ルエダ・デラ・ラソ列侯国――レグンブレ村2
「そもじはトビアスと申すのけ。ではトビーで良かろうもん」
何がいいのかはさっぱり分からなかったが、トビアスはひとまず頷いた。この少女には借りがある。名前くらい好きに呼ばせようと思った。
そこは村の外れにある宿だ。小さな村なので宿はこの一軒しかない。
それでも宿があるということは、この村に立ち寄る旅人の数が少なくないことを示していた。北の華封諸国との国境付近にあるので、通り道にする者が多いのだろう。
ロクサーナと名乗った少女が巻き起こした例のお祭り騒ぎからおよそ一刻。トビアスはロクサーナと共に宿の食堂にいた。
壁も床も天井も木の板が張り巡らされた食堂は閑散としている。じき正午になろうというのに客足がまばらなのは、単に宿泊客が少ないからというだけではないだろう。
問題は料理にある。食糧の乏しい北国育ちのトビアスさえ、がっかりしてしまうような昼食だった。
木製の器に盛られているのは炒った豆と塩漬けにされた根菜が少しだけ、あとは湯で嵩増しした雑炊がぎりぎり二人分だ。列侯国の主食は米だと聞くが、見たところ雑炊には粟や稗などの雑穀しか入っていない。味つけも慎ましやかすぎて、せめてもう少し塩気がほしいと思ってしまう。
「トビー、そもじはずいぶんとまずそうに物を食うの」
「う、す、すみません……別にまずくはないんですが、南の食事にはちょっと期待していたもので。昔読んだ冒険書に、南方諸国の料理があまりにもおいしそうに書かれていたものですから……」
「なるほど。確かに北の食事は貧しいからの。海に面した西部はともかく、内陸でまともに食えるのは芋か豆か魚くらいけ。しかしわーは、あのスティンクとかいう食べ物だけはよう好かん。あんなひどい臭いの食べ物はそうそうないき」
「ああ、刃魚の干物のことですね。北では貴重な保存食なんですが、確かに余所の国の人に出すと嫌がられます。一度スティンクを一斉に焼いて、その臭いであの大国エレツエルの軍隊を撃退したという逸話もあるくらいですから、異邦人にはよほどひどい臭いに思えるんでしょう」
「そもじは修道士なんじゃろ。そもじの入っとる修道会は、肉食を禁じておらんのきゃえ?」
「もちろん禁止ですよ。でも魚肉を食すのだけは特別に許されているんです。でないと冬は本当に食糧がなくて死んでしまいますから」
ふうん、と気のない声を上げ、ロクサーナは炒り豆を数粒つまんで口へ入れた。カリコリと豆を咀嚼する気持ちのいい音がする。
修道会とは神の道へ近づくことを目的とした組織であり、会員は男なら修道士、女なら修道女と呼ばれた。その修道士が集まって共に生活する場が修道院である。
エマニュエルでは大抵の教会が傘下の修道会を持ち、神の理想を極めることを推奨していた。それが俗に〝四禁〟と呼ばれる禁欲生活だ。
肉食、飲酒、殺生、性交。不浄なるものを憎む神へ少しでも近づくために清貧を心がけ、これら四つの欲を捨てる。血と欲は古来から不浄の象徴であるとされた。だから本当に会則の厳しい修道会では完全な菜食主義の下、血に触れることすら禁じていると聞く。
幸いにしてトビアスの所属している修道会はそこまで厳しい修行を課してはいないものの、四禁すべてを遵守しているという点では厳格な修道会であると言えた。
最近では四禁のうち一つか二つは許すとか、心さえ清らかなら四禁など無理して守らなくてもいいだとか、そういう軟弱な修道会が増えている。
そんなことだからいつまで経っても≪神々の目覚め≫が実現されないのだと、トビアスなどは内心腹を立てていた。
世界は未だ≪神々の眠り≫のさなかにある。≪神世期≫の終わりに起きた神々の戦い――それが≪神々の眠り≫だ。
