シャムシール砂王国――砂都シェイタン2
ロクサーナは顔が見えないように、頭から灰色の外套を被っていた。
外套はロクサーナの体をすっぽりと覆っているため、一見して女だと判別するのは難しい。
ただ、それでも辺りにいる男たちよりずっと小柄なことは確かなので、まったく目立たないかと言われれば否だった。
同じようにトビアスも外套を被っている。全身を踝まで覆う外套は砂避けにもなってちょうどいい。
しかしトビアスが面貌を隠している一番の理由は、自分が聖職者であることを秘するためだ。
――そんな格好で砂王国に入ったら、あっという間に殺されちまうぞ。
宣教帽に≪六枝の燭台≫の刺繍が入ったローブという、いかにも聖職者然としたトビアスの出で立ちを見てそう忠告したのは、二人をシェイタンまで運んでくれた商人だった。
砂王国は無神論者の国だ。そこに集う者たちは神の存在を信じないどころか、かえって神の怒りを買うような振る舞いをすることで、己の力と度胸を誇示するという何とも理解不能な精神を尊んでいるらしい。
その方法として最も手っ取り早いのが、聖職者を殺すことだった。神に仕える聖職者を殺めるということはすなわち神への反逆を意味している。
ゆえに彼らは聖職者を殺したがるのだと、砂漠を渡る道すがら商人は教えてくれた。
しかし生憎ながらトビアスは、聖衣一式以外の衣類と言えば外套と下着くらいしか持ってきていない。商人も砂漠に入る前にそれを教えてくれればいいのに、てっきり何もかも承知の上で砂都を目指しているのだと思った、などと逆に呆れられた。それなら着替えの一枚くらい持ってきているのだろうと、商人は勝手に思い込んでいたらしい。
ゆえにこうしてシェイタンの街を歩くことは、トビアスにとって寿命が縮まる行為以外の何ものでもなかった。宿を出てからというもの全身の震えが止まらず、トビアスは外套越しに首から下げた蹄鉄をぎゅっと握り締めながら言う。
「実りの守り手、旅の導き手、勝利の運び手たる幸運の神エシェルよ、どうか非力なる星の子をその慈悲によりお守り下さい……」
「これ、トビー。こんなところで神の名なぞ唱えておるのを聞かれたら、細切れにされるぞえ」
「か、神にでも祈っていないと恐ろしくて気が触れてしまいそうなんですよ……! こんなことならエレツエル神領国との戦の最前線に送られた方がまだマシです」
「そもじ、戦に送られたことがあるのきゃえ?」
「ええ、一度だけ。とは言え戦闘員としてではなく、後方で傷病者を救護するためですが……我が教会の傘下にある施療院に、手伝いとして派遣されたんです。都市が既にエレツエル軍に包囲されかけているというときに」
「じゃけんじょエレツエル軍は教会人には手を上げんのでおじゃろ。あっこは二十二大神すべてを国神と崇める国家じゃき。ゆえに神僕は決して殺さんと聞いたぞえ」
「それでも戦闘に巻き込まれないとは限りませんし、人が殺し合う姿を見るのは耐え難いものがありましたよ。結局街は一月と持たずに陥落し、最後まで抵抗した人々は私たちの前で次々と……エレツエル軍は噂に違わず残虐です。口では神の世を取り戻すなどと言いながら、何故あのような行いを繰り返すことができるのか、まったく理解に苦しみます」
「しかしこの国の有り様に比べたら、神領国の方がまだマシでおじゃった、と」
「ええ。〝神を恐れぬ者を恐れよ〟とはよく言ったものです。あれでもまだ神々に義を立てている分、エレツエル人の方が数段まともでしょう」
「――おい、そこのちっこいの二人」
そのとき、俄然背後から聞こえた野太い声に、零したため息がヒュッと音を立ててトビアスの口に戻った。
いかにも柄の悪そうな男の声だ。このまま聞こえなかったふりをして立ち去るべきかと思ったのに、トビアスの足は勝手に止まってしまっている。
ちっこいの、というのは言うまでもなくトビアスとロクサーナのことだろう。トビアスもロクサーナに比べれば背丈はあるものの、この街にのさばっている屈強な男たちのそれとは比ぶべくもない。まさか今の会話を聞かれたのだろうか。
トビアスはその場に凍りついた。だとすれば自分が聖職者であることがバレたのか、それともシャムシール人をエレツエル人と比べて扱き下ろしたのが耳に入ったか。
どちらにしろまずい。これは死んだかもしれない。
