ルエダ・デラ・ラソ列侯国――レグンブレ村3
衣類、食料、雨具、薬品、医学書、手帳、羽ペン、インク壺、書写板、画材、紙芝居、蝋燭、火打ち石、短剣、砂時計、聖典。
それが子供の背丈ほどもある、トビアスの宣教鞄の中身だった。
財布はローブの懐に、地図は腰の物入れに入れてある。皮製の水筒は物入れの横に吊っていた。
光神オールの象徴である≪六枝の燭台≫の徽章が縫いつけられた宣教帽をしっかり被る。更に首から皮紐で吊った蹄鉄を確かめた。この蹄鉄こそが教会に所属する人間の身分証だ。
蹄鉄の裏側には『光神真教会ヴァイエホーブ修道院所属修道士 聖名トビアス 通暦一四四七年賢神の月・光神の日洗礼』という文字が刻印されている。蹄鉄は女性の子宮を連想させる形をしていることから、二十二大神の母≪大いなるイマ≫の象徴とされていた。
ゆえにいかなる教会も蹄鉄を個人の身分証としていることは変わらない。これさえあればどこの国でも大抵は受け入れられ、ときには寄付という名の様々な援助を受けられるのが聖職者の役得だ。
「よし。忘れ物はなし、と」
宣教鞄の内側に蝋で貼りつけた『持ち物リスト』と鞄の中身を照らし合わせ、最終確認を終えたトビアスはしっかりと扉を閉めた。
宣教鞄とは非常に硬質な木で作られた、暗褐色の貴重品箱のようなものだ。上部には突っ支い棒で立てたり伏せたりできる見台がついており、昨日のように礼拝の際の講壇として使うこともできる。
トビアスは最後に宿の部屋をぐるりと見回し、本当に忘れ物がないことを確かめて歩き出した。
宿に個室があるのは未だに慣れない。北では宿も民家も関係なく、寝室は皆大部屋で寝台は共用なのだ。理由はその方が温かいから、の一言に尽きる。
とは言え南方の国々ではそこまでして暖を取る必要はないし、昨夜は一人につき一つの寝台がもたらされたことをトビアスは神に感謝した。相部屋をしたジャックと一つの寝台で身を寄せ合って眠る、という悪夢のような体験をしなくて済んだからだ。
そのジャックは近々列侯国の主都で大事な商談があるとかで、一緒に朝食を取るとあと腐れもなくさっさといなくなってしまった。
ロクサーナとの別れは最後まで惜しんでいたが、一方のトビアスには別れ際の「じゃ」という一言だけだったのが何となく腹立たしい。
「ロクサーナ」
そのロクサーナにも別れの挨拶をせねばと思い、トビアスは彼女が借りている部屋まで行って小さくドアをノックした。せっかく親しくなった彼女と別れるのは名残惜しいが、朝食のとき、ロクサーナはこれから北のアマゾーヌ女帝国へ向かうと言っていたのだ。
対するトビアスは昨日の宣教礼拝の失敗を受け、まずは列侯国内を順繰りに巡ってみることにした。
手始めにこの国やそこに住まう人々のことを学ばなければ、宣教など夢のまた夢だという事実に気づかされたからだ。
「ロクサーナ?」
再度目の前のドアをノックし、返事を待つ。しかしいくら待っても返ってくるのは静寂ばかりだった。
どうやらロクサーナは部屋を留守にしているようだ。どこへ行ってしまったのだろうとトビアスは途方に暮れたが、いつまでもそこに突っ立っているわけにもいかず、ひとまず一階へ下りてみることにする。
「あの、すみません。ロクサーナ……昨日、広場で踊っていた彼女を見ませんでしたか?」
トビアスがそう尋ねたのは、玄関付近の帳場で宿帳の整理をしていたこの宿の亭主だった。
宿経営の片手間に農業も営んでいるのか、逞しい二の腕と日焼けした肌を持つ亭主は、トビアスを見ると二、三度目を瞬かせる。
「ああ、あんた、宣教師さんだっけ。まだこんなところにいたのか。お連れさんは二人とも出ていったから、てっきりあんたももう行ったもんだと思ってたよ」
「え? 二人?」