長きに渡る戦いで力を使い果たした神々は復活の予言を残して眠りに就き、それから何事もないまま千年以上の時が流れた。多くの教会人はそれを〝大地が人の血と欲とで穢れているからだ〟と言う。だから不浄を嫌う神々が眠りから覚められずにいるのだと。
ゆえに多くの教会は神の理想の実現を掲げた修道会を作り、神々の覚醒を促そうとしていた。もっとも昨今ではその教会が莫大な富と権力を得、保身に躍起になるという本末転倒な事例も増えているのだが。
「それにしても、ロクサーナは北のことにもずいぶん詳しいんですね。スティンクを知ってるってことは、群立諸国にも行ったことがあるんですか?」
「うん。わーはアレじゃ、〝雲民〟とかいうやつ。じゃから大抵の場所には行ったことがあるき。とは言え、北にはここしばらく行ってにゃーがの」
「雲民? と、ということは、ずっと一人で旅してるんですか?」
「んー、大抵は一人じゃけんじょ、道連れがおるときもあるき。あとは、気に入った町や村にちぃとばかし留まることもあるの」
とは言え基本は一人でおじゃる、と事もなげに言ったロクサーナを、トビアスは愕然として見つめた。
〝雲民〟というのは定住地を持たない浮浪者のことだ。言葉が悪いのでよくそう呼ばれるが、その実体は戦や貧困で住む場所を失った者がほとんどだと聞く。
が、たった今トビアスの眼前にいる少女は、そんな貧しさとは無縁に見えた。服もかなり上等なものを着ているし、身なりも小綺麗だ。
ずっと旅をしているというわりには肌も白く、黙っていれば深窓の令嬢と言っても通るのではないかと思えた。あくまで〝黙っていれば〟の話だが。
「で、ですが、雲民だなんてどうしてそんな……まだとてもお若いのに」
「これはまた異なことを言う。〝若い〟と言えば、そもじも充分若かろうもん」
けろりと言って、ロクサーナは木の匙で掬った雑炊を口に運んだ。それを見たトビアスは思わず「あっ」と声を上げそうになったが、ロクサーナが何食わぬ顔をしているので何とか驚きを飲み下す。
昨日は一人で食事をしたので分からなかったが、どうも列侯国では食器を他人と共用するのが当たり前らしかった。器も匙も杯も一つだ。故郷では一人につき一つの食器が与えられるのが当然だったので、この異文化にトビアスは大いに戸惑った。
何しろたった今ロクサーナが口に運んだ匙は、トビアスが使った匙でもある。
ということは今のは俗に言う〝間接キス〟というやつではないか。
「おお、神よ! 我が不浄をお許し下さい!」
「どうしたんじゃ、急に」
「い、いえ、すみません。ただちょっと、不浄な想念が脳裏を過ぎったもので……」
「修道士というのは相変わらずめんどくさいやつでおじゃるの。そもじはその若さでなにゆえ修道士になぞなったのきゃえ?」
「ああ、私は自分の意思で修道院に入ったわけじゃありません。十年前、私の故郷も深刻な飢饉に遭って、そのとき修道院に入れられたんです。俗に言う口減らしってやつですね」
トビアスは軽い口調で言ったが、向かいに座るロクサーナが途端に眉を曇らせたのが分かった。
悪いことを訊いた、とでも思ったのだろうか。だがそんなことはないという意味を込めてトビアスは首を振る。
「当時私は七歳だったので、他に家族を救う手立てもありませんでした。だから神の道に入ることを肯じたんです。それにこの道は私に合っていたようで、今は冬の寒い日に院まで手を引いてくれた母に感謝しています。共に修道生活を送る仲間にも恵まれましたしね」
「そういう考え方ができる辺りは修道士らしいの。しかし、何故光神系の修道院を選んだのきゃえ? それも母御の一存け?」
