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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅳ
16/19

ルエダ・デラ・ラソ列侯国――主都ウニコルニオ1

 ジャックが告げた〝特急便〟というのは、黄皇国の皇子オルランドがツァンナーラ竜騎士領から呼び寄せた竜だった。


 トビアスは生まれて初めて竜という生き物を見た。

 想像を絶する巨体に二本の角、広げれば空をも覆い隠してしまえそうな翼、逞しい後肢に長い首と尾。


 光を弾く白い鱗はそれ自体が輝きを発しているかのように見え、これほど神々しい生き物を自分はこれまで見たことがない、とトビアスは絶句した。

 竜は人間とは違い、神々が自らの手で生み出した生き物だと言うが、その伝説にも今なら手放しで頷ける。


 その竜の背に乗せられて、トビアスたちは何ヵ月もかけて旅した地上の道をわずか数日で飛び越えた。

 ジャックがこれを〝特急便〟と呼んだのにも納得だ。空を行く竜の速さは馬などの比ではない。


 しかし竜騎士の協力を得られたのは、ルエダ・デラ・ラソ列侯国とシャムシール砂王国の国境までだった。

 ツァンナーラ竜騎士領がトラモント黄皇国と縁の深い土地であることは、世界中の誰もが知っている。


 その竜騎士領にしか存在しないはずの竜が列侯国に姿を現したとなれば、黄皇国が列侯国に干渉しようとしていることは瞬く間に知れ渡るだろう。

 砂王国と手を組んだ列侯国にとって、黄皇国は紛れもない敵国だ。その黄皇国の人間が横から口を出したところで、列侯国の人間には自国を混乱させるための謀略だとしか思われない。


 だから黄皇国とは縁もゆかりもないトビアスたちが選ばれた。

 幸いなことにトビアスには宣教師というもっともらしい肩書きがある。そのトビアスが列侯国の各地を巡り、こう喧伝するのだ。国は民を救済するふりをして砂王国に奴隷として売り渡している、と。


 そしてその噂をジャックら黄皇国の手の者が、行商人や旅芸人に扮して更にあちこちへと広めていく。もちろん彼らも自らの出身が黄皇国であることは告げない。北や南からやってきた情報通としてまことしやかに噂を広げていくのだ。

 そういう形で列侯国の民を騙すのは気が引けたが、真実を拡散するためには仕方がない。


 とは言えその作戦に着手した当初は、なかなか噂が浸透せずに苦労した。トビアスが列侯国の外からやってきた宣教師であったために、教会の基盤となる勢力を獲得すべく、デマを流して民衆を籠絡しようとしているのだろうと疑われたのだ。


 その段になって初めて、トビアスはジャックが〝列侯国出身の証人が欲しい〟とこだわっていた理由を思い知った。

 それこそ縁もゆかりもない土地の人々に異邦人である自分の言葉を信じてもらうことは、想像以上に難しかった。


 しかし初めは難航するかに見えた作戦も、粘り強く遂行するうちに少しずつ力を持ち始めた。


 かつてトビアスから食糧を恵まれた人々が、この宣教師様が嘘をつくはずがないと声高に主張し始めたからだ。


 そこから噂が広まるのは驚くほど早かった。かつて食糧を恵まれた人々はトビアスを信じ、擁護してくれた。


 そんな彼らの想いが胸に熱く、トビアスは何度も涙しそうになった。今日まで自分がしてきたことは、何一つ無駄ではなかったのだ。そう思えた。


 およそ二ヵ月に渡る工作の末、人々はようやく国の実態を疑い始めた。

 それと同時に、金と食糧を求める難民の数はがくんと減ったようだ。代わりに各地の主な都市には、国に説明を求める群衆が殺到し始めている。


「ここまで来れば国ももう誤魔化しきれんじゃろ。真実が明るみに出れば民は北や南へ流れる。トラモント黄皇国も、積極的に列侯国からの難民を受け入れるという政策を打ち出しておるようじゃしの。ここまで苦労した甲斐があったというもんでおじゃる」


