ルエダ・デラ・ラソ列侯国――主都ウニコルニオ2
全身を駆け回る痛みが、トビアスの意識を再び現実へと呼び戻した。
う、と思わず漏れた呻きが闇に響く。
唇にビリッと裂けるような痛みが走り、血の味が滲んだ。
その痛みに一瞬震えた手は、頭より高い位置に固定されたままだ。
せめて光刻を使えれば傷も癒せるのだが、手枷には神術を封じるまじないが彫り込まれている。
トビアスが放り込まれたその場所は、窓一つない塔の一室だった。
連れ込まれたときの記憶がないので確かなことは言えないが、どうやら自分はトレランシア侯主にして現侯王であるカルヴァン・ラビアの城館に連行されたらしい。
暗闇に支配されたその場所で、目覚めたトビアスは侯王の家来から嵐のような暴行を受けた。
命が惜しければ己の罪を認め、民を煽動するために偽りの噂を広めたと公言しろ、と言われたのだ。
初めはその脅迫に驚き、恐怖したが、これだけは曲げられないとトビアスは辛うじて首を振った。
そんな方法で自分の口を封じたところで、いずれ真実は白日の下に晒されるだろう。ならば不毛な工作などやめて、今は事実を明らかにすべきだと主張したらこの有り様だった。
侯王の家来はトビアスが気を失うまで殴る蹴るの暴行を続け、目覚めたと知ると同じことを繰り返す。彼らに囚われてからどれほどの時が流れたのかは不明だが、交互に訪れる覚醒と気絶のせいで、既に数日は経過しているのではないかと思えるほどだ。
(ジャックとロクサーナは、あれから無事逃げられたんだろうか……)
朦朧とする意識の底で、目覚める度に考えるのはそれだった。脅迫に来る男たちの口から二人の名は出ないので、無事に逃げ切ったものと思いたい。
しかし問題は列侯国の追跡だけではなかった。この街にはロクサーナを狙う屍霊使いがいるはずだ。
ロクサーナは屍霊使いと決着をつけると言っていたが、武器も神刻も持たない彼女が一体どうやって屍霊使いを倒すつもりでいるのか。
トビアスには想像もつかないような方法で対峙しようとしているのだとしても、何か嫌な予感がする。
できることなら今すぐにでもここを脱出して、ロクサーナの消息を追いたかった。
今は彼女を一人にしてはいけない。そんな気がする。
それはシャムシール砂王国の地下洞窟で、水中花を失ったときの焦燥にも似ていた。だがもうあんな苦い思いをするのは御免だ。
せめてこの手枷を抜けることはできないだろうか、とトビアスはなけなしの力を振り絞って虚しい抵抗をした。そのときだ。
「おや、お目覚めのようだな、修道士殿」
不意に扉の軋む音が響き、目を開けているのか閉じているのかも判然としなかった暗闇に光が射した。ただの燭台の火に過ぎないそれが今のトビアスにはやたらと眩しく、思わず顔を逸らしてしまう。
どやどやと扉の向こうから現れたのは、例の家臣団だった。
既にお決まりとなっている面子だ。どうやら中でトビアスが立てた物音を聞いて、様子を見に現れたらしい。
「ああ、元々冴えない面ではあったがひどい顔だ。そろそろ賢明になる決心はついたかね?」
「……何度言われようと、私は私の神の名を辱しめるような真似はしません。それが神の道に足を踏み入れたときオール神にお誓い申し上げた、ただ一つの誓約ですから」
「若いのにずいぶんと敬虔なことだ。いや、愚直と言うべきかな?」
嘲笑を浮かべて言った一人が、短鞭でびしりとトビアスの顔を打った。
左の頬に鋭い痛みが走り、わずかな血が肌を滑り落ちていくのが分かる。
「まったく、くだらん。千年もの間眠ったままの神などに一体何を期待するのか。この世は疾うに神から見放されたのだよ。お前のような聖職者はその事実を受け入れられず、遠い過去の幻想に縋ることしかできない愚か者だ」
「仮にそうだとしても、神々が我らをお見捨てになったのは、あなた方のような下賤の輩が世にはびこったためでしょう。それなら私は、神にも見放されるような卑しい人間と肩を並べたいとは思いませんね」