「いえ、選んだのは私です。――だって、オール神って可哀想じゃないですか」
「じぇ? そ……そうけ?」
「そうですよ! 私は修道院に入る前から思っていたんです。オール神は二十二大神の中でもとりわけ影が薄いでしょう? 他の神々に比べて神話も少ないし、≪神々の眠り≫の伝承内でもほとんど出番がない。それは兄の聖神カドシュや弟の太陽神シェメッシュが有能すぎて、オール神が二神の陰に隠れてしまっているからだと思うんです。そのうちオール神は二神のおまけみたいな扱いに……ああ、何とおいたわしい!」
「そ、そんな理由で……」
「そんな理由とは何ですか! 我が群立諸国では冬が長く、おまけに昼間でも日が昇らない極夜という現象が続くことからシェメッシュ神ばかりが信仰されていますが、それなら光をもたらすオール神だってもっと信仰されて然るべきなんです。あ、別に私が兄弟の中で一番の出来損ないだったからオール神に自分を重ねてるとか、そういうことじゃありませんからね? あくまでオール神の神僕として申し上げているだけですからね!」
「う、うん……とりあえず、そもじが重度の神話オタクじゃということは分かった」
「私が宣教師になることを志願したのも、少しでも多くの人にオール神の教えを広め、その素晴らしさに触れてほしいと考えたからです。それに、その……未だ発見されていない≪光神刻≫の手がかりも、何か掴めたらいいな、なんて」
「そもじ、もしや神子になりたいのきゃえ?」
「い、いえ、そんな、滅相もない!」
突然向かいから身を乗り出して尋ねられ、トビアスは慌てて否定した。神子とは大神刻――すなわち二十二大神の魂の結晶を手に入れた者のことだ。
この世には神刻と呼ばれるものがある。それは古くより神々の力の欠片とされ、身に帯びれば神術――奇跡を起こす力――を操れるようになるという代物だった。
火の神エシュの力の欠片なら火の神術が、水神マイムの力の欠片なら水の神術が、といった具合だ。
その中でも特に強大な力を秘めたものが大神刻と呼ばれていた。
大神刻はただの神刻のような力の〝欠片〟ではなく、世界の創世を司った二十二大神の魂そのものだと言われている。
ゆえに大神刻を手に入れた者は人智を超えた力を得ることができた。大神刻をその身に刻むということは、神の依り代になるということだからだ。
しかし大神刻はただの神刻のように誰でも刻めるというわけではない。大神刻は意思を持ち、自らの依り代となるに相応しい者を選ぶという。
ゆえに大神刻に選ばれた者は神子と呼ばれ、いつの世も神の代理人として崇められてきた。神子はその強大な神の力で人々を導き、来るべき≪神々の目覚め≫のために世界を浄める使命を帯びているのだ。
「私は、その、≪光神刻≫が見つかれば、オール神の名ももっと世界に知れ渡るんじゃないかと思って……≪人世期≫に入ってからあちこちで大神刻が見つかっているのに、≪光神刻≫は未だ所在が分からないままでしょう? それもオール神の人気が振るわない理由の一つだと思うんです」
「まあ、確かにそれは一理あるの。トラモント黄皇国の≪金神刻≫やシャマイム天帝国の≪天神刻≫は、神子が死に行方が分からなくなった今も大層な人気でおじゃる。人々は歴史の中で実際にそれらの力を目の当たりにしておるから、余計に求めてやまないのであろうの」
「そうです。しかし未だかつて歴史上に姿を現したことのない大神刻は、総じて人々の支持が薄い。我が教会が崇めるオール神の≪光神刻≫然り、≪賢神刻≫然り、≪命神刻≫然り」
