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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅱ
8/19

ルエダ・デラ・ラソ列侯国――街道

 底の深い器を用意し、瓶の中身をひっくり返した。


 水と共に滑り出してきた水中花を手で受け止め、砂を器へと流し込む。その砂に水中花の根を埋めて、しっかりと立たせた。


 空になった瓶は軽く濯ぎ、川から新たに水を汲む。

 その中にもう一度、水中花を落とし込んだ。砂と共に瓶の底へ沈み込んだ水中花は、トビアスが軽く瓶を振ると少しずつ体勢を立て直し、やがてすっかり元どおりの姿になる。


「トビー、そろそろ行くぞえ」

「あ、はい」


 背後から聞こえたロクサーナの呼び声にトビアスは慌てて返事をした。水の入れ替え作業に使った器を川の水で軽く濯ぎ、立ち上がってロクサーナのあとを追う。

 器はロクサーナから預かっている彼女の旅嚢の中に入れた。水中花の瓶は腰の物入れに押し込んでおく。


 アマゾーヌ女帝国を出るときに買った、小さな革の物入れだった。ちょうど水中花の瓶がぎりぎり入るくらいの大きさで、底が浅く半分ほど瓶が露出している。


 瓶を入れると限界まで革が張り、よほどのことがない限り転げ落ちる心配はなさそうだった。深さがないのはトビアスが手前の革を切り落としたからだ。

 そうすればちょうど良く瓶が露出し、花にも日の光が当たる。水中花は光の届かないところでは咲かないと聞いて考え抜いた末の方法だった。工夫を凝らした甲斐あって、花は未だ生き生きとしている。


「また水の入れ替えをしとったのきゃえ。そもじはほんに地味な作業が好きでおじゃるの」

「じ、地味って言わないで下さいよ。これでも一つの命を懸命に守ってるんですから」

「しかし、ペラヒームを出てもう二月以上経つというのに、まだ枯れんとは驚いた。そもじはその花を本気で故郷くにへ持ち帰る気でおるのきゃえ?」

「もちろんです。この花は、枯れたり長い時間空気に触れたりすると溶けてしまうんでしょう? それだと他の花と違って押し花にもできないから、実物を持ち帰るしかないんですよ。女帝国でしか手に入れることのできない花となれば尚更です。それはすなわち、入手できる機会がかなり限られてくるということですから」

「ふうん……じゃけんじょ、ほんに持つかの」

「持たせます。それでいつか、北でもこの花を咲かせてみせます。きっとみんな、この花の虜になりますよ。こんなに神秘的で美しい花は、私だって見たことがないんですから」

「……そうけ。いずれ異国でもこの花が咲くのけ」


 と、ロクサーナは何か考え込むような顔をして、トビアスの腰にある瓶を覗き込んだ。

 そんな彼女に一瞥を向けた刹那、トビアスは自分の心臓がドキリと音を立てたのを聞く。


 瓶の中で揺れる水中花を見つめたロクサーナの表情は、何故かひどく寂しそうだった。


 どうしてそんな顔をするのだろう。尋ねたかったが、上手く言葉を紡げないでいるうちにロクサーナは顔を上げ、再び前を向いてしまう。


「ほいならわーもそれを最後まで見届けようかの。そもじがほんにその花を故郷くにまで持って帰れたら、そのときは……」

「そのときは?」

「……そのときは、わーも北でその花を咲かす手伝いをしてやってもいいき。水中花は冬には枯れてしまうらしいからの。再び咲かすには花がもっと必要になるやもしれんじゃろ」

「えっ、そ、そうなんですか?」

「うん。水中花は寒さに弱いと花屋が言っとったき。冬は湖底から一斉に姿を消すとの」

「それじゃあ、北でこの花を栽培するなんてますます難しいじゃないですか……」

「諦めるのけ?」


 と、振り向いたロクサーナの顔を見て、トビアスはまたしてもドキリとした。ロクサーナの瞳は切実な光を宿し、しかし半ば落胆したようにトビアスを見つめている。


 どうやらロクサーナはトビアスがこの花を北へ持って帰ると告げたことを、思いの外本気で受け取ったようだった。

 無論トビアスも冗談で言ったつもりはないのだが、本当に北でこの花を栽培できるという保証はどこにもない。それだけに、ロクサーナからの期待の混じった眼差しが心に痛かった。確証もないのに無責任なことを言ってしまっただろうか。


