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この街の住人による連鎖的日常

作者: 百千万億 一

1 男子高校生による平凡的日常




 ダムダムダム、とボールをドリブルする音が響く。

 彼、白島流は友人達がバスケットボールに興じているのをコート外、体育館の隅でぼんやり眺めていた。

 別段、彼は運動が苦手な訳ではない。六月の蒸し暑さとバスケットボールによる激しい運動で汗をかきたくなかったので、適当な理由を付けて授業をサボっただけの単純な話である。

 加えて、この体育の授業は4時間目。

 昼食前の空腹の時間によくあんなに走り回れるなー、と心の中で小さくクラスメイト達を賞賛する。

 これがサッカーだったらピッチの隅で立ってるだけでいいから楽なんだけどな、とぼんやり友人達のゲームを眺めながら思う。

 中学までサッカー部に所属していた彼であったが。特にサッカーというスポーツに執着がある訳ではない。サッカー部にいた理由をあえて挙げるなら、スポーツの中で一番出来たのがサッカーだったからだ。

 中学時代はバスケにも少しは興味があったものだが、今のクラスメイトの様子を見て入らなくて良かったと思った。サッカーも大概だが、バスケもなかなか汗をかくスポーツだ。屋内なので風も無い。汗だくになっているクラスメイトを見ているとつくづくそう思った。

 ゲームの様子を見てみると、ボールを持った太めの……言ってしまえばデブのクラスメイトが某バスケ漫画も真っ青な高速ドリブルで運動部のイケメン達ををごぼう抜きしたところであった。