 ロクサーナが満足げにそう言ったのは、列侯国と砂王国との国境に位置するトレランシア侯領、その主都ウニコルニオでのことだった。


 ウニコルニオは四方を城壁によって囲まれた石造りの街だ。現在この街には列侯国の王がいる。現トレランシア領主のラビア侯という人物が、数年前の〝モネダ・デ・オロ〟で国の王に選ばれたからだ。


 街には各地から噂を聞いて集まった民衆が溢れ、侯主の居館でもある市庁舎前で抗議の声を上げている。


「他の都市では、今回の件の詳細は王であるラビア侯が知っているから、事情はそちらで聞けと言って厄介払いをしているところもあるようですね」

「困ったときには他領の人間に責任を押しつける。これも列侯国の伝統芸じゃき。こうなると王も形なしでおじゃるの。この国の諸侯は自らが王となるために、年月を懸けて様々な根回しをすると言うけんじょ」


 それがこの有り様では浮かばれまい、と言いたげに、酒場の軒先から街の様子を眺めたロクサーナが肩を竦めた。


 トビアスとロクサーナは現在、市庁舎へと続く目抜き通りで街の様子を観察している。そこにある一軒の酒場を、ジャックが合流場所として指定してきたからだ。


 ジャックとは列侯国に入った当初から、会っては別れ、会っては別れを繰り返していた。と言うのも噂の発端である宣教師と、その噂をもっともらしく広めている冒険商人が行動を共にしていたのでは、さすがに怪しまれるだろうと判断したためだ。


 ゆえに顔を会わせるのは数日に一度だけと決めて、それもその都度会う場所と時刻を変えていた。


 合流場所はいつもジャックが一方的に指定してくる。それをジャックの仲間が代わる代わるトビアスへ伝えにくるのだ。

 彼らがどうやってトビアスの居場所を把握しているのかは知らないが、その方法が何にせよ、トラモント黄皇国の情報網は侮れない。


「王は国民にきちんと真実を話すつもりでいるんでしょうか?」

「さあの。今は館に引き籠っておると言うし、もしかしたら裏でウニコルニオを脱出する算段でも立てておるのやもしれん」

「そんなことが許される状況じゃないでしょう。これまで散々国民を欺いておいて、それがバレたら遁走するだなんて、王にあるまじき行為ですよ」

「じゃけんじょ列侯国の王は何かあると、自分を王に選んだのは諸侯じゃと主張したがるからのう。あるいは今回も――」

「――た、大変だ、大変だー!」


 そのとき、酒に手をつけたロクサーナの言葉を遮って、辺りに切迫した声が響いた。


 何事かと目をやると、一人の若者が酒場へ飛び込んでくる。店長、と叫びながらまっしぐらにカウンターまで駆けていったところを見ると、どうやらこの店の関係者らしい。


「どうした、騒々しい」

「た、大変なんです! 店長のお宅の近くで死人しびとが暴れてるんですよ! ありゃ噂の屍霊使いカニバルが出たに違ぇねえ! 早く行かねえと奥方が!」

「何!?」


 この店の店主と思しい男が驚愕の声を上げるのと、ロクサーナが打たれたように立ち上がるのが同時だった。


 その拍子に倒れそうになったカップをトビアスが慌てて支えるうちに、ロクサーナは店主のところまで一目散に飛んでいってしまう。


「もし、店主のお宅というのは何処いずこにあるのきゃえ?」

「な、何だあんたは? 悪いが今はそれどころじゃ――」

「――いいから早う教えんしゃい!」


 鬼気迫るロクサーナの怒号は、大柄な店主をも怯ませた。トビアスを始め、周囲の客もまたぎょっとしたようにロクサーナを見やっている。


「お、オレの家なら、北通りの西にある居住区の方だが……」

「あ、ろ、ロクサーナ!」


 必要な情報を得るとあとは何も言わず、ロクサーナは脱兎のごとく駆け出した。それを見たトビアスも大慌てで席を立ち、宣教鞄を背負ってあとを追う。


 時刻はまだ昼前という、空も明るい時間だった。


 こんな時間に何故屍霊使いカニバルが。彼らが操る闇の力というのは往々にして日のあるうちは弱体化する。

 ゆえに邪術師が活動するのは夜と相場が決まっているのだ。それがこんな真昼に姿を現すというのは、おかしい。


 そもそも列侯国で以前から噂になっていた屍霊使いカニバルは、確か砂王国へ渡ったと言われていたのではなかったか。だから自分とロクサーナは危険を押してシェイタンまで足を運んだのだ。

