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宣教師トビアスの日記  作者: 長谷川
宣教師トビアスの日記Ⅲ
10/19

シャムシール砂王国――砂都シェイタン1

≪通暦一四五七年 識神しきしんの月・賢神けんしんの日


 私は断固として宣言したい。

 シャムシール砂王国はこの地上において最も野蛮で最も汚らわしく、最も嫌悪すべき国であると。


 ここは神に見捨てられた土地である。そこに無神論者が国とは名ばかりの、蛮人の集う街を作った。


 砂王の都シェイタンは、砂に埋もれた巨大な岩山の上に築かれた街である。

 昼間は陽射しが肌を刺すように暑く、夜は冬のように寒い。おまけに外は砂埃がひどく、まともに歩けたものではない。


 それだけでもこの街で暮らす人々の気が知れないというのに、加えて治安は最悪、街には常に悪臭が立ち込め、それはアルマセンの比ではない。ここには厠所も公共浴場もないのだ。それどころかこの街の住人には、そもそも体を洗うという習慣がないらしい……。


 金、酒、賭博、殺し合い。

 それがこの街のすべてだ。さすがは砂賊の国と言うべきか。


 叶うことなら、こんな街には一刻も早く別れを告げたかった。しかしロクサーナは、どうしてもここで探さなければならない相手がいると言う。


 アルマセンで屍霊使いカニバルの話を聞いてから、ロクサーナはどこか様子がおかしい。口数も少なく、何かひどく思い詰めているように見えた。

 ここまであまり考えないようにしてきたが、やはり彼女が探している相手というのは……。≫






 一階から聞こえる罵声と怒声に、トビアスは頭を抱えて震えていた。


 やはりこの国はどこかおかしい。何故朝から晩まで喧嘩が絶えないのか。それを取り締まる衛兵も役人もいない。放っておけばすぐに血みどろの争いが始まる。


 今も、不意に食器をぶちまけるような音が聞こえたかと思ったら、案の定怒声が喚声に変わった。どうやら一階の食堂で客同士の喧嘩が始まったようだ。


 その様子を二階の客室までありありと伝えてくる怒号や悲鳴が恐ろしく、トビアスはガタガタと震えながら耳を塞いだ。できることなら今すぐにでもこの街から逃げ出したい。


「ちっ……また喧嘩きゃえ。これでは当分部屋を出られそうもにゃーの」


 そんなトビアスとは裏腹にロクサーナはあまり――というかまったく怯えた様子もなく、隣で悪態をついていた。

 そこはラムルバハル砂漠の真ん中にあるシャムシール砂王国の砂都さとシェイタンの小さな宿だ。


 トビアスとロクサーナの二人はつい昨日、西のルエダ・デラ・ラソ列侯国から砂漠を横断し、ようやくこの街に入ったところだった。

 もちろん二人きりで砂漠を越えたわけではない。シェイタンまでは長年砂王国で商いをしているという豪胆な商人が、荷馬車に乗せて送ってくれた。


 砂王国はその名のとおり、国土の九割が砂漠という不毛の土地だ。ゆえに食糧のほとんどは国外から購うしかなく、隣国のルエダ・デラ・ラソ列侯国やトラモント黄皇国には、意外にも砂王国と誼みを通じた商人が少なくないという。


「ほ、本当に何なんでしょうね、この国は……というかこれは本当に国なんですか? 王と呼ばれる人間がいるだけで、あとは法も税もないなんて果たして国と呼べるんですか? 役人も軍人もいない、いるのは砂賊上がりの傭兵と奴隷だけ、それでよく国が成り立ちますね? こんなの他では考えられませんよ」

「まあ、確かにこの国は、国と言うより巨大な砂賊のアジトと言った方がしっくりくるかの。それでも王が立つ前はアジトとしての秩序さえにゃー土地じゃったんじゃ。それぞれの賊徒が金泉や金泉を狙ってやってくる冒険者を食い荒らし、好き勝手に暴れ回っとった無法地帯。当時は一度足を踏み入れたら二度と帰ってこれん場所、と言われとったき。おかげで一度は大陸南部を支配したあのエレツエル神領国しんりょうこくでさえも、ここから西には進めんかったと言われておるしの」


 微かに開いた木窓の方を見つめながら、ロクサーナはどこかぼんやりとした口調で言った。シェイタンでは窓を大きく開けると砂が吹き込んでくるため、それを防ぐために窓には木の板が嵌められている。

