アマゾーヌ女帝国――華都ペラヒーム2
見知らぬ土地で得た知識や情報を教会に持ち帰るのは、宣教師の使命の一つだった。
特に光神真教会のような、まだ一部の地域にしか勢力を広げていない小教会ならなおのことだ。修道院に籠っているだけでは得られない知識や情報は、教会の貴重な財産になる。
そのことは旅立つ前にマイヤー司祭からよくよく言い含められていたから、トビアスは暇さえあれば宣教日誌を書いていた。
いや、〝書いている〟と言うよりも、〝描いている〟といった方が正しい。昔から文よりも絵を描く方が得意なので、トビアスはいつも言葉で伝えにくい情報は絵に起こす。
アマゾーヌ女帝国の都ペラヒームに来てから既に六日になるが、その間にトビアスの宣教日誌はどんどん絵で埋まっていった。
何せ男のトビアスが外を出歩くと不都合が多いので、このところは宿に籠ってばかりいるのだ。
初めは宿の窓から見えるペラヒームの街並みばかり描いていた。建物から建物へ渡される多くの橋や、水路が網目のように張り巡らされた街並みが珍しく、窓から見渡せる限りのものを描いた。
呆れたロクサーナが、違う景色が見えるようにと四日目に宿を変えてくれたほどだ。王宮へ続く丘の斜面の中程にある宿からは、麓の街のほぼ全景が見渡せた。
また、街のあちこちで咲き誇っている草花は、トビアスが見たことも聞いたこともないものばかりだ。珍しい品種のものや薬効があるものは、種が手に入れば小瓶に入れて持っていく。これを北に持ち帰って栽培に成功すれば、修道院の庭は異国の花で満ち、それを売って資金に換えることができるからだ。
更に珍しい薬効があるものは、新しい薬の開発に使える。修道院というのは昔から、医学の研究所でもあった。国からきちんと免許を与えられた医者はその技術料として法外な治療費を要求するので、そこそこの医学的知識を持ち、金も取らない修道院を頼ってくる病人は少なくない。
そして目下、トビアスはロクサーナが手に入れてきてくれた〝水中花〟なるものを描くことに没頭していた。
問題の花は水で満たされた瓶の中に入れられている。生けられているのではなく、〝入れられている〟のだ。
それは茎も葉も花弁も蒼白く透き通った、実に幻想的な花だった。まるで繊細な硝子細工のようにも見えるが、れっきとした植物である。
今は瓶の底に少量の砂が入れられ、花はそこに根を張っていた。これはペラヒーム湖の湖底に咲き乱れている花で、世界中でもここでしか見られない。
水中花は汚れた水を吸い込んで浄化し、清水にして壺のような形の花部から吐き出すのだと言われていた。それがペラヒーム湖でしか育たない理由は未だ分かっていないらしいが、湖底の砂に秘密があるのではないか、という説が濃厚らしい。
「帰ったぞえ」
と、ときに部屋のドアが開く音がして、次いでロクサーナの声が聞こえた。
しかしトビアスは手帳から顔を上げず、水中花を描くことに没頭したまま口を開く。
「ああ、お帰りなさい、ロクサーナ」
「そもじ、また日誌を書いておるのきゃえ。ずいぶんと熱心じゃのう」
「今、やっとこの角度のものが描き終わりそうなんです。この花、何とかして修道院に持って帰りたいんですけど、瓶に栓をしたら枯れてしまうんですよね?」
「花も息ができんと死んでしまうからの。それに絶えず水を交換せねば枯れてしまうという話じゃ。ほんに扱いの難しい花でおじゃる。ゆえに国の外ではあまり知られておらん」
「ですが汚れた水を浄める力だなんて、本当に奇跡ですよ。その力の源が分かれば、もっと様々なことに活かせるかもしれない」
「……そもじは宣教師より研究者か画家に向いておるやもしれんの。顔も性格も地味でおじゃるのに、これがなかなかどうして」
と、ロクサーナは椅子に座ったトビアスの後ろから日誌を覗き込んでいるようだった。恐らくそこからトビアスの描いた絵を眺めて感心しているのだろうが、〝地味〟は余計だ、と文句を垂れようとしたところでトビアスははたと手を止める。
ふと気づくと、ロクサーナの顔が信じられないほど至近距離にあった。当のロクサーナはトビアスの描いた水中花を眺めるのに熱中しているが、トビアスの方は気が気でない。
ちょっとでも振り向いたら、唇がロクサーナの頬に触れてしまいそうだった。緊張で体が硬くなる。
その隙にロクサーナは手を伸ばし、日誌の頁を勝手に捲って、トビアスが今日までに描いた絵を眺め始めた。花の絵、街の絵、人の絵――。ロクサーナが肩越しにそれを眺めている間、トビアスは指一つ動かすことができない。口が渇く。