再び黒い鞭が飛んだ。闇を裂いたそれは、今度はトビアスの蟀谷に当たった。
一瞬脳が揺さぶられたような感覚に襲われ、何とか意識を繋ぎ止める。
気を失っては駄目だ。
何としてでも、ここから逃げ出す一計を講じなくては。
「口の減らんガキだ。これだから修道士というやつは」
扱いにくい、と言うのだろう。同じことをロクサーナやジャックにも言われた。
しかし今となってはそれもいい思い出だ。ヴァイエホーブ修道院を出てからの数ヶ月は、トビアスに修道士とは何かを教えてくれた。
それは無知で愚かで、しかしだからこそ神と交わしたただ一つの約束だけを信じて生きてゆける人間のことだ。
「仕方がない。それではもうしばらく、修道士殿には己が身の振り方を考えていただくとしようか。それでもその誓約とやらを曲げないつもりなら、こちらにも――」
「――おい、何だ貴様は!」
そのとき、男たちがやってきた扉の向こうから怒声が聞こえた。
居合わせた誰もが何事かと目をやった先、いきなり扉が押し開かれ、その向こうから人影が飛び込んでくる。
いや、それは飛び込んできたというよりも、吹き飛ばされて転がり込んできたという方が正確だった。
恐らく牢番をしていた兵士だろうと思しいその人影は鎧をうるさく鳴らしながらひっくり返り、牢の奥まで飛んでいく。
「何事だ!」
脅迫にやってきた男の一人が、警戒した様子で扉の向こうに怒号を投げた。
ひた、と小さな足音がして、誰かが入ってきたのが分かる。
男たちが手にしたわずかな灯りの中で、トビアスは目を凝らした。
現れたのは意外にも小柄な人影だ。
頭には暗色のケープを被っているので、その人相までは分からない。
「何だ、貴様は? どうやってここへ入ってきた? 名を名乗れ!」
突如姿を現した得体の知れない人物に、男がなおも尖った声を上げた。
すると相手は男を見上げ、くす、と小さく笑いを零す。
「そんなこと知ってどうするの? それよりさぁ、ボク、そこにいる修道士さまにちょっと用事があるんだよね。キミたちは邪魔だから、席を外してくれないかな?」
「何だと? さては貴様、この男の仲間か!」
「いちいち怒鳴らないでよ、うるさいなぁ。別にその人とは仲間でも何でもないし。まあ、かと言って初対面でもないんだけど、ね?」
言って、口元だけで薄く笑ったその人物にトビアスは見覚えがあった。街中に死人が現れたあのとき、トビアスの怪我を心配してくれた少年だ。
あの少年が何故ここに、とトビアスは混乱しかけたが、それはほどなく悪寒に変わった。
小首を傾げてこちらを向いた少年に、何か禍々しい気配を感じたからだ。
「何者かは知らないが、ここは侯主の許しのない者が立ち入って良い場所ではない。貴様もまた不法侵入の咎で逮捕する」
「キミたちの理屈なんてどうでもいいよ。とにかくさっさと消えてくれないかなぁ」
「どうやら言葉が通じないと見える。おい、その者を捕らえよ」
「――ボクは、忠告したからね?」
にたり、と、フードの下から覗いた口が三日月を描いた。
次の瞬間、少年を捕らえようと手を伸ばした男の動きがぴたりと止まる。
辺りが暗いせいもあり、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
ずるりと嫌な音がして、少年が男の胸から右手を引き抜いたのが見える。
その手には、灯明かりを受けててらてらと輝く赤黒い塊。
胸から血を流した男が倒れた。残りの二人が「ひいっ」と声にならない悲鳴を上げ、噎せ返るような血の臭いにあとずさる。
「え、衛兵! 何をしている、こやつを捕らえよ!」
初めに転がり込んできたきり応答のない衛兵に、男の一人が声を荒らげた。
が、やはり衛兵から返事はない。
それどころか首と手足があらぬ方向に捩曲がり、壊れた人形の残骸のように転がっている。
「あ、ああ……! な、何だこれは!」
「だからさっさと出てけって言ったのに。人間って、ほんと救いようのない馬鹿ばっかり」