 結局そこでは情報を仕入れる前に別の騒ぎに巻き込まれてしまったわけだが、おかげでトビアスも屍霊使いカニバルのことなど完全に失念していた。


「ロクサーナ!」


 いくら呼びかけても止まろうとしないロクサーナを、トビアスは必死で追いかけた。


 この街にも過去に何度か来たことがあるというロクサーナとは違い、トビアスには土地勘がない。ここで彼女を見失えば追いつくのは一苦労だ。


 それにしても鞄が重い、捨てていこうか、しかし中には聖典が、と目まぐるしく葛藤しているうちに、トビアスは恐慌して逃げてくる人々と擦れ違うようになった。


 現場が近い証拠だ。

 その予想に違わず、トビアスは前方からまとまった人数が殺到してくるのを認めた。

 前を走っていたロクサーナの後ろ姿が、瞬く間に人波に呑まれて見えなくなる。


「逃げろ! 死人が、死人が出たぞ!」


 誰にともなく叫んだ群衆が、洪水のような勢いでトビアスの両脇を駆け抜けた。

 トビアスはそれに危うく押し流されそうになり、しかし必死に踏み留まって人波を抜ける。


「ロクサーナ!」


 駆け去った群衆の背後には、更に第二波が続いていた。今度は人数もまばらだが、皆血相を変えて走ってくるのは同じだ。


 その流れに逆らい進んでもロクサーナの姿は見えない。見失った。


 だがあの星色の髪が目立たないわけがないと思い、立ち止まって辺りを見回したところで、トビアスは見た。


 逃げ惑う人々の後ろから、血と錆で変色した武器を振り翳してやってくる異形の者たち。

 形こそ辛うじて人のそれを保っているものの肉は腐り落ち、あるいは骨のみになり、耳を塞ぎたくなるような奇声を上げて押し寄せる化け物。


 間違いなく死人だった。

 それが三人、四人と次々に街角から現れ、白昼堂々無差別に武器を振り回している。


 背後から襲われた青年が斬られ、倒れたところに死人が覆い被さった。


 青年の濁った悲鳴と肉を食らう音が、同時に耳を掻き回す。


「あ! あ、あんた、その格好、聖職者だろ!?」


 そのとき、恐怖で顔をぐしゃぐしゃにして逃げてきた一人が、トビアスを見るや声を上げた。それにつられて足を止めた者たちもいる。


 聖職者様だ、という声があちこちで上がった。

 闇の力に抗するのは聖なる力、聖職者とはその力の象徴というのが世間一般の認識だ。


 ――これはまずい、とトビアスが直感した直後だった。


 案の定最初に声を上げた男が、ものすごい剣幕でトビアスの腕を掴んでくる。


「あんた、聖職者なら早くあいつらを何とかしてくれ! このままじゃ食われちまう!」

「ちょ、ちょっと待って下さい、私は――うわっ!」


 聞く耳を持たず、男は力任せにトビアスを死人の方へ突き出した。あまりにもすさまじい力で突き飛ばされたトビアスは、たたらを踏みながらも何とか転倒を回避する。


 だが顔を上げた途端、「ひいっ」と自分でも情けなくなるような声が出た。


 目の前に、右目が眼窩からぶら下がった死人がいる。


 顔も半分潰れ、頭蓋が剥き出しになった化け物だった。思わず吐き気を催すより早く、その化け物が手にした剣を振り上げる。


 ――斬られる、神術を、早く!


