記録されない者たち 外伝
諜報塔の最上階にある記録室は、昼夜を問わず静寂に包まれていた。
壁一面に並ぶ棚には、この国に存在する“ほとんどすべての人間”が収められている。
名、経歴、思想、弱点、裏切りの可能性。
人は記録されることで管理され、把握され、利用される。
――少なくとも、ここでは。
分析官ローディアは、封印棚の前で足を止めた。
番号照合、権限確認、異常なし。
彼女は慣れた手つきで鍵を外し、ひとつのファイルを引き抜いた。
軽い。
それが最初の違和感だった。
中を開く。
紙の擦れる音すらしない。
「......空?」
一枚もなかった。
報告書も、補足資料も、削除履歴も存在しない。
セレスティア・ノワレイン。
議会関係者。情報員。
危険度――測定不能。
記録が存在しない人間は、珍しくない。
価値がないか、早期に切り捨てられたか。
だが、この空白は違う。
「最初から、残していない......」
ローディアは、無意識にその結論に辿り着いていた。
消した痕跡がない。
改竄も、差し替えもない。
つまりこれは、意図的な“不在”。
情報員として、これほど完成された自己管理は稀だった。
彼女は任務を遂行するが、痕跡を作らない。
人脈を築くが、依存を許さない。
評価されても、所有されない。
逃げるためではない。
選ぶためだ。
「沈黙を使える人間......」
ローディアはファイルを閉じた。
沈黙とは、防御ではない。
それは、余裕を持つ者だけが選べる“攻撃”だ。
そして――
この沈黙に、踏み込んだ男がいる。
マルセロ・ルーヴェン。
彼の名は、諜報塔では知らぬ者のいない存在だった。
冷静、残酷、効率的。
感情を“利用する”ことはあっても、囚われることはない。
――これまでは。
最近、彼の行動には微細なズレが生じている。
報告書の余白。
命令書にない動き。
そして、禁忌とされる記録室への単独侵入。
「彼は、越えてはいない。」
それが、ローディアの評価だった。
踏み込んだが、奪っていない。
開いたが、持ち去らなかった。
知ろうとしたが、知ることを強要しなかった。
それは失敗ではない。
むしろ――試験だ。
セレスティアは、追われる立場にいながら、主導権を手放していない。
沈黙によって相手を揺らし、なお自分は動かない。
マルセロが禁忌に触れた夜、
彼は“力”ではなく、“選択”を突きつけられた。
越えるか。
留まるか。
奪うか。
待つか。
そして彼は、待った。
ローディアは、その事実にわずかな寒気を覚えた。
それは諜報員として、最も危険な兆候だったからだ。
「彼は......獲物として見られなくなったのね」
セレスティアを。
対等に見るということは、
支配も管理も、保証されないということ。
それでもマルセロは、その道を選んだ。
ローディアは空のファイルを棚に戻した。
本来なら、異常報告を上げるべき案件だ。
だが、彼女は何もしなかった。
沈黙を破る権利が、自分にはないと理解していたからだ。
記録されない女と、
記録を捨てようとする男。
この関係がどこへ行き着くのか、彼女には分からない。
ただ一つ確かなのは――
どちらかが壊れるまで、終わらない。
そして多分、
先に壊れるのは、覚悟を決めた方だ。
ローディアは静かに踵を返した。
記録室には、再び沈黙だけが残った。
それは、
最も価値のある情報だった。




