第26話 信奉者の信念
オルトの宿の朝は早い。騒々しい市場の活気が、宿の重い扉の隙間から滑り込んでくる。
アリアは一階の食堂で用意された簡素な朝食に口もつけず、古代地図と睨めっこをしていた。その隣ではシルヴァが静かに朝食を摂っている。
「それにしても、システィアの用意周到ぶりは評価するわ。水や食料、備品も全て、一晩で完璧に調達したわね」
アリアが地図から目を離さずに言う。
朝起きて、システィアの部屋に行ってみれば、まだ寝てはいたものの、ベッドの脇にはこれからの探索に使うであろう荷物がしっかり纏まっていた。
「言ってくれりゃ一緒に行くのにな」
「あんな振る舞いしておいて、意外と律儀で真面目なのかも」
「……そうであって欲しいな」
シルヴァは昨夜、システィアから受けた熱烈な視線を思い出し、わずかに顔を顰めた。
その時、眠そうなシスティアが気だるげに階段を降りてきた。
彼女は昨日と同じ、体のラインを強調した斥候服だが、あくびをして気だるげなのにその歩みは無駄がなく、隙が見えない。
「ふぁ〜あ、リアたん、ヴァー君、おはよ。早いわね、いつ出発するの? 」
「あなたが準備をしてくれたおかげで、いつでも出れるわよ、ありがと」
「んまぁ! 褒めてくれるの? 二人のためだもん、任せてちょうだい」
そう言ってシルヴァの隣に腰をおろすと、そのままシルヴァにもたれかかって深呼吸をする。
「はぁん、最っ高っ!」
「……」
「システィア」
食事をしていたシルヴァが固まり、アリアの目つきが鋭くなる。
「あっ、ごめんごめ〜ん。三食三嗅ぎしないとおさまらなくてぇ」
「三食一嗅ぎにしなさい」
「嗅ぐのは嗅ぐのかよ」
アリアの発言にシルヴァは突っ込みながらも頻度が減ったことに少しだけ安堵する。
しかしそれも束の間。
「え〜! リアたんの行きたいところに行くまでは三嗅ぎ! じゃないとアタシ、場所がわからなくなっちゃうかもよん?」
システィアが、道案内の条件として提示したシルヴァの匂い、それとアリアの目的地を天秤にかけた。
「ちっ……仕方ないわね」
不満そうではあるがアリアはそれを拒絶せず、シルヴァは思わず溜息を吐く。
それならばと、シルヴァの心に悪戯心が芽生える。
「……なら俺もリアの匂い、嗅いでいいか?」
シルヴァはアリアがこういうのに弱いということを知っている。求められることを極端に嫌がる――というか恥ずかしがるのだ。
「ばっ! 何言ってんのよ!」
「ストレスで暴走するかもしれん」
そのストレスの解消法として、アリアが照れる姿を見たいというのは、従者として望んでもバチは当たらないだろう。
案の定、頬を僅かに赤らめ、目を背ける。
「……一日一嗅ぎよ」
そして出てきた言葉に、シルヴァは思わず噴き出した。
「ふはっ。いいのかよ、真面目だな。大丈夫だよ、嗅ぐほど近くに寄らなくても、俺の鼻はいつも十分、リアを感じているから」
現時点、加護――あえて言うなら現時点では擬似加護のおかげか、シルヴァの身体能力は五感含めて普通の人間よりもだいぶ鋭敏なのだ。
アリアの調子は、精神面含めて匂いでわかる自信がシルヴァにはあった。
「なっ!?」
「きゃ! ヴァー君ったら、四六時中リアたんをクンカクンカしてるの? あぁん、想像するだけで尊し!」
「クンカクンカなんてさせてない!」
恍惚な表情でねっとりと悶えるシスティアを怒鳴りつけるアリアの顔は真っ赤だ。
普段なら穏やかな朝は、システィアという一人が加わるだけでだいぶ賑やかになった。
「もう! 無駄口はいいわ。行くわよ。シス! あんたの朝食は携帯食よ」
「あはっ、シスって呼んでくれた! はぁい、そんなリアたんの仰せのままにぃ」