「ああ。あの綺麗な髪の嬢ちゃんと商人の兄ちゃん。二人ともあんたの連れだろ? 一緒に飯食ってたみたいだし」
「え……ふ、二人とも、もう宿を出たんですか? ジャックはともかく、ロクサーナも?」
「だからそう言ってるじゃねえか。あんた、もしかしてハブられたのかい? そいつぁ気の毒になぁ」
と言いつつも、亭主は自分の仕事で忙しく、とても気の毒がっているようには見えなかった。その傍らでトビアスはすさまじい衝撃を受け、しばし唖然と立ち尽くす。
まさかロクサーナはジャックと二人で出ていったのだろうか。それならそれで別れの挨拶くらい交わしてくれれば良いものを、何も言わずにいなくなるとはあんまりではないか。せっかく旅先でできた初めての友人だと思っていたのに。
だが冷静に考えれば、そう思っていたのはトビアス一人だけだったのかもしれない。ロクサーナは人を探していると言っていたから、たまたま遠方から旅してきたというトビアスに興味を持っただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのか。
だとすれば自分が勝手に思い上がっていただけということになるが、トビアスはそれを自覚した恥ずかしさよりも失望の方が大きかった。
やはり自分はどこへ行っても空回ってしまう人間らしい。修道院では飼っている羊にさえそっぽを向かれ、まったく懐いてもらえなかった。それを何とか宥めて毛を刈ろうとしたら、思いきり蹴倒されたときのことを思い出す。あのときも今とまったく同じ気分だった。
トビアスは俯き、暗い影を背負って宿を出た。二人はもう村を出てしまっただろうか。
探せばあるいは言葉くらい交わせるかもしれないと思ったが、とてもそんな気分にはなれそうになかった。自分もこのまま村を出てしまおうと、重い足を南へ向ける。
「――修道士さま」
いよいよ村を出るぞ。もう何もかも知ったことか。
そう悪態を垂れながら街道へ出ようとしたところで、トビアスはそんな声を聞いた。
振り向いた先にはこの辺りの村特有の、やけに尖った屋根を持つ木造家屋が建っている。その家の入り口から一人の少女が駆け出してくるのが見えた。
枯草色の髪をおさげに結った、十歳くらいの少女だ。
頬にはたくさんのそばかすを散らし、空のように青い目でトビアスを見上げてくる。
「修道士さま。もう村を出ていっちゃうんですか?」
「え? ええと、君は……」
「わたしはアルタっていいます。昨日の紙芝居、見に行きました。絵がとってもきれいで、きちんとおはなし聞けなかったのが残念だった。それに、お歌もとってもよかったです」
〝お歌〟と言われてトビアスはとっさに昨日の自分の歌を思い出したが、恐らくこの少女――名はアルタというらしい――が言っているのはロクサーナの歌のことだろう。
そう言われてみればたった今彼女が着ている緋色の服には見覚えがある。昨日広場に集まった村人たちの中に、同じ服を着た子供がいたはずだ。
「そ、そうか。君も昨日の礼拝に来てくれたんですね。ありがとう」
「あの、歌のお姉さんは一緒じゃないんですか? 今日もあのお歌、聞きたかったなぁ」
「光神歌? アルタは、光神歌を聴くのは初めてだったのかな?」
「はい! 何だかとってもきらきらしてて、すごくすてきなお歌でした。わたし、明日からお父さんとお母さんと一緒に街へ行くから、しばらくこの村には戻ってこないんです。だから、あの……もしよかったら、あのお歌の歌詞を教えてもらいたくって」
「ああ、そんなことなら」
お安い御用ですよ、と言いかけて、トビアスははたと止まった。
幼気な少女のささやかな願いを聞き入れるのは別にいい。
しかし今、この少女は気になることを言った。〝自分は明日から街へ行くからしばらく村には戻ってこない〟と。
