャック」

「だから、俺はジャックだ――って」


 そのとき、間違った名を呼ばれて振り向いたジャックの動きが止まった。同時にトビアスも目を見張り、呆気に取られて硬直する。


 それはほんの一瞬の出来事だった。ジャックが振り向いた拍子に、たまたまそれが当たったと言ってもいいような。


 けれどもそれは偶然などではなく、ロクサーナが意図してそうしたのだとトビアスにはすぐに分かった。


 ロクサーナは、ジャックの頬にキスをした。


 それからいじらしくジャックの手に自らのそれを重ね、ほんの少し恥ずかしそうに視線を落とす。


「トビーには金がにゃーのでおじゃる。代わりにこれで許してたもれ」


 ズキリ、と、心臓を矢で射抜かれたような痛みを覚えた。その痛みは、薄暗い店内でも辛うじて分かる程度に赤らんだロクサーナの顔を見れば見るほど激しくなる。


 何だろう、この痛みは。思いながら、同時に頭の片隅で、ロクサーナは私にはあんな顔を見せてくれたことがない、と呟くもう一人の自分を発見した。


 だからどうした、とそんな自分の呟きを一笑に付そうとしたそのとき、がっしりとロクサーナの手を掴まえたジャックが、熱い視線を彼女へ注ぎながら言う。


「よし、許そう。ついでに俺と同じ宿に泊まってくれたら、俺はもう何もかも君のために」

「おお、神よ、私はあなたの御心に従います」

「うおっ!? おい、やめろトビー! てめえ何する気だ!?」

「いえ、たった今、不埒者を罰せよという神の声が聞こえたような気がしたので」

「わ、分かった、分かったからとにかくそのカップを置け!」


 立ち上がって自らのカップを翳し、今にもジャックの頭に垂らそうとしていたトビアスは小さく舌打ちした。これで本当に神の声が聞こえれば、迷わずジャックの一張羅を果汁でベトベトにしてやったのに。それがただの八つ当たりに過ぎないとしても。


「それで? あなた、本当に何か秘密を知ってるんでしょうね」

「秘密ってほどのことじゃあねえけどな。俺もよ、どうも列侯国の動きが妙だってことに気づいちまったんだよ。さっき言ってた船の話、ありゃ本当だ。確かにここを出た船は、隣のオネスト侯領に寄って帰ってくる。だがその船の回転がやけに早い。本当にアビエス連合国まで行ってんのか? って疑問に思えるくらいにな」

「回転が早い?」


 それは一体どういうことだ、と、トビアスは再び席に落ち着きながら聞き返した。


 するとジャックは思わずドキリとするような鋭い眼差しを辺りに配り、周囲の耳がこちらに向いていないことを確かめてから言う。


「いいか。ここアルマセンからアビエス連合国までは、センチピード船なら片道三ヶ月の道のりだ。ということは少なくとも、往復には六ヶ月かかるってことになる。それが何故か二月そこらでオネストから戻ってくるんだ。二百人近い難民を積んで出発したはずの船が、すっかり空になった状態でな」

「……! そ、それって……」

「それだけじゃねえ。船にはとても漕ぎ手なんて務まりそうもない子供や年寄りまでまとめて乗せる。俺はそれが気になって、あんな子供を乗せたらかえって航海の邪魔になるんじゃねえかと熟練の船乗りに訊いてみたんだ。だが船乗りは〝それが国の命令だから〟と言葉を濁してはっきり答えようとしねえ。こいつはどうもキナ臭えと思わねえか?」


 ジャックの声色は先程までとは打って変わって、低く潜められたものになっていた。そこにある張り詰めた響きを聞いたトビアスは、生唾を飲みながらロクサーナを見やる。


 ロクサーナもまた、いつになく深刻な表情でジャックの話に耳を傾けていた。そこには既に、先刻までの恥じらった様子はない。ただ周囲の者に怪しまれないようにするためか、酒を飲むふりをして適度に顔を隠している。


「アビエス連合国で主流になってる最新型の船を使ったって、二ヶ月で列侯国と連合国を往復するなんてのは不可能だ。ということは大勢の難民を積んで出ていくあの船は、連合国じゃないどこかで難民を下ろしてるってことになる。だがここから船を使って二ヶ月で行って帰ってこられる場所なんて、連合国との間にある無名諸島くらいだ。あそこには余所者嫌いの先住民がいるだけで、他に目ぼしいものは何もない」

「そ、それじゃあ船に乗せられた難民は、どこへ消えてしまったと言うんですか? まさか途中で海に捨てている、なんて馬鹿な話はないでしょう?」

「さてな。さすがの俺にもそこまでは分からねえ。けどよ、こいつは絶対何かあるぜ。上手くすりゃ、一儲けできるヤマかもしれねえ」

「なっ……」


 そのとき、またしても不敵な笑みを刻んだジャックの発言に、トビアスは耳を疑った。


 儲ける? いかにも不穏なこの状況で?


