シャムシール砂王国――砂都シェイタン3
〝死体通り〟に行く、と青年は言った。
何ともおぞましい通りの名だ。初め、トビアスはそう思った。
しかし読んで字のごとしとは、まさしくこういうことを言うのだろう。
青年がトビアスたちを案内したのは、文字どおり死体が散乱した道だった。その名は何かの比喩だろうと思い込んでいたトビアスは、あまりの衝撃と死臭にその場で卒倒しそうになった。
いっそ気絶してしまった方が、楽になれたに違いない。
「こ……これは……」
見渡す限り死体の山だった。間に辛うじて人一人が通れるほどの空間があるが、それを道とは呼びたくない。
この世のものとは思えぬ臭いと光景に、トビアスは通りの入り口で盛大に吐いた。
蠅と蛆と禿鷹がたかっている。中には既に骨だけになっている死体も少なくなかった。
そのほとんどは奴隷の死体だ、と青年は言う。
「この国には墓がない。だから街で出た死体はみんなここに捨てるんだ。おれも仲間の死体を何度もここへ運んだ……初めは気が狂いそうだったのに、もうすっかり慣れちまった」
暗く低い青年の声にトビアスは怖気を感じた。この国の奴隷がどんな生活を強いられているのか、嫌でもその全容が想像できてしまう。
しかし積み上げられた死体の中には、明らかに奴隷らしからぬものも混じっていた。それらは街で諍いを起こして殺された者たちのものに違いない。
この国には神がいないから、死者の魂が天界へ召されることを祈る者もいないのだろう。トビアスは繰り返し迫り上げてくる吐き気を堪えながら胸に≪六枝の燭台≫を切り、彼らの冥福をひたすらに祈った。
空へ昇って天樹の実となれるのは、生前の善行と死後の祈りがある魂だけだ。天樹の実に宿った魂は星と呼ばれて夜空を照らし、やがて流れ落ちて再び地上の命となる。
「ここなら少しはゆっくり話ができるだろう」
やがて青年が死体を掻き分けて入ったのは、ほとんど廃墟同然の建物だった。壁は穴だらけで天井は崩れ、中は砂まみれになっている。
この辺りは人が住まなくなって久しいらしく、だから死体置き場になっているのだと青年は言った。
廃墟と死体の山しかない場所に来たがる人間などそうはいない。ゆえに青年はここを逃亡先として選んだようだ。
「ほいならまずは自己紹介じゃな。わーはロクサーナ、こっちはトビーでおじゃる。さっき石を投げたのはそもじきゃえ?」
「ああ、そうだ。まさかあんなに上手く当たるとは思わなかったけどな」
「じゃけんじょわーたちはあれで助かった。礼を言わせてたもれ」
「いや、おれはあんたたちに助けてほしくて助けたんだ。礼を言われても困る」
「ど、どういうことですか?」
砂の溜まった廃墟の奥で、トビアスはやや動転して尋ねた。
しかし死体通りに入った当初よりはいくらか平静を取り戻している。廃墟とは言え建物の中へ入ったことで死臭もわずかだが遠のき、ようやくまともに息が吸えた。
「さっきの騒ぎは最初から見てた。あんた、聖職者なんだろ? だったらおれたちを助けてくれ! もうこんなところにはいたくない……」
「〝おれたち〟って、それじゃあやっぱり、あなたは城から逃げ出したっていう……」
「ああ、その奴隷の一人だよ。おれはマルシオ。ルエダ・デラ・ラソ列侯国のディリヘンシア侯領から連れてこられた男だ」
「待ちんしゃい。今、列侯国と申したきゃえ?」
思いもよらぬ答えに、トビアスとロクサーナは思わず顔を見合わせた。マルシオと名乗った青年はそんな二人の反応を見やり、疲労と恐怖に彩られた表情で言う。
「あんたたち、さっき列侯国の話をしてたよな? 屍霊使いがどうとかいう……」
「え、ええ、確かにしてましたが……」
「ってことはあんたら、列侯国から来たんだろ? 頼む、おれを国に帰らせてくれ! こんなはずじゃなかったんだ……おれは国が労役に就けば金と食糧をやるって言うから、親父とお袋を置いて出稼ぎに……」
ぞわり、と、トビアスは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
それはロクサーナも同じだったようだ。彼女の表情は強張り、心なしか色を失っている。
「マルシオ。そもじ、もしやパシエンシア侯領の南にあるアルマセンで、アビエス連合国行きの船に乗せられたんじゃにゃーきゃえ?」
「あ……ああ、そうだ、そのとおりだ! なのに着いた先は無人島で……」