それは家族でこの村を捨て、余所に移り住むということだろうか。それとも――両親がこの子をどこかへ売りに行くということだろうか。
「あの、アルタ。その前に、アルタはどうして街へ行くんですか? ご両親はこの村に田畑を持っておられるのでしょう?」
「えっと、田んぼはあるんですけど、去年からずっとお米がとれなくて、だから街へ行くことになったんです。国のえらい人が、となりの国で買った食べものを運びたいんだけど、たくさんありすぎて運べないから、だれかに手伝ってほしいって言ってるみたいで。だからそれを手伝いに行くんです」
そう話すアルタはちょっとだけ誇らしげだった。
そう言えば列侯国は目下、近隣諸国から食糧を買い込むことで飢えを凌いでいるのだったな、とトビアスは思い出す。
その運搬のための人手が足りないので、全国から人夫を募っている。アルタの話はつまりそういうことだろうとトビアスは思った。
とりあえず、両親がこの子を金に換えるために街へ行くわけではないのだと知ってほっとする。十年前の自分のことがあるので、つい余計な心配をしてしまった。
「そうなんですか。でも、家族みんなでそのお手伝いに行ってしまったら、その間田畑の手入れをする人がいなくなってしまうんじゃありませんか?」
「はい……でもそれは仕方がないって、お父さんが言ってました。このまま村にいてもおなかが空くだけだからって。だけど街でがんばってお手伝いすれば、お金がもらえるんです。一人百銀貨もらえるから、家族三人で行けば三百銀貨もらえるって」
「百銀貨?」
信じられない金額に、聞き返した声が思わず裏返った。が、幼いアルタにはそれがどんな大金であるか分からないらしく、きょとんとしながら頷いている。
その様子に嘘を言っている気配はないが、しかし百銀貨というのは法外な金額だった。ごくごく一般的な家庭であれば、多少贅沢をしても一年は働かずに暮らせる額だ。
そんな大金がもらえるのなら、田畑を捨ててでも労役を選ぶという農民が現れるのにも頷けた。
おまけに大きな街へ行けば食糧もある。平時に比べればいくらか値は張るだろうが、それでも三百銀貨あれば食うに事欠くことはまずないだろう。
(しかし、列侯国にそんな大金があるとは……百銀貨ももらえるとなれば、あちこちから人が殺到するだろう。列侯国は本当にその金を払えるんだろうか? まさか、人を集めるために大法螺を吹いてるなんてことは……)
「あの……それで、修道士さま。お歌は教えてもらえるんでしょうか?」
と、そこでアルタから控え目に尋ねられ、トビアスはようやく我に返った。
列侯国が国中にばら撒いている銀貨の出所は気になるが、今はまず少女のいじらしい願いを聞き入れてやるのが先だ。
「ああ、もちろんですとも。アルタは文字の読み書きはできますか?」
「えっと……ごめんなさい。わたし、自分の名前くらいしか書けないし、読めないです」
「それじゃあ口頭で教えて差し上げましょう。良かったらこれに座って――」
「――やい、トビー。わーを置いて勝手に出ていくとは何事け?」
そのとき、宣教鞄を椅子代わりにしようと地に下ろしたトビアスの耳に、アルタとは別の少女の声が飛び込んできた。
驚き、目を見張って振り向いた先に、ロクサーナがいる。
彼女は至極不機嫌な顔で腕を組み、半眼でトビアスを睨み据えている。
「あー! 歌のお姉さんだ!」
同じくそのロクサーナを振り向いたアルタが、無邪気な声を上げて喜んだ。
が、一方のトビアスは唖然とし、しばらくの間呆けてからようやく口を開く。
「ロクサーナ、あなた、とっくに村を出たんじゃ……」
「誰がいつ村を出るなぞと言ったのきゃえ? わーは北へ行く準備を整えに行っていたのでおじゃる。それが宿に戻ってみれば、わーに挨拶もなしに一人で勝手に出発しよって。そもじがそんないけずとは思わなんじゃ」