というか死んだ。殺される。
トビアスの脳内は瞬く間にそんな思考で一杯になった。おかげで後ろを振り返ることもできず、トビアスは立ち尽くしたままガタガタと震え出す。
「お前ら、余所者だな。ちょっと顔を見せてみろ」
やっぱり逃げよう。そう思い、足を踏み出しかけた刹那、隣からロクサーナに素早く手を掴まれた。逃げるな、と囁くロクサーナの声が聞こえる。
直後、彼女はゆっくりと声の主を振り向いた。外套を被ったロクサーナの顔色はトビアスからも見えなかったが、その態度は至って落ち着き払っている。
「……顔? 何故顔を見せねばならんのけ?」
「ほう。チビだとは思ったが、その声は女だな?」
「女子であったら何ぞ問題でもあるのきゃえ?」
「いいや、問題はねえさ。ただ、今、ちょいと城の方が騒がしくてな」
「城? 城で何ぞあったのけ?」
「ああ、何でも奴隷が数人、鎖を切って逃げたって話でな。捕まえたやつには報酬を出すと、さっきヴァリスの手下が騒ぎながら走っていった」
「ヴァリス……現砂王じゃの」
どうやら先程の会話を聞かれたわけではなかったらしい。それを悟ったトビアスはほっとして、ようやく背後を振り向いた。
そこにいたのは、全身を使って〝私は悪党です〟と主張しているかのような大男だ。肩には抜き身の大刀を担ぎ、いかにも極悪そうな髭面にやにさがった笑みを浮かべている。
身なりは砂だらけで小汚なく、鼻を塞ぎたくなるような悪臭がした。背後には似たような出で立ちの男たちが数人、同じく品性の欠片もない笑みを貼りつけて集まっている。
「ほいなら顔じゃにゃーて手足を見せた方が良かろうもん。ほれ、このとおり鎖なぞついておらんぞえ。――トビー、そもじも早う見せんしゃい」
「うっ! は、はい……」
いきなり脇腹を肘で突かれ、トビアスは鈍く呻いてから手足だけを外套の外に差し出した。この程度なら中に着ている聖衣にも気づかれることはないはずだ。
「証明はこれで充分でおじゃろ。こう見えてわーたちも急いどるき。ほいじゃ」
「まあ待て。お前ら、余所者ならこの街にゃ不慣れだろ? 何ならオレたちが案内するぜ」
それは有り難い! とはよほどの楽天家か世間知らずしか言えないだろう。この悪党を絵に描いたような男たちが、ただの善意からそんな親切を言っているとは思えない。
そこはシェイタンのほぼ中心に位置する通りだった。辺りには木の柱の上に布を張っただけの天幕がいくつも並んでいる。
その天幕の下は露店や賭場になっていて、卓が乱雑に並べられた一角ではいかにもな男たちが博奕に興じていた。
誰か助けを求められそうな相手は、と思いそちらに視線を走らせたが、悲しいかな、いるのは目の前にいる男たちと大差ない連中ばかりである。
「別に案内は不要でおじゃる。ただわーたちも人を探しておるき」
「ほう、そいつは奇遇だな。誰を探してる?」
「ルエダ・デラ・ラソ列侯国で噂の屍霊使いが、この国に入ったという話があるのじゃ。わーはそれを追ってきたのでおじゃる。そもじらは何ぞ聞いておらんきゃえ?」
「屍霊使い? そいつはまた、えらい相手を追ってやがるな」
半分冗談だと思って聞いているのか、男たちはげらげらと下卑た笑い声を上げた。が、対するロクサーナに怖じ気づいた様子はない。
「有力な情報があるなら、金は払うぞえ」
「ほう、この街の流儀は弁えてるようだな。そういう相手となら取引してやらんこともない。だが金は要らねえ。代わりにちょいとお前さんの顔を見せちゃあくれねえか。この街にゃ女が少なくてな、たまには小綺麗な女の顔でも眺めてオレたちも心を洗いてえ」
そうしたらいい情報をくれてやると言われ、ロクサーナは数瞬考える素振りを見せた。この男たちの言を信じてもいいものかどうか迷ったようだ。
しかしその迷いより、一刻も早く屍霊使いを見つけなければという思いが勝ったのだろう。
ロクサーナは外套を外した。途端に露わとなったロクサーナの素顔に、男たちが目を剥いてため息のような声を漏らす。
「ほれ、これで良いのでおじゃろ。ほいなら早うその情報とやらを教えてたもれ」
「ああ……そうだな。思ったよりガキだが、悪くねえ」
そのとき、初めに声をかけてきた大刀の男が、にやりと口の端を持ち上げた。
それを見た瞬間、ロクサーナはしまったと言いたげに顔を歪め、素早く外套を被り直す。
