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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅲ
13/19

シャムシール砂王国――砂都シェイタン4

 アズラサ、と書かれた看板を最初に見つけたのはトビアスだった。


 酒場の入り口に吊られた木製のそれはもうほとんど色が剥げ、店名も消えかかっている。


 それでも物陰から目を凝らし、きっとあの店に違いないとトビアスは告げた。


 シェイタンの一角にある酒場街は昼間でも繁盛している。おかげで酔っ払った凶漢共がまたあちこちで啀み合い、何もかもめちゃくちゃにして暴れている気配があったが、それがこの街の日常なのだろうとトビアスは諦めた。


 二人は物陰から物陰へと移動し、慎重に問題の酒場へと近づいていく。砂王の手先による追跡はまだ続いていた。それを掻い潜ってここまでやってくるのは一苦労だった。


 しかし途中で一旦死体通りへ戻り、そこで死体から衣類を拝借したのが功を奏したようだ。おかげでトビアスたちは敵の追跡を格段に撒きやすくなり、こうして無事目的地へ辿り着くことができた。代わりに気が滅入りそうなほどの死臭をまとう羽目にはなったが。


「本当にここでいいんですよね……」

「マルシオの話が確かならの。今は他にあてがにゃー。覚悟を決めるしかなかろうもん」


 こういうとき、男である自分よりロクサーナの方がよっぽど肝が据わっていることが、トビアスには少し複雑だった。

 自分も旅を続ければ、いつかはこんな胆力を身につけることができるのだろうか。……無理な気がする。


「そ、それじゃあ……行きますよ」


 酒場の裏口に立ち、自分を奮い立たせるつもりでトビアスが言うと、隣でロクサーナが頷いた。

 それを横目に見たトビアスは意を決し、拳を作って裏口のドアをノックする。


「あの、すみませ――」


 ん、と、みなまで言い切ることができなかった。途中で勢いよくドアが開き、トビアスは何かすさまじい力でその向こうへ引きずり込まれた。


 何が起こったのかはさっぱり分からない。気づけばトビアスは仰向けに倒れ込んでいて、その上に女が跨がっている。


 辺りは薄暗く、女の顔もよく見えなかった。

 ただ一つだけはっきりと理解できたのは、トビアスの首に何か冷たくて恐ろしいものが当てられているということだけだ。


「名を名乗れ」

「へっ?」

「名を名乗れと言ってるのよ」


 思考が状況に追いつかず、全身を強張らせるしかないトビアスに、女が殺気立った声を上げた。

 それと同時に首筋へ細い痛みが走り、命の危険を感じたトビアスはたちまち恐怖の渦へと突き落とされる。


「ひ、ひいっ……! とととトビアスです、私の名前はトビアスです!」

「トビアス? そんな名前の人間が来るとは聞いてない。さては砂王の手先か!」

「ちっ、ちがっ、違います、誤解です! わ、私は光神真教会所属の宣教師で……!」

「宣教師?」


 何故こんな所に宣教師がいるのかと言いたげに、女が片眉を上げたのが分かった。


 それに合わせて女が刃物を押しつけていた力が弱まり、トビアスがほっとしたのも束の間、今度はドンドンと騒がしい音が足の方から聞こえてくる。


「トビー! トビー、大丈夫きゃえ!? 誰ぞ、ここを開けんしゃい!」


 ロクサーナの声だった。くぐもって聞こえるのはドア一枚隔てているせいだろうか。


 どうやらロクサーナはトビアスが中へ引きずり込まれた際、一人だけ外に取り残されたようだった。しかしドアには何やらしかけが施されているらしく、外からは開けられない仕様になっているようだ。