 しかし今更弱気なことを言って更に落胆されては居心地が悪かった。

 それでなくともロクサーナには、普段からぱっとしないだの見どころがないだのと言われているのだ。やはりその程度の男だったか、と呆れられてしまうのは、何となく悔しい。


「も、もちろん諦めたりはしませんよ。まずはこの花を無事に持ち帰って育ててみないことには何とも言えませんから。できればこの花を北でも毎年見られるようにしたいですね」


 そんな感情が先に立ち、トビアスはつい見栄を張った答えを返してしまった。もしかしたらこの花を北で咲かせることは不可能かもしれない、という思いが既にあるだけに、言ってから頭を抱えたくなる。


 しかし一方のロクサーナは、トビアスの返事を聞いて明らかにほっとしていた。


 まるで教会へ己の罪を告白しに来た人間が、その罪を許されたような――そんな顔だ。


「そうけ。ほいならまずは、当面の問題を解決せねばの」


 そう言ったロクサーナは表情こそいつものそれに戻っていたが、少しだけ嬉しそうだった。この二ヶ月、彼女が水中花をここまで気にかけたことなどなかっただけに、一体どんな心境の変化だろうとトビアスは首を傾げたくなる。


 けれども今はそれを探るより、ロクサーナの言う〝当面の問題〟を何とかする方が先だとトビアスも気持ちを切り替えた。


 二人は目下、ルエダ・デラ・ラソ列侯国南部の港町アルマセンを目指して旅している。難民がその町に集められているという情報を、トビアスたちはアマゾーヌ女帝国で買い入れた食糧を配り歩いているうちに手に入れたからだ。


 そればかりか二人が訪ねた村の中には実際に労役へ出て戻ってきたという村人もいて、その村人から直接話を聞くこともできた。

 彼らは実際に北や南で荷運びの役に就き、半年ほどの労役を終えると国からきっかり銀貨百枚をもらって帰ってきたという。その話を聞いて羨ましがり、同じく労役に就くことを志願した者も少なくないらしい。


 南で労役に就いた者は、やはり南西大陸のアビエス連合国まで行っていた。そこで積み荷を積んだり下ろしたり、交代で船を漕いだりという肉体労働に従事したようだ。


 だが中には船旅の途中で事故に遭い、難破した船もあったようだと村人は言った。同じように労役へ行ったのに、未だ帰ってきていない者がいるのはそのせいだろうとも言っていた。


 しかし本当にそれだけだろうか、とトビアスは思う。

 何故ならどの村で話を聞いても、労役に就くために村を離れた人々の数に対して、戻ってきた人々の数が少なすぎるのだ。


 いくら海の旅は危険とは言え、そこまで頻繁に船が事故に遭ったりするだろうか。

 仮にそうなのだとしても、事故に遭えば遭った分だけ船は失われ、その分航海に出られる人数も減る。そうなれば南に集められた難民の中には、仕事にあぶれる者も出始めるだろう。


 それでも国は絶えず難民を集め続けている。

 何故それほどの人数が必要なのか。


「列侯国は少しでも多くの民に金が行き渡るよう、労役の回転を早めるのが目的と言っておるようじゃがの。それにしては労役を終えて戻ってくる民の数が少なすぎる。その原因がすべて船の難破なら、列侯国の船なぞ疾うに尽きておってもおかしゅうないぞえ」

「そうなんですよね……その分船を新しく造ると言ったって、そんなにぽんぽんできるものでもありませんし。きっと人も足りなければ、資材も足りないはずですよ。造船に使われる木材は切り出してから一年ほど寝かせなければならないと言いますし、まったく知識のない人間を造船に携わらせるわけにもいかないでしょうから」

