ルエダ・デラ・ラソ列侯国――レグンブレ村1
≪通暦一四五七年 泰神の月・時神の日
昨日、ついにルエダ・デラ・ラソ列侯国北部の村、レグンブレに到着した。
故郷のヴァイエホーブ修道院を出発し、華封諸国を縦断してこの村に辿り着くまで三ヶ月近い月日を要したわけだが、これが初めての旅である私には、その道程が長すぎたのかどうか分からない。
ルエダ・デラ・ラソ列侯国は北西大陸南西部に位置し、七つの小国(この地域では侯国とか侯領とか呼ばれるらしい)から構成される連合国家である。北の群立諸国連合出身の私としては何となく親近感を覚えるが、列侯国が諸国連合と違うのは同盟国を束ねる王がいることだ。
この国では王は十年に一度、〝モネダ・デ・オロ〟という投票によって選ばれるのだと聞いた。それも七つの侯国を治める君侯が集まって、諸侯の中から最も王に相応しいと思われる人物を選出するらしい。〝モネダ・デ・オロ〟というのは土地の古い言葉で〝金貨〟という意味だそうだ。王を決める会議の際、諸侯は自分が王に推薦する人物の国の金貨を壺に入れる。そのためにこの名がついたというから興味深い。
……と、こんな情報を宿の奉公人から聞き出すだけでも大変な苦労をした。どうやらレグンブレ村の人々は、異国から光神の教えを説きにやってきた私をあまり快く思っていないようだ。
しかしそれは、単に彼らが光神信仰に対して否定的だからとか、排他的な民族だからといった理由ゆえではない。
それよりもっと外発的で根本的な理由があるのだと私が思い知ったのは、日中、村の広場で宣教を行ったときのことである……。≫
その日、トビアスが村の長の許しを得て拝借した広場には、三十人ほどのレグンブレ村民が集まった。
理神の刻――通常であれば村人のほとんどが野良仕事で忙しいはずのこの時間に、初めての宣教礼拝でこれだけの人数が集まったとなれば上々である。
自身で礼拝を執り行うという初体験に臨み、極度に緊張していた若き宣教師トビアスは、参加者など良くて十人前後だろうと思っていたからこれには少し眩暈がした。
けれども初回からこれだけの人数が集まったということは、彼らは光神信仰に対する理解か興味、そのどちらかを有しているということだ。
その事実に内心歓喜し、トビアスは奮起して礼拝に臨んだ――までは良かったのだが、どうも様子がおかしいと思い始めたのは、簡潔な自己紹介を終えて早速説教に入ったときのことである。
「昔々あるところに、ティクバという名の青年がおりました」
とトビアスは、木製の額に差し込んだ紙芝居の一枚目を後ろへ送りながら語り始めた。
礼拝における説教というのは通常、各教会が発行している聖典の一節を引いて始めるものだが、この村の人々はトビアスが所属する光神真教会の聖典など知っているはずがない。というか教会の名前さえ、先程のトビアスの自己紹介で初めて耳にしたはずだ。
ゆえにいきなり聖典の一節など引いたところで、前後の文脈が分からなければ理解するのも難しいだろう。そう判断したトビアスは、もっと分かりやすく話を進めるために紙芝居を自作してこの国へやってきた。
昔から絵を描くことが得意だからこそ閃いた手法なのだが、幸い集まった村人の中には子供の姿も多く見受けられる。となればこれは、初回から大成功を収めてしまうのではないか――そんな幻想を抱いたことを、トビアスはほどなく後悔することになる。
「ティクバはそれはそれは不幸な青年で、生まれたときから父はなく、十六歳で母を亡くし、果ては戦いで家を焼かれ、あっという間に無一文になってしまいました。当然ながら身寄りもなく、行くあてもありません。ティクバは着るものにも、食べるものにも困るようになりました。町や村で物乞いもしてみましたが、誰も相手にしてくれません」
昨晩、宿の部屋で緊張を紛らわすために何度も練習した甲斐あって、紙芝居は順調に進んでいた。
トビアスがここまで背負ってきた、やや縦長の箱――宣教鞄を講壇代わりに話す姿を、レグンブレ村の人々は地べたに腰を下ろしてぼんやりと眺めている。