「ブルーノ」


 と、ときに女が如才なくトビアスを押さえつけたまま、奥の闇に向かって顎をしゃくった。


 するとそこからぬっと現れた禿頭の男がいる。背丈は天井に迫るほど高く、体中を無駄のない筋肉に覆われた大男だ。


 ブルーノという名前らしい大男は無言でドアに歩み寄ると、何の苦もなくそれを開けてみせた。


 途端にその向こうから体勢を崩したロクサーナが転がり込んでくる。どうやら助走をつけて体当たりしようとした矢先に、ブルーノがドアを開けたようだ。


「……こいつら、ひでえ臭いだ」


 と言ったのは、ロクサーナが文字どおり転がり込んできたのを見てドアを閉じたブルーノだった。

 一方のロクサーナは転んだ拍子に顔面を打ったらしく、俯いて顔を覆っている。よほど痛かったらしい。


「だ、大丈夫ですか、ロクサーナ?」

「うん……たぶん……」

「あんたたち、一体何者なの? 見たところ奴隷じゃないようだけど」


 未だトビアスの上に跨がったままの女が、警戒するような口調で尋ねた。やはり顔はよく見えないが、声の調子からして若い。二十代後半くらいだろうか。髪は赤毛で、緩やかに波打つそれを一つに結い上げている。


「そう言うそもじこそ何者きゃえ? 人にものを尋ねたかったら、まずはその物騒なものを収うのが先じゃにゃーのけ」

「ろ、ロクサーナ……」


 何故この状況で彼女の方が偉そうなのか。命を握られているのは自分なのだからもう少し穏便に交渉して欲しい。

 身動きの取れないトビアスが冷や汗と共にそう願った――そのときだ。


「おい、エルマ、ブルーノ。来たか?」


 聞き覚えのある声がした。いつの間にか自分にとって馴染みの深い声になってしまっているそれを聞き、トビアスは目を見開いた。


 先刻ブルーノが現れた通路の先から、新たな人影がやってくる。

 火の灯った手燭を持ち、砂王国に似つかわしくない清潔な服装で現れたのは――自称冒険商人の、ジャックだ。


「じゃ……ジャック!?」

「あ? ジャック? ……ってお前、トビアスか? そっちにいるのは……」

「ロクサーナでおじゃる。お互い命はあったようじゃの」


 座り込んだままのロクサーナが答えると、これにはジャックの方が唖然としてみせた。


 何故ここにジャックがいるのか、あれから船に乗ったのか、この者たちは一体誰なのか。トビアスも尋ねたいことは山ほどあったが驚きすぎて声が出ない。


「ロベルト、知り合いなの?」


 そのとき、声を上げたのはエルマと呼ばれた女だった。

 彼女が〝ロベルト〟と呼んで見上げた先にはジャックがいる。


「ロベルト?」

「あ、あー、まあ、何だ、その、知り合いっつーか何つーか、列侯国にいる間に二回ほど顔を会わせたことがあってな。とりあえずこいつらは敵じゃねえ、放してやれ」


 ジャックが若干ばつが悪そうに頭を掻きながら言うと、半信半疑といった様子でエルマがトビアスから離れた。ようやく解放されたトビアスは心の底から安堵して起き上がり、改めてジャックを顧みる。