 ゆえに日中でも屋内は薄暗く、それが余計にトビアスの気分を重くした。もっとも目下トビアスの気分を重くしている一番の原因は階下の喧嘩と、目の前に置かれた得体の知れない肉塊なのだが。


「食わんのけ?」

「いえ、食べないと言うか、食べれないと言うか……やはり野菜の育たない土地というのは、修道士が暮らすのには向きませんね」

「ああ、そう言えばそもじは肉が食えんのじゃったの。それは難儀なことでおじゃる」

「まあ、仮に肉食が許されていたとしても、コレはちょっと食べられる気がしませんけど……一体何の肉なんでしょう?」

「知らん。豚か牛か、あるいは人か」


 依然窓の方ばかり見つめたロクサーナの真実とも冗談ともつかない答えに、トビアスは顔面蒼白になった。砂王国では野菜が取れない。ゆえに出される料理は必然的に肉ばかりになる。


 しかしそれを本当に〝料理〟と呼んでいいのかどうか、トビアスには分からなかった。薄汚れた石の器には生焼けの肉がぐちゃぐちゃに潰されて――あるいは混ぜられて――入れられているだけに過ぎない。


 そもそも二人がいるその建物が、宿と呼べるのかどうかさえ怪しかった。

 トビアスたちにあてがわれた客室は四方を灰色の石に囲まれ、壁には窓が一つあるだけであとは何もない。椅子も卓も寝台もなく、ただ床に枯れ草が敷かれているだけだ。もはや牢屋と言っても差し支えないのではないか、とさえ思えてくる。


「私が今まで旅してきた中で最悪の街ですよ、ここは……」

「世界中どこを探しても、ここよりひどい街なぞにゃーから安心しんしゃい」


 一体何をどう安心すればいいのか。まったく慰めになっていないロクサーナの言葉を聞きながら、トビアスは仕方なく持参していた黒パンを一切れ囓った。


 そのパンもいつ尽きると分からないので一切れだけだ。一応ロクサーナにも食べるかと尋ねてみたが、彼女は本当に黒パンが嫌いなようで見向きもせずに首を振られた。


 しかし床に置かれたロクサーナの器にも、例の肉塊はたっぷりと残ったままになっている。二、三口は食べたようだがそれだけだった。

 味にも問題があるのだろうがそれ以前に、ロクサーナはこのところ食欲がない。アルマセンでジャックと別れてから、まともに食事をしているところを見ていなかった。


「あの、ロクサーナ。良かったらオラーン豆の油漬けなんかもありますけど……」

「いい」

「塩と香辛料と一緒に漬けてあるので、食べ始めると結構食が進むんですよ。オラーン豆は栄養も豊富ですし……」


 とトビアスが勧めても、最後は首を横に振られた。トビアスが修道院で作ってきた自慢の保存食なのだが、そこまではっきり断られては無理に勧めるわけにもいかない。

 一階では未だ客が騒いでいる気配があったが、ロクサーナはそれを気に留めている風でもなかった。何もかも上の空といった様子で、それを横から見ているトビアスの方が落ち着かない。


