アマゾーヌ女帝国――華都ペラヒーム3
アマゾーヌ女帝国の食卓は変わっている。ものを乗せる部分が二層になっていて丸く、上の層がくるくると回るのだ。
初めてその卓を目の前にしたとき、トビアスは困惑した。
卓が回ることは分かったが、何故回す必要があるのかまったく分からず、とりあえず自力で理由を解明するために回しまくっていたらロクサーナから料理が取れないと叱られた。
どうやらこの国の卓が回るのは、自分の席から遠いところにある料理を手元へ引き寄せるためのようだ。女帝国の食事は各自へ個別に出されるのではなく、大皿にたっぷりと盛られて一度に出てくる。そこから自分の取り皿に好きなだけ取って食べるのだ。
だから回る卓が必要になる。大皿は場所を取るので、座ったままでは遠くの皿に手が届かない。
しかし女帝国では、食事中に立ち上がるのは最悪のマナーなのだとロクサーナが教えてくれた。だからいちいち立ち上がらなくてもいいように卓が回る。
更に料理は完食してはならないと言われた。少しだけ大皿に残すのがマナーで、残飯はあとで奴隷に与えられるのだという。
それが女帝国流の優しさなのだと言われたが、トビアスにはとても真実の優しさだとは思えなかった。本当に慈悲の心があるのなら残飯など与えずきちんとした料理を出してやるべきだし、そもそも奴隷という立場から解き放ってやるのが正解だろう。
「そうそう、そう言えば日中、街で列侯国から来たという商人と会っての」
と、ロクサーナが思い出したようにそう言ったのは、あの猫の絵事件後の夕食の席でのことだった。
相変わらず主人と下僕が食事を共にしているという図が奇妙なのか、周囲からは好奇と嫌悪の視線が絶えない。宿の食堂は宿泊客以外にも開放されているから、客の中には女帝国の人間も多いのだ。
これでも食堂が混む時間は避けているのだが、やはり貸切状態とはいかなかった。
その代わりロクサーナお気に入りの上宿というだけあって、料理がうまいのだけが救いだ。
「ずいぶん大量の食糧を買い込んでおったぞえ。ただ供は一人もおらんでの、その商人だけがようやくこの街に入ることを許されたそうでおじゃる。これまで列侯国は、女帝国に従う周辺諸国から食糧を購っておったらしいの」
「なるほど。確かにこの国でも認められるほど美しい女商人なんて、そうそういないでしょうしね。だけどそれじゃあ街に入れなかった荷運びの人たちは、橋の向こうで待機してたんでしょうか。もしかしたらアルタもそこにいたりして」
言って、トビアスは先月ルエダ・デラ・ラソ列侯国で出会った少女のことを思い出した。同時にあのとき少女からもらった小石が腰の物入れに収ってあることも思い出し、無意識にそっと手で触れる。
ところがそれに曖昧な返事をしたロクサーナが、何やら難しい顔をしていることにトビアスは気づいた。
彼女は大好物だというハナエビ――世界でもペラヒーム湖だけに棲息し、水中花を巣にしているという淡水エビだ――の蒸し焼きを口に運びながら、一方で食事など上の空という顔つきをしている。
「それなんじゃがの……わーもアルタが来ておるやもしれんと思うて話を聞いたら、けったいなことに商人は難民なぞほとんど連れてきておらんと申したでおじゃる」
「え? 連れてきてないって、それじゃあ……」
「荷運びは国が雇った傭兵が、道中の護衛も兼ねてするとか。手伝いの難民もおるにはおるけんじょ、自分が連れてきたんは二十人程度じゃとも申しておったき。わーが旅の途中で列侯国の主都に寄ったときには何百という難民が集っておったんじゃがの」
ルエダ・デラ・ラソ列侯国が全国に金をばら撒いて、荷運びのための人夫を雇っている。その話はロクサーナもトビアスが話す前から知っていた。
何しろ彼女はレグンブレ村でトビアスと出会うまで、一人で列侯国内を旅していたのだ。その道々で彼女もまた人夫募集の噂を聞き、実際に金と食糧を求めて集まった多くの難民の姿も目にしたと言う。
そのロクサーナが一つの街で見かけた難民の数が数百というのだ。列侯国は七つの小国から成り、そのそれぞれに主都と呼ばれる街があるから、各地で集まった人数を合計すれば二、三千人には上るだろう。