「ジャック、どうしてあなたがこんなところにいるんです? 確かあなたは、アルマセンから出る船の行き先を確かめるって……」

「ああ、そいつを確かめたからここにいるんだよ。まんまと奴隷として砂王国に売られちまってな。そういうお前らは? どうしてこの場所が分かった?」

「私たちは街で、城から逃げ出してきたマルシオという人に会ったんです。その人がここへ逃げ込めと……何でも彼を助けてくれたハコボとかいう人がそう言っていたんだとか」

「そうか。で、そのマルシオはどうした?」

「彼は、追っ手から逃げる途中で……命を落としました。だから代わりに私たちが」

「何? くそっ……あいつも駄目だったのかよ。これじゃあほぼ全滅じゃねえか」


 苦々しげに言い、闇の方へ目をやったジャックが舌打ちした。それを見たエルマもまた天井を仰ぎ見て嘆息を漏らしている。


「ジャックはマルシオと知り合いだったんですか?」

「まあな。あいつは助けた連中の中で一番頭が回りそうだったから期待してたんだが……」

「助けた?」

「そうだよ。あいつを逃がしたそのハコボっての、そりゃ俺だ。俺があいつらを逃がしてこの店に来るよう手引きしたんだよ」

「は!? あ、あなたがハコボ!? だったら何でわざわざ偽名なんて使うんですか!」

「何でって、一身上の都合だよ。誰に何て名乗ろうが俺の自由だろ」

「もし、チャック」

「だから俺はチャックじゃなくてロベルトだ――……って」


 と、そこで条件反射のように言ってから、ジャックが何か気づいたようにロクサーナを見やった。


 その視線の先ではロクサーナが腕を組み、目を細めて勝ち誇ったような顔をしている。それを見たジャックは片頬を引き攣らせ、忌々しげに彼女を見やる。


「ロクサーナ……さてはお前、初めからこれを狙ってやがったな?」

「やはり偽名じゃったんじゃな。数ある名前の中で、そのロベルトというのが本名きゃえ」

「いつから気づいてたんだ?」

「最初に会うたときからずっと。〝ジャック〟というのはハノーク風の名前じゃき。じゃけんじょそもじが祖国と言ったアビエス連合国の前身は、世界で唯一ハノーク大帝国の支配を受けんかったシャマイム天帝国。じゃのに連合国出身の男子がハノーク風の名を名乗るのは妙じゃと思うての。以来そもじが尻尾を出すのを待っておったんじゃ」

「そいつは恐れ入ったよ。えらく警戒されてるとは思ってたが、まさか最初からとはな」


 どこか落胆したような声色で言い、ジャックは再び頭を掻いた。


 他方、トビアスは二人の会話についていけず、ロクサーナとジャック――いや、どうやら本名はロベルトというらしい――とを忙しなく見比べる。この二人は一体いつの間に、そんな高度な心理戦を繰り広げていたというのだろう。


「で、ロベルトとやら。そもじら、一体何者け?」

「そこまで頭が回るなら、もう察しはついてんだろ? なら余計な説明は省かせてもらう。あんまり公言していいもんでもねえんでな」

「え? え? あ、あの……私にはいまいち話が見えないんですが……」

「要するに、この男子がそもじにちょっかいを出しておったのは、北の人間と誼を通じてエレツエル神領国の情報を仕入れるためじゃったということでおじゃる。ここまで言えばそもじにも分かるじゃろ?」

「いえ、さっぱり」


 トビアスが至極正直に答えると、その場にいた全員に呆れ顔をされた。

 神は、嘘は罪だと言う。だから事実を答えたというのに、この仕打ちはあんまりではなかろうか。


「それで、これからどうするの、ロベルト? これ以上は時間の問題よ。もしかしたら脱走に失敗した人間が、この場所を砂王に漏らしたかもしれない」

「分かってる。だが、せめて一人でも証人がいねえと……」

「それならこの二人がいるわ。彼らも列侯国の裏側は理解してるんじゃないの?」

「だとしてもこいつらはルエダ人じゃねえ。この件を本気で証明したかったら、列侯国出身の生き証人がいた方がいいに決まってる」

「だが、この場所が割れて踏み込まれてからでは遅い。今は砂虹同盟の裏が探れただけでも良しとして、ひとまずこの情報を持ち帰るのが先じゃないのか?」

「それはそうだが……」

「ぐずぐずしてる暇はないわ。これ以上待つのは危険よ。ブルーノの言うとおり、まずはこの国を出ましょう。策はそれからもう一度練り直せばいいじゃない」


 どうやらジャック――と、この際だから呼び続けよう――とエルマ、ブルーノは、互いに深いところまで踏み込んだ関係のようだった。

 その二人からこもごもに説得されたジャックは、ついに「分かった」と肩を落としながら折れる。


「よし、そうと決まりゃあ脱出だ。トビアス、ロクサーナ、お前らもついてこい」

「えっ……わ、私たちもいいんですか?」

「お前らは列侯国の悪事を暴くための大事な証人だ。たとえ嫌だと言ってもついてきてもらう。エルマ、ブルーノ、手筈どおりに行くぞ。三刻後に東のオアシスで合流だ。いいな?」