「うぉわ…………」

 思わず変な声が漏れてしまった。

 ――――何だアレ、残像が見えるドリブルって漫画の中だけじゃないんだな。

 ――――2ヶ月前の入学当初、クラスの顔合わせの時に体型だけ見て思わず鼻で笑ってごめん。実はお前凄いやつだったんだな。

 太めの彼、知らないところで散々な言われようである。

 ちなみに今、太めの彼がスリーポイントシュートを打とうとしたところ、現役バスケ部に阻止されていた。

 流石バスケ部、と心の中で賞賛の言葉を贈ったちょうどその時、流のお腹が空腹から小さく嘶いた。

 チラリと時計を見る。授業終了まであと10分だった。

 そういえば今日の弁当のおかずは何だろう、と母の作った弁当の中身に思いを馳せる。

 昨日は肉だったから今日は塩味の薄いものだろうか、それとも昨日の煮物の残りだろうかと考えていたところで、ふと気づく。


 今日、カバンに弁当を入れた記憶がない。


 サッと彼の顔から血の気が引く。

 帰宅部の彼にとって、数少ない学校での楽しみである昼食の時間が奪われることは相当な苦痛である。

 彼は必死に記憶の糸を手繰る。だが起床時、朝食時、着替えなどの記憶を順に追っていっても、弁当を手にした記憶はない。

 ――――あぁ。

 そこでようやく、流は悟った。

 ――――弁当、忘れた。

 この体育の授業で一番最初に燃え尽きたのは、バスケをプレイするクラスメイト達ではなく、見学していた流の心だった。

 流は虚ろな目でゲームに目をやる。

 太めの彼が、フォームをガン無視したスローイングフォームでブザービーターを決めていた。

 だが、動けるポッチャリよ、一つ言っておく。


 そっちは、お前の味方のゴールだ。




2 女子高校生による普遍的日常




 昼休み、真面目な彼もチャラい彼女も、平等に憩うこの時間。二年生、白島泉は一年生の教室のエリアを弁当を持って歩いていた。

 普段彼女は、一年生の教室で弁当を食べることは無い。というか、今日も食べるつもりも無し、そもそもこの弁当は彼女のものではない。この弁当は弟、白島流のものだ。

 弟より少し家を出るのが遅い彼女が家を出ようとしたとき母に呼び止められ、何事かと思いきや流が弁当を忘れたから届けてほしいという。

 弁当を届けること自体は別にいい。弟の世話焼きなんてこれまで何度もやってきた。

 だが、一年生のこの視線が少しキツい。この完全なアウェー感がキツい。

 人見知りな彼女の心は、この視線の槍にグサグサと抉られていく。

 と、心に地味にダメージを蓄積しながら、あることに気がつく。


 ――――私、流のクラス知らないじゃん。


 どうしよう、と彼女は表情を少し歪める。彼女は、弟の交友関係というものを把握していない。つまり、弟の居場所を聞くにしてもそのツテがないのだ。

 廊下には駄弁っている一年生がチラホラいるのだが、名前も知らない下級生に話しかけるという高等テクニックが人見知りな彼女に使えるわけが無い。

 どうしよう、とまた彼女はさらに深く表情を歪め立ち尽くす。下級生の教室の前で立ち尽くす先輩の図というのは、先程よりも好奇の視線を集めているのだが、彼女は手持ちの弁当をどうするかに気をとられその視線に気づかない。

「どうした白島、一年生の教室の前で何を突っ立ってる?」

 ふと、思考の堂々巡りにはまっていた彼女に声がかけられる。泉が振り返ると、メガネを掛けた神経質そうなスーツの男性がいた。

「西方先生…………」

 そこにいたのは、一年生と二年生の数学の授業を受け持つ教師、西方宗法であった。

 去年から赴任してきた先生で、まだ二十代半ばと若く生徒たちからも慕われているが、反面規則や生活態度にはとても厳しい。

 だが、今の彼女には西方の存在はとても頼もしく見えた。

「あ、あの、弟の……流の教室ってどこですか? お弁当、届けに来たんですけど、他の、人に聞けなくて…………」

「白島弟の教室か? あいつのクラスは確か3組だな」

 西方は逡巡の後にそう答えた。彼は自分の受け持っているクラスの構成を把握しているのだろうか、と泉は心中で驚愕する。

「あ、ありがとうございます」

 泉は少しドモりながらも小さく西島に礼を言った。そんな泉の様子を見て、西島は小さく苦笑した。

「まだ、人見知りは改善されてないみたいだな」

「す……すいません…………」

「いや、責めてる訳じゃない。お前のペースでゆっくりやっていけばいい」

 西方は、穏やかな声でそう言った。その低く落ち着いた声は、泉の心を少しだけ落ち着かせた。

「しかし、白島弟の抜けてる感じというか、無気力さというか、あれはどうにかならないもんかな……」

「弟は、昔からずっとあんな調子なので……」

 今度は、泉が苦笑する番だった。

「じゃあ先生、ありがとうございました」

 手に持った弁当の事を思い出した泉は、西方に小さく頭を下げて、1年3組に向けて歩を向けた。

 

 後ろで、西方が小さく何かを呟いた気がした。




3 数学教師による論理的日常




 数学教師、西方宗法は廊下を小走りで駆けていく小さな背中を見送ると、小さく呟いた。

「他の生徒も、白島のように節度を持った態度で生活して欲しいものなのだがな…………」

 彼はその小さな呟きと共に溜め息を吐いた。

 チラ、と廊下を視線だけで見渡す。スカートの丈が短い者、髪を染色している者、制服を着崩している者。何故わざわざ自分から規則を破りに行くのか、西方にはどうにも理解できない。その癖、普段の態度は真面目で根は素直でいい奴だったりする。 