それも列侯国は今年に入って初めて人夫を募ったわけではない。食糧事情が深刻化した去年から継続して人を集めているのだ。
だとすれば金と食糧に釣られて集った難民の累計は二万か三万か。しかしそれだけの数の難民を集めておきながら、北へ来ているのがたったの二十人というのはおかしい。
「もしかしたら、同時に取引している他国にも人数を分散しているのかもしれませんが……それにしても一つの取引に二十人、というのはいくら何でも少ないですね。周辺諸国が相手ならともかく、ここならかなり大口の取引が望めそうなのに」
「うん。ほいなら物資の量に比例して運び手の数も増えそうなもんじゃけんじょ、それはすべて傭兵で補っておるそうな。しかし、そうなるとますますおかしいき」
「と言うと?」
「そもじ、砂虹同盟は知っとるきゃえ?」
「砂虹同盟?」
「うん。〝砂虹〟の〝砂〟とは列侯国の東にあるシャムシール砂王国の〝砂〟、〝虹〟は虹神ケシェットを崇める列侯国のことを指す言葉じゃき。この二国が去年、歴史的な同盟を結んだのでおじゃる。更に東のトラモント黄皇国と揉めとる砂王国に軍事協力をする見返りに、列侯国は砂王国から金をもらえるという同盟をの」
「砂王国と列侯国が? だけど列侯国は元々一つの王国だったのが、砂王国に王を殺されて今の形になったんですよね? そのせいで砂王国とは昔から犬猿の仲だと、以前修道院に立ち寄られた旅の方から聞いたことがありますが」
「じゃから歴史的な同盟と言ったろうもん。砂王国は列侯国にとっても長年の仇敵じゃ。じゃけんじょ、百年に一度の大飢饉で国が弱っとるところに攻め込まれては堪らんじゃろ。おまけに砂王国は金泉のおかげで金にはまったく困っとらんし、列侯国も他国から食糧を購うための金が必要じゃった。それで史上初の同盟が結ばれたんじゃ」
更に蒸しエビへ手を伸ばしたロクサーナの講釈を聞き、トビアスはなるほどと頷いた。
〝金泉〟の話は、トビアスも過去に書物で読んだことがある。大陸南部のラムルバハル砂漠には、砂の中から泉のように砂金が湧いてくるという不思議な現象があるというのだ。
そのラムルバハル砂漠を国土とするシャムシール砂王国は、金泉のおかげで常に莫大な富を抱え、その富にものを言わせて好き放題暴れ回っているという話だった。砂王国は元々砂賊と呼ばれる砂漠の盗賊たちが集まって生まれた国家であり、それゆえ気性が荒く戦いを好む傾向があるらしい。
だから西のルエダ・デラ・ラソ列侯国、東のトラモント黄皇国と絶えず戦争を繰り返し、両国から煙たがられているのだとロクサーナは言った。
しかし列侯国が節を屈してその砂王国と手を結んだというのなら、トビアスが疑問に思っていた大金の出所にも納得がいく。列侯国が荷運びの人夫を雇うためにばら撒いていた金は、砂王国から手に入れた砂金を売り捌いて得たものだったのだろう。
「しかしの、そもそもこの砂虹同盟というのがおかしい。あれほど列侯国の領土を欲しておった砂王国が、飢饉で衰弱しておる列侯国を敢えて助けるような真似をするかの。あの国の性格ならここぞとばかりに攻め込んで、列侯国から領土を毟り取りそうなもんでおじゃる。少なくともあの国に、他者への慈悲や憐れみなどありはせん」
「それは、東にトラモント黄皇国との戦線を抱えているからじゃないですか? 列侯国軍を味方につければ押し込めると思ったのかも」
「じゃけんじょ列侯国は大陸でも有数の軍事後進国じゃき。未だに常備軍もほとんど置かず、戦の度に傭兵を雇って凌いでおるような国でおじゃる。それに比べて戦狂いの砂王国軍は精強そのもの。そんな軍が弱小の列侯国軍を頼ったりするもんかの」
「それはそうかもしれませんが……」
「確かにトラモント黄皇国は強い。軍も全国から掻き集めれば優に二十万は超えるという大国でおじゃる。いざとなればあっこにはツァンナーラ竜騎士領という心強い同盟相手もおるしの。しかし砂王国にも竜人がおる。竜人一人で人間の兵士五十人は相手にできるという恐ろしい連中じゃ。この上列侯国軍の力まで借りねばならんほど、砂王国が戦力に困っとるとはよう思わん。わーにはそれが引っかかる」