「い、いけず?」
「ひとでなし、という意味でおじゃる!」
どうやらロクサーナは本当に怒っているらしく、顔を険しくして言った。それを聞いたトビアスはますます呆然として立ち尽くす。
それはこっちの台詞だ。だったらせめて一言声をかけてから出かけろよ、とトビアスは心の中で盛大なつっこみを入れる。
「え、えっと……とりあえず、すみませんでした? あれ? 私が悪いのかなこれ?」
「そうに決まっとろうもん。分かったらこれからはちゃんとわーに断ってからいなくなりんしゃい。まったく、おかげで要らん時間を食ってしもうたき」
「あ、あの……けんかはダメですよ。仲良くしないと魔物がきて、みんな食べられちゃうんですよ。だから、けんかはダメです」
と、ときにトビアスたちの様子を見ていたアルタが、真剣な顔つきで二人の仲裁に入った。
ロクサーナはそこで初めてアルタの存在に気がついたらしく、きょとんとした顔で眼前の少女に目を据える。
「何ぞ、この女子は? そもじの隠し子きゃえ?」
「そっ、そそそそんなわけないでしょう! 彼女はアルタ、この村に住む女の子です! 昨日我々が歌っていた光神歌を聞いて、歌詞を知りたいと私に声をかけてくれたんですよ」
「ほう、歌詞を知りたいとな。ほいならわーの出番でおじゃろ。トビーの歌はひどすぎて、聞いたら耳が腐ってしまうほどにの」
「そ……そんなにひどいですか、私の歌……」
「うん。わーがオールじゃったら即破門するくらいひどい」
少しの迷いもなくきっぱりと断言されて、トビアスは深く落ち込んだ。
が、ロクサーナはそんなトビアスのことなど気にかけた様子もなく、勝手に宣教鞄を倒して椅子にする。まずは自分がそこに腰かけ、端に詰めてアルタを呼んだ。
宣教鞄は二人が並んで座るだけで精一杯で、もちろんトビアスの席はない。
「しかし、アルタといったきゃえ。その歳で光神歌を気に入るとはなかなか見どころがあるの。そもじ、歌が好きなのけ?」
「はい! わたし、あかるいお歌が好きなんです。おなかが空いたときとか、そういうお歌を歌うと元気になれるから」
「うん。歌はな、希望の象徴じゃき。楽しいときもつらいときも、歌は人を裏切らん。だからそもじもたくさん歌を覚えると良いぞえ」
ロクサーナが得々と説いて聞かせる歌謡談義に、アルタは目を輝かせて頷いた。それを見たロクサーナはますます得意顔になり、早速歌を歌い始める。
アルタも光神歌第一番の旋律は覚えていたようで、歌詞を覚えるとすぐにロクサーナと一緒に歌い始めた。幼い歌声はロクサーナのそれと比べるとたどたどしかったが、歌っている本人はとても楽しそうだ。
やがて歌詞も完璧に覚えてしまうと、アルタはロクサーナの前に立ち、今度は一人で第一番を歌った。
澄んだ声が青空に吸い込まれてゆく。アルタがすべての歌詞を間違えずに歌い切ると、ロクサーナがぱちぱちと賞讃の拍手を送る。
「うん、これで第一番は完璧じゃの。トビーの百倍うまい。上出来でおじゃる」
「ありがとうございます! 光の神さまのお歌、はじめて歌えた! これからもっと練習して、お姉さんみたいに上手になります。修道士さまも、ありがとう」
満面の笑みを浮かべたアルタに礼を言われ、トビアスは思わず頭を掻いた。自分は二人が歌っている間ただ隣で突っ立っていただけなのだが、アルタは何に対して〝ありがとう〟と言ったのだろうか。
とは言えロクサーナに歌のことを散々扱き下ろされ、傷心していたトビアスには、曇りのないアルタの笑顔が何よりの癒しに思えた。同時にそんな彼女の純真さが、今は少し羨ましく思える。
「でもごめんなさい。せっかくお歌を教えてもらったのに、何もお返しができなくて……」
