ルエダ・デラ・ラソ列侯国――主都ウニコルニオ3
「――……い……ビー……を覚ませ……しっかりしろ、トビー!」
耳元で名を呼ばれ、トビアスははっと目を見開いた。
真っ先に目に入ったものは、こちらを覗き込むジャックの顔だ。
その後ろには雲のかかった星空が広がり、やけに辺りが騒々しい。
「ジャック……? 私、は……生きて……?」
「ああ、たとえ死んでたとしても生きてるふりをしててくれなきゃ困る。でないと俺が皇子に張っ倒されるだろうが。起きれるか?」
口では文句を垂れながら、ジャックは倒れていたトビアスを支え起こしてくれた。
体を動かすと胸を圧迫されたような痛みが走り、咳き込めば背中が軋みを上げる。満身創痍だ。これでよく生きているな、と我ながら感心したところへ、すかさずジャックが水筒を差し出してくる。
「とりあえずこれを飲め。うがいするだけでもいい。何が起こったのか俺にもさっぱりなんだが、とにかく街はえらい騒ぎだ。お前、ロクサーナと会わなかったか?」
「……会いました」
「で、そのロクサーナはどうした? さっき城館の人間を捕まえて問い詰めたら、お前のいた塔の辺りがいきなり吹き飛んだって――」
言われたとおりうがいをし、一口だけ水を飲んでから、トビアスはふらふらと立ち上がった。
驚いたジャックが止めようとローブを掴んできたがそれを振り払い、物陰から歩み出る。
ウニコルニオの街は、惨状と化していた。
あちこちで大きく火の手が上がり、天をも焦がさんばかりの勢いで明々と夜を照らしている。
逃げ惑う人々の悲鳴と怒号が交錯し、街を守るはずの衛兵までもが我勝ちに走り去っていくのが見えた。彼らが逃げてくる方角に、一際大きな炎に呑まれた一帯がある。
そこに、〝それ〟はいた。
少なくとも二幹は離れているだろうその場所からもはっきりと形状が分かるほど巨大で、黒い化け物。
闇を楕円形に圧縮したような胴部に、体側から生えた六本の脚。
どこか地を這う虫の姿にも似たそれは、一度に何十人という人間を丸呑みにできそうなその口で、赤い空に向かって吼えた。
その咆吼は大地を震わせ、風を引き裂き、すべてを薙ぎ倒さんばかりの勢いで夜の街に轟き渡る。
「どうだ、≪暗黒期≫まで溯ったような気分だろ? あの化け物、何の前触れもなく侯王の館をぶち壊して現れやがった。街の人間の中には、アレを神が遣わした天罰の化身だ、なんて言ってるやつもいたが――」
「――ロクサーナです」
「へ?」
「アレが、ロクサーナです」
トビアスが無表情に振り返って言うと、ジャックは目を点にした。
何を言われているのかすぐには理解できない、という顔だ。
当然の反応だろう。
トビアスだってそんな事実は認めたくなかった。
しかし先程のアザーディの話が本当なら恐らくほぼ間違いない。
〝アレ〟は闇の呪いに身を喰われた、光神の神子の姿だ。
「お……おいおいおい、ちょっと待て。何だって? あの化け物がロクサーナ?」
「私も信じたくありませんが、どうやらそのようです。ロクサーナは屍霊使いの罠に囚われてしまった。私なんかを助けに来たばっかりに……」
「あー……つまりこういうことか? ロクサーナは屍霊使いに術をかけられて、あんな姿に変えられちまったと?」
「中らずと雖も遠からずといったところですね。とにかく、何とかして彼女を止めないと」
「っておい、待て待て待て! お前、ちょっと血を流しすぎて頭回ってないんじゃねえか? 冷静に考えろ。アレを止めるったってどうやって?」
「分かりません。でも、彼女をこのまま放っていくなんてできませんよ」
「おい待てよ、トビー! 俺たちだけでアレを止めるなんざ無理だ、下手したら死ぬぞ!」
――構うものか、と自分でも驚くほどの冷静さで、トビアスはジャックの制止を振り切り歩き出した。