呆れたような口調とは裏腹に、少年はやはり笑っていた。
その笑みに怯えた二人が「助けてくれ」と命乞いの言葉を口にしたような気がしたが、それはトビアスの耳にはっきりと届く前に、血のしぶく音によって掻き消される。
「やあ。これでゆっくり話ができるね、修道士さま」
目の前で信じ難い惨劇が繰り広げられている間、トビアスは声一つ上げることができなかった。
全身が凍りつき、震えが止まらない。
瞳は瞬きを忘れ、血を浴びて佇む少年を凝視している。
「まったく、あのとき大人しくボクについてきてくれてれば、こんな面倒なことにはならなかったのに。修道士さまだって、わざわざ痛い思いをせずに済んだんだよ?」
「あ……あなたは、一体誰なんですか?」
「ボク?」
首を傾げて聞き返し、少年はなおもくすくすと笑った。その手には未だ、最後の脈動を繰り返す男の心臓が乗っている。
「何だ。修道士さまはてっきりボクのこと知ってるのかと思ってた。ロクサーナさまはついに自分の旅の目的を人に明かすのもやめたのかな?」
「ロクサーナ? ロクサーナを知ってるんですか?」
「そりゃあもちろん。ロクサーナさまはボクの主だもの。物心ついたときからずっと一緒だった……お優しくて聡明で、可哀想なロクサーナさま」
陶然とした口調で言い、そのとき、少年がフードを外した。
――いや、それはトビアスがただ一方的に〝少年〟と思い込んでいただけだ。〝物心ついたときから〟と聞いてようやく気づいた。
彼は〝彼〟ではなく〝彼女〟だ。
フードの下から覗いたその顔は少年と呼ぶにはあまりに可憐で、それでいてどこか、あの星色の髪の少女に似ている。
「ま、まさか……あなたが、アザーディ?」
「あ、何だ、やっぱり知ってたんだ。ま、当然と言えば当然か。寂しがり屋のロクサーナさまが、いつまでも一人きりで旅を続けられるわけがないもんね。本当に、可哀想な人」
笑いを含んだ声で言って、ときにアザーディが右手に携えた心臓をちらりと見やった。かと思えばいきなりその心臓を口に寄せ、むしゃりと音を立てて囓りつく。
その想像を絶する光景に、トビアスは思わず目を逸らした。
少女が肉を咀嚼する音が生々しく聞こえ、トビアスは腹の中のものをすべて吐き出しそうになる。それが叶わなかったのは、既に散々殴られたあとで腹の中のものなどなくなっていたからだ。
「それじゃあボクが屍霊使いだってことも、もちろん知ってるんだよね?」
「……っ!」
「あれれ? お肉が嫌いな修道士さまには、ちょっと刺激が強すぎたかな?」
むっと胸を塞ぐような臭気が近づき、アザーディが顔を覗き込んできた。その口元が血で真っ赤に染まっているのを見たトビアスは息を飲み、それ以上身動きが取れなくなる。
「ごめんね。だけど今日はいっぱい力を使ったから、お腹が空いててさ」
「あ、あなたが……」
「え?」
「あなたがこの街にいるのは、侯王と結んでいたからですか? ロクサーナを陥れるために、列侯国と結託を?」
あまりの臭気に息も絶え絶えになりながら、トビアスは尋ねた。ここで一思いに吐いてしまえれば気も楽なのだろうが、いくら嘔吐いても出てくるのは血の味のする胃液だけだ。
ところがそのとき、きょとんと首を傾げたアザーディが、突然声を上げて笑い出した。
糸が切れたようなその笑い方だけでも身の毛がよだつというのに、加えて彼女は心臓の食べ残しを口へと放り込んで言う。
「何それ、面白い冗談だね。確かにキミらを捕まえてくれって衛兵にお願いしたのはボクだけどさ、侯王なんて知らないよ。人間なんて関わるにも値しないゴミクズだからね。ロクサーナさまを追い詰めたのはボク一人の手腕さ。見くびらないでほしいな」
「……つまりあなたは、その〝ゴミクズ〟を食べて生きていると? そう言うあなたも、元は人間だったんじゃないんですか」
「ああ、キミたちは知らないのかな。確かにボクら屍霊使いは人の肉も食べるけど、一番のご馳走は〝絶望〟さ。ボクがこの国へ来たのも、ここには今、死と絶望が溢れてるからだよ。これがね、ほっぺたが落ちるくらいおいしいんだ。暗黒神に身も心も預ければ、誰だってそれを味わえる」