「そんな、気にしなくていいんですよ。アルタが光神歌を歌ってたくさんの人に聞かせてくれれば、オール神のご威光も増します。我々人に歌をお与え下さったのはオール神です。ですからその気持ちは、オール神のために使って下さい」
「でも、でも、修道士さまがこの村にきてくださらなかったら、わたし、このお歌を聞けなかったし、こんなに楽しい気持ちにもなれなかったと思います。だから……あ、そうだ!」
と、アルタはそこで何か閃いたようにぴこんとおさげを揺らし、突然踵を返して駆け出した。
何事かと思って見送ると、アルタは一度自宅へ駆け込み、それからすぐにトビアスたちのもとへと戻ってくる。
「あの、これ、よかったらもらってください。前に川で拾ったんです。きれいだったからずっと残しておいたんだけど、お姉さんのお歌の方がもっときれいだったから、あげます」
そう言ってアルタが差し出してきたのは、丸みを帯びた二つの小さな石塊だった。色は白で、さながらロクサーナの髪のように日の光を受けてきらきらと輝いている。石の中に、わずかながら星のように輝く銀の砂が混ざっているためだ。
「わあ、本当に綺麗ですね。宝物じゃないですか。こんな大事なもの、本当にいただいてしまっていいんですか?」
「うん! 村に帰ってきたら、また川にさがしに行くからいいの。お姉さんも、よかったらもらってください!」
「うん、ありがとなし」
そんなに無邪気に差し出されては、ロクサーナも無下にはできなかったのだろう。彼女も石を受け取ると、トビアスを真似て太陽に翳した。
しかしそのとき、どこからかアルタを呼ぶ声がする。女の声だ。どうやらアルタの母親が、彼女を探しているらしい。
「あっ、お母さんが呼んでる。それじゃあわたし、もう帰ります。修道士さまもお姉さんも、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、素敵な贈り物をありがとう。どうかアルタとご両親に、母なるイマとオール神のご加護がありますように」
「わーが教えた光神歌、しっかり練習するんじゃぞ」
「はい! もしまたどこかで会えたら、そのときはわたしの歌、聞いてくださいね」
アルタは最後まで屈託のない笑顔でそう言うと、母の呼び声がする自宅へと駆け戻っていった。
そんなアルタを見送って、トビアスはもう一度手にした小石へ目を落とす。
「列侯国に来て初めて寄付をいただいてしまいました。何だかちょっと照れくさいですね」
「生憎金には換えられんがの。まあ、記念にとっておくにはちょうど良かろうもん」
「それは良かった。あなたのことだから、てっきりこんな石くれなんかいらないとか言って投げ捨てるんじゃないかと思いましたよ」
「そもじはわーをそんな女子じゃと思っておるのきゃえ?」
「あ、そ、そう言えば、あれからジャックにはしつこくつきまとわれませんでしたか? 彼、別れる前にどうにかあなたを落とせないかって、最後までぶつぶつ言ってましたけど」
つい口を滑らせてしまったことを誤魔化すために、トビアスは慌てて話題を変えた。
するとロクサーナはちょっと不思議そうな顔をして、こてんと小首を傾げてみせる。
「いんや? あの男子も気づいたらいなくなっとったき。まったく最近の男子は、どいつもこいつも礼儀がなっとらんの」
「え? で、でも彼、最後にあなたに挨拶してくるって……」
「挨拶になぞ来とらんぞえ? わーが買い出しに出たときには、もう宿におらんかったき」
眉一つ動かさず、ロクサーナはさらりと言った。とても嘘をついているようには見えない。いや、そもそもそんな嘘をつく理由がないはずだ。
しかしあれほどロクサーナにご執心と見えたジャックが、別れも告げずに村を去ったというのは意外だった。
何か急用でもできたのだろうか。だがジャックは部屋を出る直前まで、どうすればロクサーナは振り向いてくれるだろうかと、そんな話ばかりしていたのだ。