あるいはジャックの言うとおり、血を失いすぎてまともに物を考えられなくなっているだけなのかもしれないが、とにかくここで立ち止まっているという選択肢は、トビアスにはない。
頭にはふわふわと宙に浮いているような感覚があり、自分が本当に地を踏み締めているのかどうかも怪しかった。
しかし歩調はやがて早足になり、駆け足になり、暴れ回るロクサーナのもとへと馳せていく。
「ロクサーナ!」
すさまじい咆吼が、再び夜を震わせていた。ロクサーナが化け物となって破壊している一帯――恐らく侯王の城館と市庁舎のあった場所だと思われる――は激しい炎に包まれ、これ以上は近づけない。
辺りには既に人気はなく、あるのは瓦礫の山とあちこちに散らばる死者の姿だけだった。
当初は侯王も兵を出して戦おうとしたのか、倒れているのは兵士の姿をした者が多い。
「ロクサーナ、聞こえますか! 私です、トビアスです! オール神の神子ともあろうあなたが、ホシェクに心を明け渡してはいけない! 私の声が聞こえますか、ロクサーナ!」
軋む体に鞭打って、トビアスは声の限りに叫んだ。
しかしロクサーナはトビアスの呼び声ごと目につくものを薙ぎ払い、三層はあろうかという塔を一撃で叩き壊してしまう。
周囲を包む瘴気と熱気で、肺が焼け爛れそうだった。それでもなおロクサーナの名を呼ぼうとして、トビアスは激しく咳をする。
そのとき、塔の崩壊する音の下から、糸の切れたような笑い声が聞こえた。
はっとして見やった先に、黒々と浮かび上がる人影がある。
その小柄な人影はひとしきり天を仰いで哄笑し、気味が悪いほどの愉悦に満ちた声で言う。
「素晴らしい、素晴らしいよ、ロクサーナさま! これが郷王の血に封じられた暗黒神の力……! この力があれば、つまらない神と人間の世界なんてあっという間に滅ぼせる!」
「アザーディ!」
巨大な化け物を見上げて恍惚としているその人影を、トビアスは睨んだ。
するとアザーディもそこでようやくトビアスに気がついたらしく、こちらを向いて妖しく微笑する。
「ああ、キミか。生きてたんだ。ごらんよ、この禍々しく美しいロクサーナさまの姿を! あの方は今や暗黒神ホシェクの化身だ。これからボクと共にこの世界を滅ぼすために、こうしてお姿を現して下さったんだ!」
「そんなことはさせない。ロクサーナは私が止めてみせます!」
「アハッ、キミ如きにあの方を止めるなんて無理だよ。ほら、こうしてる間にもロクサーナさまはたくさんの絶望を吸い上げて、どんどん大きくなっておられる。こうなったらもう止まれないさ。キミみたいなチンケな人間の声なんて、どうせ届きやしないだろうしね」
アザーディの言葉を肯定するかのようにロクサーナは吼え、行く手を遮る残骸を薙ぎ払った。大きく裂けた口の上では赤い一つ目がギョロギョロと動き、更なる絶望を探し求めている。
すっかり変わり果てたロクサーナの姿を見やり、トビアスはきつく両手を握り締めた。
そんなトビアスの様子を見たアザーディが口元を歪め、腹を抱えて笑い出す。
「アハハハハッ、いいね、その顔! ボク、人間のそういう顔を見るのが大好きなんだ。ああ、何ておいしいんだろう。最高だよ、キミの絶望も、ロクサーナさまの絶望もね!」
甲高いアザーディの放笑が夜の街に谺した。その壊れた笑い声がトビアスの怒りに火を点ける。
地を蹴って踏み出し、振り被り、トビアスは激情のままにアザーディを殴り飛ばした。
不意を衝かれたアザーディは面白いほど遠くまで飛び、地面を転がって起き上がる。
初めは何が起こったのか分からないという顔をしていた。しかし彼女はやがて殴られた頬に手をやると、目を見開き、狂気じみた笑みを刻む。
「……殴った? キミ、ボクを殴ったね? 修道士のくせに!」