アリアは冷たく言い放つが、システィアはアリアの手付かずの朝食を摘み食いしながら、優雅に微笑んだ。
オルトから古き森へ向かう道は、すぐに整備された道から外れ、岩と灌木が続く荒れた獣道となった。システィアは軽快にその先導を務める。
彼女は周囲の環境、魔物の気配、風向きを完璧に読み取っていた。
数時間後、一行は苔むした岩が不自然に並ぶエリアに差し掛かる。システィアは立ち止まることなく進むが、シルヴァの足がわずかに止まった。
「……どうしたの、ヴァー君?」
システィアが振り返り、甘く問いかける。
「いや……この辺り、何だか居心地が悪い。妙な圧迫感を感じる」
シルヴァが感じたのは、殺気ではなかったが、肌を刺すような不快な威圧だ。
「ふふ、これはね――」
システィアは目を細め、シルヴァの傍に寄ると、岩の一つを指差した。
「アタシの里が、聖域の『境界線』に仕掛けたもの。外部の人間には不快感を与えて『この先に進むな』という意を込めた対する魔力的な警告よ。害を与えられる程強くは無いし、私達はこのことを知ってるから、特に気にもしないけど」
「言われてみれば、確かに何か感じるわね」
「リアたんの魔力からしたらたかが知れてるから、リアたんが気にしないのも無理ないわ」
アリアは魔力解析を試みる。
その魔力は極めて自然に溶け込んでおり、明確な術式としては捉えられない。
「繊細な術式ね、すごいわ」
「あら、ありがとう」
里が褒められたと思ったのか、システィアはアリアに純粋な礼を述べると、岩の横に生えていた小さな苔を、足元で優雅に踏み潰した。
苔の下には、魔力を宿した石が埋められていた。カチリ、と微かな音を立てて魔力的な繋がりが途切れ、周囲の圧迫感は消えた。
「無効化された。そんな単純な発動体だったのね」
アリアは驚きを隠せない。
「単純なものが、一番気付きにくいものよ」
システィアは満足げに、そして意味ありげにシルヴァの胸元を人差し指でなぞるのだった。
境界を乗り越えると、道の両脇には、空を覆い隠すほど鬱蒼とした巨木が立ち並び始めた。ここが目的地である『古き森』の入り口らしい。
「ここが、古き森……」
シルヴァが声を漏らす。アリアはその空気の異変を即座に感知した。
「待って。この森、空気が変。まるで……世界から切り離されているかのようだわ」
アリアは瞳に魔力を集中させ、森全体を覆う高度な結界が張られていることを突き止める。
「まだ進まないで。触れたら何が起こるかわからないわ」
シルヴァとシスティアに指示を出すアリアの横で、システィアはわざとらしく肩を落とした。
「あらぁ、アタシ、いらないコかしら。ヴァー君が境界に気づいて、リアたんが結界に気づく。アタシの役目は、ただの歩く地図で終わっちゃうの?」
そう言いながら、システィアはアリアに甘えるように抱きついた。しかし、その顔は拗ねているというより、アリアの反応を試すような挑発的な笑みを含んでいる。
「煩わしい。例え歩く地図だとしても、優秀じゃないと私達はこの場所には辿り着けなかったのだから、あんたは私達には必要なのよ」
「ふふ。リアたん優しい〜」
アリアはシスティアの抱擁を振りほどき、真剣な顔で結界の解析を進めた。
「この結界……これは、対象を選別している?」
「選別?」
「ええ。この森の結界は、獣人以外を完全に弾くように張られている。私たち二人は、魔力で弾かれて中に入ることすらできない」
「つまり、中に入れるのはアタシだけということ?」
システィアが問い返す。
「そうよ。そして、結界を解除するには、この森の内部、恐らく結界の中枢にある発動体――核を破壊するか術式から外す必要がある」
シルヴァが顔色を変えた。