「トビー、行くぞえ」
「えっ」
「長居は無用じゃ。走りんしゃい!」
鬼気迫る声で促され、トビアスはとにかく駆け出した。思考は状況に追いついていなかったが、どうやらまずいことになったらしいという認識だけがトビアスを駆り立てる。
その段になってようやく忘れかけていた恐怖が甦ってきた。
そうだ。ここは野蛮人の国、シャムシール砂王国だ。何が起きても不思議ではない。ただし何かが起きれば、それはただちに命の危機へと直結する。
「おうおう、待ちな! 逃げるんじゃねえよ!」
「あっ……!」
ところが駆け出してからほんの数歩のところで、隣にいたロクサーナだけががくんと後ろに引き戻された。それを見て慌てて振り向けば、ロクサーナが外套のフードを男に掴まれ、小さな体で必死にもがいている。
「ロクサーナ!」
「へえ、嬢ちゃん、ロクサーナっていうのかい。いい名前だな。オレ様が可愛がってやるからこっちに来な」
「放しんしゃい! わーはそもじらのようなゴロツキに構ってる暇は……!」
「まあ、そう言うなって。カニバルだかカーニバルだか知らねえが、そんな陰気くせえやつを相手にするより、よっぽど有意義な時間を過ごさせてやるぜ」
「い、厭じゃ! トビー!」
暴れるロクサーナの腰に腕が回され、男がその体を軽々と抱き上げた。男と比べればまるで子供のようなロクサーナの体は呆気なく浮き上がり、地面を離れた両足がばたばたと虚しく宙を掻いている。
――助けなければ。
だがどうやって?
あの巌のような男たちを前にしては、トビアスなどあまりに無力だ。トビアスに戦う術はない。
背中の宣教鞄を開けば銀の短剣が入っているが、それは魔物を祓うためのものであって人を刺すためのものではない。修道士は人を害してはならない。
だがそんなことを言っている場合か。震える足を叱咤してトビアスは思った。
今、まさに目の前でロクサーナが攫われようとしている。男たちはトビアスになど目もくれようとしない。
ここで自分がロクサーナを見捨てれば彼女がどんな目に遭うか、それを言い当てるのは〝小麦粉の量を誤魔化したパンを見分けるより簡単〟だ。
『そもじはわーが白パンと認めた男子でおじゃる』
出会って間もない頃のロクサーナの声が甦った。
彼女を見捨てられるわけが、ない。
「ろ、ロクサーナを……ロクサーナを、放して下さい!」
叫んだ。
今まで出したこともないほどの声量で、腹の底からトビアスは叫んだ。
叫ぶと同時に駆け出し、ロクサーナを抱え上げた男に飛びかかる。完全に不意を衝いた。男が驚いてこちらを振り返る前に、ロクサーナから男の腕を引き剥がそうとする。
ところが次の瞬間、トビアスは投げた小石が壁に跳ね返されたように弾け飛んだ。
男が空いている方の手でトビアスを突き飛ばしたのだ。
「トビー!」
世界が回転し、トビアスは背中から倒れ込んだ。背負った宣教鞄ごと地面に叩きつけられたので、こんな状況にもかかわらず「ぐえっ」と間抜けな声が出る。
「ぶははは! 話にならねえな、兄ちゃん。連れを守りたかったら、もっと体を鍛え――」
と、何故かそこで笑った男の声が途切れた。理由は分からなかったが、とにかくまずは起き上がろうと痛む体を叱咤する。
だが体を起こしてまず目に入ったのは、呆然とこちらを見つめる男たちの姿だった。
一体何を呆けているのかと辺りを見渡し――そして気づく。
倒れた拍子に、外套が捲れていた。
そこに見えたのは光神の象徴たる≪六枝の燭台≫の刺繍と、トビアスがれっきとした聖職者であることを示す、銀の蹄鉄。
「おい、兄ちゃん。お前……」
しまった。そう思ったときには既に遅かった。いつの間にかフードも外れ、ご丁寧に顔まで晒している。
その瞬間、男たちの関心はロクサーナからトビアスへと移った。彼らは口々に低い笑いを漏らし、やがてそれは盛大な哄笑へと変わる。
「ハハハッ、こいつぁ傑作だ! 戦の前に〝生け贄〟と出会えるたぁ、オレァついてるぜ!」
「いかん……! トビー、早う逃げんしゃい!」
「いいや、逃がすかよ! 野郎共、その兄ちゃんを取っ捕まえ――」
ろ、と男が言い切る前に、ゴチンと痛々しい音がした。
どこからともなく飛んできた拳大の石が、男の額に直撃したのだ。