「もし、トビー」
「は、はいっ?」
すぐ耳元でロクサーナの声が聞こえ、トビアスは椅子から跳ね上がりそうになった。それは何とか堪えたものの、声が変に裏返ってしまう。
「これ、わーも描いてみて良いけ?」
「え?」
「そもじにこれだけ描けるなら、わーにも描けるような気がするき。じゃけんじょわーには紙も筆もにゃーのでの。夕飯までまだ時間もあるし、借りても良いきゃえ?」
「私に描けるならっていう前提が何だか不服ですけど、いいですよ、この手帳とパステルで構わないなら」
「うん、構わん。ありがとなし」
そう言ったロクサーナの頬が不意に上気したように、トビアスには見えた。
十四歳か十五歳。トビアスが見立てたその年齢をロクサーナは外れだと言っていたが、今のロクサーナはまさしくそのくらいの少女に見える。
席を譲られた彼女は何故だか妙に張り切っていて、早速机の上に並んだ数色のパステルの中から灰色を選んだ。そうしてやや前屈した姿勢を取り、紙面に何かを描き始める。
「あの、ロクサーナ」
「何じゃ?」
机と日誌を書くための道具一式をロクサーナに貸してしまったトビアスは、手持ち無沙汰になって二つ並んでいる寝台の片方に腰かけた。
アマゾーヌ女帝国の宿屋はやはり個室がある上に、何と寝台が藁ではない。清潔感のある白い布の中に鳥の羽根を詰め込んだ、信じられないほどやわらかなものを使っている。
おまけに枕も硬い丸太ではなく、同じ羽毛入りの布だった。この寝台を一つ作るのに一体何羽の鵞鳥が羽を毟られたのだろうと不憫に思いながらも、しかしこの寝心地の良さはさすがのトビアスもやみつきになってしまう。
「この街に入ってもう六日になりますけど、アザーディさんの消息は掴めたんですか?」
「うん、まあ……確証のある話じゃなかったけんじょ、それらしい話は聞けたき」
「そ、そうなんですか。それは良かった。あの……ちなみにその話はどこで?」
「この街には古い知り合いが多いき。その連中のところを回って聞いた話でおじゃる」
「な、なるほど……あ、あの、それはつまり、例のところにも行った、ということですか?」
「例のところ?」
「で、ですからその、何と言うか……初日に寄ると言っていた……」
「ああ、娼館きゃえ」
躊躇いもなくさらりとその名を出され、トビアスはまた一人で飛び上がりそうになった。
何しろトビアスは二軒目の宿に移ってからロクサーナと寝室を共にしている。どうせなら見晴らしの良い最上階の、最高級の部屋がいいとロクサーナが駄々をこねたからだ。
その一泊の宿泊料を聞いてトビアスは目玉が飛び出しそうになったが、ロクサーナは構わずその部屋を選んだ。宿に一つしかないという特等室は二人部屋で、せっかく寝台が二つあるのに使わないのは勿体ないから一緒に泊まれと強要された。
その代わり宿代はすべてロクサーナが持ってくれることになった。彼女が何故そんな大金を持っているのかは謎のままだ。出所を聞いてもはぐらかされた。
とにかくそういう理由で不本意にも女性と相部屋しているわけだから、できる限り相手のことは意識しないようにしていたい。何故ならトビアスは修道士だ。四禁を守るという神への誓いを立てたからには、それを貫き通さねばならない。
だから娼館など行っているわけがない、あんなものはただの冗談だと、トビアスはロクサーナの口から否定してほしかった。
でなければトビアスがロクサーナに抱いていた〝口は悪いがしっかり者の乙女〟という認識が音を立てて崩れ、〝男を知る大人の女〟という、トビアスにとっては何とも厄介な魔物が顔を出してしまう。
が、ロクサーナはそこでふと絵を描いていた手を止めると、トビアスを振り向いて、
「そもじ、もしやわーが娼館に行くところを想像したのきゃえ?」
と、とんでもない問いを投げつけてきた。
瞬間、トビアスの頭は音を立てて爆発しそうになる。想像しました。馬鹿正直にそう答えた時点で、トビアスの修道士生命は終わる。
「い、いえっ、あのっ、そういうわけではなくてですねっ、ただそういうところへ通われるのは控えた方がよろしいんじゃないかなと、修道士としては思う次第でありましてっ」
「そもじは嘘が下手じゃのう。じゃけんじょ、わーはそもじが思っておるほど清くはにゃーし、立派でもにゃーぞ。少なくとも――こうして生きておるのも憚られるくらいにはの」
「え?」