「核を破壊!? システィア、ここは君の里の聖域だろう。勝手をして壊れたとなっては……」
アリアもまた理性を保ち、口を開いた。
「シルヴァの言う通りよ。ここはあんたの故郷の聖域。結界の核も並大抵の魔石じゃないはず。流石の私も破壊しろなんて言えないわ。かと言って術式を読み解くのは恐らく私じゃないと無理でしょうね……里に相談してみましょう。時間はかかりそうだけど……」
しかし、システィアは彼らの懸念を一蹴した。
彼女の顔から、いつもの妖艶な笑みは消えていた。そこにあるのは、極光の信奉者としての、ひたむきで強い決意だけだった。
「いいの、リアたん、ヴァー君。二人が昨日会ったばかりのアタシや里を気遣ってくれただけでアタシは満足。やっぱり、二人は素敵な人だわ」
システィアは古き森の暗い入口を、二人の前で初めて見せる凛とした視線で見つめた。
「二人の尊い物語の邪魔をするものは、許さないんだから」
そう言い放つと、システィアはアリアとシルヴァの制止を聞くことなく、しなやかな体躯を結界の奥へと滑り込ませた。
「待ちなさい、シス!」
アリアが叫んだ時、システィアの姿は既に森の暗闇に飲まれていた。そして、遠くから微かな破壊音が響いた。
次の瞬間、森を覆っていた分厚い結界が、砕け散るように霧散した。
システィアは、自分自身の故郷の聖域を、アリアとシルヴァの旅路のためだけに、迷いなく破ったのだった。
結界が霧散した後、アリアとシルヴァは呆然として森の入口に立ち尽くしていた。
そして、静寂の中、システィアが優雅に奥から戻ってくる。
「あんた、何を……! ここはあんたの里の聖域なんでしょ!?」
アリアはそのあまりに独善的で無責任な行動に戸惑いを露わにした。シルヴァもまた、結界の破壊という行為に強い動揺を隠せない。
しかし、システィアの顔に後悔の色はない。彼女は得意げで、どこか満足げな笑みを浮かべていた。
「あら、リアたん。大したことないわよ」
システィアはアリアの追及をまるで子どもの癇癪のように軽く受け流す。
「里の者にどう説明するつもり? 私達が罪人扱いされるのは勘弁よ」
「だいじょぶよ。二人のためだもん、アタシが何とかするわ」
システィアは自分の胸を叩き、楽観的な言葉で叱責を退けた。その根拠のない自信に、アリアはこれ以上口論するだけ無駄だと悟り、ため息を吐いた。
結界がなくなったとはいえ、森の入口には分厚い暗闇が横たわっていた。
アリアは古代地図の注釈『星を読み、獣と共に生きる者たちの聖域』を反芻する。
シルヴァの試練と獣人たちの里が繋がっている可能性は、無視できない。
アリアは自身の知的好奇心と、シルヴァの力を制御するためのヒントへの可能性に賭け、森へ足を踏み入れた。
「この森、空気が重いな……」
シルヴァが呟く。
森の内部は、予想以上に異様だった。生い茂る巨木は、空を覆い尽くすだけでなく、その樹皮には古代文字のような文様が浮き出ており、足元には光る苔が広がっている。
「時空が歪んでいる……? 他にも術式が作用しているのかしら」
アリアが分析を試みるが、魔力の流れが不安定で、術式がすぐに崩壊する。ここは時間の感覚も方角も曖昧で、通常の探索知識が全く通用しない領域だった。
「シス、なんなの?この森の仕組みは」
システィアの表情は真剣だった。普段の妖艶な態度は鳴りを潜め、集中している。
「結界を解いたことがなかったから、アタシにもよくわからないわ。結界がある時は、こんな空間じゃなくただの森だったのよ。でも……核があった場所が向かうべき場所なら、この状態でもわかるわ」
システィアはまるで動物のように鼻をひくつかせながら、獣人としてのものなのかシスティア独自のものなのか定かではない能力を発揮して、進むべき道を示した。