「あまりにひもじい生活に希望を失ったティクバはある日、死を決意して断崖に立ちました。いざ、そこから飛び降りようとしたときです。不意に一匹の鼠が現れ、ティクバの前を横切ったかと思うと、森の方へ走っていきました。ティクバはぼんやり、あんな鼠でも食べられるのではないかと思い、あとを追いました。するとどうしたことでしょう。森の中にはたくさんの果実が実った楽園があったのです。ティクバは飛び上がって喜び、楽園の果実を味わいました。空腹が満たされると何だか希望が湧いてきて、ティクバはもう一度、がんばって生きてみようと思いました。そこでティクバは……」
「知ってるよ。王のいる町に行くんだろ。だがそこで国王暗殺の濡れ衣を着せられて投獄される」
突然退屈そうに投げかけられたその声に、トビアスは驚いて息を飲んだ。とっさに顔を上げたが、ちょうど紙芝居の裏に書かれた台本に気を取られていたため、どの村人が声を上げたのかは分からない。
そう、これは『ある不幸な青年の物語』と題された、世界的に有名な童話の一つだった。
しかしただの童話ではない。この世界――エマニュエルに数多く存在する童話の大半がそうであるように、これもまたれっきとした神話なのだ。
今から千年以上前、人と神々とが共存していた≪神世期≫と呼ばれる時代。その時代に起きた出来事の中でも、特に現代に語り継がれているもの。それが神話だった。
世界中の教会が発行している〝聖典〟とは、その神話の中から特に自分たちが崇拝している神のそれを集めたものだ。けれども聖典に載せられている文脈そのままでは難解なので、子供から大人まで誰でも親しめるようにと生み出されたのがそれらを元にした童話だった。
その中でも『ある不幸な青年の物語』は特に有名で、逆に知らない人間を探す方が難しいのではないかと思われるほどだ。
それでもトビアスがこの話を敢えて初回に持ってきたのには理由があるのだが、まさか途中で横槍を入れられるとは想定していなかった。おかげでトビアスは動揺し、ちょっと落ち着きを失いながらも、何とか平静を保とうと紙芝居を更に送る。
「そ、そうです。そこでティクバはまたしても途方に暮れました。このままでは明日にも処刑されてしまいます。しかし牢の扉は固く、逃れようがありません。おまけに必死で無実を訴えても、誰も耳を貸してはくれません。ティクバはついに脱出を諦め、大人しく処刑されるしかないのだと思いました。すると、そんなティクバの前に……」
「黒猫が現れるんだろ。で、その猫が潜り込んだ壁の穴を調べたら、偶然隠し扉を見つけて牢屋から逃げ出すことができた」
またしても横槍が入った。トビアスは紙芝居を送っていた手を一瞬止めそうになった。
最初の声とは別の声だ。先程の声よりは若い。しかし再び広場を見回しても、やはり誰が発言したのかは分からなかった。
それよりも問題なのは、こちらを見つめる村人たちの目が心なしか冷たいことだ。まさかもう飽きられたのか。トビアスは額に滲み始めた汗を拭い、丸い宣教帽を被った頭をへこへこさせながら言葉を継ぐ。
「は、はい、まさしくそのとおりで。かくしてティクバは無事に牢から脱出することができました。王のもとから逃れたティクバは、遠い町へと移って身を隠すことにしました。ところがある日、ティクバはその町で……」
「ホザンナって美女と出会うんだろ」
「そうそう。で、ホザンナに惚れちまうんだが、身分違いの恋で引き離されちまうわけだ。だがどうしてもホザンナを忘れられないティクバはショックで病んじまって、このまま死ぬのか、と森を這いずり回ってたところで死んだ母親の幻覚を見る」
「幻覚ではありません。ティクバが見たのは母親の姿を借りた光神オールです」
「どっちでもいいだろ。そんでその母親に導かれるがまま洞穴に入っていったら、病を癒す花を見つけて、その蜜で一命を取り留める」
堪らず訂正した言葉を一蹴され、トビアスはしばし愕然とした。