 ――――まぁ、それと規則を破ることとは、何の関係もないがな。

 それはそれ、これはこれ。彼は公私の混同はしない男である。

「あ、ニッシーだ」

 そう声を掛けられたのは、彼が制服を着崩していた生徒を注意しようとしたときだった。

 出鼻を挫かれたことに少し不快感を覚えながら振り返ると、そこにいたのは少し癖毛がかったロングヘアーにピンクのブラウスの女性。無論、生徒ではない。

「何してるのー? 校舎の中に蛇でも入ってきたー?」

 そんな見当違いな事をほんわかした雰囲気で言うのは、同僚の国語教師、雨宮楓である。

「雨宮先生、勤務中に私をそんな風に呼ばないでください」

「えー? でも私たち高校からの同級生じゃない? いいじゃーん」

「私は過去に一度も雨宮先生にそのあだ名で呼ばれたことはありません。あと、ここは二階です。蛇は滅多なことでは入ってきません」

「そう? でも、私蛇が空を飛ぶのを見たことあるよ?」

「……そうですか」

 はぁ、と溜め息を吐く。今度のは、小さくはない。

 彼は、雨宮楓が苦手だった。ほんわかした雰囲気はどこか締まらないし、生徒全員に対していつもこんな感じだし、時々訳が分からない事言うし、変なあだ名付けてくるし。文系と理系との思考回路の差とでも言うのか(勿論、文系が全員こんなのだと言っている訳ではないが)、とにかく彼女との対話というのは、西島の気苦労の要因の一つであった。

「雨宮先生、何度も言うように、公私を分けてください。生徒にけじめが付きません」

「え〜? でも、生徒とフランクに対応できる先生も必要だと思わないー? ほら、のりぴーが厳しい分なおさら、ね?」

「それにしたって貴女の職務態度は風紀を乱しかねません。あと、そのあだ名は洒落にならないので止めてください」

 西方は彼女、雨宮との出会いを思い出す。およそ10年前の高校一年生のころだ。西方と雨宮は同じクラスで隣の席だった。最初の会話は、確か西方が消しゴムを落とし、それを雨宮が拾ったときだったか。彼女は西方の消しゴムを拾い上げると、パッと何かを思いついたように表情を明るくすると、マジックで消しゴムに何かを書き込んだ後、それを西方に返した。勝手に私物に落書きされたことに憤慨しながらも、消しゴムに何を書かれたから気になったので見てみると、達筆なひらがなで『ぎぶみぃ』と書かれていた。意味が分からなかった。

 その出来事以来、彼女は高校でいわゆる『不思議ちゃん』のポジションを不動のものとし、その『不思議ちゃん』キャラは10年経った今でも継続中ということである。

 だがまぁ、と西方は右へ左へ視線をさまよわせてる雨宮を見て思う。確かに普段の生活態度については正直不良生徒の方がましと思えるほど不可思議なものではあるが、授業はきちんとやっているし生徒からもよく慕われている。こんな不思議ちゃんでも、一応教師なのだ。

 あとは、その不思議キャラだけどうにかして欲しいのだが、と西方はそう思いながらまた小さく溜め息を吐いた。

「……今回の所はもういいです。ですが、流石に少しは自重してください。貴女も教師なのですから」

「はーい、分かりましたー」

 間延びした語尾でほんわかと雨宮は返事をした。最後にもう一つ溜め息を吐くと、西方は雨宮に背を向けて職員室へ向かった。



 

4 国語教師による不思議思考的日常




 雨宮楓は、高校の国語教師である。

 その常人の斜め上を行く思考回路と、普段の不思議な言動とは裏腹な分かりやすい授業から、生徒の間では高校の名物みたいな認識をされていた。

 そんな彼女は、同僚であり高校からの同級生でもある西方から昼休みにお叱りを受けた。流石に生徒がにけじめがつかないのでその行動を自重して欲しいと。

 さて、西方からお叱りを受けている彼女の心中はと言うと。 


 ――――ああああああああやばいやばいやばいやばい、西方君怒ってる怒ってるよ。怒ってる? 怒ってるよね? なんで他人に迷惑かけてまでこんなキャラやってるんだろう私いいいいいいいいい!!


 不思議ちゃん抜きに割りと切羽詰まっていた。

 周囲の人物から『不思議ちゃん』などと思われている彼女ではあるが、実のところ彼女の本質は『不思議ちゃん』とは程遠かった。

 中学まで、雨宮は他人との付き合いが苦手な内気な少女であった。その内気さときたら、人と目を合わせるのも億劫と思ってしまうほどであった。

 だが、高校入学を機に一念発起。一人県外の私立高校へ入学し、新たな『雨宮楓』としてのデビューを心に決めたのだった。

 その結果がこれであるが。

 ――――何で私不思議ちゃんみたいなキャラでもう10年もやってるんだろう……あれだよね、今までの内気な自分とララバイしたくてちょっと電波な感じを演出しちゃったのがいけなかったのよね? うわああああああああ西方君あの時消しゴムに訳わかんないこと書いてごめんんんん!! それにいつも変なあだ名つけちゃってごめん普通に謝ればいいのになんで変にキャラ守っちゃうかな私の馬鹿あああああああ!!