「無人島? どういうことです?」
「おれにもよく分からない……だがおれたちが連れていかれたのは、どうやらシャールーズ川の河口にある島みたいだった。おれたちはそこで突然川船に乗り換えさせられたんだ」
「シャールーズ川と言えば、途中で死の谷の南を通る大河でおじゃるな」
「そうだ。おれたちはその死の谷に運ばれたんだ。国はおれたちを騙してたんだよ! おれたちはそこで竜人に襲われて、やつらの棲み処に連れ込まれて……」
「何ですって?」
マルシオの証言は、どれも耳を疑いたくなるようなものばかりだった。
当のマルシオはそのときの恐怖が甦ったのか、蒼白い顔をして全身を震わせ始める。
「そこには砂王の手下もいた。やつらは攫われてきた難民の中から半分を選んで引き取って……それでおれたちをここに連れてきたんだ。死の谷に残された連中よりは幸せだったと思えと、やつらは言ってた。あの谷に残された難民は、竜人の餌になるだけだって……」
「そ、そんな……」
「軍事協力なんて嘘だったんだ。列侯国は初めから、戦力の代わりにおれたちを売るつもりだったんだよ。砂王国が竜人と上手くやれてるのは、国に税を納めるみたいに、人間を餌としてやつらに提供する約束をしてるからだ。やつらは今までそれを戦争で捕まえた捕虜で補ってた。だけど列侯国と同盟を結ぶことになって、その見返りにおれたちを……」
「それじゃあやっぱり、あの労役の話は嘘だったということですか。砂王国との同盟のために難民を利用して……その命を金に換えて食糧を購っていたと言うんですか!」
そして王とその周辺を固める者たちばかりが、毎日の食事と身の安全を確保している。
その事実を知ったとき、トビアスは怒りで打ち震えた。これほどまでに激しい怒りを、トビアスは生来覚えたことがなかった。
列侯国の民は、泣いていたのだ。トビアスが運んだほんのわずかな食糧を口にして、それでも口々に救われたと言い、泣いていた。
その民を捨て置き、それどころか欺いて命を金に換えていた。そんな暴虐が許されるのか。
いや、許されるわけがない。
「何という……何という愚かなことを……! 神鳥ネスが天樹の実となった魂を守る鳥なら、国とは民という名の魂を守る鳥ではないのですか。その国が民の命を奪うなど……!」
「……。わーは列侯国が難民を屍霊使いに捧げているのではにゃーかと思っとったけんじょ、真相は予想と大して変わらんかったの。ときにマルシオ。そもじ、アルタという娘を知らんきゃえ?」
「アルタ?」
そのときロクサーナが口にした少女の名を聞き、トビアスははっと我に返った。
そうだ。結局アルマセンではアルタの消息を知ることはできなかったのだ。しかしもしアルタが他の難民同様南へ回されていたら。ジャックは小さな子供でも関係なく船に乗せられると言っていた。
ならばアルタは。
あの無垢な少女はどこへ行き、どうなったのか。
「アルタはそもじと同じパシエンシア侯領の出身じゃき。歳は十歳くらいで、両親と労役に出ると言っておった。枯草色の髪をして、歌うのが好きな……」
「歌……? そう言えばおれが乗った船に、甲板でよく歌ってる女の子がいたな。おれは声をかけなかったから名前は知らないが……」
「……! ま、まさか……その子、船ではどんな歌を歌っていましたか? 歌詞や旋律だけでも覚えてませんか?」
「ああ、覚えてるよ。あれは有名な光神歌の第一番だ。あの子はいつもそればかり歌ってた。まるで練習してるみたいだったな……」
光神歌、第一番。
その答えを聞いたとき、トビアスは全身から力が抜けていくのを感じた。後ろから視界を塞がれたようで、何も考えられなくなり、立っているだけで精一杯になる。
アルタ。恐らく間違いないだろうと思われた。
やはりアルタは船に乗ってしまったのだ。そこで別れ際に交わした約束を守り、ロクサーナが教えたあの歌を練習し続けていた。
「その娘はそれからどうなったのけ? そもじらと一緒にこの街へ?」
「いや、あの子は死の谷で船が襲われる直前まで歌ってたんだ。だがそこへ竜人が現れて、甲板にいた人間はほとんどが水中に引きずり込まれた。あの子も、そのまま……」
ついに立っていられなくなった。
トビアスは膝を折り、砂に両手をついて慟哭を上げた。
アルタ。守れなかった。あの罪なき少女を守れなかった。