「とは言え大昔から、大神刻を探して各地を旅しとる神刻探求者はごまんとおる。その先達にも見つけられなんだものが、そもじに見つけられるのきゃえ?」
「ま、まあ、私の場合はあくまで宣教のついでですから。旅の途中で何か有力な情報を得られたら儲けもの、くらいの軽い気持ちで言ってるだけですよ」
「ふうん。ほんにそれだけかのー?」
含みのある言葉つきで言い、ロクサーナはわざとらしく目を細めながらトビアスを見つめてきた。トビアスは何となくその夜明け色の瞳に本心を見透かされたような気がして、ぎこちなく視線を泳がせる。
いや、何もトビアスとて本気で≪光神刻≫を見つけられるなどとは思っていないのだ。
ただ、もしも自分が≪光神刻≫やそれにまつわる有力な情報を手にすることができたなら、教会での自分の評価がもう少しマシになるのでは、という打算がなくもない。
トビアスはこれまで生まれついての劣等生という言葉がぴったりの人生を歩んできた。四人いた兄弟の中から母が自分を修道院へ託すことを決めたのも恐らく年齢だけが理由ではなかっただろうし、修道院でも周りから笑いの種にされるような失敗を繰り返して今に至る。修道仲間に恵まれた、という先の言葉に偽りはないが、それは彼らがトビアスの失敗を笑って許してくれるからだ。
いや、本当はどこかで気づいている。〝こいつは何を言っても駄目だ〟と呆れられているから、誰も真剣に自分と向き合ってくれないのだと。
ただ一人、育ての親であるマイヤー司祭だけは変わらずトビアスの世話を焼いてくれるが、そうしていつまでも司祭に守られている自分が情けなかったし、何一つ恩を返せないことも心苦しかった。
そんな自分を変えたくて、宣教の旅に出ることを選んだと言ってもいい。自分の取り柄は絵がそこそこ上手いことと光神オールへの信仰心だけだ。
それらを武器に外の世界へ飛び出せば、自分にも何か成せるのではないかと思った。結果は先程の宣教礼拝を思い返せば明白だが、まだ旅は始まったばかりだと言い聞かせ、今は目を逸らしておくことにする。
「ときにそもじ、これ、光刻でおじゃろ?」
「えっ?」
と、ときにトビアスが上擦った声を上げたのは、杯に伸ばしたはずの手に突如温かいものが触れたせいだった。
見ればロクサーナが、その白い両手でトビアスの右手を捕まえている。やわらかい。ロクサーナの手の感触が、男しかいない修道院で育ったトビアスの脳に稲妻のような衝撃を走らせる。
「やっぱりそうでおじゃる。さっきまで手袋をしとったせいで分からんかった。光神系の教会でも光刻を持っとるところは珍しいのに、よう手に入れたの」
「なっ、わっ、だっ、たっ……!!」
あまりにも突然の出来事に取り乱し、トビアスは顔を真っ赤にしてロクサーナの手から自分のそれを引き抜いた。
が、力の加減を忘れて引き抜いたせいでそのまま重心が後ろへかかり、トビアスは椅子ごと盛大にひっくり返る。
「……そもじ、何やっとるのけ?」
「す、すみません……何でもないです……」
「何でもにゃーのにいきなり後ろに素っ転ぶのけ。光神真教会とやらの修道士は実にけったいでおじゃるの」
「け、けったい、ですか?」
「うん。へんてこ、という意味でおじゃる」
床に打ちつけた頭を摩り、椅子を元に戻しながら、トビアスは真顔で〝へんてこ〟と言われたことに少なからず傷ついていた。
しかし女性の手に触れるのが初めてだったから取り乱してしまった、とは何となく言いづらい。そんなことでいちいち興奮するのかと軽蔑されたら自分は今度こそ泣いてしまう。
「で、その光刻は教会から渡されたのけ?」
「え、ええ、まあ、そうです。私が所属している修道院に回ってきたものを、院長が特別に譲って下さって……」