 語感だけで言ってはいるが、ララバイは子守唄のことである。

 ほわほわとした雰囲気の裏で、ものすごい数の後悔と懺悔を西方に対して行っていた。

 西方が溜め息と共に立ち去った後も、彼女の脳内懺悔と葛藤は続く。

 ――――もうこのキャラ止めちゃおうかなぁ…………でも今となってはこのキャラがあったからここまでこれたのも事実だし……でも私もう今年で25歳だし…………二十代後半になってこのキャラはキツイよねやっぱり……。

 ポケットから自分の携帯電話を取り出す。スマートフォンではなく、今となっては型落ちした折りたたみ式の携帯電話だ。

 待ち受け画面を開くと、愛らしい黒猫の姿があった。最近、彼女の住むアパートに現れる様になったオスの野良猫である。人に慣れているのか、雨宮が近づいても逃げなかったので、先日その姿を写真に納めたのであった。


 ――――私の心を癒してくれるのは貴方だけだよクロリーヌ…………。

 

 野良猫に勝手に名前をつけている上にこのネーミングセンスである。 

 少しずつだが、素の彼女の思考も、不思議思考に染まっていってるのかもしれない。




5 生徒会長による規律的日常




「こら、そこの一年生。スカート丈が短い、直しなさい。あと窓際の男子生徒、茶髪は校則違反よ。明日までに黒くしてきなさい。あと、その首から下げてるネックレスは没収です」

 昼休み、生徒の憩いの時間の最中の校舎のフロアに、三年生にして生徒会長、奈津鈴音の凛とした声が響く。

「え〜勘弁してくれよ生徒会長! このシルバーアクセ昨日見つけた掘り出し物なんだよ〜!」

「掘り出し物だろうと何だろうと校則違反です。放課後生徒会室に取りに来てください」

 ちぇっ、と茶髪の男子生徒は小さくそう呟くと、渋々と言った様子でアクセサリーを渡す。注意すれば従ってくれるあたり、根は真面目なのだろう。生徒会長としての職務を通して知ったが、この学校にはそういう生徒が多い。

 それならば最初から校則を守ってくれればいいのに、と鈴音は小さく溜め息をつく。同じころ、一年生のフロアで数学教師が似たようなことを呟いていたのだが、それは先述したので割愛する。

別に校則を絶対遵守しろとは言うつもりはない。が、染髪や過度なメイクなどの『一線』は超えないでしいとと切実に彼女は思う。風紀委員がないこの学校は、その役割を生徒会が兼ねているため、とにかく仕事が多い。朝の挨拶運動や予算案の編纂、イベントの計画・準備にその他雑務諸々。今なら自らを『社畜』と称する会社員の父の気持ちが少しだけ分かる気がする。

 そんな思考に没頭していると、一人の女子生徒が前から小走りで走ってきていた。手には弁当箱ほどの大きさの包みを持っている。

「そこの女子生徒。確かに昼休みは待ってはくれませんが、廊下は走らないように」

「ひいっ!? すいません!」

 鈴音がやんわりと女子生徒を注意すると、女子生徒は両肩をビクンと跳ね上げ、鈴音に大きく頭を下げた。

「えっ、いや、分かってくれればいいんですが……そこまで深々と頭を下げなくても…………」

「は、はい、すいません…………」

 女子生徒のオーバーな謝罪に内心ドン引きしながら鈴音はそう言うと、女子生徒はまた深々と頭を下げた。

「では、すいません、失礼します…………」

 女子生徒は、また小さく頭を下げると、早足にその場から去っていった。

「……気の弱い人だったのかな…………?」

 そこまで強く言ったつもりは無いんだけど、と自分の発言を省みつつ、鈴音も昼食を取るために生徒会室へと足を向けた。




6 黒猫による奔放的日常




 灰色の塀の上を、私は我が物顔で目的も無く歩いていく。

 私は、自由だった。野良猫の身である私は塀を伝い地面を駆けて、どこへでも行くことができた。

 塀の上から、道を行く人間の子供を横目でチラリと見る。自分に気づいた子供が笑顔で前足を振ってきた。私は返事代わりに一つニャアと鳴いた。子供は嬉しそうにまた笑うと、どこかへと走っていってしまった。あれだけであんなに嬉しそうにするとは、なんとも単純な子供だ。