やはり自分は初めから、光神の教えなどではなく食糧を携えてあの村を訪ねるべきだったのだ。そうすればアルタを救えたかもしれない。たった一日でも何かがずれれば、運命は変わったかもしれない。
愚か者。トビアスは顔中を砂まみれにして泣いた。己の無知と傲慢さを呪った。
それがアルタを死なせたすべてだ。口では神の道などと偉そうに説きながら、自分が実際に為し得たことは、殺されに行く少女を笑って見送ることだけだった。
「……マルシオ。奴隷は、そもじの他にも逃げ出した者が数名おるそうじゃな」
「あ、ああ。だが城を出たあとは、みんなバラバラになって逃げたんだ。その方が捕まりにくいからって、ハコボが……」
「ハコボ?」
「おれたちを逃がしてくれた男だよ。最近新しい奴隷として連れて来られたんだが、そいつがおれたちの鎖を切ってくれたんだ。それで無事に逃げられたら、『アズラサ』という酒場で落ち合おうと言われた。あんたら、その酒場がどこにあるか知らないか?」
「ふむ……生憎その酒場の場所は知らんけんじょ、酒場が集まる場所なら知っておる。そこへ行けばその『アズラサ』という酒場も見つかるやもしれん」
「な、ならそこへ連れていってくれ、頼む! ハコボはそこに知り合いがいるから、裏口から入って自分の名を言えば匿ってもらえるはずだと言ってた。無事に国へ戻れたら、いくらでも礼はする。だから後生だ、助けてくれ……!」
マルシオの目は必死だった。縋るようにロクサーナの肩へ乗せられた手は爪が剥がれ、血まみれになっている。
恐らくそれほどの重労働に駆り出されていたのだろう。ロクサーナはその手をいたわるように自らの手を重ね、マルシオにはっきりと頷きを返す。
「トビー、行くぞえ」
「……」
「今は泣いておる暇はにゃー。まずは生きてこの国を出るのが先決でおじゃる」
「……」
「トビー。こうしておる間にも、列侯国では真実を知らん民が助けを求めて国に縋っておるのじゃぞ。それをこのまま野放しにしておいて良いのけ?」
「――ああ、ぜひともそのままにしておいてくれ。その〝真実〟とやらを難民共に知られるのはうまくない」
突然、まったく知らない男の声が響いた。
驚き、三人が銘々に振り向けば、そこには武装した男たちがにやつきながら佇んでいる。
「お、お前らは砂王の城にいた……!」
「まったく、奴隷風情が世話を焼かせやがるぜ。我らが王はお怒りだ。あの人は自分に逆らう人間が大嫌いでな。このままじゃオレたちがそのとばっちりを喰っちまう」
乾いた音を立て、男たちが腰から得物を抜いた。
シャムシール。砂王国の国章にもなっている曲刀だ。三日月のように反り返った刃は美しく、しかし冷たい光を返している。
「そういうわけだ。悪いが秘密を知っちまった余所者共々死んでもらうぜ。野郎共、やれ!」
「応!」
脂下がった男たちが、先頭にいた男の号令で飛び出した。
その様はまるで血に飢えた獣だ。殺戮の許可を待ち侘びていたように目をぎらつかせ、曲刀を振り上げて襲いかかってくる。まずい。そう思ったものの、トビアスはその場に立ち上がるだけで精一杯だ。
このままじゃ殺される。背筋が凍りついた。しかし俄然、肉薄する男たちとトビアスの間に飛び込んだ影がある。――ロクサーナだ。
「奥義、砂の舞!」
「ぐわあっ!」
ロクサーナが叫び、鋭く右足を振り上げた瞬間、男たちが悲鳴を上げた。
〝砂の舞〟とロクサーナは言ったが、要するに盛大な目潰しだ。彼女は足元にあった砂を景気よく蹴り上げ、それによって男たちの動きを止める。
「トビー、マルシオ、行くぞえ!」
「は、はい!」
やはり場慣れている。そう思いながらもトビアスはマルシオと共に慌ててロクサーナのあとを追った。彼女は旅の間に何度もこんな体験をしてきたのだろうか。そう勘繰らずにはいられないほどロクサーナは落ち着き払っている。
目に砂が入って呻いている男たちを後目に、三人は廃墟を飛び出した。そのまま死体通りを駆け抜け、大通りの方へと向かう。
すぐに追っ手がかかる気配があった。恐ろしくて振り向くことなどできないが、背後から複数の足音がする。
「ろ、ろ、ロクサーナ! この状態で街に出たら、あっという間に囲まれてしまいますよ!? 逃げた奴隷には賞金がかかってるんですから!」
「そんなことは分かっとるき! なるべく人通りの少ない道に逃げ込むんじゃ!」
「だ、だけど道、分かるんですか!?」
「少しだけならの!」