相変わらず難しい顔をして、ロクサーナは蒸しエビを咀嚼した。しかし物思いに耽ったトビアスは手を動かすのも忘れ、野菜ばかりが乗った自身の皿に目を落とす。
竜人というのは、トカゲのような頭に人間の体を持ち、その全身を硬い鱗で覆われた獣人のことだった。彼らはラムルバハル砂漠の南にある死の谷に棲み、頻繁に人を襲っては喰らうと言われている。
トビアスは本物の竜人など見たことはないものの、過去に読んだ書物の中にその醜悪な姿を描いたものがあった。竜人の鱗はいかなる刃をも通さず、〝大竜刀〟と呼ばれる巨大な剣は安い鎧など易々と両断してしまうと言う。
加えて短剣のような牙がずらりとならんだ顎は強靭で、一度喰らいついたら決して放さず、人の首など簡単に捩切ると書物には書かれてあった。
トビアスはその生態にまつわる記述を思い返すだけで身震いがする。砂王国はその竜人と手を結んでいるのだ。だとしたらロクサーナの言うとおり、わざわざ列侯国の力を借りるまでもないような気がする。
「しかし砂王国がほんに列侯国軍の力が欲しいと申したなら、傭兵を主戦力とする列侯国は今回もそれを引き連れて戦線に加わるべきじゃろ。それが傭兵のほとんどを北へ回して食糧の確保にばかり腐心しとる。砂王国は近々また黄皇国へ戦をしかけるともっぱらの噂じゃ。そんなときに主力の傭兵を遊ばせておいて良いものかの」
「……」
「昼間話した商人は、主都に集まった難民はほとんど南へ回されたと言うておったき。恐らくは海の向こうのアビエス連合国とも取引があって、船の漕ぎ手として人数が必要なんじゃろ。それにしたところで、南へ回される難民の数が多すぎると思うのはわーだけきゃえ? その半分でも北へやれば、傭兵を戦へ差し向ける余裕ができるんじゃにゃーかの」
確かにおかしい。何かが少しずつ、おかしい。
トビアスはロクサーナの話を聞いているうちに、そんな思いを拭えなくなった。
途端にトビアスの胸裏には、ざわざわと嫌な予感が芽生え出す。それは不吉な匂いを伴って、徐々にトビアスの思考を侵食していく。
「仮に、ですよ……仮に残りの大半の難民が南へ行って、そこでアビエス連合国へ船を出す手伝いをさせられているのだとしても、ルエダ・デラ・ラソ列侯国からアビエス連合国まではかなりの長旅になりますよね」
「そうさの。列侯国の外洋船はほとんどが手漕ぎ船じゃき。順調にいっても片道三ヶ月はかかるじゃろ」
「その間、アルタのような子供はどうしているんでしょうか。両親と共に船に乗るのか、それとも港で両親の帰りを待つのか……どちらにしても船旅なんて、陸の旅の何倍も危険です。もし嵐や魔物の襲撃で船が沈むようなことになったら……」
そこから先は恐ろしくて口にできなかった。
船に乗ろうが乗るまいが、あのアルタという少女に待っているのは暗い未来ではないのか。仮に船が何事もなく戻ってくるとしても、もし港に残されたなら、彼女は短くとも六ヶ月の間両親と離れて暮らすことになる。
それはどんなに心細いことだろう。故郷から遠く離れた港町で一人残され、健気に両親の帰りを待つアルタの姿を想像したら、トビアスはいたたまれなくなった。
そしてその陰に潜む不穏な闇。
列侯国の不審な動きの裏には何があるのか。
少なくともまっとうな真実ではあるまいとトビアスの勘は告げている。たとえば南へ人を集め、家族を引き離し、残された子供たちはどこかへ売り飛ばしている、とか――。
「戻ってみるかの、列侯国に」
そのとき、ロクサーナが独白のように呟いたのを聞いて、トビアスははっと顔を上げた。
自分もたった今、同じことを考えていた。
あの健気な少女の行方が気になる。そう目だけで訴えかけると、ロクサーナもそれに気がついたのか、顔を上げて深刻な表情をする。
「トビー、そもじにはつらい結果が待っておるやもしれんき。それでも行くきゃえ?」
「もちろん行きますとも。そもそも私がこの国へやってきたのは、食糧を手に入れて列侯国へ帰るためです。アルタのことがなかったとしても、あの国には戻ります」