アリアはシスティアのこの能力がなければこの森を探索するのは不可能と感じるほどに森の状態は異常だった。
森の深部へ進むにつれて、魔力の不安定さとその濃度に気持ちが悪くなっていく。
「この魔力濃度……原生魔力?」
魔力に長けたアリアですらも息苦しく感じる魔力濃度に、原生魔力の影響を疑い始める。
原生魔力とは、この世界にたまにある、あらゆる種族に負担が生じるレベルに濃密な魔力のことだ。
古代魔法王国はこの原生魔力を制御していたと言われているが、制御できなければ毒でしかない。
「ぐっ……!」
突如、シルヴァが激しい頭痛に襲われ、膝をついた。彼の体には血管が浮かび上がり、眼は金色に光り、全身から抑えきれないほどの魔力が漏れ出す。
「シルヴァ!」
アリアが駆け寄り、その身体を支える。
漏れ出す魔力の奔流が彼女の体を押しのけようと噴出していた。
「……駄目だ。力が……!」
森の不安定で異質な環境が、シルヴァの体内の魔力を刺激し、制御不能な暴走を誘発し始めたのだ。
シルヴァは両手で頭を抱え、自力での制御が困難な状態に陥る。
その異変を目の当たりにしたシスティアは、恐怖も動揺もなく、ただ恍惚とした表情を浮かべていた。
「あぁん、ヴァー君が神聖な力を溢れさせてるわ! なんて尊くて美しい光景なの!」
システィアは歓喜の声を上げながら、その暴走の予兆を眺めるだけで、手を差し伸べることはしない。
アリアは一瞬の迷いもなく、暴走しかけたシルヴァの右手を強く握った。
「シルヴァ、大丈夫よ。落ち着いて」
魔力の流れを制御する術式も、精神を安定させる魔法も使わない。
ただ、アリアの存在、アリアの温もり、その絶対的な存在がシルヴァの暴走を打ち消す。
嵐のように荒れ狂っていたシルヴァの体内の魔力は、アリアの手を握った瞬間、嘘のように鎮静化し、収束していった。
「……リア」
シルヴァは荒い息をつきながら、アリアの名を呼んだ。アリアの存在こそが、シルヴァの力を制御する絶対的な鍵であることを目の当たりにし、システィアの興奮は更に高まっているようだったが、アリアは狂信的な様子で見惚れていたシスティアを睨みつけ、冷たく言い放った。
「この森について、あんたが知ってることを教えなさい」
システィアは身をすくめたが、その瞳にはまだ恍惚とした色が残っている。
「アタシが知るのは、この先に壁画があるってことだけよ。里のものは読めないから、描かれているものが何となく『神獣』だろうってことでその存在を崇めているだけなの。アタシもそうだったけど、ヴァー君に出会ってその存在を確かなものと強く感じはじめたわ」
アリアはシスティアの言葉に頷く。そこに、この森の謎とシルヴァの試練を終わらせるための答えが記されている可能性は高い。
次なる探求の標的は、古き森の奥深くにある古代の壁画に定まったが、このまま進むには危険すぎた。
シルヴァと常に接触を維持しながら、先に進めるかはわからない。
魔物なり敵なりが現れれば、離れざるを得ないのだから。
「一旦撤退よ。システィア、あなたの里は近いの?」
「えぇ、近いわよ」
「そこで洗いざらい吐きなさい。作戦会議よ」
「うふん、わかったわ。ぜぇ〜んぶさらけ出してあげる」
シルヴァを立たせ、出口に向かって戻り始める。
アリアは頭だけ振り返り、森の奥を見つめた。
「結界、張り直せればいいのだけど――」
「だいじょぶよ、奥の遺跡には壁画と祭壇しかないし、魔道具とか遺跡の遺物は里に移動させたから荒らされる心配もいらないと思うわ」
システィアの言葉を信じ、今はただ退いて態勢を立て直すことをアリアは選択する他なかった。




