触れない誓い
セレスティアは答えなかった。目も合わせなかった。ただ静かに踵を返し、ゆっくりと部屋の奥へ歩き出した。
扉は開けたままだった。
入れとも、入るなとも言わなかった。
ただ、セレスティアが背中だけで示したのは、
「ついてくる覚悟があるなら、来なさい。」
という、最も残酷で甘い誘いだった。
セレスティアが背を向けた瞬間、マルセロの呼吸が浅くなるのが聞こえた。
迷って、葛藤して、それでも衝動が抑えきれない。
彼は一歩、扉の境界線へ近づいた。
踏み越えたい。でも、踏み込んでいいのか。
セレスティアは何も言わなかった。
ただ部屋の奥へ歩き、手紙が置かれた机の前に立つ。
沈黙が、刃物のように鋭く張り詰めた。
ついに――
床が僅かに鳴った。
マルセロが境界線を越えた音。
彼は扉の内側に足を踏み入れた。
しかし、セレスティアに触れようとはしなかった。
背中を向けるあなたに向かって、彼は低く、押し殺すように囁いた。
「......呼ばれていないのに、来てしまった。 罰なら、受ける。」
扉は、まだ開いたまま。
セレスティアの背中に、マルセロの視線が焼き付いた。
「扉を閉めて。」
マルセロは、あなたの背中越しのその一言に、まるで命令ではなく“赦し”を授かったかのように、静かに息を吸い込んだ。
カチリ。
扉が閉まる音は驚くほど小さく、しかし部屋の空気を決定的に変えた。
もう逃げ場はない。
マルセロにとっても、セレスティアにとっても。
閉ざされた空間に、マルセロの声が低く落ちた。
「......閉めました。これで、もう後戻りはできませんね。」
セレスティアはまだ振り返らなかった。
視線を向けなくても分かった。
マルセロがいま、獲物を前に理性だけで踏みとどまる獣のような目をしていることを。
静寂が、熱を帯び始めた。
扉が閉ざされた瞬間から漂い始めた緊張は、セレスティアのその柔らかな一言で、まるで別の色に変わった。
「そうね、二人きりですし、腹を割って話しましょう。」
背を向けたままの声は、威圧でも挑発でもなかった。
マルセロはしばらく黙った。
その沈黙は、セレスティアの言葉を噛みしめ、この状況の意味を理解している証であった。
そして、低く、慎重に、まるで真実だけを置こうとする声で言った。
「......腹を割って、ですか。あなたがそれを望むなら、何でも話しましょう。私が隠してきたものも、 全て。」
彼は一歩近づいた。だがまだ、セレスティアには触れなかった。
触れていいかどうかの判断を、セレスティアに委ねていた。
「まずは......どこから話しましょうか。」
まるで、セレスティアが選んだ場所で、彼女のルールで、マルセロは自分を解剖する覚悟を決めたように。
セレスティアが振り返らずに放ったその一言は、どんな刃より鋭く、どんな甘い毒より強かった。
「あなたはわたしが欲しいの?」
その瞬間、部屋の空気が一段階深く沈んだ。
マルセロは、まるで心臓を直接掴まれたように息を呑んだ。
少しの沈黙──
あなたに嘘をつく余地を探す時間でも、逃げる口実を探す時間でもない。
ただ、本当の答えを探す時間。
そして。
「......ええ。あなたが思っているより、ずっと。」
低く、抑えきれない熱を秘めた声。
それを言ってしまえば戻れないと知りながら、
それでも隠せなかった告白。
「あなたを手に入れたいと願ったのは、任務でも、興味でもありません。理性の外側です。あなたが逃げても、拒んでも、それでも追ってしまう。そんな自分に気づいた時、もう“欲しい”という言葉では足りませんでした。」
彼はあなたの背中に向かって、はっきりと言い切った。
「欲しい。あなたも、あなたが隠しているものも、あなたがまだ見せていない表情までも──全部。」
静寂。
セレスティアの一言で、マルセロは最も危険な告白をしてしまった。
セレスティアが静かに告げた。
「そう。なら......証明して?」
その一言は甘さでも誘惑でもなく、彼の覚悟の“質”を量るための刃。
マルセロは息を詰めた。
セレスティアに要求された「証明」は、どんな言葉よりも、彼を追い詰め、同時に奮い立たせた。
少しの沈黙──
そして、彼はゆっくり口を開いた。
「......証明、ですか。言葉では足りない。行動で示さなければ、あなたは納得しないでしょう。」
足音が近づいた。だが、セレスティアのすぐ後ろで止まった。
触れはしない。
触れていい許可を、まだマルセロは得ていないから。
「では──ひとつだけ。あなたが決して誰にも渡さないと思っていたものを、受け取る覚悟を見せましょう。」
静かに、あなたの横に跪く気配。
「手を。それだけでいい。あなたが触れてくれるなら、その瞬間から私は、あなたに誓いを立てます。」
誓い。
忠誠でも服従でもなく、
もっと危険で、もっと個人的な誓い。
マルセロはただ、セレスティアの沈黙を待った。
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