 頭の中を一瞬の思考が駆け抜けた。

 しかし恐怖で凍りついた体は言うことを聞かない。


「トビー!」


 刃が風を切る音を聞くと同時に、後ろから腕を引っ張られた。


 おかげで足から力が抜け、トビアスはその場に素っ転ぶ。転んだ瞬間、盛大な物音と共に背中が軽くなるのを感じた。死人の振るった剣が肩口を掠め、鞄の背負い革を切り裂いたのだ。


 加えて体勢を崩した拍子にもう片方の背負い革もするりと抜け、鞄は地面に落下して景気良く中身をぶちまけた。どうやら石畳に叩きつけられた衝撃で留め金が外れたらしい。

 が、そんなことなどどうでもよくなるくらいの勢いでトビアスも地面を転がり、華麗に後転を二回決めたところでようやく止まる。


「い、いたたた……ロクサーナ、どうせ助けてくれるならもっと優しく……」

「贅沢を言うでにゃー! これ、借りるぞえ。そもじは早う逃げんしゃい!」

「えっ……ま、待って下さい、ロクサーナ!」


 どこからともなく助けに現れたかと思えば、ロクサーナは路上に散らばったトビアスの荷の中から素早く銀の短剣を取って立ち上がった。


 銀とは聖なる金属、その性質は悪しきものを祓う。それが短剣ともなれば魔物には効果絶大だ。

 だからトビアスも旅立つ際にそれを持たされたのだが、ロクサーナがそれを持って駆け出したとあれば肝を潰すしかない。


「ロクサーナ!」


 トビアスの制止を振り切り、ロクサーナは短剣一本で死人の群へと突撃した。危ういところで剣の一撃を躱し、死人の腹に刃を突き立てる。


 刺された傷から光が漏れ、絶叫した死人が見る間に灰となって飛び散った。

 それを見た他の死人たちは怯むどころかロクサーナを敵と認識したようで、肉を喰らうのもやめて彼女へと殺到していく。


「だ、誰か火を! 死人は火に弱いんです、火を集めて下さい!」


 その死人の群とロクサーナが戦う姿を目の当たりにして、トビアスは思わず声を上げた。

 辺りには足を止めて目の前の光景を眺めている者たちがいたが、皆この事態に動転しているのかトビアスの呼びかけにも反応がない。


 トビアスは舌打ちして萎えた足腰を立たせ、すぐ傍に転がっていたとある小瓶を手に取った。


 オラーン豆の油漬けだ。

 ついでに宣教鞄の内側にある小さな引き出しから火打ち石を掴み出し、すぐそこに見えた路地へと駆け込んでいく。


 そこには少量の薪が積まれていた。薪は民家の勝手口の傍にあり、台所で暖炉に焼べるためのものだろうと思えた。

 トビアスは束にされたその薪に瓶の中身を豆ごとぶちまけ、食糧を粗末にしたことを神に詫びながら火打ち石を打った。焦りで何度も手元が狂ったが、やがて薪を束ねた藁縄に火が移り、瞬く間に燃え上がる。