「ほー。ということはそもじ、見かけによらず神術の素質があるんじゃな。光刻は珍しい分扱いにくいと聞くけんじょ、どんなもんきゃえ?」
「え、ええと……そう、ですね……確かにとても扱いにくい神刻だと思います。私なんてこの神刻の力の半分も引き出せてませんから……」
苦笑して言いながら、トビアスが左手でさりげなく隠したのは、右手の甲に刻まれた星色の神刻だった。
中心の円から放射状に何本もの線が飛び出しているそれこそが、ロクサーナの言う〝光刻〟だ。
光刻は言わずもがな光神オールの力の欠片と言われる神刻で、各地で発見される他の神刻と比べると数が少ないと言われていた。
光刻の力は〝守り〟と〝癒し〟に特化していて、光の壁を築いたり、傷を癒したりすることができる。光神系教会は、その〝傷を癒す〟という力に重きを置いていた。
光刻が癒すことができるのは体の傷だけではない。優れた神刻使いの手に渡れば、その力は人の心の傷さえも癒せる――そう信じられているのだ。
現に光刻の力によって人の悲しみや苦しみを癒したという記録が≪始世期≫――ハノーク大帝国という大国が栄えた≪神世期≫直後の時代――の遺跡には残されており、ここ五百年ほど前から始まった≪人世期≫にもそういった事例がぽつぽつと見られた。
マイヤー司祭はその力の発現を願い、教会から預かったそれを〝最も信仰心が厚い修道士に〟と言ってトビアスに与えてくれたのだ。
おかげでトビアスも当初は仲間たちから持て囃された。光刻を刻めるなんて羨ましいと口々に言われ、特別な力を与えられたことが誇らしかった。
けれども、今は。
暗い思念が胸裏を過ぎり、トビアスは目を伏せる。
できればこの話題には触れてほしくなかった。しかし見栄を張ってあんな言い方をしてしまった手前、今更真実を話すのは気が引ける。
だとすれば何か――何か話題を逸らす材料はないか。
「よう、邪魔するぜ」
そのとき、すぐ傍で誰かがどかりと座る音がして、トビアスは目を丸くした。
顔を上げると、それまでトビアスとロクサーナの二人しかいなかったはずの方卓に男が一人加わっている。まったく見覚えのない男だ。
「……え? え? え?」
「ん? 俺か? 俺はさすらいの冒険商人ジャックってもんだ。あんたは確かホビアスだっけ? いや、違うな、メビウス? あれ? 悪い、忘れた」
何だこいつは。心の底から愕然と思った。それは顔にもはっきり表れていたと思うが、男は構わず卓の上で腕を組み、くるりとロクサーナの方を向く。
「で、君の名前を訊いてもいいかな、お嬢さん?」
「わーはロクサーナでおじゃる。そっちのはトビアス。トビーと呼んでやると喜ぶぞえ」
「いや、別に喜んではないですけど」
「そうか。じゃ、よろしくな、トビー」
「うわっ、なんかムカつく」
と、気安く肩を叩かれ思わず飛び出しそうになった一言を、トビアスはすんでのところで飲み込んだ。
神に仕える修道士が、安易に負の感情を撒き散らすような言葉を吐いてはいけない。だから堪えろトビアスと言い聞かせながら、しかしトビアスは男に叩かれた右肩を無言で払った。北の人間は親しくもない相手に体を触られることを極端に嫌う。
ジャックと名乗った自称冒険商人は、青鈍色の目をした胡乱な男だった。短い髪は落ち着いた茶色をしていて、同じ色の髭をうっすらと顎の先に蓄えている。
その髭のせいで、若いのかそうでないのかいまいち判別しにくい顔をしていた。髭を隠せば二十代そこそこに見えるが、隠さないと三十四、五歳くらいにも見える。
腰には一本の剣を佩いていて、身なりはどちらかと言えば良い方だった。