 それはつまり命を投げ出すということではないか、と、トビアスは信じられない思いでジャックの顔を凝視する。


「ま、待って下さい。一儲けって、まさか列侯国の秘密を暴いて国を強請ろうなんて考えてるんじゃないでしょうね?」

「いやいや、トビアス君。さすがの俺もそこまで無謀じゃあないよ。ただちょっと難民と一緒に連合国行きの船に乗り込んで、本当の行き先がどこか探るだけさ」

「そんなことをしてどうするって言うんですか。船の行き先が連合国じゃないなら、一体どんな危険な場所に連れていかれるか分からないんですよ?」

「だから言ったろ、〝情報は何よりも貴重な売り物だ〟って。その行き先如何で、こいつはどんな遺跡のお宝よりも高く売れる可能性が出てくる。特に砂虹同盟と敵対してるトラモント黄皇国なんかには、場合によっちゃあえらい高値で売れるだろうなぁ」

「あ、あなたって人は……!」


 本日二度目となる呆れの言葉を、トビアスは先程とはまったく違う心境で吐き出した。


 この男はそれがどれだけ危険な賭けかということを分かって言っているのだろうか。そんな危険を冒してまで大金を手に入れたいという冒険商人の心理が、清貧を信条とする修道士のトビアスにはまったくもって理解できそうにない。


 が、そのとき、


「――〝カニバル〟」


 と、ロクサーナが小さく言った。独白にも似たその呟きを、トビアスははたと振り返る。

「え……? ロクサーナ、今、何て?」

「列侯国には〝屍霊使いカニバル〟がおる。そういう話を聞いたことはにゃーきゃえ?」


 顔を上げ、ジャックを見つめてロクサーナが尋ねた。その眼差しが痛いほど真剣なのを見て取って、トビアスは気を呑まれる。


屍霊使いカニバル、ねえ。まさか列侯国は、そいつに難民を喰わせてるとでも?」

「わーはそうではにゃーかと睨んでおる。それなら難民が消える理由にも説明がつく」

「確かに、屍霊使いカニバルってのは人間の肉を喰らって魔界と契約するって言われてるからな。だが、だとするとわざわざ船を使う理由が分からねえ」

「どういうことけ?」

屍霊使いカニバルの噂なら俺も聞いたよ。とは言え一番最後に聞いた噂じゃ、喰われた男の死体が見つかったのはこの国の東の外れだそうだ。その少し前にも、化け物の行列が国境を越えて砂漠へ向かうのを見た、なんて噂がまことしやかに流れてた。ってことはもし本当にそんな異教徒がいるとすりゃ、今はラムルバハル砂漠辺りにいるってことだ。だがあそこに入る道は陸路しかねえ。南には死の谷があるから、船じゃとても――」


 近づけない、と続いたジャックの言葉を、ガタンと鳴った椅子の音が掻き消した。


 見ればロクサーナが卓に手をつき、血相を変えてジャックを凝視している。これにはジャックも驚いたらしく、何度も目を瞬かせてロクサーナを見返している。


「チャック。その話はまこときゃえ?」

「え、えーと……俺も噂として聞いただけだから、本当かどうかは何とも……」

「その噂、いつどこで聞いたのけ?」

「ウニコルニオだよ。砂王国と国境を接してる、トレランシア侯領の主都の。聞いたのは二ヶ月前だったか、三ヶ月前だったか……」

「分かった。ありがとなし」

「え? え? あ、ちょ、ちょっと、ロクサーナ!?」


 抑揚のない口調で短く言うと、ロクサーナはすぐに身を翻して席を離れた。そんなロクサーナの様子に慌てたトビアスは宣教帽を引っ掴み、急いで彼女のあとを追う。


 ところが俄然、ロクサーナが店の真ん中で足を止めた。そのせいで転がるように駆けてきたトビアスは彼女にぶつかりそうになり、驚いて避けようとした拍子に、今度はバランスを崩して素っ転びそうになる。


「チャック」


 勢いを殺し切れず、前のめりになったトビアスがわたわたと振り回していた腕を、ときにロクサーナが掴んだ。そうしてトビアスの姿勢を引き戻しながら彼女は振り返り、奥の席にいるジャックをじっと見据えて言う。


「そもじとはまた会わねばならんような気がするき。それまで死ぬでにゃーぞ」


 最後にそう言い置いて、ロクサーナは再び歩き始めた。

 途端に後ろから、


「ジャックだ」


 と短く訂正する声が聞こえたが、トビアスにはそれを顧みている余裕もない。


 何故ならトビアスの右腕はロクサーナに掴まれたままだった。


 出口へ向けてトビアスを引っ張るロクサーナの左手には祈るような、縋るような力が込められている。


「ロクサーナ?」


 声をかけたが、返事はなかった。


 ロクサーナはまるで何かを堪えるように、日の光が注ぐ外の世界を、ただまっすぐに見つめていた。


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