「仮に神を冒涜し、世界を滅ぼそうとする邪術師すらも殴ることが許されないと言うのなら、修道士なんて今すぐにでも辞めてやりますよ」
言って、トビアスは首から下がった蹄鉄の紐を引き千切り、見向きもせずにそれを放った。生まれて初めて人を殴った右手は痛みを訴えていたが、今はそれも気にならない。
トビアスはゆっくりと足元へ手を伸ばし、そこに落ちていた誰かの剣を拾った。恐らくはロクサーナと戦い、果てた兵士のものだろう。
それを見たアザーディもまた、ゆらりとその場に立ち上がった。
口元には依然狂気の笑み。
彼女は血に飢えた魔物の目でトビアスを見据えると、おもむろに両手を広げ、言う。
「いいよ。キミがその気なら相手をしてあげる。自分がいかに無力でちっぽけな存在かってことを、嫌ってほどその身に刻み込んであげるよ」
アザーディが掲げた両手に、闇の炎が宿るのが見えた。揺らめく炎はやがて飛び散り、辺りに倒れた無数の死体へと降り注ぐ。
闇に触れられた死体は死人と化し、次々と死の淵から起き上がった。
そのほとんどが兵士で鎧を着込んでいる上に、手には武器を携えている。
「さあ、本当に止められるものなら止めてごらん。生憎手加減はしてあげられないけどね!」
狂惑に彩られた笑みを湛え、アザーディがトビアスを指差した。それを合図とばかりに死人の群が向きを変え、武器を振り上げてトビアスへと迫ってくる。
トビアスもまた剣を構えた。自分でも不思議なほど恐れがない。
が、問題はトビアスが剣術の心得など微塵も持ち合わせていないことだった。
一応見様見真似で剣を構えてはみたものの、ここからどう動きどう剣を振るえばいいのか、まったくもって分からない。
(それでも、私は――)
ふらつく頭を叱咤して、両足を踏み締めた。
ここで退くわけにはいかないのだ。
自分は彼女を――ロクサーナを救いたい。
こんな自分を見放さず、ここまで導いてくれた彼女を、失いたくなかった。
ロクサーナが光神の神子だからとか、自分が光神の僕だからとか、そんなことは関係ない。
ただ一人の人間として、トビアスはロクサーナを救いたかった。
彼女が自分を救ってくれたように、自分にもまだできることがあるはずだ。
烈声を上げ、トビアスはがむしゃらに剣を振るった。しかし刃は呆気なく死人のまとう鎧に弾かれ、手には痺れたような感覚だけが残る。
「ガァッ!」
白目を剥き、人外の声を上げた死人がすかさずトビアスへ斬りかかった。一合目は何とか避けたが、すぐに横から矛が突き出されてくる。
その穂先が脇腹を掠め、トビアスは呻いた。気がつけば逃げた先にも死人がいる。
囲まれた。トビアスはまためちゃくちゃに剣を振り回したが、今度は敵を掠りもしなかった。
死人が来る。四方から。一斉に。逃げ場はない。
光刻。守りの術を。だが間に合わない。
もうすぐそこに、刃が、
「よっこら――」
声が聞こえた。同時に足元で何かが割れた。
飛び散った液体。鼻を衝く臭い。
――酒だ。そう思い至った刹那、真っ赤に燃えた木片がトビアス目がけて降ってくる。
「――せっ!」
突然、景色が吹っ飛んだ。
トビアスは何かに激突されて素っ飛び、地面の上を転がった。
死人の悲鳴。肉が焼ける臭い。驚いて飛び起きた先で、複数の死人が燃えていた。
酒に火が点いたのだ。思わず見上げたその先で、トビアスに背を向けた人影が、手にした瓶をくるくると宙に投げては受け止める。
「トビー。お前さ、剣が使えねえならせめて頭を使えよな。ただ突っ込むだけなら死人にもできるんだからよ」
「ジャック!」
右手には剣、左手には酒を携えて現れたジャックは、いささか呆れた様子だった。
その酒はどこで、と思わず尋ねかけたが街はこの騒ぎだ。恐らく酒場かどこかから盗み出してきたに違いない。
「助かりました。だけどそのお酒……いくらこんな状況でも、盗みは立派な犯罪ですよ」