それもなかなかの勢いでもって命中したらしく、男の額からはたらりと血が流れた。男はその傷に手をやって出血を確かめると、石の飛んできた方向に視線を投げる。
「おい。今、オレに向かって石を投げたのはどこのどいつだ?」
その視線の先には賭場があった。そこでは依然男たちが賭けに興じていたが、どうやら騒ぎの一部始終を見ていたらしく、不用意にも笑いを漏らした者がいる。
途端に、男の額に青筋が走った。
男はまるで邪魔になった荷物のようにロクサーナを手放すと、大股で賭場にいた男たちに近づき、威圧的な視線を放つ。
「今、オレを笑ったのはてめえか?」
「だったら何だ、間抜け面」
「石を投げたのもてめえか」
「さあ、知らねえな――」
男は相手にみなまで言わせなかった。いきなり相手の顔面目がけて拳が飛び、殴られた男が椅子ごとひっくり返って吹き飛ばされる。
賭場はたちまち色めき立った。どうやらそこに集まっていたのは傭兵として徒党を組んだ一団だったようだ。その一味が仲間を殴り飛ばされて、黙っているわけがない。
「おい、てめえ! 何しやがる!」
「先にしかけてきたのはそっちだろうが」
「あ!? 妙な言いがかりつけてんじゃねえよ! おい、このガキ絞めて竜人にくれてやれ!」
「トカゲ野郎の餌になんのはてめえらだ、雑魚共!」
始まった。こうなればあとはシャムシール人お得意の殺し合いだった。賭場は瞬く間に武器を振り回した男たちの戦場と化し、あちこちで怒号と血飛沫が飛ぶ。
トビアスはそれを、腰を抜かしたまま見ているしかなかった。
本当に何なのだろう、この国は。目の前で繰り広げられるあまりに短絡的な争いに、トビアスは呆れて逃げることすら忘れてしまう。
「――おい、こっちだ!」
ところがそのとき、俄然誰かに腕を引かれ、トビアスは飛び上がると同時に我に返った。
振り向けばそこには見知らぬ青年がいる。歳はトビアスよりいくつか上だろうか。麻で織られた襤褸のような服を着て、必死にトビアスの腕を引いている。
トビアスもそれにつられて立ち上がり、まろぶように駆け出した。
誰だ、こいつは。
そんな疑問が頭に浮かんだのは、走り出してからいくらか経ったときのことだ。
「あ、あの、あなたは……!?」
「いいから走れ! 逃げるなら今のうちだ!」
「ま、待って下さい! 私には連れが――」
いるんです、と言おうとして、しかしトビアスは言えなかった。
慌てて振り返った先にロクサーナの姿がなかったからだ。
一体どこへ行ったのか。
まさか連れ去られた? しかし先程の男たちは大乱闘のさなかだ。ならば誰に? どこへ?
混乱が膨れ上がった末に破裂し、トビアスは何も考えられなくなる。
ロクサーナ、ロクサーナ、ロクサーナ――
「ロクサーナ!」
「何じゃ」
「え?」
聞き返されたのに聞き返してしまった。
意外なほど近くから求めていた声が聞こえ、トビアスはぽかんとしながら振り返る。
見知らぬ青年に手を引かれて入った物陰に、ロクサーナはいた。危うく攫われかけたあとだというのに、今は何食わぬ顔をしてトビアスを見返している。
「あれ? あの……え? ロクサーナ、無事だったんですか」
「何ぞ、わーが無事で不服そうじゃの」
「い、いえ、断じてそのようなことは……ですがいつの間に?」
「あの連中が喧嘩を始めた頃には疾うに逃げ出しとったき。あの状況でぼんやりしとったのはそもじだけでおじゃる」
「そ、それならせめて一声かけて下さいよ……と言うか本当に場慣れてますよね」
「じゃから、そもじはわーを何歳と思うておるのけ? こう見えてわーはそもじより……」
「おい、今はそんなこと言ってる場合か! さっさと逃げるぞ!」
と、ときに二人の会話を遮ったのは先程の青年だった。
その段になってトビアスはようやく気づく。粗末な身なりをした青年の手足。そこに冷たくぶら下がった――鈍色の鎖。
「どこぞ逃げ込むあてはあるのきゃえ?」
「あると言えばあるし、ないと言えばない。とにかく来てくれ、まずは話がしたい」
青年はそう言うが早いか、先陣を切って駆け出した。青年が一歩踏み出す度、手足の鎖が音を立てる。
その背中を一瞥し、トビアスはロクサーナと視線を通わせた。そうして即座に頷き合い、青年を追って走り出す。
例の騒ぎは、三人の背後でなおも続いていた。
その血みどろの乱闘を、崖の上に築かれた褐色の城が超然と見下ろしている。