立ち襟の白いシャツの首もとには黄色のネクタイを巻き、品のいい皮のベストを羽織っている。黒の脚衣はぴっちりとしていて、引き締まった筋肉が服の上からも見えるようだった。
てっきりロクサーナの知り合いかと思ったが、名を尋ねていたところを見ると違うらしい。
「さっきの歌、聴いたぜ。舞も実に素晴らしかった。まるで美の女神ヤッフェが地上に舞い降りたのかと思ったよ。ひょっとして君、アマゾーヌ女帝国の華帝陛下だったりする?」
「そう言うそもじはトラモント人きゃえ? あの国の男子は美人を見ると口説かずにはおけんと言うからの」
「ハハハ、惜しいな。俺は海を越えた先の愛の国、アビエス連合国からやってきたのさ。君という女神に会うためにね」
「浮気者じゃのう。アビエス連合国と言えば愛の女神の神子が築きたもうた国。そのエハヴを置いて別の女神を追いかけるなぞ、罪深いことじゃ」
「なぁに、エハヴ神もきっとお許し下さるさ。何せ〝際限なき愛を知り、与うる者こそ美しい〟ってのは他ならぬエハヴ神の教えだからな」
「そう言って今まで何人の女子を泣かせてきたのきゃえ?」
「君が俺のために泣いてくれるなら、死んで魔界に堕ちても本望さ」
「ちょ、あの、まずロクサーナが自分で自分を〝美人〟とか言ってるところにはつっこまないんですか?」
「トビー。お前さ……モテないだろ?」
「触るな下郎」
と、再び吐き出しそうになった負の感情を、トビアスは口元を歪めて無理矢理押さえ込んだ。
怒りと屈辱のあまり小刻みに震えたトビアスの肩には、同情的な顔をしたジャックの右手が狎々しく乗っている。殴りたい。猛烈に。
「ていうかあなた、いきなり現れて何なんですか。まさかロクサーナを口説きにここへ?」
「ほうだけど、なんか悪ひ?」
「別に女性を口説くのを悪いとは言いませんが人の食事を断りもなく堂々と盗み食いするのは悪いことだと思います」
「ああ、こへもらうは」
「食ってから断るな。おまけに口に物を入れたまま喋るだなんて、何て行儀の悪い!」
「別にこの辺じゃ普通じゃぞ。ルエダ人は賑やかな食事を好むほどにの。多少口に物が入っとろうが気にせんのが列侯国のマナーでおじゃる」
「そうなんですか!?」
「ぷはっ。そうそう、そうなんだよ。いやぁ、詳しいね、君。さっきの歌と踊りもさ、村の連中、喜んでたぜ。列侯国の人間は派手に騒ぐのが好きだからな。連中の心の機微ってもんをよく分かってる。どこぞの素人宣教師とは大違いだ」
中身を空にした杯を手に大袈裟な身振り手振りで話すジャックを、トビアスは禍々しい怨念と共に睨み据えた。ジャックはそれを気にした素振りもないが、どうやら彼も先程あの場に居合わせた一人だったらしい。
とは言え南西大陸のアビエス連合国から来たという話が本当なら、彼もまたこの村の人間ではないのだろう。冒険商人というのは未開の地や太古の遺跡などを探険し、そこで手に入れた珍品を売り捌いて生計を立てている者たちだ。
旅から旅へ根なし草のような生活をしている彼らもまた雲民に近い。しかしジャックの整った身なりを見る限りでは、そこそこに儲かっている人物のようだ。
「しかし君もこの辺りの人間じゃないだろ? 着てるものは上等だし、腹を空かしてるようにも見えない。おまけにずいぶん変わった訛りだ。世界を股にかけるこの俺でさえ聞いたことがない。一体どこの出身なんだ?」
「南東大陸のずっと南の方じゃき。向こうは南に行くほど寒くての。トビーのいた群立諸国ほどじゃにゃーにしろ、冬の長い場所でおじゃった」
「南東大陸? へえ、それはまた」
驚いたのは、目を丸くしてそう言ったジャックだけではなかった。南東大陸と言えば、豊穣の神アサーの神子がいると言われている大陸だ。
