広がる沈黙
きょ、距離が、、、
街の灯りがさす中、セレスティアはため息をついた。目の端には、マルセロから事故の後の安否を問う手紙がちらついていた。
あの日のことを、セレスティアは頭の隅へ追いやろうとした。しかし、どれほど他の事柄で上書きしようとしても、ひとかけらだけは頑なに残り続ける。
――マルセロの手だ。
ぶつかってきた音よりも、落ちてきた破片よりも、腕をつかまれた感触のほうが鮮明だった。
掴んだ彼の指は震えていて、声も揺れていた。
「ご無事ですか。」と問われたとき、胸の奥が――ほんの一瞬、安心してしまった。
その事実こそが、セレスティアには恐怖だった。
感情に流されれば、判断力は鈍る。
情報員として育てられた日々の中で、最初に叩き込まれたのがそれだ。
情に傾けば、視野は曇る。曇れば、周りの誰かが代わりに決めてしまう。
そんなのは、もう嫌だった。
だから彼女は、一つひとつの迷いを押しつぶすように、仕事を詰め込み始めた。
政務の資料に目を通し、学術会議のメモを読み返し、侍女たちが「もうお休みくださいませ」と袖を引くほど、机に向かい続けた。
体調は悪くない。むしろ、意識してしまうと考えがぶれることのほうが怖かった。
睡眠は削れ、頬がわずかにこけ、目元の影は濃くなった。
けれど会わないように動き、マルセロからの連絡には返事をしなかった。
――沈黙を保てば、距離は保てる。
そう思い込むことでしか、あの日の揺れを打ち消せなかった。
しかし、沈黙は相手にも降り積もる。
マルセロは報告机の上に置かれた、返事のない手紙を思い出した。
“何も返ってこない”という事実は、怒りにはならなかった。
けれど、刺すような静かな痛みだけは確かに胸に残った。
失望と言ってしまえばそれまでだが、彼自身、それを完全には受け入れられない。
距離を置かれるほど、自分は――近づきたくなる。
その自覚が、最も厄介だった。
彼の立場では、セレスティアの身辺に勝手に介入することはできない。
護衛の名目がなければ、常に会うことすらままならない。
だから彼にできるのは、“観察”の範囲を超えないことだけ。
議事堂の廊下を通る時間、彼女の侍女から漏れる体調の情報、会議の予定。
遠くから見守るだけの距離は、思っていた以上に冷たく、息苦しい。
それでも――彼は踏み込めなかった。
その頃、車の追突事件の調査も水面下で動いていた。
マルセロは裏から情報を集め、破片の軌道と設置点を調べ、職人の証言を漁った。
その結果、議会の特定派閥が何らかの形で関与していた可能性が浮上する。
だが、証拠は弱すぎた。
決定的な一手がない以上、追及はできない。
まして、セレスティアには伝えられなかった。
彼女にいらぬ不安を与えるだけだから――と理由をつけたが、その判断が正しいかどうか、自信はなかった。
沈黙は、彼女が選んだもの。
だが今や、それを支えているのは自分自身でもあった。
伝えられない情報が一つ増えるたびに、二人の間の壁はゆっくりと高くなっていく。
こうして距離は静かに、しかし確実に広がっていく。
言葉がなく、目も合わず、手紙すら届かない。
すれ違いは気配のように重なり、日々の端で影を落とす。
けれど――意識だけは、どうしようもなく近づき始めていた。
互いの姿を探してしまう自分に気づくたび、胸の奥で何かがきしむ。
近づけない距離のほうが、むしろ心を締めつける。
そんな矛盾を抱えたまま、二人の沈黙の余波だけが長く伸びていくのだった。
新しい作品を書き始めたのです。
これとまた一味違うので、よかったらぜひ読んでみてください!
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