 だがあの無邪気で自由な子供は、あと数年もしたらあの四角い箱を背負わされ自由を奪われるのだろうか。そう思うと、なんだか少し悲しかった。

 あの四角い箱は嫌いだ。私の嫌いな革の匂いがする。何だって人間の子供はあんな面白みの無い箱を皆嬉しそうに背負って成長していくのだろうか。あの四角い箱を背負った子供は、時間を奪われ、世界を奪われ、自由を奪われる。そうしてそのうち、人間は四角い箱を背負うのを止めるが、その代わりに皆同じ格好をし始め、また自由を奪われる日々が続く。それは、野良猫の私からすれば耐えることが出来ない拘束だ。

 そういえば一度、人間のメスが私に話しかけてきたことがあった。なんだか深刻な顔をして、『学校』とか『先生』とか『友達』とか言っていた。私は『友達』しか言葉の意は分からなかったが、言いたいことは分かった。どうやら群れに馴染めないようだった。私は彼女を慰めるように何度も鳴いた。お前のやりたいようにやればいいのだ、と彼女に向かって何度も鳴いた。だけど彼女は私の言いたいことが分からなかったようだった。

 猫は人間の言葉が分かるのに人間は猫の言葉が分からないことを、私はその時初めて分かった。自分の言いたいことが、そんな詰まらないことが理由で理解されないとは何たることだ! とあの時は世の不条理に憤慨したものだ。

 そんなことを考えてるうちに、件の四角い箱を背負った子供の群れに行き当たった。私は進路を変えて、子供から姿が見えないようにルートを変更した。二度も人間の子に捕まるなどという愚は犯さないが、何が起こるかわからない。

 屋根に飛び乗った私は、先程いた塀よりも高い場所から四角い箱の群れを見下ろす。一列に並び皆同じ方向へ向かっていく姿には、自由など感じられない。

 何故人間は、自由を奪われてまで群れようとするのだろうか。人はそれを『規律』と呼ぶのだろうが、その規律を守ることに何があるというのだろう。野良猫の様に、自由気ままに好きなことを好きなようにする訳にはいかないのだろうか。

 まぁ、いかないのだろう。人間はむしろ、その『規律』に縛られる生活を楽しんでいるようにも見える。

 だが、仮にそうだとしたら、あのときのメスは、何故あんなにも苦しそうだったのか。

 あの人間のメスは、今どうしているだろうか。もう10年近くも前のことだから、顔も思い出せない。私が犬なら、匂いで覚えていたやもしれんが、犬になるなんて想像の中でもお断りだ。私は、首輪に繋がれたりなんてしない。


 くぅ、と小さく私の腹がなった。気づくと、もう陽が傾き始める時間だ。ずいぶん長いこと思考に没頭していたものだ。

 私は、屋根からぴょんと飛び降りると、私はある場所に向かった。最近私がよく足を運ぶ、複数の人間が一同に介し生活する場所。人間はそこを『アパート』と呼んでいるようだ。

 そこに住む一人のメスは、私によく鰹節をくれる。野良猫の私にとって、安定して食事を得る事が出来る場所というのはありがたいものだ。だが、今の時間、彼女はあそこにいるのだろうか。いつも彼女をあの場所で見かけるのは早朝か陽が沈みきったころだ。

 まぁいい。居なかったら待てばいいのだ。もしかしたら、他の人間が何かくれるかもしれん。

 私はもう通りに人間の子が居ないことを確認すると、そのアパートを目指した。


 


7 男子高校生による平凡的日常?