それがどのくらいあてになるのか分からなかったが、今はとにかくロクサーナに賭けるしかなかった。トビアスにはシェイタンの土地勘などまるでないし、それは奴隷として城に閉じ込められていたマルシオも同じらしい。
ロクサーナは死体通りを抜けると、マルシオが先程通った道とは別の道に駆け込んだ。建物と建物の間の細い路地で、抜けた先には寂れた道が横たわっている。
どうやらそこは、先程トビアスたちが騒ぎを起こした通りの裏に当たるようだった。ロクサーナはそこを右に折れ、人気のない道を一目散に駆けていく。
しかし追っ手の足音はまだ聞こえた。何か怒鳴っているのも分かる。
が、何と言っているのかは聞き取れなかった。今はそんなことに思考を割いている余裕はない。
「こっちじゃ!」
その追っ手を撒くためだろう、ロクサーナはまた右へ曲がった。大通りからは一本遠ざかる方向だ。
薄暗い路地を抜け、更に何本か裏道を迷走し、しばらくして少し開けた場所に出た。
瞬間、背後でマルシオの短い悲鳴と甲高い鎖の音が聞こえる。どうしたのかと振り向けば、マルシオが転んで地面に俯せになっている。
「マルシオ!」
どうやらマルシオの左足に残った鎖が地面から突き出た鉄の杭に引っかかり、そのせいで転倒したようだった。何故こんな所に杭が、と思いながら引き返そうとしたところで、トビアスははたと足を止める。
低い獣の唸りが聞こえた。驚いて振り返った先に、鎖に繋がれた大型の犬がいた。
逆立った黒い毛並みは犬と言うより狼のそれに似ている。そこでトビアスはようやく気づいた。
マルシオの鎖が引っかかった鉄の杭は、その犬を繋ぐためのものだ。
「ひ、ひいっ! た、助け――」
牙を剥き出しにした犬に睨まれ、マルシオが大声を上げた。それが余計に犬を刺激してしまったようだ。
助けなければ。トビアスがそう思ったのと、犬が咆吼を上げてマルシオに飛びかかるのが同時だった。
マルシオの悲鳴が響く。犬は怒り狂った様子でマルシオを襲い、彼の喉に牙を立てた。そのまま激しく頭を振る。そこでマルシオの悲鳴は途切れ、口と首から鮮血が溢れ出したのが見える。
「マルシオ!!」
もう遅いと分かっていながらトビアスは駆け寄ろうとした。その腕をロクサーナがとっさに掴み、引き戻す。
それまでトビアスがいた場所に、血染めの牙が襲いかかった。空を噛んだ牙はガチンと恐ろしい音を立て、獲物を逃がした黒犬の悔しげな声が谺する。
あと半瞬ロクサーナが腕を引くのが遅ければ、トビアスも間違いなくあの牙にかかっていた。
けれどもトビアスはなおも倒れたマルシオへ駆け寄ろうとする。ロクサーナはそんなトビアスの手を引いて、目の前に見えた石造りの階段を駆け上る。
「ロクサーナ、マルシオが!」
「あれはもう死んどる! そんなことも分からんのきゃえ!」
やがてロクサーナが声を張り上げ、トビアスを突き飛ばしたのは、建物の脇から伸びた階段を上りきったときのことだった。
いきなり突き倒されたトビアスは体勢を失い、背中から倒れ込む。ロクサーナは眦を決してそんなトビアスを見下ろし、大きく肩で息をする。
「このたわけが! 死人のために命を投げ出す阿呆がどこにおるのきゃえ! そもじはいつもそうでおじゃる! 一時の感情に流される前に、もっと後先考えて行動しんしゃい!」
「な、何を……目の前で人が一人死んだんですよ!? これが冷静でいられますか! 今度は……今度は助けられたかもしれないのに!」
「それでも助けられなかったもんはしょうがなかろうもん。だいたいそもじは戦にも赴いたことがあるんじゃろ? それを今更、目の前で一人死んだくらいで何を取り乱すのけ」
「〝死んだくらいで〟? 人が死ぬということがどういうことか、あなたには分からないんですか!? マルシオは帰りたがってたんですよ! あんなに助けを求めてた……!」
「それはマルシオに限った話じゃにゃー。わーたちの耳には届かんかっただけで、助けを求めながら死んでいった者はごまんとおる。このご時世、人死になどさして珍しくもなかろうもん。そんなことでいちいち心を動かしておっては、身が持たん」
トビアスは愕然とした。人の死を目の当たりにしても顔色一つ変えず、涙すら流さない目の前の少女が、急に遠い存在になったような気がした。
まさかこれも、ロクサーナの本性だと言うのだろうか。彼女はこんなに冷たい人間だったのだろうか。