うっとりしたように言って、アザーディは血のついた両手をトビアスの頬に添えた。おかげで左右の頬にはぬるりと不快な感触が伝い、トビアスの全身を怖気が走る。
アザーディは顔立ちこそロクサーナにやや似ているが、中身は似ても似つかなかった。
血に濡れた唇の裏には牙のような犬歯が隠れ、ロクサーナとは反対に鬢だけが長い髪は夜空で染め上げたように黒い。
これが、ロクサーナが異様にホシェクを嫌っていた理由か、と納得がいった。
血に酔ったアザーディの心身は、完全にホシェクに魅入られている。
「それにね、ボクは元から人間なんかじゃないよ。〝血飲み子〟って言えば分かるかな?」
「な……!?」
「生まれたときから半分不老不死として生きることが決まってたんだ。ボクとロクサーナさまが育った郷はそういう郷でね」
馬鹿な。アザーディが告げた〝血飲み子〟という言葉に、トビアスは愕然とした。
血飲み子とは、文字どおり神子の血を受けた人間のことだ。大神刻を宿し、半神となった神子の血を飲んだ者は、神子と同じ不老不死の力を得られる。
とは言えそれはアザーディの言うとおり、〝半分不老不死〟と言った方が正しい力だった。
神子も血飲み子も神の力で不老となり死ににくい体を得るが、決して不死というわけではない。その力の宿る先が不完全な人間の体であるがゆえに、神本来の力を完全な形で受け継ぐことはできないのだ。
だがだとすればロクサーナもまた、アザーディと同じ血飲み子なのか。そう尋ねかけて、そんなはずはない、と否定する自分と出会った。
何故なら血飲み子は別名を〝蒼児〟と言う。神の血は青く、その血を受けた人間は髪も瞳も真っ青に染まるからだ。
第一蒼児は、血を与えた神子の傍を離れて生きることはできない。蒼児は神子から力を分け与えられる代わりに一生の忠誠を誓い、傍を離れれば誓いを破った罰として心身を呪いに蝕まれると言われている。
恐らくアザーディはそうした蒼児の成れの果てなのだろう。
しかし、ロクサーナは、
「うふふ。少しだけ、昔話をしてあげようか」
トビアスの混乱と動揺を見透かしたように、アザーディは薄く笑った。
その蠱惑的な笑みが、寒気となって背筋を舐める。しかし唯一ロクサーナと変わらない夜明け色の彼女の双眸が、トビアスの意識を掴んで放さない。
「昔々あるところに、光の神子が治める小さな郷がありました。郷の者たちは途方もなく長い間、光の神子を王と崇め、狭い郷の中で外の世界を知らずに過ごしていました。けれどもある日、王に仕える一人の血飲み子が、見たこともない外の世界を覗いてみたいと言いました。王はそんな血飲み子を連れ、郷の者の言いつけを破って、時折外の世界を覗きに行くようになりました。実は王もまた郷の外の世界に強い興味を抱いていたからです」
闇の中に滔々と響くアザーディの声は、トビアスの脳を掻き回し、意識を混濁させる魔術のようだった。
気をしっかりしていないと、持っていかれる。魂を闇の底まで引っ張られ、抜け出せぬまま沈んでしまいそうになる。
「二人がそれまで知らなかった外の世界はあまりに広く、たくさんのものが溢れていました。血飲み子はやがてその世界に強い憧れを抱き、自分も外で生きてみたいと願うようになりました。けれどさすがの王もそれだけは許してくれません。王が自分の味方でなくなったことを知った血飲み子は、ある日郷を出ていく決意をしました。――血の呪い? そんなもの、知ったこっちゃありません」
「……」
「血飲み子が郷を抜け出したことを知った王は家来を連れ、逃げた血飲み子を追いました。血飲み子は彼らに捕まることを恐れ、途中で降参したふりをして、王をとある洞穴に呼び出しました。そこへのこのこと現れた王を、血飲み子はまんまと洞穴に閉じ込めることに成功しました。穴の入り口を崩落させ、王を真っ暗闇の中へ置き去りにして逃げたのです」