 夕方、沈む陽がオレンジに染める街の中、白島流は一人帰路に着いていた。

 部活動に所属していない彼はおよそ1時間前には既に学校を出ていたのだが、このまま帰ってもやることがない、と学校周辺の本屋やCDショップをブラブラしていたのだが、特に何も買うことなく帰ってきたのだった。

 ふと、塀の上を歩く黒猫とすれ違った。すれ違いざま、「お前はいいよな、自由で」と視線を送ると、黒猫もそれに気づいたのか「いいだろう。代わってやろうか?」と誇らしげに鼻を鳴らして、どこかへ行ってしまった。言ってるそばから自由MAXだな、と黒猫の奔放ぶりを羨んだ。

 彼は家路を歩きながら、ふと自分が幼かった頃を思い出す。今よりももっと背が低く、今よりももっと無知で、今よりももっと自由だった頃のこと。

 あの時は、毎日が冒険のようだった。壁のようにそびえる塀の向こうには、大きな猛獣がいるのだと思っていた。夜遅くなると、恐ろしい妖怪が現れるのだと思っていた。憧れていた正義のヒーローが、この世界のどこかにいるのだと思っていた。

 だが背が伸びて、色んなことを知るにつれて、そんなこと全部嘘だと知って、いつの間にか色んなことがつまらなくなって、気がつくと、自由なはずなのに自由じゃなくなっていた。

 あの時のドキドキを感じることは無いんだろうな、とそんなことを考えながら歩みを進める。もう、姉は家に帰っているのだろうか。弁当を届けてもらったこと、まだちゃんと礼言ってないや。姉に会ったらちゃんと言わなければ。

「……………………」

 もし。

 もし、今考えていた事を姉に話したら、姉はなんて言うのだろうか。「分かる分かる」と、頷いてくれるのだろうか。「相変わらず変なことを考えてる」と、呆れられるだろうか。実際にどんな反応をするのか、ちょっと気になった。

 家に帰ったら、聞いてみようかな。そう思いながら家に続く道を進んでいく。

 と、角を曲がってもうすぐ家だというその場所で。

「…………姉ちゃん?」

 自らの姉が、道の往来を一人うなりながら行ったり来たりしていた。




8 高校生姉弟による団欒的日常




「なにしてるのさ、姉ちゃん」

「ひゃあ!?」

 俺は道の真ん中で一人不審な行動を取る姉に、若干引きながらも声をかけた。

 人見知りの姉は突然後ろから声をかけられた事にオーバーな驚き方を見せるも、声をかけたのが俺だと分かると、すぐに落ち着きを取り戻した。

「いきなりびっくりするじゃない流…………。危うく心臓止まっちゃうかと思った」

「あっそう。俺は姉ちゃんが天下の往来で不審行動取ってるの見て死にたくなったけどね」

「不審行動って……そんなことしてないのよ。ただちょっと…………怖くてね?」

「人とすれ違うのが怖くてこの先に進めなかったの? もう姉ちゃん家から出ないほうがいいんじゃないかな?」

「違うわよ! 都市伝説よ都市伝説! 昔からあるでしょう、夕方になるとこの辺に幽霊がでるって噂。流も知ってるでしょ?」

「あー…………それ思い出してた訳ね」

 そういえばあったな、と流は記憶の隅から情報を引っ張り出す。夕方になると幽霊がでるというのは、昔からあるこの辺の噂だ。少なくとも、父と母はこの噂を子供の頃から知っていたらしい。なんでも、落ち武者の幽霊が暗がりからユラリと出てくるのだとか。