 トビアスはその中から火の点いたものを二本引き抜き、両手に持って死人の群へと吶喊した。

 ロクサーナに斬りかかっていた死人の一人を燃やし、更に襲いかかってきた一人を薪で殴りつけ、無我夢中で暴れ回る。


 そのうちそんなトビアスの姿を見て我に返った人々が、同じく火の点いた薪を拾って参戦してきた。

 向かってくる死人へ次々に火を放ち、ロクサーナもまた短剣で応戦し、死人の群を圧倒する。


 やがて熱くて薪を持てなくなる頃には、死人のほとんどが燃えるか灰になるかしていた。


 最後に残った一人をロクサーナが鮮やかに仕留め、灰にならなかった衣服や武器だけが音を立てて地面に落ちる。


「や……やったぞ! おれたちだけで死人を追い払ってやった!」


 勝利した人々の歓呼の声が、通り中に谺した。

 そこでトビアスもようやく死人がいなくなったことを認め、深い安堵の息をつく。


 息をつくと同時に腰が抜けた。

 近くに燃える薪と死人の死体があったが、這って距離を取ることもできない。


「おい、聖職者さん、大丈夫か? しっかりしてくれ」

「どこの教会の人だか知らないが、あんたのおかげでやつらを倒せたんだ。礼を言うよ」

「は、はあ……皆さん、ご無事で何よりです……」


 すっかり息の上がったトビアスは、周囲の呼びかけにもそう応じるだけで精一杯だった。

 そのトビアスを含め、薪を持って戦った者は皆すっかり煤まみれになってしまっているが、幸い死者や重篤な怪我人は出なかったようだ。


 次いでトビアスはロクサーナへ目をやったが、彼女も怪我をした様子はなかった。


 ただ、その目は足元で燃える死人へと注がれている。まるでそこから何かの気配を感じ取ろうとしているかのようだ。


「あの、ロクサーナ――」

「――あっ! あそこ!」


 そのとき、呼びかけようとしたトビアスの声を遮って誰かが叫んだ。


 何事かと振り向けば、背後にできた人垣の中に、とある路地を指差す人影が見える。


「今、あそこに誰かいた! こっちを見て逃げたよ!」

「何? まさか屍霊使いカニバルか!?」


 ざわりと群衆がどよめき、トビアスもとっさに問題の路地を顧みた。両脇を民家に挟まれた細い道で、既に人の気配はない。


 だが直前まで誰かいたと言うのなら、それが屍霊使いカニバルである可能性は高かった。


 死人を操るためには屍霊使いカニバルもある程度近くにいなくてはならない。だとしたらトビアスたちが死人と戦っている間、屍霊使いカニバルも付近で様子を窺っていたとしてもおかしくはない――


 トビアスがそう判断した瞬間、地を蹴ったロクサーナが飛ぶように路地へと駆け込んでいく。


「ロクサーナ!」


 いくら短剣を所持しているとは言え、彼女を一人で行かせるわけにはいかない。トビアスはようやく力を取り戻しつつある足腰を奮い立たせ、立ち上がろうとした。


 が、次の瞬間、突然背後から腕を引かれて尻餅をつく。「いたっ」と思わず悲鳴を上げたのには、地面に尻を打ちつけた以外にも理由があった。


 引かれた左の上膊に、鋭い痛みが走ったのだ。

 見ればローブの袖が切れ、その下から傷が覗いている。


「大変! 修道士さま、血が出てるよ!」


 そう言って気遣わしげにトビアスの傷を覗き込んだのは、やけに小柄な人影だった。どうやらトビアスの腕を引いたのもこの人物らしい。


 暗色のケープを頭から目深に被っており、トビアスの位置からは顔が見えなかった。


 ただ体格と声色からして少年だろうと見当がつく。その少年に指摘されるまで、トビアスは自分が怪我をしていることにも気づかなかった。とは言えそれほど深い傷ではなさそうだ。


「早く手当てしなくちゃ。ボクの家、すぐそこなんだ。来て、ちゃんと傷薬もあるから」

「い、いえ、今はそのお気持ちだけで結構。それよりも連れを追わないと……」

「ダメだよ! だって死人の剣で斬られたんだよ? ほっといたらすぐに膿んで、大変なことになっちゃうよ!」

「ありがとう。でも、この程度の傷なら自分で癒せます。今は私より他の負傷者を――」

「――トビー、無事か!?」


 と、ときに響いた聞き覚えのある声に、トビアスははっと顔を上げた。


 振り向いた先から、人垣を割って一人の剣士が駆けてくる。

 ジャックだ。


「ジャック! よくここが分かりましたね」

「酒場に行ったら死人が出たって大騒ぎだったもんでな。お前らのことだからまた首を突っ込んでるんじゃねえかと思って来てみりゃ案の定だ。ロクサーナはどうした?」

「それが、屍霊使いカニバルを追って一人で走っていってしまって……」

「何? 馬鹿言うな、屍霊使いカニバルなんて化け物に女が一人で立ち向かえると思ってんのか? お前らに何かあったら俺の首が飛ぶんだ、どっちに行った!?」

「え、ええと、あそこの路地に……」


 と、ロクサーナが消えた路地を指差したところで、トビアスはふと異変に気がついた。


 先程まで見知らぬ少年に掴まれていたはずの左腕が軽い。見れば少年はいつの間にか姿を消していた。

 傷の手当てを断ったので、他の負傷者のところへ行ったのかと思えばそうでもない。辺りには未だ死人と戦った人々が留まっていたが、その間に少年の姿を見つけることはできなかった。