「そ、そう言えばジャックは大丈夫ですかね。あれから本当に船に乗ったんでしょうか」


 焦燥ばかりが生まれる沈黙に耐えかねてトビアスは言った。ロクサーナは近頃口数が減ったように思えるが、こちらから話しかければそれには応えてくれる。


「さあの。まあ、どちらにせよあの男子なら適当にやるじゃろ」

「て、適当にって……ジャックが心配じゃないんですか?」

「何故じゃ?」

「え、だ、だって、あんな話を聞いたあとですし、それに……」


 まさかそこまでけろりと返されるとは思っていなかったため、これにはトビアスの方がまごついた。


 ――それに、ジャックにはキスだってしてたじゃないですか。


 そう言おうとしたがやはり口にするのは躊躇われて言い淀む。それを言ったら今度こそ立ち直れなくなるような気がした。


 やはりこの話題は避けるべきか。


 そう思った矢先、


「トビー。そもじ、もしやあのチャックとかいうのに妬いておるのきゃえ?」


 驚きすぎてとっさに声が出なかった。ただ自分の喉がヒュッと変な音を鳴らしたことだけが分かって、ジャックですよ、と訂正することさえままならなかった。


「な、な、ななな何を言い出すんですか急に!? わっ、わたっ、私はそんな……っ!」

「……。そもじはほんに分かりやすいの」


 違う。断じて違う。名誉のためにそう断言したかったのだが、トビアスの口はぱくぱくと空を食むばかりでろくに言葉が出てこなかった。


 しかしそのとき、表情を消したロクサーナが身を乗り出してきたのを見て、トビアスは思わず仰け反りかける。


 ロクサーナはそれを許さじと言うように、いきなり両手を伸ばしてトビアスの顔を捕まえた。ロクサーナの白くやわらかな掌がトビアスの頬を包み込む。

 何事かと声を上げたかったのに、やはり喉が引き攣っただけで終わった。夜明け色の目が至近距離からトビアスの瞳を覗き込んでくる。そこに映り込む、情けないほど動転した自分の顔がよく見える。


「ろ、ろ、ろ、ロクサーナ!?」

「トビー。わーはの、己の本性を見せん相手には自分も本性を見せたりはせん。紛いものには紛いものしか返さんき。この意味が分かるきゃえ?」

「え、え、えっと、すみません、分かりません」


 というか動揺していてそれどころではない。その意味に思いを馳せるためにも一度手を放してほしい。


 しかしそんなトビアスの願いは言葉にならず、ロクサーナにも伝わらなかったようだった。それどころかゆっくりと、ロクサーナの顔が更にトビアスへと近づいてくる。


「え!? ちょ、ちょっと待って下さいロクサーナ、そんな、ダメです、それ以上は――!」


 唇と唇が触れる。そう思い、茹で蛸のようになったトビアスが目を閉じた、瞬間だった。


 グキッと嫌な音がして、トビアスの首が横を向く。

 と言うよりは、力任せに横を向かされた。痛い。そのあまりの激痛にトビアスは蛙が潰れたような声を出し、しかし頭を横向きに固定されたままロクサーナを振り返ることもできない。


「ろ、ロクサーナ、何を……」

「これがわーの本性でおじゃる。分かったけ」

「と、とりあえず、私にはまったく優しくないということが分かりました……」

「今のはそもじが阿呆なことを抜かすから、直々に喝を入れてやったんじゃ」

「それは言葉ではいけなかったのでしょうか?」


 首の痛みに泣き言を言ったところで、トビアスはようやくロクサーナから解放された。

 堪らず首を押さえ、うなだれて涙目になりながら、しかしトビアスはようやく彼女の言わんとすることを理解する。


「つまりあなたは、ジャックの前では自分の本性を偽っていたと、そう仰りたいんですね?」

「うん。でなきゃあのように胡乱な男子に、わーが媚びなぞ売るわけがなかろうもん」

「だ、だったらあのとき、素直に一銀貨払えば良かったじゃないですか」

「阿呆。信用も置けん相手に払う銀貨なぞ、わーは持ち合わせておらん。かく言うそもじも女帝国で散財したあとで素寒貧じゃろうもん」

「そ、それはそうですけど……」


 仮にもロクサーナは年頃の娘だ。あれでもしジャックが本気になったりしたらどうするつもりだったのか。

 それでなくともジャックは元からロクサーナにデレデレしていたし、そんな可能性がまったくなかったとは言い切れないのではないか。


「そんなん、絶対に有り得んき」


 言い切られた。


「前にも言ったじゃろ。あの男子の狙いはそもじでおじゃる。あやつにとってわーはそもじに近づくための口実に過ぎん。その理由は分からんが、わーのことなぞ眼中ににゃーのだけは確かじゃき。そもじの何倍も長く旅してきたわーが言うんじゃ、間違いにゃー」

「ほ、本当ですかね……」

「そもじも疑り深いのう。わーは気休めを言うのも言われるのも嫌いでおじゃる。ついでに言えばてんくらも嫌いじゃ。じゃから一度本性を見せた相手に嘘は言わん」

「てんくら?」

「人を騙したり唆したりすることでおじゃる」


 少しだけ拗ねたようにロクサーナは言った。

 過去に騙されたり唆されたりした記憶が甦った。そんな顔をしていた。


 本人が言うように、ロクサーナはトビアスなどよりずっと長く世界を旅してきたのだ。ならば他人に裏切られた経験も一再ではないだろう。


 ひょっとしたらロクサーナの、一見無遠慮にも思える普段の言動は、そうした経験の裏返しなのかもしれない。彼女は嘘や誤魔化しを言いたくないのだ。少なくとも自分が心を許した相手には。