「おい、こんなときまで何言ってんだ。俺だって命が惜しいのを我慢して、こうして助太刀に来てやったんだぜ? 少しくらいは大目に見ろよ」
「てっきり見捨てられたかと思いましたよ。意外と義理堅いんですね」
「俺だけ生きて帰ってもしょうがねえからな。こうなったらとことん付き合ってやるよ」
やれやれと肩を竦めたジャックの口調は投げやりだったが、トビアスは思わず笑った。
トラモント黄皇国の皇子はずいぶんと心強い味方をつけてくれた、と思う。
ジャックは手にした酒瓶の他にも、腰に数本の瓶を突っ込んで確保していた。周囲には未だ死人の呻き声が溢れているが、少しも怖じた様子はない。
「トビー、俺はまず周りの化け物共を掃除する。その間親玉の足止めを頼めるか?」
「お安い御用です」
肩越しにトビアスを顧みたジャックが、微かに苦い顔をしたのが分かった。トビアスには荷が重すぎるということは、彼も重々承知のようだ。
それでもトビアスはその役目を引き受け、ふらつきながらも立ち上がった。
アザーディ一人を引きつけるだけならともかく、自分に武器を持った死人の相手は無理だ。先程のように押し囲まれ、瞬く間に切り刻まれるのは目に見えている。
「死ぬなよ」
短くそれだけを言い、ジャックは地を蹴って駆け出した。彼が果敢に突っ込んだ先には死人が群を成している。
いくら酒の用意があるとは言え、あの数の死人に単身立ち向かうなど無謀と言って差し支えなかった。
しかしトビアスはジャックを信じ、今は身を翻す。
向き直った先にいるのは、もちろんアザーディだ。
「なかなかいいお仲間を持ってるみたいだね。人間サマお得意の〝美しき友情〟ってやつ?」
「いえ、彼は私に死なれると困るだけですよ。憧れの隠居生活が懸かってるとかで」
「それは可哀想だなぁ。何しろキミはここで死んじゃうんだから。あ、それなら彼も一緒にあの世へ送ってあげようか。魔界で隠居ってのも乙でしょ?」
「それは本人に訊いて下さい。少なくとも私はお断りです」
言って、トビアスは再び剣を構えた。対するアザーディは余裕の笑みを刻んでいる。
既に体力は限界に達しようとしていた。殴られたり蹴られたり吹き飛ばされたりした体の節々が痛い。
それでもやらねばならなかった。自分以外にこの役を引き受けられる人間はいない。
トビアスは一つ大きく息を吸い、覚悟を決めた。
雄叫びを上げ、剣を振り上げてアザーディへと向かっていく。
渾身の一撃は、呆気なく躱された。スカッという何とも虚しい手応えがトビアスを嘲笑う。
しかし少しも怯まずにトビアスは剣を振り回した。アザーディはそれを涼しい顔でひらひらと躱す。トビアスのめちゃくちゃな太刀筋が、まるですべて見えているかのようだ。
「はあっ!」
息が上がるのも堪え、トビアスは更に斬撃を見舞った。アザーディはそれをひょいと後ろへ跳んで躱し、しかしそこではっとしたような顔をする。
アザーディの背後には、いつの間にか巨大な瓦礫があった。跳躍などではとても越えられそうにない石の壁だ。
――追い詰めた。
今しかない、とトビアスは思った。
左右には炎。逃げ場はない。
トビアスは鋭い声を上げ、掲げた剣を振り下ろす。
アザーディは、避けなかった。
しかし切っ先がその肩に触れた刹那、彼女は笑ったような気がした。
左肩から腹まで斬り下ろす。
黒い血がしぶき、トビアスの半身を染めた。
瞬間、ロクサーナが天を仰ぎ、地を割るような悲鳴を上げた。
トビアスはその声に驚き、そして気づく。
そうだ。
ロクサーナとアザーディは、神の血で繋がっているのだ。
「ロクサーナ!」
苦しみの叫びを上げたロクサーナが片側の脚を折り、一瞬その場に頽れた。自分が何をしでかしたのか察したトビアスは剣を捨て、即座にロクサーナへ駆け寄ろうとする。
ところがそのとき、トビアスは微弱な衝撃を感じた。