「あ、あれ……さっきの子は……」

「あ? 誰のことだ? それより今はロクサーナだろ、確かにあの路地に入ったんだな?」

「は、はい、間違いありません。追いかけましょう」


 消えた少年と通りにぶちまけた荷物のことは気になったが、今はかかずらっていられなかった。トビアスは残った人々に消火を任せ、ジャックと共に路地へ入る。


 その頃にはすっかりロクサーナを見失っていたが、石畳に落ちた黒い血痕が彼女の向かった先を示していた。


 魔物の血は黒いのだ。恐らくロクサーナが死人を斬ったときについた血が、短剣を伝って路上へ落ちたに違いない。


 そのわずかな痕跡を辿り、トビアスとジャックは複雑に入り組んだ路地を駆けた。雑然としながらもどこか生活感のある街並みは、途中からうらぶれた古い景色に変わる。


 どうやらそこは旧市街のようだった。

 今は貧民が暮らす街となっているが、中には長い間修繕されず崩れかかった建物もある。


「ここだ」


 ほどなくジャックが手をかけたのは、そうした廃墟の一つだった。


 すっかり変色した木の扉の前に数滴の黒い血痕がある。


 ここに屍霊使いカニバルとロクサーナが。一抹の緊張を覚えながら、トビアスは額に浮かんだ汗を拭った。


 ジャックは涼しい顔をしているが、トビアスは慣れない戦闘のあとということもあってくたくただ。しかし休んでいる暇はない。


「入るぞ」


 短く言い、ジャックがさりげなく剣を抜きながら扉を潜った。トビアスも覚悟を決めてあとに続く。


 建物の中には異様な静寂が満ちていた。

 広さからして元は民家だったのだろうが、今は卓の一つも置かれていない。ジャックと自分の足音だけがやけに響く。


「二階だな」

「分かるんですか?」

「人の気配がする。こっちだ」


 言うが早いか、ジャックはまっすぐに階段へ向かった。

 トビアスは危うく置いていかれそうになり、急いでそのあとを追う。


「ロクサーナ!」


 やがてジャックが音もなく体を滑り込ませた部屋に、ロクサーナはいた。

 ボロボロの羊皮紙が張られた窓の下で、ぺたりと座り込んでいる。


 その後ろ姿を見つけトビアスが駆け寄ると、ロクサーナも緩慢な動きでこちらを振り向いてきた。

 彼女のすぐ傍には短剣が落ち、更に小さな灰の山が目に入る。


「トビー……」

「ロクサーナ、怪我はありませんか? 屍霊使いカニバルは?」


 傍らに膝をつきながらトビアスが尋ねると、ロクサーナはゆるゆると首を振った。


 それはどちらの問いに対する答えなのかとトビアスは判断しかねたが、ほどなくロクサーナの視線は灰の山へ向く。


屍霊使いカニバルはおらんかった。逃げたのはただの死人でおじゃった」

「死人? それじゃあ……」

「まんまと一杯喰わされたってわけだな。俺らがこっちに気を取られてる隙に、当の屍霊使いカニバルは悠々と退散したってところか」

「――違う」

「え?」

「これはわーに対する宣戦布告じゃ。逃げた死人が消える前にこう言った。〝やっと見つけた、今度こそ決着をつけよう〟と」

「決着?」


 一体何のことだと言いたげにジャックが片眉を上げた。


 しかしトビアスは知っている。ロクサーナは長年この屍霊使いカニバルを追ってきたのだ。


 だが屍霊使いカニバルもまたロクサーナに対して〝見つけた〟と告げた。


 ――それはつまり、相手もロクサーナを探していたということではないか?