「ほいなら明日にはこの国を出ようかの。食糧を買う金はわーも出すき。ここの宿代と同じくらいの額を出せば、そもじの気も楽になるじゃろ」
と、ロクサーナが再び蒸しエビへ手を伸ばしながら言ったのを聞いて、トビアスは少しだけ顔を伏せた。目の前には依然、山盛りの料理が載った大皿が並んでいる。
列侯国の人々があんなに飢えているときに、こんな贅沢をしてもいいのだろうか。初めて女帝国流の食卓に着いたとき、トビアスは思わずそう零した。
女帝国の宿では、一度にそれほど大量の料理が出されるのだ。女帝国では残飯は奴隷に回されるとロクサーナが教えてくれたのはそのときだった。
それを聞いたトビアスは、余った料理も決して無駄にはならないのだと少しだけほっとした。しかし翌日からも、自分だけが贅沢をしているという罪の意識は消えなかった。
それでも食えとロクサーナは言った。ここでトビアスが食事を拒んだところで、列侯国の人々の腹が満たされるわけではないのだと。
そんな自己満足のための行いに酔って、本当に為すべきことを見失うような愚か者は宣教師には向かない、ともロクサーナは言った。
多少の残飯は確かに奴隷の食事となるが、それでも余った場合はゴミとして捨てられる。その方がよっぽど列侯国の人々に顔向けできないのではないかと言われ、トビアスはようやく思い直した。食べ物が一口喉を通る度、宣教師とは何なのだろうと考えさせられた。
「……その代金も、あとで教会に請求して下さいね」
「当然でおじゃる」
顔色一つ変えずにロクサーナは言った。トビアスは小さく苦笑して、自分もようやく食事を再開する。
だが今になって思うのだ。ロクサーナがわざわざ法外な宿泊費のかかる部屋を選んだのは、自分に金を使わせないためだったのではないかと。
金が手元に余れば余るほどトビアスは多くの食糧を買える。その分罪の意識も軽くなる。今度はただの自己満足ではない。食糧を買えば買っただけ、トビアスは本当の意味で人々に奉仕できる。
しかしロクサーナの手持ちは大丈夫なのだろうか。気になったが、尋ねても「そもじのような貧乏人とは違うき」などと言われて終わりそうな気がした。
事実そうなのだろうと思う。アマゾーヌ女帝国内でも非常に高価だと言われる水中花をぽんと買ってくる辺りに、彼女の金銭感覚が世間一般のそれとは違うことが滲み出ている。なのに、
「あの、ロクサーナ。私もハナエビをいただいていいでしょうか」
「む。……しょーがにゃーの。一個だけじゃぞ」
そう言ってちょっと名残惜しそうに好物のハナエビを見つめる仕草は、何とも外見相応に子供っぽかった。
本当に掴みどころのない少女だ、と思いながらトビアスは卓を回し、言われたとおり一つだけ蒸されたハナエビを皿に取る。
ハナエビは殻を剥かれた身を小さく縮め、その上に湯通しされた香草とやわらかい乾酪が載せられていた。
口に運べばぷりぷりの身の食感と独特の甘さ、それに香草の鼻を抜けるような香りと乾酪の酸味が合わさり、舌の上で驚くほど調和する。
「やっぱりおいしいですね、これ。こんなにおいしい料理を食べたのは生まれて初めてですよ。せっかくなんで、もう一つだけ……」
「あっ! あ、あ……!」
そう言ってトビアスがもう一つハナエビを取ろうと手を伸ばせば、ロクサーナが必死な様子で身を乗り出してきた。
そんなロクサーナを見たトビアスは思わず吹き出し、笑いながらハナエビの皿をロクサーナの方へと戻してやる。
「冗談ですよ。でも本当においしかったです。ごちそうさまでした」
「……やっぱりそもじはいけずでおじゃる」
「ロクサーナほどじゃありませんけどね」
「わーにほのような口を利いたほと、いふか後悔はへてやるはらの」
言いながらロクサーナは、これ以上おどかされては堪らないと言わんばかりに次々とハナエビを口へ放り込んだ。そんな彼女の様子がまた可笑しく、トビアスは含み笑いを零す。
いつもは一方的にからかわれているだけに、仕返しができたと思うと気分が良かった。
彼女に意地悪したことをトビアスが本当に後悔する羽目になるのは、もう少し先の話だ。