「ときにトビー。そもじは昨夜、あのチャックとやらとどんな話をしたのきゃえ?」
「ジャックですよ。どんな話って、単なる世間話しかしてませんけど」
「と言うと?」
「彼が今までどんな国のどんな場所を旅してきたのかとか、どんな商品を扱っているのかとか、そんな話です。あとは近々北にも商いに行ってみたいから、群立諸国の話を聞かせてくれってせがまれましたね。諸国連合の同盟関係は上手くいってるのかとか、東のエレツエル神領国はどこまで攻めてきてるのかとか……」
「ほんにそれだけきゃえ?」
「ええ。でも、どうしてですか?」
「ふむ……ほいならわーの考えすぎかの。あの男子、何ぞ企みがあってそもじに近づいたように見えたけんじょ」
「え?」
予想もしていなかった答えを返され、トビアスは目を丸くした。
一方のロクサーナは、そんなトビアスには目もくれず何事か考え込んでいる。やはり冗談を言っているようには見えないが、しかしさすがにそれはおかしい。
「た、企みって、ジャックの目的は私じゃなくてあなたとお近づきになることでしょう。その証拠に、今朝もあんなにだらしなく鼻の下を伸ばしてたじゃありませんか」
「と見せかけて、そもじと懇意になろうとしておった。現にやつはわーのところには挨拶にも来んかったき。初めて見たときから油断ならん目をした男子じゃと思っとったけんじょ、結局尻尾は見せんかったの」
ロクサーナはちょっとつまらなそうに、けれども声にはわずかな深刻さを孕ませて言った。それを聞いたトビアスは立ち尽くし、冷たいものが背中を滑り落ちていくのを感じる。
「い、いや、だけど、特に盗まれたものもありませんし、単に宿代を一青銅貨浮かせたかっただけじゃありませんかね? 今の列侯国では、一青銅貨も貴重ですから……」
「あれほど良い身なりをした男子が、たった一青銅貨のためにそこまでけちけちするかのう。あやつが佩いておった剣なぞ、恐らく五百銀貨は下らない代物じゃったぞえ。そうとは分からんようにするためか、鞘は汚してあったがの」
「ど、どうしてそんなことが分かるんです?」
「わーはもう長いこと各地を旅しとるき。信用していい人間とそうでない人間の区別くらい、小麦粉の量を誤魔化したパンを見分けるより簡単でおじゃる」
さもそれが当たり前だと言うように、ロクサーナは自信たっぷりの口調で答えた。
そこまで言うからには本当に自信があるのだろう。旅を始めてまだ三ヶ月ほどしか経っていないトビアスには理解の及ばない境地だ。
「ま、さしずめそもじは小麦粉の法定量は守っとるけんじょ、焼き方がまずくて不格好になってしもうた白パンというところかの」
「何ですか、それ?」
「褒め言葉でおじゃる」
「とてもそうは聞こえなかったんですけど」
「贅沢じゃのう。すっぱくて硬い黒パンより良かろうもん。それはそうと、早う荷物を持ってたもれ。くれぐれもわーの荷物は失くしたりせんようにの」
「え?」
「目指すはアマゾーヌ女帝国の華都ペラヒームじゃ。あっこは美しいだけでなく料理も絶品じゃき。上宿で出るハナエビのクリーム煮なぞ、一度食うたら死ぬまで忘れられんぞえ」
「え?」
言われている意味が分からず、トビアスは律儀に二回聞き返した。
しかしロクサーナは答えない。答えないどころかさも話は終わりだと言うように身を翻し、足取りも軽く北へ向かって歩き出す。
「いやいやいやちょっと待って下さい! 意味が分からないんですけど!」
「ほ? 何じゃ、また郷の言葉を使うてしもうたかの」
「いや、言葉は分かりましたけど、どうして私が一緒に行く流れになってるんですか?」
「そんなん、わーが決めたからに決まっとろうもん。ちょうど荷物持ちを探しておったき、そもじならぴったりじゃと思うての。何せ修道士は献身精神旺盛、おまけに四禁のおかげで女子には手を出せんときとる。旅の供としてはこれ以上にゃー優良物件でおじゃろ」