「……!」
「光の神子たる王は、暗闇がとっても苦手でした。王は闇に触れられると心を病み、やがて狂ってしまう呪いを受けていました。暗い洞穴に閉じ込められた王は怯え、声を上げて必死に助けを求めましたが誰にも気づいてもらえず――ついには狂い、恐ろしい化け物と化して自らの郷を滅ぼしましたとさ。めでたし、めでたし」
心底愉快そうに笑い、アザーディはぱちぱちと手を叩いた。
その度に小さな血飛沫が飛び、トビアスの頬に痕をつける。
しかしトビアスはそれを不快に思うことも、口を開くことも忘れていた。
ただ呼吸だけが浅くなり、全身が震えた。
――神よ、お許し下さい。
その一言だけが脳裏を過ぎる。
誰かを殺したいと願うほどの憎悪に駆られたのは、これが生まれて初めてだ。
「だけどね、ボクは思うんだ。そのとき化け物になって、自分の家族も家来も皆殺しにしちゃった王さまの絶望は、きっと死ぬほどおいしかったんだろうなって。それを食べ損ねちゃったボクは、何て可哀想な子なんだろうって。だからボクはこの数百年、ロクサーナさまから何度も何度も希望を毟り取ってきたんだ。それでもボクを追いかけるのをやめないんだから、ロクサーナさまの愛って猛烈だよね。もうメロメロだよ」
「お前……!!」
「それでね、その最後の仕上げがキミってわけ。実はここしばらくの間、ボクはキミらをずっと観察してたんだけどさ。ロクサーナさまは、キミにはずいぶん心を許してるみたいだね。そのキミをまた奪ったら――ロクサーナさまは、どんな顔をするかなあ」
これはもう、人間ではない。
魔物だ。
一分の迷いもなくそう思えるような、おぞましい笑みだった。
細く吊り上がったアザーディの口は耳まで裂け、血に濡れたその手をトビアスの首に押しつけてくる。
――光刻を。とっさにそう思ってから、自分が神術を封じられていることを思い出した。
アザーディの尖った爪が首に食い込む。喉を圧迫され、零れた悲鳴が濁ったそれに変わる。
「ああ、どうしよう、すごくゾクゾクしてきちゃった! ねえ、どうやってキミを殺すのが一番だと思う? やっぱり体をバラバラにしてロクサーナさまにプレゼントしてあげるとか? それともキミを死人に変えて、ロクサーナさまに殺してもらおっか?」
「ぐっ……かっ……!」
「ああ、だけどこの二つはもう別の人間で試しちゃったからなあ。一番手間はかかるけど、ここはやっぱりロクサーナさまの目の前で嬲り殺し――」
と言いかけたところで、不意にアザーディが首を締め上げる力を弱めた。トビアスはそこでようやく息を吸うことができ、咳き込みながら空気を貪り食う。
一方のアザーディははっとしたように扉を振り向き、獣のごとき身のこなしで突然背後へ跳躍した。
そのまま床に落ちていた燭台の火を吹き消し、闇の中へと掻き消える。
「――トビー!」
一体何が起きたのか。
その答えはすぐに分かった。
扉の向こうから駆けてくる足音が聞こえ、既に耳に慣れた呼び声が響く。
――来ては駄目だ。
そう叫びたかったのに、直前まで圧迫されていた喉は役目を果たさない。
「トビー、生きとるきゃえ!?」
ロクサーナだった。扉から彼女が姿を現したとき、トビアスは何故来たのだと怒鳴りつけてやりたかった。
しかし実際には咳き込むばかりで、思いは何一つ言葉にならない。
逃げてくれ。その一言だけでも必死に拈り出そうとしている間に、ランプを手にしたロクサーナが腕で鼻を覆いながらやってくる。
「う、ひどい死臭でおじゃる……トビー、無事きゃえ? ここで何があったのけ?」
「ロ……クサーナ……逃げ……」
「うん、わーもジャックも一度逃げたけんじょ、そもじが捕まったと聞いて戻ってきたのでおじゃる。今はジャックが外で衛兵の気を引いとる。……ひどい怪我じゃの。今手枷を外すき、立てそうきゃえ?」
「……め、です……っ! ――ここにいちゃ駄目です、逃げて下さい、ロクサーナ!」
「じぇ?」
ようやくまともに声が出た。トビアスがそう思ったのと、牢の扉が音を立てて閉まるのが同時だった。