「言われるまでもない」


 低い声でブルーノが言い、わずかに身を屈めるようにして歩き出した。ジャック、エルマもそれに続き、トビアスたちもついてこいと促される。


 案内されたのは、酒場の裏手にある厨房だった。

 その隅に佇む棚に隠れるようにして、人一人が入れそうなほど大きな水瓶が置かれている。


「うわあ、大きいですね」


 きっと砂漠では水が貴重だから、汲めるときに大量に汲んでおくのだろう。そう思ったトビアスが見つめた先でブルーノが蓋を開けた水瓶の中は、空だった。


 かと思えば彼はその大きな体を屈めて水瓶の中へ頭を突っ込み、底から何かを引っこ抜く。どうやらその水瓶は、底の部分が外れる仕様になっていたようだ。


 それでは水を入れた先から漏れてしまうではないか――とトビアスは思わず水瓶を覗き込んだ。


 そこには先が見えないほど深い穴が、黙然と口を開けている。


「……え? あの、これは一体……」

「脱出路だよ。ブルーノ、後は任せた。どうか太陽神シェメッシュが我らの頭上にありますように」

「ああ。太陽神シェメッシュの加護により、すべての夜が我らから遠ざからんことを」


 困惑しているトビアスを余所に、ジャックとブルーノは祈りの言葉を交わし合った。そうして最後に拳を合わせ、彼らは無言で頷き合う。


 それは何かの儀式なのだろうか。

 トビアスがぼんやりとそんなことを思った直後だった。


 ジャックが寸分の迷いも見せず、いきなり水瓶に飛び込んだ。

 それを見たトビアスがあっと声を上げた頃にはジャックは穴の中に消え、闇に呑まれて見えなくなる。


「えっ……えっ!? 脱出路ってこれ、え!?」

「それじゃあね、ブルーノ。またあとで会いましょう」


 更にエルマがブルーノと別れのキスを交わし、躊躇なく水瓶の中へと滑り込んだ。その姿もまたあっという間に見えなくなり、トビアスは愕然と穴の先の闇を見つめるしかない。


「さあ、あとはお前らだけだ。早く行け」

「は……早く行けと言われましても、これは……」


 一体どこへ続く穴なのか。というかまったく先が見えないのだが大丈夫なのか。先に行った二人の声や物音が聞こえないということは、相当深い穴なのではないか。

 そういう類の問いかけを、トビアスは視線に乗せてブルーノへと送りつけた。


 が、逞しい二の腕を組んだブルーノは、そんなトビアスを見て「ちっ」と舌打ちしただけだ。

 その強面で舌打ちされるとかなり怖い。眼力だけで殺されるのではないかと思う。


「いいからぐだぐだ言わずにさっさと行け。ロベルトたちが待ってる」

「い、いえ、ですからその前に説明を――」

「――厭じゃ!」


 と、そのとき上がった鋭い声に、トビアスは驚いて目をやった。


 そこには水瓶から大きく距離を取ったロクサーナがいる。

 そのロクサーナの顔色が、トビアスもこれまで見たことがないほどに、青い。


「わーはそんなところには入りとうにゃー! 暗いところは厭じゃ……絶対に厭じゃ!」

「ロクサーナ」


 これまで六ヶ月近く共に旅をして、ロクサーナがここまで取り乱すところを、トビアスは初めて見た。と言うより、怯えている。


 そう言えばロクサーナは、前に暗闇が嫌いだと言っていた。ペラヒームで初めて彼女と同室したとき、夜は灯りを消さないでくれと頼まれたのだ。

 そのときは灯りがないと眠れないからと軽い口調で話していたのだが、今の彼女の怯えようは尋常ではない。


「ろ、ロクサーナ、落ち着いて下さい。大丈夫、大丈夫ですから」

「何が大丈夫なもんけ! そんなところに入るくらいなら死んだ方がマシでおじゃる!」

「な、何てことを言うんですか。そんなこと、たとえ冗談でも言わないで下さい。とにかく、まずは落ち着いて――」

「――いいから」


 と、ときに背後で低い男の声がした。

 どこか殺気めいたその声に、トビアスが「え?」と振り返る暇もない。


 それよりも早く、いきなり首根っ子を掴まれ、トビアスの体が宙に浮いた。

 同時にロクサーナの両足も床を離れ、二人の体は高々と水瓶の上へ掲げられる。


「さっさと、行け!」


 聞こえたのは怒気を孕んだブルーノの声、それに答えを返すことすら許されず、トビアスの体は軽々と水瓶の中へ投げ込まれた。


 次に聞こえたものは自分の悲鳴だ。トビアスは一瞬にして闇に埋もれ、絶叫と共に穴の中を滑り落ちる。


 そう、水瓶の底はかなり急な勾配を持つ穴になっていた。トビアスの体は落下と同時に勢いをつけて滑り出し、もはや自力で止まることなどできはしない。


「ああぁあああぁぁあああぁあ……!」