どちらでもいいわけがない。単に気を病んで幻覚を見るのと、奇跡とも言うべき神の降臨に遭遇するのとではまったくもって意味が違う。この国の民はそんなことも分からないのか。
いや、それ以前の問題として、人が話している最中に遠慮なく口を挟んでくるというその神経がまず理解できなかった。たとえ相手の話がどれほどつまらなくとも、とりあえず最後まで聞いてから自分の意見を述べるのが最低限の礼儀ではないか。
少なくともトビアスの生まれ育った群立諸国ではそうだった。そんなささやかなルールさえ守ってもらえなかったという事実は、若き宣教師トビアスの自尊心をいたく傷つけた。自分は彼らからそれだけ軽んじられているのだと思うと情けなくなり、ついには捨て鉢になって紙芝居を送る。
「ええ、そのとおりです。そしてティクバは尋ねるのです。〝母よ。あなたは私が十六の冬に亡くなったはず。されどときには鼠の姿で、ときには猫の姿で私を導いて下さった。そうではありませんか〟と。そこでオール神はようやく正体を明かし、ティクバにこう言ったのです。〝我は汝を導いてなどいない。ただ汝が我を忘れなかっただけである〟と」
トビアスは既に今回の礼拝の失敗を確信していたために、口調まで投げやりになっていた。村人たちはそれをげんなりとした顔で聞いている。
やはり飽きられたのか。ならばこのあとに続けようと思っていた挿話は省略してしまった方が良さそうだ。
「皆さん、オール神は仰せです。〝いついかなるときも、我は汝と共にあり〟と。闇の中でこそ光を、オール神のご加護を信じるのです。どのような絶望の中にあっても立ち上がり、希望を失わなかった青年ティクバのように」
「……。で、宣教師さん。礼拝はこれで終わりかい?」
「はい、以上です」
「本当にこれだけかい」
「え、ええと……本当に、これだけです、すみません……」
前列にいた壮年の男にすごむような語調で言われ、トビアスはつい引け腰になった。
何故急にそんな怖い顔をするのか。まったく分からなかったが口からはぽろりと謝罪の言葉が漏れ、それを聞いた人々の間にため息が満ちていく。
心の底から失望したような、深い落胆のため息だった。ほどなく村人たちはおもむろに腰を上げ、さも時間を無駄にした、と言いたげにトビアスへと背を向ける。
「やれやれ、何だよ。修道士様が来たって言うから菓子の一つでもいただけるのかと思って来てみれば、子供向けの紙芝居だけとは」
「ったく、説教じゃ腹は膨れねえっての。同じ修道士ならせめて豊穣の神のとこのにして欲しいもんだよなぁ。気休めでもいいから、豊穣の祈りの一つくらい捧げてくれりゃ気も晴れる」
「そうは言っても、アサー神は今、海の向こうの何とかって国におわすって話だからねえ。とてもあたしらのことまで気にかけちゃあ下さらないんだろうねえ」
「いいよなぁ、神子がおわす国は。おれも豊神の国に行きてえよ」
そんな愚痴を口々に零しながら、人々は三々五々散っていった。恐らくそれぞれの畑へ戻ったのだろうが、村人たちの表情は一様に暗く活気もない。
それもそのはずだった。列侯国は目下、百年に一度と言われる大飢饉に直面していた。昨年から雨季が異様に長引き、作物が育たず、水害も頻発して壊滅的な打撃を受けているのだ。大きな都市では他国から食糧を買いつけて何とか食い繋いでいるというが、その恩恵はここレグンブレ村のような、都市部から遠く離れた村までは届かない。
トビアスも当然その事実は知っていたものの、しかしまさか教会の信仰がここまで見向きもされないとは思わなかった。力作だと自負していた紙芝居には、子供さえ興味を示さなかったのだ。
それはすなわち、トビアスの力では村人たちの気を紛らわすことさえできなかったことを意味する。これを失敗と言わずして何と言おう。
トビアスは己の力不足を痛感し、肩を落として自作の紙芝居を見やった。失意のため息と共に、間を外されて送れなかった残りの一枚を引き抜いてみる。