しかし北方大陸で暮らす人間にとって、南東大陸はほとんど未知の大陸だった。
何しろ南東大陸の近海には魔物が頻出し、加えて北方大陸との間に中継地となる島も存在しないため、現代の船と航海術で辿り着くのは難しいと言われているのだ。
「俺も南東大陸には連合国の東を経由して二、三度行ったことがあるが、南の端まで行ったことはねえな。てっきり南部はまだ手つかずの土地だと思ってたぜ」
「うん。まあ、南は豊神アサーの加護も遠い土地じゃき。小さな郷がいくつかあるだけの、ほんに何もない場所でおじゃった」
「それでなくともあそこは戦争続きだからな。とても南まで開拓の手が回らないんだろ」
ジャックは少しばかり気の毒そうに言い、それから匙を取ってまた勝手に雑炊を食べた。
南東大陸のことをよく知らないトビアスは会話に入れずささやかな疎外感を味わったが、しかしそれならロクサーナも存外田舎の出身なのではないか、とひそかに思う。
「だけど、それじゃあロクサーナが旅をしてるのは、もしかしてその戦争が原因ですか?」
「いんや。わーは人を探しとるき。小さい頃からずっと一緒じゃった……」
「お? もしかして長年の想い人? そいつはどんな野郎なんだ?」
「違う、女子じゃ。名をアザーディという。年の頃はわーと同じくらいで、ちぃとけったいな言葉遣いで……たぶん、わーと同じようにあちこちを転々としとると思うき。そういう女子を知らんきゃえ?」
「アザーディか。生憎俺は心当たりがないな。トビー、お前は?」
「わ、私は旅を始めてまだ三ヶ月くらいしか経っていませんから、あまり多くの土地を知らないんです。すみません、お力になれなくて」
「そうけ……しょーがにゃーの」
口ではしょうがないと言いながら、しかし俯いたロクサーナはとてもしょんぼりしているように見えた。
よほど大切な相手なのだろうか。小さい頃からずっと一緒にいたと言うからには、姉妹のように育った間柄なのかもしれない。
「まあ、そう気を落とすなよ、ロクサーナ。世界は広いようで狭い。諦めずに探してりゃ、きっといつか巡り会えるさ。長年冒険商人をしてる俺が言うんだから間違いない」
「……そうかもしれんの。ありがとなし、チャック」
「ジャックだ。それはそうとトビー、良かったら今夜俺と相部屋しねえか? 宿代割り勘しようぜ。その方が一青銅貨浮くんだ」
「は? ど、どうして今日会ったばかりの他人と相部屋しなきゃいけないんですか。お断りします」
「そう固いこと言うなよ。さすがにロクサーナと俺が相部屋ってのはまずいだろ? いや、俺は一向に構わねえんだけどさ」
「わーも別に良いぞえ」
「えっ、マジ?」
「はっ!? だだだ駄目ですよそんな不埒な! それなら私がご一緒します! 私の目の黒いうちは、女性と二人きりで相部屋なんてさせませんからね!」
「ちっ、何だよつまんねえな。これだから修道士ってやつは」
「一青銅貨浮かせなくていいんですか?」
「いえ、お願いします。ってわけでロクサーナ、良かったら晩飯も一緒に食おうぜ。同部屋の誼みでトビーのやつも連れてくからよ」
「うん。誰かと食事を共にするのは久方ぶりでおじゃる。ぜひ呼んでたもれ」
何のこともないようにロクサーナは言ったが、そう言われてみればトビアスも、こうして誰かと親しく接するのは久しぶりなのだと気がついた。修道院を出てからこの方、旅先で友人と呼べるような相手と出会えたのはこれが初めてだ。
もちろんその勘定にジャックは入っていないのだが、悪くない、とトビアスは思った。
自分のことをまったく知らない友との出会い。
それもまたトビアスが宣教の旅を選んだ理由の一つだからだ。