 そしてロクサーナがその〝相手〟として自分を選んでくれたなら――。


 そのときトビアスはふと脳裏に浮かんだ思考に口を閉ざし、一呼吸置いてから、言う。


「それじゃあ、ロクサーナ。一つ訊いてもいいですか?」

「何じゃ?」

「ロクサーナはいつから屍霊使いカニバルの噂を知ってたんです?」


 ずっと尋ねたいと思っていたことだった。しかし訊かれたロクサーナは、一瞬言葉に詰まったような反応をする。


 ロクサーナの様子がおかしくなったのは、ジャックから屍霊使いカニバルの話を聞いた直後からだった。これはさすがに何かあると思い、トビアスはそれを問い質す機会を窺っていたのだが、ロクサーナのまとう深刻な空気がそれを躊躇させたのだ。


 できることならその話題には触れないでほしい。ロクサーナが態度でそう告げているのを感じ、トビアスは素直に口を閉ざしてきた。


 かと言って沈黙の裏にある真実が気にならなかったわけではない。ロクサーナもそんなトビアスの心中には薄々気がついていたのか目線を落とし、ついに重い口を開く。


「わーがその噂を聞いたのは、そもじと出会う前のことでおじゃる」

「え?」

「年明けにルエダ・デラ・ラソ列侯国で屍霊使いカニバルが出たという噂を聞いて、わーはあの国を調査しとったんじゃ。じゃけんじょわーが列侯国に入った直後からぱったりと噂が途絶えてしもうての。それで新しい手がかりを求めて、一度女帝国へ行ってみることにしたのでおじゃる。古い伝を頼れば何か有力な情報を得られるやもしれんと思うての」

「それじゃあ、あのあとまたすぐに列侯国へ戻ってきたのは……」

「うん。ペラヒームで、屍霊使いカニバルはやはり列侯国におると知己から聞いた。そのあとたまたま列侯国の商人と出会っての。難民の話を聞いて、もしやと思った。列侯国は屍霊使いカニバルに難民を喰わせておるんじゃにゃーかと……」

「で、でも屍霊使いカニバルがいくら人を喰らうと言ったって、万を超える生け贄を差し出す必要がありますか? 確かに屍霊使いカニバルは人の血肉を喰らって闇の力を得ると言いますが、だからと言って一度に何百もの人間を食べるわけじゃないでしょう?」

「うん……わーもそれは引っかかっておったき。じゃけんじょ屍霊使いカニバルは屍を操る邪術師でおじゃる。死体の数が増えれば増えるほど手勢は増える。その屍霊使いカニバルと手を結び、列侯国が万を超す屍霊を自国の戦力にしようと目論んでおったとしたら――どうじゃ?」


 ぞくり、と、嫌な寒気が背中を撫でた。

 ロクサーナの話にはぞっとするほど筋が通っているように感じる。それなら列侯国が主戦力であるはずの傭兵を北へ回していることにも納得がいってしまうからだ。


 あるいは列侯国は、その邪悪な力を借りて軍事後進国という汚名を返上するつもりでいるのではないか。屍霊使いカニバルの操る死人しびとの軍勢は不死の軍と言ってもいい。

 何しろ既に死んだ人間が人形となって動いているに過ぎないのだ。過去にも屍霊使いカニバルがそのような軍を創り出し、生者を脅かした歴史は存在する。


 だが魔界の住人となった邪術師と手を結ぶなどという愚行を、古王国時代からの長い歴史を持つ国家が敢えて犯すだろうか。砂王国はともかく、更に東のトラモント黄皇国、北のアマゾーヌ女帝国、南のアビエス連合国はいずれも神子によって打ち建てられた国だ。

 神々の国である天界と魔界とは神話の時代から対立している。その魔界と通じる不届きな国が現れたと知れば、当然神の威光を知るそれらの巨大国家が黙ってはいないだろう。


「私には列侯国がそこまで愚かな選択をする国だとは思えません。魔界と手を結んだ者の先には滅びしかない。それは歴史が証明しています。数百万の民を抱えた国家が、その歴史を顧みずに力だけを求めるような真似をするでしょうか」