傷を負い、倒れるかに見えたアザーディが、トビアスに抱き着いていた。
肩の辺りからこちらを見上げた顔が、嗤っている。
次の瞬間アザーディは大口を開け、迷わずトビアスの肩に牙を立てる。
「うあああああっ!」
肉を抉られる激痛が走った。思わず絶叫したトビアスをアザーディがすかさず押し倒す。
「トビー!」
異変に気づいたジャックがすぐさま助けに来ようとした。しかしその行く手を死人が遮り、これでもかと言わんばかりに攻め立てる。
「づっ……ぐ、あぁっ……!」
耳元で、じゅるじゅると血を啜る音がした。
トビアスの血肉を喰らったアザーディはそこから得た力でみるみる傷を再生し、あっという間に無傷の体を取り戻してしまう。
「ああ、おいしい。やっぱり修道士の血は最高だね。きっとお肉を食べないからおいしいんだ。みんなキミたちみたいな菜食主義者になればいいのに」
やがて顔を上げたアザーディは痛みに喘ぐトビアスを見下ろし、ゆっくりと舌舐めずりをした。妖しく蠢く舌は口から滴る真っ赤な血を舐め取り、満足そうに音を立てる。
「それにしても、キミもロクサーナさまに負けず劣らずのうっかり屋さんだね。神子は自分の血を分け与えた者が傷を負えば痛みを共有し、死ねば死ぬほど苦しむんだ。君も聖職者の端くれなら、それくらい知ってるでしょ?」
仰向けに倒れたトビアスの上に乗ったまま、アザーディは陶然とトビアスの傷に右手を這わせた。
たった今牙を立てられたばかりの傷を今度は鋭い爪で抉られ、トビアスは言葉にならない悲鳴を上げる。
「そこまで強い絆で繋がれたボクとロクサーナさまの間に、人間ごときが割り込めると思ったの? ほんと、おめでたいやつ!」
「……っ!」
「だけどキミ、さっきより絶望してないね? もしかしてもう諦めちゃった? どうせならもっと見苦しく足掻いてみせてよ。人間の絶望はボクらのご馳走なんだからさぁ」
言って、アザーディはトビアスを地に押しつけたまま、真っ赤に染まった右手をうっとりと舐めた。
それはトビアスを楽には殺さないという意思表示にも見える。この人間をどうやって料理しようか、という魔物の顔だ。
トビアスは荒い息をついてその顔を見据え、掠れる意識を総動員した。
――まだだ。
自分はまだ、諦めてはいない。
「……とえ、それが……ール神から授かった力であっても……」
「え?」
「……を良しとしない神僕が……の力を使うのは、ご法度だと……」
珠のような汗が額から流れ落ちるのを感じながら、ときにトビアスは右手をもたげた。
その口から譫言のように漏れる言葉に、アザーディは怪訝な顔をしている。トビアスはそんなアザーディを見つめて淡い笑みを浮かべ、彼女の胸にそっと右手を押し当てる。
「けれども、いつか……万が一、その力が必要になったなら……その力が誰かを救うと、神に誓えるのなら……そのときは思い出せと、マイヤー院長が……」
「ねえ、さっきから何言ってるの? もしかして壊れちゃった?」
「いいえ……壊れてなどいませんよ。ただ、闇を貫く我らが神よ――」
その名を唱え、目を閉ざし、トビアスは祈りを口にした。
右腕に熱い血が流れる。
光刻が、光を帯びる。
「どうか、我が不浄をお許し下さい」
閃光が弾けた。
微かに開けた瞼の向こうで、光が世界を染め上げる。
それは一瞬の出来事だった。
光が去り、世界が元の色を取り戻すと、アザーディは放心したように自身の胸元を見下ろした。
そこには彼女の胸を貫いた、光の槍がある。
「う……」
トビアスの右手から生まれたその槍を見つめ、アザーディが小さく呻いた。
光刻が持つ、唯一の戦闘神術。
修道士には禁じられた力。
――ロクサーナが目覚めさせてくれた、トビアスの内に秘められていた力。
その力に貫かれた胸に触れ、アザーディがまたも呻きを上げた。