「……トビー」

「な、何です?」

「この短剣はそもじに返す。じゃから早うこの街を去りんしゃい」

「え? い、いきなり何を……」

「どうやらわーは誘き出されたようでおじゃる。やつは敢えて自らの居場所が分かるような噂を流し、わーが弱みを連れてやってくるのを待っとったらしい。これ以上わーと共におるのは危険じゃ。それにそもじには、列侯国の民を救うという使命もあることじゃしの」


 言って、ロクサーナはゆっくりと立ち上がった。トビアスはそれを茫然と見上げることしかできない。


 今のロクサーナの話が事実なら、トビアスらが以前ジャックから聞いた噂は二人を列侯国の東へ誘い出すためのものだったということか。

 だとすれば屍霊使いカニバルはそこで物陰に身を潜め、ロクサーナの動向を探ろうとしていたに違いない。


 そして今トビアスたちがいるこの場所は、列侯国の東に位置する主都ウニコルニオだった。

 ここへ来た本来の目的はまるで別だが、屍霊使いカニバルにとってはロクサーナが噂に釣られ、のこのこと現れたように見えたに違いない。


「ま、待って下さい、ロクサーナ。だけど相手は屍霊使いカニバルですよ? その屍霊使いカニバルに狙われているあなたを、ここで一人にするわけには……」

「わーは元々やつとは一人で決着をつけるつもりでおったき。だいたいそもじは殺生を禁じられておるのでおじゃろ。死人は魔物じゃから良いとしても、屍霊使いカニバルは人間でおじゃる。その屍霊使いカニバルを殺すのをそもじに手伝えとは言えん」

「で、ですが……!」


 この状況でロクサーナを一人にできるわけがない。そう思いながらトビアスは勢い込んで立ち上がった。


 しかし対するロクサーナはトビアスに短い一瞥を向けただけだ。

 それきり興味を失ったように背を向けると、あとはジャックへ向き直って言う。


「そういうわけでおじゃる、ジャック。わーがそもじらの事情に付き合えるのはここまでじゃ。あとのことはそもじとトビーに託す」

「ま、待って下さい、ロクサーナ! 私は――」


 と、トビアスが言いかけたときだった。


 突然、一階から扉を蹴破るような音が響く。次いでどたどたと慌ただしい足音が聞こえた。

 それも一つや二つではない。足音に紛れて聞こえる金属音は鎧のものだろうか。


 それが階段を駆け上がってくる気配を感じ、トビアスは思わず息を飲んだ。


 死人か。ジャックも同じことを考えたらしく、ロクサーナを下がらせながら自身もドアから距離を取る。


 ところがやがてその向こうから現れたのは、


「――いたぞ! ……こいつらが例の奸賊か?」


 やけに高く尖った白い兜に、お仕着せの鎧。加えて手に手に矛を携えたその集団は、この街の衛兵だった。


 トビアスにそれを確信させたのは、彼らが鎧の上に着込んだ赤のサーコートだ。

 その胸部には盾の中心で前脚を躍らせる一角馬ユニコーンの紋章が描かれている。同じものをこの街でも見た。――トレランシア侯国の国章だ。


「いや、間違いない。若い修道士に銀髪の女。通報にあったとおりだ。一人多いが……」

「さては護衛でも雇っていたんだろう。おい、貴様ら。我らは誉れ高き侯王カルヴァンの兵である。近頃巷に偽りの噂を流し、民を煽動しているというのは貴様らだな。我らが王の命により、貴様らを偽計及び騒擾の罪で逮捕する。大人しく縛に就け」