その後ろには物語の最後を華々しく飾るはずだった青年ティクバと、その妻ホザンナの絵が隠れていた。二人は晴れやかな笑顔で肩を並べ、人々の喝采と降り注ぐ祝福の花に包まれている。
『ある不幸な青年の物語』の中で、トビアスが一番好きな場面だった。だからこそこの絵をお披露目できなかったことには悔しさが残る。
「あんなに手間をかけたのになぁ……」
その絵を眺め、思わずそんな愚痴を零していた。
満たされたティクバとホザンナの笑顔と言い、当時の資料を掻き集めて描いた≪神世期≫風の晴れ着と言い、我ながらなかなかの出来だと思うのだが――と、トビアスが心中で自らを慰めていた、そのときだ。
紙芝居を片づけようと背を向けた広場から、ぱちぱちと控え目な拍手が聞こえてきた。はっとして振り向けば、そこには広場の真ん中にちょこんと座った少女がいる。
驚いたことに、少女はまっすぐにトビアスを――いや、正確には紙芝居を見ていたのだろうが――見つめ、決して短くはない拍手を送ってくれていた。
星色、と呼ばれる色がある。
夜空に瞬く星のような、限りなく白に近い銀色のことだ。
少女の髪の色はまさしくそれだった。トビアスはこれまで、日の光を受けてあれほど美しく輝く髪を見たことがない。
癖毛で真っ黒なトビアスの髪とは比べるのも痴がましかった。少女の髪はすとんと地に向けてまっすぐに伸び、頬の辺りで短く切り揃えられている。
が、それも鬢の辺りまでで、後ろ髪はうなじのあたりで括られているようだった。おまけにその服装が、明らかに村の者とは違う。
旅人だろうか。それにしてはいささか若すぎるような気もするが、トビアスはひとまず帽子を取って、戸惑いがちに頭を下げる。
「あ、ど、どうも……ご静聴ありがとうございました」
「なかなか良き絵物語じゃったぞえ。ま、語り部はいまいちでおじゃったがの」
いきなり飛んできた痛烈な一言が、グサリとトビアスの胸に突き立った。まさか今の言葉は、目の前にいるあの儚げな少女の口から発せられたというのだろうか。
いや、きっと何かの間違いだろう。そう言い聞かせたトビアスに、間髪入れず追い討ちが飛んでくる。
「すまんけんじょ、最初の方は退屈で寝ておった。そもじの面貌があまり好みじゃにゃーったき、自己紹介の部分はほとんど聞いておらなんじゃ」
「そ、そうですか……」
「そもじ、見習い宣教師でおじゃろ? しかし、わーが見てきた中でも一番冴えない宣教師じゃのう。逆に驚いた」
「あ、あはは……よく言われます……」
「ときに、何処の教会の者と申したかの?」
「こ、光神真教会です」
ここだけは濁してはならぬと思い、トビアスはきりっと居住まいを正して答えた。
が、猛烈に微妙な顔をされた。それも申し訳なさそうというより、いきなり知らない言語で話しかけられて〝こいつは何を言っているのか〟と不審を露わにしたような顔だ。
「ごめんなし。初めて聞く名でおじゃる。これでも光神系教会には詳しいつもりなんじゃけんじょ……」
「い、いえ、お気になさらず。当教会は百年ほど前にできたばかりの新興教会ですから、まだあまり名が知られていないのが実情です。今のところ拠点も北の群立諸国内にしかありませんし、この辺りでは尚更でしょう」
「ほう、あのド田舎からわざわざ出てきたのけ。それはご苦労、ご苦労」
少女の口調に悪意は感じられなかったが、彼女の発した〝ド田舎〟という言葉がまたしてもトビアスの胸に刺さった。
確かにこの大陸の北方一帯を占める群立諸国は田舎だ。同盟を結んでいるのも木っ端のような小国ばかりで目立った大国は特にない。
場所によっては一年の半分以上を雪に閉ざされて過ごすので、外界との交流もなきに等しかった。だから発展が遅れている。しかしそれを他国の人間にここまではっきり言われると、何だか泣きたい気分になる。
「しかし、今日の説教は他の光神系教会と代わり映えせんかったの。新興教会なら目新しい教えの一つや二つあろうもん」