「横暴だ……誰も一緒に行くなんて言ってないのに……!」
「ほいなら訊くけんじょ、そもじはこれからどうするのけ? 今の列侯国はどこに行っても同じ、皆腹を空かせて信仰どころじゃにゃーのはそもじも昨日の一件で学んだはずじゃ。そこに強引に飛び込んでいったところで、かえって教会の印象を悪くするだけでおじゃる。そもじも聖職者なら〝パン足りて初めて神の声を聞く〟という諺を知っておろうもん」
ロクサーナの鋭い切り込みに、トビアスは返す言葉を失った。
〝パン足りて初めて神の声を聞く〟とは、人は明日の寝床と食事の心配がなくなって初めて自分以外のものに意識が向くという意味だ。
それは裏を返せば〝パンなき者にはパンを与えよ〟ということでもあった。腹が満ちていないと神の声が聞こえないと言うのなら、腹を満たしてやればいい。
しかし清貧を信条とする修道士のトビアスには、残念ながらそれほど大量の食糧を買い込めるだけの財力はなかった。
懐にあるのは修道院を出る際に路銀としてマイヤー司祭から与えられた数枚の銀貨だけだ。それも今では四銀貨六青銅貨まで減り、下手をするとあと一ヶ月ほどでトビアスも路頭に迷うことになる。
「光神の教えでこの国の人々を救いたいという、そもじの志は立派じゃき。じゃけんじょ今のそもじに宣教師は務まらん。金も知識も経験も、何もかも足りんのは自分でも分かっておろうもん。神への愛だけでは、人はよう動かんのでおじゃる」
「……」
「じゃからわーが世の中のことを教えたると言うとるき。それにアマゾーヌ女帝国へ行けば、少なくともここよりは安く食糧が手に入る。世間のことを学ぶついでに買えるだけの食糧を買って、今度こそ貧しい人々を救ったらどうきゃえ。人は神の愛に応えんが、神は人の愛に応える。そもじが正しき道を行けば、神は必ずその道を照らして下さるぞえ」
まるでどちらが宣教師か分からない状態だ。俯いてそう思いながら、しかしトビアスは胸に一筋の光が射すのを感じた。
――そうだ。自分もまた不慣れな旅に必死になるあまり、周りを見る目を失っていた。
今、この国の人々を救うのは信仰ではない。
金とパンだ。
生きるための欲にまみれ、信仰を忘れるというのは悲しいことだが、人間は神とは違い食べるものがなければ死んでしまう。そうなればついに信仰を取り戻すことはできない。
信仰を失ったまま死ぬということは、魔界に堕ちて醜い魔物に成り果てるということだ。教会の真の使命は、その救われない末路から人々を遠ざけることではないのか。
ならば自分はまず、金とパンで人々を救おう。トビアスはそう決めた。
多少遠回りでも、それがやがて人々を神の道へ導くのならそれでいい。そもそも目の前にいる一人の人間も救えずして、どうして神に顔向けできようか。
「ほれ、そうと決まればちゃっちゃと行くぞえ。そもじはわーが白パンと認めた男子でおじゃる。出来は悪くとも、ちぃとジャムさえ塗れば食べられるようになろうもん」
「やっぱり褒められてる気がしませんね、それ」
「わーは干物の次に黒パンが嫌いでおじゃる。こう言えば分かるきゃえ?」
「分かりませんよ、全然」
「やっぱり出来が悪いの」
「でも、質や量を誤魔化したりはしてませんからね」
「うん。じゃからそもじを選んだのでおじゃる」
本当に何でもないことのようにそう言って、ロクサーナは再び歩き始めた。トビアスはその小さな背中を見つめながら、ようやく自分は元気づけられていたのだと知る。
どうせならもっと分かりやすく励ましてくれればいいのに。そう思いながらも、トビアスは笑ってロクサーナのあとを追った。
ロクサーナは鼻歌を歌っている。
トビアスが好きな光神歌第一番だった。