魔物の唸りのようなその声は、やがて絶叫へと変わる。
再び光が炸裂した。
アザーディの胸から溢れたその光が、彼女の体を灰へと変えた。
トビアスの握った光の槍は砕け、それと同時にアザーディの体も爆散する。
力の源であった主が散ると、ジャックに群がっていた死人も瞬く間に灰塵と化して消え失せる。
「トビー!」
ジャックの呼び声とロクサーナの上げる咆吼が重なった。
否、正確には、それは悲鳴だ。
先程の絶痛から立ち直りかけていたロクサーナが、再び崩れ落ちるのが分かった。
今度は六本の脚を完全に折り、天に向かって怨めしげな声を上げている。
「おい、トビー、大丈夫か!? 俺の隠居生活のためにも死ぬな!」
「あなたも本当にちゃっかりした人ですね……」
言いながらジャックに扶け起こされたトビアスは、じくじくと痛む左肩の傷を押さえた。そのまま神術で傷を癒してしまえれば良かったのだが、今のトビアスにはもはやそんな余力は残っていない。
「まさかお前が屍霊使いを斃しちまうとはな……だがお前んとこの教会は、殺生即破門じゃなかったのか?」
「そうなんですが……実はさっき、かっこつけて修道士なんか辞めてやる的なことを言ってしまったので、もう辞めてもいいかなと……私から信仰を取ったら、画才しか残らないのが問題ですが……」
「それなら俺の代わりに皇子の下で働かせてやるよ。で、これからどうすんだ? 敵の親玉を倒したのはいいが、まだロクサーナが……」
瓦礫の中に倒れたロクサーナは何とか立ち上がろうともがき、苦しげな声を上げていた。それは禍々しい響きを伴って、大地を低く震わせている。
その怨嗟にも似た鳴き声を聞きながら、トビアスは立ち上がった。
本当はこのまま意識を投げ出して楽になってしまいたかったが、自分には修道士としての最後の仕事がある。
「ジャック」
「あ?」
「ここまでありがとうございました。最初は胡散臭いすけこましだと思ってましたけど、あなたがいなかったら私は四回くらい死んでいたかもしれません」
「いや、五回だな。だが俺もそう何度もお前を助けてやれるほど万能じゃないぜ」
「分かってます。ですから、私を助けて下さるのはここまでで結構です。皇子殿下には感謝と謝罪を伝えて下さい。それから、〝トビアスがロベルトを隠居させてやってくれと言っていた〟と」
「何?」
「すみませんがこんな状態ですので、遺書を書いている余裕がありません。殿下にはくれぐれもよろしく」
「おい待て、何言ってんだ、トビー? トビー!」
そんなもん、遺書がなきゃ信じてもらえないに決まってるだろ。そう言って追ってこようとしたジャックと自分の間に、トビアスは光の壁を作った。
勢い込んで駆けてきたジャックはその壁にぶつかり、弾かれて吹っ飛んでいく。そのあまりの吹っ飛びぶりに少しやりすぎたかと思いつつ、トビアスは重い体を引きずって何とか瓦礫の山を越えた。
ちょうどロクサーナが暴れて崩した塔が炎に被さり、一部通れるようになった箇所があったのだ。
「ロクサーナ」
その瓦礫の山を反対側へ転がり落ち、それでもトビアスは立ち上がって、闇の塊と化したロクサーナに近づいた。
真っ赤な目でその姿を認めたロクサーナは威嚇の声を上げ、萎えていた六本の脚に力を込める。
「ロクサーナ……もう大丈夫です。アザーディは斃しました。あなたを苦しめるものは、もう何もありません。だから――」
烈風をまとう咆吼が、正面から襲いかかってきた。トビアスは言葉を遮られ、巻き上げられた礫から辛うじて身を守る。
ところが次の瞬間、我が身を庇うことに気を取られていたトビアスを、ロクサーナの前脚が容赦なく薙ぎ払った。
すさまじい力で吹き飛ばされたトビアスは悲鳴を上げる暇もなく、背中から石の壁に叩きつけられる。
全身が砕けるような衝撃が走り、意識が飛んだ。