「何で今更そんなの思い出してんだよ」

「だって……ほんとに何となく思い出しちゃったんだもの…………幽霊に遭った時ってどうすればいいんだっけ。ポマードって三回唱えると逃げられるんだよね」

「姉ちゃん、それは口裂け女」

 はぁ、と思わず流の口から溜め息が出た。

「でも、よかった。流とたまたま帰りが重なって。これで幽霊がきても誰か知らない人とすれ違っても安心ね」

「もう姉ちゃんカウンセリング受ければいいんじゃないかな?」

 この姉はそれを本気で言ってるのだから笑えない。

 はぁ、とまた溜め息が流の口から零れる。

 まぁいい。姉の人見知りは、いつものことだ。ここまでくると人間恐怖症な気がするが。

 ふと、先程姉に聞こうと思ったことがあったことを思い出した。

「なぁ、姉ちゃん」

「ん?」

「…………いや、なんでもない」

 口を開こうとして、止める。姉と話しているうちに自分の中で、そのことはどうでもいいこととなってしまっていた。

「ふうん。変なの」

 特に気にならないのか、姉もそれ以上は聞いてこなかった。弟が相手ならこんな風に普通に話せるのになぁ、と流は姉の人見知りに少し呆れる。

 姉の人見知りは、昔はここまで酷くなかった。見ず知らずの人間に、所かまわずおびえるようになったのは何時からだったろうか。

 姉は、自分の知らない場所で一体どういう経験をした結果、こうなったのだろうか。幼い頃の冒険の中、一体何を見たのだろうか。


 いや。

 きっと特に大きなことは無かったのだろう。

 俺が、いつの間にか無気力な高校生になったのと一緒で。

 姉もいつの間にか、人見知りな高校生になってしまった。

 それだけのことだ。

 そんでもって、それでいい。

 きっといつの間にか、二人ともなるようになって大人になって、ふと今日の俺のように思い出す日が来るんだろう。

 小さい頃は冒険が溢れてたこと。

 自分が無気力な高校生だったこと。

 姉が人見知りな高校生だったこと。

 

 そんな事を思考していると、視線の先に一つの人影が見えた。黒い着流しに、髪をザンバラに切りそろえた時代錯誤の塊のような人だ。その格好はイケメン俳優演じる侍のようだった。

 この平成のご時世に着流しで外を出歩く勇気を持った若者が居るとは、と変なところに感心していると、不意にその侍と目が合った。俺は黙って小さく頭を下げた。侍は一瞬驚いたような表情をしたが、それは本当に一瞬。侍もまた俺に小さく頭を下げると、俺の横をスッと通り過ぎた。

「なんか変な人だったな、今の」

「え、何が?」

「さっきの、侍みたいな格好したイケメンだよ。居たでしょ、そこに」

「え? でも私、流と一緒になってから、誰も見かけてないけど?」

「…………え?」

「……………………え?」




9 一店員による接客的日常




「ありがとうございましたー」

 弁当を買いにきたサラリーマンを気の抜けた挨拶で送り出す。客の居なくなった店内で一人、古井目麗華は一つ小さく伸びをする。

 古井目麗華は、苦学生である。彼女はコンビニのバイトの他に、ファミレスのウェイトレスのバイトも掛け持ちしている。

 今年四月、憧れの大学生活に期待で胸を膨らませながら始めた一人暮らし。彼女はすぐに金銭面での問題に直面した。

 仕送りと奨学金で何とかなるだろうという楽観的思考が裏目に出た。今までは母が金銭の管理をしていたから分からなかったが、金銭の管理がこんなに難しいとは思わなかった。自分が意外と金遣いが荒いことにも気付いた。

 大学生活が始まって早二ヶ月。もっとスマートな大学生活を想像していたが、今の生活にスマートさを見ることは難しい。

 それから少し自分のバイト三昧な生活サイクルに嫌気が差してきたとき、ピロリロンと、間の抜けた短い音楽が鳴った。客が来たときに鳴るものだ。

「いらっしゃいませー」

 覇気のない挨拶で入ってきた客を迎える。入ってきたのは、20代半ばくらいの若い女性だった。癖のかかったロングヘアーにふわふわとした雰囲気。なんだか不思議な人だ、と麗華は何となくそう思った。

 女性はドリンクコーナーで何本かのペットボトルとおにぎりを一つ、それと少し迷った様子で鰹節と猫缶を手に取ってレジに持ってきた。

 麗華は事務的に商品をレジに通しながら、女性が持ってきた猫缶を見て思う。猫缶はこの店に置いてある一番高いものだった。私はバイト先のまかないと売れ残った弁当で食費を節約してるのに。大学生と社会人とはいえこの差は何なんだろうと、麗華は表情には出さず一つ毒を吐いた。