 どれほどの間叫び続けただろうか。やがてトビアスの体はぽんと宙に投げ出され、べしゃりと背中から落ちる。


 またしても「ぐえっ」と潰れた声が出た。本日二度目の「ぐえっ」だ。

 そしてほどなくトビアスは、三度目のそれを上げることになる。


「ぐふっ」


 今度は先の二回より潰れ度が増した。何故なら仰向けに倒れたトビアスの上へ、少し遅れてロクサーナが降ってきたからだ。


 トビアスはまんまとその下敷きになり、あわや口から内臓が出るかという苦しみを味わった。

 背中には硬い宣教鞄を背負っているのでなおひどい。ロクサーナの分の体重まで預かり、エビ反りになった背骨がみしみしと声にならない悲鳴を上げている。


「ろ、ロクサーナ……すみませんが、下りていただけますか……」


 思えば異性にのしかかられるのも本日二度目だ。そちらについてはもしかしたら喜ぶべきなのかもしれないが、やはり諸々な意味で喜べない、とトビアスは遠のきかける意識を引き留めながら思った。


 ところが、ロクサーナが一向にどいてくれる気配がない。トビアスの背骨がそろそろまずいと限界を訴えているにもかかわらず、ロクサーナはそこから動こうとしない。


「ロクサーナ?」


 様子がおかしい。そのことにトビアスはようやく気がついた。


 なけなしの背筋に渾身の力を込めて上体を起こす。ロクサーナは俯せに倒れ、トビアスの胸元に顔を埋めていた。


 ――震えている。


「ロクサーナ」


 まるで瘧のような震えだった。ロクサーナはトビアスの服に縋りつき、壊れそうなほど全身を震わせている。


 ――暗いところは厭じゃ。つい先刻、そう叫んでいたロクサーナの声が甦った。

 二人が落ちた先には既に明かりが用意されていたが、それでもまだ薄暗い。その光は、暗闇の恐怖に震えるロクサーナには届いていないようだ。


「ロクサーナ」

「……いや……じゃ……厭じゃ……暗いところは厭じゃ……!」

「ロクサーナ、大丈夫ですよ。私がついてます。大丈夫です」


 泣いている。それを知ったトビアスはとにかくロクサーナを宥めなければと思い、背骨の痛みも忘れてロクサーナを抱き締めた。


 そうしてあやすように背中を摩ってやりながら、右手に意識を集中する。

 ――光を。ロクサーナのためにと強く念じれば、やがてそこにある光刻(グリーム・エンブレム)が輝き出し、目も眩むほどの光がトビアスの右手に宿る。


「ほら、ロクサーナ。光です。これでもう怖くない。そうでしょう?」


 まるで子供に語り聞かせるように言い、トビアスは泣いているロクサーナを覗き込んだ。

 間近で灯った光はようやく彼女に届いたのか、ロクサーナはゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた目をトビアスへと向けてくる。


「トビー……」

「ね? もう大丈夫ですよ」


 それを聞いたロクサーナが頷いたのを見て、トビアスはようやく体を起こすことができた。

 しかしロクサーナは泣き顔を見られたのが恥ずかしいのか、はたまたいきなり暗闇へ投げ込まれた恐怖がまだ癒えないのか、依然トビアスにしがみついて離れようとしない。


「おーおー、お熱いこって。こんなときまでいちゃつく余裕があるたあ、豪胆だね」


 ところがそのとき、俄然背後から聞こえた声にトビアスは飛び上がった。


 見ればそこには松明を翳してにやついたジャックが佇んでいる。奥にはエルマの姿もあるようだ。

 実を言えば、落下のショックで先に下りた二人のことなどすっかり忘れていた。


「じゃ、ジャック、違うんです! これは――ぶっ」

「はいはい、言い訳はいいからまず着替えろよ。お前ら、ほんとにひでえ臭いだぞ。そんな状態でよくいちゃつけるな」

「だからっ、これはそういうことではなくて――って……」


 語調を荒らげて抗議しかけたところで、トビアスは顔面から剥ぎ取ったそれが真新しい衣服であることに気がついた。

 ジャックが乱暴に投げて寄越したものだが、しっかり二人分用意されている。それもロクサーナの分はちゃんと女物だ。


「こ、これは……」

「ここはいざってときのために、脱出に必要なもんを片っ端から揃えた部屋だ。外には湧き水もある。着替える前にそこで体を洗った方が良さそうだな」

「わ、湧き水って……でも、出口なんてどこにあるんです?」


 ジャックが〝部屋〟と形容したそこは、確かにたくさんの荷物や卓が置かれていたが、見れば見るほど天然の洞窟だった。壁は剥き出しの岩でできており、天井からは氷柱のような岩がいくつもぶら下がっている。