「ええ、そうなんですが、いきなり土地に馴染みのない教会の教えを持ち込んでも、反発されたり無視されたりするんじゃないかと思って、敢えて基本から攻めてみたんです。結果はご覧の有り様ですが……」
「まあ、その考え自体は悪しゅうなかろ。問題は時と場所でおじゃるな」
「列侯国は小神ケシェットを古くから崇めていると聞きます。ですが飢饉という苦難に襲われ、皆が路頭に迷っている今こそ、精神の主柱となる光神の教えが必要なのではないかと思ったのです。この国では複数の神を信仰するのは禁忌ではないと聞いていますし……」
「そもじ、この国に来るのは初めてきゃえ?」
「え? ええ、まあ……私は宣教の旅自体が初めてのことなので」
「なるほど。どうりで分かっとらんわけじゃ。志は立派なのにおとましい」
「お、おとま……?」
「あー、うん。ええと、〝もったいない〟という意味でおじゃる」
立ち上がりながらそう言って、少女は服についた砂を軽く払った。
薄い体の線がはっきりと見えるチュニックの上に、後ろだけわざと布を余らせた夜明け色のケープ。更に少女の首もとには赤いリボンが上品に結ばれ、腰帯も金細工つきの立派なものだった。そんなものを身につけているということは、どこかの貴族か豪商の娘だとしてもおかしくないが、それにしては訛りが強い。
言葉遣いも全体的に古めかしく、それが可憐な見た目とはやけにちぐはぐだった。声も珠を転がしたように軽やかで美しいだけに、それこそ〝おとましい〟とトビアスは思う。
「〝アマゾーヌ人には花を、トラモント人には金を、エレツエル人には国を〟という諺を知っておるきゃえ?」
「え、ええと……相手の気持ちを惹きつけたければ、相手の好きなものや望むものを差し出せ、という意味ですよね?」
「うん。そしてルエダ人は言葉より行動を重んじる。つまり頭より体を使って訴えねば、村の衆の心には響かんき。ときにそもじ、光神の僕ならぎょうさん歌を知っとるじゃろ?」
「えっ……ええ、それは、まあ……」
と、このときトビアスが曖昧ながらも頷かざるを得なかったのは、〝光神の僕なら〟という前提を突きつけられたためだった
。光神オールは希望の神であり音楽の神でもある。この世に初めて音楽をもたらしたのはオールだと言われ、ゆえに光神系教会ではあらゆる音楽を尊び奨励している。
「ほいなら何か一曲歌ってみんしゃい。できれば小気味良く明るい歌が良いの」
「そ、それなら、光神歌第一番を……」
それでいいかという確認を込めて見つめれば、少女はこくりと頷いた。何も言ってこないところを見ると、少女もその歌は知っているらしい。
トビアスは腹を括り、一度咳払いをして喉の調子を整えた。それからすうっと息を吸い、一拍を置いて歌い出す。
神々の戦いが終わりを告げ 世界に灰色の雨が降る
光絶えた大地に祈りの声 母なるイマよ、祝福を
慈悲深きイマ 星の子らの祈りは母へと届き
六日目の朝 ついに灰色の雨はやむ
太陽神が東で目を覚まし 長かった夜の終わりと共に
呪いを払う貴き歌 世界の果てまで届く歌
光神オールの贈り物 その歌の何と美しきかな
王も家来も農夫も奴隷も 手を取り合って踊り出す
さあ歌え やれ歌え 闇払う光の神を讃えよ
さればオールは汝の胸に 夜明けの光を灯すだろう
夜明けの光を灯すだろう
神話の一節を切り取ったその歌を、トビアスは目を閉じて最後まで歌い切った。途中で目を閉じたのは、これまで礼拝以外に人前で歌う機会などなかったため、周囲の視線を浴びるのが恥ずかしかったからだ。
そうして一つ息をつき、どうでしたか、と目を開けたところで、トビアスは衝撃的な光景を目撃した。
例の少女が無表情にトビアスを見つめ、両手の人差し指を耳に突っ込んでいたのだ。彼女はトビアスが目を開けるとすぐにそれを外したが、依然表情は動かさずに言う。
「うん、分かった」
「何が分かったと言うのですか。今、完全に耳を塞いでらっしゃいましたけども」
「そもじ、宣教師なぞ辞めて軍に志願してはどうきゃえ。その歌声は兵器になる。たぶん一国くらいなら容易く滅ぼせるき」