「な、何ですって?」


 あまりにも唐突な展開に上擦った声が出た。


 確かに噂をばら撒いたのはトビアスたちだが偽計とはどういうことか。噂が真実であることは、誰よりも王がよく知っているはずだ。


「ま、待って下さい。私たちは――」

「言い訳は城館やかたで聞く。お前たち、この者共を捕らえよ!」

「はっ!」

「こいつはやべえ……! おいトビー、ロクサーナ、逃げるぞ!」

「えっ、だ、だけど、逃げるってどこへ……!」

「こっちだ、ついてこい!」


 出口は衛兵たちに塞がれている。ならば逃げ場などないではないか、と思ったトビアスの横を、刹那、ジャックが駆け抜けた。


 木の裂けるすさまじい音を立て、そのまま窓から飛び出していく。待て、ここは二階だと言う前に、ジャックの姿は見えなくなった。


 慌てて窓から身を乗り出せば、彼は砕けた窓枠と共に地面を転がって着地している。そこから立ち上がるまでの動きの鮮やかさと言ったら、まるで野生の獣のようだ。


「来い! 俺が下で受け止めてやる!」


 確かにこれで脱出口は確保された。しかしここから飛び降りるには相当の勇気が要る。


 あんな動きができるのはジャックが訓練された人間だからであって、自分には無理だとトビアスは頭を抱えた。

 が、その間も衛兵たちは待ってはくれない。


「ええい、逃がすな! 捕らえろ!」


 ジャックの逃亡に焦った衛兵が、矛を構えて向かってきた。その矛が真っ先にロクサーナへ迫ったのを見たトビアスは、はっとして飛び出している。


「ロクサーナ!」


 逃げ遅れた彼女の腕を引き、トビアスは右手に意識を走らせた。光刻(グリーム・エンブレム)が光を放ち、二人と衛兵の間に壁を作る。


 その壁に当たった矛が弾かれ、衛兵の手中から吹き飛んだ。矛を奪われた衛兵は右手を押さえ、驚きに目を剥いている。


「ぐっ……! な、何だこれは!?」

「ロクサーナ、あなたから先に飛び降りて下さい。私もすぐ行きますから!」

「じゃけんじょ、トビー――」

「いいから早く!」


 今はとにかくロクサーナを逃がさなくては。トビアスの頭にはそれしかなかった。

 神術の壁で衛兵たちの行く手を遮りつつ、ロクサーナの背中を押す。それでロクサーナもようやく決心がついたようだ。


「くそっ、神術か。ならばこちらも……!」


 そんな声が聞こえたのは、トビアスがロクサーナの脱出を確認した直後だった。


 彼女は無事に着地できたのだろうか。それを確認に走る暇もない。


 衛兵の一人が、こちらに右手を翳したのが見えた。閃光が迸る。その閃光が瞬く間に炎と化して押し寄せた。


 ――火刻フレイム・エンブレムだ。


「う、わっ……!」


 炎をまとった猪が、正面から激突してきたような衝撃だった。

 光の壁が受けたその衝撃はトビアスにも直接響き、両手がビリビリと振動する。


 支えきれない。


「トビー!」


 窓の外から呼び声がした。

 しかしトビアスは、それに応えることができなかった。


 二発、三発、四発と、衛兵の放つ神術が矢継ぎ早に襲ってくる。その攻撃に押され、トビアスの体は徐々に後退する。


 逃げなくては。思ったときには、既に意識が朦朧としていた。


 神術が切れる。予感は確信へと変わり、トビアスは残った力で何とか両足を踏ん張った。


 だができたのはそこまでだ。

 この状態で素早く身を翻し、衛兵の追撃を躱して窓から飛び出すなどという芸当が、自分にできるわけがない。


「逃げて下さい、ロクサーナ――」


 その声がロクサーナに届いたかどうかは分からなかった。

 次の瞬間、更に威力を増した炎の神術が轟音と共に襲いかかってくる。


 光の壁がそれを受け止め、砕けた。

 爆発と術を破られた反動とが同時に炸裂し、トビアスの体はいとも容易く吹き飛んだ。


 背中にすさまじい衝撃が走り、意識が遠のく。


 最後にもう一度だけ、自分を呼ぶロクサーナの声が聞こえた気がした。


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