「それはわーにも分からんき。あくまでそういう可能性もある、という話でおじゃる」

「ロクサーナ。これは私の勝手な憶測ですが……」


 言いかけて、本当にそれを口にしていいものかどうか、トビアスは迷った。


 しかしそれはここまでのロクサーナの言動を見て、トビアスの中で確信に変わり始めている。屍霊使いカニバルについて語るときの、必要以上に思い詰めた表情――今もそれを浮かべてこちらを見つめているロクサーナに、意を決し、トビアスは言う。


「あなたは私と出会う前から、屍霊使いカニバルの噂を追っていたと言いましたよね」

「うん、言った」

「ではその屍霊使いカニバルと、あなたが探していると言っていたアザーディさんという方は――何か関係があるんじゃありませんか?」


 言ってしまった。トビアスがそう思うのと、ロクサーナが大きな目を見張るのが同時だった。

 途端に彼女は顔を伏せ、何かを堪えるように口を噤む。トビアスにはロクサーナのその反応が、何よりも明確な答えだと思えた。


 ――やはりそうなのか。


 ロクサーナはペラヒームで、アザーディの行方を探ると言って度々宿を空けていた。しかし実際に持ち帰った情報は屍霊使いカニバルにまつわるものだったと、たった今彼女自身がそう言ったのだ。


 ならばそこから導き出される答えは、


「トビー」


 不意に名を呼ばれ、トビアスは思わず肩を震わせた。


 顔を上げたロクサーナは、そんなトビアスをまっすぐに見つめてくる。

 その瞳の奥で揺れているのは、悲しみとも後悔とも呼べぬ何か。


「そもじは、光神の僕でおじゃろ?」

「は、はい」

「ほいならもう少しの間だけ――わーに勇気を分けてたもれ」


 言って、ロクサーナはそっとトビアスの右手を取った。食事のために手袋を外したその手には、星色に輝く光の刻印――光刻(グリーム・エンブレム)がある。


 ロクサーナはそれを軽く持ち上げ、そこにある光刻(グリーム・エンブレム)を自らの額に押し当てた。


 ドクン、とトビアスの心臓が鳴る。まさかロクサーナは、この光刻(グリーム・エンブレム)の力を恃んでいるのだろうか。


 しかし、自分は。


「あ……あの、ロクサーナ。私は――」


 そのとき、ロクサーナが再び顔を上げた。何かに気がついたように部屋の出口を振り向いている。


 どうしたのか、と思った直後にトビアスも気がついた。

 一階から聞こえていた怒声と騒音が止んでいる。どうやら二人が話し込んでいるうちに、嵐はひとまず去ったようだ。


「やっと治まったようでおじゃるの。ほいならわーは出かけてくる」

「えっ。で、出かけてくるって、まさか街に出るつもりですか?」


 そんなものは自殺行為だ、という忠告を込めてトビアスは言った。

 外では野蛮な男たちが腰に武器を提げてたむろしているのだ。そんなところにロクサーナのような少女が一人で出ていけば、たちまち目をつけられて何をされるか分からない。


「しょうがなかろうもん。とにかく外で話を聞かんことには、屍霊使いカニバルの行方も探れんき。わーはそのためにここまで来たのでおじゃる。いつまでも宿に籠ってはおれん」

「で、でも、さっきだって下であんな騒ぎがあったばかりですし……」

「この街はいつ来てもあんなもんじゃ。恐ろしいならそもじはここで待ちんしゃい」

「まっ、ままっ、待って下さい! わ、私も行きます、行きますとも!」


 てきぱきと身支度を整えて出ていこうとするロクサーナを、トビアスは慌てて追った。彼女を一人で送り出すのが心配だからというのはもちろんだが、それよりもまずこの街で一人になるという状況への恐怖の方が遥かにでかい。


 それならばたとえ命懸けでも二人でいた方がまだマシだ、と判断したところで、不意にロクサーナがこちらを向いた。

 そうして彼女はトビアスをまじまじと見つめ、さも平然と忠告する。


「ほいなら荷物は全部持ってついてきんしゃい。忘れ物のにゃーようにの」

「え? ぜ、全部ですか?」

「当たり前でおじゃろ。蝋燭一本でも置いていこうもんなら、間違いなく盗まれるぞえ」

「……」


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