「素直に破滅的音痴だと言っていただけた方がまだ救われます」
少女が堂々と耳を塞いでいた事実が衝撃的すぎて、トビアスは逆に冷静な調子で言った。自分が壊滅的な音痴だということはもちろん自覚済みだ。修道院では毎朝礼拝の最後に光神歌を合唱するのだが、トビアスだけは特別に口パクで良いとマイヤー司祭から許された。というか頼まれた。
それを事前に話さなかったトビアスにも非はあるが、そもそも歌えと言ったのはこの少女だ。だのに当人が平然とトビアスの歌を聞かなかったことにするとは何事であろう。
泣くぞ、いいのか。ここまでいいとこなしのトビアスが視線でそう抗議すると、少女は一つため息をついて言う。
「しょーがにゃーの」
何がしょうがないのか。トビアスがそう尋ねるよりも早く、少女はくるりと背を向けた。
すう、と息を吸う音がする。
――まさか。
神々の戦いが終わりを告げ 世界に灰色の雨が降る……
少女が歌い始めたのは、先刻トビアスが歌ったのと同じ光神歌の第一番だった。
しかし、まるで同じ歌とは思えない。認めるのは悲しいが、自分がいかに調子外れの歌を歌っていたのかがよく分かる。
少女の歌声は、譬えるなら夜を照らす月明かりのように澄み渡り、綺羅星のごとく気高く、夜光花のように美しかった。
その声がまたよく通る。決して声を大にして歌っているわけではないのに、村の隅々まで届くのではないかと思えるほどだ。
その歌声を聞いた人々が足を止め、振り返り、遠くからも少しずつ集まってきた。少女は一度歌い終えると同じ歌をまた歌い出す。今度は村人たちを促すように手を振りながら。
少女の歌に合わせ、見知らぬ青年が歌い始めた。
一人が歌い始めると、周りもつられたように歌い出す。村人たちは歌など歌う気力もないほど腹が減っているだろうに、歌声の輪は不思議と瞬く間に広がった。
更に人が集まり、手拍子が加わり、大合唱になる。顔を見合わせた人々の間には笑顔が弾け、誰かが空樽を叩き出す。薪を打つ。どこからか笛や弦楽器まで持ち出してきた者がいる。
レグンブレ村は、あっという間に祭のような騒ぎになった。陽気な合唱は楽器の音と共に朗々と空へ吸い込まれ、老いも若きも手を取り合って踊り出す。
それは少女が、輪の中で真っ先に舞い始めたからだった。腰帯に括りつけていた金の輪を外して両手に持ち、神話の中で神に愛された踊り子のように跳ね回る。
それを見た村人たちも隣の者と手を取り合い、大はしゃぎで踊り始めた。その賑わいたるや、輪の中で唯一歌っても踊ってもいないトビアスの方が異質な存在に思えるほどだ。
唖然としているトビアスを置き去りにして、村人の大合唱は半刻ほども続いた。
やがて舞い終えた少女が最後の一節と共に両手を掲げると、人々からはわっと割れるような拍手が巻き起こる。
「ほれ、宣教師どの。今でおじゃる」
「えっ?」
「光神真教会とやらの教え、叫ぶなら今しかないぞえ」
「あ……! み、皆さん、どうかこの快哉を忘れないで下さい! 〝隣人のために火を灯せ。さすれば汝の前途も照らさるる〟。自分自身のために、そして今日、この場で手を取り合った隣人のために、決して光を絶やさず生きるのです! どうか皆さんに、オール神のご加護がありますよう!」
戦の前の雄叫びにも似た、人々の喝采が響き渡った。先程はトビアスの話になど聞く耳も持たなかった人々が諸手を挙げ、互いに抱き合い、歓呼の声を上げている。
信じられない光景だった。トビアスは半分呆然としながらも、しかしもう半分の心は昂揚していた。
――そうだ。
これが、これこそが、自分の信じる光神オールの力ではないか。
「そう言えば、まだ名を名乗っとらんかったの」
鳴りやまない喝采の中で、少女がトビアスを振り向いた。
これだけの騒ぎを起こしておきながら、何のことはない、という顔つきで彼女は言う。
「わーはロクサーナでおじゃる。よろしくの、宣教師どの」
それが見習い宣教師トビアスと、不思議な少女ロクサーナの出逢いだった。