 おまけにその空間は見渡す限り閉ざされていて、出口などどこにもないように見えた。

 するとトビアスたちの話を聞いていたエルマが奥から現れて、壁の一部に手をつき、言う。


「こうするのよ」


 エルマが右手に嵌めた手套の間から、土色の光が漏れた。


 瞬間、洞窟全体が鳴動したようにズンと揺れ、彼女が手をついた壁が動き出す。


「……! ま、まさか……!」


 ――地刻グラウンド・エンブレム

 大地の神アダマーの力を宿した神刻エンブレムだった。


 どうやらエルマもまた神刻エンブレム使いだったようだ。彼女が起こした奇跡によって出口を塞いでいた巨石は地中に潜り、その先へ続く通路のような洞窟が新たに姿を見せる。


「す、すごい……奥で光っているあれは何ですか?」

「夜光石だよ。ここはシェイタンの下にある天然の地下水路だ。砂王国ではここから井戸に水を引いてる。同時に天然の迷宮でもあるけどな」


 知識のない者が迷い込んだらまず二度と外へは出られない。通路の先で青白く輝く夜光石の明かりを見ながら、ジャックは淡白にそう言った。


 天然の地下水路とはよく言ったものだ。確かにエルマが開いた出口の先では、足元に水が溜まっている。

 小部屋を出てすぐの所では岩壁に小さな穴が空き、そこから水が流れ出ていた。極小の滝のようなその穴は、左右の壁のあちこちに空いている。


「とにかくお前ら、まずはそこで体を洗え。その間に俺たちはこっちで計画の最終確認をする。出口はちゃんと閉めといてやるから安心しな」

「ちょ、ちょっと待って下さい。体を洗えるのは有り難いんですが、ロクサーナと二人一緒にというのは倫理上――」

「何言ってんだ。んなもん今更気にすんなよ。デキてんだろ、お前ら」

「なっ……!! そ、そんなわけないじゃないですか! 仮にも私は修道士で……!」

「はいはい、もうね、そういう敬虔なフリした修道士は見飽きましたから。最近の修道士ってのはみんなそうだ。結局は俗欲に負けちまうんだよな。だって所詮は人間だもの」

「ジャック!!」

「それじゃ、邪魔者はこの辺で退散しますんで。どうぞごゆっくり~」


 トビアスの抗議をみなまで聞かず、ジャックはひらひらと手を振った。そこにトビアスが反論を重ねようとした刹那、素早く岩が迫り上がり、小部屋の出口を塞いでしまう。


 まんまとそこから追い出されたトビアスは、沈黙した岩を見やって唇を戦慄かせた。


 背後では、水の流れる音がする。その傍にロクサーナもいるはずだが振り返れない。


「トビー」


 ときに、ロクサーナの方から名を呼ばれた。

 途端にトビアスはぎくりとして固まったが、何やらロクサーナの声が強張っている。


「トビー、それ……」

「え? ――あっ……!」


 それ、と指差されたものを見て、トビアスも言葉を失った。

 ロクサーナが示したのは、トビアスが腰の物入れに入れていた水中花の瓶だ。


 それが、無惨に割れている。


「ど、どうして……!」


 原因は言うまでもなかった。地上から穴へ落とされたあのときに割れたのだろう。


 残ったのは割れた瓶の残骸だけで、中に入っていたはずの水中花は姿を消していた。

 慌てて辺りを探したが見つかるはずもない。恐らくは既にどこかで溶けて、跡形もなくなっているはずだ。


「やっぱり無理でおじゃったの」


 ぽつりと零れたロクサーナの呟きが、夜光石の光の間で反響した。


 そこに漂う寂しげな響きはやがて、青白い闇に呑まれて消えた。


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