そう言えばアルタのことを知ったときもロクサーナは取り乱す素振り一つ見せなかった。
あの少女を襲った理不尽な死さえも、ロクサーナにとっては〝そんなこと〟で片づいてしまう瑣末な問題なのだろうか。
「それでも……それでも、私は……彼らを、助けたかったんです……」
「ほいなら何故光刻を使わんかったのけ? 本気でマルシオを助けたかったなら、神術を使うのが一番確実でおじゃったろ」
ズキリ、と、胸が痛んだ。ロクサーナの言い分は正論だ。あそこで自分が光刻を使えていれば、恐らくマルシオは助けられただろう。
しかしそれはあくまでも〝使えていれば〟だ。
トビアスは光刻が宿った右手を握り締め、俯いて唇を噛み締める。
「――……んです……」
「何?」
「私は、光刻を使えないんです……!」
ついに言ってしまった。
そのときロクサーナがどんな顔をしたのかは分からないが、微かに息を止めた気配がトビアスにも伝わってくる。
「私には、神術の素質がまるでなかったんです……そのせいで、マイヤー院長が数いる修道士の中から私を選び、この神刻を授けて下さったのに、私はそのご期待に応えることができなかった。教会の象徴とも言うべき光刻を刻んでおきながら、その力をろくに生かすこともできず……皆には呆れられ、宝の持ち腐れだと嗤われました」
「……」
「結局私は、何をやっても駄目なんですね。せめて光刻さえ使うことができたら、マルシオも救えたかもしれないのに……」
取り柄がない。今日までロクサーナにも散々言われてきたことだが、まったくそのとおりだとトビアスは思った。
自分には誰も救えない。何一つ成し遂げることはできない。この旅でそれを痛感した。それが自分の知るべき真実だったということだろう。
それでもその真実を受け入れられず、つまらない意地と見栄だけで今日まで光刻を外さずにきた。これはその罰なのかもしれない。トビアスがもっと早くその真実に気づき、光刻を手放していれば、この神刻は別の時、別の場所で誰かを救ったかもしれないのだから。
「それを私は、この光刻こそが己の信仰の証だからと……今にして思えば、実に浅ましい考えです。私の唯一の取り柄である信仰心さえも、所詮はその程度のものでしかなかった。そんなくだらない意地のためにあなたを利用し……その力を独占しようとした愚かな私を、どうかお許し下さい、神よ……」
「――許す」
そのとき聞こえた静かな声に、トビアスは呆然と顔を上げた。
涙で滲んだせいだろうか。いつものように日の光を受けて輝くロクサーナの髪が、今日は一段と眩しく見える。
「分かったら早う立ちんしゃい。それでもそもじは列侯国の民を救いたいんじゃろ?」
「ロクサーナ……」
「この程度でやさぐれるとは、そもじはそれでも光神の僕きゃえ。一人を救えなかったなら百人を救えば良い。百人を救えなかったなら千人を救えば良い。それでも駄目なら、万余の民を救ってみんしゃい。それが真の神僕というものでおじゃる」
光を弾くロクサーナの髪が、よりいっそう眩しくなった。あまりにも眩しすぎて、目を開けていられないほどだ。
――人の子よ、目を閉ざすな。私は常にそこに在る。
有名な光神オールの言葉だった。
そうだ。目を閉ざしてはならない。光はそこにある。
トビアスへ向けて、まっすぐに手を差し伸べている。
「ロクサーナ……私は――」
その手を取ろうと右手を差し出し、そしてトビアスは動きを止めた。
目を見開いたのと同時に息が止まる。
こちらに手を差し伸べたロクサーナの背後。
そこに、凶刃を振り上げた男がいる。
「ロクサーナ――!!」
曲刀が風を切った。その音でようやく、ロクサーナも背後の敵に気がついたようだった。
すべての光景が嘘のように緩やかに、トビアスの目の前を流れていく。
閃光が、弾けた。
その光に弾かれた男が驚きの声と共に後ろへ倒れ、屋上から転がり落ちた。
刃を阻んだのは、光の壁。
トビアスがロクサーナに向けて翳した右手の甲で、光刻が輝いている。
「何じゃ。ちゃんと使えるじゃにゃーか」
振り向いたロクサーナが、心底拍子抜けしたように言った。
その反応が何やら可笑しく、トビアスは初めはぎこちなく、やがて声を上げて笑ってしまう。
「ようやった。行くぞえ」
そう言って、ロクサーナは再び手を差し伸べた。
トビアスは今度こそ、その手をしっかりと掴んでみせる。