その音に気づき、ロクサーナがはっと振り向いた瞬間、硝子の割れる音がする。
ランプの火が消えた。
途端に辺りは完全なる闇に支配される。
「ロクサーナ!」
「あ……ああ……! 厭じゃ……暗いのは厭じゃ! 光を――」
「――いらっしゃい、ロクサーナさま」
囁くようなアザーディの声が聞こえた。吐き気がするほど甘い声だった。
すぐに二人が揉み合うような音が聞こえてくる。
しかし辺りは塗り潰されたような闇だ。何が起こっているのかトビアスには見えない。
ロクサーナの短い悲鳴が漏れ、喘ぐような息遣いが聞こえた。再び彼女の名を呼んでも、それに応える声はない。
「あ、あぁ、アザーディ……!」
「久しぶりだね、ロクサーナさま。いや、昼間にも言葉は交わしたけど、あのときは面と向かってご挨拶できなかったから。だけどまさか、ロクサーナさまが自分からボクのもとへ来てくれるとは思わなかったよ。やっとまた会えたね……」
「い……いやっ……放しんしゃい、アザーディ……!」
恍惚としたアザーディの口調とは裏腹に、ロクサーナの声はほとんど悲鳴に近かった。
どうやら闇の中でアザーディに押さえつけられているらしく、じたばたともがく音がする。しかしロクサーナが解放された気配はない。
「アザーディ、光、を……光を……!」
「光なら自分で灯せばいいじゃない。あ、そう言えば完全な暗闇の中じゃ、≪光神刻≫の力は使えないんだっけ? 不便だよねえ。光の神さまの神刻なのに、闇の中じゃ役に立たないなんて」
「あ、ぁあ、あ……!」
「五百年前もそうやって一人で苦しんだの? 怖かっただろうねえ。寂しかっただろうねえ。だけど大丈夫、今回はボクが傍にいてあげるから。これからは昔みたいにずうっと、ロクサーナさまの傍にいてあげる」
「あっ……あぁああぁ……っ!」
「ロクサーナ!」
ロクサーナの発する声はもはや言葉を成していなかった。
ただひたすらにもがき、苦しむのが聞こえてくるばかりで、トビアスの呼び声が聞こえているのかどうかも定かでない。
「アザーディ! やめろ……やめてくれ、頼む!」
「どうして? キミは今から、こんな間近で美しきホシェクの御業を見れるんだよ? 実はね、ボクもずっと化け物になったロクサーナさまを見てみたかったんだぁ」
「アザーディ!」
「うふふ、それにしてもロクサーナさまは相変わらずうっかり屋さんだね。前の連れがボクに殺されたことも忘れてすぐ新しい〝弱み〟を作っちゃうし、ちょっと力を使うくらいなら居場所が割れることもないと思って油断しちゃうんだから。レグンブレ村で力を使ったのは間違いだったね。ボクらは神さまの血で繋がってるんだもの。ほんの少しでも≪光神刻≫の力を使えば、そんなの分かるに決まってるじゃない」
レグンブレ村。そのときアザーディが告げた村の名が、強烈にトビアスの頭を打った。
飢餓で衰弱しきっていた人々を励まし、歓喜に奮い立たせた力。あれは≪光神刻≫の力だったのか。
ならばロクサーナは他でもないトビアスのためにその力を使い、アザーディに見つかったのではないか。
「ほんとロクサーナさまってば、昔からボクのこととなるとすぐムキになって、面白いくらい思いどおりに動いてくれるんだから。だけど――そういうとこ、大好きだよ」
「あ、ぁあ……いや……じゃ……入って、くる……っ……闇が、闇が……!」
「ロクサーナ!」
「あぁあ、あっ……! 厭じゃ……厭じゃ、トビー――!!」
空が割れるような悲鳴だった。
その悲鳴は闇の中で炸裂し、おぞましい叫びへと変貌し、膨れ上がり、爆発し、瞬く間にすべてを吹き飛ばす。
塔が崩れる音がした。すべてが黒い竜巻に巻き上げられて宙を舞い、トビアスの体も浮き上がった。
手枷が砕け、ようやく両手に自由が戻る。
しかしその手を伸ばした先に、ロクサーナはもういない。
「ロクサーナ――」
叫んだ声は、闇に呑まれた。
黒い異形の咆吼が、月のない空に轟き渡った。