「すいません。これ温めて貰えますか?」

 女性はふわふわとした笑顔でそういった。おにぎりを温めてくれとレジで頼む客とは珍しい、と思いながら商品を詰めた袋からおにぎりを取り出す。

「あ、これもお願いします」

 おにぎりをレンジに入れるために背を向けた麗華に、女性はまたそう言った。

 これも? ちょっと待ってくれ、もう温めるものなんて無いはずだがと振り向いた先には、ほわほわとした笑顔のまま、袋から取り出した猫缶を差し出す女性がいた。

「……………………」

 どうリアクションしたらいいか分からなかった。

 コンビニでバイトを始めてもう二ヶ月だが缶詰、それも猫缶を温めてくれと言ってきた客は始めてだった。

「……いえ、さすがに缶詰はちょっと……………………」

 戸惑いながらも、麗華はそう言ってやんわりと断った。

 ちなみに缶詰を電子レンジで温めると缶詰が電気を帯びてプラズマ化して火花が散るので、絶対にやってはいけない。

「あらそうなの? ごめんなさいね」

 女性は店員にそれ以上何も言うことなく、猫缶を袋の中に戻した。女性は温まったおにぎりを受け取ると、小さく一つ麗華に会釈して店を後にした。

「…………不思議っていうか、変な人だったな……………………」

 女性の背中を見送りながら、麗華は小さくそう呟いた。




10 黒猫と国語教師による友愛的日常




 ――――ああああああ何で私はコンビにでまで不思議キャラでいくのよおおお! 猫缶なんて普通温めないでしょ絶対店員さんドン引きしてたよ店には客私しか居なかったのにいいいいいいい!

 コンビにを後にした雨宮楓は、先の自分の振る舞いに思わず顔から火が出そうだった。この10年の間不思議キャラを演じてきたせいで、時折素で不思議キャラな行動を取ってしまうことがあった。不思議キャラというか、先ほどの事に関してはただのアホとしか見られないだろうが。

 うぅぅ、と一人うなりながらコンビニで買ったおにぎりを一口。お米の甘さが口に広がる。その甘さに何だか慰められてるようで、思わず涙が零れそうになった。

 ニャア、とそんな傷心な彼女の耳に、一つの鳴き声が聞こえた。声のした方向を見る。灰色の塀の上に、一匹の黒い猫がいた。見間違うはずがない。最近アパートによく来る、あの猫だ。

 黒猫はまたニャアと鳴くと塀から飛び降りて、雨宮に並ぶように横に来た。思わず、彼女の表情が笑顔に変わる。

「……私を慰めに来てくれたの?」

 楓は黒猫にそう問いかける。勿論そんな訳がないと分かってはいたが、余りにもタイミングが良かったので思わず聞いてしまった。問いかけられた黒猫は小さく首を傾げ、またニャアと鳴いた。まるで「分かってるぞ」と言いたげな猫の反応に、また笑みが零れる。

「じゃあ、早くアパートに帰ろうか。今日は、クロリーヌにお土産があるのよ」

 楓は黒猫に手に持った袋を掲げて見せた。猫は嬉しさと不服さが半々といった表情でまたニャアと鳴いた。楓はその嬉しさの方だけを受け取ったようで、また一つ笑みを零した。ちなみに猫はクロリーヌというネーミングが気に入らなかったのだが、楓はそれに気付かない。

 人間と猫は、足並みを揃えるようにゆっくりと歩いた。

 

 もうすぐ陽が沈んで、一日が終わる。

 

 そしてまた、新しい一日が始まる。

百千万億 一です。久しぶりの短編です。

この短編は、私が文芸部の部誌に寄稿したものを加筆・修正したものです。


私が思うに、日常とは『誰かの日常の連鎖』で成り立ってるものだと思います。

私の何気ない行動が、習慣が、誰かの日常の一部となって、色んな人の日常に干渉しあって、そして大きな一つの日常ができあがる。

そんな大きな日常の中のいくつかを、この作品では切り取りました。


この作品が、あなたの日常の一つになれたら幸いです。

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