何か、聞いてはならないことを聞いたような気がした。そのときには既にロクサーナは机に向き直っていて、再びパステルを忙しなく動かしている。
生きているのも憚られる。それは一体どういう意味だろうか。
もし言葉どおりの意味なのだとしたら――何が彼女に、そんな言葉を吐かせるのだろう。
「ロクサーナ」
「――できた!」
尋ねようとしたトビアスの声を遮って、ときにロクサーナが弾んだ声を上げた。
どうやら絵が完成したらしい。思っていたよりずいぶん早く、おかげでトビアスは先程の言葉の意味を問い質す機を逸してしまった。
「うーん、自分で絵を描いたのなぞ何年ぶりかの。あまりに久方ぶりすぎたので、ちと感覚を忘れてしまったの……」
「そうなんですか? 何を描いたんです?」
仕方がないので飲み込んだ問いはしばらく忘れることにして、トビアスは寝台から腰を上げた。
するとロクサーナははっとしたように手帳を胸に当て、トビアスを見て何故かもじもじとしている。何か見せたくない理由でもあるのか、すぐには手帳を渡そうとしない。
「そ、その……今日街で見て、一番印象に残ったもんを描いたき。じゃけんじょ、ほんに絵を描くのなぞ久しぶりで……」
「でも、その手帳は私のなんで、隠されても結局見てしまいますよ?」
「はうっ!」
「そんなに恥ずかしがることないじゃないですか。私の絵も見せたんですから」
「そ、そうじゃの……ほいなら、これでお相子でおじゃる」
ようやく納得してくれたのか、ロクサーナはトビアスから目を外しつつもおずおずと手帳を差し出してきた。
彼女のそんないじらしい様子は初めて見るだけに、トビアスも思わず口元が緩む。あのロクサーナがここまで恥ずかしがるなんて、一体どんな絵を描いたのだろう――と、受け取った手帳に目を落としたところで、トビアスはしばし静止する。
手帳の真新しいページに描かれていたのは、灰色に塗り潰された〝何か〟だった。縁がギザギザになった楕円のようなものが上にあり、下にはやや縦に長い三角形がある。
楕円の中には更に小さな丸が二つ並び、丸の真ん中は一本の線で区切られていた。
その丸と丸の間にはまた三角形。こちらは橙色をしている。
何だろう。トビアスは考えた。
何だろう、これ。トビアスは必死になって考えた。
ロクサーナには悪いが何が描かれているのかさっぱり分からない。分からないがこれ以上黙っているのはさすがにまずそうだ。何か、何か言わなければ。解明の鍵は恐らく色にある。灰色、灰色と言えば石、だとすれば――
「え、えっと……よ、よく描けてますね。石像ですか?」
動揺を覚られぬよう、できるだけ平静を装ってトビアスは言った。
が、次の瞬間ロクサーナはガタンと椅子を蹴って立ち上がり、自分の寝台へダイブする。俯せに倒れ、頭に白い枕を被った。その肩が微かに震えている。そうして小さな声で言う。
「猫でおじゃる……」
(ええええええええ!!)
という絶叫を、トビアスは何とか胸の中だけで抑え込んだ。
しまった。完全にしくじった。
しかしこれが猫? 言われてみればそう見えないこともないが、何故頭がこんなに尖っているのか。
毛のフサフサ感を出したかったのだろうか。それにしては鋭角的すぎて頭突きで人を殺せそうだ――などと言ったらロクサーナはきっと泣いてしまう。というか既に泣いているのかもしれない。まずい。フォローしなければ。
「あ、ああ、なるほど! すみません、灰色だったのでつい石造りの何かだろうと思い込んでしまいました。でもそうですよね、このやわらかそうな毛並みは間違いなく猫……」
「……もう良い。わーは昔から絵が下手なんじゃ。自分でも分かっとるんじゃ」
「そ、そんなことないですよ! このくりくりの目とか、すごく可愛らしいじゃないですか! 今日は街にこんな猫がいたんですね! いいなぁ、私も見たかったなぁ!」
「トビー……そもじ、顔はいまいちじゃし歌も下手じゃし神話オタクじゃし絵以外ぱっとせん世間知らずの童貞じゃけんじょ、いいやつじゃの」
「あの、泣いてもいいでしょうか」
心に傷を負わせてしまった相手からその傷を倍返しにして叩き込まれ、トビアスは律儀に落涙する許可を求めた。
するとロクサーナはそこでようやく顔を上げ――しかし枕は頭に乗せたまま――こちらを振り向いて言う。
「許す」
ロクサーナの目がうっすらと赤いのを見て取って、トビアスは力なく笑った。
これで本当にお相子だと思いつつ、実はほんのちょっとだけ、本気で泣きそうだった。