「うん。第一そんなに海難事故が頻発しておっては、さすがの民もおかしいと騒ぎ出そうもん。それがにゃーということは、やっぱり理由は他にあるということじゃ。こうして民が次々と消えておる以上、恐らくろくでもない理由なのは確かであろうがの……」


 歩きながらそう話すロクサーナには、その〝理由〟の見当が既についているように見えた。最近彼女はこの話になると決まって露骨に眉を寄せ、腐臭でも嗅いだような顔をする。


 そんなロクサーナの横顔を見る度、トビアスは胸中にある不吉な予感がすくすくと育っていくのを感じた。

 それがただの考えすぎであることを神に祈る一方で最悪の事態を想定し、既に身構えている自分がいることも知っている。


「こんなことなら、初めから山ほどの食糧を担いでこの国に来るべきだった……」


 そうすればあのアルタという少女とその家族を、村に留まらせておくことができたかもしれない。そう思いうなだれたトビアスを、ロクサーナがちらりと一瞥したのが分かった。


 列侯国の人々が飢餓に苦しんでいることは、ここへ来る前から分かっていたのだ。だのに敬虔な信仰心と神の教えさえ携えて行けば、きっと人々を救えるだろうと馬鹿馬鹿しい夢を見ていた過去の自分に腹が立つ。


 結果として人々を救ったのは、やはり神の教えなどではなく金とパンだった。トビアスが女帝国からヒィヒィ言いながら運んできた山積みの食糧は、列侯国に入って一月も経たないうちになくなった。


 人々はトビアスが無償で配り歩いた食べ物に殺到し、涙を流しながらそれを食い、救われた、と口々に言った。たったそれだけの食糧では到底足りず、またすぐ渇くと分かりきっているだろうに、彼らはトビアスに感謝の言葉を並べた。


 だが彼らを救ったのはトビアスではない。真に彼らを救う道を示してくれたロクサーナだ。それをまんまと宣教のために利用しているような気がして、トビアスはとてつもなく惨めな気分になった。


 けれどもロクサーナはそれでいいと言う。自分がそもそもトビアスにそんな道を示したのは、トビアスが列侯国の人々を救いたいと言ったからだと。


 そうでなければ自分はわざわざ食糧を担ぎ、自らの手で彼らを救おうなどとは考えなかったと彼女は言った。そんな酔狂な物の考え方ができるのは、トビアスが修道士だからであろうとも。


「だけどそれじゃあロクサーナが今、列侯国の秘密を暴こうとしているのは何故ですか?」


 それはそこに住まう人々のためではないのかとトビアスは尋ねた。トビアスには時折、ロクサーナがわざと偽悪者を演じているように見えるからだ。

 しかしロクサーナの答えは実に淡泊なものだった。


「その秘密とやらがわーの目的に関係しておるやもしれんからでおじゃる」


 その目的というのが何なのか、ロクサーナは最後まで教えてくれなかった。トビアスはそこにも一つ、何か不穏の種が隠れているように感じられた。


 しかしロクサーナを完全に疑ってかかる気にはなれない。彼女は口と態度こそ悪いがその本性まで悪ではない。


 仮に善人ぶってトビアスを騙そうとしているのなら、もっと上手くやるだろう。例えばもう少し優しい言葉をかけてくれるとか。


「トビー、見えてきたぞえ」


 と、不意に名を呼ばれ、トビアスの意識は思案の海から呼び戻された。見ればそれまで街道の両脇に繁っていたはずの森が途切れている。


 代わりに現れたのは無数の切り株となだらかな下り坂、そしてその先に広がる石造りの街並みだった。


 まだ遠いが確かに見える。

 海だ。


「あれがアルマセンでおじゃる」


 坂を下り始める直前で足を止め、ロクサーナが言った。


 二人の行く手から風が吹きつけてくる。

 その風に混じって、微かな潮の匂いがした。


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