ずるずると体が地に落ちたところで息を吹き返し、微かに呻きながら仰向けになる。
両手を地につき、渾身の力で上体を起こそうとした。
そこへロクサーナが前脚を翳し、まるでうるさい蠅でも叩き潰すかのように振り下ろしてくる。
「がっ……!」
巨大な手と瓦礫の間で押し潰され、トビアスは血を吐いた。
内臓が出たかと思ったが確かめる猶予も与えずに、ロクサーナが掌へ体重を乗せてくる。
「あ゛っ、がっ……ごぶっ……!」
みしみしと背骨が音を立てて軋み、トビアスは無意識に手足をばたつかせてもがいた。
今度こそ内臓が出る。そう思い、喉の奥で血をごぽごぽと言わせたとき、ロクサーナが白い歯の並んだ口を大きく開ける。
――自分を喰おうとしているのだ。
不気味なほど赤い口が迫ってくるのを見て、トビアスはそう確信した。
それでも、自分は。
トビアスは次第に遠のく意識の中で、最後の力を振り絞り、間近に迫ったロクサーナの顔に触れる。
「ロク……サーナ……大丈夫……です……よ……私が……ついてます……大丈夫です……」
今にもトビアスを飲み込もうとしていた口が、止まった。
トビアスがロクサーナの顔に当てた右手には、光刻の淡い光が宿っている。
「ほ……ほら、ロクサーナ……光です……こ、これで……もう、怖く……ない……そうで……しょう?」
大きな一つ目に見下ろされたまま、トビアスは微笑った。
かつてシャムシール砂王国の地下で、闇に怯えたロクサーナをあやした言葉。
その言葉を一言一句反芻し、伝え、トビアスは規格外に大きなロクサーナの顔を抱く。
「なか……な……泣かない、で……下さい、ロクサーナ……あなたの、心に……――もう一度、火を、灯しましょう」
これが自分の最期の力だ。
その力のすべてを右手に集め、トビアスは静かに目を閉じた。
瞼の裏の闇。
それをも貫く閃光が走る。
闇の化身の絶叫が聞こえた。
のちに人は言う。
それは、泣き叫ぶ少女の声にも聞こえたと。
温かかった。
すべてを手放し沈んだ闇の底で、トビアスはその温かさに包まれていた。
まるで神の腕に抱かれているようだ。
これが死というものなのだろうか。それとも自分の魂は既に天樹の実となり、すべてを癒す神鳥ネスの慈翼に包まれているのだろうか。
「――……ぬでにゃー……死ぬでにゃー、トビー……」
弱々しい声が聞こえた。涙で滲んだ声だった。
うっすらと目を開ける。何か、自分の体が光に包まれているような気がした。
――いや、包まれている。
温かな光だった。
これが真なる神の力か、とトビアスは思った。
自分が探し求めていたものはこの数ヶ月、ずっと傍にあったのだ。
ゆっくりと視線を下ろした先に、トビアスの胸に縋って泣く、星色の髪の少女がいる。
「トビー……トビー……っ……厭じゃ……わーはもう、ひとりになるのは厭じゃ……!」
「……それじゃあまた、ペラヒームまで一緒に旅をしてくれますか」
泣きじゃくっていた少女が、はっとしたように息を止めた。
次いで顔を上げた彼女は、驚いたことに丸裸だ。
けれどもそんな驚きは、すぐに些細なことに変わった。
数瞬の間茫然とトビアスを映していた夜明け色の瞳が涙に濡れる。
やがて彼女はこれでもかというほど顔をくしゃくしゃにして、幼子のようにその名を叫ぶ。
「――トビー!」
声を放って泣き、ロクサーナはトビアスに抱きついた。
途端にトビアスの体は悲鳴を上げたが何とかその痛みを堪え、笑ってロクサーナを抱き返す。
そのときトビアスは、確かに見た。
ロクサーナの胸に輝く≪六枝の燭台≫――≪光神刻≫を。
神界戦争の終わり。≪始世期≫の始まり。
その間一分の隙もなく天を覆い、降り続けた絶望の雨。
≪六枝の燭台≫はその雨が六日後に止み、世界に光が甦ったことの象徴だった。
そして今、夜が明けようとしている。




